『桜降る代の神語り』第26話:神渉

2017.06.30 Friday

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     君も決闘を間近に控えたとなれば、高鳴る胸を抑えた覚えがあるだろう。
     氷雨細音に用意された決闘は、そう神妙に構えられるものではなく、はたはた奇妙だった。
     呼び立てられるまでの一日、気構えを続けていようとも、それが足りることはなかった。
     未知の決闘の渦中、氷雨細音は己の身を賭けて謎と向き合うことになる。

     

     


     ずっと、ただ足を前に運んでいる。もうどれだけ進んだかなんて覚えておらず、鍛錬を欠かさない細音であってもうんざりするような時間、獣道を歩かされ続けていた。
     彼女の身柄は自由でこそあったが、両脇には見張りがつき、いくらか前には細音の薙刀を携えた男もいる。視覚のない細音は、音や空気の流れによって、徐々に開けた場所が近づいているのだと理解していた。辿り着けば否応なく決闘が始まるが、かといって土地勘のない山に逃げ込んで遭難しても仕方がなく、逃げ出す選択肢は与えられていなかった

     

    「ここを進め」

     

     そうして更に歩き続けていると、前が開けたが、すぐにまた杭を打ち並べたような壁と、その内側に桜の気配を感じた。先頭の男が立ち止まると、さらに先へ進む通路が壁に生じた。左右は見張りが如才なく塞いでいる。
     従う細音は、そこで鼻で笑われつつ薙刀を渡された。通路は狭く、得物も考慮すれば暴れるにはあまりにも不向きだった。嘲笑に憐れみと共に挑発を汲み取った彼女はしかし、憮然とした表情で決闘の舞台へ躍り出た。

     細音としては、小細工も企図も断ち切ってやる、という半ば己への脅迫じみた強い意思を持って望んだつもりだった。


     だが、

     

    「う……」

     

     下駄が土を二度噛んだきり、細音の足は前に出ることを拒否した。
     迂闊に動くこともままならない殺気に晒された……わけではない。むしろ、その逆――氷雨細音という存在を、一挙手一投足余すことなく観察し、それで満足することなく、身体の内側は臓腑の隅々に至るまで隈なく目を凝らして観測しようとしているような、そんな泥のような好奇心。

     

     

     視られている。
     測られている。
     細音の人生においてこれほどまでに注視されたことはなかった……それほどの視線。光をなくした瞳であってもなお、どこからどう向けられているのか分かってしまう。
     毒使いの極度に排他的な殺意は、それはそれで恐ろしかった。しかし細音は、この好奇の眼差しにそれ以上の狂気を感じてならなかった。自分以外の全ては己の好奇心を満足させるための存在でしかないとでも言うような、価値観が根底から異なる化物を前に、生唾を飲み込む。

     

     そして、だからこそ細音は後ずさることもできなかった。
     もはやその化物が、自分が少し動いた程度ではどうにもならないような位置にまで歩いてきているのだと、知っていたからだった。

     

    「おやおやーん? ちょちょちょーっとこれはよさげですよー?」

     

     化物は、艷のある女の形をしていた。
     両肩を掴まれ、最至近で観察されているにも関わらず細音の身体は動かない。やや背は高い程度で体格差はほぼなく、能天気で幼さすら残る声色は警戒心というものがない。なのに、未知が渦を巻いて混沌を作り出したようなその瞳から、顔を背けることすら選べないでいたのは、もはや反抗心を抱くことすら考えられない有様になっていたからである。
     細音の脳裏では、あの業火に晒されて怯えきっていた揺波の様子が思い出されていた。

     

    「筋肉量よーし! 結晶感度よーし! 技量は知らなーい! 以下省りゃーく! まーぁ? 最近見た中だと一番マシなんじゃーないですかねぇ」
    「既に一戦交えておりますが、同感です」

     

     化物のさらに向こうから、小馬鹿にしたように応じたのは五条。相対するべき敵の声でようやく身体に力の戻った細音は、精一杯、一歩下がった。
     その様子にさらに笑いを漏らしながら、五条は同情の言葉を投げかける。

     

    「心配するな、君の相手は間違いなく私だ。そちらの方はクルル様――まあ、我々のソウゾウを担うメガミと思ってもらえればそれでいい。無論、正式な決闘なのだ、クルル様がそのまま介入することはないよ」
    「とう! ぜん! ですぅ。観測するのに自分が干渉したら無意味ですしぃあったりまえですしぃー」

     

     じゃ、とあっという間に遠ざかっていくクルルの気配に息をつく。
     ここでようやく周囲を把握する余裕が生まれた細音は、真正面に確かに神座桜があること、桜を囲むようにして場が弧状の小高い仕切りで隔絶されていること、さらにその外周沿いにある櫓のような場所にはクルルを含めて何人か観客がいること、そして、当たり前のように入り口となった通路が塞がれていたことを理解した。
     ここは、決闘をするミコトたちを観察するために用意された場だと、理屈を抜きに直感した細音は、得物の感覚を確かめるように虚空に型を為した。

     

    「では、始めるとしようか。せいぜい我々の役に立ってくれよ?」
    「ご期待には添えかねます。そちらに如何な理由があろうとも……私は、勝ちます」

     

     八相に構えた細音は、歯切れ悪く応じた。
     未知の化物に見守られているという圧の中、氷雨細音の戦いが始まる。

     

     

     

     


     薙刀は近接武器の中でも間合いの長い部類に入る。しかしそれは鈍器や刀と比べた場合であり、同じ柄物の槍ともやや異なる。特に細音の戦い方とその得物は、八相の構えから振り下ろして薙ぎ切ることに重きを置いているため、突き出して刺すような、得物の全長を間合いに反映させる一手には不向きであった。
     だからこそ、一向に距離を詰めようとしない五条を相手に、細音は前進を選ばざるを得なかった。いくら警戒したところで、やれることのない間合いに居続けても意味はない。

     

    「たッ……!」
    「おっと」

     

     だが、細音の接近を悠々と許した五条に対し、細音が踏み込んだ一歩と共に躊躇なく振り下ろした刃は、彼の額の間際でせき止められていた。
     打ち払い、一歩だけ間合いを離す細音は、この守りの術に覚えがあった。
     兜を象徴武器とする、守護を権能とするメガミ・ミズキ。
     以前に刃を交えた相手が身につけていた有角の兜は、細音の重い一撃を何度も受け止めていた。それは五条が相手であっても変わることはなかった。

     しかし、と細音は間断なく中段を薙ぎ払った一撃が腹を捉えたこと知りながら、彼の無駄にもほどがある隙の多さにやや困惑していた。
     毒使いと共に襲ってきた際は実力を計る暇もなかったが、少なくとも彼は毒使いと同等かそれ以上だと想定していた。けれど数度打ち込んだだけで、お世辞にもよいとは言えない動きであることは分かる。このままなら細音の勝ちは明白なほどであった。

     

     端的に言えば、弱い。
     ただの事実確認としてそう思えるほど動きの悪い五条に対し、細音がそう考えるのは自然な流れですらあった。
     ……その考えを修正したのは、あの一撃であった。

     

    「ぁがッ」

     

     突然の全身の痺れ、そして皮膚を遍く駆けるような灼熱感。
     細音が拉致される直前に食らった一撃が、やはり何の前触れもなく繰り出された。感知するどころか、身体のどこを攻撃されたのかすら判然としない。
     しかし、痛みが脳をちりつかせた後は去るのも速かった。ここはあの森ではなく、桜の下。平時には意識を失うような攻撃であったとしても、決闘においては足を鈍らせる程度のものでしかない。ただし、それも立派な負傷の一つであることもまた確かであった。

     

     離されていた間合いを再び詰める細音は、正体不明の攻撃が、よもや五条の無駄な動きから繰り出されているのでは、と予想する。今まで味わったことのない不可避の攻撃の、それはいわば予備動作だったのではないか、と。

     

    「関係ありませんッ!」
    「くそ……!」

     

     今度は兜に頼らず回避を選んだ五条から、幾許か余裕が損なわれていた。
     元より細音は、守りを極限まで削ぎ落とすことで苛烈な攻めを生む使い手である。回避不能な攻撃があったところで、それを上回るような攻撃を繰り出し続ければよいし、そうすることで予備動作すらとる暇もなくなる……そんな至極単純な解が細音を前へ進ませる。

     

     そんな彼女の一薙ぎを兜で弾いた五条は、さらに大きく距離をとって、不敵に笑った。

     

    「見事だ……よもやこれほどまでとはな。どうやら私の見込みは正しかったようだ」
    「…………」
    「油断なく構える姿勢も素晴らしい。相対する者とはそうでなくては。他の連中は腑抜けに腰抜けに間抜けと、皆満足のいく実力を発揮してくれなくてなあ。挙句にただの力自慢でしかなかったゴロツキとくれば、私の苦労も察してくれるだろう?」

     

     足に力を溜め、不審な動きを察知せんとしている細音は当然のように答えなかった。
     小さく笑い捨てた五条は、さらに続ける。

     

    「そんな私の眼鏡に適った君には、早速お見せするとしよう。この―― 神渉装置 かんしょうそうち の力をな!」

     

     高らかに宣言する五条に警戒を強める細音だったが、動きが生じたのは彼ではなかった。

     

    「何が……」

     

     彼女の耳が捉えた音……その発生源は、今まで静かに二人のミコトを見守っていた神座桜からであった。
     カタリ、コトリ、カタコトカタコト――と、木と木が噛み合い、噛み合った木がさらに他の木と噛み合い、連鎖するように動きが伝播していく。決して大きな音ではないが、無視するには不可解過ぎる。

