『八葉鏡の徒桜』エピソード3−5:鐵

2019.11.17 Sunday

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     ゆっくり、ゆっくりと、コダマの身体が後ろへ傾いでいく。一秒が永遠にも感じられるような時の中で、叩きつけるような壮絶な斬撃の結果が淡々と現れていた。
     敵を前にしながら、その拳が解かれる。
     決して土のつくことのなかった、一本に絞るようにまとめた長髪が、わだかまった潮水に呑まれる。
     袈裟に斬られた傷跡から、命の光が溢れ出す。
     朽ちゆく桜の、最期の輝きのように。

     

    「コダマっ……!」

     

     考えるより前に、ミズキは一歩を踏み出した。加速した思考の中で、己の歩みがあまりに遅いことがもどかしかった。
     だが、受けた衝撃に跳ねてコダマの前面が顕になるやいなや、酷い悪寒が背筋を凍らせる。

     

     メガミの肉体である顕現体の破壊。
     人の身より遥かに頑丈であるが故、なかなか起きることではないが、約二十年前の大事に際してはミズキ自身も経験している。そのときはコダマも、結晶の塵化を司るメガミ・ウツロによって桜と散らされ、神座桜の奥から事態の成り行きを見守ったものだった。

     

     しかし、目の前のコダマの身体は、ただ顕現体が破壊されているというには異常に過ぎる。
    噴き出した桜の光のその向こうで、肩から腿にかけて走った傷口からは青白い光が漏れ出している。変貌と共に見せた、あの冷たい光だ。
     そして何より、歪な光を発するその傷口が、まるで裏返ろうとしているように広がっていこうとしていた。コダマの外皮が剥けていくかの如きその様子は、コダマの変貌に起因するものか、あるいは血色の剣によるものか、どちらにしたところで普通であるはずがなかった。

     

     何か、とてつもなく悪い事態を迎えつつある。
     ミズキの直感が、確かにそう訴えている。
     今、この刹那にも。

     

    「っ……!」

     

     絶対的な敵意が、ミズキの心臓を鷲掴みにする。
     数歩先で背中を打ち付けるコダマのその先で、当然のように闖入したメガミは浮いていた。あどけなさも窺わせるその顔つきにもかかわらず、凶刃に倒れたコダマを無感動に見下ろしている。宙に姿があってなお地面につく長い髪が、先端を海水に濡らしていた。
     螺旋の剣が、ぬるりと二本の剣へ解ける。その様は非現実的な不可解さがあり、纏った腕輪足輪に刻まれた文様を始め、装いの古めかしい雰囲気と合わせても、彼我の常識からして断絶しているかのようである。

     

     さらに、この相手からは容赦というものが感じられなかった。
     コダマの瞳に残った光も、次の一撃には必ず――そう思考を作ったところで、ミズキの想像通り、未知なる巨剣がもう一度振り上げられる。

     

    「全軍、備えなさいッ!」

     

     鋭く鬨を響かせると共に、猛然と踏み切った。
     残りの距離を辛うじて無にしたミズキが、纏った大兜ごと自らを盾にするよう、倒れたコダマの前へと躍り出る。
     大地を断ち割る巨刃が、大気を裂いた。

     

    「く、あぁっ……!」

     

     叩きつけられた威力に、ミズキが跳ね返される。飛翔の勢いが乗っていないためか、防壁と同様に兜ごと切り裂かれることはなかったが、血しぶきの代わりに舞った大量の桜吹雪は、あてがった桜の力が一撃で吹き散らされた非情な現実を代弁していた。

     

    「盾兵、槍兵、前へ!」

     

     体勢を整えながら、号令をかける。紫光の門から参陣した武者たちが、新たにたった一人現れた敵将へと突貫し、その盾となる。
    けれど、子供が玩具を振り回すかのような気楽さで振るわれた刃は、数多の戦場を駆けた勇猛たる武者たちを歯牙にもかけずに斬り飛ばす。そこには技の一切はなく、ただでたらめなまでの力があるのみ。そも、手ずから振るわぬ剣にどんな技巧があるというのか。

     

     妨げにもならないと判断したのか、必死に戦線を作ろうとするミズキを無視して、未知なるメガミが剣の尾を引いて宙を蹴る。
    剣閃を描くには遠すぎる間合いだろうと、彼女の巨大な剣は容易く超越する。どこからでも攻撃を届かせられるという戦術的有利は、守勢にとって悪夢でしかない。絶大な威力に加え、対応への時間的余裕も奪われている状況に、ミズキの脳内から回答が次々潰えていく。

     

    「コダマっ!」

     

