『八葉鏡の徒桜』エピソード6−2:瑞泉で自分を探して(中篇)

2020.07.21 Tuesday

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    「…………」

     

     涼やかな朝の空気が肌を撫で、ぱちりと目が開いた。そのまま自分のいる世界を認識するように瞬きを繰り返すうち、残った眠気もすぐに消えていく。掛けていた薄い布団は、凍った夜の時間を朝の光が溶かしてくれたように一切の乱れがなかった。

     

    「んっ……」

     

     上半身を起こしたヤツハは、その襦袢姿のまま伸びをする。朝日はまだ昇って早々といった様子で、障子戸の向こうから漏れてくる光もまだどこか遠慮がちだ。
     部屋には特に調度の類はなく、ただ布団が身を寄せ合って敷かれているだけの、質素というのも憚られるような場所だった。右隣の布団は使われた痕跡がなく、左隣のそれは既に畳まれていた。

     

     ヤツハは温もりから抜け出すと、少しくたびれたその布団をてきぱきと畳んでいく。ついでに敷かれっぱなしだったものも片付けてしまうと、枕元に置いていたいつもの服に着替え、障子を開けて外の景色を眺める。
     緑もまばらな林の中に、彼女が身を寄せている神社は存在している。縁側から草履をつっかけて降りたところで、全容を容易に把握できてしまうような、そんな小さくて古びた神社だ。家主の言う通り、参拝客と顔を合わせることも滅多にない、静かな場所である。

     

    「ふぅ……――ん」

     

     その静謐さの中で深呼吸をしたヤツハの肩に、一欠片の桜花結晶が舞い落ちる。この神社にどこかよそよそしく寄り添う、こぢんまりとした神座桜が今日も穏やかな風にそよいでいた。

     

     この瑞泉の地に辿り着いてから、季節が一つ移り変わって久しいほどの時間が流れた。
     神社のある瑞泉の郊外はどこか時間に置き去りにされたような地域なだけあって、ヤツハが実感するよりも時は速く過ぎていく。時折港のほうまで足を伸ばせば、店先に並ぶ品々の顔ぶれががらりと変わっていることも珍しくはなかった。

     

     ここまで長く一つ所に留まったことはなく、桜降る代を巡る旅の日々が恋しくないかと言えば嘘になる。ただ、じっくりと一つ所を眺める機会がなかったこともまた確かだ。人々の暮らしの移ろいも、彼女の目には新鮮に映る。出かける際の変装用の着物も随分と着慣れてきて、衣替えの話をされたのがつい先日のことだ。

     

     今日はどう過ごそうか――花弁を大地に還しながら、ヤツハは一人思う。
     それを妨げたのは、彼女の名を呼ぶ声。

     

    「やっつはぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

     

     ばたばたと廊下を駆ける音の直後、竹を割ったような快音が響いた。
     開け放った襖から姿を現したのはクルルである。反動で閉まった襖と柱の隙間から頭だけ出したまま、表に出ていたヤツハにいっそう目を輝かせた。

     

    「あっ、おはようござ――」
    「次の実験始めますよぉ! まだまだ、調べること盛りだくさんなのですぅ!」

     

     たまに焦点が合っていない目をすることのあるクルルだったが、今は血走ってすらいて、興奮が彼女を突き動かし続けているかのようだった。
     そんな彼女にヤツハは苦笑いを浮かべながら、

     

    「あの……昨日も夜にやったばかりでは……」
    「一つ調べたらさらに十調べたくなるのがやつはんなんですから、立ち止まってる場合なんかじゃありませんよぅ!」
    「ですけど、くるるんさん全然寝てないんじゃ……」
    「でーたとお魚は新鮮なうちにさばぁく! とーぜんですぅ!」

     

     いくら心配したところで、受け流されるどこか真正面から粉砕されてしまう。とはいえ、この調子でずっといられても、とうまく窘められない自分にもやもやする一方、早く真実にたどり着くために協力したい気持ちもあり、ヤツハの中で争いが起こるのももはや日常だった。

     

    「でもその、青雲さんにもご迷惑ですし……」
    「アレはきっと分かってくれるでしょう……メガミの謎にさえ迫るこの実験の、尊い犠牲となることを……!」
    「ぎ、犠牲……」

     