     

     

     そうして細音が想定外の動きに困惑していると、五条はわざとらしく前に歩き出した。無論迷う間に距離を詰めようとする細音は、脚に溜めた力を解き放つ。

     

     五条は、それに対して、興奮を抑えきれない上ずった声色で、それを――唱えた。

     

    「コンルルヤンペ……!」

     

     瞬間、うららかですらあった決闘場に、激しい雹が降り注いだ。

     

    「な……!」

     

     それは、細音が防御すべく足を止めたときにはもう、立っていることもままならない嵐へと変貌していた。氷の牙を持つ大自然の怒りの権化が、細音という敵に対して何度も何度も食いかかっているような、歯向かうことを諦めさせる一撃であった。

     

    「ぁ……ぐっ……」

     

     身をかがめ、被害を抑える細音であったが、考えていたのは反撃への一手ではなく、五条が繰り出したと思しきこの雹雨がいかにありえないものか、であった。
     細音が宿しているコルヌは、水や冷気を象徴する、彼女の故郷で広く信仰されているメガミだ。その権能から派生して、氷を生成したり、ときには雪を呼ぶことさえもある。
     五条が放ったのは、コルヌの力を最大まで引き出すことによって可能な、細音にも扱えない大技であった。その凍てつく息吹の中で、相手は凍え傷つき、膝をつくのである。

     

     しかし、その理解と現象の間には一つだけ致命的な矛盾があった。
     五条がこれまでに扱った技は、兜による防御と正体不明の攻撃の二つ。兜はミズキによるものだし、正体不明の攻撃はミズキのものではなく、かつコルヌによるものではない。
     そう、雹雨を繰り出したことで、五条は三柱の力を使っていることになったのだ。
     ミコトは、その両の手で合わせて二柱までしか宿すことはできない。

     

    (おかしい……ありえない……)

     

     五条が世の理を超越しているのでなければ、どこかに絡繰があるはずだった。しかも彼は、細音を挑発するようにコルヌの力を使ってみせたのだ。
     と、そこで氷壁を生み出して防御しようと、宿した力に意識を移したとき、細音は気づく。
     自分の中に宿したはずのコルヌの力が、明らかに足りない。
     まるで、身に覚えがないうちに使って消耗してしまったように、大きく欠けている。

     

    (私も、おかしい……おかしくされた? 力が、私から……?)

     

     思い至った仮説は突拍子もないもの。けれど、実現可能性を端に置けば、矛盾のないもの。
     五条は、細音の宿していたコルヌの力を奪った。そして行使し、雹雨を生んだ。
     頭を張り飛ばされたような驚愕の中、ようやく氷の礫の止んだ決闘場で、不可解を為した男がこちらに歩いてくるのを、細音はただただ聞いていた。

     

     

     

     


    「くくっ、どうした! さっきまで私の頭をかち割る勢いだったというのに!」

     

     一歩前に踏み出せば、足を飲み込むように氷の花が咲き。
     一薙ぎ守りの刃を振るえば、腕を取り込むように氷の蔓が伸びる。
     細音のあらゆる動きに応じて凍てつく決闘場からは、じわりじわりと彼女が立ち回れる領域を減らしていった。

     

    「そぅら、氷ばかりに気を取られるなよ?」
    「あぐぁ……!」

     

     体制を立て直す暇もない彼女へ繰り出される、あの不可避の攻撃。さりとて膝をつけば、手足は凍りついて本当に身動きが取れなくなってしまう。
     細音はそれでも五条に肉薄すべく機を窺っていたが、焦燥に炙られる集中力は刻々と変化する空間を把握しきれなくなっていた。視界のない細音にとって、一度頭を乱されることは、彼我の距離関係を白紙にされることに等しかった。
     さらには地面に残っていた大粒の雹に足を取られ、五条へ向かう身体の軸は定まらず、間合いに入ったところで無駄な動きの彼にさえ避けられる始末。

     

     自ら間合いを離した細音は、一転して絶望的となった戦況を前に、城ですれ違った際の天音揺波の存在を思い起こしていた。
     全てをねじ伏せる最強を前にして、ひたすらに手を模索し続けていた彼女。その勝利への異様な執念があれば、こんな前代未聞の状況であっても最善手を打つことができるのか……そんな思考が、傾きかけていた細音の心を暗澹へと引きずっていく。

     

     牢の中で思い馳せたように、五条は卑怯であった。それは決闘でも変わらなかった。否、仕組まれた決闘であれば、裏があるのは当然だった。
     理不尽さを盾にしていたのは、五条に対する不快感。そして、それに飲まれて敗北することと、その先への恐怖。結局帰ってこなかった山岸たちの末路と、クルルの存在は、彼女に、ただ不条理に負けること以上のものを抱かせるには十分であった。

     

     細音は自身で、揺波が持つような執念が欠けていると、頭では分かっていた。一方で前例のない絶壁の淵に立たされた今、勝利のために全てを尽くさなくてはならないと己を奮い起こす彼女はしかし、今自分にないものが今この手になくてはならないという歪な帰結にも足を取られていた。

     

    「やッ……―――あぁっ!」
    「惜しい、惜しいなあ……!」
    「こ……のぁぁあああっ!」
    「なんだ? その大振りは。もう狙いを定める余力もなくなったか?」

     

     刃は相手に届かず、足は間合いに届かず、心は勝利に届かない。
     勝つための道が、細音の前から消えていく。
     桜の下ではなかった、と襲撃者を侮蔑した自分がひどく遠くに感じられる。

     

    (もう……勝ちの目は……)

     

     失意が染み渡っていく細音の認識から、五条の位置すらも塗りつぶされ始めた。
     握った薙刀が、打つ手の喪失を告げるように重かった。

     

     だが、しかし。

     

    「さいねええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」

     

     氷雨細音は沈まない。
     沈むことを、許されない。

     

    「あんたねえ! 何やってんのよッ!」
    「なん、で……ここに……」

     

     唐突に決闘場に響いた怒声は、囲いの一部を突き破った童女から発されていた。
     彼女の名は幾年久遠。または、細音の与り知らぬメガミとしての名を、トコヨ。
     勝敗の決するまさにその直前に現れた闖入者は、五条と観客たちの注意も否応なく引いた。だが彼女は我関せずとばかりに、憔悴する相棒への怒りを露わにする。

     

    「迎えに来てあげたら決闘してるんで観てたけど、何よそのぶれっぶれの太刀筋! 何がしたいのかぜんっぜん分かんない! そんな嫌々振り回してたってちっとも美しくない!」
    「おい誰かあいつを―――」
    「うるさい! ちょっと黙ってなさい!」

     

     体躯に不釣合いな圧が、決闘場に吹き荒れた。

     

    「いい? 私はあんたが負けそうなことに怒ってるんじゃないの。あんたが自分を殺してることに怒ってるの。分かる!? 別にあんたの才は音にだけ向いてるだなんて言わないし、あんたがそう望んでないことも知ってる。でも今のあんただったら、音の道に進んだほうが断然マシ! だって、武の道を歩んでるって自分で言ってたけど、望んだ道の上ですら自分に素直になれてないじゃない!」
    「素直、に……?」
    「あんたの求めてる武ってなんなの? なんでその道を選んだの? あんたの立ってる場所はただ勝敗を分かつだけの場所なの? いらないことばっかり考えてないで、もっと自分に目を向けなさい!」

     

     久遠へと人が向かっていく音を、細音は彼女の言葉通り他人事のように聞いていた。
     今が決闘中であることも忘れ、様々な念を吹き飛ばされた頭が意味を咀嚼していくが、自分に欠けたものを求めて喘いでいた彼女は、自分の中に広がっていた失意が嘘のように上塗りされていくのを感じていた。
     久遠の言葉は決して細音に欠けていた何かを補うものではなかったし、具体的な戦術を与える類でもなかった。むしろ、変わったことは何一つ言ってはいなかった。

     

     変わっていたのは、細音のほうだった。
     天音揺波に負け、今もこうして負けを前にし、勝利への執着という本来氷雨細音という人間が求める必要のないものを求めてしまっていた。それが、今の細音だった。

     

    「そ……っか」

     

     こぼれ落ちた納得の言葉に触れて、薙刀がとても軽くなった気分になった。
     細音は、武を極めんとしている。元々そこに、勝利という目的はなかった。あくまで勝利とは、自分の磨いた武の副産物でしかなかった。
     究極の技。それを求める姿こそが、細音本来の在り方。
     武はあくまで勝利のための道具の一つでしかない揺波と比べることが、そもそもからして間違っていた。すとん、と胸に落ちたようなその当たり前のことに、細音の精神が切り替わっていく。

     

    「私の連れが……決闘中に大変失礼致しました」
    「今更君に何ができるというのかね? あと一撃、持てばいいくらいじゃないのか?」
    「そう、ですね。では――」

     

     深く吐く息が、刃のように徐々に細く鋭くなっていく。
     そしてもう一度息を深く吸い込んだ細音は、弾かれたように前に出た。

     

    「参りますッッ!!」

     

     途端に動きにキレの戻った細音に対し、五条は地面を凍結させることで対応するが、機敏さの前に氷が追いつくことはなかった。
     そして瞬く間に切っ先で五条を捉えた細音は、兜によって一撃が浅く入るも、その動きは止まらない。前身でも後退でもなく、距離を保って、次の一撃へと繋げる。それはまるで音と音へ、拍子という規律の中で紡がれる一定の楽句のよう。


