『八葉鏡の徒桜』エピソード6−7:そして彼女は家へと還る

2020.07.30 Thursday

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     吹き込める強い風の音が、背後で化け物の嘶きのように不気味に響く。外の明るさが満足に届かない洞窟の奥へと進んでいることもあって、袋小路へと追い立てられているような錯覚に陥ってしまう。ただ、その程度の不安でヤツハが足取りを重くすることはない。

     

    「…………」

     

     黙々と、まだ節々に違和感の残る身体を引きずって、凍える洞窟をヤツハは進む。
     コルヌとの桜花決闘に勝利したヤツハたちは、休息もそこそこに目的地への歩みを再開していた。どこを見ても白一色の風景では入り口を見つけるのに一苦労かと思われたが、クルルの記録は正しくかの場所へと導いてくれた。

     

     ヤツハとしては、もしかしたら決闘後にもコルヌとひと悶着あるのでは、と少なからず心配をしていたが、それは杞憂だった。自身がさらに費やす言葉を持たなかったように、コルヌもまた黙って一行に背を向け、吹雪の中へと消えていった。
     ただ、それが敗者としての潔さから来るものかと言われれば、それは違うのだとヤツハは考えていた。決着のあのとき、己の意思を認めてくれたであろうコルヌもまた、それ以上語る言葉を持たなかったに違いなかった。

     

    「コルヌさん……」

     

     結局、この帰り路では面と向かって呼ぶことのなかった名を、口の中で唱える。
     コルヌという存在は、ヤツハと桜降る代の間での不和の象徴であった。右も左も分からない状態で向けられた敵意は、どれほどこの地を知っても、どれほど他人に良くされても、解消されることのないしこりとして残り続けていた。

     

     けれど、道を譲ってくれたあの背中を思い出すと、この極寒の中でも少しだけ心が温かくなる。それが人肌でじわりと雪が溶けていくように、今はそのしこりが消えていくように感じていた。
     自分がメガミでないのだとしても、この地に居てもいいように思えてくる。
     瑞泉で事実を突きつけられてからこちら、どこか心の片隅に居座っていた、この地へのよそよそしさにどうにか別れを告げられそうだった。

     

    「…………」

     

     ところどころ氷が這っている以外、洞窟はなんの変哲もない景色を晒していた。目覚めたときは地面が道標になっているかのように線状に凍っていたが、今は守護者の足跡はどこにもない。流石に足元が不確かになってきたのか、クルルが絡繰の明かりを取り出した。
     この頃にはもう、遥か後ろで叫ぶ吹雪の声はか細い囁きほどになっていた。時折、凍った地面を踏みしめる音のほうがよく響くほどだった。

     

     明かりが仄かに照らす洞窟の中は、ヤツハの記憶のそれよりも随分と広く感じられる。頼りない明かりしかなかったこともそうだが、風景に目を向ける余裕があまりなかったのだろう。天井のつららが、人の介在のなさを物語るように肥え太っている。

     発ったときには見えなかったものが、帰り着いた今、はっきりと見えている。この先に待っているだろうアレもまた、今度は答えをもたらしてくれるかもしれない。そんな真実へ近づいている高揚感が、ヤツハの歩みを止めさせない。

     

     きっとそれは、ヤツハだけのものではなかった。
     隣を歩くハツミも、そして何よりもクルルですら、終着点を目前に控え、何も語ることはなかった。最後には静謐さすら感じられる沈黙が残り、急いでいるようにも聞こえる三組の足音だけが、洞窟に広がっていた。
     やがて、前からやんわりと吹き返してきた空気が、肌を撫でた。
     感じた空間の広がりに、クルルが明かりを前へと掲げる。

     

    「あっ……」

     

     そこでヤツハを待っていたものを見て、彼女は声を上げた。
     洞窟の最奥に設けられた、不自然に切り取られたような空間。今までのありのままだった道とは違い、一歩足を踏み入れるだけで、寝転んだとしても痛くないほど地面が平らに整えられているのだと分かる。

     

