『桜降る代の神語り』閑話:ある姉弟の交差

2017.09.15 Friday

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     さめざめと泣く空の下、岩肌のむき出しになった山道を千鳥は一人駆けていた。

     

    「…………」

     

     彼の表情は硬い。それは、麓の里で揺波を見送った惜別というわけでも、それから古鷹へ密書を届けた際に喫緊の伝令を任されたわけでもない。
     大地を打ち鳴らすような昨晩の激しい雨をその里でやり過ごし、忍の里に戻った千鳥を待っていたのは、水面下で警戒と不安を淡く滾らせていた里の空気だった。

     

    「野良犬が出たかもしれないとよ」

     

     違和感に答えを与えてくれたのは、千鳥よりも三つほど年のいった先輩の漆谷だった。
     森に囲まれた忍の里において、野良という形容は特別な意味を持つ。それは、天然の要塞である古鷹山群を踏破できる能力があり、なおかつ里が把握していない者に対して冠される。端的に言えば侵入者であり、里に仇なす者をそう呼ぶことが多い。

     

     ただ、大半の者は里を見つけるだけで精一杯だし、そこから何か持ち帰れた者は記録上存在しない。山々や木々に阻まれ行き倒れているか、オボロの実験生物に襲われているか、なんであれ忍にまともに害を為せる程度の侵入者は極々少数である。
     だから千鳥は、飄々とした漆谷のその言葉を聞いたとき、里の空気と合わせてその侵入者は少数派に属しているのだと理解した。

     

    「誰かが?」
    「三日経っても戻ってきてないんだよなあ。烏間と……藤峰さんとこの隼人。わかるだろ?」
    「分かります。確かに一報入れる頃合いもとっくに過ぎるでしょうが……深追いしてるとか、そういうことでは」
    「それならげんこつだぁなぁ。そんな話で済めばいいけど、そう、わざわざケツを叩きに行ってやれるほど、オレたちゃ今暇じゃねえからなあ」

     

     現在の忍の里は慢性的な人手不足に陥っている。昨今の情勢もあり、千鳥も駆り出されたように多くの実働部隊は出払っている。里に残る実力者も特級の情報を精査していたりと、そのような不確定な情報で動く余裕などない。
     挙げられた二人は、まさにそういった際偵察に遣わされる、千鳥と同程度の忍であった。

     

    「それにさ、天音が行ったのはいいとして、おまえの連れてきた異人さん? オボロ様が気に入ったみたいじゃん? とはいっても目を離すわけにもいかんだろうし、って結局人取られてるみたいでなぁ」
    「漆谷さんは?」
    「暇じゃあない、これから遠征よな。――んで、オレらが暇じゃあないからこそ、下の連中が庭の散歩から帰ってこない程度のことで、こうやって騒いでるわけだ」

     

     ……それから少し考えを巡らせた千鳥は、様子見の役を買って出ることにした。
     ちょうど身体が空いたから、というだけの理由では、決してなかった。

     

    「…………」

     

     漆谷と別れて以来、ずっと閉ざしたままの口。油断すれば、脳裏をよぎった可能性を漆谷の前で零してしまいそうだった。憶測でしかないそれは人前で吐露するには細い可能性で、しかし無視できない程度には胸騒ぎのするものだった。

     

     部外者の痕跡が存在したのは、全く人気のない険しい北西の岩山地帯である。古鷹邸へ行くにも最短経路から外れているそこは、訓練をする以外に用のある場所ではない。そんな辺鄙なところで、熊を捌いた痕跡があったのだという。
     捌いたというと整然としているが、実際には肉は刃物で僅かな量剥ぎ取られていただけで、放置された残りを啄んだであろう鳥たちが、翼を血で濡らしていたという。

     

     だから何者かが山間に潜伏していることは間違いない。けれど、いくら人気のない場所とはいえ、忍の警戒網に引っかかることなくそれを成し遂げるには相応の能力が必要である。そして、それを行使するに足るだけの気質も。

     

     あるいは警戒網に引っかからないのは、技量だけではなく、知識もあるからではないか。
     あるいは熊を狩ったわけではなく、襲ってきた熊に対し過剰防衛を働いたのではないか。
     雨を蹴って寂しい崖の道を走る彼の予感は、条件に当てはまる人物の形となって頭から離れずにいた。問題の痕跡が完全に雨に流されてしまっているだろう今、捜索の手を進めさせるのは、そんなあやふやだけれども無碍にすることのできない根拠だけであった。

     

     と、

     

    「……!」

     

     突き出た崖に、二つ、黙って雨に打たれる人影が転がっていた。
     予感はさらに強く、彼を走らせる。

     