     自らを律し、動きを作り、描いた弧が、連撃を成す。

     

     

    「う、ぐぁ……!」

     

     完璧な呼吸の下で繰り出される連撃は、相手に生半可な対応を許さない。間合いを離すことすらできない五条は、兜の強力な防壁の届かない胴より下から枯れた桜を散らしていた。
     いくら彼が謎の仕掛けによってメガミの力を奪おうとも、原点に立ち返った細音の繰り出す技は、彼女自身が磨いてきたものである以上止められる道理はない。ましてや、しかと己の立つ道を踏みしめた今、彼女の技は更なる冴えを見せている。

     

     決闘という観点で見れば、確かに細音は負ける一歩手前であった。
     しかし五条は、ミコトに相対していただけで、一人の武人を見ていなかった。

     

    「あ、がっ……よくも、いらん真似をぉッ……!」

     

     最後の一撃を与えるべく兜に注力しながら突進する最中、焚き付けた久遠に対して激昂していた五条は、その慢心が故に、紙一重で脇をすり抜けていく彼女を捉えられなかった。

     

    「やああぁぁぁッ!」

     

     そして、振り向くことなく、背後を薙ぐ。
     膝をついた五条の脇腹から、身代わりになる最後の結晶がこぼれ、砕け散った。

     

    「馬鹿な……私に約束されていた勝利は……」
    「…………」
    「神渉装置があれば、私は……」

     

     そのまま天を仰ぎ、呆然と呟く五条に、細音が言うべきことは何もなかった。苦難の末の決着であっても、既に通り過ぎてしまった瑣末のような気分が細音を包んでいた。自分は確かに自分であるのに、どこか自分でないような感覚が、同じように呆然とさせる。

     

     と、そこへ、

     

    「あんたいつまでそうしてんの!」
    「痛っ! な、何するんですか!」
    「逃げるに決まってんでしょ!」

     

     氷の溶けゆく決闘場に走り込んできた久遠が、乱暴に細音の腕を掴んだ。先程怒鳴っていた場所とは別の方角に行き、こじ開けられた隙間から外へ飛び出した。

     

    「おっ、やーっと来た! ずっと待ってたオレっちのこと褒めて褒めてー」
    「え、平太さんまでどうして……」
    「貴様ら、話は後にしろ! とにかく今は逃げるぞ!」

     

     細音を出迎えたのは、牢で向かいだった楢橋平太と、もう一人彼女が聞き覚えのない、恰幅の良さそうな横柄な声を持った男だった。久遠をそこに加えても、細音の思考が追いつかないほどには関係性の不明な集団ができあがる。
     しかし今、四人に振り返る余裕はない。
     自分を見つめ直し、その先にあった勝利を拾い得た細音は、囚われの地から逃れるべくひた走った。

     

     

     

     


    「くそっ……くそぉッ! 邪魔が入らなければ……あいつ……あいつが……!」

     

     やわな拳が湿った地面を叩く。得られた結果が否定しようもないことを悟った五条は、今度はその不条理さに怒りを抑えられなくなっていた。
     装置を使えば、必ず決闘に勝てる。
     細音に対峙する前までは、その言説は正しかった。だが、必ずという表現に瑕疵は許されない。それが外的要因であれば、なおさら受け入れがたい。

     

     しかし、彼女から告げられる結果は、必ず受け入れなければならなかった。

     

    「ありゃりゃー。ごじょーん負けちゃいましたねー」
    「ひっ……あ、いえ、あの……申し訳ありませんクルル様! 思わぬ横槍が入りましたものですから……」

     

     そのまま土下座する五条を前に、けれどもクルルに怒りの色はない。

     

    「うんうん、いいよいいよー。むしろなんで謝るんですかぁ? くるるん、別におこぷっぷーじゃないーですからねー」
    「は……? おこ……?」
    「あれはーしょうがないですぅ。とこよんどーにかするのも無理ですからねぇ。ここが嗅ぎつけられた段階で、勝ってもぉー負けてもぉーあのミコトは手に入らなかったんですからー」

     

     あは、あは、と無感情に笑いながら、片足で器用に回転するクルルは、至って平坦な声色で五条を諭す。

     

    「まあー? どちらにせよ、実験台のあてはあったんで、そーんなに痛くはないから、安心してくださぁい」
    「あて、とは……?」

     

     そしてぴたり、と回転を止めたクルルは、項垂れた五条のことを横目で見下ろした。そういえば言っていなかったかとも、何故あえて問う必要があるのかとも、どちらにも取れるような表情を伴って。

     

    「へ……?」

     

     五条の眼鏡が落ちるのと、クルルが笑みを作ったのは同時だった。

     

    「そう簡単には壊れなさそうだし、安心ですぅ」
    「あっ、あああああああああああああああああああああああああっ!」

     

     全てを察した彼の絶叫を受け止める者は、いない。
     唯一目の前にいるメガミは、ふざけたように耳を塞いで、満足そうに笑っていた。
     これから捌くことになる家畜の活きがよくて困ると、喜んでいるように。

     

     

     

     

     かくして氷雨細音は、己を縛り付けていた見えざる枷を断ち切り、さらなる歩を進めることとなった。
     結局のところは何も変わっていないように見えるかもしれないね。でもそうじゃあない。
     彼女は天音揺波に敗北し、これまで見ようともしてこなかった在り方に触れた。そして己の在り方に疑問を持ち、悩み苦しんだ。その悔恨と逡巡は彼女を痛めつけたが、同時に鍛え上げてもいたのさ。周りを知り、その上で己を知った者こそが、本当に強い。
    苦しみの果てに、さらなる技へと至った氷雨細音にぜひとも喝采を!

     そして、五条といったかな。彼も哀れなものだ。
     少し前に君にも語ったと思うが、メガミの在り方はメガミそれぞれ。それは、君たち人間をどう扱うかも含まれている。人と共に己が道を行くトコヨやオボロ。人を盟友とするヒミカやハガネ。人を操り、他方で慈しむシンラ。しかしクルルは、彼女らとは大きく違う。
     彼女が真に愛しているのは着想であり、そこへと向かっていく圧倒的な狂気なのさ。彼女は人には興味がない。だから普段は無害だ。しかし、もしも創造性の矛先が人を求めてしまったら? そのおぞましき矛を、武器として求める者が現れたら?
     そこに現れるのは、まごうことなき災害さ。

     さて、君は彼女の狂気と共に在ることができるかい?
     ありえないよね。それとも、ありえてしまうのかな?
     まあ、君がどうなのかはカナヱには関係はない。折角の語らう縁だ、五条のようにならないことくらいは望みたいものだけどね。しかしどちらにしても、彼女のことは知っておいた方が良いかもしれないよ。

     なにせ、狂気はすぐそこまで迫ってきているのだから。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

     

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    忍の道をいざ行かん(後篇)

    2017.06.30 Friday

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      忍びの道はまだ続く

       

       

       こんにちは、BakaFireです。今回の記事はオボロ特集の後篇となります。前篇をまだお読みでない方は、こちらから読まれることをお勧めします。

       

       このシリーズは特定のメガミに注目して、本作のデザインを語るというものです。第1回となるトコヨ特集で好評を頂けましたので、今後も継続していくつもりです。

       

       前篇ではメガミ・オボロに関する歴史を説明し、彼女のキーワード「設置」が生まれるまでの話をしました。後篇では個々のカードに注目し、それらを通して彼女を語ることにしましょう。

       

       

      カードの何に注目するか

       

       このやり方もトコヨ特集の時のものを踏襲します。以下にてまとめましょう。

       

      • カードの歴史と評価に注目する
      • 歴史とはカードが生まれた経緯を指す。
      • 歴史においてルールの変化が重要ならばそれも語る。
      • 評価はゲームにおける魅力、バランスの適切さ、メガミの気質の体現性の3点を見て行う。
      • 現在問題視している箇所や、カードへの否定的な見解も書く(出版から時間が経ち、皆様からのフィードバックを頂くと至らなかった点も見えてくるのです)
      • 否定的に書き、修正を匂わせたとしても、修正を急ぐつもりはない。

       

       オボロはトコヨとは逆の意味で反省点があるメガミです。カードを語るにつれて、それらについても触れていくことになるでしょう。

       

       

       設置の歴史は前篇で語った通りです。それではドトールコーヒーで書かれたノートにはどのようなカードがあったのでしょうか。

       

       当然、設置を持った攻撃が含まれていました。たいていの場合、設置は開始フェイズに起動されます。つまり直前には相手のターンがあり、相手には設置攻撃の間合から外れるという選択肢が存在しているのです。

       

       これこそが設置攻撃の大きな魅力です。追加の攻撃を行えるというのは、状況によっては山札の再構成を1ターン早めるだけの価値があります。そして適正距離にいることを選んだ相手にイレギュラーな攻撃を当てるのは罠に嵌めた快感を生むのです。

       

       最初は適正距離4-5のカードとして生まれ、それでは設置での起動が辛すぎるので3-4となりました(実際は第一幕ではそれでも辛すぎたのですが)。現在はやや強めのカードパワーもあり、手札から撃つか設置して撃つか悩ましい、絶妙なカードになったと考えています。まさしく、オボロの看板カードの一角と言えるでしょう。

       

       

       ドトールノートの時点では、単に間合のずれた設置攻撃が複数存在しているだけでした。しかしプレイテストを重ね、すべてがそれでは退屈だと分かってきたのです。そこで、設置して使うことにさらにボーナスがあるカードが作られました。

