『八葉鏡の徒桜』エピソード2−2:Social Circle

2019.09.15 Sunday

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     一日の始まりには日が昇り、一日の終わりに沈んでいく。それは桜降る代もこの異国ファラ・ファルードも変わらない。
     けれど、日暮れと共に訪れるはずの宵闇は、今この広間では無縁であった。

     

    『それでは失礼します』

     

     案内してもらった女中に礼を言うことも忘れ、ユキヒは目の前に広がる綺羅びやかな光景に胸を躍らせていた。

     端から端まで人の顔が定かではなくなるほどの広大な室内は、高い天井から提げられた、光を乱反射させる宝石のような明かりに隈なく照らされていた。外の庭でわだかまっているはずの夕焼けは、緞帳の如き豪奢な窓掛けによって遮られている。壁に飾られたいくつもの絵画はどれも色鮮やかだったが、この場に集まった者たちはさらに華々しかった。
     花瓶に生けられた花よりもなお着飾った者たちは、めいめい硝子の酒器を片手に、あるいは机に供された料理を摘みながら歓談に勤しんでいる。贅沢なことに、隅に控えた楽師たちの奏でる優雅な音楽さえも、あちこちで咲く談笑の背景にしかなっていなかった。

     

     ヴィルドニールに誘われた、彼の屋敷での社交パーティー。その規模の大きさと華美な空間に、お座敷で宴会する場面を想像していたユキヒは目を輝かせるしかない。

     

    「すごいわねえ……お部屋全部が芸術品みたい」

     

     送り出された二階部分から、ハイヒールの踵を絨毯に埋めながら階段を下る。彼女の装いもまたこの国のドレスに合わせて誂えられたものであり、普段の着物の淑やかさを残しつつも脚回りを花開かせるような、絢爛さを取り入れた意匠となっている。
     ただ、会場の中では中々に特徴的な衣装のようで、降り立つユキヒへと視線が集まる。

     と、そこで、

     

    『もしや、あれがメガミ様か……?』

     

     誰から放たれたかも判然としない呟きだったが、それを皮切りに近くの参加者たちが一斉に目の色を変えた。
     にっこりと肯定の笑みと共に手を振れば、後に続くのは熱烈な歓迎である。

     

    『おぉ、彼の地の神はどうしてこうも美しくあらせられるのでしょう……!』
    『素敵なお召し物……あちらの方々は、皆メガミ様のような装いでいらっしゃるのでしょうか?』
    『失礼、拝謁の誉れを賜りし感謝を述べたいのですが……』
    『お初にお目にかかりますメガミ様。まずは当家自慢の一杯、いかがでしょう?』

     

     野蛮に争うことはしないものの、僅かな言葉の隙を見つけてユキヒに話しかけてくる一同。招待客は皆貴族であるようなので、振る舞いこそ礼節を保っているが、言葉に出さない圧によって順々に下がらされたりしており、水面下の争いが透けてしまうようだ。彼らの背後にそれぞれ控える者たちのせいで、戦のにらみ合いのようですらある。

     

    『え、ええと……はじめまして。私がユキヒです。メガミ、です』
    『おおっ、ユキヒ様!』

     

     名乗るだけで湧く聴衆に、さしものユキヒもたじろいでしまう。
     彼女としては、こういった社交の場に招かれたからには、できるだけ多くの人々と言葉を交わしたかった。貴族からは貴族の、民草からは民草の話が聞けるために、ユキヒの中で貴賤こそないが、高位の立場の者と話せる機会は実際稀有である。
     しかし、いくらメガミとはいえ、一度に十人以上と会話できるような力はない。言葉の聞き取りだって一瞬で限界を超えて耳から抜けていくし、嬉しい悲鳴というにも過剰な人数を前に少し目がまわりそうだった。

     

    『ちょっと待ってね』

     

     

     故に彼女は、やむなく相手を選別するために、その権能を呼び起こした。
     今目の当たりにしている光景が影に覆われ、時が止まったように速度を失っていく。そうした後に現れるのは、人々へと紡がれる膨大な縁の糸――ユキヒにしか見えない、人と人との繋がりの証が無数に広がっていく様である。
     その糸の質や形は、毛糸のようなものから縄のようなものまで様々だ。彼女はその一本一本を丁寧に紐解いていき、結ばれている縁を、結ばれゆく縁を検分していく。

     