     顔を少しひきつらせながら、ヤツハはそれ以上反論する言葉が出てこない。
     そうやって、対処に困っているときだった。
     突然、クルルが挟まっていた襖が開いて、その身体が後ろから押し出されたように部屋に転がり入ってきた。

     

    「むんぎゅ」

     

     果たして、廊下で蹴りの残身を保っていたのは、割烹着を纏ったハツミである。稲鳴から戻ってきた彼女が居る光景も、この神社で当たり前のものとなって随分と長い。

     

    「まったく、朝っぱらからなーに騒いでんですか。人様んちなんだから常識ってもん考えてくださいよ。ヤツハも困ってるでしょうが」
    「だってぇ……」
    「だってもへちまもありませんよ……。無理が祟って、実験続けられなくなっても知りませんからね」

     

     菜箸片手に説教するハツミ。それに、床から唸るように「ふぁい……」と不満げな肯定が返ってくる。
     ハツミは満足したように小さく微笑みながら、

     

    「さあさあ、朝ごはんができましたよ! 昨日の余った鱒で炊き込みご飯です!」
    「わぁ、楽しみです……!」

     

     期待に胸膨らませながら、ヤツハが縁側に上がる。ハツミが連れてきたのか、炊きたてのご飯と出汁の香りが微かに鼻をくすぐった。
     クルルも立ち上がり、両手でごまをすりながら廊下を行くハツミの後を追う。

     

    「おぉ……はつみんのおかげで、今日も真っ赤っかなご飯を食べずに済むと思うと……。うつろんの残した傷跡は深いのですぅ」
    「あはは……。ここのお料理は、その……少し危なかったですからね……」

     

     笑い合いながら、ヤツハは静かに襖を閉める。
     そうして閉ざされた部屋から望む境内に、自信なさげに佇む一本の神座桜。
     その根本では、真理を解き明かす者の生み出したいくつもの歯車が、解答への過程を示すように、かち、かち、と時を刻んでいた。

     

     

     

     

     


     黒く棚引く切っ先が、花弁を一片、刈り取った。
     切り裂かれた桜霞の奥に覗くのは、応手に歯噛みするヤツハの相貌だ。

     

    「……っ!」

     

     さらなる連撃を恐れ、自然と体重が後ろへ逃げる。眼前で見送った刃は影で編まれた大鎌のそれであり、鋭く振るった姿勢を残すのは青雲だ。
     彼は身なりこそ普段の作務衣姿のままだったが、箒からいっそ禍々しい得物に持ち替えているのみならず、背中から歯車を骨格とした一対の翼を生やしている。その奇異で威圧的な姿で踏み込んできた彼は、斬撃の手応えに納得するよう息を吐き捨てていた。

     


     しかし、ヤツハはそこで背後に一歩を刻むをよしとしなかった。踏みとどまった足が、大地に降り積もった桜の塵を巻き上げる。

     

     彼女の頭上で揺蕩う鏡が、青雲の残身を映し出す。
     その像を犯すように、どろ、と鏡面の向こうから星空色の何かが溢れ出す。

     

    「く、ぅあぁッ……!」

     

     反撃の好機に、相手を見据えたヤツハが気炎を上げる。疾く、そして確実に力を御そうとする意思は、己の内から湧き出る苦しみを抑え込むようにして限界した。
     鏡から飛び出した怪物の腕が、歪で巨大な爪を青雲に差し向ける。ヤツハの纏っていた桜花結晶すら巻き込んだその一撃は、場をまるごと薙ぎ払う暴力となって、踏み込んできた青雲を捉えんとする。

     

    「ふん……」

     

     到底避けきれない一手を前に、彼の対応は冷静だ。後の展開を考えてか、後退を志向しながら周囲に浮かぶ結晶を盾とするようにあてがった。
     けれど、ヤツハはその防御の術を否定する。
     強い意思の宿った彼女の瞳が、青雲の守りを射抜いた。

     

    「……む」

     

     巨大な爪を受け止めんとしていた三つの結晶のうちの一つが、まだ斬撃の届かぬうちに砕けて千千と輝いた。まだ桜の力こそ残っている状態だが、漫然と揺蕩うそれは防御の礎とするにはあまりに心細い。
     異常な動きを見せた結晶を前に青雲ができたのは、己が身を攻撃へと差し出すことだけだった。

     

    「ぐぅ……!」
    「まだっ!」

     