       

       魅力的なのは、確実性と強さの取引をしている点です。手札から撃つならば間違いなく撃てる一方で打点がやや乏しく、設置して撃つとなると相手が都合の良い間合にいるとは限りません。こういったギャンブルは楽しいものであり、他方で基本動作という保証がされているため、何も得られないという不快感も払拭されています。設置攻撃そのものの魅力に加え、より鮮烈なスパイスが加わったのです。

       

       しかし残念ながら、このカードも「鋼糸」も歩んできた歴史は不遇なものでした。そもそもに第一幕では、間合2ですらまともに機能しない絶望の大地だったのです。あの「梳流し」ですら「コンボでは強いがやや微妙なカード」と評価されていたあたり、第一幕の恐ろしさが垣間見えるというものです。

       

       当然、解決のために変更が施され、第二幕が訪れます。それにより設置攻撃は息を吹き返しました。間合2は新たな焦点となり、「影菱」はまさに罠らしい場所から睨みを効かせられるようになったのです。それを嫌って一歩後退したならば、そこには「鋼糸」が待ち構えているのも絶妙と言えるでしょう。

       

       これはあまりに絶妙すぎたため、全て計算されていたのではと思えるようなものです。正直に告白しましょう。それは偶然であり、一番驚いたのは我々です。強いて言うなら、第一幕の段階で全ての間合に魅力を与えるよう気を配ってデザインしていたのが功を奏したのかもしれません(当時は失敗でしたが)。

       

       現在の「影菱」そのものは十分に魅力的であり、その出来にはおおむね満足しています。ただ然るべき時には、あとほんのわずかにだけ強くしたいところではあります。設置から使用したら対応されないとか。

       

       

       全力の攻撃カードですが、正直に告白しますと、この枠のデザインはかなり難航していました。当時のデザインにおいては、全てのメガミに《全力》の通常札を2枚ずつ持たせるという計画だったのです(第一幕のカードリストをご覧いただければわかる通り、その計画は最終的にはなくなりました)。

       

       オボロは「分身の術」はそれなりの時点でできていましたが、もう一枚の枠がうまく行っていませんでした。いくつか見るべき点のあるアイデアはありましたが、様々な問題により没になっていたのです。

       

       最終的にはやむなく《全力》の《攻撃》カードとし、オボロらしくするために伏せ札から使えるオプションを持たせました。しかしながら、やむをえない感が強く、満足していない1枚です。

       

       

       設置の行動カードであり、オボロの移動カード枠です。しかし現在においては、歴史が生んだ2つの歪みのために満足のいかない仕上がりになってしまっています。語ることは多く、重なる話題も多いため、この2枚はまとめてお話ししましょう。

       

       ひとつめの歪みは「虚魚」によるものです。詳しくは「虚魚」そのもので語りますが、トコヨ特集での答えあわせだけはここで済ませてしまいましょう。トコヨの「風流」が没になった時、その効果は2つに分かれました。その片割れはもちろん「詩舞」。それではもう片方は? それこそが「誘導」です。「誘導」は「逆さ風」が「虚魚」となった際に、共に移籍してきたカードなのです。

       

       もうひとつの歪みは第二幕における「設置」のルール変更によるものです。もともと第一幕では山札の再構成に際し、任意の枚数の設置カードを使用できていました。こうすることで設置行動と設置攻撃が繋がり、罠でコンボするような楽しさが生まれると考えたのです。実際、確かに楽しさもありました。しかしながら問題もあると判断せざるをえなかったのです。2つの問題点を説明しましょう。

       

       ひとつめの問題は開始フェイズを煩雑化してしまう点です。何枚ものカードを使えるとなるとその動きは余りにもメインフェイズに近く、今が開始フェイズであることを忘れてしまうのです。第一幕ではオボロがひどく弱く、結果として顕在化しなかった問題ではありましたが、間違いなく水面下には存在していました。

       

       もうひとつの問題は第二幕において強すぎたことです。設置攻撃が絶妙な仕上がりになったことは説明した通りで、それ自体は歓迎すべきことですが、設置行動と組み合わせてコンボできるとなると、打点が豊富過ぎたのです。特にユリナとの組み合わせは危険な水準へと達していました。

       

       この2点を解決するために、設置は1回の再構成で1枚だけと改められることになりました。それによって設置攻撃はより魅力的になったと感じます。しかしその一方で、そもそもコンボを前提としてデザインされたこれらの2枚は魅力を損なってしまいました。

       

       以上の歴史により、現在のこの2枚には満足していません。しかるべき時には、まとめて修正したいと考えています。

       

       

       オボロの《全力》カード枠として早めに誕生し、その地位を守り続けました。それもひとえに「分身の術」という圧倒的な忍者らしさによるものです。前篇で語った通り、オボロは忍者のメガミが必要だから生まれたメガミです。それ故に、カードの忍者らしさもまた重要なのです。

       

       その点においては設置カードたちも高得点ですが、このカードは満点と言えます。伏せ札を活用し、全力という相手が事前に対処できるタイミングゆえに罠のように発動でき、そしてまさしく「分身の術」らしい効果なのです。さらに、同一のカードを2回使える点も見逃せません。同じカードを複数使えない本作において、これは夢を感じる効果でもあるのです。

       

       このように素晴らしいカードなのですが、思っていたよりは活躍せず、やや使い辛いカードにも感じています。しかしそれはオボロ全体としての問題かもしれませんし、相性の良いカードがあれば化けるカードなのかもしれません。総じて、今は静観すべきと考えています。

       

       

       隙について語る時が来ました。しかし、隙を持つカードは基本では2種しか存在しません。それゆえに、隙というキーワードに疑問を感じている方もいらっしゃるかもしれません。まずはそれを説明しましょう。

       

       隙の起源は「圧気」です。「圧気」は魅力的なカードで、私も高く評価しています。しかし開発途中において「圧気」には問題がありました。初めてカードを見たプレイテスターの大半が、テキストを見て顔をしかめ、眉間にしわを寄せるのです。理由は明白です。テキストが分かりづらかったのです。何せ当時は、隙の処理を(ちゃんと厳密な形で)テキストに平文で書いていたのですから。

       

       しかし、補足の説明をすれば(格闘ゲームで言う特殊モーションに入る感じのカード。隙があるからその間に殴られたら失敗するけど、殴られなければ強い効果が出るよ)誰もが納得するのです。つまり、効果そのものが分かりづらいわけではありません。

       

       そのための解決法は、キーワードにすることでした。まさしくイメージ通りの「隙」という名前を付け、幾分かやわらかい説明をカッコ書きで着けたのです。結果、多くのプレイヤーが解読できるカードになりました。

       

       それに伴い、「圧気」以外に隙のカードを作ろうという模索も行われました。「圧気」が攻撃を行っていましたので、それとは異なる方向でとんでもない効果である必要がありました。その結論が「生体活性」です。いくつか作られた効果の中で最も夢があり、とんでもなく、そして理解しやすいものだったのです。基本セットで隙の注釈を外したくはなかったので、テキストが短いことも重要でした。

       

       現在のカードの出来には満足しています。やや活躍し辛い印象もありますが、それはオボロ全体の問題に起因していると考えています。

       

       

       熊介が生まれた経緯は、前篇でもお話しした通りです。伏せ札を活用するやり方の一つとして、伏せ札の枚数を数えるというものがありました。しかしご存知の通り、伏せ札を作るのは簡単です。ゆえに普通の攻撃カードにそのやり方を加えてもさして魅力的にはなりませんでした。

       

       それを解決したのは《全力》と適正距離でした。《全力》ゆえに、基本動作で伏せて伏せ札を増やし、そのまま使用という流れは抑止されます。そして適正距離ゆえに、伏せ札が危険な枚数に至っているのであれば、相手は間合を外すという対策が取れるのです。強さが枚数ごとに変動していくので、どこまでを許すかというせめぎ合いもプレイングに繋がり、魅力を生んでいると考えています。

       

       第一幕では間合を外すのが簡単すぎたため働きませんでしたが、第二幕では間合2に「影菱」があることも合わせていい塩梅になったと感じます。実際、オボロのカードの中でも私が特に好きな一枚です。

       

       ちなみにオボロは忍者であると同時に、生物学者でもあります。さらに言うならば、本作の世界ではそれらを統合したオボロの在り方そのものが「忍」の由来であるという設定もあります。通常札では忍者らしさを強調する必要があったため、切札で生物学的な研究者としての側面を体現することにしました。その方法として、彼女の実験体であり、そして友でもある動植物を切札で描いたのです。

       

       ところで強烈な打点で殴りつけてくる動物に熊を選んだのは、高校時代にある友人がTRPGでしでかしてくれやがったことに多分に影響されていることをここに告白します。ありがとう!(両手中指を立てて)

       

       

       鳶影の経緯もまた、前篇でお話ししました。伏せ札を活用するやり方の一つとして、伏せ札からカードを直接使うというものがあるのです。しかしこのやり方には一ひねりが必要です。単に伏せ札から使うだけでは、普通に手札から使うのと大差ないのです。

       

       それを解決したのが「鳶影」でした。本来《対応》でないカードを対応で使えるというのは、カードの新しい側面に光を当てます。例えば、大きく移動するカードを大きく回避するカードにするといったように。そしてさらに熟練したプレイヤーは、本当に必要であれば対応でなくても使用するのです。

       