     取り逃がした後悔を打ち払い、瞬時に引き出せるだけの力で、背後のコダマがいるあたりに当て推量で防壁を築き上げる。
    しかし、遅れて振り返ったミズキが耳にしたのは、鋼を打ち鳴らす音だった。

     

    「ふんッ!」

     

     防壁に威力を僅かに減じられた刃が、撃ち落とされて岩に突き刺さっている。
     両の脚で立つコダマが、拳を振るった右の腕を震わせていた。

     

    「コダマ、行けますの!?」

     

     斬撃を退けはしたものの、彼女の身体は未だ初撃の傷に疼いている。あとひと押しでもしてしまえば崩れ始めてしまいそうな痛ましさだが、コダマの意思が決壊をすんでのところで押し留めているようだ。
     彼女は無事を示すよう、空いた左の手も握り締める。

     

    「おう……!」
    「……よろしい。なら、退きますわよ!」

     

     それが軍師としてのミズキの判断だった。その声は鋭く戦陣に響き渡り、得体の知れない新手に動揺が広がっていた自軍への号令となる。
     蠢く水音と小さく雷の鳴く声は、後陣のハツミとライラが即座に応じたことを知らせてくれる。二柱の援護があれば、無力となっていく稲鳴の民もどうにか離脱が叶うはずだった。全員が生存できるのなら、殿などいくらでも請け負おうという気概も湧いてくる。
     このまま全員無事で――考え得る最善への道筋を、ミズキの眼は捉え始めていた。

     

     だが、その指示にコダマは反応を返さない。
     それどころか、前を目指すために、脚の筋肉を隆起させていた。

     

    「なにを――」

     

     訊ねる前に、コダマは飛び出した。彼女に向けて薙ぎ払われるように、巨刃が迫る。
     剣の軌道に合わせ、慌てて防壁を展開するミズキ。あっという間に砕かれる桜色の城壁が、斬撃の勢いを和らげていく。それでも威容が有するには速すぎる速度に、けれどコダマは剣の腹に躊躇なく拳を合わせ、それを軸にして跳躍、剣閃を飛び越える。

     

    「おぉぁッ!」
    「う……」

     

     そのまま剣の少女に肉薄したコダマが、杭の生えた歪な拳を脇腹に打ち込んだ。
     肉のひしゃげる不快な音が響くが、相手はろくに顔も歪ませることなく声を漏らすのみ。小さな身体を大きく傾がせたものの、宙に足をつける彼女にはさほど意味がない。
     それを証明するように、振り抜かれた刃がコダマという羽虫を払うかのように引き戻される。十全な威力を伴った復路の斬撃に、次弾を構えていたコダマも大きく後ろに跳躍して回避を選んだ。

     

     しかし、未知なる襲撃者が平静に桜を零している中、一合打ち合っただけのコダマの左足には、新たな裂傷が生まれていた。一撃目を避ける際に掠めたものだが、それでも煌々と傷の光が瞬いている。
     不利と言うことすら憚られる、一方的な傷の交換。
     親子ほどもある体躯の差が滑稽に見えてしまう戦況で、前に踏み出す理由なんてあるはずがなかった。

     

    「コダマ、貴女――!」

     

     それでも構えを解かない彼女に、ミズキが憤りを叫びとする。
     少女に向き合うその背中は、熱に浮かされたように前のめりになっていた。
     一歩を、さらに前へ。
     踏み出そうとした友の姿に、怒りが湧き上がる。だが、刹那のうちに呼び覚まされた友への信頼が、怒りを使命感へと塗り替えていく。

     

     今のコダマは、姿のみならず心までもが普通ではなくなっている。
     ならば、自分が目を醒まさせなくてはならない。
     それが、軍師として、友としてやるべきこと。
     故に、決然と前を見据え、声を張り上げた。

     

    「貴女は戦馬鹿でも、それだけじゃあないでしょう! わたくしとの戦いを、そんな無謀で汚すなあッ!」

     

     絶叫が、海岸に響き渡る。兜の中に籠もった残響すらも、意思を宿しているようだった。
     そして、

     

    「…………」

     

     ぴたり、と。
     黙して語らないコダマが、呼応するように足を止めた。未だその背は強張らせたままであり、表情もミズキからは窺うことができない。分かるのは、一瞬でもミズキにその意識を向けてくれたであろうことだけ。
     きっかけとしては、それで十分だった。己の言葉が届いたという希望を見出したミズキは、如何にコダマを撤退に向かわせるか、あらゆる方策を模索する。

     

     ……だが、この戦場において、その間隙は命取りだった。
     たった一言で生まれた、たった一呼吸の間。
     ミズキ、コダマ双方の意識が、ほんの僅かな間にでも寸断されたからこそ生じた狭間。
     紅き刃は、絆を、断ち切る。