    「おい、大丈夫か!?」

     

     うつ伏せに倒れていた二人を起こすと、行方知れずであった忍たちに間違いなかった。
     首元と胸元に血の赤を認め、肝を冷やした千鳥であったが、幸いにも彼らにはまだ息があった。だがそれも、身体がやり方を忘れてしまったかのように不規則であり、かすれている。

     

    「ぁ……ぅ、ぁ……」
    「しっかりしろ! 俺だ、千鳥だ!」

     

     呼びかけに、目線だけはしっかりと答えている。衰弱しているようだが意志もはっきりと感じられ、肉体だけ自由を奪われているのが堪えているようであった。
     一旦気道だけ確保するように横たえてやると、遅ればせながら腰の小刀に手をかけつつ、辺りを見渡した。敵意が振りまかれているということはなかったが、押し殺していないとも限らない。だが千鳥には、まず罠を警戒しなかった程度には、もう下手人は現れないのだろうという確信があった。

     

    「……ここから、か」

     

     崖の淵、雨で不安定になっていたであろうそこを、踏み抜いて崩したような痕がある。下を覗けば、ろくに掴む取っ掛かりもない斜面が森の端まで続いていた。点々と、崩れた岩盤が転がり落ちていったと思われる位置の岩肌に傷がついていた。
     常人ではまず助からないし、忍でも五体満足であればいいほうだろう。
     それでも千鳥は、落ちていった下手人の無事を祈らざるを得なかった。
     何故なら身動きの取れない二人の容態は、彼のよく知る人間が使う毒の症状と、ひどく似通っていたのだから。

     

    「姉さん……」

     

     止み始めた雨の中、千鳥の鼻を、すりつぶした草花の臭いがかすめた気がした。
     それが本当に現実のものなのか、千鳥に背を向け調合をする記憶の中の姉から漂ってきたものなのか、彼には分からなかった。

     

     

     


    「あ゛ッ……はぁッ、ぁ、ぐ……ぅぅぅ」

     

     それは獣の唸りだろうか。

     

    「ど、ご……ですか……どこぉ……ぉぉ――」

     

     否。それは間違いなく人語であり、間違いなく人の形から発されていた。
     闇昏千影。それが、その形の名前だった。
     傷にまみれ、脱力した左腕を右手でかばう少女は、痛みに走ることを諦め、ふらふらと森を彷徨っていた。腫れ上がった目元に据わる瞳は血走り、声は枯れ果てている。さらにその全身は、錆びついた赤で塗りたくられていたものが、雨で洗い落とされたかのように澱んでいた。

     

    「――あ……っ」

     

     ばちゃり、と。
     木の根に足を取られた千影は、受け身も取れずに顔から倒れ込んだ。濁った水たまりに、襤褸が浮かぶ。
     ただ、彼女はすぐ起き上がるということをしなかった。まるでその水たまりの中から来る何かを待つように、悲壮な面持ちで意識を下へ向けていた千影だったが、ややもして突然、表情が剥がれ落ちて無になった。

     

    「ホロビ……聞こえません……」

     

     そして無感動に上体を持ち上げたかと思うと、濁って何も映っていない水面に向かって懇願するように語りかけ始める。感情の表し方を忘れてしまったように、歯車が回る度に壊れていく絡繰の如く。

     

    「聞こえません。聞こえません……聞こえません……! ほろび、声、を……ぉぉ……! ――たす、けて……お願い、ですから……! やっぱり、みんな千影が、邪魔だったんです。誰も、助けてくれないんです……。誰も、信じられない……死にたく、うっ、ぅぅ……ない、です……ほろびぃ……」

     

     壊れた絡繰は、もう壊れてしまったはずの左腕も一緒に、水面をめちゃくちゃに叩き壊す。

     

    「ホロビ! ホロビホロビ、ホロビは、ああああああああっ! ずっと、見ててくれるんじゃないんですかぁっ! ホロビも、千影のことッ……!」

     

     激昂は、始まりも唐突であれば、終わりも唐突だった。
     そこまで口にして、千影はまた憑き物が落ちたかのように静かになると、すっくと立ち上がって再び歩き始めた。泥まみれになったことなど気にも留めず、幽鬼のように誰もいない森を彷徨い行く。

     

    「ホロビ……いたいです、ほろび……どこ……どこ、ですか……」

     

     彼女にあてなどない。あるのはただ、記憶の中のメガミの声だけ。
     激しい痛みによってかえって朦朧とし始めた千影は、それでもなお、現であると信じずにはいられないものを求めて、木々の合間に消えていった。
     

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

     

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