『八葉鏡の徒桜』エピソード1−7:そして彼女の旅は終わる

2019.08.30 Friday

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     人々が見上げるものと言えばなんだろうか。
     雄大に広がる空、山の威容、はたまた絢爛に咲き誇る桜。
     しかしてこの街にはもう一つ、人の手によって築かれたものが天を指し、そして吐息を吐き出していた。

     

    「遠目で見たときには、お山が燃えているのかと思いましたけど……」
    「まあ、最初はそう思いますよね」

     

     苦笑いと共に同意を示すハツミを横に置き、ヤツハは街中に立ち並ぶ煙突の煙の行く先を目で追っていた。

     煙家。この地の南端に広がるものづくりの街である。目的地である瑞泉の隣に位置しているが、一行は山城から菰珠の端を横切るように南下して煙家の中央に向かったため、やや寄り道をした形となる。
     鉄を主とした豊富な鉱物資源を有する山々を擁し、産出される金属とその加工によって栄えたこの街は、製錬の際の強烈な火より立ち上る煙をその名の由来としている。桜降る代に流通する金物の半分はここから生まれ、金物屋の軒先では、この品は煙家産か否かと問われるほどだ。

     

     

    「山裾の煙突のほうが大きそうですね。ここにあるのも十分大きいですけど」
    「掘ったやつを、すぐにたくさん溶かすためじゃなかったでしたっけ。木とか石炭とか、山から燃料も採れるみたいですし。こっちのほうは手元で加工するような工房が多いんで、だいたいこぢんまりしてるんだと思いますよ」
    「なるほど、わざわざ運ぶのも大変そうですもんね……」

     

     そういうヤツハの視線の先には、いかにも重そうな金物の詰まった荷車を、汗水垂らして牽く町人の姿があった。

     クルルはといえば、相変わらず我が道を行くといったように先陣を切っている。ただ、今までと違ったのは、遠回りになるこの煙家行きを告げた際に、「ふっふのふー」とあからさまに目的を隠していたことだった。
     この大通りの遠く先では、煙突すら小さく見えるほどに立派な桜が聳えている。おそらくそこが目的地なのでは、という予想がヤツハにはあったが、「さぷらいず」の可能性も考慮して深く訊ねることはしなかった。

     

    「漁師の使う道具なんかも、ここの野鍛冶が作ってたりするんですよね」
    「西側だから、鞍橋を経由して?」
    「芦原向けにはそうです。東側の、たとえば蟹河なんかは、最近だと龍ノ宮が多いですけど。あっちはヒミカとハガネのお気に入りなので」
    「えっと……メガミ、の方ですか?」

     

     あー、とハツミは一気に話を進めすぎた自省をしつつ、足りない言葉を補った。

     

    「ヒミカというのが炎のメガミで、ハガネは大地を象徴してるメガミです。金物扱うには、鉱物と火が欠かせませんからね。煙家でも信仰してる人は多いみたいですよ」
    「へえ……その方たちが、ハツミさんや、この間だとミズキさんやコダマさんみたいに、この街の人達に尊敬されてるメガミの方なんですね……」

     

     そうして顔も知らぬメガミへの羨望を抱くヤツハであったが、その言葉にハツミはヤツハから視線を外しながら、ぎくしゃくと肯定を示す。

     

    「ま、まあ、ヒミカにハガネ……確かにあいつらも、影響力がありますね。ですけど……」
    「……? 他にもいらっしゃるんですか?」

     

     歯切れの悪さにヤツハは小首を傾げる。
     と、そのときだった。

     

    「おぉーっ! げんきっつぁんじゃあないですかぁ!」

     

     唐突に声を上げたのはクルルだった。いつの間にかヤツハたちの前から姿を消しており、彼女たちの歩いていたほうとは斜向いにいる老人へと突撃していた。ただの荷車とはまた違った、車輪をつけた木造りの船のようなものを押しており、それに興味を惹かれたのかもしれなかった。
     ヤツハが思い出すのは、鞍橋で店主を散々質問攻めにして困らせていたクルルの姿だ。それ以外にも、これまでの旅で気になったものには食いついて離れない彼女と、迷惑がる人々という構図を何度か目にしてきていた。
     また一方的に捲し立てて困らせるのだろうか――そう思い、様子を窺うヤツハだったが、

