『桜降る代の神語り』第10話:師弟と姉弟

2017.01.13 Friday

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     さてさてここまでの物語で、天音揺波と氷雨細音の決闘、その顛末と、二人のその後は見えてきたことだろう。
     次はもう少しだけ時を進めるとしようか。大家会合まで、あと二週間――、古鷹山群の山奥での、ある一幕だ。

     

     遮る物の何もない山の霧は、あるはずの山肌を隠してしまう。だが存在が過密となった森での霧は、あるはずの樹の幹を隠してしまうだけではなく、ないはずの存在を白の向こう側に幻視させてしまう。
     永く人の手の介在を受けなかった木々たちは、限られた陽の光を奪い合うように自分の枝を伸ばし、網目状に樹上の大地を形成していた。大人が歩ける程度のそんな枝の床ではあるものの、一歩踏み外せば当然転落、ましてや駆けるなど論外である。

     

    「くッ……――――ハッ!」

     

     一息、挙句に千鳥は枝の隙間を飛び越えた。霧の向こう側に見えていた枝は実在し、それをさらに蹴って前への推力とする。
     と、一瞬前まで千鳥の足があった場所を、風を切る勢いで紐状の何かが薙いだ。
     勢い余って幹にぶつけたのか、思い切り張り手をしたような音に彼の震えは隠せない。

     

     さらに枝を伝って前へ前へ。忍として何年も過ごした土地とあって、終点と定められた場所はもう目と鼻の先であることを理解していた。
     故に、油断はなかった。最後に必ず、激しい攻撃が待っていると確信していた。
     彼の予測通り、胸元を緩く斜めに薙ぐようにして、真正面からソレが来た。飛び越えるか下をくぐるか、あるいはなんとか受け流すか、難しい判断を要求される筋である。

     

     瞬く間に決断した千鳥は、ソレを飛び越えてしまうべく、目下のやや太そうな枝で踏み込んで力を貯めようとした。
    が、

     

    「うぇ――――」

     

     感触が、柔らかい。まるで、細い紐を編み込んで作った網に足が包まれているようで。
     そんなもので勢いよく踏み切った者がどうなるかなど、もはや語るまでもない。

     

    「ぇぇぁあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

     

     絶叫が止んだ頃には、樹上から蔓で宙吊りにされた一人の青年の姿がそこにあった。
     木陰から、そんな有様を目の当たりにした深いため息が漏れ聞こえてくる。

     

     

    「計略を巡らせる拙者たちだからこそ、己の策を常に冷静に見つめ直さねばならない。お主は基礎も基礎となる身体能力こそ順調に向上させているが、浅慮を省みない限りいつか簡単に命を落とすだろう。それでは困るんだ、特に拙者が。貴重な検体であることを自覚してくれ」
    「はい……」

     

     姿を表したオボロの苦言に弁明の余地は残されていなかった。命を救ってもらい、ミコトになるきっかけを与えてくれた上、厳しいがこうして修行にまで付き合ってくれるメガミ――そんな存在に意見などできるはずもないし、その一言一言が真実彼にとってありがたい。
     先日の任務を終え、ミコトとして覚醒した千鳥は、本来であれば里の掟に従い特別な修行を受けることとなっていた。しかし幸か不幸か、天音家による情勢の変化は忍の需要を高め、里は人手不足に陥っていた。そこで何の気まぐれか、師としてこのメガミが手を挙げたのだ。
     そして今日の課題――オボロの使役する蔓状植物・壬蔓の攻撃をかいくぐっての樹上走破――を達成できなかった罰として、千鳥は吊られたままでの上体起こしを課せられた。

     

     悲痛な声を上げながらも迅速に従う弟子を見て、オボロはふむ、と頷く。

     

    「今日で二週か。……出来の良し悪しは別として、根性だけは悪くないな」

     

     師からの予期せぬ言葉に、千鳥は思わず顔をほころばせる。オボロは苦笑し、肩をすくめる。

     

    「……まあ、せっかくの機会だ。問答も悪くない。お主が忍として力を求めるのは分かった。だが、その心は? お主は何を目指す? ……誰が休んでいいと言った。動きながら答えよ」
    「ごめんなさい。……えっと」

