『八葉鏡の徒桜』エピソード4−1:津津浦浦、滄桑之変

2019.12.20 Friday

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     湯呑から立ち上る湯気が、香ばしさを運ぶ。三柱分のほうじ茶が、しばらく主のいなかった冬の部屋に火を入れたようだった。
     冷える身体に熱い茶を流し入れたユリナは、芯から温まっていく感覚に時が流れた事実を今一度噛み締める。それが楽しい出来事を逃しただけであればよかったものを、向かいに座すホノカとウツロが眉尻を下げている様子は、ユリナに居住まいを正させるには十分だった。

     

    「えっと、わたしもまだ整理しきれてるわけじゃないんですけど……」

     

     そう前置きしたのはホノカだ。

     

    「ここ数か月、桜降る代では色んなことがありました。まるで、二十年前みたいに――」

     

     

     


    「まず話さないといけないのは、千洲波諸島から得体の知れない人たちがやって来たことでしょうか」
    「えーと、千洲波って……」
    「……まあ、そう言うと思ってました。ここです。稲鳴から、海を渡った南の島ですね」

     

     

     彼女はユリナに見せるよう、この地が南から北まで描かれた地図を広げた。それから指し示したのは、桜降る代の南西に位置する広大な地域――そのさらに南側だ。点々と島らしきものが描かれているが、ユリナたちのいる大陸よりも明らかに海岸線が雑である。
     それが地図の作者の落ち度ではないことは、流石のユリナも記憶していたようだった。

     

    「未開の地って言われてる場所ですよね。確か、危ない人たちがいるって噂の……」
    「はい。目的はまだはっきりしてないみたいなんですけど、その人たちは今、稲鳴の海岸付近に陣取ってます。そこに至るまでにひと悶着あって、その戦いの場にメガミが四人もいたのに、海から来たその人たちを追い返すことができなかったんです」
    「……!?」

     

     いきなり思っても見なかった規模の話になり、ユリナが目を丸くした。
     それにウツロは、端的な言葉で事態を表現する。

     

    「侵略。物騒だけど、事実」
    「ええと……その辺りって確か、ライラさんがよくいるところですよね?」

     

     言外に安否を気遣うよう訊ねたユリナに、ホノカは少し迷ってから、否定も肯定もせずにその小さな指を四本立てた。

     

    「応戦したのは、稲鳴の方々と、ライラさん、ミズキさん、コダマさん、ハツミさん――対して千洲波から来た人たちは、誰も見たことない剣の顕現武器を使うミコト大勢と、彼らに力を貸してる正体不明のメガミが一人」
    「ものすごく強かったって」

     

     ウツロが、立てた己の人差し指一本にじっと視線を落とした。
     一方でユリナは好奇心が鎌首をもたげるものの、

     

    「とっても強い、剣の顕現武器……」
    「ユリナ、落ち着いて。今は桜花決闘どころじゃない」
    「なんでも、一太刀で海岸が割れたらしいです」
    「え……」

     

     ホノカが冗談を言うようなメガミではないことをユリナは知っている。ユリナは桜花決闘を愛し、それゆえに強者たちに興味を持つ。だが、破壊を呼び起こすために力を振るいたいとは考えていない。彼女の望みは、あくまで決闘の中にある。
     熱しかけたところをいきなり冷まされて、ユリナの視線はホノカへ先を促した。

     

    「一応、皆さん無事だったみたいです。でも、戦いの最中にコダマさんに何かあったらしくて、ミズキさんが自分の権能で保護してるとか。この辺りはちょっと、伝わってくる情報が曖昧で……」
    「コダマさんが……。それから、どうなったんですか……?」

     

     積み上げられていく不穏に、さらなる悪い知らせを予感してしまう。ユリナの手に、コダマと手合わせしたときの重い感触が蘇る。
     けれどホノカは、稲鳴平野南端の海岸線の一帯を指し示しながら、

     