     

    「おや、クルル様! いらしていたのですか。お久しゅうございます」

     

     老人は最初驚きを顕にしたものの、好々爺然とした笑顔でクルルを迎えた。腰回りに何本も道具をぶら下げており、職人という風情であった。
     クルルは彼の荷物をきょろきょろと、時には地面を這って底を眺めつつ、

     

    「ほうほう、これはこれは……? 陸船車にしては踏車が見えませんねえ。むむむ、ここがこうして回って、ここに繋がって……なるほどぉ、これはひょっとして、例の蒸気車の小型版ですかねぇ?」
    「はは、流石はクルル様。街道の鉄道計画の一環で、色々と試している最中でして。効率のいい機構を模索するついでに、街中でも安定して使える自走車を作っているところです。工場と工場の間すら不安定なようでは、道ができても安心して乗れませんからな」
    「ほほー。でもですよぉ? 充填式は炉が要らなくて楽ちんとはいえ、荷物が重たいと、ちょろーっとここらへんの機構が怪しく感じますねえ。すけーるについていけなさそうですぅ」

     

     クルルの指摘に、予想通りの展開を見たヤツハは軽く手で顔を覆った。
     しかし、

     

    「そう! そこなんですよ!」

     

     老人は怯むことはなく、むしろ返答は熱を帯びていた。傍から聞いている限り、問題点への質問攻めが始まってもおかしくないような内容なのに、遊び相手を見つけた子供のような、無邪気ですらある雰囲気で破顔して見せたのだ。
     ある程度の高みを見た老練さは鳴りを潜め、まるでクルルの好奇心を鏡写しにしているかのようにヤツハの目には映った。

     

    「このまま大型化をしても、動力に見合うだけの積載量が稼げないのが目に見えていて、どうしたものかと皆で頭を悩ませていたところなのです。鉄素材にして頑丈にしたら今度は重くて速度が稼げず、牛に牽かせるのと変わりなくなります」
    「そですねぇ。重い、重いかぁ……動力……――むむっ? 重いと、足りない……。くるるーん☆ ひらめきましたぁ! 動力機構を二倍にすればいいじゃないですかぁ!」
    「な、なんと! 蒸気機関を、ですか!?」

     

     唐突なクルルの閃きに、老人は興奮を抑えきれないといったように訊ねる。

     

    「頑丈にしたら重くなって物足りなくなるなら、単純に増やしちゃえばいいんですぅ! それこそ三倍でも四倍でも、あとは耐えられる本体を作ればいい話なんですから! それがどんなに重くても関係ないですぅ!」
    「なる、ほど……できるのか……? あんな複雑なものを――いや、複雑さの代わりに大きさに応じて動力が手に入るなら、十分見合っている、ということですか。機体や蒸気圧の安定性に、燃料効率も問題になりそうですが……」
    「燃料なんて桜に寄れば手に入るんですから、ぱわーとえねるぎーを突き詰めてからが本番ですよぉ。早すぎる最適化はおじゃま虫ですぅ」
    「発想が逆になってしまっておりましたな! あぁ、あぁ……そうか、丸ごと二個ではなく、中の筒を交互に稼働させる方法がよさそうです!」

     

     少年の頃に帰ったような老人との会話は、発想が発想を呼び、二人の間で次々に創造の花を咲かせていっているようだった。
     ぽかん、とその光景を眺めていたヤツハ。その肩を、ぽん、とハツミが叩く。

     

    「意外、って顔ですね」
    「え……。あ、はい……」

     

     取り繕うことなく、正直に答える。
     これまでクルルのことを見る目は、自分の手を取ってくれた恩人に対する色が強かった。北から南まで大地を縦断するように旅をしてきたが、その間、クルルのメガミらしい様を見かけることはなかったのである。北限で演じた戦いは唯一の例外だが、むしろあのときのコルヌのように、人々から疎まれているのではないかとも薄々感じていた。

     

     だから、メガミが知恵を下賜している、というにはやや趣を異にしているかもしれないが、人に対して何かを成している姿が、ヤツハにはとても新鮮に映っていた。
     その隣で、ハツミは困ったように笑いながらため息を零すと、

