『八葉鏡の徒桜』エピソード6−6:彼女にとっての挑戦と超克

2020.07.28 Tuesday

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     白のみが支配する極寒の地に、宵色をした一輪の花が咲く。冷厳なる山々に見下される大雪原は、人々の目が到底及ばない不変の聖域である。耳をただ苛むような吹雪の音が鳴り響く中、ヤツハに付き添っていた二つの足音も遠ざかっていった。

     

     背中を押す声援もなければ、見守る視線すらも雪煙の向こうに呑まれてしまう。けれど、それに物寂しさを感じても、不安を覚えることはなかった。
     帰り路で見続けてきたのは、誰かの背中ではない。
     自らが求めた、ここよりも一歩先にあるかもしれない答え。
     それに手を伸ばし続けてきた彼女は、凍てつく大地に一人立つ。戦わなければいけないのは、相対する北限の主から刷り込まれた恐れだけだった。

     

    「…………」

     

     互いに握りしめていた両手を胸に寄せる。己の内にある想いを手の中に移すように幾許か念じると、冷めきった世界へとヤツハはそれを解き放つ。
     生じたのは、三片の桜色の輝きだ。肌を切り裂く吹雪にも負けず、ひらりひらりと彼女の周囲を漂う盾となる。これと同じものを分け与えてくれた神座桜は、この場に存在しない。メガミではないらしい己に力が注がれる理由すらも分からないけれど、今はただ、勝利の果てにある自分自身を見つけるため、その温もりに身を焦がす。

     

     故に、再び踏みしめた氷の大地にて、ヤツハは揺るぎない眼差しを形作る。
     そして彼女の声は、見届ける者のいない舞台へと確かに響いていった。

     

    「ヤツハ。桜降る代に、決闘を」

     

     

     

     

     


     踏み出した足が、固い雪をゆっくりと噛みしめる。宣言と共に、最初に動いたのはヤツハであった。
     彼我の間合いを意識し、推し量る。それでいて、確かに前へと進む――青雲との闘いを経た今、彼女の立ち回りには明確な理があった。心構えもないままに距離を詰め切られ、慌てふためいていた往時の姿はどこにもない。

     

    「…………」

     

     黙して機を窺う彼女の手中には、既に鏡の怪物の手綱が握られていた。いつその力を振るうべきか、未だ泰然と構えるコルヌに対して見定めようとしている。
     コルヌが戦う様を見たのは、洞窟での目覚めの直後、その一度きり。覚えているのは、宙を舞う氷の刃と、滑走から繰り出される蹴撃、そして全てを凍てつかせる大吹雪である。最後の暴力的な権能はともかく、基本的な間合いはそう遠くないと踏んでいた。

     

     ここならば、まだ攻められないはず。相手の靴底に設けられた氷の刃を見やりながら、事前の予想と肌身で覚える実感の囁きに耳を傾ける。
     果たしてヤツハの読みは正しく、間合いは静かに詰まり続けるのみだった。コルヌの険しい顔つきが目前に迫れば迫るほど、威圧感に跳ね除けられそうになるけれど、それこそが見えない鍔迫り合いなのだと経験から知っていた。

     

    「はぁーっ……」

     

     深く、躊躇いを追い出すように息を吐く。
     気を整え、押し付けられる不可視の得物に怯むことなく、さらに前へ。
     確固たる意思はヤツハの瞳に宿り、その意気は彼女の勝利を確約するかのよう。吹雪に抗って周囲に漂う桜の霞も、桜花結晶が道行きを祝福しているようだった。

     

     彼我の間合いの境界が、ここにある。
     決意と共に踏み越えた一歩が、交戦の合図となった。

     

    「はあぁぁっ!」

     

     気炎を上げ、前のめりになって鏡を顕現させる。その全てが形作られるのを待てなかったとでも言うように、星空色をした怪物の咢が弾かれたように飛び出していった。

     

    「……ほう」

     

     開いた大口は、狙いを過たずにコルヌの肩口へと食らいつく。彼女はそれを避ける素振りすら見せず、微かに甘い微笑みを浮かべて結晶の盾をあてがった。
     しかし、守りを噛み砕いた咢はあくまで先陣。役割を終えて退いたそれの陰から、氷山をも切り裂きそうな巨大な爪が姿を見せる。間断なく振るわれていたその一撃は、容赦なく相手を貫くことだろう。