     人を通じて世界を裏側から覗くような視界を得ながらも、これでもユキヒは僅かばかりやりにくさを覚えていた。桜降る代から遠く離れているためか、力が少し詰まるような使いにくさを覚えていた。
     だが、そんな小石を踏むような些細な違和感は妨げにもならない。この場で最も最も太く、それでいてしなやかそうな杜若色の絹糸を選び取るのに苦労はなかった。

     

     ユキヒが選んだのは、葡萄酒の注がれた酒器を差し出してきた男である。彼はユキヒが名乗った際、反応を示さなかった者の一人であった。
     焦点を縁の糸から外した彼女は、その酒を受け取ると、

     

    『ありがとう。……あら、いいお味ですね』
    『お気に召したようで何よりでございます』

     

     彼は大仰に礼の動きを作ると、自らも酒器を小さく掲げてから赤紫の液体を口に含んだ。ぴょこんと跳ねた口髭が印象的な壮年の男で、整った指先ながら、右手の中指だけは擦れて腫れたようになっていた。
     と、二人の間に生まれた会話の気配に、ユキヒを囲っていた他の者たちが潮のように引いていく。そのほとんどは上辺、何事もなかったかのように談話に戻っていったが、中には明確に肩を落とす貴族もいる。その背中は、半ば納得を示す落胆を物語っているようだった。
     一方、選ばれた彼はといえば、訝しる顔の裏に驚きを隠しながら問う。

     

    『我々貴族について、お詳しいので?』
    『えっ?』
    『いえ、お相手していただけるなど光栄の限り。しかし、自分で言うことも憚られますが、こうもずばりとご指名なされるとは。――申し遅れました。私は五大貴族に連なるアルトリッド家当主、ロナルド・ラストラ・アルトリッドと申します』

     

     重ねて頭を垂れる所作もどこか飄々としており、口にした立場の重みを感じさせない。背後に控えている者たちの数の多さだけがその証となっている。
     そんな彼への答えは一つだ。

     

    『不勉強でごめんなさい、知りませんでした。ですが、良い縁を、感じましたので』
    『――ほぉ……』

     

     確信を持ったその理由は、人と人の間であれば単なるお世辞と受け取られるものだ。けれどアルトリッドの浮かべた笑みは、広がる交友にただ喜ぶものではなく、超常を為した者に対する湧き上がる興奮や畏れが滲み出ていた。

     

    『こちらとしても、良い関係を築けることを祈っております』
    『それは嬉しいわ。この国のこと、たくさん知るために来ました。色んなものが新鮮で、とても面白いです!』

     

     ユキヒとて、メガミとしての己の立場を理解している。それこそ、繋がりを持とうと集られるくらい仕方ないと思えてしまうほどには。
     ただ、彼女はそれを否定しない。明らかに黒ずんだ糸で結ばれている者はさておき、縁とは互いがあって初めて生まれるものなのだから、異国への好奇心を満たすためであればこれくらい安いものだった。

     

    『ははは、自分に答えられることなら何でもお答えしましょう。ただ……この国の法に関してだけはおすすめしません。何しろ我がラストラは法を司る秩序の徒なものですから、この一晩だけでは到底時間が足りないでしょう』
    『まあまあ、それはとっても怖いわね』

     

     くすくす、と。微笑むユキヒに、アルトリッドも、後ろの参加者も笑いを零す。
     異国の地での社交は、軽やかな出だしを迎えていた。

     

     

     

     


    『ご歓談中、失礼!』

     

     会場に響き渡る声をユキヒが耳にしたのは、五人目の貴族を相手にしている最中だった。

     

    『何かしら?』
    『おや、ヴィルドニール卿がおいでになったようですが……』

     

     今まで話していた貴族に釣られ、彼の視線の先を追う。言葉尻に滲ませた疑問の意味は、すぐに明らかとなった。
     昼間会ったときよりさらに豪奢な装いに身を包んでいたヴィルドニールが、ユキヒがこの会場に至るまでに降りてきた階段の中二階で、肩を張ってその鷲鼻を鳴らしていた。その隣ではテルメレオが愛想のよい表情を張り付けており、概ね数刻前の再現といった様子だった。

     

