『八葉鏡の徒桜』エピソード3−4:紅

2019.11.16 Saturday

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     平原をざわめかせる風は、背筋を撫でる冷たさを孕んでいた。先刻までは気持ちの悪い生暖かな南風だったのに、今や不穏の中心地へ吸い寄せられるように北から吹き込んでいる。

     

    「嵐、止んだままですの」

     

     馬を駆るミズキは、徐々に散っていく暗雲を行く手に認めてそう口にする。稲鳴の嵐は平野を暴力的なまでに襲ってそれきりで、他の地域に流れることは少ないが、それにしたところで力尽きたような雨雲の様子は普通ではない。
     彼女はそれを常ならざるものであると分かっているから、思わず手綱を握る手に力も籠もってしまう。彼女を守る鎧の袖が、馬の躍動に合わせて揺れていた。

     

    「あの光の第二波もないようですけど」
    「これで終わりというわけでもないだろう」

     

     応えるのは、傍らで並走するコダマ。駿馬が風を切る速度に己の脚で平然とついてくる彼女は、抑えきれない戦意を示すように歯を見せて笑う。普段通りの質素な胴着のままということもあって、修練の刻を待ち侘びているようだ。
     ライラより、海の向こうから来たる不穏に備えるべく呼び出されていた二柱。稲鳴への歩みを進めていた彼女たちだったが、その現場とも言える海岸線一帯が尋常ではない大嵐に見舞われ始めた。ライラの権能の発現――すなわちそれは、何かが起きた証左である。

     

     それから風に背中を押されるように急いだ二柱は、しばらくした後に嵐が弱まっていく光景に杞憂が脳裏を過るも、直後に海岸線を満たした眩い光に、事態が完全なる異常に踏み込んだのだと悟ることになる。
     肌を刺すような予感は、約二十年前の事件よりもなお鋭い。あのときのような無邪気な試行では終わらないだけの何かが待っていると、ミズキは揺れる馬上で覚悟を決めていた。

     

    「何者かの攻撃、というのでしたら、飛んで火に入るのは避けたいところですけれど……。ゆっくり偵察している暇もないかもしれませんの。最悪の想定をするなら、ライラがやられたという話になりますし、即時で撤退戦も視野に入りますわね」
    「まさか。退けるべき脅威に背を向けるのか?」
    「わたくしとしても気乗りしませんの。誰かさんが代わりに殿を務めてくださるのでしたら、考えなくもありませんけれど」

     

     それに鼻で笑って答えてみせたコダマに、ミズキは僅かに顔を顰めた。存在するかもしれない強大な敵に対して、コダマが抱いている懸念が自分のものとずれている。

     

    「敵が手負いである可能性が高いとはいえ、油断は禁物ですの。あの光が消える前の灯火であることを祈るばかりですが」
    「そうだな……こんなことなら、最初から急ぐべきだったか」
    「備えよりも異常が早く訪れた……それだけのことですの」
    「……こんなことなら、オレも夕羅と行けばよかったか……」

     

     それは後悔のようで、責任といった類の想いはまるでない。ただただ戦場に乗り遅れていることに遺憾を示すコダマを、ミズキが溜め息混じりに横目で見やる。力量を信頼しているものの、どう動くか分からない戦狂いと捉えれば、軍師としては心配の一つもしたくもなる。
     最近はずっとこんな好戦的な調子が続いており、それがミズキに対するものだけではないことは知っていたものの、重篤な危機を覚える事態であっても変わらないというのはもはや呆れるしかない。

     

     人間として過ごせる年月をとうに超えて続くコダマとの関係は、由来からして戦いで彩られた関係に他ならない。だからこそ、コダマの態度がその延長線上にあるものだと深く考え過ぎないようにしていた。
     しかし、それで済ませていいものか、ミズキは小さな違和感を抱え続けていた。
     戦略的な判断に頭を巡らせる彼女の中で、それは無視するにはどうも気になってしまうしこりとなっていく。

     

    「貴女――」

     

     だから、と機会を得たミズキが問おうとしたときだった。
     乱れ始めた風に、彼女の黄蘗の長髪が暴れた。小高く切り立った崖の向こうに、機嫌の悪い海が広がる。
     ライラの大嵐、そして謎の発光の発生源と思われる海岸へようやくたどり着き、ミズキの意識は状況の把握へと全て回される。

     

    「……ライラがいないな」

    「おそらく下ですの。まさか何者かに上陸されて――」

     