     

    「だが――」

     

     コルヌはそれを否定する。
     初撃に対し浮かべていた表情もまた、自ずとかき消して。

     

    「まだ甘いッ!」
    「……!」

     

     あの笑みが、北限の守護者に湧き上がる。
     喝破を皮切りに、ヤツハの知る冷厳で加虐的なあの笑みが、微笑みに取って代わった。
     瞬間、コルヌの纏っていた気配が一気に変わり、彼女の発した威風が凍土を遍く揺らした。場の空気もまた、その一粒一粒が刺々しい氷柱に変貌したかのように塗り替わる。

     

     ヤツハの送り出した大爪は、コルヌの冷気を間近で受けたせいか、ぴきりぴきりと端から音を立てて凍りついていく。爪の持ち主たる怪物が仮に声を上げられたとしても、その断末魔を響かせる前に全身を氷塊に変えられてしまうような、自然を超越した猛威をヤツハは目の当たりにさせられる。
     やがて元あった勢いも失われ、氷像と化した爪先がコルヌのこめかみ三寸ほどで止まる。彼女がそれを裏拳で軽く払うと、先端のほうからぼろぼろと砕け始めてしまった。

     

    「くっ……」

     

     これこそが、メガミへの挑戦。
     コルヌの試練とは、全身を切り裂くこの北限の寒風そのものに他ならない。
     壮絶な光景に苦境を改めて自覚するヤツハの前で、人の形をした氷雪が口を三日月に歪めていた。

     

     

     

     

     


     ばら、ばら、と。いっそう強く吹雪いてきた決闘の場に、ヤツハの攻撃の意思だったものが転がり落ちる。重くなった雪は舞い上がることなく、砕けた怪物の爪は氷ごと宙に溶けて消えていった。
     いっそ冗談じみた方法で攻撃を止められたヤツハであったが、強まる冷気は繰り出した怪物の身体のみならず、使い手たるヤツハ本人にも襲いかかる。息をするだけで胸が痛くなるほどの寒さが、彼女を芯から凍てつかせていく。

     

     伴っていた気迫すら萎れるような変化に、次の一手への動きを作れない。
     けれど、始まってしまった試練に待ったをかけることはまかりならない。

     

    「行くぞ?」

     

     吹雪に犯される耳が、若干の愉悦を孕んだ囁きを捉える。
     直後、コルヌとの間に横たわっていた間合いが、靴底の氷刃に切り裂かれた。

     

    「っ……!?」

     

     急激に腰を折った前傾姿勢からコルヌが踏み出し、次々と生まれる氷の道の上を一瞬で滑走してくる。普通の走りとは異なり、体勢の変化に乏しいその動きは、時間を切り取ったかのような至近を彼女に叶えさせる。
     そして十全に速度が乗ったところで、そのまま宙へと滑っていくように右脚を蹴り上げた。足先が素早く描いた軌跡は、無駄な予備動作に澱むことのない流麗なものであった一方、すらりと伸びた脚が生み出す斬撃は巌を断ち割るほどに力強い。

     

     ヤツハは胸元めがけて繰り出されたその剣閃を、守りの結晶を咄嗟に差し出すことで辛うじて逸らす。しかし、薄い刃一本だけで立っているはずなのに、コルヌは蹴り足を弾かれようとも姿勢を崩すことはなく、そのまま舞い踊るように背後へと回られる。
     慌てて振り返れば、剣舞の締めとばかりに、コルヌが足元に横たわる雪たちを猛然と蹴り上げる。大波となった雪が、礫のようにヤツハへ叩きつけた。

     

    「きゃぁっ!」

     

     鋭い蹴撃に比べれば、威力そのものは肌身でもまだ耐えられる領域にある。けれど、頭から被った雪は、コルヌの意思を孕んでいるかのように急速にヤツハから温度を奪っていく。

     

    「い、っ……!」

     

     右のふくらはぎに、結晶で殺しきれない痛みが走った。雪塊が鋭い刀子となって、ヤツハの柔肌を傷つけていたようだった。
    切り裂かれた脚が、直接見るまでもなく凍りついていくのが分かる。ますますぎこちなくなっていく身体の動きに、結晶の力を充てがってでも体温を取り戻す必要性を頭が訴えていた。
     しかし、それを容易く叶えさせてくれるほど、コルヌは甘くない。