     

    「え――」

     

     大きな図体が、ミズキの横を突き抜けていった。
     赤くて、長い、二本の凶刃。
     そして、その先端に縫い付けられた、人の形。

     

     あまりにも速すぎた。
     今までの打ち合いが児戯であったとでも言うような速度で、血色の巨刃が二柱の間隙を貫いていた。上背の高い女が、それより大きな剣で岩に磔にされている光景は、狂った規模感に頭が焼かれるようだった。

     

     そして、視線を戻したミズキが目のあたりにしたのは、確定しようとしている破滅。
     動けなくなったコダマに向けられているのは、未知のメガミに残されたあと二本の剣。
     上空より振り下ろされた、初撃の再演。
     螺旋を描いて融合していく不気味な刃が、今にも放たれようとしていた。

     

    「しまっ――」

     

     戦慄に突き動かされるように力を手繰り寄せるミズキ。
     だが、それよりも前に、剣のメガミを唸る自然が襲った。万物を押し流す強烈な水流と、大地を焼き焦がす猛き雷が、不逞の輩を誅さんと彼女に浴びせられる。

     

    「お……」

     

     遠方から即応したライラとハツミの迎撃は、確かに敵を穿った。右の二の腕は水圧に削られ、側頭部が砕かれたように形を失い、それらを隠すように桜が吹き散らされる。
     しかし、それでも凶刃は止まらない。
     負傷した主などよりも、敵の血を求めるかのように。
     眉一つ、幼き顔が動くことはなかった。

     

    「がッ――」

     

     岩を削る音に、空気が押し出される音が混ざった。
     突き出されたその螺旋の剣は、穿った岩からうまく抜けないというようにかたかたと動き、やがて引き戻すことを諦めたのか、杭としていた剣と共に桜の光になって溶けていった。少女の形をした何かの翼が、生まれなおそうとしていた。

     

     そして、倒れ伏したコダマからは、分厚い左の胸板が大きく失われていた。刺さった刃を引き抜こうとしていたのか、両手の指も傷に塗れ、もたれかかっていた剣の消失に合わせて地面に打ち捨てられた。
     巻き込まれて断ち切られた髪の束が、徐々に動かなくなっていく腹の上に落ちる。
     洪水のように光が溢れ出す、彼女のその身体に。

     

    「そん、な――」

     

     致命傷。
     ミズキの脳裏を過る言葉は、どれも避けようがない終わりを示すもの。だが、その終わりにメガミとしての惨憺たる末期を見出してしまい、爆発的に広がっていく嫌な予感に、顔から血の気が引いていった。
     普通なら、ただの顕現体の破壊で終わるだろう。桜の元へと戻り、しばらくすればまた人の世で活動できるようになる。確かに悲惨な致命傷ではあるが、メガミにとっては肉体に限った話だ。
     普通ならば。

     

     見たこともないその姿。
     同じ存在とは思えない、不気味な傷跡。
     普通ではない今のコダマから力が流れ出続ければ、行き着く先は普通ではない結末。
     すなわち……メガミ自身の、消滅。

     

    「っ……!」

     

     行き当たってしまったその可能性に、ミズキは恐慌に支配されそうになる。けれど、腿を抓って痛みを叩き入れた脳は、諦めることなく思考を止めないことを選んだ。自他の生死ではなく、達するべき目的を見据えよ、という教えが辛うじて理性を繋ぎ留めていた。
     しかし、未知の容態を見せるコダマを適切に治療できる方策など、すぐさま浮かぶわけがない。単に顕現体が破壊されるだけなら後で文句を言えば済むものの、これが真の死が迫る足音なのだとしたら、もはや受け入れるしかないかのように思えてくる。最悪なのは、結果が分かってからでは全てが遅いことだった。

     

     謎のメガミの追撃までという制限時間に炙られながら、圧縮された時の中でミズキはあらゆる選択肢を瞬時に吟味していく。
     やがて彼女が行き着いたのは、近年起きたメガミの死。
     だが、それは諦観を後押しする事例ではなく、か細く射した一筋の光明だった。
     思い至ったのは、二十年ほど昔の、英雄譚。

     

    「あ……」

     

     命尽きようとしていたメガミを、他のメガミが受け入れる。その結果、表裏を持つ一柱のメガミが生まれたことを、ミズキは知っていた。とある武神のように死を受け入れ、力を受け継ぐのではなく、共にあらんとすることで命を繋いだ確かな実例だ。
     すなわち、自分という存在の内側で、消えかけている灯火を守り抜く。
     その後のことなんて、今は考える必要はなかった。そのまま快復してくれればいいが、まずは助けられればそれでいい。これは迫る脅威と死に対する遅滞行動なのだから。