    「戦いそのものは痛み分けで終わったって話で、それから千洲波の人たちは、この辺りに拠点を作って暮らしてるみたいです」
    「暮らしてる……だけですか?」
    「そうなんですよ。秋の終わりからこっち、そこそこ経ってますけど、怖いくらいじっとしてるみたいですよ」

     

     肩透かしと言い捨てるにはあまりに不吉な結末。むしろ脅威が巣食ったとでも言うべき回答に、ユリナは思わず口をつぐんでしまった。
     それからウツロは、稲鳴に隣接する地域を指差していく。

     

    「だから周りの家、みんなピリピリしてる。菰珠とか、山淵とか」
    「山城や煙家なんて、大真面目に防衛線を築き始めたくらいで……。おかげさまで、追加の神代枝が欲しいってあちこちから言われて大変だったんですよ、もぅ……」

    「ホノカ頑張ってた。……私も片付け頑張った」

     

     遠い目をするウツロに、惨状を思い浮かべたユリナが曖昧に笑う。
     各家が動き出す騒動など滅多なことではない。けれどユリナは、その未知なるメガミの断片的な強さからも、これが人の手に負えるものではなさそうだと直感していた。そうなったとき矢面に立つのは同じメガミである。たとえ四柱で引き分けたとしても、人にはさらに勝機がないのだから。

     

    「喧嘩……かどうかは分からないけど、メガミ同士で争うなんて嫌だなあ」
    「もちろんそうですけど、メガミの皆さんも不自然なくらいに動きがなくて」

     

     たとえば、と不安を顔に浮かべたホノカは続けた。

     

    「ライラさんなんかは、すぐやり返しに行くのかな、ってはらはらしてたんですけど、誰にもそういう話が来てないし、ご本人も動いてないみたいで。ちょっと変ですよね」
    「うん、意外……あと、こういうときはヒミカさんが顔を出しそうだけど」
    「同じくですね。耳に入ってないということもないと思うんですけど、ヒミカさんの場合はほら、興味湧くかどうかじゃないですか」
    「あぁ……」

     

     納得したように苦笑いを零し、一口茶を啜った。

     

    「ヒミカさんたちがそうなので、ハガネさんもまた動いてません」
    「ユキヒも海の向こうだし」
    「えっ……それってどういう……」

     

     驚きを見せたユリナに、ウツロが説明を補う。

     

    「サリヤが里帰りするのについてった。まだ帰ってきてない……と思う」
    「ユキヒさんが向こうで着る正装は私が仕立てたので、帰ってきたら感想を聞くのが楽しみなんですっ」

     

     雲間の期待に笑顔を咲かせるホノカ。
     ユリナは感心したように、へぇ、と漏らしてから、頭を振って今度は自分が指折り数え始めた。

     

    「それで、ヒミカさんたちも動かないとなると……オボロさんは?」

     

     この地で起きる騒動にいつも耳ざといメガミの名を挙げる。ユリナがまだ人間だった頃に助けてくれたオボロは、今でも頼れる相談相手として繋がりを持っている。
     しかし、問われたホノカの反応は芳しくなかった。

     

    「あっちはあっちで調べてるみたいではあるんですけど、この事件についてはまだ密に連絡を取り合ってはいないので、詳しくはなんとも……。直接話を聞きに行くにしても、ユリナさんがいないうちはやめとこう、ってウツロちゃんと」
    「そっか……」

     

     同意を示すようにこくりと頷いたウツロの様子に、ユリナは首を傾けてうんうんと唸り始めた。それでも、伝え聞いただけで分かるこの不穏へ向かっていくメガミの名前は、それ以上彼女の口から出ることはなかった。
     結局、名を挙げるのを諦めたユリナは茶をひと啜り、最も身近である者たちの動向に意識を向けた。

     

    「それで、わたしたち……というか、宮司連合は?」

     

     それにホノカは、代わり映えのない答えを返す。

     

    「動かず……ですね。桜花決闘に影響は出ていませんし、わたしとウツロちゃんも、ユリナさんが起きるまで待とうって決めてましたから」
    「ユリナは、どうしたい?」

