『八葉鏡の徒桜』エピソード3−2:颱

2019.11.12 Tuesday

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     身についた習慣というものは、一日だけ都合よく忘れられるものではない。

     

    「ん……」

     

     目を開けた夕羅は、未だ満足に朝日の光も入ってこないその天窓が、久方ぶりの実家のものであることに思い至った。贅沢に布団も貸してもらってゆっくりと眠れたはずなのに、早朝の鍛錬の時間だとまだ冴えない頭が訴えている。

     

    「もう少し……」

     

     しかし、一人旅の間であれば即座に飛び起きるところを、彼女は羊毛の優しさに未だ身を委ねたままだ。重いままの身体は、昨晩遅くまで重ねていた鍛錬の余韻であり、全身は眠りを欲しがってやまない。
    家族も起きていないようだし、明るくなるまでもう一眠り――そうまどろみの中で決意し、寝返りを打った夕羅だったが、

     

    「……なに?」

     

     床につけた耳が、どたどたと秩序のない足音を拾った。意識を外に向ければ、こんな明け方には迷惑でしかない騒々しい人の声がする。断じて獣に家畜をやられた怒りなどではない物々しさがそこにある。
    そして夕羅は、元凶に思いを馳せたところで、ぞっとするような気配に身震いした。

     

    「……!」

     

     海岸で感じた、あの不穏な空気。この内陸にまで漂ってきたようなそれがようやく、ひたり、と彼女の脳を撫でたようで、急騰した危機感に飛び起きる。
    天幕が開け放たれたのは、それと同時だった。

     

    「夕羅、いるか!?」

     

     飛び込んできたのは、この集落で共に生きる稲鳴の戦士。彼は起き上がってくる夕羅の姿を認めて、険しい顔に僅かながら安堵を滲ませた。

     

    「よかった、ここにいたか……!」
    「何があったの!?」

     

     問いながらも、悪い予感に導かれるように手早く身支度を整える。覚醒しきっていない頭に活を入れるように頬を叩き、騒ぎで目を覚ました親を横目に武具に手をかけた。
    同胞の戦士は、そんな夕羅へと運命の訪れを告げる。

     

    「海の沖から、怪しい船が何艘も浜に向かってきている。まだ上陸こそされていないが……」
    「もしかして――」

     

     口にしてしまえばすぐにでも現実になってしまうようで、不吉な予想を呑み込んだ。同胞もまた、あえて言葉を継ぐことはなかった。
    とにかく、と彼は外へと手招きする。
    真っ直ぐに真南へ――謎めいた存在との間に横たわる大海原の入り口へと。

     

    「急いで行ってくれ、長がおまえを呼んでいる!」

     

     

     

     


     小さな岬へと吹き付ける南風が、気味の悪い生暖さを孕んでいる。眼下から大海原にかけて広がる岩礁は、ようやく白み始めてきた曇り空の下、海風に煽られた小波にその身を洗われていた。

     この場に集った稲鳴の戦士は十を数えるかどうか、といったところ。長を先頭に腕利き揃いであり、昨晩夕羅と共に異相の技を身に着けた者が含まれている。形になった者は、彼女を含めて全部で三人――未知の脅威に対するには、どうにも心もとない数だった。

     

     その力の主たるライラは、長の隣で耳をピンと立てて警戒心を露わにしている。彼女は肌身で大地と己を一にするよう装いを最低限に留める代わりに、夕羅たち稲鳴の民のような文様を身体の四方に描き入れており、骨や牙を吊るした装身具は大自然に訴えかける者としての立場を示している。
     そして、ライラが稲鳴をその背に隠すだけの不穏は、既に目に見えるところまで迫ってきていた。

     

    「…………」

     

     誰が何を言わずともそうと分かる脅威。陸を目指す船は、漁船や商船では到底ありえない威圧感を放っていた。

     

     南風を捉えるように張られた帆では、錆びた血のような紅で描かれた印が、見る者へ己の存在を押し付けるように強烈に主張していた。波に見え隠れする船体も、大漁を祈願するには些か以上に念の籠もった筆跡で文様が書き込まれているようだ。
     文様は稲鳴に伝わるそれと似ており、他所の人間であれば一緒くたにしてしまいかねない。けれど夕羅は、この地の文化に触れて育った者として、両者が明白に異なっていると断じることができた。