     

     そして、それを実現するための手段は、驚くほど近しいところにある。
     祖霊の象徴。
     山城の守護神として、過去を生きた者たちを味方につけたミズキのその権能。
     彼女だけの幽世で、コダマを保護すれば、あるいは――

     

    「大手門、開きなさい!」

     

     

     決意を込めて飛ばした命に応え、ミズキの背後に紫光が立ち上る。その霧の中に奥行きを無視して現れるのは、霊幻なる朱色の連なり・千本鳥居だ。
     彼女はコダマを運ばせようと、続けて騎兵を呼ぼうとするが、それよりも先にライラが動き始めていた。開門が成ったと同時、倒れるコダマの傍に風が吹き荒ぶ。ライラの意識は、紫光の果てへときちんと向けられていた。

     

     けれど、その選択はミズキにとっての危険を孕んでいる。
     狙っていた獲物が持ち去られようとしているのに、黙って見ている狩人はいない。
     血色の大剣が、脚に力を漲らせたライラを串刺しにしようと突き出される。

     

    「させません……のっ!」

     

     織り込み済みとばかりに、瞬く間に防壁を展開するミズキ。当然それは刃を押し留めるには至らないものの、勢いを削がれた刃の射線上へ自ら身を躍らせる。
     一歩足りずに兜の角で受ける形となったが、反れた剣閃は何もない岩を砕くのみ。門へと吹き込む風が細く鳴く。
     さらなる援護は、海中からだ。飛び出した巨大質量が、剣のメガミにのしかかった。

     

    「喰らい……やがれっ!」

     

     それは大船をも容易く飲み込んでしまいそうな白鯨だ。口に咥えた大太刀は全長に迫る勢いであり、血色の剣すら小さく見えてくる。
     流石に看過できなかったのか、振り下ろされた鯨の太刀に対して敵も二本の剣をあてがう。ギリ、ギリ、と拮抗している様は大きさの差を考えると目を疑う光景で、徐々に押し返しているようにすら見えた。

     

     そこで初めて、襲撃者の眉が僅かに顰められた。
     じろり、と動いた眼球が、ミズキを指した。

     

    「……絶対に、通しませんの」

     

     強まる敵意を受け止めるよう、覚悟の言葉を口にする。強襲以来、ずっとコダマに対して向けられていた敵の意識が、ここに来て初めて他者へと移った。
     びりびり、と肌を焦がすような威圧感にミズキは息を呑む。
     否、それは少女の身体から溢れ出した力そのもの。怯えた世界が泣き叫んでいる。

     

     彼女が、残った二本の剣で斬りかかることはなかった。
     邪魔な壁ごと貫いてしまえ、と。
     右手を前に差し出した構えに、追従して生まれたのは一振りの威容。混ざりあった二つの刃に力を注ぎ込んで膨らませたかのように、二倍にも三倍にも伸長していく。

     注ぎ込まれた莫大な力を物語るよう、突き出された巨剣が光を帯びていく。
     夜明けのような、光が――

     

    「アカツキ」

     

     童女の声で下された色のない宣告に、兜の下で作られたのは不敵な笑み。
     少しだけぎこちのないその笑みと共に、ミズキは叫ぶ。

     

    「天主……八龍閣ッ!」

     

     

     ミズキを中心として、紫光が辺りを包み込む。背後のコダマを匿うよう築き上げられたのは、夢幻の世に聳え立つ天守閣。敵軍の攻勢から兵を守り抜き、反攻の刻まで揺るぐことのない不落の城は、今はミズキの堅固を象徴する盾となって差し出されている。
    すなわち、コダマを殺す者の殺意を、退けるために。

     

     もはや光刃と化した一撃が、轟音をたてて防壁に突き立った。

     

    「ぐ、うぅぅぅっ……!」

     

     ありったけを注ぎ込んで築かれた護りは、大瀑布の如く押し寄せる力の奔流を受け止めていた。初撃で硝子のように打ち砕かれたことが嘘のように、強引に道をこじ開けようとする剣のメガミに対してその堅牢さを堅持していた。
     だが、ばき……ばき……、と多重に巡らされた防壁が、外側から一枚ずつ砕かれていることもまた確かだ。盤石だったはずの護りでさえも、破城槌を打たれ続けているように、少しずつ、少しずつ削り取られていく。

     

