『八葉鏡の徒桜』エピソード5−1:雪降る闇にて

2020.02.29 Saturday

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     鉛色の空から、はらはらと細雪が舞い落ちる。北の果てにしてはいくらも機嫌のよい空模様ではあるが、遠くに見下ろしていたはずの里の姿は、もう白き緞帳の向こうに隠れてしまっていた。

     そんな銀世界の中、樹々もまばらな丘の上に暗い色合いの影の主はチカゲとオボロ。常人がかんじきもなしに踏破するには厳しい道のりも、メガミであり忍である彼女たちにとっては散歩道とさして変わりない。

     

     

     彼女たちがいるのは、御冬の里の外れにある水晶鉱山。それも、衝撃や音をその身に吸ってしまうという特別な水晶・衝音晶が採れる山だ。雪に塗れて全容こそ窺えないものの、あちらこちらに坑道が口を開けていた。
     ただ、ここに鉱山特有の活気はなく、ツルハシが岩を打ち鳴らす音も聞こえてきやしない。あまりの静寂に、禁域に踏み込んでしまったのではないかという感覚すらチカゲは覚えてしまう。
     けれど、それがあながち間違いではないということを、目の前の光景が告げていた。

     

    「……なんとまあ」

     

     苦笑いをするオボロに続いて、チカゲの溜息が白く濁っていく。
     二柱が辿り着いた坑道の入り口の少し奥で、ぱきり、ぱきり、と音を立てながら水晶が急激に育ち始める。四方八方の岩壁から生じたそれは、やがて透き通るような青の壁となり、奥へと続く道を瞬く間に閉ざしてしまった。

     

    「こうも露骨だとはな」
    「音、完全に消してたわけではないですけど、流石ですね……」
    「既にあやつには『見えて』いるのだろう」

     

     だが、とそこでオボロは継いだ。

     

    「ならばと引き下がるわけにもいくまい。無礼なのは承知の上で、進ませてもらおう」

     

     やれやれ、といった様子で苦無を取り出す彼女に倣うよう、チカゲもまた得物を取り出した。メガミを完全に遮断するには、些か以上にその壁が心許ないことを見て取っている。
     しかし、それは逆に、この奥に待っている存在の意思を感じさせてやまなかった。

     

     寄らば斬る。
     そんな、彼女の拒絶の意思を。

     

     

     

     

     

     


     チカゲにとって、暗い洞窟は心を落ち着かせられる格好の場所だ。夜でなくとも暗闇に身を紛れさせられるし、不特定多数に身を曝さずに済む。見通した闇の中で警戒すべきは、限られた導線を進もうとする不届き者の足音だけだ。
     静寂の中で歩けば、その者自身が鳴子代わりになる。
     だから、こんな暗くて静かな洞窟に、本来居心地の良さを感じてもよいはずだった。

     

    「…………」

     

     だが、とうに外の明るさが届かなくなったというのに、微かな水晶の明かりで浮かび上がるその表情は僅かに歪められていた。
     坑道を奥へ奥へと進んでいく二柱のゆっくりとした足音は、耳をそばだててもなお小さく、ともすれば自身の鼓動に紛れるほど。もちろんそれは、忍として足音を殺しているためなのだが、所々顔を出した衝音晶によって、互いのそれを聴き取ることも難しくなっている。

     

     岩の隙間から染み出してきた水の流れも、か細く吹き込んでくる風の音も。
     そこにあるだけで生じるはずの微細な音すら水晶が吸ってしまうため、静謐を通り越して少しばかり不気味ですらあるのだ。
    人気がないどころではない。
     まるで凍りついた世界に取り残されたようで、本当にこの先に尋ね人がいるのか不安にすらなってしまう。いつもは音の反響である程度洞窟の深さを知れるものが、全く手がかりにならないのも拍車をかけていた。

     