     そして、その石床から這い出すように隆起するもの。
     遠目からは、長い年月を経た樹の根に見える何かが、部屋の突き当りから外を望むかのように腕を伸ばしていた。照らし出された表皮に植物の生々しさは薄く、その硬質さは石のそれを思わせる。

     

     さらに、当時と変わらず、目を引くソレ。
     樹の根に絡みついているのは、まるで色とりどりの鉱石の板を貼り合わせて繋げたような、奇妙な結晶質の蔦。クルルの明かりが小さく揺れるたびに、その光を受けて赤から青、緑や黄色といった色に輝きが変化する。神秘的と表現するにも異様に過ぎる、自然物であることを認めがたい見目であった。

     

    「そっか……」

     

     小さな納得が、口からこぼれた。
     桜降る代を巡った今のヤツハには分かる。地面より突き出したその樹の根は、かつて神座桜であったものの一部なのだろう。もはや見た目にも温もりはなく、あのとき周囲に散らばっていた桜花結晶と思われる小さな欠片も残っていない。枯れた大樹は、凍てつく大地の礎としてここで静かに眠り続けていたのだ。

     

     そんな樹の根本で、ヤツハは目覚めた。
     そして今、真実を求めて帰ってきた。
     私は誰なのか――あのときは名前以外に何も答えられなかった疑問に、今度こそ、はっきりと解答を与えるために。

     

    「ここです。ここが、私の知る最初の場所です」

     

     目的地に辿り着いたと、同行者に告げる。声の反響も収まって再び訪れた沈黙の中、ハツミの驚きの声が口に出さずとも伝わってくるようだった。

     

    「おぉ……」

     

     クルルが感嘆を漏らしながら、部屋の入り口の脇に明かりを置く。彼女たちには十全に照らされた空間には、やはり樹の根と蔦以外には何もなく、訪れた者は否応なしにソレと向き合うことを求められてしまう。
     けれど、ヤツハにはそれが、かえって決意が鈍らなくて済んだと思える。

     

    「これがウワサの……ではではやつはん」
    「……はい」

     

     きらきらと輝くクルルの瞳に、はにかんで応える。
     けれど、一歩前へ出たところで、ハツミの切なげな声が袖を引く。

     

    「あ……」

     

     ヤツハへと伸ばそうとした手を、途中で留めていた。事ここに至って、自分でも抑えきれなかったとでも言うような沈痛な面持ちで、その手を反対の手が捕まえていた。
     その顔を突っつけば、不安が中から飛び出してきそうなほど、ハツミはヤツハへの心配を露わにしていた。その瞳には小さく期待も宿っていたものの、クルルと比べたら水面に映る月光のようにおぼろげであった。

     

     ハツミはこの場に相応しくない自らの不手際をごまかすように、苦笑いをして今度こそヤツハを送り出す。こくり、とヤツハはそれに、自信の宿った笑みを浮かべて応える。
     とつ、とつ、と湿った足音と共に、部屋の奥へ。
     ヤツハの身体が明かりを遮っても、奇妙な蔦は、影の中でその独特な輝きを放ち続けている。

     

    「……ただいま」

     

     膝を折り、根の這った地面を指先が撫でる。
     間違えることはない。まさにこの場所で、ヤツハは目覚めを迎えた。あらゆる感触が、帰り路の終わりを告げていた。
     何もかもを失くしていた自分が、今度はここで、それを取り戻す。

     

     そのためにどうすればいいかは、もう分かっている。
     瑞泉でできなかったことを、もう一度。皆の前で――

     

    「…………」

     

     そっと、歪に輝く蔦へと手を伸ばす。
     どういった感覚かは、前にハツミに教わったものを参考に。
     けれど、何故だろう。ヤツハはそれを、もっと前に知っていたような気もしていた。

     

     そして、指先が蔦へと触れようかというそのときだ。
     小さくて、青白い光が、洞窟の中に生まれた。

     

     

    「……!」

     

     その冷めた光は、指先を中心として徐々に広がり、ヤツハを包み込むまでとなる。
     極大に至った輝きに、背後から耐えかねたようなうめきが聞こえる。けれどそれも、曖昧になった感覚の波に押し流されてしまう。