     それでも、ミズキが引くことはない。
     己の存在理由にかけて。
     己の矜持にかけて。
     守るべき背中が、ある限り。
     その意思は、さらなる守りを、紫光の城塞にもたらす。

     

    「舐めないでくださいまし……! 貴女は、守護のメガミに守護をさせてるんですよの! それも……一番大事な、戦友をぉぉぉぉぉぉ!」

     

     絶叫には、しかし光がさらに輝きを増す。無情なまでに城壁を打ち据えるその力は、余波だけで人々を吹き飛ばしていく。ハツミの白鯨が、耐えきれずに海に叩き戻された。
     そして四振りが融合し、暴力的なまでに注ぎ込まれた力が、爆発的な光量を生んだ。
     その鮮烈さに失われゆく視界の中、最後の防壁がひび割れ――

     

    「ああぁっッ!」

     

     なお前のめりに身を挺するミズキの前に、落城を為した血色の切っ先が、大将首を落とさんと迫りくる。兜を直に揺らした衝撃に、覚悟と共に瞳を見開く。
     しかし、いつまで待ってもその身が打ち倒されることはなかった。
     兜が重く軋みを訴える。ただ、それだけだった。

     

     落ち着いた血色に戻った剣先が、兜の角に受け止められていた。
     ただその図体を、預けるように。

     

    「止まっ、た……?」

     

     見れば、光を失った巨大な剣は、ミズキより前で侵攻を止めていた。
     背後には、余波一つ通していない。無事を示すよう、大手門のほうから勝鬨のような遠吠えが聞こえてくる。
     消えゆく友を守りきり、自身という友を守るための城へ送り届けられたのだ。

     

    「ぁ……」

     

     緊張の糸が切れたのか、膝をつくミズキ。全力を使い果たした彼女はとうに限界を迎えていた。それを敵前で晒すことの意味を理解していない彼女ではなかった。
     自分もまた、城そのものとして、無事に帰らなければならない。
     距離感の狂う剣を間近にし、歯を食いしばる。帰還のための考えをまとめるべく、靄のかかった頭を必死に動かす。

     

     だが、事態はミズキが予想だにしない方向へと転んだ。
     突きつけられた刃が、桜へと還っていったのだ。

     

    「なん――」

     

     思わず出かけた疑問が打ち切られる。
     はらり、海風に桜が舞う中、剣のメガミはふらふらと地に足を着け、そのまま自重すら支えきれなくなったように背中から倒れた。四振りの翼すら、影も形もない。
     相打ちになったわけがないということはミズキが一番よく分かっている。だから、未知なるメガミの様子を目の当たりにしたミズキは、混乱の中で目を見開いた。

     

     すう、すう、と。
     小さく胸を上下させて、襲撃者が静かに眠っていた。

     

     

     

     


     大きく、炭が爆ぜる。普段は気にもとめないようなその音に、まだ休まりきっていない夕羅の心と身体がつい反応してしまう。同じ稲鳴の戦士たちが顔を並べ、さらにはメガミが三柱もいる空間にもかかわらず、戦いの余韻はまだ抜けていないようだった。
     集落は長の家、人数が人数だけに手狭になったそこへ集ったのは、夕羅を始めとした今回の戦いに身を投じた者たちだ。

     

    「…………」

     

     この場に快哉を叫ぶ者はいない。けれど、空気が失意に沈んでいることもない。重くはあるものの苦しいというほどではない雰囲気は、曖昧な終戦の形に起因していた。

     

     千洲波の民と思われる、謎の襲撃者たち。後続の彼らは続々と接岸を果たしていったが、稲鳴の戦士たちを、さらにはミズキたちメガミを追撃することはなかった。
     彼らは、糸が切れたように倒れた未知のメガミを守ることを最優先に動いていた。
     結果的に死者を出さずに撤退できたのは、そうした出方の変化があったからだ。一触即発の空気にはなったものの、奇跡的に矛を収めることが叶った形となる。

     

     実際、彼らにとってしてみれば、人間・メガミ双方の大将格が倒れた中で、手負いながら三柱のメガミを相手にしている状況であった。守るもののできた勢力は途端に脆くなる。それが切り札を兼任していたとなれば、犠牲を抑える方針に転換するのも道理である。
     だが、夕羅たちにも反攻に打って出るだけの利益はなかった。少なくともあの場では、神代枝が先に尽きたのは夕羅たちだ。狙われたらもちろん命はない。メガミたちも守りを捨てて突貫すれば相当の被害を与えられただろうが、あの剣の担い手に囲まれたら無事で済む保証はない。

     