     

     千鳥は若干間を空け、言葉を選びながら応じる。

     

    「俺、生まれてからずっと忍の里で、忍の教えが当たり前で、何を、って言われてもまだよく分かんないんですけど……」
    「…………」
    「子供の頃から周りは凄い人だらけで、でも今頑張れば、もしかしたら俺にも忍として、そんな人たちが通ったいった道が開けるんじゃないか、って……」
    「……ふむ、そんなものか。まあ、今はそんなもので構わんか」

     

     少々つまらなそうに頷くオボロ。必死に汗を流す千鳥はそれに気づかず、ふと思い出したかのように、

     

    「あ、あと」
    「……、む?」
    「見返したい人がいますね」

     

     ふと、冷たい朝の空気が肌を撫でた。呼吸を整えながら、彼は続ける。

     

    「いる、というか、いた、というか。俺、姉さんがいるんですよ。結構前にいなくなっちゃったんですけど。もう皆、姉さんのことは死んだものとして扱ってる感じで。もしかして、ご存知でしたかね」
    「…………ああ、知っているとも」

     

     僅かな沈黙に、会話が半拍子ずれる。ですよね、と口端で笑う彼の表情は、それ以上変わることはなかった。

     

    「でもまあ、やっぱり俺は、姉さんはまだどこかで生きてるんじゃないか、って思ってるんですよ。俺なんかよりずっと才に溢れて、性質の悪い姉さんが、絶対に黙って死ぬなんて思えなくて」
    「姉を、探したいのか?」
    「はい。姉さんが姿をくらましているんだとしたら、姉さんですらそうせざるを得ない理由があるはずで。強さは、それがどんな理由であってもはねのけるための道具です。強ければ、何が待ち受けていても大丈夫でしょう?」

     

     あまりに愚直なその答えに、けれどオボロは口端すら歪めなかった。

     

    「そうだな」

     

     ただただ感情のない同意だけが、森の霧にまぎれて消える。
     在りし日を思い出していた千鳥の瞼の裏でも、幼い彼の陰鬱そうな姉が、表情も変えずに小さく鼻で笑っていた。

     

     


     目を開けたところで変わることのない、闇。そんな中に、少女は立たされていた。
     闇は未知の恐怖を産む。その向こうにあるはずの何かを知る機会を奪い、原初の恐怖である未知に足を竦ませる。
     だが、そこにあったのは闇だけではない。彼女を中心とした、仄暗さ。自分の周りの地面が辛うじて分かる程度の、そんな中途半端な暗がり。
     だから、彼女は知ってしまうのだ。

     

    「ィひっ……!」

     

     人を象った二つの影。死の間際のようなうめき声を上げる、そんな不気味な存在が、自分の周りで這っていることを。そして、自分に向かって手を伸ばしていることを。
     彼女の身体は動かない。本当なら逃げることも倒すこともできるはずなのに。
     やがてその手は、まるで地獄へ道連れとするように彼女の脚をわしりと――――

     

    「……ぃギャアアアアアッ!」

     

     肺の奥から絞り出したような自らの醜い悲鳴で、少女・ 闇昏千影 やみくらちかげ は目覚めを知る。
     襤褸の外套を纏ったまま隅で丸まるようにして眠っていた彼女は、悪夢に起こされるなりまず、ここが以前から厄介になっている屋敷の屋根裏であること、同じ空間内に人影も気配もないこと、そして床置きされた調合用の小瓶たちが一切動かされていないことを確認した。
     そしてついでのように耳を澄ませ、今の悲鳴で下の人間たちに騒がれていないことを確認した千影は、眠る前に始めておいた薬品の濾過が終わっていないことを知ると、再び膝を抱えて壁際に収まった。

     

     彼女がこうして悪夢を見るのは、大抵危険を肌で感じているときであり、その程度に比例するように不気味な影法師は距離を詰めてくる。それは眠っている最中の危険とは限らず、今回は持ちかけられた『厄介ごと』についてだった。

     

    「あいつ……あいつあいつ……なんて厄介事を、よくも持ってきてくれたと思いませんか? 嫌です嫌、絶対嫌。バレたら国中が千影のことを追ってきます。それで殺されます。絶っ対殺されます! 失敗したらもちろん殺されます。そんなのやりたくないですぅあああああっ!」