     直撃によろめく彼に、ヤツハは畳み掛けるよう力を練る。勢いのままに堰を切ってしまいそうな衝動を抑えながら、次なる怪物の姿へ意識を傾けていく。
     だが、その力が鏡面を食い破る手前で、彼女は怪物に待ったをかけた。見れば青雲は薄い緑色の光に覆われており、不敵な笑みを浮かべてすらいた。どんな強力な攻撃も受け止めてしまうその防壁の前では、怪物の暴虐すら無意味と化してしまう。

     

    「なら――」

     

     追撃を諦め、位置取りを優位に。守りを塵に還すあの大鎌の間合いの内側に潜り込んでしまおうと、彼女の脚は前を目指した。自在かと思うほど距離を容易く超える刃であろうと、怪物の手の届く近距離に居続ければ満足に振るうことはできない。
    先んじて間合いを離す動きを見せていた青雲に、ヤツハが追いすがる形となる。
     そんな彼女の脚を鈍らせたのは、地面に急速に広がった影だった。その源は、青雲が落とした自身の影だ。

     

    「う……」

     

     その影に足を踏み入れた瞬間、虚脱感がヤツハを襲う。痛みも苦しみもなく、ただ力が闇に呑まれていく感覚が彼女を蝕んだ。周囲に漂っていたはずの桜の力が減じていき、鼓舞されていた心に不安の影すら射すようである。
     その僅かな隙に、青雲はヤツハの狙いをさらに否定する。絡繰の翼に加えて、彼の背中に新たに生じた影色の四枚翅が力強く羽ばたき、背後への確かな推進力を生み出した。

     

    「残念」

     

     ヤツハから遠ざかっていく青雲。宙空に留まりながら影を引き連れた彼の短い呟きは、猛烈な唸りを上げ始めた絡繰の翼に掻き消される。
     もはや目で回転を追うことすらままならない歯車たちを前に、青雲の纏っていた結晶が自ずと塵へと砕ける。それが翼へと吸い込まれていったかと思いきや、大鎌と同質の影となって瞬く間に吐き出されてきた。

     

     重く鈍重さすら感じる濃い陰を、駆動する機関が推進させながら生み出していく。地面に広がる影へ飛び込んだ様は、獲物を求める猛禽のようだ。
     直後、ヤツハの足元から、栓を抜いたように影が噴き出した。
     

    「きゃあっ!?」

     

     視界が黒く染まり、彼女の長髪と袖が暴れる。身を引き裂かれるということはなかったが、守りとしていた結晶たちが次々とひび割れ、力を失ったように塵と化していった。
     そして、無防備となったヤツハに向けられる、次なる一撃。

     

    「はぁッ!」

     

     影の隙間から見える青雲が、右の手を突き出した。それに呼応するように、彼に従う影が漆黒の波動として放たれ、痛打の意思を伝えるべくヤツハめがけて飛来する。
     終局を間近とした彼女にとって、それは致命の一撃に等しい。たった一つでも結晶が耐えてくれさえいれば防げただろうに、周囲に舞う破片は形を失っていくばかり。今までじわじわと蝕まれてきた守りへの余裕は、ここに至ってついに決壊を迎えたのだった。

     

     しかし、意思を灯すヤツハの瞳は濁ることはない。
     結晶による守りでも、体捌きによる回避でもなく、彼女が選んだのは己の力。

     

    「だめぇッ!!」

     

     悲痛な叫びが、拒絶を訴えた。
     瞬間、ヤツハの盾となったのは、彼女が操る鏡だ。主の意思に導かれるように波動の射線上に立ちはだかったそれは、敵意を受け入れるかのようにあるはずのない星空を映し出した。
     そして宙を渡りきった影は鏡を砕くことすらなく、鏡面に触れた途端、勢いはそのままに向かう先だけを反転させる。矛先は無論、影を放った青雲本人――星々のような輝きに侵食された形ある影が、諦めないヤツハの想いを乗せて舞台を駆ける。

     

     だが、強いられた行動が状況を改善させることはない。ヤツハは危険な攻めをしのぎこそしたが、放った反撃は青雲に容易く防がれてしまう。
     砕けて塵と化した結晶を、青雲は掴み取る。
     それこそが、求めていたものであると。

     

    「灰よ、塵よ――」
    「……!」

     