     

     自分が、この光に還元されていく。
     けれどもそれが、当たり前のようでもある。
     初めてなのに、どこかその感覚がすとんと胸に降りてくる。
     きっとこれが、あるべき場所へと帰るということ――

     

     

     

     


     光が消えたとき、どさり、とハツミが膝から崩れ落ちた。
     あの夜空から産み落とされたような人の形は、跡形もなく消え去っていた。

     

     ここにはもう、ヤツハはいなかった。
     神座桜に還った――のではない。
     二柱の視線の先で、ヤツハが還っていった奇妙な蔦が、異質に輝き続けていた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     ……………………、
     …………………………………………、
     …………………………………………………………。

     

     ……そうだね。彼女はこうして、還りついたのだろう。
     これで彼女の旅は終わり。すべてが納まるべきところへ納まり、彼女は暖かく迎え入れられる。そうであれば……、そうなるのであればカナヱもそれが望ましいと思うよ。

     

     ……………………、カナヱは、わからない。
     彼女が……ヤツハがこれからどうなるのか。彼女が何者なのか。カナヱは、知らないんだ……。
     カナヱは…………、

     

     …………いや、すまない。

     

     こうして彼女の旅を見届けた今、カナヱたちにやり残したものはないはずさ。
     ふたつの舞台へ、目を遣ろう。
     先の幕引きで伝えた通りだ。一方は彼女らの円舞から僅かに数日後。手の中に輝く欠片の物語。もう一方は……、東の海の物語から数か月後にして、先の舞台よりは過去の話。海を越えた先での、一大事。

     

     行こう。カナヱたちは、ただ見届けるだけなのだから――

     

     

     

     

     

     

     

     


     古鷹という街は、その来歴からして、顕現したメガミをしばしば見かける都である。特に近年では、前当主が凶刃に斃れた折、メガミ自身が幼かった現当主に代わって政に関与していたほどだ。

     


     その現当主たる古鷹天詞は、二柱のメガミに直々に教育を施されていたほどであり、メガミと対面するのも慣れていたはずだった。

     

    「…………」

     

     だが、と表情には出さずに、久方ぶりの畏れを呑み下す。
     古鷹の屋敷、その奥まった場所に位置する広間では、空気が静かに張り詰めていた。火急の事態ではなく、喧騒も対立もない。それでも、平時とは明白に異なる気配が屋敷を包んでおり、その近寄りがたい緊迫感はあえて人払いをする必要すらなかったかと思わせるほどである。

     

     その空気を生み出している原因は、いっそ壮大とも言える光景が物語っている。
     この部屋には今、四柱ものメガミがおわしている。
     それも、観光やら言伝やら、ひいてはただ顔を出しに来たとか、そういった安穏とした理由ではなく、確かな目的の下に集っている。それがどれほど心臓に悪いことか理解しているつもりだったため、隠居間近の仲小路は同席させなかったが、天詞が何度認識を改めたか分からない。

     

     何より、己が世話になったメガミの変容を目の当たりにしてしまえば、彼女たちが具体的にどのような意思を抱いているかなんて二の次である。
     そこには、以前よりも桜色の淡く、ところどころ霜の降りたような装いに身を包むトコヨの姿があった。口元にあてた扇も青ざめたような色合いに染まっており、今から幽鬼でも演ずるのかといった風情であった。

     

     さらに目線だけ動かしてあたりを見渡すと、同じく新たな装いのサイネ、こちらは変わりないチカゲと見える。
     そして――

     

    「ここに皆を集めたということは、事情を説明していただけると期待しておりますの」

     

     四柱目のメガミとしてここに座す、ミズキが端を発した。
     先における稲鳴での一件からこちら、古鷹に留まっていた彼女は、トコヨとサイネの変化を改めて間近で眺め、衝撃を禁じ得ていないようだった。

     

    「だって、その姿は……」
    「ええ、話すわ」

     

     ゆっくりと、トコヨが扇を閉じる。
     彼女の声色に差した恐れの色が、天詞の心を捉える。まるで、来る舞台の山場を想起させるかのように。

     