     ミズキの言葉は、そこで打ち切られた。
     崖の上から海岸線に沿って波打ち際を見渡した彼女の視線は、眼下から少し動かしたところへ釘付けになっていた。

     岩礁の広がる一帯に、破壊が生まれていた。
     天から巨大な刃が振り下ろされたかのように、海岸が切り裂かれている。深々と大地に刻まれたその傷を境に、陸側は薙ぎ払われたかのような吹きさらしの状態にいくらかなっており、剣閃の先を辿れば遙か先で岬がえぐり取られ、崩落していた。

     

     一体何がそこを襲ったらそうなるのか、ミズキには皆目検討がつかなかった。ただ、地形すらも変えてしまうような破壊の力が存在しているという事実だけを無理やり胸にしまい、さらなる把握へと努める。
     ミズキたちを呼んだ当のライラは、その破壊の始点と目される場所で片膝をつき、荒く肩で息をしていた。大きな傷こそないものの、その消耗度合いは遠目からでもありありと分かる。まるで、あの破壊を為した巨人と全力でぶつかりあった後のようだ。

     

     そのライラの背後、崖の下に広がる人影は決して少なくはない。肌に文様を描いた彼らは稲鳴の民。しかし、好戦的で勇敢な姿はどこにもなく、目の前の破壊に圧倒されたように呆然とへたりこむ者すらいる。構えられた武器の数はあまりに心もとなく、見ている傍で、また一つ桜と散っていった。
     さらに、彼らを庇うように前に立ち、息を切らしているのはハツミだ。傍らに浮かべた水球も、失った体力と集中力を反映するように時折形を崩している。

     

     そして、ハツミたちに刃を向ける脅威たち。

     

    「…………」

     

     戦端が開かれて久しいと思われるこの戦場で、海を背にする彼らは未だ片手では収まらない数を健在としている。それが満身創痍のメガミ二柱へ迫るその意味を理解して、ミズキは思わず息を呑んだ。
     ぽつぽつと、明け方の空の下で不気味に立ち上る血色の影法師。
     見たことのない赤黒い剣を携え、侵略者は大地を蹂躙せんとしていた。

     

     

     


    「ミズキ」

     

     呼ばれた名に、意を決したように馬から飛び降りる。今来た道へ送り出すように尻を叩けば、寂しそうに一鳴きした後、大雨で緩くなった平原へ駆けていった。
     想像を超えて悲惨な状況に、即時撤退すらも考えるに値しない。
     力ある者として戦況を一度大きく塗り替えるしか、選択肢はなかった。

     

    「ええ、遊んでいる余裕はなさそうですわね」
    「行くぞッ!」

     

     無骨な鉄拳をその手に現したコダマが崖から飛び降り、猛然と戦場の中心に向かって駆け出していく。後に続いたミズキも岩場に降り立ち、表情を引き締めた。
     直後、桜色の光が彼女の周囲で弾けたかと思えば、その小柄な体躯を覆う大きな鎧兜が、中に隠した彼女から付かず離れずの位置で浮いていた。緋色を基調としたその防具は、けれど鋭利で逞しい角を側頭部に生やしているともなれば、自ら前へ踏み出すだけの勇猛さを疑うことなどできるはずもない。

     完全装備となった彼女は、控える配下へ命を下すように、右腕を横にかざす。
     強く抱いた意思の下、初手から全力を投じるべく、その権能が開放された。

     

    「わたくしを護りだけだと思っていただいては困りますわ。大手門、開きますの……!」

     

     敵勢の気を惹きつけるよう放たれた宣言。それが終わると共に、ミズキが背にしていた崖が段々と霞んでいき、薄紫色の微光を放つ霧が立ち込め始める。
     やがて、誰もいないはずだったそこから現れたのは、全身を鎧兜で覆った武者だ。肌の見える隙間もなく、顔も面頬で隠した彼は、どこか存在が掠れたように時折その姿を揺るがせていた。
     さらに、我も我も、と紫光の門から後続が参陣し、まさしくそれはミズキを大将に戴いて合戦に赴く軍となる。

     

    「守護と祖霊のメガミ・ミズキ。その軍略を尽くし、お相手いたしますわ!」

     

