『八葉鏡の徒桜』エピソード5−3:花は歪に咲き乱れ

2020.07.18 Saturday

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    「なんですか……これ……」

     

     場の空気を代弁するかのように、チカゲの口から疑問が漏れる。
     演舞の最中に超常的な現象が起きるといえば、トコヨのお膝元たる叶世座の公演が挙げられよう。突然風が吹こうが雷が落ちようが、華麗なる演技が描くものが目の前に結実した結果として観客の五感を楽しませる。

     

     しかしそれも、あくまで表現の延長線上に存在する。
     宙に浮かぶ大鏡は、二柱の円舞の収束点とするにはあまりに突拍子がなかった。そもそも、演者を困惑させる仕掛けなどあってはならないのだから。
     決着はどうなるのか、決闘の目的は果たされたのか、浮かんでくる疑問のどれもが大鏡の存在感によって塗りつぶされてしまう。あれほどまでに目を奪われていた舞台はもう、影も形もなく、演者たちも構えを解き始めていた。

     

    「あの……」

     

     二柱が意図したものではないのだとしたら、とチカゲは残る頼りであるオボロに視線を移した。この場でただ一人、彼女だけは成り行きを注視するよう、静かに目を細めている。
     誰も解答を持たない空間に、気まずい空気が流れ始める。
     だからチカゲは、不明瞭な乱入物に対して、ひとまず安全を求めようとした。

     

    「と、とりあえず、離れ――」

     

     だが、その提案が言い切られることはなかった。
     当の大鏡自体が、疑問へ応えるように動き出す。
     その鏡面の向こう側から、星空のような光が――

     

    「……!」

     

     ず……、と。
     硬質さを感じさせる物体が、鏡面から顔を出す。吸い込まれるような宵色に星々のような点が瞬くそれは、すらりと伸びた三叉の矛先。けれどそれは、人が携えた武具ではないのだと直後に知れる。
     ソレは、矛先をまるで腕のように地面に突き立て、この世界という岸へ上がるように全身を這い出させた。そしてそのまま矛先を支えとして立ち上がり、ぶらり、と身の丈半分に及ぼうかという別の三叉が垂れ下がる。

     

     その刃は、人でいう、腕と脚だった。
     世界へ現した姿は、『何か』としか呼び表せぬモノ。
     最初は人を模そうとして、収束と発散を繰り返していくうちに生き物であることも忘れかけているような、存在としてズレてしまっている異形。絡繰人形のように魂を吹き込むべき物としてではなく、生物と非生物の境界線上に間違って産み落とされてしまったような気味の悪い異質さ。

     

     全身の至るところに刻まれた文様は、稲鳴の民たちがその身に描くものとは毛色がまるで違う。青白く角々しいそれは、そもそもソレらの星空色の肌に着色されたわけではなく、結晶が寄り集まってできた蔦が表面を這った末に生まれた、侵蝕の証とでも言うべきものである。
     顔や肩と思しき部位には、その結晶が密になりすぎたせいか、金属のように光を照り返す箇所すら生まれている。それがいっそう、息をする存在などではありえないのだと訴えかけてくるようだ。

     

    「な……」

     

     刃先を向けるサイネも、人智をとうに超えた闖入者へ言葉を失う他ない。
     そんな星空を練って固めたような存在が、最初の一体を皮切りとして次々と鏡から這い出してくる。丸太のように簡略化された手足を持つものや四肢もなく宙に浮かぶもの、逆に数多の腕を持つものなど、造形や文様こそまちまちだが、決して人などではありえないことだけは共通している。

     

     舞台だった坑道は、瞬く間に彼らに支配された。
     この怪物の参列を人形劇の幕開けと言うには趣味が悪すぎる。いっそそれは、この世界を表現するという演舞に対する冒涜ですらあるかもしれなかった。

     

    「…………」

     

     じり、と一歩後退るチカゲ。偉丈夫のような怪物の身の丈はそれだけで威圧的だが、理解を超えた存在は彼女の生存本能をくすぐり始めていた。
     目玉だと分かる造形はどこにもないのに、見られている感覚。
     まともな意思があるようには見えないのに、意識を向けられている。

     