     それでも二柱は淡々と、けれど確実に歩みを続けていく。見渡す闇の向こうには、枝分かれを始めた道が待ち受けていた。
     と、岐路に足を踏み入れようかというときだった。

     

    「ッ……!」

     

     僅かな意気と同時、チカゲの顔面めがけ、鋭い柄の先端が死角から放たれた。
     突くというよりは刺すためにあるような、茨棘の如き石突。
     しかし、食らったらひとたまりもないその神速の刺突に、

     

    「…………」

     

     チカゲは足を止めるだけで、避けるどころか瞬き一つすることはなかった。
     右頬を掠めていった尖端が、風を切り裂く。
     その距離、およそ五分にも満たず。身じろぎどころか、息を吸っただけでも悲劇になりかねない。予定調和すら感じさせるような、美しいまでの紙一重がここにあった。

     

     そのままチカゲがじっと待っていると、石突が引っ込められた代わり、今度は柄の反対側にある刃が向けられた。
     その得物を手に姿を現したのは、今代の武神の一柱たるメガミ・サイネ。彼女が身を包む袴には質実たるを示すかつての質素さはなく、ささくれ立つ内心のように裾が乱雑に散らばっていた。

     

     光を映さない瞳は間違いなくチカゲを射抜き、刃に返しのついた刺々しい薙刀を突きつける。その様子は話すことなど何もないと言わんばかりで、今にも切っ先がチカゲの喉元に食い込んでもおかしくないほどだった。
     けれど、

     

     

    「不器用ですね……」
    「……なんと?」

     

     ぽつり、と零した言葉に、サイネが眉をひそめる。
     チカゲは知っているのだ。今自分が、目の前のメガミに殺されることはないのだと。
     生半可な脅しは彼女には通じない。

     

    「怖がらせようとしたんでしょうけど、殺気が全くありませんでしたよ。チカゲはそういうの敏感なので」
    「…………」

     

     じっ、とサイネのことを見つめる。構えられた薙刀越しに交錯する視線は、いかにサイネに視力がなかろうとも静かに火花を散らすようだ。反応を待つチカゲと、応じるつもりのないサイネの間で、両者の沈黙は鍔迫り合いの様相を呈していく。
     そんな拮抗状態に待ったをかけたのはオボロだ。

     

    「まあ落ち着いてくれ。警告を無視して立ち入ったのは詫びるが、拙者たちはお主と話し合いをしたいのだ」
    「こちらからは何も」
    「そう急いてくれるな」

     

     襟巻きを下ろし、口元をはっきりと露わにする。せめてもの誠意なのか、ひらひらと何も持たない手を宙に彷徨わせていたが、彼女ほど無手が信用ならない存在もいないだろう。
     そのままオボロは、淡々と提案を続けた。

     

    「一つは、お主の変わりようについて。そしてもう一つが、現在巷に流れている風説について、だ」
    「…………」
    「もしここに胡乱な誤解が生じているのならば、それはお主の平穏のためにも払拭すべきだ。故にまずは認識を共有したいのだが、どうだろうか?」

     

     問うオボロの視線は、穏やかながらもどこか揺るぎない。
     だが、その理性的な問いかけに対し、サイネが見せたのは硬質な感情。
     険のあるその目つきは突き放すようで、彼女にしか見えない――否、聞こえないものをオボロから感じ取ったのかもしれなかった。

     

    「余計なお世話です、お引取りください」

     

     その返答までもが、この大地のように凍てついていた。
     取り付く島もないサイネの態度に、刹那の間、再び沈黙が訪れる。薙刀を握る手に込められた力が、血をどうしようもなく志向するものではないことだけが、チカゲにとって救いだった。

     

     しかし、だからこそチカゲには、サイネの硬い表情の奥にあるものに心当たりがあった。
     ふと降りてきたその考えが、彼女の口から漏れる。

     

    「な、何か……恐れていませんか?」

     