     その剣の元と思われるあのメガミ。彼女がまだまだ暴れていたらと考えると、夕羅は今でも身震いを禁じえない。
     複数のメガミをも跳ね除ける、絶対的な力。
     しかし、その代償なのかあまりに強大過ぎる力は著しい消耗を強いるようだった。長時間戦えないだろうことだけが幸いし、この結果がある。ミズキが全力を賭した結果得られた情報は、数少ない戦果であった。

     

     桜花決闘のような単純明快な決着は、結局存在しない。
     玉虫色の結末は、彼我の目的をどう定めるかによって変わってきてしまう。相手方は無事ではなく、おそらく目的を達せられていない。こちらに人死はなかった。しかし、上陸を果たされたこともまた確か。敗北とは呼べないものの、勝利と呼ぶには曇りすぎている。
     それに、

     

    「あ……」

     

     不意に触れた左手の結晶に、表情が曇る。気づけば、思わず手の甲へと目を落としていた。
     急速に繋がりが失われていった感覚は、一生忘れられない。力はもう、手の中にはないのだ。
     しかし、そんな夕羅を察してか、かけられる声はミズキのもの。

     

    「コダマはまだ生きてますわよ」
    「えっ……本当、ですか?」

     

     その問いに頷いて見せるミズキへ、一同の注目が集まる。

     

    「わたくしの権能、祖霊を擁する大手門の中に、コダマを保護しましたの。結果、零れる力は止まりまして、どうにか存在を保つことはできました。有り体に言えば、コダマは今、わたくしの中で生きていることになりますわね」
    「で、でも、力が……」

     

     でしょうね、とミズキはそれを肯定してから続ける。

     

    「なにせ、メガミとしての存在そのものをわたくしの中に保管したわけですから、貴女方ミコトがコダマを宿すことは、今はできませんの。むしろ、わたくしを宿す過程で、コダマの力を呼べる可能性もありますわね」
    「そんなことが……じゃあ、今後はずっと……?」
    「……とは、いきたくありませんの」

     

     浮かべた微笑みは、どこか遠くを見るようだった。
     そのまま視線を落とし、

     

    「このまま数年、数十年……時間が元通りにしてくれるかもしれませんし、万一そうでなくとも復活させる方法は探すつもりですの。コダマがいないままでは、わたくしも飽きてしまいますわ」
    「…………」

     

     彼女の瞳は真っ直ぐに夕羅を、そしてその向こうを見据えている。既に懐に据えた決意が、超然とした態度となって現れているようで、それ以上夕羅が問いを重ねることはできなかった。
     代わりに疑問を差し挟むのは、稲鳴の長である。

     

    「ならばミズキ様は、これからコダマ様のために動かれると?」

     

     ただ、それには首を横に振られた。

     

    「そうしたいところですけれど、その前に知己を頼って身を隠そうかと。ここに留まるのもそうですが、山城に戻るのも論外でしょう」
    「それは何故に?」
    「連中、明らかにコダマを狙っていましたもの。となると、次はわたくし自身が狙われる可能性が高いですし、共倒れにならないよう自衛しなくては」

     

     しかし、とミズキは頬に手を添え、思案顔を作る。

     

    「課題は残りますわね。何故コダマが狙われたのか、彼奴らの目的が何なのか、そもそもコダマに何があったのか、そして……あのメガミが何者なのか。分からないことだらけでは対策も立てられませんし、お返しなんて夢のまた夢ですの」

     

     誰もがそれらの疑問に呑まれながら、あの戦場を生き抜いた。一方的に荒らされて歯噛みするようではあるが、不可解さが何よりも先に立つ。その謎こそが真の敵なのだと、改めて確認されたようだった。
     無論、痛快な解答を持つ者はいなかったが、夕羅が一人、恐る恐る口を挟む。

     

    「あの……コダマ様のことなんですが」
    「何か?」
    「ボクが宿してたコダマ様の力が、普段と変わっていたように思えていたんです。異相の力に似た感覚ではありましたが、意図したものではありませんでしたし、勝手に変わるものなのかな、と……」

     

     抱えていた疑念を吐き出せば、拳を振るう中で感じた妙な昂揚感が蘇るよう。
     その告白が一考に値すると受け止めたのか、ミズキは内心整理するよう声に出さずに口を小さく動かした。しかし、即座にまとめきれないと踏んだのか、それをきっぱりと打ち切った瞳が夕羅へ向けられる。

     

    「常識の範疇では、うまく説明できる答えは出ませんわね……まあ、覚えておくとしますの」

     

     保留とした彼女は、他に手を挙げる者がいないと見るや、居並んだメガミたちへと目を向ける。
     ライラもハツミも、この寄り合いが始まってからというもの、ほとんど黙ったままだった。

     