     離れた位置で彼が降り立った地表面には、これまでの激戦によって、そしてたった今、ヤツハが力の礎にして散っていった数多の桜花結晶の残滓が、鈍い煌めきを放つ雲海のように溜まっていた。
     それらは、青雲の呼びかけに答えるようにざわつき始める。
     あちらこちらから滲み出た影が、紙に墨を振りまいたかのように、戦場に暗く染み渡っていく。侵蝕の果てに待つ終わりを、ここに迎えるための舞台が整えられていく。
     そして青雲は、拳に力を込めてこう告げた。

     

    「――集いて、呑み込めッ!」

     

     

     

     


     そんな決闘の様子を眺めていた者が一人。このうら寂しい神社に都合よく参拝客が来るはずもなく、見守るのはヤツハと共に居候しているハツミだけだ。

     

    「むーん……」

     

     眼差しに真剣さはない。柱に寄りかかり、杖にした箒に顎を載せる彼女は、この昼下がりに提供された娯楽を漫然と享受しているようでもあった。幾度となく繰り返された勝負では手に汗握ることもなかなか難しいけれど、決闘の主目的が勝敗にないことを彼女は知っている。
     直接打ち合いを演じる類の得物ではないから、剣戟の音が響くこともない。代わりに鳴るのが歯車の駆動音と怪物の打撃音なものだから、神社のある小山からは最近動物の姿が減ってきた、と青雲に嘆かれたことを思い出す。
     と、そこへ、

     

    「今、どんな感じですか?」

     

     曖昧な問う声が、背後の横合いからハツミにかけられた。
     暖かな日差しにやや微睡みかけていた彼女は、深く考える前にふっと頭に浮かんだ答えを口にする。

     

    「ヤツハがまた厳しそうですねえ。一撃は大きいんですが、やっぱりうまく通せていないみたいで」
    「確かに、青雲さんはまだ余力がありそうです」
    「これでもかなりやれるようになったんですけどね」

     

     ぼうっとしながら、ハツミはここに来たばかりのときの決闘を、頭の中で目の前の光景に重ねていた。

     

    「最初はいいようにされるばっかりで。相手がまっすぐ向かってきてくれる類だったらまだやりやすいんでしょうけど、彼は搦め手寄りですし……」
    「あはは、そうですね」
    「ただ、何度も決闘で揉まれた甲斐あってか、今は勝負になるくらいには腕を上げましたよ。自分を知るための実験なんてお題目ではありますが、随分と頑張ってるみたいです」

     

     力の使い方もそう教えられるものではなく、桜花決闘での立ち回りも同様だ。そもそも前例がないであろう力を使うのだから、メガミですらごく基本的な助言くらいしかできやしない。方向性の異なる教師に囲まれながら、ヤツハは自ら鍛える他なかったのである。
     うんうん、と納得するような唸りが聞こえ、

     

    「強くなるには、強い相手との実戦が一番ですからね!」
    「……? ええ、まあ」

     

     そこでハツミは、そんなことを大層嬉しそうに言う声の主が誰なのか、知らないことに気づいた。いまさらながら、姿すらも見ていない。もう一柱の同居人たるクルルがこんなことを言い始めたら、明日には槍の雨が降るかもしれない。

     

     ちら、と横目で、話しかけてきた相手を見やる。
     そこには、桜の下の活劇を食い入るように見つめている一人の――否、一柱の姿があった。
     腰に佩いた大きな刀は、決闘を愛する者の力強き象徴。

     

    「どっひゃあぁぁ!? ゆ、ユリナ、なんで!?」

     

     

     驚きのあまり、箒の支えを失って前につんのめるハツミ。
     見上げる武神の横顔は、新たに知る決闘への好奇心で綻んでいた。

     

     

     

     

     


    「はぁっ……はぁっ……」

     

     荒い息に、震える手足。胸の内側にわだかまる、力を行使した際の苦しさ。それが、決闘を終えたヤツハにとっての余韻だった。最初のうちは、ここに勝利の歓喜がないことに寂しさを覚えていたけれど、今はちょっぴり悔しさが滲むようになった。
     桜の下では、青雲が同じく息を整えている。彼の流す汗の量は、ヤツハが力の扱いを覚えれば覚えるほどに増えている。

     

     一息入れたら講評も貰おう。そう考えるヤツハであったが、視線の先では青雲が僅かに驚きを表情に浮かべていた。
     彼の眼差しの先にあったのは、白を基調とした装束に身を包む、黒髪の少女の姿だ。