     先行したコダマにだけではなく、不穏な気配を漂わせる敵が、ミズキへとその不穏な剣を向け直した。
     敵勢のうち、まずミズキへあてがわれたのは三人。一応連携を取っているつもりのようだったが、高度な戦術性は感じられない。その様に疑念を抱くものの、既にメガミ二柱を窮地に追いやった戦力を侮ることなく、冷静に戦を組み立て始める。

     

    「盾兵、前へ!」

     

     号令に応じ、武者たちが敵の行く手を阻むように大型の木板の盾を設置する。大の男の身体で支えられたその壁は、生半可な攻撃では切り拓くことはできないだろう。
     しかしそれを嘲笑うかのように、駆け込んできた相手の得物は滑らかとも言える太刀筋で盾を切り裂き、兵を一撃で屠ってしまう。声一つ漏らさず、痛みに悶えることすらなく、武者の身体の端から光へと還っていく。
     だが、

     

    「ちぃッ、離せ……!」

     

     最後まで足止めの役を果たすべく、身体に食い込んだ剣を掴む武者。稼げた時間は僅かなものではあったが、それでもミズキにとっては十分なもの。
     正面以外の敵二人を別の盾兵が拘束できていると見るや、

     

    「槍兵、前へ!」

     

     命じると共に、足を止めた敵へと肉薄する。
     彼女を守護している鎧兜は、主の動きに寸分違わず追従する。ならば彼女が敵に対して小さく薙ぐように首を回せば、大男の巨腕よりもなお太い巨大な兜の角が、鋭利さと質量を伴って眼前を豪快に打ち払う。

     

    「がっ、ぐぅっ……!」

     

     血のような外套の上から、角が敵を強かに打ち据えた。さらにそこを、ミズキにやや隠れるようにして構えた兵の槍が追撃し、剣を持つ手に一筋の赤い線が走る。流石に耐えかねたのか、敵は膝を震わせながら後退る。
     残り二人の敵に注意して立ち位置を変えるミズキ。まだ一合の打ち合いとはいえ、彼女本人には刃が届く気配すらなかった。

     

     ただ、だからこそあの一撃を貰ってはならないと、ミズキは評価をさらに改める。
     人間相手に盾兵が時間稼ぎにしかならないなど、そうあることではない。

     

    「この剣、厄介ですわよ!」

     

     声を張り上げ、警戒を促すミズキ。
     ただ、戦場へ視線を巡らせれば、当のコダマは既に左の肩口から胸元にかけて見事に切り裂かれていた。

     

    「ははっ、そのようだな!」

     

     昂りに笑いを零しながら応える彼女の様子は、興奮に痛みを忘れ去っているかのようでしかない。けれど、作られる動きはそんな負傷などなかったかのように正確かつ強烈だ。
     ぶれることのない軸足に支えられるのは、大地に根を張ったような不動の姿勢。コダマ特有のその構えから繰り出されるのは、常人では目で追うことすらままならない豪速の拳であり、今もミズキの見ている前で、相手をたった一撃で再起不能に陥らせていた。

     

    「あのお馬鹿は……」

     

     後のことなんて絶対に考えていない乱暴なやり方に、ミズキの頬がひきつる。コダマが無茶をしたツケは、最悪ミズキにのしかかってくるかもしれない。
     とはいえ、と今の状態のコダマを御することを諦めて、自身に切っ先を向ける敵へとミズキは意識を切り替える。

     

    「この甲冑は盾のようには参りませんの!」

     

     遮二無二、脳天めがけて赤黒い刃を振り下ろしてきた敵が、桜の光に阻まれる。兜より生じたその防護の力が、ミズキをさらに護る壁となって脅威を寄せ付けない。
     身を捩る動きで兜に剣を払われた相手は、無策にもう一度斬りかからんと踏み切った。

     

    「くそ、おぉぉっ!」
    「しつこいっ!」

     

     兵への指示に頭を回しつつ、再び構えたときだ。
     敵の男の背後に、ミズキをすっぽり包み込んでしまいそうな水の球体が忍び寄っていた。
     それは彼の至近にまで達すると、泡のように突然弾け、抱えていた質量を周囲にぶちまける。

     

    「うおっ……!?」
    「今ですの!」

     

     不意打ちに体勢を崩した敵へ、ミズキの背後から伸びる数多の槍が殺到する。噴き上がる桜吹雪は目がくらむほどで、相手は取り落した剣を追うように倒れ伏し、動かなくなった。
     突然の援護に辺りを見渡せば、水を権能に持つハツミがミズキのやや後方で櫂を握りしめていた。先程までは不覚を取っていたようではあるが、その名を轟かせる偉大なメガミであれば背中を預けるには申し分ない。