     チカゲがサイネから嗅ぎ取ったのは、かつての己と同じ疑心暗鬼。

     

    「分かります……分かりますよ、誰も信じられないその感じ。み、皆が自分を嵌めてきて、皆が自分を殺しに来て、何もかも、奪って……。ひひ、自分だけ……なんですよね、信じられるの。自分で、自分を肯定しないといけないどん詰まり……抱えた爆弾を手放そうにも、取り出した瞬間に、ひ、火をつけられる、そういう恐怖……」

     

     自らの経験を言葉にするほど、苦々しい記憶はチカゲの口を鈍らせる。けれど、たどたどしくなっていく中でも、あるいは時折下を向いてしまいながらでも、彼女はどうにかその意思を届かせようとしていた。

     

    「でも……だ、だめなんです。自分で自分を信じられなくなったら、おしまいですから。チカゲたちでは不足かもしれませんけど……」

     

     同じ道を歩ませまいと告げるチカゲ。彼女の過去のいくらかはサイネの知るところでもあり、心に疵をつけた元凶が如何ほどの規模の存在かもサイネは理解しているはずだった。
     事実、オボロに向けられた表情と比べたら、チカゲに向けられたのは思案しているようなそれであった。
     だが、

     

    「……そうですか」

     

     返しのついた刃の切っ先が、丁寧にチカゲの顔を指していた。
     それでも殺気が放たれていないことに、チカゲは小さく口端を歪める。
     ならば、と取り出した苦無を彼女は前へと向けた。

     

    「愚弟の真似事というのが気に入りませんが……サイネ、あなたに桜花決闘を申し込むことにします。いいですよね?」
    「……!」

     

     突然の提案に、サイネの顔が少しばかり崩れる。その苦々しさは、自身に対する不理解への喘ぎのようでもあった。
     力んだ手が、薙刀を震わせる。歯噛みする音が、水晶に吸われていった。
     そしてサイネはわざとらしく息を整え、口を開かんとする。

     

     けれど、その三度の拒絶の流れを寸断するように、第四の声が。

     

    「ちょっと待ちなさい」

     

     それは可憐な少女の声色のようで、永き時を経て醸成された落ち着きを孕んだもの。
     驚きを隠せず振り返ったチカゲの視線の先で、坑道に桜の色が咲いていた。
     メガミ・トコヨ。
     久遠の象徴たる人の形が、浅く腰掛けた水晶の上からチカゲたちを睥睨していた。

     

     

     

     


     時に繊細な情報を扱う忍たちにとって、情報統制は基本中の基本である。必要な者以外は知るべきではない、という教えは幼少の頃より叩き込まれており、チカゲも例に漏れることはない。
     故に、任務中の――それも、メガミ直々に動く任務での不意な遭遇は、チカゲの中に生理的な警戒心を湧き上がらせる。相手が知っているメガミであっても、だ。

     

     ただ、これがサイネが呼び寄せたものなのかと言われれば、それは否だった。旧知の仲であるトコヨの登場に、むしろサイネが顔をこわばらせているのをチカゲは認めていた。
     そしてオボロもまた、驚きを疑問の声に乗せていたが、

     

    「お主が何故――……あぁ、そういうことか」

     

     言葉にし終わる前に一人で合点がいったようで、奥歯を噛みしめるように苦笑いの表情を作る。微かに漏らした「馬鹿弟子が……」という呟きが聞き間違いではないのだとしたら、チカゲには帰還後にやるべきことが一つ増えたことになる。
     トコヨはそんなオボロに一切の反応を見せず、サイネを見、それからチカゲに焦点を合わせた。
     そして、断ち切った流れを自ら手繰り寄せるべく、告げる。

     

    「その決闘、あたしにやらせなさい」
    「えっ……!?」

     

     思わず声を上げるチカゲ。
     トコヨが決闘にそこまで関心を抱いていないという話は、他ならぬサイネから聞いたことだ。それが翻って、サイネとの決闘を望むその提案は意外に過ぎたのである。