     彼ら二人の後ろに立ったサリヤもまた、その再現に拍車をかけていた。彼女はユキヒの見慣れた鎧姿ではなく、しっかりと糊の利いていそうな服に袖を通していた。
     だが、ユキヒにはどうも、サリヤがこの屋敷に来る前に別れたときとは異なる雰囲気を纏っているように感じられてならなかった。

     

    『これより当家主人、アーギュメンテ・ヴェラシヤ・ヴィルドニールより大きな発表がございます。皆様、何卒ご清聴いただきますようお願いします!』

     

     使用人と思しき男の声によって思索が留められる。
     しん、と衣擦れだけが場に響くようになった頃、ヴィルドニールが一歩前へ出た。
     そして咳払い一つしてから、静かに、けれどこの広間に響く重厚な声で言葉を紡ぎ始める。

     

    『我らヴェラシヤの管理するコールブロッサムの一つが、急速に成長したことについて、皆も既に聞き及んでいるかと思う。供給を減らして申し訳なかったが、その理由と今後について、今日ここに皆へ知らせる場を設けさせて頂いた』

     

     ユキヒの首が僅かに傾げられる。
     けれど彼女は、ヴィルドニールが次に告げた『理由』に、さらに眉を顰めることになる。

     

    『ここにいるサリヤ・ソルアリア・ラーナークこそがその理由だ。我らファラ・ファルードの民にして、ヴェラシヤ・クラーヴォに仕えるソルアリアの盾……彼女が、かの桜降る代における神・メガミとなったためである』
    『……!』

     

     もたらされたその『真相』に、参加者の間にどよめきが走る。
     彼は聴衆が静まるのも待たず、いっそ歓喜を示すかのように先を続けた。

     

    『コールブロッサムとは、元々彼の地におわす神々――八ツ空の神々とはまた異なる神の恩寵によるものだ。だが! この地の民、すなわちサリヤがその一柱として列せられたことにより、その恩寵はこの地へと広がったのだ! 満開の結晶は、その証である!』

     

     それは、祝いの言葉だった。自分たちを言祝ぐ宣言だった。
     ざわめきのついでと、飛び出た質問にも、彼は鷹揚に答えてみせる。

     

    『で、ではあのコールブロッサムは――』
    『あぁ、そうだ。あれこそが神々に恩寵に満たされし、真なるコールブロッサムの姿。我々は、神の恩寵に与ることを許されたのだ!』

     

     歓喜は伝染する。ヴィルドニールの言葉が正しいということは、この国の教えを司るテルメレオが同意している事実が、そして何より、当の神本人の存在が証明していた。いくつもの視線がサリヤへと向けられる。
     テルメレオがサリヤへ促すように前を示すと、一歩を踏んで、ヴィルドニールの隣に立つ。その険しい顔つきに、会場は再び静寂を取り戻していく。

     

     手を掲げるその姿は、宣誓の前触れ。
     故にサリヤは、メガミとして、ファラ・ファルードの民へと御言葉を届ける。

     

    『桜降る代のメガミとして、そしてヴェラシヤに仕える者として、この恩寵を皆さんに届けられたこと、大変嬉しく思います。ファラ・ファルードにさらなる輝きがあらんことを』

     

     ヴィルドニールとは対照的に、それは祝言でありながら、サリヤの表情は口の動きに紛れてしまうほど微かにはにかむのみであった。
     それきり下がった彼女に代わり、ヴィルドニールはさらに仔細を述べていく。

     

    『大変有り難いことに、彼女はかのコールブロッサムを守護する者としてこの地に在り続け、我らヴェラシヤ・ヴィルドニールにその恩寵を与えてくださることになった。そして、ヴェラシヤの守護神として我々の安寧と発展を末永く見守ってくれるそうだ』

     

     従って、と彼は結論を齎した。

     

    『メガミ・サリヤの名の下に、かのコールブロッサムは当家の管理下に置くこととする。近いうちに、皆へ恩寵を届けることになるだろう』

     

     それから二、三細かい話を終えたヴィルドニールは発表を締めくくり、パーティーの再開を宣言してから二階へと去っていった。テルメレオもサリヤもそれに続く形で後を追う。
     発表の衝撃は、この地の貴族たちを大いに揺るがせたようだった。歓談は打って変わって、小難しい顔で話し込んだり、喧々諤々に論を交わし始める貴族たちの騒々しさに覆い尽くされる。降って湧いた恩恵に感嘆する者もまだまだ多い。

     