       これらは「鳶影」が傑作だと明確に示しています。シンプルな挙動の中に驚きがあり、そしてプレイヤーの実力を反映できるつくりになっているのです。驚くべきことに「鳶影」は初期案から、一切の変更が行われませんでした。優れたアイデアというものは、初めから一定の完成をみているのかもしれませんね。

       

       

       これまでの切札2枚は成功を感じ、その素晴らしさを語っています。しかし残念ながら、このカードは大反省会の時間となります。

       

       「虚魚」はぶっとんだ効果が必ずしも楽しく働くとは限らないという悪しき例であり、本作全体を歪めてしまった問題児でもあります。深い反省を込めて、歴史を語っていくとしましょう。

       

       このカードの起源はトコヨの「風流」にあります。風流の効果が逆向きになるとより強力になることに気付いた時、このカードは生み出されたのです。 既にトコヨ特集で語っている通り、当時は「逆さ風」という名前でした。事実、風流の中においては強力に働いていました。しかしそれは風流の強さに支えられたものだったのです。

       

       風流に問題が見いだされ没になった時、それらの効果は分割されることになりました。そしてトコヨに「境地」が見いだされると同時に枚数の問題から「逆さ風」、いえ「虚魚」ギミックはオボロに移されることになったのです。

       

       一見してわかる通り「虚魚」は斬新でとんでもないものであり、ぱっと見た範囲ではとても魅力的です。大きな不幸であり反省点は、その時点で私がこの効果に魅入られ、こだわり過ぎてしまったことです。

       

       具体的にはどういうことか。このアイデアを活かすために、複数のメガミにまたがって「矢印が逆向きになると強くなる効果」を無理に入れようとしてしまったのです。幸い「マグナムカノン」「詩舞」「詭弁」などは「虚魚」関係なしに強みがあるカードでしたので、大きな問題はありませんでした。

       

       しかし「忍歩」と「誘導」はそうではありませんでした。特に「忍歩」はやや不自然な桜花結晶の移動となり、理解しづらいカードになってしまいました。もう語った通り設置の問題も併発し、これらのカードの魅力は大いに損なわれてしまったのです。このカードに引きずられ、デザイン全体を歪めてしまったのは大きな反省点といえるでしょう。

       

       後付ですが、風流が没になった時点で弱すぎることに気づき、完全に没にするか何かのテコ入れをするべきでした。【使用済】効果にして時間制限をなくすか、《対応》を付けて相手の矢印効果も逆転するかといったところでしょうが、そもそもこのカードを残すべきかどうかは疑問です。

       

       しかし「虚魚」にも成功はありました。「祭札」に収録された大発生ルールでは理不尽で魅力的なアクシデントとして活躍しているのです。つまりこの効果そのものには魅力はあります。しかし、普通のカードとして魅力的に仕上げるには他のカードへの依存性やバランスの問題から、極めて難しい課題であると今は認識しています。

       

       

       一時的にリソースをブーストし、重いカードを使えるようにする類のカードは、デッキ構築型のゲームでは魅力的です。その類のカードはいくつかデザインされましたが、最終的に生き残ったのが「壬蔓」でした。

       

       「壬蔓」はカードの構造そのものは巧妙に作られています。しかし、現在においてはそれを活かしきれていないのも事実です。このカードが失敗かと言われれば、改善の余地はあるが、明白な失敗とは思えないと答えます。状況は「分身の術」に近いといえるでしょう。

       

       

       原初札は基本的には「メガミに挑戦!」で使用されるものです(メガミと挑戦者で対戦し、メガミ側は原初札を用いる代わりに1柱しか使えず、挑戦者は相手のメガミを見たうえで宿す2柱を選ぶ)。そのため、そのメガミ単独での戦いを実現できるようにデザインされます。特に通常札は、その戦いの円滑化が目的となります。

       

       オボロ単独で十分な攻撃力を出すためには、設置を活かす必要があります。そこで再構成によるダメージをなくし、イレギュラーなタイミングでの設置をやり易くしたのです。

       

       2つ目の効果は後付で追加されました。理由は交流祭での「オボロに挑戦!」がやや簡単すぎたためです(但し、「オボロに挑戦!」だけは第一幕環境で行われていたため、安易にバランスが失敗だったと評価するのも難しいのですが)。

       

       

       原初札の切札も同様のコンセプトで作られますが、こちらは「刺激的で特殊な舞台を作る」ことを意識してデザインされます。

       

       「朧霞」は交流祭で「オボロに挑戦!」が行われた時と、「祭札」でカードになった時とで効果が変更されています。かつての「朧霞」は「3枚以上のカードを使えない効果」と「間合2以下での前進を禁止する効果」から成っていました。経緯を説明しましょう。

       

       「オボロに挑戦!」は第一幕という問題のある環境で行われました。そこで最も意識されたのは、残虐なる悪鬼どもにオボロちゃんが瞬殺されないことです。3枚以上のカードが使えない効果は、その時点で最も危険なのはユリナやヒミカによる猛攻であったため、それを抑止するために加えられました。

       

       もうひとつの効果は、要は第二幕のルールを適用するというものです。これまでで書いた通り、第二幕では設置攻撃は魅力的になります。その環境を実現すればすなわち、オボロにとって良い環境になるということです。

       

       正直に告白すると、第二幕に向けたデータ取りの側面も大きいものでした。実際4/3の「居合」(第一幕では「居合」は弱いと評価されていましたからね!)になぎ倒され、「居合」を4/2に調整すべきという案が正しいと分かり、データ収集として良い仕事を果たしました。

       

       そしていざ第二幕となると、間合2以下での前進は常にできなくなり、代わりに設置は1枚しか使えなくなりました。そこでもう一方の縛りを取り払う効果とすることで、実質的に同じ状況を作れるようにしたのです。結果として、よりオボロらしい効果となったのは嬉しいところです。

       

       

       

       これにてオボロ特集は閉幕となります。様々なカードに秘められた物語をお楽しみいただけたら嬉しい限りです。今回の特集への感想や、他に行ってほしい特集などありましたらTwitter(@BakaFire)までお伝えください。

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       次回の更新は来週、ついに彼女について語る時となりました。ご期待ください。

      忍の道をいざ行かん(前篇)

      2017.06.23 Friday

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        前回の好評、反響に深い感謝を。

         

         こんにちは、BakaFireです。5月下旬にから6月頭にかけてお届けしたトコヨ特集では、多くの反響ありがとうございました。作品としてニュースがあるという類の記事ではなかったため、実験的なものでしたが、好意的に受け取っていただけたようで安心いたしました。

         

         それを踏まえ、本日は続編として、次のメガミの特集を行うことにしました。前回のトコヨ特集を一部踏まえた内容となっておりますので、お時間があるならば先にお読みなることをお勧めします。

         

         そして前回同様、アンケートも行いました。

         

         

         129票のご協力ありがとうございました! 勝利を飾ったのはオボロとなりますので、今回の記事はオボロ特集となります。

         

         とはいえ、アンケートそのものは前回ほど魅力的ではなかったようです。新たなメガミとしてハガネを追加していたため無意味ではありませんでしたが、前回で一度結果が出たものを掘り返す形になってしまっていました。それを反省し、以降のこのシリーズ3回分ではアンケートは行いません。前回と今回の結果に即し、サイネ、ヒミカ、ハガネの順で進めていきます。

         

         さて、反省はこのくらいにして、早速はじめましょう!

         

         

        やり方は前回のままで

         

         どのようにメガミを語るかは、トコヨ特集のものを踏襲します。どういうものか、簡単にまとめておきましょう。

         

        • 前篇ではメガミの歴史を語り、後篇では個々のカードを語る。
        • 第一幕での六柱を語る際は、本作そのもののゲームデザインと紐付けて語る。

         

        桜が降るより前の話、その2

         

         トコヨ特集で触れたとおり、本作は最初は和風ではありませんでした。トークンが桜の花びらになるまでは、西洋風コロセウムの世界でラノベ風戦士が決闘するゲームだったのです。そしてトコヨはその頃に存在した3人目「盾」と6人目「扇」が融合した存在でした。

         

         では、オボロもまたその頃から存在していたのでしょうか。答はいいえです。強いて言うならばスピード&行動回数タイプである4人目の「スカーフ」が該当するかもしれません。スカーフって何やとお思いの皆様、試作段階のゲームの世界観などそんなものなのです。いえいえラノベ風世界ですしね。きっと格好良いはずですとも。

         

         とはいえカードリストを見直しても、オボロらしさは見当たりません。折角なので、カードリストを何枚か紹介しましょう。むしろユキヒの原型とも思える箇所が目立ちます。

         

        手裏剣    スカーフ

        《攻撃》    適正距離4    2/1   

        このターンのエンドフェイズにこのカードを手札に戻してもよい。

         

         どうやら手裏剣を投げているようなので、オボロの原型と捉えました。しかしこの効果は……、そう、やりすぎてしまったのです。

         

        暗殺    スカーフ    コスト6

        《攻撃》    適正距離0    -/5

         

         何の原型かはお判りですね。そしてこれがそのまま印刷されなかったことを偉大なるメガミに感謝します。

         

        顕現武器コンペティション

         

         オボロの話に戻りましょう。それでは世界が和風になった時、何が起こったのでしょうか。「刀」「銃」「扇」が採用され、残る3キャラの武器は考え直す必要がありました。そこで私どもはプレイテスター全体で、武器のコンペティションを行ったのです。

         