    「あたしと細音に――そして、向こう側に何があったのかを」

     

     

     

     

     

     


     遠く東の海の果て。異邦の地、ファラ・ファルードの一角は、騒然とした空気に包まれていた。
     詰めかけた民衆を、鎧兜を纏った騎士たちが押し留めている。けれどここに集ったのは暴徒というわけではなく、怒号や暴力の類もほとんど存在しない。貪欲に情報を集めようとしている記者たちですら、騎士たちが示した警戒線に必要以上に近づくこともしない。

     

     野次馬たる彼らの中で飛び交うのは、根拠のない推測や絵空事。
     曰く、八ツ空の神が降臨する前兆である。
     曰く、これこそが彼の地より与えられた真なる恩寵である。
     曰く、人には過ぎた力がついにこの国を滅ぼす。
     興奮や不安を煽るような内容ではあったが、それでも破滅的な混乱が訪れる様子はない。それらが憶測であると理解しているというより、無駄に騒ぎ立てれば決定的な何かが起きてしまうと直感しているようだった。

     

     そんな人だかりの生まれた郊外に、あたかもここが桜降る代であるかのようにコールブロッサム――否、神座桜が堂々とそびえ立つ。
     以前は家屋と肩を並べるほど成長したことが問題になった、その桜。
     今やその姿は、見上げれば首を痛めるほどに、より巨大なものとなっていた。

     

    『皆をもっと下げたほうがいいかしら』

     

     桜を囲む群衆の一部に、そこだけ人が避けたようにぽっかりと空隙が生まれている。サリヤはそこで乗騎ヴィーナに腰掛けながら、この国の言葉でひとりごちた。傍ではジュリアと佐伯も同様に、この異常な光景への思案を続けている。

     

     問題が起きたのは今日の早朝のこと。彼女たちが今注視している桜が、薄く発光を始めたとの知らせが一同を騒然とさせた。

     最初に現場から報告を受けた下級貴族は、当初昨晩の酒が残った連中の見間違いだと思ったという。ただ、彼が仕えるのは、コールブロッサムの管理を担うクラーヴォ家である。使命に従って急行した彼は結局、幹まで光る桜を目の当たりにして大慌てで使いを出し、各所の知るところとなる。

     

     サリヤたちが駆け付けた頃には、騒ぎを聞きつけた人々が既に集まり始めていた。幸運だったのは、ファラ・ファルードの民には理由なくコールブロッサムに触れないという意識が根付いていたことだ。コールブロッサムは貴族の管理下にあり、万一が起きては処罰の対象となる。それゆえ、退避させるのも容易であった。
     それから数時間に亘り、こうして観察を続けている。桜が放つ光は収まるどころか徐々に強まっており、昼下がりを迎えた今、陽光をおしてなお眩さを感じるほどである。

     

    『長丁場も覚悟しなければならないことを考えると、早々にお帰り願ったほうがいいかもしれないな』

     

     そう答えながら、佐伯は臨時に供させた工場の樽椅子に腰掛け直す。彼らのすぐ後ろでは、やって来たはいいもののできることがない貴族たちが、固唾を呑んで見守っている。工場を臨時の基地にする案もあったが、万が一を考えて既に閉鎖した後だった。

     

    『少なくとも、彼らを守るのに身動きが取れなくなるのは避けたいところだ』
    『そうね……みんなとなると私にも荷が重いわ。どれくらい想定するかにもよりそうだけど、付近一帯からの避難もそろそろ考え始めたほうが――』

     

     サリヤはそこで、背後でひときわ大きくなった喧騒に言葉を切った。
     振り返ると、一点を境に人の波が外側へと広がっているようだった。まるで言われるがまま考えなしに何かを避けているようで、生まれた歪みで群衆が押し倒されないか心配になる。
     しかし、窮屈さへの憤りだけではなく、歓声が混ざっていることにサリヤは気づいた。

     

    『道をお開けください! 我々に、神との対話をお許しください!』
    『彼の地の神がお通りになられます!』

     