     

    「どうしてここへ……?」

     

     訊ねる青雲の声には、淡くも警戒の色が乗っていた。ただ、それでいて来訪を拒むようでもなく、少女の傍にいるハツミも概してそういった態度を見せている。
     対し、問われた少女は特に剣呑な気配を漂わせることもなく、

     

    「ちょっと今、色んな方々のところを回っているんです」
    「……それで?」
    「ここでも何か、起こっているみたいですね」

     

     言葉に伴ったのは、他の三人を見比べる視線。声色や表情に棘こそないものの、説明を求める言外の圧力が境内にじわりと広がっていた。
     青雲に妙な疑いがかけられていることに、ヤツハの胸中で小さな罪悪感が湧く。
     ただ、それを口にする前に、青雲がヤツハを庇うように前に出た。
     彼は少女に告げる。

     

    「君相手に弁解をしたくはないが、私は何かを企む位置にはいない。信じてもらえるとありがたいんだが」
    「…………」

     

     その願いを検分するかのように、少女の視線が青雲に注がれる。全てを見透かすような瞳でこそないが、後ろめたさを喚起させてくるような、とても真っ直ぐな目であった。
     やがて彼女は僅かな間目を閉じ、そして示したのは理解だった。

     

    「分かりました。後で色々お話をお聞きしたいので、この件はそのとき一緒にお話しして欲しいです。それに――」

     

     一度区切った少女は、肩越しに神社の拝殿のほうへ目を向けた。心做しか外れた視線は、ヤツハからは社の死角に入っている、この境内にある分社を指しているのかもしれなかった。そこには、硝子の箱に収められた、黒い塵が祀られていることを彼女は知っていた。
     そのまま少女は言葉を続け、

     

    「会いに来てますから」
    「……そうか」

     

     短い納得が、青雲の口から漏れた。
     少女はそれに頷き、次いで顔を向けたのはヤツハであった。
     ヤツハにとって何もかもが足りていない、けれど意図だけは確かに込められた言葉が、青雲への最後の説得となる。

     

    「だから、今は」
    「…………」

     

     黙した彼の答えは、動きによって作られる。二歩、三歩とその場から動けば、ヤツハと少女の間を遮っていたものは何もなくなった。
     明確に道を空けた青雲は、少女に軽く頭を下げた。応じて少女も目礼で返し、意識は今度こそヤツハに全て注がれる。
     次は自分の番なのだと、状況を捉えきれていないヤツハは困惑の表情を浮かべる。

     

    「あの、あなたは……?」

     

     当然の誰何に、けれど少女は意外そうな顔を見せた。それからすぐに小さく微笑まれ、ヤツハとしてはどういう態度をとったらいいかすら分からなくなってしまう。
     少女はそんな心情を汲み取ったかどうか、

     

    「いきなりごめんなさい。戸惑っちゃいますよね」

     

     けれど、小さく謝ったのも束の間、少女が発した問いはヤツハをさらに当惑させた。

     

    「桜花決闘、好きですか?」
    「えっ……」

     

     思いも寄らない質問に面食らい、こちらからの質問に答えてもらっていないことも忘れて内心必死に答えを探し始める。
     思えばヤツハは、ここに来てからもう数え切れないほどの決闘をしたけれど、きちんと桜花決闘そのものに対する想いを言葉にする機会はなかった。実験が目的なのだから、と一瞬脳裏を過ぎるが、下地にすべきはむしろ、青雲と最初に話したときの問答だった。
     とつとつと、言葉を探しながらヤツハは問いに答える。

     

    「好き、というのは違うかもしれませんけど、この世界ではとても大切なものだとは感じています。だから、好きか嫌いかで言えば……好き、なのかもしれません。……あの、はっきりと答えられなくてすみません」
    「ううん、大丈夫ですよ。それなら――」

     

     少女は、まるで我が事のように、にっこりと笑って喜びを見せていた。
     言葉を継いだ彼女は、刀の柄に手を置いて、空いた拳を己の胸に当てる。
     その瞳は期待に満ちる傍ら、強い情念が隠しきれずに燃え上がっているよう。

     

    「わたしとも、桜花決闘しませんか?」

     

     ヤツハの細い手が、ぎゅっ、と震えを収めるように握りしめられた。

     

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