         やり方はこうです。まず全員で武器の名前をひたすらに出していき、リストを作ります。そして紙片を多数用意し、本作に必要と感じる武器に投票していくのです。他のメンバーの意見に影響されないよう、投票は秘密裏に行われました。さて、見事に1位を獲得したのは何だったのでしょうか。

         

         

         そう「忍者」です! 武器じゃねーじゃねーか。武器だって前置きしただろ。誰だよ入れたの! 俺も入れたけど。

         

         しかしこの結果は私どもにやるべきことを教えてくれました。和風の世界観であり、さらに現実に忠実でないファンタジー和風ともなれば、忍者を出さないのはありえないということです。即ちオボロは、忍者のメガミが必要だという世界観の要請から生まれたのです。

         

        閑話:伏せ札の話

         

         それではオボロのキーワードの成り立ちを話していきたいところですが、ご存じの通りオボロは伏せ札に強く関係づけられたメガミです。予備知識として、伏せ札についての昔話を行いましょう。

         

         

         トコヨの「境地」は集中力と共に生まれました。ではオボロの「設置」も伏せ札と共に生まれたのでしょうか。答えはこれまたいいえです。伏せ札というゲームシステムは相当に昔から存在していました。どのくらい昔かと言えば、西洋コロセウムなくらいには昔の話です。

         

         本当に最初のプレイテストの日、プレイテスターは前進も後退もできないスーパークソゲーを遊ぶ羽目になったわけですが、その際には当然の結果として、手札1枚をコストとした前進と後退が生まれることとなります(ちなみに纏いや宿しはこの時点では存在しませんでした)。

         

         その様子を観察していて、私はひとつのことに気付いたのです。コストとして手札を捨てるたびに、対戦相手がそれを強く注目するのです。対戦型カードゲームとして、それはおかしなことではありません。勝利のためには、わずかな情報すら見逃すべきではないのですから。使われたカードは表向きで捨てられるものなのですしね。しかし本作に限っては、その通例に従ってはいけないという確信めいた予感がありました。

         

         帰宅してからこの予感について分析したところ、問題点は2つあると分かりました。1つ目は基本動作という「ゲーム内で何度も行う操作」のコストであること。そして肝心の2つ目は「山札が8枚(当時は!)しかない」ということです。

         

         説明しましょう。山札が少ないということは1枚当たりの情報がより重要になるということです。何がデッキに入っているのか、何がもう使われているのか。30枚や40枚のデッキでも重要なのですから、いわんや8枚ではといったところです。それ故に、勝利に貪欲なプレイヤーは捨て札に注目します。

         

         あるカードは使われたのであれば、それが捨て札に行ったかどうかは確認するまでもありません。実際に効果を適用したのですから。しかし、何かのコストとして捨てられたのであれば、何が捨てられたのかを確認する必要が生じるのです。そして基本動作というまさに基本の行為のコストなので、何度も起こるのです。本当に何度も! それはあまりにも鬱陶しいものでした。

         

         また、コストで使われたカードまで捨て札に行ってしまうと、8枚しかないデッキではあまりにも早く内容が割れてしまうという問題もありました。これではデッキを組む対戦型カードゲームが持つ、情報戦という魅力を捨て去ってしまっています。

         

         これらをどう解決したかは、ご存じの通りです。実際に使用される以外の方法で消費されたカードは、基本的に「裏向きで」捨てられるようにしたのです。こうして伏せ札は、わずか2回目のプレイテストの段階からずっと変わらずに存在しつづけたのでした。

         

        忍びの道は長き道

         

         さて、本題に戻り「設置」の歴史を語ることにしましょう。しかしこれは長く厳しい道程でした。ひとつずつ、紐解いていきましょう。

         

         まず最初の時点では、設置とはかけ離れたコンセプトが与えられ、オボロの原型とシンラの原型が共有していました。しかしそれには問題があったため没になりました。これはいつの日か芽を出すかもしれませんので、今は秘密にしておきます。

         

         ここでオボロが生まれた理由に立ち返り「忍らしい」能力が模索されました。結果として伏せ札に目が向けられました。忍とは密かに動き、秘密を隠すものです。伏せ札という秘匿情報はまさにフレーバーに即していました。

         

         それを活かすためにまず作られたキーワードが「罠」です。

         

        散らし鉄線    罠 

        罠:相手がダスト⇒自オーラを解決する。

        相手フレア⇒ダスト:◇1

         

         罠は伏せ札にある時のみ効果があります。相手が特定の条件を満たしたら伏せ札から使用でき、その効果を与えるのです。しかしこれはより上位のゲームデザインから見て問題がありました。割り込み要素なのです。

         

         本作の割り込み要素は「相手の攻撃への対応」に制限されています。プレイヤーが自分のターンで割り込まれずに自由に動けることはプレイ時間の短縮に役立ちます。しかしその一方で、一切の割り込みがないと駆け引きが不足してしまいがちです。

         

         本作はそれを巧妙に解決したと自負しています。攻撃されたならば、どのみちオーラかライフのどちらで受けるかを選びます。ゆえに優先権は相手へと移行し、そこで割り込んでもストレスはないのです。本作のデザインはその点において自信があったため、それを乱す罠は没になりました。

         

         次に、伏せ札の枚数を数えるというアイデアが出ました。

         

        忍者刀    攻撃    適正距離3    1/2

        伏せ札が2枚以上の場合、このカードは+1/+0となる。

         

         まあ弱いことはさておいても、魅力的なカードではありませんでした。伏せ札は簡単に置けるため、単にカードを伏せてから使えばよいだけで、展開が単調になるのです。この類で生き残ったのは1枚だけです。つまり……。

         

         

         

         次のアイデアは、伏せ札からカードを使うというものでした。

         

        口寄せ    消費6    行動

        あなたの伏せ札から《攻撃》を望む枚数だけ公開する。それらの《攻撃》をすべて行う(解決する順番は自由である)(射程が適正でない攻撃は解決されない)。

         

         この方向性は悪くはありませんでした。しかしこのカードも単にカードをたくさん伏せてから雑に撃つだけであり、さして魅力的ではありませんでした。しかし失敗だけではありません。傑作も生まれていました。

         

         

         

         ここまでの経緯は悪いものではありません。順調に魅力的なカードは揃いつつあります。しかしながら、あと一味足りないのです。パズルのピースは揃っているはず、あとは組み立て方です。

         

         これまでの成功を振り返ると「熊介」は伏せ札の枚数が多い時ほど危険性が上がり、「鳶影」は対応ゆえに伏せ札から奇襲できました。そう、伏せ札の有無を相手に意識させていたのです。理不尽な押し付けではなく、対処できうる形で。これはゲーム性を向上すると同時に、失敗した相手を罠にかけたという感覚が強まり、忍らしさも高めていました。

         

         罠はその要件を満たしています。しかし相手のターンの割り込みは相応しくなく、また通常札においては複雑性を下げるためにも条件を揃えたいところです。それでいて相手に対処の余地を与え、罠らしくしたい。悶々とした思考が渦を巻いていました。

         

         そんなある日。私は夢を見ました。私は夢の中で正体不明のゲームをやっていることがあります。そしてそれが魅力的であれば、そのまま興奮してゲームにすることもあるのです。例えば『モノポリー』のような円形のマップを周回し、各マスに『ドミニオン』のサプライにあたるカード群があり、止ったマスのカードを獲得してデッキビルディングをするゲームであったり。

         

         しかし今回の夢は明確に本作でした。私はオボロを使い―いやオボロかどうかは判然としませんが―伏せ札からカードを使っていたのです。開始フェイズに。開始フェイズ!?

         

         そこで飛び起きました。開始フェイズです。開始フェイズにあるものは何か? 集中力の増加? カードのドロー? いや違う、山札の再構成です! それならば直前に相手のターンがあるから相手は対処や準備の余地があります。さらに毎ターン必ず起こる訳ではなく、例外的な(山札が0や1でない時の)再構成をするならば、それは罠に嵌めた感覚を生むはずです。

         

         私はそのまま近所のドトールコーヒーへノートと共に向かいました。そして、しっかりと埋まったカードリストを片手に笑顔で帰宅したのです。長く厳しい忍の道も、ようやく終着点へと至りました。

         

         まだまだカード個々の物語は続きますが、「設置」の話はここまでで十分でしょう。

         

         

         

         次回の更新は来週、オボロ特集の後篇にて、現在のカード個別の話をさせて頂きます。ご期待くださいませ。

         また、今回の特集への感想や、他に行ってほしい特集などありましたらTwitter(@BakaFire)までお伝えください。あなたの一声が、今後の記事を変えるかもしれません。お待ちしております! 