     張り上げられた声が、ついには人の壁を割った。
     現れた僧衣の集団は、この国に八ツ空の神々の教えを広めるフェラムの司祭たち。その先頭に立つのは、帽子からはみ出した禿頭を輝かせる最高司祭テルメレオその人である。

     

     さらに、生まれた人の道の向こうで、馬車から降りた女の姿を見てサリヤは安堵した。裾を摘んで駆け寄ってくる彼女へ、人々が熱心に祈りを捧げている。簪で留められた後ろ髪からは、結いが甘いのかはらはらと肩にこぼれ落ちていた。
     現れたユキヒが、道を作ってくれていたテルメレオに追いつくと、

     

    『すみません猊下、わざわざ送っていただいて』
    『い、いえいえ。彼の地とこの国の友好のためには喜んで。それに、これはファラ・ファルードとしても一大事となるやもしれない事態なのですから』

     

     汗を拭いながら答える彼は、呼びかけてくる民衆に会釈をかわす。
     熱心な記者たちは重鎮の登場を受けてここぞとばかりに質問を浴びせてくるが、騎士たちにさらに後ろへと追いやられていった。そろそろ何かしらの発表をしないと無謀な行動に出られかねない、とサリヤはため息をつく。
     幸い、輪の中に入ってきたユキヒは、今この国に居る中で最も桜に詳しい存在のはずだった。判断のための役者がようやく揃った形となる。

     

    「ああ、サリヤ。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
    「とんでもない! こんなに早く捕まるとは思ってなかったわ。来てくれてありがとう!」

     

     得られた心強さに感謝するように、サリヤはユキヒを抱き留める。
     遅参したユキヒへ軽い情報共有を行ったが、その場でずばりと原因を言い当ててくれるということはなかった。
     その代わり、彼女の足はふらりと桜へと近づいていく。
     空白地帯へ現れた人影に、民衆が一瞬沈黙を生み、また喧々諤々と音を作っていく。

     

    「この光、まるで私たちが……」

     

     その呟きが、付き添ったサリヤの耳を掠める。
     そして輝ける大樹の傍まで辿り着いたユキヒが、一呼吸の後、目を見開いて桜を注視する。サリヤはそこに確かな力の脈動を感じ、縁を辿る権能によってユキヒは今、この神座桜の異常を彼女なりに紐解こうとしているのだと理解した。

     

     果たして、ユキヒが何かを視て取るまでに、そう時間はかからなかった。
    ただ、その結果がもたらしたのは、困惑と混乱であった。

     

    「なに……この、縁……?」

     

     ユキヒの口から、動揺が漏れる。桜が発光している以上に不可解なものが、彼女の目に映し出されているようで、焦りと共に黙考を始める。

     

    「ユキヒ……?」

     

     不穏な態度に思わずサリヤは名を呼ぶが、返答はない。
     やがてユキヒははっとしたように周囲を見渡し、次いでサリヤへ、さらに観察と待機をしているジュリアたち貴族へと目を向けた。
     そして、切迫した様子でユキヒは訴える。

     

    『周りの人たちを、もっと遠ざけて!』
    『……!?』
    『何かが……縁を辿って、ここに近づいてきてる!』

     

     彼女の警告が何を意味するのか、真に理解できた人間は稀であった。だが、人々の上に立つ存在として、意図を呑み込んだ貴族の動きは早かった。
     最初に反応したのは、以前サリヤ解放の一助となった、この国の法の一端を担うアルトリッド卿であった。控えさせていた騎士を急ぎ避難誘導へと向かわせたところで、テルメレオもまた連れの司祭と共に動き出す。さらに遅れて、手持ち無沙汰にしていた他の貴族たちも弾かれたように臨時の詰め所から飛び出していった。

     

     サリヤは先んじてジュリアの下へと戻り、ヴィーナを嘶かせて警戒態勢に入っている。その背後で佐伯も自前の鉄爪に手を伸ばしているが、彼もまたユキヒの言わんとすることを介した者の一人だ。歯噛みしながら、己をジュリアの盾としていた。
     不幸なことに、喧騒に紛れたために危険を察知した民衆は少数派であった。貴族たちの動きにざわめきの方向性は確かに変わっていったが、背中を押す危機感が全く足りていない。