     

     跳ね返ってきたその問いに、ユリナも渋面を浮かべざるを得なかった。

     

    「……ぅうーん、どうしたいかで言えば、話しに行って何をしたいのか訊きたいんですけど……。流石に危ないですよね」
    「うん……。コダマのこともあるし、万一が起こり得る」
    「…………」

     

     場に落ちた沈黙は、未知なる相手を前に暗中模索を強いられてのもの。それも、実際に手探りをしようものなら噛みつかれるというおまけつきで、相手を理解するための第一歩を踏み出す困難をユリナは噛みしめた。
     そのまま思索の海に潜りかけた彼女は、しかし話が泥濘にはまり込むのをよしとしないホノカによって引き止められる。

     

    「あ、ちょっと待ってください。どうするか決めようとするより前に、他にも気になることがあるので、先にお話しさせてください。こっちは分かりやすく危ない、って話ではないんですが……」

     

     話題を切り替えようとする一方、やや歯切れの悪い彼女にユリナは改めて向き合った。
     ホノカはどう話し始めていいものか悩んでいたようだったが、やがておずおずと一つの質問を投げかける。

     

    「あの……ユリナさんは、ヤツハさん、ってメガミはご存知ですか?」
    「ヤツハ……?」

     

     いまいち要領を得ないそれに、問われた名をそのまま口にする。ホノカの口ぶりは、まるでユリナから否定が返ってくることが前提になっているようであり、事実ユリナは首を横に振るしかなかった。
     ただ、そのメガミがまだ知り合っていないだけの存在ではないのだと、困り顔のホノカは告げた。

     

    「色々なところから、その方らしい噂が結構聞こえてくるんです。そのヤツハさん、自分の権能も曖昧なら、どうも記憶もないみたいなんですけど、このこと教えてくれたのコルヌさんなんですよ?」
    「わ、わざわざ来てくれたの?」
    「はい……本当にそれだけの用だったのでびっくりしちゃいました」
    「それはまた……」

     

     普段北限から出てこない守護者が直に伝えに来たともなれば、ユリナも思わず居住まいを正してしまう。
     ホノカはそれから、広げられたままの地図の北限を指してから、その指先を西寄りに南下させ始めた。

     

    「コルヌさんだけじゃありませんよ。天詞ちゃんからも、その子が古鷹に来たってお手紙が届いてます。そのときのヤツハさんは何故かミコトだって名乗ってたらしいんですけど、同行者がコルヌさんの証言と同じだったので、おそらく同一人物かと」
    「クルルと旅してるみたい」
    「……!」

     

     ウツロから出たそのメガミの名に、ユリナが僅かに固まった。不穏な話に登場するにはあまりに不吉で、その無邪気な好奇心が全土を巻き込む一大事を引き起こしたことは忘れられるはずもない。
     窺うようにホノカを見やれば、同様の懸念を抱いているようで小さく頷き返した。
     ただ、その二柱の横で、ウツロは表情をろくに示すことなく言葉を付け足した。

     

    「悪い子じゃないよ」
    「それは、まあ……」

     

     友を慮る彼女に、ユリナがばつが悪そうに頬を掻いた。
     説明を続けるべく、ウツロが先を促す。

     

    「あと、鏡の欠片の話」
    「そ、そうでしたっ! 桜降る代に密かに流通してる鏡の欠片があるんですよ。これもどうやら北限が出どころで、ヤツハさんが北限で見つかったこと、戦いの中で鏡を使っていたことからも、ヤツハさんに関係する物みたいなんです。コルヌさんがそう言ってました」

     

     それに、と継いで、

     

    「夏にあった達人だけの大会にも、その鏡の力を使うミコトがいたんですよ。化け物みたいな何かの爪や牙を、鏡から呼び出してました。鏡の欠片を持ってるミコトは、不思議とその力を宿せるみたいで……あ、優勝したのは別の銃使いの方なん――」
    「誰!? どんな決闘だったの!?」

     