     

    「感謝しますの。でも、お休みになられても構いませんわよ?」
    「は、はい……いや、がんばります……。でも、ライラは……」
    「分かっています。民を庇ったのでしょう? 力が戻るまで、わたくしたちが気張りますわ」

     

     頼もしい助けによってできた余裕を使い、ミズキはさらに戦況を俯瞰していく。
     コダマと共に矢面に立ったためか、生き残りの稲鳴の民はどうにか一処に集って体勢を整えられている。心身ともに疲弊していることには変わりないが、ミズキたちに希望を見出すことができる程度には、精神力を取り戻したと見て取れる。

     

     継戦が叶った彼らの多くはミソラの弓を構えているが、それを生み出す神代枝の効果も残数も底が見えているだろう。しかし、まともに反攻できる時間は限られているというのに、蘇った戦意はミズキの下まで迸っているようだ。
     それが最も顕著なのは、拳に鉄板を纏った夕焼け色の髪の少女。その顔にミズキは、確か山城でヤツハと戦ったミコトの夕羅だったか、と記憶を引き出す。コダマがこの場にいる事実は、彼女を宿す夕羅を間違いなく鼓舞しているはずだ。
     そして敵を数え始めたミズキの耳に、そのコダマの雄叫びが響いてくる。

     

    「もっと、もっとだッ!」

     

     打撃の残身のまま吠える彼女の先で、岩盤に打ち付けられた男が泡を吹いていた。
     これで三人を撃破し、二名ほどに手傷を負わせたことになる。
     十全に動ける敵は残り四人。
     このまま続ければ、よほどのことがない限り全滅させられるだろう、という見込みがミズキの中に芽生える。

     

    「どうでしょう、降参なさっては?」

     

     故に彼女は、残った敵方に向けて降伏を持ちかけた。おそらく大将であろう男の瞳には、また辛うじて理性的な判断を期待できるだけの鋭さが備わっている。

     

    「この戦馬鹿の相手をし続けるのは、文字通り骨が折れますわよ。わたくしの名において、手荒な扱いはさせないと保証しますし、お互い血を見る事態にはしたくないでしょう?」
    「…………」

     

     これまでの戦いにおいて、双方の人間は桜の力に支えられている。ミズキが見た限り、ぎりぎりのところで死者が出ていない、といった状況だ。ここで双方矛を収めなければ、流れた血はさらに泥沼の争いを生んでしまう。今がその分水嶺だと、軍師としてミズキは定めていた。
     しかし、黙する相手を前にして、ミズキは互いの均衡が敵側に傾いていることもまた承知しており、兜の陰で奥歯を噛む。

     

     この海岸から南、千洲波諸島に向かう方面から、何隻もの船が近づいてきている。
     それら全てが彼らの援軍なのだとすれば、ここにいる残りの敵はただ時間を稼ぐことが目的となる。妙な切れ味の剣のことを考えれば、戦線は瞬く間に瓦解するだろう。
     だからこそ、理性を期待した相手は、理性でもって答えを作る。

     

    「笑止――」

     

     跳躍にて距離をとった男の周囲に、健在だった三人が集う。大将格を中心として組まれる陣形は、ミズキが望まなかった防戦のためのものだ。
     交渉にすらならなかった。そして、援軍が接岸するまで、という刻限が設けられる。
     ミズキは即座に判断を下す。

     

    「皆さん、まずはこの場の敵を殲滅しますの! 稲鳴の方々、ハツミさんは遠方からあの方々の護りを崩してください。飛び道具のない方々は無理をせず、制圧の刻に備え切りかかれる距離で待機!」

     

     小柄な体躯からは想像もできないほど、強かに響き渡る指揮。それがぼろぼろになった稲鳴の戦士たちに前を向かせ、ミズキへ抱いた希望を己が叶えるのだと気力を奮い起こす。元より大地を守る使命を胸に抱いた者たちならば、飾った言葉など必要なく、完遂への道標を示したそれこそが鬨の声となる。

     

    「そしてコダマは――」

     

     一息区切ったミズキの視線の先は、拳を打ち鳴らす力の体現。
     にやり、とミズキの口元が歪んだ。

     

    「突貫して、蹂躙なさい!」
    「良い指示だ……!」

     