     

     膝を抱いたまま、器用に地団駄を踏む。襤褸の頭巾を震える手で掴み、眼前に向けて話しかける。そこには誰も、いない。

     

    「……でも、でもでも……もうお話聞かされちゃったんです。酷いと思いませんか思いますよね? だってこれって、受けなかったらお前を口封じに殺す、って意味じゃないですか……。なんで? どうして? 他にやれる人いっっっっぱいいるのになんで千影なんですか?」

     

     虚空に向けて少女はがなり立てる。癇癪は身体の揺れとしても現れ、外套をぱたぱたと鳴らす。涙目のまま、宙を睨みつけた。

     

    「というより、あなたも見ましたよね? 千影を簡単に殺せちゃうぐらいにあいつ強かったですよね? それでいて、いいとこの人なんですよねきっと。じゃあなんで自分でなんとかしないんですか結局千影を殺したいからですか……。お膳立てまでしてくれるなんて絶対罠に決まってます。古鷹さんも人の良さを千影を殺す方向に使わないでくださいよ。やっぱり邪魔だったんですよ、千影は結局」

     

     屋根裏には、漏れ入る外の夕闇に紛れるようにしてうずくまり、ぶつぶつと言葉を吐き出す少女が変わらず一人だけ。
     次第に呼吸を荒くしていった千影は、やがて糸が切れたかのように口を閉ざし、目を閉ざした。微かな呼吸音だけが響く静寂が、少女の隠れ家を再び満たしていく。

     

    「何か……何か言ってくださいよ。ですよね。そうですよね、ホロビ……」

     

     呟いた言葉は、昏い闇に溶けて消えた。外を焼く夕日は、ここには届かない。
    そして彼女はまたあの悪夢を見るのだ。

     


     かつて語った、一人の忍。見て分かる通り、その物語はまだ平和なままだ。ご覧の通り、彼は頼れる師の下で力を養っている。
     しかしその根元には、もう一本歪な経糸が結ばれていた。
     幾多の因縁を巻き込んだこの糸は不気味に蠢き、静かに織られていく。
     成される結末がどうなるのか、それを知らないままにね。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第二巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

     

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    桜降る代のゆるい午後:第2回

    2017.01.13 Friday

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      メガミの日常をまったりお届け、そんなかんじのゆるい午後。

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      『桜降る代の神語り』第9話:宿命道辻

      2017.01.06 Friday

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         さて……ここで一つ、君たちが気になっているだろう人物に焦点を当てよう。
         氷雨細音。あの雪国での最初の決闘以来、彼女は彼女で何もしていなかったわけじゃない。
         それどころか、やはりというか、事態の中心へと巻き込まれていくのさ。
         これは天音揺波が龍ノ宮一志に手を差し伸べられるより、少し前のことになる――

         

         


         丁寧に漆を塗られた大机を挟んで、二人が対面している。ふすまは締め切られ、見守るのは床の間に飾られたいくつかのお面のみ。優美な自然を表現した欄間から声は漏れ出るかもしれないが、中にいる者の素性を考えれば聞き耳を立てようとする不届き者は現れないだろう。
         そのうちの一人、氷雨細音は対面の男からの言葉を閉口して待っていた。ただ、傍らに置いた薙刀が刃の部分を覆われているのとは対称的に、むすっとした表情にはありありと不平が浮き出ていた。

         

         

        「まあ、そう構えないでくれるか。額に皺を寄せて面突き合わせるのは、老獪相手だけでたくさんだ」

         

         対峙するのは、疲れたように椅子にもたれる初老の男。
         彼は名を 古鷹京詞 こだかきょうじ と言い、古鷹家の当主を務めている。やや痩せぎすで頼りない身体ではあるが、大家として数えられる古鷹の家を支えるに足るミコトでもある。
         親子ほども歳の離れた二人であるが、場の空気が弛緩するということはない。それは主に細音が原因ではあったが。

         