     

    「かかかっ!」

     

     高笑いと共に、渦巻く冷気がヤツハを包み込む。凍える風が、肌に残っていた温もりを奪い去るように吹きつける。
     反射的に身を丸めてしまった己を胸中で叱咤し、翻弄してくるコルヌを正面に捉える。しかしその最中にも凍えた脚は満足に働かず、気を抜けばそのまま膝を折ってしまいそう。そのまま動けなくなった身体に雪が降り積もる様すら脳裏によぎる。

     

     コルヌの武器は、この極寒の大地そのもの。雪煙に紛れた氷刃という直接的な脅威だけでなく、場を支配する零下の息吹が戦意ごと挑戦者を凍りつかせてしまう。青雲も戦場に広げた影から捉えどころのない技を使ってきたが、大気に満ちる攻撃など到底捌ききれるものではない。
     さらに、寒さに麻痺した感覚ではうまく桜の力を巡らせることもできず、それが極寒への備えを失わせる悪循環が瞬く間にできあがっていた。

     

    「ぐぅっ、うぅ……」

     

     足はすくみ、手はかじかむ。心はもう枯れそうになっている。
     歯を食いしばり、必死に耐えようとしても、大いなる自然から温情を与えられることはない。冷酷な凍土は、己に相応しくない者に宿る体温全てを奪わんと、どこまでも残酷に永久の眠りへと引きずり込もうとしてくる。

     

     それこそがコルヌの務めであると、理解をしている。
     再び足を踏み入れた汝は如何ほどの存在なのかと、理不尽なまでに試された旅人が、何人もここで膝をついてきたのだろう。そして今、ヤツハもまたその旅人たちの中に並べてやろうと、守護者は使命に忠実に従っている。

     

     だが、それでもヤツハは負けられない。
     たとえ自分が何者であろうとも、己はここにいる。
     答えへ手を伸ばすこの意思だけは、本物なのだから。

     

    「く、ぅあぁぁぁっ……!」

     

     故に、吠える。か細くとも、自身の存在を訴えるように。
     霜を払い落とすが如く、心を奮わせたヤツハ。彼女の想いは未だ熱く、心は力を帯びていく。

     

     身を縮めたまま、その確かな決意を示すよう、鋭い視線がコルヌを射抜く。
     力の所在も、力の正体も何もかもが分からない中でも、彼女の魂だけはここにあった。


    「む……!」

     

     生じた現象と、向けられた意気に、コルヌが初めて怯む。
     彼女が纏っていた桜花結晶が二つ、主の動揺にあてられたかのようにふらついたかと思えば、吹雪に乗ってヤツハの下へと離反していった。確たる魂こそが我々の寄る辺だとでも言うようで、桜霞の形となって彼女の力の一端と化す。
     その様子はまるで、コルヌの身から分かたれた結晶に対し、ヤツハの意思が己の存在を認めさせたよう。

     

     だが、それでもコルヌは試しの手を緩めない。
     最後まで相手を見定めることこそ、彼女が持つ役割である。
     それに従うは、冷厳なる彼女の意思なのだから。

     

    「それで終わりか!?」

     

     再び作られた滑走の動きは、ヤツハを中心とした円を描く。立ち上る雪煙を吹雪が乱し、機を窺うコルヌの足元を隠していく。怪物の暴力を警戒しているのか、靴底の刃が氷を削る音が、間合いの外で威嚇するように嘶いている。
     そして彼女は、一段と鋭く吹いた寒風に乗って、ヤツハへと向かう速度を一気に纏った。
     氷刃の円舞を再演せんとするその身から、槍のように鋭い蹴撃が放たれる。

     

    「いいえッ!」

     

     対し、ヤツハは意思をぶつけ返すように叫ぶ。盾となった鏡が、猛進を成したコルヌを映したままに輝きを放つ。
     一つの瞬きの後、光に隠れた鏡面から、星空で形作られたモノが飛び出してくる。だがそれは、この世のものとは思えない怪物の一部などではなかった。

     

    「……!」

     