     口端を吊り上げ、戦意漲らせたコダマの踏み込みが岩をも砕いた。
     彼女の猛進に合わせるよう、桜色の矢と荒れる水流が敵勢へと仕向けられる。
     大洋に揺れる船団が、決着までの時を刻んでいた。

     

     

     

     


     もはや雨は止んで久しく、雲の合間から払暁の光が戦場に射し込める。
     だが、侵略者たちが身に纏う血色の妖しさは、どれほど世界が明るさを取り戻しても消え失せることはない。

     

    かたしろ ――」

     

     大将を守る三人の敵が剣を掲げ、一斉に唱える。すると、彼らの前に人の形を模したような赤黒い霧が現れ、宙を漂った。
     それらは迫りくる桜の矢や水流の盾となるように蠢き、ミズキの招集した盾兵のように壁となる。むしろ見えない力によってミズキたちの飛び道具がそのヒトガタへ引き寄せられているようであり、阻まれる以前に次々とあられもない方向へ曲げられてしまう。

     

     敵勢を貫くはずだった弾雨は、逆に彼らに至る道へと降り注ぐ。
     すなわち、猛然と駆けるコダマへと。

     

    「面白いッ!」

     

     しかし彼女は、変化に全く予想のつかない矢を躱し、あるいは拳で払い除け、一切脚を止めることなく彼我の距離を縮めていく。途中、ヒトガタが身体を張って邪魔をするように道を塞ぐも、間隙を縫うようにして前への渇望を満たしていく。
     そして、豪快にして華麗な足捌きで肉薄したコダマは、

     

    「おおッ……!」

     

     守りの術らしき技へ注力していた敵一人の脇腹めがけ、拳を振りかぶる。
     だが、彼女の視界の端に、血色の軌跡が閃いた。味方の隙を埋めるよう、大将自らが守りの裏から刃を突き出していた。みぞおちあたりを狙ったその一撃は、避けるに難く、かといってその鋭さは甘んじて受けてよいものではない。
     故にコダマは、撃破のために振るおうとしていた拳を、突き込まれる剣へと振り落とす。

     

    「ふッ!」
    「ぬ……」

     

     撃ち落とされた剣先に、敵大将が小さく唸る。
     コダマはそのまま剣を踏みつけ、得物を地面へ縫い付けようとするが、一瞬反応の早かった相手による斬り上げの気配を感じ、軽く飛び退いて間合いを離す。

     

    「いいぞ……!」

     

     愉悦を叫ぶ彼女と、敵大将の間とで視線が交錯する。群と群で争う中、ここだけは剣呑極まりない一対一の聖域が出来上がる。だがこれは桜花決闘ではなく、行き着く先はただの果し合いだ。
     それを証明するように、大将はメガミ相手でも臆することなく踏み込んでくる。

     

    「排除する……!」

     

     重く、圧のある斬撃に、けれどコダマは今度は回避を選ばなかった。
     やや袈裟に切る軌道の剣に、脚はどっしりと構えたまま。そして掲げた左腕は、相手を穿つものではなく、刃への盾とするもの。
    あえて斬らせた腕を引き寄せれば、前のめりになった大将の身体が、握りしめた右の拳の前にまろび出る。

     

    「はは、ははッ!」
    「ご、ぉっ――」

     

     腹へと打ち込まれた一撃に、大将の顔が歪む。
     しかし、

     

    「――ふふっ……これ、しきぃ……!」

     

     浮かんだのは苦悶ではなく、さらに深まった狂気の笑み。見開いたその目はコダマを捉えているようで、得体の知れない何かに焦点が合わせられているかのよう。
     少しだけ呆気にとられたコダマは、それが潰えぬ継戦の意思であると理解して、彼女もまた凄絶な笑みを浮かべた。

     

    「くはっ、くははっ! それでいいッ……!」
    「くく……かは、はぁッ……!」

     

     伝搬していく狂気は昂揚感と混じり合って熱気を高めていく。利害も明らかにしないままに切り結ぶ二人に、他者が入り込む余地はない。
     ならば、と敵勢を切り崩さんと挑むのはミズキだ。

     

    「次弾、放ちますの!」

     

     号令に倣い、再度矢と水流が彼らを襲う。
     それら自体に特段変化はないため、居残り続ける霧のヒトガタによってあえなく進路を曲げられてしまう。
     しかし、第一射で飛び込んでいったコダマを再現するよう、地上で得物を構える隊列が岩礁の上に並ぶ。