        「別に負けたことをそこまで責めるつもりはない」
        「……っ!」
        「だからまあ待て。私に噛み付いたところで、君が、天音揺波に、負けた……その事実は変わらないぞ」
        「あれは天音が――」
        「そして。君を決闘代行として推した私にとってしてみれば、少しばかり困りはしたものの、大勢に影響があったなんていう話にもなってはいない」

         

         飛びかからんばかりの細音であるが、彼が雇い主であるということ以上に、その静かな覇気に押し込められてしまっていた。

         

        「君の言いたいことは分かっている。決闘の委細は全て忍から聞いているからな。私も、癇癪玉などという奥の手が卑怯ではないとは思わない。だが、桜花決闘においてそれは禁じ手でもなんでもない。決闘とは決する闘いだ……決して型の美しさを競う場ではない」

         

         盲目である細音にとって、大きすぎる音というのは障害でしかない。他の全てを殺してしまう音は、目の前に太陽を置かれ光で焼かれることと等しい。
         北の趨勢を占う一戦は、そんな天音揺波の『奥の手』によって決着していたのである。

         

        「本当は道具についても調べて伝えておきたかったんだ。ただどうも、それまでの決闘では使う素振りすら見せなかったようでなぁ」
        「違う……違うのです古鷹殿。予め分かっていたところで、それがなんだというのです」
        「それが勝つための方策だ。君はあの場に勝つために居たはずだ。違うかな?」

         

         細音は真っ直ぐ言い返せなかった。
         代わりというように、今まで打ち明ける相手のいなかった想いをとつとつと語る。

         

        「天音揺波は確かに腕の立つ者でした。私が同じだけ切れば、向こうも同じだけ切り返えしてくる……自分の攻めについてこれる者が、それもそれほど歳も違わないだろう者が、初めて私の前に現れたのです。それが……あんな手を使って……」
        「裏切られた気分になった、と」
        「あの一手は、私と天音が切り結んだ時間への裏切りであり、彼女が今まで磨いてきた武への裏切りでもあります。自分で自分を否定するような事を何故できるのでしょうか。そんなことをする子には思えなかったのに。私は、天音揺波という人間が理解できません……!」

         

         大きくため息をついたのは、古鷹のほうであった。肘置きにもたれるように左の肘をつき、結晶の埋まったその繊細な手で顔を覆う。

         

        「私としては、君が天音のミコトに何を思っていようが構わない。仕事をきちんとこなしてくれればそれでいい」
        「し、ごと……? よもや再せ――」
        「早まるな。風の噂によれば、むしろその逆にすらなるかもしれん。もう二ヶ月もしないうちに、各家の代表が集う会合が開かれる。君には古鷹家の護衛役として出席してもらう。まだまだ若い連中には負けんつもりだが、これは均衡のための決まりでな。特に何も考えずに同席して、御相伴にあずかっていればそれでいい」
        「はあ……左様ですか。その程度でよろしいのでしたら」

         

         応じるも、彼女はどこか上の空であった。
         天音揺波の処遇について漏らした古鷹の一言が、ぐるぐると頭の中で渦巻いていた。訊いてしまえばよいと思う前に、怒りという燃料で燃え上がったそれは様々な形となって頭を占め、そして燃え滓となって落ちていく。

         

         彼女と手を結ぶ日がもし来るとしたら、自分はどうするだろうか。
         何故、に答える彼女の声を想像しようとしても、記憶の中の忌々しい破裂音が邪魔をしてくる。細音は、考えたところで時間の無駄、とばかりに席を立った。

         

         


         それなりに名を馳せている家だけあって、古鷹の家は広い。細音が古鷹のいた客間と思しき部屋を出ると、音が彼方へと吸い込まれていく感覚に足元の不確かさを覚えた。
         何度目かの訪問で作った脳内の地図を頼りに、冷えた廊下を行く。
         と、前方から何者かが歩いてくるのを悟る。

         

        (足音を殺している……?)