     怪物は、確実に四柱のメガミたちを認識している。
     沈黙していた彼らから、突如、ひりつくような害意が噴き出した。

     

    「ひっ!」

     

     短いチカゲの悲鳴を合図とするように、怪物の集団がメガミたちへと猛然と迫る。獰猛な肉食獣の群れにいきなり襲われたようでいて、その牙を振るう感情がまるで見えてこない。悪夢のようなその光景に、各々得物を握る手に力を込め直す。
     歪な足音を立てて肉薄する動きは速く、メガミたちにまともな陣形を組む暇さえ与えない。ただただ形ある害意と化したソレは、けれど明確な指向性を持って戦場を生み出していた。

     

    「こい、つ……!」

     

     彼らの矛先に立たたされたトコヨが、歯噛みしながら悪態をつく。
     ガンッ! と、先陣を切った怪物たちの一撃が、トコヨとサイネの居た場所を鋭く穿つ。躊躇など一切ない、純粋に相手を殺すために振るわれた力だ。分断されるように飛び退った二柱を追って、別の怪物が後に続く。

     

     彼女らが真っ先に狙われたのを、大鏡に近かったからというには状況は悪意に満ちていた。桜花決闘で力を発露し尽くした今、トコヨとサイネはまだ十全に動ける状態ではない。動きの鈍い相手から叩いて頭数を減らそうという立ち回りに、怪物たちの冷酷な判断を感じざるを得なかった。

     

    「く、うぅっ……!」

     

     三叉の槍を、サイネがその歪な薙刀の刃先で絡め取るようにして受け止める。槍の表面に這っていた結晶の蔦が刃に削られ、砂のようになって消し飛んでいった。

     

     体力が心許ない以上に、常軌を逸した姿から繰り出される常識外れの攻撃を、盲目の彼女にいきなり捌けというのも酷な話である。
     しかもそれは、多面から襲い来る。
     かき乱された集中と未知の音によって生まれた聴覚の死角から、刀のような刃を模った怪物の腕が振り下ろされる。

     

    「オボロ様ッ!」

     

     戦場へ響く掛け声と同時、宙を裂いたのは苦無だ。チカゲの放ったそれは、サイネへと迫っていた凶刃を弾き飛ばす。体勢を崩した怪物がうめき声一つすら上げずにたたらを踏み、切っ先を持った別の腕を地面へ突き刺した。

     

    「すまない!」

     

     名を呼ばれ、我に返ったように応えるオボロの姿が掻き消える。瞬時にサイネを襲った怪物の四方八方に現れては消え、そのうち怪物の刃の腕が宙でぴたりと動かなくなった。最後にチカゲの前に現れたオボロの手には、か細い鋼の糸が幾条も握られている。
     そのまま勢いよく糸を引けば、絶えきれなくなった怪物の腕が細切れになって吹き飛ぶ。砕かれた身体は星屑のように煌めき、やがて緑色の輝きを残して散っていった。

     

    「この化け物……」
    「ご存じなんですか!?」
    「この星空のような姿、近頃ミコトが振るう鏡のメガミの権能を想起させる。あれは獣のような怪物だったが……」

     

     考えを口にしながら投じる複数の手裏剣は、トコヨのいる一帯を薙ぎ払おうとしていた怪物の腕の付け根へ過たず吸い込まれる。連続して抉られ、自重に負けて棘のような右腕が地面に落ち、また消えていく。
     援護を貰ったトコヨは、突き出されるもう一方の腕をあわやというところで躱し、扇で僅かに上へ後ろへと送り出すように受け流す。勢い余った怪物はそのまま前へ倒れ込み、その隙にトコヨは大きく跳んで後退を図る。
     ただ、ふらりと地に片膝をついた彼女の姿は、奮戦による消耗を物語るようだった。

     

    「じゃあ、何……そいつのせい、なの……?」

     

     顔を歪めて問うトコヨに、オボロの表情が険しいものとなる。

     

    「トコヨ、お主――」
    「大丈夫よ、このくらい」

     

     きっぱりと言い切って前を見据える様子は、舞台に上がるために苦悶を呑み込んだ演者のようである。強烈な攻撃を受けたようでもなく、サイネとの桜花決闘が祟っているにしても尋常ではない様子だったが、その言葉を前にオボロがそれ以上追及することはなかった。
     代わりに、問いへの見解をオボロは述べる。

