『八葉鏡の徒桜』エピソード5−2:月下の円舞

2020.03.13 Friday

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     決闘の始まりを告げたのは、ただ一つの呼吸であった。
     だが、それを皮切りにトコヨがもたらした絶対的な場の変化が、見守るチカゲの肌をも粟立てた。

     

    「……っ!」

     

     得物である扇を閃かせたわけでも、一歩を踏み出したわけでもない。その小さな吐息に特別なところは何もない。それなのに、十分な間合いの先から放たれた気配の恐ろしさは、サイネが思わず息を呑んでしまうほどだった。

     

     己の意識を、彼女の一挙手一投足から逸らしてはならない。
     彼女の意識が、己の軽挙妄動を咎めようとしている。

     

     トコヨが求める正対は、相手に過度なまでの完全をも求める。一片の瑕疵すら許されぬ舞台に上げられた者は、自身の考えから動きに至るまでの逐一に自省を促されるよう。答えを持たぬ者は、今まで磨いてきた技の不出来を悟って膝をつくことだろう。
     しかし、そんな美の体現者に相対するサイネは、技巧の極致という答えを求め続けてきた求道者である。

     

    「はぁーっ……」

     

     細く、鋭く、胸の内に芽生えかけていた畏れを吐き出すように気を漲らせる。
     メガミの座に着いてから十八年。積み重ねてきた鍛錬は、彼女の一振りから余分とも言えない無駄を極限まで削り、その動きを芸術足らしめて久しい。無論、それがただ飾られるだけの骨董品のような美しさではないことを、誰もが知っている。

     

     そして何よりも、彼女が得た『何か』。
     恐れとしてチカゲの前に辛うじて表出したそれは、かのユリナを打倒するに至るまでの変化をもたらしている。未だ語られることのないその経験が、トコヨという品評家の思惑を外れる動きの礎ともなり得るだろう。

     

    「…………」

     

     青に柘榴色を透かしたような刃先を揺らめかせ、にじり寄るサイネ。
     対し、トコヨはくるりくるりと要を中心として扇を回すように舞う。周囲に滲み始めていた桜色の光が彼女に寄り添い、それはさながら、舞踏の始まりに観客が色めき立つようだ。

     

     砂利を噛む音が、この坑道にあって嫌に響く。静寂には、足音だけが残っていた。
     一歩、二歩と元あった距離が半分ほどに縮まる。互いの間合いに踏み込もうかというそのときですら、予兆を悟らせるような力みはどこにも見られない。
     そして、静寂のうちに邂逅は果たされる。

     

    「……!」

     

     次の一歩を刻もうとしていたトコヨの手から、春の野を揺らす風のように柔らかく扇が放たれる。仄かな光を纏ったそれは、静けさとは裏腹に寒空を疾く駆ける猛禽の如く相手に迫る。
     それに応えるサイネが描くのは、残身を保つトコヨを捉える弧だ。

     

    「はッ……!」

     

     その軌跡は、まるで透き通った冬の夜に浮かぶ三日月のよう。
     互いの刃が双方の身から、結晶を桜飛沫のごとく散らせる。二柱によって演じられる舞はいよいよ始まりを告げられ、胸打つような緩急が咲く優美さに、チカゲやオボロも呼吸を忘れたように見入っていた。

     

     一合目を皮切りに、先に動いたのはトコヨだ。
     するり、と伸びた薙刀とすれ違うように、円を描きながら彼女は舞う。懐へ入り込む様は精霊が悪戯に起こした風のようだ。
     それを咎めるべく、彼女の胸元めがけて下から伸びてきたのは鋭利な石突。接近を拒む応手に、しかしトコヨはむしろそれが分かっていたかのように、手元に再び現した扇ですくい上げるように打ち払う。かち上げられた石突が、天井で輝く水晶を指し示す。

     

    「っはッ!」

     

     トコヨは扇を振るって後ろへ傾いた重心に逆らわず、再び扇を投じながら、軽やかな足取りで肉薄した間合いから舞い戻らんとする。
     だが、サイネの神速の斬撃は、その一手を瞬く間に貫く。
     宙を泳いでいた石突を引き戻す代わりに、足元から舞台を縦に両断する刃は、扇を真っ二つに切り裂いた。

     

    「ふぅッ……!」

     

     さらにサイネの周囲へ、彼女の刃と同じ色合いの水晶が二つ現れる。分かたれた扇を見送るように半歩を踏み出せば、彼女の間合いの中で躍るトコヨの姿が。

     

    「せッ、はぁッ!」
    「っ……」

     

     八相の構えから繰り出される連撃が、トコヨの護りを削り取る。静謐にも思えた立ち上がりから一転、定められた円舞を舞い踊るが如き激しい舞台に、塵と化した結晶が風に乱れ散っていく。
     そして、ぴたり、と再び刹那にも永久にも感じられる静の後、動が舞台上の物語を進めていく。
     僅かにサイネの間合いから離れたトコヨが、大仰に大気を扇いだ。