     

    「あいつはあいつで、適当にメガミをしてるんです。ただただ自分の着想に正直で真摯なのがあいつの迷惑なところですけど、それがうまいこと働くことだってあるんです」
    「結果的に、助けになってる、ということですか……?」
    「周囲に頓着するようなやつじゃあないですからね。ちょっとは考えてほしいですけど」

     

     なので、と継ぐハツミの視線は、地面に図を書くクルルへと注がれている。

     

    「ヤツハを助けようとしてるのもそういうことです。ただ、あいつが特定の個人にこんなふうに接するのは、本当に珍しいことなんですけどね」
    「…………」

     

     それは、差し伸べられた手と共に告げられたものであり、そして、ヤツハ自身今まで思ってもみなかったことだった。その特別が、クルル自身の胸の内にあるのか、それともヤツハ自身にあるのか、ずっと考えたところで、今更答えが出るはずもなかった。
     そうして旅の友の一面に思索の海を泳いでいたヤツハだったが、

     

    「やつはん、ぼーっとしてどーしたんですかぁ?」
    「……!」

     

     いつの間にか老人との会話を終えていたクルルが、半ば呆然としていたヤツハの前できょとんと首を傾げていた。
     ヤツハとしては、今まで当然のように隣にいた者が突然違って見えるようになって、どう返したらいいかどころか、どう接したらいいか軽い混乱に見舞われていた。各地で会ってきた尊敬されるべきメガミたちの一柱が、このところずっと一緒にいたのだから。

     

    「えっ、あ、あの……」
    「んーぅ……?」

     

     垂直を越えてさらに首を傾げるクルルの背嚢が、中でがたりと音を立てる。
     慌ててヤツハは、クルルへの印象の話を避けるようにして、

     

    「えっと、この街に来たの、って……絡繰の職人さんたちがいるから、だったんですか? 金物だけじゃなかったんですね」

     

     その問いに、クルルは得意げに鼻を鳴らしてみせた。

     

    「ふふん。それもまたもっちもちのろんろんですが、一番の目的はそうじゃあありません。この旅が始まった時点で、これだけは欠かせないと思っていたわけ、なの、です!」
    「それは一体……?」

     

     どうも相槌を打って欲しがっていた気配を悟り、先を促す。もうこの段階で、ヤツハの妙な態度など頭から消し飛んでいるに違いなかった。
     そしてクルルは、左手を腰に添え、右手で彼方を指す。
     その指先には、通りの果てにある巨大な神座桜。
     しかし、弾む声で告げられた目的は、ヤツハの想像していた何物とも違っていたのだった。

     

    「おんっ、せんっ、ですぅ!」

     

     

     

     


     ひらりひらりと、花弁が舞い落ちる。水面に浮かんだ結晶は、穏やかな流れと共に流されていき、やがて上気した柔肌に受け止められた。
     それごと両手で掬った湯を眺めれば、仄かに桜色に染まるのが見て取れる。結晶が溶け込んでいったような色合いは、頭上で数多の花をつける壮大な神座桜の姿を映し出しているようだった。

     

     

    「ふゅぅー……極楽ですぅ……」

     

     湯船の縁の岩に後頭部を預けたクルルが、溜まった疲れを全て吐き出すように呟く。その蕩けた姿がまたヤツハには新しく映るが、深い考えはもう湯に流れ出てしまっていた。
     束ねて前に回した髪を抱き寄せながら、頭上を見上げるヤツハは、

     

    「壮観ですね……ここまで大きな桜は初めてです」
    「七大名桜なんて呼ばれてるうちの一つですからね。温泉に桜といえばまずはここ、湯煙桜の名前が挙がりますよ」

     

     補足するハツミもまた、ぷかぷかと浮力に任せるままに身体を遊ばせている。湯の中を上下に行ったり来たりするたびに、底に沈んでいた桜花結晶が巻き上げられ、彼女が桜吹雪に浴しているかのようだった。

     