     

    「槍兵隊、突撃ですの!」

     

     総勢十名の武者が、槍を前に構えて走り込む。ヒトガタの大半は降り注ぐ飛び道具の対応に追われており、曲がった攻撃を受けても進軍を止めない隊列は、空と地上の波状攻撃を叶える矛となる。
     敵大将がコダマが対峙している以上、もはや前進を阻むものはない。それは機を窺っていた夕羅も同様であり、牙城を崩す一打となるべく彼女も踏み切った。
     けれど、

     

    「……っ!」

     

     駆け込んでいく途中で、何かを察したらしい夕羅が大きく後ろへ跳躍する。顔を強張らせての明らかな回避行動にミズキは眉を顰める。
     直後、夕羅がいた場所を血色の光条が穿った。
     人など容易く破砕されるであろう破壊の痕が、巻き上がった水霧の向こうに見え隠れする。飛んできた礫が、ミズキを守る大鎧に強く打ち付けた。

     

    「これは……!」

     

     予測していなかった攻撃に射線を辿ったミズキは、間近に迫っていた敵の船から、同じ色の光が輝くのを認めた。
     慌てて海に向かって力を発現し、桜の光で編まれた城壁が姿を現す。
     そして、一方的な砲撃が始まった。

     

    「盾兵は皆さんを!」

     

     海岸を次々と襲う光条に、陣の後ろから悲鳴が上がる。ミズキ自身を守る防壁も一撃受けるごとに軋み、まるでコダマの痛打をもらったよう。突撃させた槍兵たちは自らを守る術などなく、あっけないまでに粉砕されていく。
     あてがった盾兵も威力を減衰させる程度が関の山であり、もはや防御に回す力の余裕がない稲鳴の戦士たちは攻撃もままならない。

     

     そんな中で唯一、動き続けているのはコダマだ。
     彼女は破壊の光条すら目に入っていないかのように、敵大将との打ち合いを演じ続けている。身体の傷から流れ出る桜の光は、着実に量を増している。

     

    「その剣術、どこのものだ!? いいじゃあないかッ!」
    「…………」

     

     歓喜と好奇を載せて打ち込まれる拳を、大将は黙々と捌いていく。限界など知らないとばかりに激しくなっていくコダマの攻撃は防戦を強いていたが、刹那の隙に反撃を繰り出す彼は間違いなく達人と評されるべきものである。
     むしろ大将は、コダマから何かを引き出すようにその身を差し出しているかのようですらあった。強力な砲撃を扱う味方が到着しても、彼が自ら引くことはなかった。
     右の拳を打ち払った剣と共に身体を沈め、返しに飛んでくる左の拳を赤き剣閃が切り砕く。

     

    「おっ……?」

     

     コダマは受けられることを分かっていたものの、少しだけ軽くなった拳に疑問を抱く。手を覆っていた鉄の板の一部が切り落とされていた。
     メガミの振るう武器すら破壊する、血のように赤黒い宝剣は実際凶悪な威力を誇る。それを達人が振るっているとあらば、コダマたちが来る前の悲惨な戦況も頷けるというものだ。
     しかし、それでもコダマというメガミの力は、目の前の敵を全て打ち砕く。

     

    「拳は、あるッ!」
    「ぐ……」

     

     弾かれた左手を引き戻すのではなく、そのまま軸足を中心に一回転。ろくに顕現もさせ直していない生の拳で放たれた裏拳が、敵大将の肩口に突き刺さる。
     拳の届く範囲において、コダマを上回る者はいない。近接戦が彼女の土俵である以上、ミコトとメガミの差を考慮から外しても、相手が危険な刃を得物としていても、コダマのほうが明らかに上手だ。

     

     防御より攻撃――とにかく己の力を叩き込むことを志向した苛烈な打ち合いは、はっきりとコダマの優勢に傾いていく。
     それを見て取ったのか否か、流れてきた閃光が二人に向かって撃ち込まれた。

     

    「……!」

     

     直撃はしない。だが、コダマの数歩後ろに着弾したそれは、彼女を吹き飛ばすほどの爆風を生む。
     定石であれば体勢を立て直すところではあるが、コダマが選んだのは攻めであった。敵大将もまた爆風に抗うように構え、コダマの隙を狙う攻めの択に力を込める。

     

    「おおおおッ!」

     