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        『桜降る代の神語り』閑話:ある山間の邂逅

        2017.06.23 Friday

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           はためいた青年の外套が落ち着いたとき、意識ある者は彼と少女一人を除いて皆無だった。

           

          「お嬢さん、お怪我はございませんでしたか? ――おっとこれは失礼」

           

           へたり込んでいた少女に差し出した手が、まだ武器を――甲から爪を生やした手袋を纏っていることに気づき、外してから再度差し出す。角ばった眼鏡の奥から覗く目は、実に知的で落ち着いていながら少女への気遣いの想いで溢れていた。
           手を借り立ち上がった少女は、辺りを見渡して唖然とする。無理もない、己を襲った野盗たちが、この体力より知力と言わんばかりの青年に一人残らず倒されて転がっているのだから。

           

          「あー……アリガトウ……ございます」
          「いえいえ、当然の行いをしたまでです。それに、この 佐伯識典 さえきさとのり 、こんな連中に負けるほどやわな鍛え方はしておりませんから」
          「サェ……サーキ? あなたの名前、ですか?」
          「おや……?」

           

           佐伯は、改めて助けた少女を観察した。駆けつけた際に遠くから彼の目を引いたのは、胸元からくるぶしまですっぽりと亜麻色の布の筒に身を通したような格好であった。間近で見るとそれはいくらか汚れており、小豆色の腰巻きなど端が破けてさえいる。最悪の事態を想像するほどではないが、以前にも荒事に巻き込まれたのだという印象を受ける。
           しかし、対面した彼の注目は、目線一つ分も違わないその背丈に始まり、小麦よりなお焼けた肌と、緩く波打つ銀の長い髪に向けられていた。

           

          「そうです。私の名前は、佐伯、識典、です」
          「ぁ……ワタシの名前は、ジュリア、です」
          「じゅ……?」
          「ジュリア。ジュリア・ヴェラシヤ・クラーヴォ、です」
          「ふむ……」

           

           口の中で、聞きなれない音の羅列を反復する佐伯。そして、解せないという表情で彼女へと問う。

           

          「ジュリアさん……でよろしいでしょうか。貴女は、渡来の方――海の向こうから、来たお人でしょうか?」
          「……! はい、です! 船乗って、来ました!」
          「そのようなお方とお会い出来るとは……さぞ大変だったでしょう」

           

           その異邦の容姿は確かに人目についた。野蛮な輩に目をつけられるのは避けられなかっただろう。ここは割合内陸の土地であるが、そんなところをぼろぼろになりながら一人で歩いているその境遇に、佐伯は胸を痛めていた。
           そんな彼とは裏腹に、ジュリアと名乗った少女の目は希望と、好奇心に満ちていた。

           

          「サーキ、あなたは強い。あなたは、ミコト。違いますか?」
          「ええ、如何にも。シンラ様とライラ様を奉ずるミコトの身です」
          「シンラサマ……ライラサマ……メガミ? アー、読んで知ったことあります。シンラサマはコトバ、ライラサマは、カゼとカミナリ?」

           

           記憶を紐解きながらのためか、さらに言葉が怪しくなっていく。そんな彼女に佐伯は眼鏡のずれを直しながら、感心したように唸った。

           

          「おぉ……渡来の方とは思えぬ博識ですね。概ねその通りです」
          「オオムネ……? 惜しい、ですか? 詳しくは、どうなのですか?」

           

           眼鏡に添えていた佐伯の手が、止まった。

           

          「……偉大なるメガミ様に、ご興味が?」
          「ぁ……、はい。知りたい、です。ワタシ、ソレも調べるため、来ました」
          「ほう……」

           

           ……ジュリアの悲運は、怪しく光った眼鏡の向こう側に、彼の眼差しが隠れてしまっていたことだった。
           少女のそんな、好奇心と探究心を向けられた青年は。

           

          「ぃぃぃいいいいいいでしょぉぉうッッ!」
          「……!」

           

           突然、拳を握りしめて、腹の底から声を出した。
           少女の肩が跳ねたことに構わず、言葉への気遣いも忘れて語りだす。

           

          「私の信奉するメガミ様は社会学及び弁論を象徴なさるシンラ様と、風や雷といった自然を象徴なさるライラ様でありますこのお二方を何故私が選んだか! そう! お二方の権能が私の生き様、その理念に実に! 即しているからです。ご説明しましょう」
          「ォォ……」
          「人の営みとはとても高度な知的活動の結果成り立っていますしかし! その中で人は自然の中に生きる獣としての本分を忘れることはできません。連綿と続いてきたこの歴史において、人は、自然と生きてきた中で培われてきた知識を活用することで今の姿であることができています。……ですが悲しいことに、人は己を特別なものと動物と区別し始めて久しい。己は森に生きる獣ではないのだと。己はもっと高尚な生き物なのだと」
          「ぇ……ぁ……ジッサイ、ミコトの存在自体、他の生き物と人間、違う証拠なってると、コノ国の話聞くと思いますが……」
          「ちがァァぁぁぅうのですッ!!!」
          「ひっ」

           

           ジュリアの冷静な指摘に対し、先程野盗を蹴散らしたとき以上の興奮で以って佐伯はさらにまくし立てた。

           

          「何故そこで歴史を振りかえらない何故そこで無意味な自尊心を育てる! その人として積み上げられてきた知識! 獣として備わっている知恵! それらを一つにすることで、人間という生き物はさらなる高みへ登ることができる! 私はそう信じています。だからこそ、知識ある社会的動物であるためにシンラ様を、自然の存在として知恵を研ぎ澄ませるために、獣性をお持ちになるライラ様をそれぞれ信仰しているのです! おわかりですか!!」
          「ア、アノ……」
          「もしかしたら外聞だけで、ジュリアさんはメガミ様のお力がどのようなものか勘違いなさっているのかもしれない。ああ、こんな鍛錬用ではなく、お二方の顕現武器をご覧になるだけできっとご納得いただけるはずです。天地の書も、雷螺風神爪も、その有り様を感じ入らずにはいられない佇まい、お国で後世まで是非語り継――」
          「アノ! ごめんなさい、早い、分からない……」

           

           そこでようやく、相手がやや怯えの色すら伺わせていることに佐伯は気づいた。口角泡を飛ばしていた己を改め、居住まいを正す。

           

          「……大変失礼しました」
          「ウン……ワタシも、ごめんなさい……」
          「メガミ様方も大切ですが、今はこの場を脱する方が先決でしたね。そもそも何故ジュリアさんはこのようなところへ?」

           

           ちらほら呻き声が聞こえ始めた周囲に目を配ると、それに倣ったジュリアの顔がこわばる。ただ、彼の問いに答えようとした途端に上げた微かな悲鳴は、決してこの場にいる下手人たちだけに向けられたものではないようだった。

           

          「ワタシ……捕まって、逃げて、ここまで……」
          「なんと! ではひとまず、安全なところまでお連れせねばなりませんね」
          「アリガトございます……でも、一人いない、探してます」
          「お連れ様とはぐれてしまったと?」

           

           頷くジュリアは、気を紛らわすように自分の毛先を手慰みにしていた。

           

          「ワタシの、付き人……? です。キット、心配してます」
          「ふーむ、しかしご覧の通り最近は物騒ですからねえ。探すとしても、こんな人気のないところに女性が一人で居れば、それだけで狙われかねません。ましてや貴女のような異国の方ともなれば……」

           

           もう一度同じことが起きるだろう。言葉の達者でないジュリアであっても、その先は想像できた。
           佐伯としては、場違いなこの異邦人に対して湧く知的好奇心を満たしたい欲求に駆られていた。お互いそうであろうとは、彼女の渡航の目的を考えればそう予想するに容易い。できれば皆に黙ったまま客として迎えたいくらいだ、と歯噛みする。
           そう、彼は今、ジュリアに構いっきりになれる状況ではなかったのだ。

           

          「では、こういうのはどうでしょうか。お探しになるにしても、安全面からも効率面からも、人の多い所に居るのが一番です。私が近くの村落までお送りしましょう」
          「ホントですか!」
          「ええ。しかし、それには条件があります」

           

           ほころんだ顔がまたこわばったのを見て、少々言葉選びを間違えたかな、と反省しつつ佐伯は続ける。

           

          「私には今、やらなければいけないことがありますので、それが済んでから、ということでしたらお手伝いできるでしょう」
          「もしかして、迷惑、でしたか……?」
          「とんでもない! 幸い、用向きというのは、ここから半日もしない所にある陰陽本殿という遺構の調査をすることだけです。ずっと昔に使われなくなった神殿……のようなものを調べるだけなので、危険もないでしょうし、お連れ様をそう待たせることもないでしょう。それでジュリアさんがよろしければ」

           

           にこりと、先程の弁舌が嘘のような微笑みだった。

           

          「しん、でん……」
          「そこはメガミ様ととても関係の深い場所です。もしかしたら、貴女の調査のお役に立つかもしれませんね」
          「……! 嬉しい、よろしくです!」
          「よかった! では日が暮れないよう、参りましょうか」

           

           なんとか不安を少しは拭うことができたというような、ぎこちない彼女の笑み。その裏にあるものへ想像を巡らせる佐伯は、自分が把握しているよりも世の中は大きく動いているのではないか……そう、好奇心の陰で憂うことしかできなかった。
           少女の小さな歩幅に合わせながら、佐伯は一路北へと向かう。

           

           


           この地の多くの人々は、メガミへの信仰を持っている。もちろん、その度合いは人による。
           カナヱはメガミとして信仰には当然感謝もしている。でも、あれはちょっと……例外かな。
           ああいうのを何と言うか分かるかい? 狂信者さ。
           いいか、君はああはなるんじゃあないぞ。いいな?