     

    「そやつの仕業かは分からん。だが、鏡の大きさや造形の違いを見るに、これが大本なのかもしれん。こやつらこそ本来の鏡の怪物なのかもな」

     

     そう答える間にも、オボロは幾重もの糸を手に洞窟の中を駆け巡る。
     彼らの攻め手は決して闘争本能に任せたようなそれではなかった。狙いを揃えて連携するだけの知性が、どこにあるかも分からない脳の中に存在しているのは確かだ。それでもなお、害意を超えた感情を推し量れない敵は、規定された集団行動を取る昆虫のようである。

     

     しかしそれは逆に、推測し得る行動原理を彼らが持っているということ。
     予測不可能な暴徒に比べれば、狙いの明らかな軍団への対処は忍の領域である。

     

    『閉所なのが救いか』

     

     オボロの声が二重に重なり、姿もまた分かたれていく。分身と共に前へ出た彼女が、牽制に手裏剣を放ちながら、怪物たちの足元を駆け巡る。
     一方のオボロが、己を狙った大爪を有する怪物の巨腕に乗り、手にした糸の一本を身代わりに残す。そこに寸分違わずもう一方のオボロが糸を交差させると、爪先が地面を突き刺すのと同時、何体もの怪物が足を取られたように転倒する。

     

     彼女は倒れゆく怪物を足場にして天井の鍾乳石に飛び移り、そのまま次の怪物めがけて急降下。刃のような腕を支点にぐるぐると回転していたところを大振りによって打ち払われるが、その姿が霞のように消える一方で、鋼糸で結ばれていた怪物たちから星屑色の塵が一斉に噴き上がった。薙ぎ払った怪物の腕もまた、輝きとなって溶けていく。

     

    「避けたつもりだったが……」

     

     残されたオボロがひとりごちる。
     撹乱することはできているし、無法なまでの力でもない。メガミにとってしてみれば、この怪物たちは勝てない相手では決してない。しかし、一体一体の動きの鋭さも、純粋な害意を基底とした連携も、決して油断を許す要素ではなかった。
     何より、オボロの視線の先にあるもの。

     

    「奴ら、まだまだ出てくるぞ! 鏡だ! 大本の鏡を!」

     

     次から次へと湧き出してくる星空の怪物は、メガミたちを坑道の外へ追いやるように、じりじりと戦線を押し上げていた。狭い坑内だからこそ自然とそうなっただけで、彼らの動きにあまり鏡を守るという意思は見いだせない。
     偶然にして唯一の幸運は、メガミたちが奮戦すればこの正体不明の怪物を外に出さずに済む、ということだろうか。坑道の外には、人の営みがある。
     声を響かせたオボロに応じたのはサイネだ。

     

    「分かりました……。斬り込みます!」
    「感謝する! 拙者が機を見て大本を叩く!」

     

     再び怪物の群れの中へ飛び込んでいったオボロ。
     対する返答は、地を打ち鳴らす下駄の音。退路を確保するように立ち回っていたサイネが、真正面の敵に相対するように薙刀を構え直す。
     飛び込んできた怪物が振るうのは、最初にサイネを襲った三叉の腕。既に打ち倒したはずのそれに動じることなく、サイネは前に一歩を踏み込んだ。

     

    「はぁッ!」

     

     頬を掠めるような距離で攻撃を見送り、振り上げた刃は流麗かつ鋭利。敵の骨格を貫いた一太刀が神髄を断ったのか、サイネの背後にその身を投げ出した怪物が光と消えていく。
     ただ、斯様に一体ずつ打破したところで焼け石に水。敵の多さは、集団戦闘に不向きな彼女に向かい風となって吹き付けており、依然として集中的に狙われている戦況も変わらない。

     

     そしてそれは、同じく決闘で疲弊しているトコヨも同様のはずだった。
     故にサイネは互いの不利を庇い合うべく、急ぎトコヨの背面に陣取るよう、どうにか見つけた彼女の気配の下へと、荒れた地面を踏み切った。
     けれど、その距離を駆け抜ける前に、サイネの眉が僅かに顰められた。