     

     こつ、こつ、とトコヨが下駄を鳴らして歩み寄ってくる。どれだけ衝音晶に囲まれていても、彼女の足音は何故か身体の芯に響いてくるほどによく洞窟の中へ通っていた。
     その最中、彼女は言う。

     

    「あんたの過去は聞いたことはあるし、気持ちは分かる。あんたとサイネが確かに友人だっていうのも知ってるわ」

     

     でも、と横に並んだトコヨの視線が、チカゲを射抜いた。

     

    「だからこそ、ここではあたしにやらせなさい」

     

     願うでもなく、喝すでもなく。ただそこに、意思がある。
     有無を言わせないことだってできただろうに、真摯に己を主張した彼女が、チカゲには誰かに重なって見えた。天と地ほどの出来の差があっても、今はそれが必要なのだとチカゲは知っている。
     だからチカゲは、こくりと頷き、道を譲った。

     

    「さて……ようやく顔を拝めたわ」
    「くっ……」

     

     一歩、足音を刻むだけで、サイネの緊張が高まっていく。もはや彼女に否応なく、さりとて逃げ出すことも、あまつさえ凶刃を振るうことなんて、今更できないようだった。
     懐から取り出した扇を開き、トコヨが足を止めたのは、もはや追うことすら不要だから。

     

    「あたしの認めた楽才も、剣舞の才も、こんな場所で氷漬けにしていいわけがない。世に出さなければ価値は生まれないのよ。それなのに、危うさすら一緒に抱え込んで、自分一人で悩んで……昔もそうだし、今もそう。そんなところまで変わるなとは言ってないわ」
    「…………」

     

     扇に隠れた口元も、その目も、一切笑っていない。
     淡々と語られる憤りは、あるいは心ある者へ向ける感情ですらなかった。どこまでも自分勝手に、風化した芸術品に失望するような趣があり、最初から反論を受け付けるつもりがないのだとありありと分かる。

     

    「ちょっと前は、天音が武道より決闘の普及に執心してたのをぐちぐち悩んで。今度はあたしが心配して会いに来たっていうのに……腹立つのよ」
    「身勝手な……!」
    「身勝手で結構。身勝手ついでに、あんたの抱えてるもの、この舞を通して全部見せてもらうわ」

     

     突きつけた扇が、大気を分かつ。
     トコヨとサイネの間に生まれていたのは、相対するには十分な間。

     

    「拒絶なんてさせない。構えなさい」

     

     命ずるトコヨは、最後の退路を立つかのようにその宣言を口にした。

     

    「芸術のメガミ・トコヨ。桜降る代に、決闘を」

     

     瞬間、世界が凍りついた。
     トコヨただ一人に許された動を、凍てつく空気に囚われたチカゲはただただ見ていることしかできなかった。氷雪に覆われた御冬の里であろうとも生ぬるい、生の鼓動すら辞してしまうような極寒が坑道に吹き荒れたようだ。

     

     その中心に、トコヨは凛として立つ。
     本気で決闘へと臨む彼女は、一点の曇りなき美術品。頭頂からつま先に至るまで、装いの揺れ一つまでもが、かくあるべきとそこに在る。
     恐ろしいほどに美しく、美しいほどに恐ろしい。
     少女の形をした美が、決闘の舞台に降り立った。

     

    「…………」

     

     対し、サイネがその空気に呑まれることはない。黙したまま冷徹な顔で受け流す彼女は、けれどトコヨの切り出した相対までもを切って捨てることはできないようだった。正対を強要する美の体現へ、やむを得ず意識を注いでいた。

     その柄を縦に、刃を天に。応じて為すは、八相の構え。
     凍える世界を断ち切らんと、彼女もまたそれを口にする。

     

    「武神サイネ。桜降る代に……決闘を」

     

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