     煙家が煙家たる所以は、炉の煙こそ最初ではあるものの、もう一つ有名なのが湯煙――つまり大地より湧き出る温泉である。その多くが採掘中に偶然発見されたものだが、ヤツハたちが堪能しているこの桜湯は桜からの恵みとして昔から愛されている。
     小高い岩山の頂に屹立するこの湯煙桜は、瑞泉の翁玄桜、古鷹の白金滝桜に次ぐ大神座桜であり、その枝花で礎とする山をすっぽり覆い隠してしまうほどの威容を誇る。根本から湧き出る温泉は周囲にとめどなく溢れ、山の至るところに湯溜まりができている。どの場所も等しく桜に覆われているためか、どこが最も良い眺めなのかという議論が絶えることはない。

     

    「ここはやっぱり一味違うんですよねぇ」

     

     ハツミの言葉を受けて感想を漏らすクルル。彼女もまたハツミとは一味違った胸をぷかぷかと水面に浮かべていた。

     

    「どーでもいいことがつるっと洗い落とされるというか、ぴっちぴちのあいであが湧いてくるというか……頭を活性化させる効能は、ここがさいきょーですぅ」
    「万病に効くと言っても、それは保証外なんじゃないですかね……」

     

     年中湯治目的の客で賑わっている桜湯だが、この浴場には三柱しかいない。麓の番頭がクルルの顔を見るなり、空いている場所を貸し切りにしてくれたのだ。幹にかなり近い場所で、植え込みの向こうに煙家の街並みを一望することができる。
     そのこなれた様子を思い出したヤツハは、はらり、と鎖骨に落ちた花弁を優しく払いながら問う。玉のような肌を湯と共に滑り落ちていった先に揺蕩うものを、ハツミが無言で己のものと見比べてから、誰もいない虚空に向かって深く頷いた。

     

    「くるるんさんは、ここによくいらっしゃるんですか?」
    「煙家に寄ったときはだいたい入りに来ますねえ。というか、温泉入りに煙家来てるようなもんですぅ」
    「あれ……絡繰のほうが主目的じゃあないんですね」

     

     それにクルルは曖昧に頷くと、

     

    「くるるんにしてみれば温泉地でしかなかったわけなんですが、居心地がいいものでむかーしにここであれこれ作ったりしてたことがあったんですねぇ。まあなんかそうしたら、ここの人間たちもいつの間にかいっぱい絡繰作るようになってて」
    「さっきのおじいさんみたいに、助言したからとか、そういうことなのでは……」
    「うーん、あんましよく覚えてないですぅ。温泉でまったりできれば、あとはなんでもよいのでー」

     

     いつも以上に返事が雑なのはこのお湯のせいに違いない。それもまた仕方ないと納得してしまいそうなほど、ヤツハも心地よさに負けてしまっていた。もちろん旅の道中でも湯船に浸かることはあったが、比べ物にならないほど格別だった。わざわざ寄り道をするほどのとっておきなだけはある。

     

    「そうですね……髪洗うのに出るのも億劫になってるくらいです。ちょっと埃っぽいところを通ったので、早くちゃんと洗いたいのはやまやまなんですが」
    「ヤツハ、頑張って一緒に抜け出しましょう。これは罠です。そのうち頭がふやけて、気づいたら桜の中に帰ってるとかありそうで怖いです」
    「あはは……それじゃあここまで歩いてきたのが台無しになりますね。あ、お背中流しましょうか?」

     

     苦笑いしながら、手ぬぐいを手に立ち上がるヤツハ。滴り落ちる湯と同じように、彼女もほんのりと桜色に染まっていた。
     そしてハツミと共に洗い場を目指し、湯船から足を上げた。
     そのときだった。

     

    「ん……!?」

     

     ぴたり、と足を持ち上げた姿勢のまま固まるのはハツミだ。
     彼女が何に反応したのか、ヤツハだけは分からずにいた。クルルも顔を上げ、訝しげに山の外側へと目を向けている。
     二柱が共に示したのは警戒だ。

     

    「……どうかしましたか?」

     

     腕を掻き抱くように胸元に添えながらヤツハが訊ねる。
     ハツミは、端的に回答をもたらした。

     

    「誰かが近づいてきます……!」
    「えっ……」

     

     それが、貸し切りのこの浴場に迷い込んでしまった客への反応ではないことは確かだった。ハツミもクルルも脱衣所の方向を一切気にしておらず、山をそのまま何者かが登ってくるような予兆を掴んだかのようだった。
     もちろん、そんなことをする者が普通であるはずもなく、理解不能の意思を向けられたようで、ヤツハも不安になりながら周囲へと注意を配る。