     

    「くお――」

     

     トコヨから、動きが欠けている。
     斃れているわけではない。けれど、この混沌とした戦場で、彼女は呆然と立ち尽くしていた。
     メガミとしての力も、覇気すらもろくに感じられない。先程の決闘で見せたような鮮烈な存在感に目を焼かれている今、只人と見紛うばかりの気配は戦禍の中で今にも踏み潰されてしまいそうだ。
     攻撃をいなされて投げ飛ばされる怪物の姿どころか、彼女の声一つですら、この戦場にはもう存在しなかった。

     

     力を使いすぎた不利を押して堪えていたものが、ここに来て決壊を迎えたのか。そうでなければ、いくら戦いに興味を向けないメガミであっても、こんな愚行を犯すはずがない。オボロの心配に対して気丈に振る舞ったトコヨなど、どこにも居はしなかった。
     焦りと疑念を滲ませる中、何かに思い当たったのかサイネが一瞬表情を固くする。しかし、刻一刻と変化していく戦場で、それを確認する猶予は存在しない。


    「っ……!」

     

     己に迫っていた怪物に背を向けたサイネが、位置取りをさらに奥へ――トコヨに狙いを定めていた怪物の前へと無理やりその身を躍らせる。
     纏わせていた桜花結晶を差し出し、怪物の刺突を宙空へと逸らす。護りが砕かれた代わりに繰り出した二連撃は、相手が得物とする肢体の尽くを薙ぎ払い、これ以上の追撃を阻止する。

     

     しかし、その間に振るわれていたのは、二柱共々切り捨てるような次の怪物の斬撃。
     薙刀を振り抜いてがら空きになったサイネの脇腹めがけ、凶刃が迫る。
     だが、それが桜を散らせることはなかった。

     

    「ぐっ――ぅあッ!」

     

     金属が打ち鳴らされる小気味のよい音を皮切りに、意気を込めた少女の掛け声が響く。その直後、怪物の先鋭なる刃は下から打ち上げられたかのように弾き飛ばされ、その隙を見逃さずにサイネが追撃を叩き込む。
     果たしてそれを為したのは、両の手の苦無を構えるチカゲだ。

     

    「こ、ここで護りましょう」

     

     小さく呼びかけた彼女は、サイネの反対側へ位置を定める。
     依然として全く動かないトコヨを、その間に置いて。

     

    「はいッ!」

     

     

     即断したサイネが、決意を示すように八相を形作る。立ち入った者を躊躇なく斬り落とす圏域が、塁を築くように即席の陣の半分を覆った。
     彼女たちの態勢に構うことなく攻勢を続ける怪物が、圧殺せんと四方から押しかける。意思疎通をする素振りを見せていないのに、それが当然とばかりに行動する彼らの不気味な冷徹さが、無防備なトコヨを付け狙う。

     

     それにチカゲが見せたのは、不吉な紫色の液体をぬらりと含んだ大きな針。背筋を凍らせるような気配を漂わせるその死の毒は、彼女の手が閃いた次の瞬間には怪物の一体を穿つ。他へと走り込む最中、三本目を打ち込んだところで怪物の歩みは止まり、崩れ落ちて大地を揺らす。
     さらに音もなく肉薄したチカゲは、繰り出された槍のような腕に着地すると、疾駆の勢いそのままに怪物の胴へ深々と針を突き刺した。

     

    「……っと」

     

     そんな彼女の背後で、鈍く小さな衝撃音が生じる。チカゲを追い払おうとした腕が、赤みを帯びた青い水晶によって弾き飛ばされていた。
     すさかず彼女は突き立てた針を蹴り込み、足裏に仕込んでいた結晶を破裂させた勢いで後方へと帰還する。おまけとばかりに投じた苦無が怪物の巨体を傾がせ、さらに別の方向へ放ったそれはサイネの頭上に迫っていた切っ先を逸らす。

     

     過去、互いに殺し合った経験があるからこそ、二柱は互いに恐れ合う。
     しかし、だからこそその恐ろしさから、互いの刃を信頼し合える。
     護るものを抱いているにもかかわらず、絶妙な連携は迫り来る怪物たちを次々と退ける。彼らの作り出す暴力的な星空の中、彼女たち三柱の周囲だけが輪のようにぽっかりと大地の色を曝していた。
     けれど、