     

     ただ、違いを主張したいという私情もまた、そこに含まれていることを彼女は否定できない。
     海を越えてやってきた彼らは、夕羅たちと同一視することが憚られるほどの存在であると知っていたからだ。

     

    「あれが、千洲波の……」

     

     ぽつりと無意識に溢れてしまった推測が、己の耳にいやに大きく聞こえた。
     桜降る代の南西の端である稲鳴……そこからさらに荒れる海を越えた先にある島々を千洲波諸島と呼ぶ。北から瑞泉へと下る船でないのなら、この海を渡る者はその千洲波に住まう民でしかありえない。

     

     激しい海流や、どこまでも続く岩礁地帯、さらには荒天に阻まれ、稲鳴には港町というものが存在しない。故に千洲波との交流はなく、彼の地に住まう者たちが稲鳴を訪れたことは、夕羅の知る限りにおいて一度もない。
     それでも人々の存在が確認されているのは、未開の地としてこの地から調査に向かった者たちがいたからだ。稲鳴の民も攻撃性と排他性を持つと言われるが、千洲波の民がその比ではないことを、過去、煙家から渡航した調査隊による記録が示していた。

     

     数十名に及ぶ調査隊のうち、帰ってきたのは片手で数えられる程度だけ。
     皆殺し――それが、謎に包まれた地へ踏み込んだ人々に待っていた結末だった。命からがら逃げ帰ってきた調査員は、しばらく恐怖でまともに口も利けなかったという。

     

    「ライラ様……」

     

     思い起こしてしまった逸話に戦慄し、頼れるメガミへと目を向ける。
     ライラはその呟きに、耳をぴくりと動かした。

     

    「力、かして」

     

     はっきりと告げる言葉は、夕羅に答えたものではない。けれど、求められているという事実が恐れを少しだけ和らげてくれる。
     それに応じるのは、皆へと振り返った長だ。

     

    「不測の事態だ、万一もあり得る……皆、心せよ! そして、要となる異相の技を手にした者たちは前へ!」

     

     彼の言葉に、夕羅を含め三人の戦士が集団から身を出す。
     揃った彼女たちに手を出すよう指示する長に従えば、手のひらに仄かな光と安堵を覚える微かな温かさを孕む一本の棒が載せられた。続く男二人にも同様に、淡い桜色をしたそれが各自一本ずつ配られる。

     

    「使い方は知っているな?」

     

     神代枝。桜の力を凝縮した、決闘以外でミコトがミコトとして戦うための兵装。各家に限られた数しか供給されないそれは、この時代において脅威に立ち向かうための防衛力の象徴に他ならない。
     それを渡された意味の重さを悟り、夕羅の首筋に冷や汗が流れる。

     

    「あの、長……」
    「言うな、ただ拳を握れ」

     

     だが、と長は続けようとして、深いため息をつく。それは、か細い幸運を祈るために心を整えるようだった。

     

    「連中が何を求めているかは分からぬ。万一が起こらんことを、まずは願おう」
    「はい……」

     

     実のない返事を受け取った長が、顔を背けていた来訪者たちへ向き直る。
     変化が起きたのは、ちょうどそのときだった。

     

    「う、海が!」

     

     戦士の一人の叫びに緊張が走る。しかし、視線を彷徨わせた頃には、その変化はあまりに分かりやすい光景となって夕羅の目に映っていた。
     迫る船団の前方、上陸を阻むような位置の海中から、翡翠色の不可思議な光条が天へと立ち上っていた。海は光を中心として次第にうねり始め、まるで生きた蛇のように隆起していく。鎌首をもたげた水流は夕羅たちのいる岬と同じくらいの高さから、怪しい一行を見下ろしていた。

     

     そのうち、複数立ち上っていた水柱が中心の一本へと集まっていく。
     その頂点には、櫂の先を船団へ突きつける少女の姿が。

     

     

    「聞け、我が領域たる海を往く者よ」

     