     

    「……!」

     

     生まれたのは、一陣の風。それも、サイネがあてがった奇妙な色合いの水晶を穿ち砕くほどに先鋭なる刃としての風だ。トコヨがそう演じたから、相応しいだけの風刃が現れた――そんな具現化した攻撃にサイネは顔をしかめる。
     さらに、追走するようにサイネを襲うのは三度の投射。風への対応を求められた彼女をあざ笑うかのように、肩口から結晶を啄んでいく。

     

    「くっ……」

     

     その扇は主の下へ戻る鷹のように旋回し、トコヨの下へと帰っていく。加えて、最初にサイネを喰らって地面に横たわっていた扇が、彼女が望むがままの風に乗って舞い戻る。
     サイネ自身、扇の動きそのものは捉えているようだが、既のところで回避が間に合っていない。彼女は目が見えない分、己へと打ち付ける風がよく見えてしまう。だからこそ逆に、応手の尽くを風に費やされてしまい、紛れ来る追撃をその身に受けてしまっているようだった。

     

     決してトコヨの鳥たちは、反応が間に合わないほど速いわけではない。
     けれど、決闘の場においてはゆったりしているとも言えるその動きは、台本に記されているかのようにサイネを啄んでいく。優雅に描かれた円その全てが、侵し難い無上の美を顕現せしめていた。辺りに漂い始めた桜色の霞ですらも、この必然たる演出に組み込まれているよう。

     

     だが、それを終幕まで引き伸ばすことを、二人の演者は望んでいない。
     反抗の意思は、魂を燃え上がらせる。
     青く、静かな炎が、艶のない瞳の向こうに見え隠れしていた。

     

    「そうよ」

     

     端的に評するトコヨ。
     この場にいる誰もが、サイネから明白に伝わってくる気迫を肌身で感じていた。逸る気配を微塵も見せない様子はひどく落ち着きすぎているようでもあるが、それが彼女の特有の極致を体現せんとする姿勢であることをチカゲたちは知っている。

     

     意気の炎と共に、サイネがその足に力を籠める。無窮に扇を巡らせようとしているトコヨの動きは、台本通りに事を運ばなければならないからこそ隙も生まれる。調和を生むための大きな所作へ、サイネは切り込むつもりだった。
     しかし、その一歩を踏み出す瞬間だった。

     

    「でも――」

     

     動作に一切の切れ目なく、トコヨはそのまま風のように距離を詰める。サイネが薙刀を振り払う間もなく、歪な刃の間合いの内側へと潜り込んでくる。
     そしてトコヨは、決闘に生まれた間隙の中、寄り添うように囁いた。

     

    「お預けよ。この月の下で、もう少し」
    「……!」

     

     

     そこには、月明かりに微笑む少女がいた。
     無論、外の明かりさえ届かない坑道で、しかもまた日が昇っている今、月が彼女を照らすはずはない。それでもどうしてか、たおやかに踊りながら肉薄するトコヨを、淡い金色の光が照らしているように錯覚してしまう。

     

     静謐の中に生まれたさらなる静謐。演舞の見せ場だけを抜き出してきたような、侵してはならない振る舞い。
     突如でありながら必然性を孕む美の顕現に、畏れを抱かぬ者がいようか。

     

    「否ッ!」

     

     だが、共に舞うことを求められたサイネは、焦りを散らすように一喝する。さらに燃え上がっていく魂の炎を御するのは、彼女が定めた道である。
     守りを切り捨て、八相に構える、サイネの型。
     不敵ですらあるそれこそ、彼女が彼女らしく舞うための姿。
     それを目にしたトコヨの口元に、小さな微笑みが浮かんだ。

     

    「見せなさい!」

     

     転調の如く機敏に後ろへ跳ねるトコヨは、彼女もまた彼女らしくあるように扇を投じる。
     対し、サイネに応じる言葉はない。その動きは凪の水面のように静かだった。


     周囲に水晶が舞い、静の中に生じた確たる動の音が反響し、響き合う。繰り返し奏でられる音はもはや絶叫を超えて音には聞こえず、水晶は華の如く円舞する。
     翼を傾けて襲い来る扇を、サイネはありのままに受け入れる。それを境に、極限にまで張り詰めた絶唱が、まるで時を止めたかのように舞台を支配した。

     

     そして、全てが共鳴し、全てが音を失いながら砕けていく。
     円舞する水晶も。
     彼女たちを護る結晶たちも。
     華が、絶えていく――それは、紛うことなき絶景であった。

     

     

     これ以上のトコヨの動きを、サイネは拒絶する。
     凍りついた時の中、演舞の導き手は移り変わる。
     無音の舞台は無色にすら感じられ、その中を一人で彩るようにサイネが舞う。

     

    「はあぁッ……!」

     