     

    「はぁ、はぁ……これでは……」

     

     一刀の下に敵を伏したサイネが、苦い表情を浮かべる。
     あくまでこれは、拮抗状態を生み出しているだけ。ただでさえ消耗していたサイネを片翼とする陣は、終わりのない戦いに付き合えるほど頑強ではない。
     注意を引きつけている分だけマシだが、戦線を押し上げるなど夢のまた夢。
     そしてその苦境は、勝利条件を目指していたオボロへさらなる負担となって押し付けられる。

     

    「これ、はッ……!」

     

     同士討ちすら厭わず、あちらこちらから飛んでくる攻撃の嵐は、元凶たる大鏡への航路を閉ざしたままだった。
     堪らず天井に回避するオボロを、飛び上がってきた怪物が一薙ぎにする。足場の鍾乳石が稲のように刈り取られ、寄る辺をなくした彼女が宙空に渡したままだった鋼糸に飛び移る。それを起点に鏡へ至近しようとしたところで、いずれかの怪物が糸を巻き取ってしまい、姿勢を崩す前に後方へと飛び退った。

     

     湧き出し続ける敵は、時を追うごとにオボロの手を一つ一つ潰していく。密度が薄かった当初ならまだしも、この期に及んで敵軍へ飛び込むなど自殺行為でしかない。翻弄を旨とする忍の戦い方も、無尽蔵に思える恐れ知らずの援軍に対しては効力が薄い。
     そんな大波を超えたところで終着ではない。さらに大鏡を破壊しなければならない以上、手を伸ばして届かせただけでは無意味なのである。

     

    「参ったな……」

     

     苦無を岩壁に突き立てて壁面に張り付いたオボロ。空いた手で眼鏡に手を当て、この過酷な戦況を冷静に俯瞰するよう、刹那の間隙に細く息を吐く。
     それを許さない怪物の迫撃に、宙で身を捩った彼女が何処からか忍刀を抜き払う。そして旋回するように振るわれた刃が、岩を貫いた怪物の腕を斬り落とし、断面を曝した僅かな腕の下側を蹴って地上へ戻る。

     

     そのまま滑るように間合いを取り、威嚇するように忍刀を前に構える。
     そして固く口を結んだオボロは、その左手をそろりと懐へ伸ばした。
     ……が、そのときだ。
     横目で味方の様子を改めて窺う彼女の動きが、止まった。

     

    「トコヨ……?」

     

     訝しげに口にしたその名。
     今までどうしてか、茫然自失となっていたメガミの瞳に、光が戻っている。
     けれどそれは、決して反抗を志す希望などではなかった。彼女の焦点は、何かを見定めるように確かなのに、その先にあるのは奇怪な敵の姿などではなく、ただの虚空だった。
     異様さが、騒乱を侵すように滲み出す。

     

    「あぁ、なるほど……」

     

     ぽつり、と。
     宙へ釘付けになった視線もそのままに、トコヨの唇から納得が零れ落ちる。

     

    「これが細音の視たもの……そして――」

     

     異変が、決定的な形で顕現する。
     彼女の小さな体躯が、青白い光を――月明かりとは似ても似つかない、冷たい光を放ち始める。その硬質な輝きの中、永遠を象徴する彼女の姿が変化を見せていく。

     

     その体躯に対して重厚であった両の袂が、上弦の月のように一つとなって弧を描く。肩口や袖山が彼女の細腕を露わにするほど切り込まれているせいか、その様はどこか着る者の表現を縛る戒めのようでもある。
     柔和な桜色を基調としていた中でも、袖付けや帯紐、長足袋の口は冷たい光をそのまま孕んだような色味に染まっていく。それが、地面に散った桜の花弁に霜が降りているようで、刻まれた直線的で温かみのない文様までもが、彼女が凍える時の中に囚われていると示すようだ。

     

    「トコヨ、あなたも……!」

     

     変質に感づいたサイネが、怪物を薙ぎ払いざまに叫びを上げる。それはどこか安堵しているようでいて、その実、悲痛さを訴えるようでもあった。

     