     海のメガミ・ハツミの威厳溢れる声が、海岸にまで微かに響く。水が音を反響させているのか、まだ距離のある夕羅の下にもその内容が伝わってくる。
     若干帆の緩まった船へと、ハツミは問いを投げかける。

     

    「何を求め、ここを渡るのか。騒乱を求めるのであれば、我が領域より疾く立ち去れ。そうでないというのならば、求めるものを明らかにせよ」

     

     怒りも込めず、ただ静かに諭すような語り口。ここにあってもなお毅然としたハツミの姿に、夕羅の中に希望が湧いてくる。
     しかし、返答が得られないのか、ハツミの矛先は変わらぬままだ。波の音だけが、沈黙の底で揺らいでいた。隣の戦士が息を呑む音すら聞こえてきそうだった。
     やがてハツミは、反応のない彼らに再度問いかけようと、

     

    「さあ、答え――」

     

     口を開いた、その刹那。
     一隻の船から、強烈な紅の光が瞬く。
     直後、天を海に叩きつけたような轟音が、世界を割り砕いた。

     

    「っ……!」

     

     突然の出来事に、反射的に身を庇ってしまった夕羅。翳した腕に、威力を告げるような風圧がのしかかる。
     身構えながら視界を戻せば、海上は濃密な霧に包まれていた。ぱた、ぱた、と雨音が耳をそばだてるが、夕羅たちの身体を濡らすことはない。ただ海の一点だけで、攫われた海水が点々と還っていた。

     

     南からの風は、やがて霧を晴らしていく。
     待ちきれないとばかりに浮かび上がってきたのは、禍々しくも思えるあの紅の色。

     

    「な――」

     

     目の当たりにした光景に、一同へ戦慄が走る。
     水柱も、ハツミでさえも、どこにも見当たらない。船団だけが、邪魔な障害を排除できたとばかりに再び帆を張っていた。
     紅の光によって、ハツミは水底へと叩き落された。
     偉大なるメガミに対してあり得ないという想いが反発する中、現実は容赦なく夕羅たちを侵食してくる。

     

    「みんな……!」

     

     決断を込めたライラの声に、その時が来たのだと夕羅は決意を固める。
     権能を開放するライラの周りでは、風が鳴き、雷が爆ぜる。肌身でその圧を受けるも、同じ方向を向いている安心感は不安に削られていた。

     後を追う三人の戦士の手の中で、神代枝が砕かれた。

     

     

     

     


     流れ込んでくる力は、コダマ、そしてライラのもの。何度もその身に通したからこそはっきりと分かる感覚は、しかしそれでいてどこかズレているような奇妙なものだった。
     ライラの力がこれまでと明らかに違うのは体感できている。己の意思で曲げたその力が、形を変えて自分の中に嵌っていく。発揮する傍らの本人につられてか、昨晩よりもくっきりと意識できるような気さえしてくる。

     

     しかし、だ。それだけなのだろうか――そんな釈然としない想いが、然るべき場所へ収まっていく力を他所にわだかまってもいる。
     ただ、今は心のしこりにかまけている余裕はなかった。

     

    「お借りしますッ!」

     

     迷いを振り払うように言い放ち、力の在り処を示す桜の光が夕羅の右手に集っていく。毛皮を纏った雷の如き金色の鉄爪、ライラの象徴武器・雷螺風神爪である。
     さらに夕羅の首元に現れたのは、獣の骨や牙に革紐を通したような首飾りだ。今のライラが身につけているものと同じ装身具は、大自然に呼びかける者としての証のようだった。

     

     夕羅たち三人の前に立つライラは、力を天に注ぐように手を掲げている。
     彼女と共に語りかける大自然とは、すなわちこの明け方の大空。
     夕羅がライラに倣い、他の二人もそれに倣って天へと訴えかける。爪に纏わせて相手にぶつけるような明快なものではなく、己を運ぶ風の制御よりももっと繊細に、もっと壮大に――でなければ、大いなる自然の中のちっぽけな主張として、耳を貸してもらえることはない。

     

     やがて、空は急激に機嫌を損ね、雨雲が夕羅たちの頭上で渦を巻き始める。
     岬に荒ぶ風が哭き、携えた力は臨界を目前としていく。

     