     自ら跳躍し、爆風を背に浴びて拳を加速させるコダマ。
     結果は、一寸足らずの狭間に現れる。
     大将の突き出していた剣が、コダマの首の皮だけを切り裂いて、背後へと抜けた。
     交差する弾丸のような拳が、彼の脳天に突き刺さる。

     

    「ごッ――!?」

     

     纏っていた外套が、地面に抜けていった威力の余韻で巻き上がる。散っていった結晶は、おそらくその身に宿した最後のものだ。即座に大地へ頭を叩きつけられなかったのは身代わりのおかげもあるが、その脚は執念によって踏み留められている。
     決着は成った。けれど、焦点を失いながらも、彼の目はまだ死んでいない。
     剣を突き出した両腕に力が籠もる。

     

    「きさ、ま、はぁッ……!」
    「な――」

     

     相討つべく、凄まじい精神力によって支え続けられていた剣が、コダマの首元を削ぐように切り落とされた。
     からん、と大将の手から、役割を果たしたように剣が滑り落ちる。そのまま倒れ伏す彼だが意識はあるようで、這うようにコダマから距離を取っていた。何が可笑しいのか、か細く狂ったように小さく笑い続ける彼のその様は、遁走とは決して呼べなかった。
     そんな彼を、血潮の代わりに光を零すコダマは感慨深そうに見下ろしていた。

     

    「ははっ、そうか……」

     

     そして彼女は、次第に湧き上がってくる猛烈な感情を抑えきれないというように、この戦場へ歓喜の叫びを上げ始める。

     

    「はははッ、もう終わりか!? 惜しい、惜しいぞ侵略者よ! このオレをこんなにも愉しませたんだ、もっと肉を斬り、骨を断つような戦いに明け暮れようじゃないか!」

     

     眼前で繰り広げられるその光景に、ミズキは口を戦慄かせていた。それは、未だ敵の残る中で身勝手な快哉を叫ぶコダマへの憤りか――否。
     確かに、彼女は力のぶつかり合いをよしとするメガミではあるが、ミズキが知るコダマはここまで情動を表に出すことはなかった。胸の内で燃やし続けた炎を、全て拳を練り上げるための力とするような、泰然と構える山のような女のはずだった。

     ただ、熱が存在していることはミズキも理解している。らしくないけれど、戦場に立って気が昂ぶる兵などいくらでもいる。だから、首級を上げんとしているコダマに頼もしさこそ覚えても、その態度にまで目くじらを立てるつもりはない。

     

     ミズキが――いや、この場の誰もが注視させられたのは、コダマの肉体。
     桜が零れるはずの首筋の傷から、冷たい緑の光がまろび出ていた。

     

    「ああ、実に心が昂ぶる……戦とは斯くあるべき! 我が悦びは、ここにあり!」

     

     戦場に熱狂を轟かせるその姿形が、変化を見せていく。
     鉄の板をあてがっただけの無骨な拳は、相手を確実に穿たんとする衝動を体現するように、青白い結晶質の杭を隆起させる。質素な胴着を召しただけのその身に、冷たい光を孕んだ羽毛を纏う外套がかけられた。
     変化を決定的なものとするよう、コダマの左目は極限を超えた戦意が漏れ出たように、その冷たい色をした炎のような光に覆われた。

     

     

    「コダマ……貴女、何が……」

     

     明らかな異常に、ミズキの口から思わず声が零れる。剣戟の音も矢を射る音も今はなく、存在を狂わせていくメガミの慟哭が潮騒をかき消していく。
     変貌を見せたコダマは、ゆったりと両足を広げ、腰を落とした。
     深めた笑みと共に、腰だめに構えられた両の拳がそれぞれ敵を指す。
     そして、

     

    「不道零式」

     

     言葉と同時、醜く肉を叩く音が二つ、この場に生じた。

     

    「ぎ、ぃ……!?」
    「かはッ!」

     

     コダマから離れていたはずの敵が二人、見えない殴打によって打ち据えられたように吹き飛ばされた。その軌跡は最初桜の塵で彩られていたが、途中から朱が交じる。落石にでも襲われたかのようなその衝撃に、敵の一人はそのまま海に落ちていった。
     もう一人は直感に導かれたように倒れた大将を庇っていた敵で、何度か岩の上を跳ね、そのまま動かなくなった。弾き飛ばされていた血色の剣が、彼の墓標のように岩間に突き刺さった。

     