         

         細音が捉えたのは、人間の歩行の周期で生じる、布と布がこすれる微かな音であった。床板の軋む音は一切聞こえてこない。
         ここまでで細音は、相手の背丈が自分よりも一回りほど低く、外套を羽織っていそうだというところまで推察していたが、概ねそれは正しかった。
         細音の前にいたのは、襤褸の外套を纏った、目つきの淀んだ一人の少女だった。身なりはどう見ても浮浪者のそれであり、まるでこの世の存在全てから命を狙われているのだと言わんばかりに、怯えてせわしなく目を動かしている。どう見たところでこの場に居る理由の思いつかない人間であった。

         

         他の客人だろうか。そう、外見の分からない細音がすれ違おうとした瞬間である。

         

        「……ッ!」

         

         殺気。
         思わず足を止めてしまった細音は、背中にびっしりと冷や汗をかくほどの殺気をその少女から受けていた。
         少女は壁を背にし、細音に道を譲っている。気配と視線がちぐはぐなことに気づいたのか、かかとでわざと音をたて、その旨を細音に伝える。

         

         細音は、薙刀を持つ手に若干力を込めるも、刃を露わにすることはしなかった。きっとどちらかが下手に動いた瞬間、勘違いだろうとなんだろうと殺し合いが始まる――そんな気がしてならなかったのだ。
         唐突に降って湧いた状況に困惑する細音だったが、場の空気は意外にもすぐに破られた。

         

        「すまない。古鷹氏にお会いしたいのだが……いつからここは、君のような可愛らしい門番を置くようになったんだ?」
        「えっ」

         

         少女のさらに向こう側から投げられた若い男の声に細音はやや弛緩するも、殺気はまだ消えない。
         男は細音よりもさらに頭一つ分大きかったが、引き締まった身は野蛮さを感じさせない。問いかけこそ冗談めかしているが、鋭い目つきは隙なく彼女を値踏みしていた。細音も細音で視線を感じていたが、一触即発の空気の中闖入してきた男のことが心配であった。

         

         だが、その視線が襤褸の少女に移った途端、先程までの空気が嘘だったかのように殺気は消え失せた。少女は目を見開き、軽い身のこなしで欄間に張り付いては、天井の板を外して音もなく上階へと逃げてしまった。
         それを目線だけで追った男は、感心したように小さく笑みを浮かべる。

         

        「ほう」
        「あ、す、すみません……どうぞ」

         

         展開についていけなかった細音がひとまず道を譲ると、男は短く「ありがとう」とだけ言って古鷹の居る部屋へと消えていった。
        文字通り、廊下に一人残された細音。
         天音揺波に悶々としていた先程までの考えが全て吹き飛ぶような出来事に、しばらく立ち尽くすしかなかった。

         

         


         カナヱは、この邂逅がこれ以上でもこれ以下でもなかったことに、今振り返ってみれば胸をなでおろすしかないよ。
         あの日、訳の分からないまま氷雨細音に結ばれた縁の糸は、随分と固く結ばれていた。
         たとえ彼女が天音揺波との再戦を終え、メガミとなった後でも解けなかったくらいにはね。
         またすぐにでも、この縁を辿るときが来るだろうよ。嫌でも……ね。

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第二巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

         

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        桜降る代のゆるい午後:第1回

        2016.12.23 Friday

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          メガミの日常をまったりお届け、そんなかんじのゆるい午後。

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          『桜降る代の神語り』第8話:龍の襲来

          2016.12.16 Friday

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             今現在、この桜降る代において、強者こそいても、覇者と呼ぶべき者はいない。
             しかし一昔前、覇を唱えるわけでもなく、情に厚く民の信頼を集める一人の為政者がいた。多くの人間が、彼こそこの国を太平に導くだろうと思っていたほどの男が。
             無論、全国を揺るがせた英雄譚に、彼の席がないわけがない。
             あるいは……天音揺波と出会ったことも、あるいは必然だったのかもしれないね。

             


            「くくく、北も概ねが我が天音の領地。しかし、次、か……ううむ。西の古鷹山群は忍の里ゆえに手が出しづらく、かといって南は最強と名高い龍ノ宮家が……」

             

             天音家当代・時忠は、その日も謀に熱中していた。
             稀代のミコトとして負けを知らない娘のおかげで、零落して暇を持て余していた時には想像できなかったほどに、考えなければならないことが増えた。領地の経営だけではなく、広げた領土を如何にするか、そしてこの先どう立ち回っていくべきか……元より野心に満ちた男であれば、打ち手として盤上を見下ろした際のこの忙しさは喜ぶべきものであった。