    「さあ、呼び覚ませ――!」

     

     夕羅の手から放たれる力が、他二人のミコトの力と頭上で入り混じる。そしてライラがそれらの力を指揮し、彼女の下で一つの大きな力に束ねていく。都合四つの源が川の流れのように繋がり、天に訴求する強固な道筋を形作った。
     力を通した圧倒的な規模での対話に、ライラが導く儀式の完成を祈り続ける。
     爆発的な力が自らに流れ込み……意識が霧散してしまいそうなほど急激に解放されていく。

     

     そして、浩蕩たる存在へ確かに通じた感覚が、夕羅の脳を駆け巡った。

     

    「嵐の力を――!」

     

     

     迎えた力の臨界点。儀式の結果は、大自然の変貌という光景となってすぐさま現れた。
     灰色よりも黒と呼ぶべき暗澹たる空からは、大粒の雨が人々を襲い始める。轟、轟、と散発的に落ちてくる雷は耳を震わせ、地を焼いたのか、時折腹の底に響く重低音となって荒ぶる力の発現を広く知らしめている。

     

     海岸線を穿つように渦巻く暴風は、万象を呑み込む刃の化身が如き。荒れ狂った海はもはや人が存在してよい場所ではなく、大波の狭間に呑み込まれていく船団は米粒のようで、帆の制御を奪われた後方の船が一隻、姿勢を崩して転覆した。
     襲い来る自然の猛威は、陸を彼らから守るための荒々しい大結界。
     常人であれば必死に許しを請うことしかできないような大嵐が、南海に漂う不穏を根こそぎ押し流さんとしていた。

     

    「これ、が……」

     

     厄災を一度に呼び覚ましたような圧倒的な力に、夕羅は震えを禁じ得なかった。自分が為したことだという自覚を手放さなければ、ふつと湧いてくる全能感に支配されてもおかしくない、そんな人の理を超越した成果が繰り広げられている。
     だが、それよりもなお恐ろしいものがあるのだと、彼女は同時に悟ることになる。
     この大嵐の中でさえ、何隻かの船は岸との距離を詰めてきているのだ。

     

    「ま、まだ……!」

     

     肌を刺すような気配は、むしろ大自然の怒りに冷厳なる憤怒を礎として濃密になってすらいるよう。依然として迫る脅威はとうに夕羅の理解を超えており、ちら、と振り返れば多くの戦士が息を呑んで連中へ目を向けていた。
     得物を持つ手に、皆、自然と力が籠もる。
     岸に染みつつある気配は、恐ろしいまでの殺意のようだった。

     

    「力、出し続けて――!」
    「……! はいっ!」

     

     ライラの声が、荒天に負けないよう張り上げられる。千洲波の民という脅威を退けるための自然の結界は今、夕羅を楔の一つとして広がっている。
     心を揺さぶる昂揚と戦慄を振り払うかのように、頭を振った夕羅は、目に入る雨も無視して再び前を見据えた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     あがぼがががぼぼ、ぷはぁっ……!
     なんてことしてくれるんですかあの連中は!
     
     メガミを何だと思って……いえ、あたしたちメガミを、桜降る代における普通の人々と同じ目では見てないのかもしれないですね。
     もう……こんな連中が出てくるなんて、聞いてませんよぅ……あいたたた。
     
     でも、ライラの嵐が吹き始めたみたいですね。
     ライラは風雷を象徴するゆえに嵐への親和性もありますが、何よりも大自然への敬意を持ってます。だからこそ権能を大きなものへと、静かに、うまく働きかけて、より大きな力を呼び起こせるんです。
     もしあなたがライラを宿しているなら、宿し方次第ではその力を使えるでしょう。でも、ライラみたいな精神を持つのはなかなか大変でしょうけどねぇ。
     海を象徴するあたしでも……あ、いえいえ! あたしも偉大なる大海原に敬意を持ってますよ! 本当ですからね!
     
     ささ、海面近くは荒れるでしょうから、あたしは海底を通って戻るとしましょう!
     
     
     
     


     
     
     
     
     嵐の力は強大ですが、知恵と敬意なくば使えません。
     あなたは大自然に認められ、呼び覚ますことができますか?

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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