     

    「どういうこと……」

     

     桜の前に残されたユキヒが、渋面のままに零した。
     彼女が今、目の当たりにしている縁は、何処からかこの神座桜へと結ばれたもの。だが、ユキヒでもってしても、その縁がどういったものであるか、良し悪しからして全く分かっていなかった。あまりの不可解さに、もう一人の自分と頭の中で議論を交わしていたほどだった。

     

     ただ、正体不明の縁であっても、その結びつきは視えてしまう。何にも染まっていない白い糸ですらなく、あることだけが分かる透明な縁の糸が、か細く伸びている。
     その糸は最初、神座桜から先には繋がっていないものだと彼女は思っていた。
     だが、

     

    「っ……!?」

     

     伸びた糸の先を視て、ユキヒは驚愕する。
     その先が結びついていたのは、紛れもなく自分――ユキヒ自身であった。
     縁を手繰られる手応えが増していく。
     何者かが、彼女を足がかりに急速にこちらへ――

     

    「急いでっ!」

     

     それに気づいて叫んだのと、臨界はほぼ同時だった。
     神座桜の放つ光が、陽光を塗りつぶすほど強烈に放たれる。
     眩さが、その場に居た者全ての目を焼いた。

     

     

     

     

     


     コールブロッサムの採集場には、目を刺す光にやられた人々のうめき声が広がっていた。慌てて逃げようとしたためか、民衆の一角がばたばたと倒れており、怪我人も出ていそうだった。
     けれど、貴族たちや騎士たち、果てはメガミでさえも。
     無事な者は誰もが皆、言葉を失ったように、その一点に目を奪われていた。

     

    「…………」

     

     光は絶頂を越え、残光を煌かせるのみとなった神座桜――その根本には、今までなかったはずの人影が三つ。そのどれもが、この国の民、否、桜降る代の民を含めた人間とは明らかに異なる装いに身を包んだ、女のものであった。

     

     

     三人の中心にいるのは、新緑を思わせる色合いの装いに身を包んだ少女。彼女は安堵したように息をついて、地面についた棒状のもの――唐棹と思しき道具に体重を預けていた。唐棹はそれ自体が生きていると示すかのように、ぴょこんと葉が生えている。柳のように垂れ下がった彼女の長いもみあげが、異邦の風になびいていた。

     

     右隣で伸びをしているのは、肌にぴったりと張り付くような黒の肌着も露わにした少女。快活さを醸し出す彼女だが、十代も半ば過ぎと見受けられる年頃としては、顔立ちに残る幼さは僅かなものだ。腰に提げた荷からは、金槌や火箸といった鍛冶に用いる道具が飛び出しており、左腕に袖を通しただけの着物がその荷に引っかかって揺れていた。

     

     そして最後の一人は、背後の宙に白と黒の勾玉を従えた黒髪の女。四肢にはまるで拘束具であるかのように立派な腕輪と足輪を嵌めており、表面には衣服と同様に曲線的な古めかしい文様が刻まれている。その中で唯一、人に理解できる五対の桜の花弁の意匠が、神座桜との関係性を示しているようである。

     

    「え……」

     

     彼女たちの出現を最も近くで目の当たりにしたユキヒは、混乱の最高潮にあった。
     けれど、一歩、二歩、と縋るように寄ろうとした彼女は、この場で最も、確かな驚愕に身を焼いていた。

     

     自分の良く知るメガミが、ここに現れた。
     ユキヒが間違えるはずはない。なのに、普段とは雰囲気から何まで異なっている。
     思わず、彼女はそのメガミに呼びかけていた。

     

    「ハガネ、ちゃん……?」

     

     そのメガミは、いきなり名を呼ばれたことに驚いたように肩を震わせた。
     そして彼女もまた、ユキヒに目をやり、同じように言葉を返す。それは、手繰った縁の糸の正体を推し量るかのようだった。

     