             

             けれどこの男、野心家ではありはするものの、肝の座り方までは一流ではない。あまり要所のない北を先に攻めたのは合理的な判断とも言えるが、娘の強さを客観的に評価できているにも関わらず、未だ北方以外に手を十分に進められていない。それは、情報の入手に手間取っている以上に、たった一度の失敗を極端に恐れているからであった。

             

             故に。

             

            「たあぁァァァーーーーーーーーーーーのもおぉォォォォォォォォォォォぉぉッッ!」

             

             穏やかな昼下がり、山をも揺るがすような大声に、彼は肝を潰した。頭の中を占めていたのは、敵襲の二文字だった。
             反射的に座椅子から転び出て部屋の隅に逃げてから、忘れていた呼吸を取り戻し、叫ぶ。

             

            「あ、ぁあななな、なんだぁ! 何事だ!」

             

             ややあってから、女中が居室を訪ねてきた。女中のほうは長いこと天音に仕えている古株のためか、むしろ当代より肝が座っているようで、落ち着いたものだった。

             

            「旦那様、お客様がお見えです」
            「だっ、誰だ! 今日は誰も来る予定はないぞ!」
            「龍ノ宮家当主、 龍ノ宮一志 たつのみやいっし 様です」
            「は……はああああああああああああああああ!?」

             

             今まで当代の頭の中を巡っていたいくつもの策謀が、木っ端微塵に消し飛んだ。
             龍ノ宮と言えば、覇権に最も近いとされる家であり、その当主・一志は最強と目されるミコトである。言うまでもないが、目をつけられたらまずいなんて言葉では済まない相手である。
             それが、突然やってきた。その事実をうまく消化できずに呆ける当代を置いて、女中は勝手にその当人を連れてきた。客間でないことなどお構いなしである。

             

            「よう、当主殿。突然押しかけてきて悪かったな」

             

             

             廊下から覗くその大男は、七尺もかくやと言わんばかりの巨漢であった。裸体のあちらこちらをサラシで覆い、その上から猟師が身につけているような革の上着を羽織っている。豪快さを絵に描いたような男という印象を受けるが、決してそれは粗野ではない。不揃いな無精髭が、細かいことに頓着しない心根を表しているようだ。
             当代は、資料だけ見たことのあるその顔が本当に当人のものであることを認め、とうとう開いた口が塞がらなくなってしまった。

             

            「あ、あ、な、なん……」
            「おまえさんちのミコトはどこだ? 揺波と言ったか。会って話がしたい。――ああ、さっきの。ちょっとミコトのところまで案内してもらえるか?」
            「え、ちょ……」
            「というわけで、しばらく邪魔をするぞ」

             

             有無を言わさず、龍ノ宮はそのまま女中を捕まえて行ってしまった。
             部屋には、真っ白になった当代の抜け殻だけが残されている。

             


             鍛錬を切り上げた揺波は、自分に会いに来たという相手を観察しながら、縁側に腰掛けて休んでいた。傍では、先程まで揺波のことを観察していた龍ノ宮が、その太い幹のような身体を柱に預けている。

             

            「……なるほど確かに、こりゃあそこら辺のじゃ敵わねえわけだ。天音揺波の強さに偽りなしってところだな」
            「おじ……龍ノ宮さんもきっと『強い』ですよね」
            「おじさんでもいいぞ」

             

             最強とまで謳われる存在が目の前にいる。けれど、自分をおじさんと呼べ、だなんて間の抜けたことも言ってくる。確かに揺波の認識は間違ってはいないだろうが、彼女には少しこの男のことが不思議に写った。

             

            「箱入り娘だから知らんだろうが、元々俺の土地はあっちこっちの農村を継ぎ接ぎしたような感じでな。んなもんだから、権威なんぞ知ったこっちゃない女子供も多くてよ。たまに顔を見せりゃ肩車までせがんでくる始末だ」
            「あなたの肩の上なら、とっても見晴らしがいいでしょうね」
            「俺としちゃあ、そっちのほうが肩が凝らなくていい。所詮俺は、たまたま腕っ節が強かったから天辺の近くにいるだけなんだからよ」