     しかし、広い会場に嘘のようにぽつんと一人になったユキヒは、その誰とも違う疑念を抱いていた。
     彼女は、告げられた決定と真実の間に横たわる事実を知っている。

     

    「どういうこと……?」

     

     ヴィルドニールが口にしたコールブロッサム巨大化の理由は、明らかに嘘だった。そんな事例を知らない以前に、メガミとしてサリヤを見てきた経緯からもそう断言できるし、そもそも昼に案内された段階で原因を訊ねられたばかりだ。彼の言動はどう考えても矛盾している。
     そういう意味では追認したサリヤも矛盾を抱えているものの、そうするだけの理由が存在しているであろうことを、ユキヒははっきりと『視て』しまっていた。

     

     何かを押し殺しているようだったサリヤに紡がれた縁。
     それは、獲物を絡め取って離さない蜘蛛の巣のような、どこか恐ろしげな粘着質の白糸だったのだ。

     

    「サリヤ……」

     

     猛烈に募っていく心配に、サリヤが去っていった場所へ憂いの視線を送る。
     発表の話題でもちきりの会場では、もう何食わぬ顔で歓談することなんてできそうになかった。
     サリヤは別れ際言っていたのだ。「パーティーで会いましょう」と。

     

    『あの、ユキヒさ――』
    「ごめんなさい、また後でねっ!」

     

     居ても立っても居られなくなったユキヒは、声をかけてきた参加者に断りを入れて、人をかき分けるようにして会場を突き進む。まだ慣れない装いではあるが、衝動のままにサリヤを追っていく分には問題ない。むしろ着物より脚を動かしやすいくらいだ。
     そのまま二階まで駆け上がり、控室のある一帯に差し掛かる。ここから二手に別れているうち、片一方はユキヒが貸された部屋のある屋敷の中心へと向かう廊下になる。彼女を導く縁は、さらに屋敷の奥へと繋がるもう一方を微かに示していた。

     

     赤絨毯を辿るように廊下を進んでいくと、右の曲がり角のその先に人の気配を感じる。
     事態の不穏さから、ちら、と覗けば、胸元を板金で護った男が二人、三つ角で道を塞いでいた。ユキヒのいるところからすると、左手に曲がる方向を堰き止めている形だ。抜剣こそしていないが、骨董も飾られているような廊下では、佩いているだけで物々しい。

     

    「あの先、かしらね」

     

     右手側は元来た場所へ戻る方向だ。サリヤがいるのは、騎士たちの守る廊下の奥に違いなかった。
     ただ、二人の騎士は帯びた使命に忠実らしく、離れたユキヒにも伝わってくるような強い警戒心が、その精悍な顔だちから窺える。たとえ彼女が正面からお願いしたとしても梨の礫になるのが目に見えているような、逆に言えばそうまでして守らなければならないものを背にしているような頑なさである。

     

     どうしたものかと思案するユキヒ。
     そこへふと、意識をそばだてる音が――

     

    (ねえ……ねえ……)

     

     それは、脳の芯から染み出してくる、泡影のような呼びかけ。朝靄の奥に幻視する神秘などではなく、夜陰から手招きをするような不吉さを拭いきれない。

     

    (ここはアタシに任せなさい)

     

     声質はユキヒそのものにして、どこか甘く、それでいて澱んだような声色。
     その誘いの主に姿はない。この場に存在するのはユキヒというメガミただ一柱。

     

    「そう……?」
    (そうよ。こんなときこそ、でしょう?)

     

     彼女たちの間でだけ成立する会話を、誰も聞くことは能わない。
     やや訝しげなユキヒは、不承不承といった様子で髪を結い留めていた簪を抜き払った。解かれた長い黒髪が頭の動きに合わせ、はらり、はらりと彼女を覆い隠す。
     そして前に垂れた髪を後ろへと掻き上げた後には、柔和だった今までの雰囲気が塗りつぶされたように、その瞳を別人のように暗澹と曇らせていた。
     にたりと、口元だけを嗤わせて、騎士に聞こえないよう彼女は呟く。

     

    「影に咲く、死と暗殺の象徴が輝くのは」

     

     

     

     

     


     警戒とは、緊張の糸という弦で矢を番えるようなものだ。そこに重責や敵の接近もあれば、弦はさらに張り詰めていく。
     だが、如何に敵を前にしていようとも、常に弦を引き絞り続けることはできない。緊張を支えるための集中はいつか尽き、あるいは限界を超えて緊張の糸が切れてしまう。居るかどうかも分からない相手に鏃を向け続けようものならなおさらだ。