    「ユキ……ねぇ……?」

     

     鍛冶道具を携えた栗毛の少女と、互いに困惑をかわしあう。
     知っているはずの相手なのに、違う。違うはずの相手なのに、知っている。
     そんな己の記憶や感覚とのずれから生まれた違和感が、二柱に次の言葉を失わせていた。

     

    「あのー?」

     

     そんな中、中心に立っていた新緑の少女が小さく手を挙げる。
     様子を窺いに出てきたサリヤと、どちらに問えばいいのか迷うようにひょこひょこと首を動かすと、

     

    「ここ、ファラ・ファルードで合ってます……?」
    「え、ええ……そうだけど」

     

     少女に合わせて桜降る代の言葉で答えたサリヤも、密かに混乱を強める。
     ユキヒと顔を見合わせたサリヤは、答えた代わりというように、半信半疑ながらも問いを差し向けた。

     

    「この桜は、あなたがやったの?」

     

     以前シンラが言っていたように、メガミであっても桜を急成長させるなんてことはそうそう叶わない。いくら近年の桜の活性化に原因を求めるのも限界だとはいえ、実行可能な存在からして居るかどうかも分からないのだ。
     故に、この現象が危険を孕んでいたのか、心当たりを問うだけのつもりであった。
     もしも彼女たちがメガミであるならば、神座桜から現れることそれ自体については、この地で前例がないことを除けば当たり前のことなのだから。

     

    「う、うおわっ!?」

     

     指されて振り返った少女は、後ろで聳えていた桜の威容に跳び上がるほど驚いた。杖にしていた唐棹を盾にするように隠れて、先端の棒をのれんのように持ち上げて恐る恐るその光景を眺めている。
     その態度は、桜の巨大さそのものに驚愕しているというよりは、自分のしでかしたことが思ったより大ごとになっていたといったほうが、似つかわしかった。

     

     ややあって、周囲の困惑に気づいた少女は、気を取り直すように咳払いを一つ。
     姿勢を正した彼女は、成果を前にほんのり気取った様子を見せる。

     

    「うん。この桜はね――」

     

     少女は、サリヤの目をまっすぐ見て、投げられた疑問へと答える。
     だが、少女の言葉は、ただ肯定するだけでは終わらなかった。

     

     そこで告げられるのは、共犯の名。
     サリヤたちメガミにとって、その名は重い意味を持つ。
     そして同時に――その名の持ち主は、失われていたはずだった。

     

    「こちらのヲウカ様と……あたしの権能によるもの、だよ」

     

     少女に指された黒髪の女が、サリヤたちの驚愕など素知らぬように、ただ静かに佇んでいた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     ……彼女は…… 瀧河希 たきがわめぐみ は、受け継いだ。
     その想いを。決して失わぬように。
     困った子だけど、だから私も救われたのでしょう。

     

     

     

     

     

     

     

     


     願わくは、その掌の温もりが、どうか零れてしまわぬように。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     降りた夜の帳は、神座桜の異変の収束を物語る。あれほど眩かった光は、地平の彼方へ沈んでいってしまったかのように、今は寡黙な樹皮を晒すのみとなっている。
     現場となった採集場は引き続き閉鎖されており、騎士たちもとうに撤収していた。常駐している警備兵も、昼間の騒動で心身共に疲れ果てたのか、一息つくのに座った木箱の上で、こっくりこっくり船を漕いでいる。

     

     だから、こんな深夜に、優しく輝く神座桜を見る者は誰もいなかった。
     だから……それを目撃した者は、誰もいなかった。
     沈黙していた樹皮の一部が、淡く桜色の光に包まれる。
     そして、

     

     ずず……、と。

     この世界をまさぐるように、桜から現れたのは手だった。
     病的なまでに白い、ほっそりとした女の手。
     月と桜の光に照らされて、透き通るようなその肌は幽鬼のように幻想めいていた。

     

     その手が、がしり、と光に還っていない樹皮を掴む。
     それはまるで、忌むべき場所から這い出す亡者のようで、見咎めるべき生者は、ここには誰もいなかった。

     

     

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