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

           

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          『桜降る代の神語り』第25話:武神ザンカ

          2017.06.23 Friday

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             幸いというべきか、生家より発った天音揺波の旅路に、これといった波乱はなかった。
             明瞭さを欠いた同行者との間に諍いが起こることもなかったし、いっそ虚しさを覚えるほどには順調だったよ。
             一つ夜を越え、朝日と共に山を越え。
             彼女は、捜し物の果てにザンカの社へたどり着く。

             

             


             背後の山から吹き下ろすように、荒涼とした大地が広がっている。茶けた地面から乱雑に伸びる雑草も、どこか肩を落としているよう。さらにはしばらく雨も降っていないとなれば、ひび割れた土の底から飢えを訴えているようにも見えた。
             しかし、それらよりもなお、この地に淋しさを与えているものがある。
             無数に遺棄された武具。主なく、あるいは主だった物と共に朽ちるだけの道具たち。
             今や草木の拠り所にすらなっているそれらは、その昔、ここが血で血を洗う戦場であったことを告げていた。

             

             そんな戦場跡に、一箇所、ぽっかりと天に向かって口を開けている場所がある。周囲には穴を覆っていたであろう建造物の残骸が、すっかり虫に食われた状態で散らばっていた。下へ繋がる石造りの急な階段も、時間についていけなかったように土埃を被り、風化していた。
             揺波はそんな階段を下りきった奥に、見覚えのある光景が広がっていることに安心した。

             

            「じゃあ……行ってきますね」

             

             地上から覗き込んでいた千鳥にそう告げると、一歩一歩踏みしめるように前へ進む。
             幾許かすると、行き止まりになっていた。それも、揺波の記憶通りだった。違うことがあるとすれば、前は随分と広く感じられたこの洞穴が、飛び跳ねられないほどには手狭だった、ということくらいなものだった。
             もう衝立としての役割を果たせていない障子戸の先。そここそが、彼女の社である。

             

            「よっ……と」

             

             持ち上げるようにして戸を退けた、その奥。
             地上からの光が、辛うじて潰えるか否かという位置に、彼女はいた。

             

            「えと……お久しぶり、です……?」

             

             揺波の視線の先にあったのは、地面に突き立つ一本の刀。何千何万と打ち合ったように刀身を欠けさせたそれは、纏った紙垂を朽ちさせながらもなお、凛として洞穴の最奥にあった。
             それは、彼女であって、彼女ではない。
             揺波の言葉が外へ抜け出ていってしまってからしばらくして、暗がりであった社の中を、淡い光が照らし始めた。

             

            『――な…………ゆり、な……』

             

             それは、彼女の御神体である刀から発せられたものであった。まるで、無骨に闘いの激しさだけを物語る刀身に映ったその向こう側から、薄闇に佇む愛しき者をよく見たいがためのようだった。
             芯の強くも憂い疲れてしまった女の声は、けれど抑えきれない喜の感情を端々に滲ませながら、次第に揺波へとはっきりと伝わってくる。

             

            『ああ、揺波……我が同胞よ、久しいな……』
            「はい……」

             

             メガミ・ザンカ。武を司る存在にして、多くのミコトがその前に散っていった武神。
             短くない歳月を経て再び間近でまみえることとなった揺波は、彼女の声に安心感を覚えつつも、不思議と懐かしい気分にはならなかった。

             

            『嘗てなれの迎えし試しより幾星霜、諸々の艱難辛苦、ひいては零丁孤苦、見事打破し、再び相見えようとは……。我が魂、その芯底より湧き上がる歓喜は雀躍を抑えるも能わぬ』
            「…………」
            『此地、此時、飽くまで言祝ぎ、なれの歩みを――揺波……?』
            「は、はい」
            『どうした……? 我が言の葉は、然と届いているか?』

             

             いえ、と小さく首を振った揺波。いくらか言葉を探すも、観念したように口端に僅かな笑みを乗せながら、少し困ったように返す。

             

            「ザンカの言うことって、やっぱり難しいな、って……」
            『…………そう、か』
            「あ…………」
            『…………』

             

             気まずい沈黙の中、両者は言葉を作れずにいた。社の仄暗さも相まって、会話の糸口をどこか暗がりへやってしまったようだった。
             そしていくらか経って二人は、

             

            「あの!」『揺波よ』

             

             重なった声が消え、再びの沈黙。
             ただ、今度の沈黙はそう長くは持たなかった。

             

            『なあ、揺波よ。我はずっと、そなたの闘いを見ていた。そんなそなたと、また言葉を交わすことができて……そなたに会えて、嬉しいのだ』
            「えっ……あ、わ、わたしも――」
            『ただひたすらに勝利を見据え、間断なくそうあり続けるその姿、今も変わらず……いや、尚高まるその有り様。地を駆ける星と評して過言にあらず。かの頂きにあった龍の輝きが失われた口惜しさ、堪えうるものではないが……しかしてそなたとの一戦、御魂の沸き立つような思いであった……!』
            「えっと……」
            『……すまない』

             

             再び言葉を選び始めたザンカの前で、揺波は苦笑いしながらも、彼女の言葉が自分にきちんと向けられていることに嬉しくなった。それは決して揺波の中にぽっかりと空いた穴を埋めてしまえるものではなかったが、自分に残されたものが、そう思っていただけの幻想ではないと確かめられたことは、揺波の心を気持ち程度でも軽くしたことに相違なかった。

             

            「ううん、ありがとう……見守ってくれてた、ってことですよね?」
            『揺波……』

             

             言葉が多すぎたり、少なすぎたりすることはあったが、もう、気まずさはなかった。

             

            『そうだ。我は、そなたの歩みをいつだって見ている。そなたが武の極みに至るその時まで、届くことがなくとも、我は尽きぬ声援を送り続けよう』
            「武の……」
            『だからこそ……!』

             

             顔を曇らせた揺波の言葉を遮った声は、鋭い叱咤のようであり、その実、諦観の先に芽生えた慈悲を孕む許しのよう。

             

            『だからこそ、我は知っている。だからこそ我は、憂いている。そなたが今、歩むべき道を見失っていることを。……それを、我は、悲しく思う』
            「ザンカ……! あの、ここに来たのはザンカのことなんにも知らないからで、わたしがなにをしたらいいか全然分からなくて、だから、おうちなくなっちゃったし、お父様も見つからないし、皆、なくなっちゃって、ザンカだけ……だから…………だから、またザンカに会ってから考えよう、って……!」
            『まあ落ち着け』

             

             くつくつ、と抑えた笑いには、どこか安堵が隠れていた。

             

            『ならば話をしよう。我について、そして、そなたの見失った道への標となれるよう、桜花決闘について。長い話になるやもしれんが、知る限りの全てを、我が同胞に語って聞かせよう』

             

             刺さった刀の真正面に座す揺波。それに満足そうに声を漏らしたザンカは、唯一自分を宿してくれるミコトが理解できるよう、努めて平易な言葉を探しながら語り始める。

             

            『それは今より昔も昔。ミコトたちが我らの力を何処でも借りられた時代のこと――――』

             

             

             

             


             ザンカと言えば可能であれば関わるべきでないメガミの一柱である。それは、千鳥がミコトでなかったときから知っている程度には、戦いというものに縁の深い存在にとっての常識である。ましてやここはその社、血を見るような事態を想起してしまうのは当然だった。

             

            「お、終わったか……!?」
            「お待たせしました」

             

             

             だからその使い手である揺波であったとしても、ここから離れる理由がようやく手に入るのであれば歓迎する他ない。彼がここに来た原因であっても、だ。
             階段から上がってきた揺波を見て、まずは無事であったことに胸をなでおろす千鳥は、曇り空のようであったその瞳にやや光が差していることに気づいた。纏う雰囲気も、以前彼の見た戦闘中の彼女のようとはいかずとも、幾分ハリを取り戻しているようだった。

             

            「どう……って言い方も変だけど、どうだった?」
            「うーん……やっぱりザンカはザンカでした」
            「は……?」
            「やっぱり難しいことはよく分かんなくて」

             

             大きく伸びをした揺波。腰に佩いた刀の柄に手を当てて、今自分が出てきた穴の、さらに奥を見つめる。

             

            「でも、ちょっと元気が出てきた気がします。分かんないものは分かんないまんまですけど、そんなわたしを見てくれて、応援してくれてるってことはちゃんと分かりましたから」
            「おう、えん……? そ、そっか、それはよかった……」
            「とりあえず、分からないことが分かるまでこのまま歩いてみようかな、って。ザンカに色々聞いて、そう思いました。千鳥さんのお仲間さんのこともありますし」

             

             そう言う揺波は、自分の言葉の指すものを思い出したようで、一瞬顔を伏せた。
             千鳥の導きによって、裏側に潜んでいたものの邪さに至ってしまう彼女の姿を目の当たりにする可能性は十分にあった。千鳥にとって、任務と解釈できる余地のある現状が、とても幸運に思えた。

             

            「じゃあ里まで急がないとな。……ってところで悪いんだけど、これから任務で南に下らなきゃいけない。ああ、里は西のほうね」
            「えーと、どっちだろう……」
            「あっちあっち。ちょっと戻って街道をずっと下る感じかな。陰陽本殿跡っていう、咲ケ原の端っこにある遺跡なんだけど、ここからならどんなに遅くても一週間はかからないと思う」
            「よかった。では行きましょうか」

             

             歩き始めた揺波の脚が、心なしか来る時よりも急いているように千鳥には見えた。けれどそれは、戦場跡を行く彼女の足取りが、散らばる兵たちの遺物を越えていく相応しさを最低限取り戻したようで、全く窘める気にならなかった。
             稀代のミコトを導き、千鳥は一路南へと向かう。

             

             


             天音揺波は自らの宿すメガミ、ザンカの下を訪れた。
             残念ながらその邂逅だけで、天音揺波が救われ、全てが改められるなどはありえない。
             君は彼女たちの会話が不十分なことに不満を感じているかもしれないね。
             けれど安心してほしい、もちろん、然るべき時には語らせてもらうさ。
             そう、天音揺波が大きな一歩を、自らの求める道へ踏み出す時に。

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

             

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