     驚きに眉目を吊り上げたコルヌの蹴りが、ソレの蹴りに受け止められる。
     現れたのは、人の形。それも、コルヌそのものの姿をした、星空の虚像。
     それは蹴撃の拮抗を先んじて崩し、反動を利用してコルヌの脇腹へと重い一撃を叩き込む。まるで攻撃という現象を照らし返したかのように反撃を成した虚像は、映し出すべき物を失って吹雪にかき消えていった。

     

    「か、ぁッ……!」

     

     虚を突かれた形となったコルヌだが、前のめりに体勢を崩しはしても、膝をつくことはなかった。試練を跳ね返したところで終わりではない。それは己の証明ではないと、暗に告げているようだ。
     だからヤツハは、さらなる先を求め、己が内に流れる力の奔流へと手を伸ばす。

     

     そこでふと、意識の指先に何かが触れた。
     そこには確かな違和感があり、この力こそ自身が望むものだという確信が生まれた。

     

    「ぁ……」

     

     

     それが、ヤツハの用いる鏡の一つであることは分かる。飼い慣らしたとまではいかないかもしれないけれど、瑞泉にて随分と親しんだ力を間違えるはずはない。
     それは、彼女に寄り添うように温かい。
     しかし心のどこかで、肌寒さも感じていた。

     

     鏡面の向こう側に、何かがいる。
     それは爪や咢を携えた、あの怪物なのだろうか。だが、この戦いの渦中ではそれを覗き見ることは叶わず、確信は得られない。
     強く意識を向ければ、そこには意識そのものを映し出すように、ヤツハ自身が映し出されているような感覚がある。

     

     ならばその怪物もまた、自分なのだろうか。
     鏡の向こう側にいる何かは、己の一部なのだろうか。

     

     分からない。
     分からないけれど、ここで前に進むために、今は――

     

    「貴様……!」

     

     コルヌの叱咤が、ヤツハの意識を己の外側へと呼び戻す。流れた刹那の時の中、コルヌは崩した体勢を無理に戻すことはせず、追撃の機会に彼女から意識を外していたヤツハへと至近を選んでいた。
     助走の短さから来る威力の不足を補うよう、コルヌは一拍遅らせてでも身体を一回転。旋回によって生み出された勢いが、鞭のように鋭い蹴撃を実現させる。

     

    「ぁぐっ……」

     

     靴底の鋭利な刃が、ヤツハの身体に真一文字を刻み込む。
     その痛みに反応するかのように、鏡の中で怪物が暴れ狂うのがありありと分かる。夕羅をしてでたらめな力と言わしめた、制御不能の暴虐が喉まで出かかっているよう。
     しかし今、ヤツハがその暴力に呑まれることはなかった。
     鏡の向こう側から、もうひとりの自分が手を合わせてくれるような感覚が、彼女を後押ししてくれる。

     

    「力を……!」

     

     呼びかけに応じ、鉤爪のついた無数の腕が鏡から解き放たれる。
     以前はヤツハ諸共その場の全てを破壊せんとしていた恐るべき怪物たちは、蹴撃の残身もそこそこに駆け抜けていこうとするコルヌに殺到する。

     

    「ちぃッ……」

     

     空間を蹂躙する複雑な軌道と密度に、彼女は早々に回避を諦めたようだった。苛立ちと苦悶を漏らしながら、大量の桜が噴き散らされていく様を、嵐が過ぎ去るまでじっと待つように身体を丸めて耐え忍んでいた。
     ヤツハの中に残っていた、自分の力への恐れ――その一端である、暴虐の象徴は今、彼女の意思と共にあった。正しく向けられた力以上に心強いものはなく、あの鏡の向こう側からひと奮いの気力を運んできてくれたようにすら感じられる。

     

    「舐め……るなァ!」
    「……!?」

     

     怨嗟の如き声が暴虐の嵐の中から聞こえたかと思うと、ヤツハの足元から急激に伸びてきた氷の茨が手足の自由を奪う。見た目の儚さとは裏腹に、かじかんだ手では引き剥がせないほど強固に絡みついている。
     そして視線を戻せば、鉤爪の輪から抜け出してきたコルヌが、身動きの取れないヤツハめがけてもう一度回し蹴りを放つ。

     

    「くぁ……っ!」

     