     やがて、変質の起こりとなった光が収まれば、意思を宿したトコヨがそこに現れる。
     揺らめくその瞳が湛えるは、恐怖。
     見る者全てに、鏡写しの如くその恐れを与えるような眼差しが、この現実を捉えている。
     胸に抱ききれなかった想いを吐露するように、彼女は囁いた。

     

    「これは、恐ろしい話ね」

     

     

     しん……、と。
     味方のメガミたちも、感情の見えない怪物たちも、誰もがそれに、耳を傾けていた。否、傾けさせられていた。坑道に満ちていた濃い戦乱の音の一切が、トコヨのか細い声を聞き届けるためだけに消え失せていた。

     

     恐ろしい故に美しく、美しい故に恐ろしい。
     悠久に在り続けるトコヨと重なるようで、どこかが異なるその立ち居振る舞い。しかしそれもまた、演者の巧みさ故と感じさせてしまう表現の奔流が、この場を静かに支配している。
     どんな怪談を生み出しても、彼女という恐怖の体現者一人に勝る日は永遠に訪れない。
     この瞬間、彼女を畏れる以外の選択は許されていなかった。

     

    「そうでしょう……?」

     

     凍える世界の中、トコヨは青白く変容した扇をしとやかに投じる。
     宙を舞うそれは優雅でありながら、ゆらりゆらりと揺らめく幽鬼のように不吉。目にしただけで不幸を呼んでしまいそうな危うさは、しかしそれ故に意識を奪われてしまう。

     

     怪物たちは、あれほど攻め立てていたのが嘘だったかのように、扇の軌道から己を逃していく。口すらないはずなのに、息を呑む音が聞こえてくるようだった。
     扇はそれから、一回り以上も背の高い怪物に吸い込まれるように飛んでいき、翳された刃の腕もするりと抜けて、胴を静寂のままに食い破っていった。その怪物は核を穿たれたのか、動けずにいる他の怪物たちの衆目に曝されながら、静かに倒れ伏していった。
     そこでようやく、畏れにあてられていたオボロが我に返る。

     

    「……そこだ!」

     

     一喝と共に、脚の止まった怪物の間を縫って大鏡へ突貫する。同時に意識を取り戻したチカゲの苦無が最短経路上の敵を鋭く貫き、サイネがそれを助けるように周囲の怪物たちを退けていく。
     オボロの抜いた忍刀が、動きを取り戻し始めた怪物の姿をぬらりと映す。けれど彼女にとって、それだけの隙があれば十分に過ぎた。

     

    「おぉッ!」

     

     一瞬にして放たれる数多の斬撃が、大鏡を打つ。まとわりついていた結晶質の蔦が微塵と砕け、戦場を映し出していた鏡面が千千に分かたれていく。
     生み出すモノが奇怪なら、その散り様もまた奇怪。
     大鏡も、蔦も、一片も大地に残ることなく、黄緑に輝く花弁となって散っていく。
     それはまるで、決闘を終えたミコトが顕現武器を桜へと還したときのよう。
     奇怪な力の顕現が、戦いの終わりを告げるように溶けて消えていった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     拙者が先ず感じたのは……昂揚、だったかもしれない。

     

     サイネの様子は確かに異常と言えたが、拙者らメガミも一面だけが全てであるはずもなし。
     その生きざまは多様であり、また時はそれを変えうるだろう。それゆえにミコトらも異相の技を編み出すに至ったのだ。サイネもまた、そのような心変わりに過ぎない可能性もあるだろうと考察していた。

     

     だが、彼女だ。こともあろうに彼女に生じたこの現象は、明確に既知の原因に非ず。
     何よりもあやつは何の象徴だ。ありえるはずもないだろう。

     

     それならば、これは何だ?
     拙者の眼前でまさしく起こった、これは何だ?

     

     可能性は……いくらでも挙げられるとも。
     拙者は、望み続けてきたのだから……!

     

     嗚呼、そういえばあやつらの意思もいくらか信憑性を帯びてしまったわけだ。
     これは、畏ろしいな。真に、畏ろしい。だが…………、

     

     

     

     

     

     

     

     

     それでも、拙者は……、

     

     

     

     

     

     

     

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