     先んじて作られた動きは、足元からすくい上げるように振るわれる薙刀。
     長柄を存分に活かして伸ばされた間合いの先には、退避の間に合っていないトコヨの姿がある。
     その瞳に宿るのは、失策への後悔でも、痛打への恐れでもない。
     全てを見定めようとする、決意。内に秘めた怯えをここで全部見せなさいと言わんばかりの訴え。

     

     故に、返答は力の発露となって、サイネの手中に形を成す。
     開放された彼女の権能が、薙刀の歪な刃の尖端をさらに赤く染めていく。滾りを凝縮し、ただの一点を正確無比に貫くための意思が刃先に宿っていく。
     そして、

     

    「か、ぁっ……!」

     

     小さなトコヨの背中から、刃が飛び出した。血潮の代わりに、大量の結晶が洞窟を桜色で染め上げていく。
     だが、串刺しのように貫かれてもなお、その足は己の力で地に着いたまま。
     苦痛を露とも見せぬ顔に、未だ鋭い眼光が揃っている。

     

     まだだ、と。
     語り終えぬ間に幕を下ろすことは許されない。
     ……ずるり、と刃がトコヨの腹から抜き払われた。

     

    「おおぉぉぉぉぉッッ!」

     

     気の入った叫びと共に、サイネが追撃の刃を振るう。桜吹雪を吹き散らす激しさを有しながらも、繰り出される連撃には一切の無駄がない。痛打を皮切りに生まれた四連撃は、今までにトコヨがそうしてきたように、必然を以って相手を穿っていく。

     

    「ぐっ……」

     

     薙刀の刃先だけが届くという絶妙な間合いで、トコヨは斬撃の嵐に正面から抗うことはなかった。投げかけられた即興詩へと理解を深めるように、至って冷静に紡がれるのは護りだ。
     見切る間もない初撃を受け入れる代わりに、開いた扇を手に袖で桜霞を巻き取るように腕を舞わせる。直後、二撃目の刃先を形を得たばかりの結晶が逸らし、堂に入った力強い三撃目が描いた弧にトコヨの扇が寄り添う。そのまま薙刀を地面へと送り出した彼女は、反発する勢いで僅かに距離を離し、ついには倒れることなくサイネの連撃が捌き切られた。

     

     双方、結末まで幾許もなし。
     終演に至るまでの道筋はもはや台本の上にはなく、潰えることのない意思が火花を散らす。
     両者が発現させた権能が場を揺らし、散っていった結晶が拮抗を示すように渦巻いていた。並の人間では、近づくだけで力にあてられて気を保つことすらできないだろう。
     見守っていたチカゲですらも、その壮絶さに顔をひきつらせる。

     

    「ひ、ひひ……」

     

     トコヨもサイネも、次の一手のために相手を窺うことに終始している。どちらも後の先を志向するからこそ、そこに妥協した終わりは訪れない。だからこそ終わらない意思と純然たる力のぶつかり合いは、山が軋みを上げるほどに激化していく。
     目には見えない壮絶な力の奔流に、両者の中間の空間がたわんでいくような錯覚すら覚える始末。乱舞する桜の塵がその渦の中心に呑み込まれ、息もつかぬ間に吐き出されてくる。耳朶を叩く轟音がないことがかえって恐ろしく、ざわつくチカゲの感覚だけが騒がしい。

     

     それでもこの舞台は、いつか閉幕を迎えなくてはならない。
     けれど、次にこの舞台を動かしたのは、二柱の演者のどちらでもなかった。

     

     それどころか、彼女たちの意図を超えた台本が、ここに書き足されようとしていた。

     

    「……!?」

     

     一瞬、驚きで表情を変えるトコヨとサイネ。相手の動きを見て取ったわけではなく、真実どちらも微動だにしていなかった。
     それから彼女たちは合図でもしたかのように、力という矛を同時に収めていく。場に叩きつけられていた奔流は徐々に勢いを失い、忙しなく舞っていた結晶たちもゆっくりと地面に沈んでいった。

     

     ここから最後の打ち合いが始まるわけもなく、両者は得物を握る手から力を抜いてさえいる。
     その理由は明白だった。
     トコヨとサイネの間に浮かぶもの。

     

    「え……?」

     

     それは、大きな鏡だった。
     衝音晶の突き出した岩肌を映し出す鏡面を覆うのは、渦を成したような文様が刻まれた土台。そこまでであれば古の風を感じさせるだけで済んだが、何より奇怪だったのは、鉱物の板を継ぎ接ぎされたような結晶がその鏡に蔦のように絡みついていることだった。

     

     ぽかん、と突然のことにチカゲの口は小さく開いたまま。視線を動かしたところで、その大鏡を間に置く二柱もまた呆気に取られたように立ち尽くすばかり。
     桜花決闘の舞台が、その鏡を据える場へと様変わりしていく。
     突然の闖入者は、行方知れずになった決着など素知らぬ顔で、厳かに揺蕩っていた。

     

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