     受け流すことすら許されないヤツハを、鋭利な斬撃が切り刻んだ。吹き荒ぶ雪風に、身の内に宿していた結晶だったものが色濃く舞い散った。
     その時点で、暴れまわっていた怪物たちも星空へと還っていったように消え、いよいよコルヌが暴虐より解き放たれる。

     

     すれ違いざま、氷細工のような美しい指先がヤツハを指し示す。
     序盤とは打って変わって、熱を帯びた表情のコルヌが、最後の試練の名を叫んだ。

     

    「コンル……ルヤンペェッ!」

     

     轟、と大気が鳴動する。
     コルヌが背負っていた猛吹雪が、全てヤツハのいる一点へと向けられた。ただでさえ叩きつける雪が礫となっていたものを、極度の低温に晒された雪の粒はその多くが氷塊へと変貌し、間近から降り注ぐ横殴りの雹のようになっていた。

     

     これが、目覚めたヤツハを凍土へ封じようとした大吹雪。
     クルルの盾がない今、まともに喰らえば決闘の枠すら超えて、今度こそ北限の大地の一部と化してしまうかもしれない。

     

    「っ……、くぅ……っ」

     

     残された結晶の盾を酷使して、飛来する氷雨を弾いていく。一つ一つを目で追いきれるわけもなく、致命傷になりそうな鋭いものだけを取り除いてやることしかできない。必然、見逃した氷は傷を生まないまでもヤツハの体温をさらに奪っていく。
     永遠に感じられるような吹雪が弱まった頃には、彼女が自由に使える結晶は尽く塵へと還っていた。その代わり、ぽつ、ぽつ、と体内に存在する灯火は、儚くも消えずに残っている。

     

     だが、全ての守りを使い切ったその代償はあまりにも大きい。
     かちかち、と自身の口元から音が鳴る。余剰の力を失った今、凍えきった身体に焚べる薪はどこにもない。少し関節を曲げるだけで氷が割れる音すら聞こえてくるようで、茨が纏わりついたままだなんて関係なく、かじかんだ身体では一歩たりとも動ける気がしなかった。

     

    「ぁ……」

     

     まつ毛の凍った瞳が、間近で冷ややかな面差しを見せるコルヌを映す。
     怪物の暴威は、至近したままでは満足には振るえない。この間合いは、コルヌにとっての好位置でしかなかった。
     コルヌはもはや、直接手を下す必要すらなかった。臨界まで凍てついたヤツハの身体は、もはや崩れ落ちるのを待つのみ。このまま自然の脅威に屈するのを、いつものように見下ろすだけで良かった。

     

     それこそが、北限の守護者。
     そして、極寒という自然そのものの在り様。

     

     しかし――否、故にそれは、残された好機だった。
     コルヌが自然の体現者であり、そして意思を試す者だからこそ生まれる、最後の一手。
     これほどの窮地に追い込まれていても、ヤツハの瞳から意思が絶えることは、ない。

     

    「これ、で……」

     

     息も絶え絶えに、意思の断片が震える口からこぼれ落ちる。
     試練の終わりを迎えるべく、泰然と構えていたコルヌの前で、鏡が輝きを放った。
     瞬間、ヤツハの姿が蜃気楼のように歪む。

     

    「な……!」

     

     コルヌが見下ろしていたもの、それはヤツハの幻影。
     もはや怪物の力は及ばず、諸共に極寒に呑まれるのを待つのみという目論見は、虚像の奥に現れた本当のヤツハの姿によって砕かれる。
     決着の時を垣間見た怪物が、鏡の向こうから――

     

    「勝ち、ますっ……!」

     

     掠れていても、弱々しくても、それは勝利を呼ぶ魂の慟哭。
     打ち震えたコルヌの桜花結晶が、主をよそに霞へと散る。
     それごと間合いを喰らった怪物の咢が、踏み出し損ねた彼女を覆うように、大口を開けた。

     

    「ふ、はは――」

     

     最後に聞こえたのは、笑い声だった。それが、結末と、それに至ったこれまでを認めたかのようにヤツハには思えた。

     

     そして、ばくん、と。
     怪物がコルヌに頭から喰いつく。
     心なしか弱まった吹雪に、終局を告げる最後の結晶が、砕け散っていった。

     

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