     

    『くぅ……』

     

     通路を守り続けていた二人の騎士にも、その瞬間は訪れた。気疲れにも堪らなくなったか、装具同士が擦れ合う音を立てながら伸びをする。
     ユキヒが求めていたのは、その僅かな気の緩みであった。

     

    「ッ――」

     

     吐きかけていた息を止め、隙を逃さぬように角から踏み出す。床を踏み鳴らすような踵の靴にもかかわらず、彼女は足音一つ立てることはない。そのまま一息に騎士たちのいる側の壁際へと肉薄すると、伸びをする騎士自身の腕で生まれた極小の死角を遡るように走り込む。
     低い姿勢を保ったまま瞬く間に至近を叶えるユキヒは、あと三歩というところで彼女から見て奥の騎士に接近を気づかれた。

     

    『お、おい!』

     

     ただ、慌てて意識を向けただけで、強襲に頭が追いついていないのか、ろくに警告の言葉も作れていない。制止を訴えようとする片手が宙で遊んでいる中、もう一方の手が剣の鞘を押さえているのは訓練の賜物か否か。
     しかしユキヒは、彼らに対応することも許さない。

     

    「ふふふっ……!」

     

     彼女の装いが、駆ける速さに負けたかのようにはだけられた。露わになる胸元が艶かしく、手を伸ばせば触れられそうなところへ現れた生肌は男を蠱惑する。
     けれど、妖艶さを振りまく主が湛えるのは、獲物を前した凄絶な笑み。

     

    「――!」

     

     突如として現れたそんな女に、騎士たちの動きが固まった。
     その間に最後の距離を詰めたユキヒは、ぬるりと纏わりつくように彼らの背後に回ると、後ろ手に隠していた肘まであろうかという長さの簪を構える。
     その磨かれた切っ先は迷いなく、奥にいた騎士の首筋へと吸い込まれていく。

     

    『が、っ……!』

     

     打ち込まれた簪が抜き去られ、一人目が膝から崩れ落ちる。

     

    『貴さ――っ!?』

     

     起きた出来事を理解したもう一人の騎士が動きを作る前に、振り回されたユキヒの黒髪が彼の視界を遮った。
     そして反転を成したユキヒが狼狽える彼へと抱きつくように接近すれば、のけぞって無防備となった首筋に簪を突き立てることはあまりに容易い。本能のままに簪を引き抜こうとするも、その手が届く前に騎士は力を失った。
     どさり、と動かなくなった男を放り出して積み重ねる。

     

    (ちょっと、やりすぎよ)
    「ふふ、安心して。殺しちゃいないわ」

     

     頭の中で咎めてくる声に、ついた微量の血を払いながら答える。簪を外す前とは逆転した立場は、まるで柔和だったユキヒが甘言に騙されたようでもあったが、今は姿の見えない彼女の意思がそれ以上追求することはなかった。

     

     それからユキヒは、開かれた道をさらに奥へ。屋敷の複雑さは二つの意思が共にあっても地図を描くのに苦労するほどではあったが、僅かにではあるかはっきりとしていく縁の糸を頼りに進んでいく。
     警備の騎士は倒した二人のみならず邸内を守っていたが、ユキヒの簪が再び閃くことはなかった。衣擦れすらも聞こえてこないような無音の行軍は誰の耳もそばだてることはなく、夜に落ちる影の中を渡るような歩みは誰の目にも留まることはない。

     

     彼女の足が止まったのは、扉が小指の先ほど開かれたままになっている部屋の前だった。尋ね人へ繋がっているはずの糸が、その先に続いている。
     ただ、決め手となったのは、結ばれた縁ではなかった。

     

    「これからどうなるんだ、一体……」

     

     重く沈んだ男の声。この旅ではもう聞き慣れた、佐伯のものだった。
     ユキヒは廊下に他の気配がないことを確認してから、扉の隙間から部屋を覗き込む。内装自体はユキヒにも用意された控室と似ており、鏡台の前では佐伯が小椅子に座って頭を抱えており、鏡には傍らに立っているであろうサリヤの姿が映っていた。
     二人の表情は共に沈痛なそれであり、苦々しさは隠しようもない。一人では抱えるのに辛すぎる不本意な事態に歯噛みしているようだった。

     

    (ああっ、やっぱり何かあるんだわ! 早く聞いてあげましょうよ!)