             

             縮こまって肩をすくめる龍ノ宮。

             

            「肩は凝らないほうがいい。頭を使っても肩は凝る。だから、まかり通らねえことがあったとしても、腹を割って話して、皆仲良くできるのが一番楽だ」
            「物事を決めるなら、決闘をすればいいのでは……?」

             

             ただ素直に、揺波はそんな疑問を口にした。
             そんな彼女に龍ノ宮は意外そうな顔をするも、少し考えて得心がいったようだった。

             

            「強くなりすぎるっていうのも考えもんなんだ。まあそこは、上に立つ者の事情ってやつだ」
            「そう、ですか……」
            「そんな事情ってやつを、俺も、お前の親父さんも抱えてる。だからこうして、俺は仲良くなりにきたんだ。お前だって、家が幸せなほうがいいだろう?」

             

             釈然としない顔ではあるが、首を縦に振る。

             

            「龍ノ宮は、天音と同盟を組む用意がある。再興を願う天音の家と、平和な世の中を願っている俺。手を組めば、お互い幸せになれるって寸法よ」
            「それはお父様には……」
            「あ? まだだよ、まだ。というかお前の口から伝えてくれ。当代殿は家の長だが、天音が持つ桜は正確には揺波、お前の所有物なんだ。本来なら代表はお前であるところを、政治だのなんだの面倒くさいことを親父さんがやってくれてるだけにすぎん」

             

             本当にめんどくさい、という龍ノ宮のぼやきは宙に消えていく。

             

            「お互い、幸せ……」

             

             見つめる手の甲には、ミコトの証である桜花結晶が昼下がりの日差しにきらめいている。
             龍ノ宮は、ぼうっとし始めた揺波に構うことなく話を続ける。

             

            「一月後。俺を含めたでけえ家の面々が、顔を突き合わせちゃ色々とお話する会がある。大家会合っつーんだが、天音家もこれに参加してもらいたい」
            「…………」
            「いや、揺波。だからお前も来るんだよ」
            「ふぇっ?!」

             

             間の抜けた声を出した揺波に苦笑いしながら、揺波の隣にどかりと座った。

             

            「しっかりしてくれよ、稀代のミコト様よぉ。若いもんの中じゃあ有望株なんだし、同盟を結んだらあるいは一緒に地方平定に出向くことだってあるかもしれねえんだからよ」
            「一緒に戦う……やったことないですけど、私絶対に負けません!」
            「バーカ、手分けしてやんちゃしてる家と決闘しておとなしくさせるって話だよ」

             

             ガハハハ、と笑いが轟く。大きく無骨な手に背中を叩かれる揺波は、恥ずかしさを覚えながらも今までになかった可能性に頭を占められていた。
             自分が今までやってきたこと――一人の相手に勝つことだけではない何かで、父が喜んでくれるのだという。政治の話は難しくて理解する気も起きなかったが、戦うことなく目の前の男と手を組むだけで、家が幸せになれるという。

             

            「じゃあ……」

             

             その先は続かなかった。
             自分の常識の範疇を超えた申し出に困惑する揺波は、それからの龍ノ宮との世間話もほとんど上の空で答えていた。

             


             頭上で大地を照らしていた陽も、やや傾き始めて来た頃。
             どこからか「あああああああっ」という、現実を受け入れたくないあまりに発された絶叫が聞こえた気がしたが、揺波にはそれを気にかける余裕はなかった。
             それからややもして、

             

            「おー。なんだ、ここだったか。そいつが噂の揺波か?」

             

             庭のほうからやってきたのは、龍ノ宮ほどではないにしろ、揺波より二回り以上も背の高い女だった。
             彼と同じく、胸にサラシを巻いただけの上半身に炎を思わせる意匠の外套を羽織っている。腰巻きも股が見えそうなほど短く、そして脛を隠すほどに長い革の靴。なにより印象的なのは、魔物かなにかを象った冠を被った頭からは、比喩ではなく炎がなびく紅蓮の髪が伸びていることだった。


            「どうしたヒミカ。別に今日は決闘するわけじゃあないぞ」
            「知ってるけど、一志が気になるミコトっていうから、流石のアタシも気になっちゃって」

             