    「お二人とも、何か気にかかることがあるんじゃありません?」
    「はい……」

     

     まだ考えをまとめきれていないのか、生返事を先に寄越すハツミ。
     窺うように、それでいて腹を決めたように、彼女は先を作った。

     

    「でも、先に自分で確かめておきたいです。友達のことなんで」
    「なるほど……そうですわね。では、そちらに関しては貴女にお任せしますの」
    「ありがとうございます」

     

     どこかほっとしたように感謝を告げる。
     一方、視線で促されたライラは、ハツミよりも曖昧な態度を示した。

     

    「いや……うん、まだ……」

     

     言いよどむ彼女は、けれど目を泳がせるわけでもなく、床の一点のその向こうに焦点を合わせていた。知恵を携えたその瞳が何かの可能性を見出しているのは明らかだった。

     

    「はっきりおっしゃってくださいな。直感でもなんでも構いませんから、今は意見でもいいから欲しいところなんですの」
    「…………」
    「…………」

     

     少しの間、沈黙と沈黙がぶつかりあったが、先に折れたのはミズキのほうだった。溜め息をつき、手慰みのようにその長髪をかきあげた。

     

    「それで、貴女はここに留まりますの?」
    「残る。たぶん、襲われない……けど、念のため」

     

     そう漏らすように答えたライラに、長が顔を綻ばせる。なし崩し的に終戦にこそなったが、この集落から馬も要らない距離に脅威が根を張った事実は変えようがない。

     

    「ライラ様にお守りいただけるとはありがたい限り。これから冬支度も考えねばなりませんで、予定が狂ってしまいますが、早々に集落を移動させようと考えております。どうかお知恵を貸していただければ」
    「分かった。寝床、大事」

     

     心強い返事に、けれど夕羅の気が晴れることはない。続く移動先の相談も右から左に抜けていく。
     ミズキにハツミにライラ。三者三様にそれぞれの道を行くメガミたち。
     それを眺めていた夕羅は、この一大事であろうとも始まりに過ぎないのだろう――そう直感したのであった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     いやはや、侵略者たちは実に容赦がなかったね。
     特にあの……ああ、謎のメガミの剣は恐ろしい力だった。ミコトとして間違いなく達人であった大将格だけでなく、雑兵たちですらあれで武装しているというのはひどい話だ。
     
     もし、ライラが嵐を呼び起こし、船団の多くを食い止めていなければ。
     もし、稲鳴の民の奮戦が時を稼げなければ。
     もし、ハツミが民たちを救うべく全力を尽くさなければ。
     もし、ミズキが合流し、その軍略を尽くさなければ。
     実に破滅的な結末を迎えていたのは想像できてしまう話だと思わないかい。
      
     コダマに限っては戦いを勝利に導いた立役者であると同時に、引き金を引いてしまったようにも見えるので、語るのは難しそうだけれどね。
     
     そして何よりもカナヱが驚かされたのは彼女、ミズキだよ。彼女が山城水津城からミズキになった時も、二十年ほど前に苦渋を舐めた時もカナヱは見ていたけれど、まさかあの……謎のメガミに勝ってしまうとはね。
     
     確かにあのメガミにも、見ての通りの弱点はあった。しかし、普通はあのように力を出し切らせるなどできるはずがない。そもそもに圧倒的な四振りの剣により、蹂躙されて終わりだ。カナヱの見立てなら、今の結末を導けそうなメガミはそうはいない……、他者までも護らねばならないと制限するなら、ミズキしかいないだろうね。
     
     
     
     

     

     


     さらに注目すべきは、彼女が一時的にコダマを取り込んだことだ。
     彼女はコダマを護り、救うためにもこの物語に組み込まれた。
     もはや自らの地を護るだけの立場に甘んじてはいられない。
     
     

     

     

     

     


     そしてこの桜降る代――、君たちにとっても結果的には一大事というわけさ。
     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     こうしてふたつの海での物語。桜降る代とファラ・ファルードにおける事件は幕を下ろした。

     だが、彼女らの表情がどこか晴れないのも当然だ。この舞台には、あまりに多くの謎が残されているのだから。特に西の海では、驚異もまた残されている。

     

     この謎を紐解くには、いくばくかの時間が必要だ。彼女の旅が終わり、共に渦巻いていたふたつの海の物語も終わったのだから、時を再び進め、今へと至らせよう。彼女が目を覚ました、今へと――

     

     

     

     

     

     


    「うゅ……、んぅ……?」

     

     肌をくすぐる寒さが、泥のような眠気に割り込んでくる。身を包んでくれる布団がないのはいつものことだったが、それにしたって初夏の陽気すら期待していた身体には、この冬のような空気の冷たさは厳しかった。