     攻撃があったことは分かる。コダマがそれを為したことも察せられる。だが、ミズキも目で追いきれず、間合いを渡った壮絶な打撃に、味方である稲鳴の民たちも凍りついていた。
     しかし、変異な暴虐に席巻されたはずの場には、嗤いが生まれていた。

     

    「く……かはは……くはははッ……!」

     

     その源は、庇われた敵の大将。
     切り結んでいたコダマから狂気を注がれていたかのように、彼もまたこの状況で歓喜に瞳をぎらつかせていた。幾年月に亘る渇望が、求めた何かを前にしてその手を戦慄かせ、裂けんばかりに吊り上げられた口からは抑えきれない悦びが溢れ出している。

     

     異常が襲い、異常が生まれ、異常が嗤う。
     如何に優れた軍師とて読み解けない狂気が、この戦場を支配している。
     その最中、敵大将は叫ぶ。

     

    「見つけた……ぞ……!」

     

     彼らから初めて発された、目的の存在を示す言葉。それが異常の中に見出されたことが、致命的なまでに後手に回らされている現実となって、突きつけられたミズキの背筋に冷たいものが這った。
     大将の胸元から、怖気がするほど鮮烈な血色をした、手のひら大の宝珠が取り出される。

     

    「裁定と、共に……!」

     

     伏したままの彼の手によって、それが掲げられる。
     刹那、

     

    「ぁ……」

     

     世界は、敵意に圧倒された。
     視界が揺れたとミズキが思ったのは、知らない間に震えていた膝のせいだった。

     

     弓を引く稲鳴の戦士も、拳を構える夕羅も。
     戦線へ戻るべく立ち上がったライラも。
     海を操り、次々と迫りくる後続の船団に抵抗していたハツミも。
     一切、動けなかった。身構えることすら、できなかった。

     

    「なん、だ……」

     

     あれほど牙を剥いていたコダマすら、拳を下げて呆然とするばかり。
     何かが、来る。
     南の海を越え、敵意の源が――稲鳴を脅かさんとしていた不穏の正体が、今ここに、やってくる。

     

     隼よりも速く、鷲よりも力強く。鈍色の雲を背景に、点は瞬く間に大きくなり、形を確かなものにする。
     小柄な体躯、その背に広がるは血色の翼。鈍く光を照り返すそれは、四振りの刃。
     持ち主の三倍は優にあろうかという剣が、未だ遠くとも眼前としたかのように、はっきりと血色に輝いていた。

     

     

     それは、少女か。否……間違いなく、メガミであった。
     彼女はただ一直線に、ミズキたちのいる海岸へと向かっていた。
     一点に、その莫大な敵意を注ぐために。
     その瞳がコダマを映していると分かるのに、そう時間はかからなかった。

     

    「コダマっ……!」

     

     ミズキの直感は、友の危機を訴えていた。後から追いつこうとしてくる理屈なんて捨て置いて、とにかく守らなければ、という想いがミズキを突き動かす。
     飛来するメガミが、地上を強襲すべく急降下を始める。背に据えた二本の剣が彼女の正面で混じり合い、赤と黒が互いに絡みつくような螺旋の刀身に切っ先が生えた、歪な形の得物と化す。
     さらに加速さえしているその脅威に、ミズキは咄嗟に権能を発揮した。

     

    「守りませっ!」

     

     海と陸を隔てるように、桜色に淡く光る分厚い城壁が聳え立つ。迫りくる悪意からコダマを庇うように築き上げられたそれは、並のミコトでは傷一つつけることもできない強固な護りの発現だ。
     いかに急造の砦であろうとも、普段コダマの破壊力を受け止めているだけの強度はある。ましてや、今向けられている刃の血色に不吉なものを感じ、いっそう力を込めたのだから、刹那に繰り出した護りとしては十二分ですらあった。

     

     防壁に対し、血の螺旋を描く巨大な剣が、悠々とひとりでに振りかぶられる。敵意が、突き刺すように鋭くなる。それすらも、ミズキの防壁は跳ね除けるはずだった。
     しかし、速度を纏って振り下ろされた剣は、

     

    「な――」

     

     血色の剣閃を描き、城壁に食い込み。
     まるで硝子のように、ミズキの護りを割り砕く。
     そして辿り着くのは、僅かに驚愕の色を浮かべた友で、

     

    「コダマぁぁぁぁぁぁっ!」

     

     凶刃が、コダマを切り裂いた。

     

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