     

     パーティー会場で抱いた疑念を裏付けるような光景に、脳裏の声が身体を急かす。
     だが、主導権を持つ意思は、それに待ったをかけた。

     

    (ここで騒ぎが起きようものなら、ただでさえ分からない情勢がもっと狂ってしまうかもしれないわ)
    (でも……)
    (本当にアタシたちが必要になったら出ていきましょう? こうしてお話も聞けることだし、サリヤがどう思っているか知るには悪くないと思わない?)

     

     諭す意思に、反論はなかった。
     己の中で方針を定めたユキヒは、いっそう気配を押し殺し、室内の会話に集中する。

     

    「私だってあんなこと……でも……」
    「分かっているとも。誤算だったのは、ヴィルドニールがここまで業突く張りだったことだ。よもや君と神座桜を、ただ地位を盤石にするためだけにここまで利用するとは」

     

     重苦しい溜息が落ちる。
     サリヤはそれに、頭痛の種はまだあると言わんばかりにこめかみを押さえた。

     

    「厄介なのはテルメレオ猊下のほうよ。猊下ほどの方になれば教典を書き換えることだってできる。もちろん、既にいらっしゃる神々のことを変えるわけにはいかないだろうけど……」
    「新しい神なら都合のいいように、ということか」
    「召集に猊下のお名前があったのは気になっていたけど、最初から結託していたのね……」

     

     居たたまれずに帽子をいじるサリヤに、佐伯は悪い事実を見出してしまったかのように呻いた。

     

    「資源の独占に、自らが据えた神。そのような家に抗える者などいるのか……?」
    「いないでしょうね。きっと、遠くないうちに法をも変えられる。……私の赦しでもって、ね」

     

     自嘲するつもりだったのか、サリヤは口端を歪めたが、すぐに堪えきれなかったように色が変わるほど強く唇を噛む。
     佐伯はそんなサリヤへ縋るように、

     

    「君が桜降る代に帰ってしまえば……」

     

     だが、返されるのは否定だ。彼もまた、首を横に振られることが分かっていたようで、感情に任せた短絡さに失笑を漏らしていた。
     サリヤが吐露するのは、後悔すらうまく抱けないほどに厳しい苦境だ。

     

    「これは言うなら、この国の階級構造に基づく恫喝よ。ヴェラシヤはね、コールブロッサムの採取権を始め、多かれ少なかれヴィルドニール家に様々な権利を管理されているの。そんなところに私がノーと言えば、間違いなくクラーヴォ家へ圧力がかかるわ」
    「あぁ、そうだな。まだ見ぬ方々とて、嫁の家族を犠牲にすることなどできない……できるわけがない……」

     

     もちろん、と佐伯は継いだ。
     彼にも、鏡面にも背中を見せた、サリヤに向かって。

     

    「君もだ、サリヤ。クラーヴォに圧がかかれば、そこに付く君の家にだって累が及ぶ。そうだろう……?」
    「…………」

     

     雄弁に語る沈黙に、佐伯は再び深い溜息をついた。それきり、行き場を失った憤りと絶望が言葉に現れることはなかった。
     しかし、それが真なる孤独な絶望ではないと、彼らは未だ知らない。
     紡がれた縁のその先で、その心中を代弁する者たちがいる。

     

    (随分と舐めた真似してくれてるみたいじゃない……!)

     

     二人の失意を礎に生まれた怒りが、ユキヒの中に湧き上がる。
     それは、隠伏する温和な意思もまた同様だった。

     

    (ええ、こんなこと聞かされちゃったら、おちおち観光なんてしていられないわ)

     

     表裏の意思それぞれが、サリヤたちを代弁するように憤りを訴える。抑えきれない感情が、簪を握り締める手の力に表れていた。

     

    (あの曲がった鼻をへし折れるのは、どうやらアタシたちだけみたいだし――)
    (あんな悲しい顔をさせないように、なんとかしてあげましょう)

     

     そして一つの器に宿る彼女たちは、一つの意思を決する。
     ほつれゆく縁を、撚り直すために。

     

    ((お友達の危機ですもの……!))

     

     一陣の黒い風が吹いたかと思えば、そこにはもう、誰もいなかった。

     

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