     

    「あれ……」

     

     上半身を起こしたユリナは、敷布団すらなく、畳に直に寝転んでいたことに気づいて、こてんと首をかしげる。
     天音神社に設けられた、彼女の自室。人間だったときと同様に最低限のものしか置かれていない、簡素な部屋だ。床の間に飾られた古びた刀はその中でも静かに佇んでおり、往時を黙して語るようである。

     

     随分と低そうな陽の光が、障子戸の向こうから射し込んでくる。寝起きの頭は、それ以上考えることをやめたように二度寝を求めていた。
     それを妨げたのは、彼女の名を呼ぶ声。

     

    「ユリナさぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

     

     どたどたと廊下を駆ける音で、まどろみに落ちそうになっていた頭が辛うじて留まった。
     襖を軽快に開いて現れたのは、二人の少女である。

     

    「ユリナさん、やっと戻られたんですねっ!」
    「おはよう、ユリナ」

     

     未だろくに目も開かないユリナの手を掴んで、ぶんぶんと振り回すのは、淡い桜の装いに身を包んだ黒髪の少女、メガミ・ホノカだ。その背後では、灰色の髪の少女が見た目淡々とユリナの起床を言祝いでいた。メガミ・ウツロである。

     

    「んぁ、ぽわぽわちゃん、ウツロちゃん……? おはよう……?」
    「おはようございますっ! いつにも増して酷い寝起きですけど、これだけ寝てたんじゃ仕方ありませんよね……」

     

     苦笑いするホノカだったが、ユリナもその言葉にようやく目が覚めてきた。
     雪の大地にて喫した敗北から時を経て、久方ぶり吸った人の世の空気が冷たいのは道理であった。

     

    「あはは、そうでした。二人とも久しぶり。顕現体壊れるのって、こんな感じなんですね……何にも覚えてなくて、不思議な気分」
    「え……もしかして、向こうでも寝ぼけてたんですか……? 意識はそれなりにすぐ戻るって聞きましたけど」
    「どうだろ。起きたらここだったけど……」
    「安心した。破滅的な寝相、やっぱりユリナ」

     

     こくり、と納得を見せるウツロ。その間にホノカは、いつもの決闘装束を着崩したユリナをぺたぺたと確かめるように触れていく。
     小さく頬を膨らませているように見えるのは、憤りのためだろうか。

     

    「平気みたいですね。もうっ、何もここまですることないのに」
    「まあまあ」

     

     諌めるユリナは、傷一つない自分の腹をさする。
     敗北の痛みは、季節が二つ巡ったとて鮮明に思い出せる。

     

    「あくまでこれは、決闘の結果なんですから。わたしと、サイネさんが、桜花決闘で果たし合った――それで、わたしが負けた。それだけです」
    「でも……!」
    「いやぁ、あれは本当にすごかったんですよ! サイネさんがあそこまで技を磨いてたなんて……くぅ、思い出したら悔しくなってきました。わたしも頑張らなくちゃ!」

     

     人間相手なら高確率で取り返しのつかないことになっていただろう大事にもかかわらず、再戦に向けて闘志を燃やしてすらいる。さっぱりとしたユリナのその様子に、ホノカも言い募る言葉を呑み込まざるを得なかったようだ。
     それでも燻る不満が彼女の唇を尖らせる。どうしたものかと曖昧に笑いかけるユリナだったが、ホノカの想いを散らすようにウツロがわしわしとホノカの頭を撫でた。

     

    「ちょっ……ウツロちゃ――」
    「よしよし。ずっと会えなくて、寂しかった?」
    「んもーっ! そういうことは言わなくていいんですっ! うりゃっ、こっちもお返しですっ!」」

     

     じゃれ合う二柱に、ユリナがくすくすと笑う。自分も変わらなければ、このメガミたちもまた変わらないことに安心する。
    そういえば、とユリナは、

     

    「わたしが寝てる間に何かありました? 大会の運営とか大変だったと思うけど……」

     

     彼女としては、平穏な日常の話を期待していた。不在の間に繰り広げられた熱き決闘を直に見れなかったのは痛恨の極みではあるが、関与している大会であればホノカかウツロが語って聞かせてくれる。確か、達人だけを集めた大会も企画されていたはずだった。
     しかし、訊ねられたホノカとウツロは手を止め、お互いに顔を見合わせた。作った表情は少々ばつが悪いというもの。

     

    「いいえ、ユリナさん……色々、話さないといけないことがありそうです」

     

     意を決して切り出したホノカに、ユリナは思わず居住まいを正した。

     

     

     

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