     突然、抑えきれないといった様相で目の色を変え、ユリナが食いかからんばかりに身を乗り出した。膝が当たって倒れそうになった湯呑が、ウツロの配慮によってユリナの影への呑み込まれていった。くしゃり、と地図があえなく皺を作る。
     迫られたホノカは、片手で制止を示しながら、

     

    「はい、どうどう……ご心配なくっ! 大会の様子は、ちゃーんとこれで撮影しましたから、あとでゆっくり見ましょうねっ!」

     

     得意げな顔を浮かべてどこからともなく取り出したのは、四角い金属の箱に一つ目のついた寫眞機だ。

     

    「うわあ、ぽわぽわちゃんありがとう! それ、オボロさんが教えてくれたのだよね。便利そうだなあ」
    「ちょっ――ユリナさんが触ると壊しちゃうからだめですよっ!」
    「えぇ、だってその中に決闘の写し絵が入ってるんでしょ?」
    「違いますっ! 撮った寫眞はわたしのお部屋にありますからっ!」

     

     右へ左へユリナの魔手を回避するホノカを尻目に、手ずから二柱分の湯呑を退避させるウツロ。どこか呆れたような表情を浮かべ、口に含んだ茶はもう随分と部屋の冷たさに染まっていた。
     と、そこへ、

     

    「ご歓談中失礼します。お客様がお見えです」

     

     部屋の主の許可が出る前に、廊下から襖を開いたのは一人の老いた女だ。
     高野君江。ユリナがまだ人間・天音揺波だった頃、天音家に仕え、ユリナの世話をしていた女中である。現在もこうして、ユリナの社である天音神社の管理人として、形を変えてユリナに仕えている。その立場から、桜花拝宮司連合に籍を置くようになって久しい。

     

     もう腰が曲がり始めている身ながら、高野は三柱のメガミを前に物怖じするどころか、落ち着きを持てと言外に訴えているようですらあった。
     彼女が襖の陰で恭しく頭を下げる来客。

     

     その姿を見るや、ホノカが驚きと共に、露骨なまでに小さく頬を膨らませた。ユリナ自身もまた、その来訪には驚きを隠しきれない。一見して無表情のウツロも、僅かに口が開いていた。

     ユリナたちを眺め、来訪者は口元を袂で隠しながら、薄く笑いを浮かべた。

     

     

    「これはこれは、突然の訪問に気を悪くされたようで申し訳ありません」

    「あれ、シンラさん。お久しぶりです」

     

     十重二十重に着込んだ装束を伴って部屋の入り口に立つのはシンラその人だ。彼女はあからさまにホノカを見下ろしており、返すホノカの視線が宙でばちばちとぶつかり合っているようだった。
     それにユリナは若干たじろぎながらも、ホノカを背に隠すように前に出てから訊ねる。

     

    「えっと……何のご用ですか?」

     

     やや警戒を滲ませているのは、シンラと出会うとかなりの確率で勝負事になるか、同席するホノカと喧嘩を始めるためだ。まだホノカの語った決闘大会に関心が傾いているユリナは、何を切り出されるか気が気でなかった。
     しかし、シンラは微笑みを湛えたまま、持っていた風呂敷包みを掲げてみせた。

     

    「今日は遊びに来たわけではありませんよ。実は先日まで海の向こうに出向いていたもので、手土産にあちらの菓子を持ってまいりました。皆さんでどうぞ」
    「わあ……ありがとうございます! せっかくなんで、シンラさんも一緒にお茶にしましょう!」

     

     瞬く間に懐柔されたユリナの背中に、ホノカの恨めしい視線が刺さる。もはや予定調和とばかりに、ウツロが三柱分の湯呑を片付け始めた。
     ただ、続いて告げられたシンラの用件に、ユリナたちは態度を改めることになる。

     

    「ユリナが戻っているのでしたらちょうどよかった。あなた方と、是非話し合いたいことがあるのです」

     

     笑みを潜めたシンラの眼差しは、遊びでないという言葉が正しいと示すよう、真剣さを帯びていた。

     

     

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