             ヒミカと呼ばれた女は人間ではない。メガミのうちの一人であり、炎と感情を象徴する。本来メガミはミコトであっても知覚することが難しい存在だが、彼女は人間と同じように肉を得て顕現体として活動している。
             揺波は数少ない座学の中で、一応彼女のことは頭に入れていた。現代のヒミカは銃と呼ばれる飛び道具を己を象徴する武器としており、相手が宿したら厄介だと考えていた。
             しかし、彼がヒミカを宿すかもしれない、という推測は、うまく揺波の中で消化されない。

             

             揺波は、龍ノ宮以上にヒミカから尋常ではない『強さ』を感じ取ってしまっていた。
             メガミだから、なんて単純な理由で本当に説明をつけてよいものか迷うほどに、揺波にとって彼女は勝ちの見えない存在だった。
             龍ノ宮の肉体のように分かりやすい強さがあるわけでもない。象徴武器である銃の姿も、少なくとも今は伺えない。ただただ存在からして強い――そんな強敵を前に、揺波は息を呑む。

             

            「ふぅん……へぇ……こいつが」
            「あの……」

             

             品定めするようにじろじろと見てくるヒミカにたじろぐ。顕現しているメガミは少なく、出会うともなれば稀だ。ただでさえ妙なる強さを湛えているというのに、そんな存在にじっくり観察されでもすれば、さしもの揺波であっても気後れするというもの。
             やがて満足したのか、ヒミカは満面の笑みで、

             

            「ふーん、いいぜいいぜ! やっぱり一志が言うからには間違いないな! ちょっとおっかない気がするのはあれかな、相棒のせいかな?」
            「はあ……ありがとうございます?」
            「よく分からんだろうが、素直に褒めてると受け取ってやってくれ。こいつは感情むき出しだから、思ったことそのまま言いやがる。俺も人のこと言えた義理じゃなかったが、こいつとつるむようになってからますますその気が強くなりやがったらしくてなあ」
            「まあな! ……っておい、人のせいにすんなよな!」

             

             からから、と笑いながら怒るヒミカ。素直に冗談を言い合って笑い合う様は、まるで悪友のようだった。
             反撃とばかりに、

             

            「はっ、知らないんだからな! 今日ここに来てること、アタシが出かける前に皆に教えといたから」
            「なっ、おま……」
            「いいのかー? もうそろそろ小うるさい連中が早馬で着く頃だぞー?」
            「うるせえ、とっととずらかるぞ! あいつらに独断専行がバレたら何時間説教されるか分かったもんじゃねえ!」
            「あはははは、結局迎えになっちゃったな!」

             

             慌てて腰を上げる龍ノ宮には、最強の字はまるで似合わなかった。そこにはただ、人の上に立ち気苦労の絶えない男の姿だけがあった。揺波が最初に感じていた『強さ』は、もうどこかに紛れてしまっていた。
             そんな彼は最後に、揺波へ告げる。

             

            「じゃあな、天音揺波。後で親書を送るが、さっき言ったことはちゃんと親父さんに伝えておいてくれ。龍ノ宮は、天音と共に歩めることを願っている」

             

             ヒミカも別れを告げると、二人とも常人離れした動きで塀を飛び越え、消えていった。しばらくヒミカの笑い声が聞こえていた が、それもなくなると、天音家は静けさを取り戻した。
             嵐のような二人の来訪に、揺波は考えをまとめきれずにいた。
             自分に言われても、困る。
             そんなふうに処理しきれない出来事を押し流しながらも、やはりどこかにしこりは残り続けたままであった。
             揺波には、あの二人のように色々なものを笑い飛ばすことは、できそうになかった。

             


             この出会いを以って、孤独に戦いを進めてきた天音に始めて手を差し伸べられたことになる。
             確かに龍ノ宮一志は強かった。それはカナヱも認めるところだし、天音の当代からしたら腰も抜かすだろうよ。
             それでもこれは、天音とではなく、天音揺波と龍ノ宮一志の邂逅だった。
             あと幾度、天音揺波の物語は、彼と関わる形で語ることになるだろう。
             それが、英雄となるための階段を辿ることに他ならないんだからね。

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第二巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

             

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