     

     メガミたちの裸体を覗く根性のある不届き者であれば、まだ笑い話になるだろう。
     どこに自分に対する敵意が転がっているか分からないヤツハにとっては、不穏そのものへ過剰に身構えてしまう。
     と、

     

    「来た……!」

     

     ガサガサ。
     人の手でいくらかは手入れされていると思しき植え込みに、何者かの到来が音となって現れる。
     湯に戻って両手の手刀を構えるハツミ。
     すると、

     

    「いた、みんな」

     

     

     顔を出したのは、獣――いや、獣のような耳を頭頂に生やした女だった。所々雷のような色の指した黒髪が毛皮の模様を思わせる。
     知らない人物の登場に、ヤツハは一歩、石床を後退る。
     しかし一方で、ハツミから漏れ出た空気は安堵そのものであった。

     

    「なんだ、ライラですか……脅かさないでくださいよ」
    「らい、脅かす、違う」

     

     見れば、クルルもまた態度を弛緩させており、元の極楽に戻っていったようだった。もはや意識の一切が向けられている気配がなく、関心は一瞬にして蒸発したらしい。
     一人だけ取り残されているヤツハの前に、獣耳の女が完全に姿を現す。空気をたっぷりと含んでいそうな毛皮の襟巻きと靴と、曝け出された動物的なしなやかさを醸し出す健脚。独りでにゆるく棚引く長髪は尾を引くようで、獣性が人の形を取ったようだ、とヤツハは思う。
     どこか助けを求めるようにハツミへと目を向けると、気を取り直すように再び肩まで湯に浸かりながら口を開く。

     

    「安心してください、彼女もメガミです。名前はライラ、風と雷の象徴です」
    「らい、らい。おまえ、だれ?」

     

     誰何する口ぶりは、言葉とは裏腹に決して刺々しいものではない。けれど同時に気遣うような優しさも見受けられず、淡々と天秤にヤツハを載せようとしているようだった。

     

    「えっと……ヤツハと、申します。一応、メガミ、です……よろしくおねがいします」
    「………」
    「あの……」

     

     じっ、と。
     名乗ったヤツハに対し、ライラは探るような視線を向け続ける。それはコダマのような恣意的な品定めとは違い、ただただ純粋に存在の奥深くまで問うているような、ある種の警戒とも言える瞳だった。どこかそれは、荒れた道で出会った、人を知らない獣に探られているような雰囲気を思い出させる。
     たじろぐヤツハにハツミは慌てた様子で、

     

    「べ、別に獲って食おうとしてるってわけじゃないですからね!? ライラはこういうやつですけど、無口なだけでいいやつですよ!」
    「メガミ、食べられない。……ハツミ、メガミ食べる?」
    「ものの例えですよ、そんなわけないじゃないですか! ほら、そこで引かないで! あたしたちに用があって来たんじゃないんですか!?」

     

     ライラはそれから、特に未練もなさそうにヤツハから意識をそらした。敵意がないことはなんとなく感じていたものの、その圧力が外れてヤツハは陰で息をつく。身体の冷えを覚え、湯船の縁に座って脚を浸けた。
     来訪者の向き直った先は、ハツミだった。

     

    「ハツミ、来て、力、貸して」
    「えっ……?」

     

     戸惑う彼女に、ライラは拙いながらも本題を切り出した。

     

    「稲鳴の海、変。恐ろしいもの、感じる」
    「ま、待ってください! 突然そんなこと言われても……恐ろしいもの、ってなんなんですか一体」
    「分からない……。でも、放っておく、できない」
    「うーん……」

     

     ライラの言葉はかなり断片的だが、それ故に彼女の抱える物事の本質だけが伝えられる。煙家の街のさらにその向こうに広がっているはずの海に、なんらかの脅威が存在している――飾らないからこそ滲み出す不穏に、ハツミは答えを待ってもらうように口元を水面下に沈めた。海という単語が出てからといもの、その眼差しは真剣そのものだ。

     

     そして些か考える間を取った後、ハツミの焦点は、ちら、とヤツハに向けられた。
     その意味するところは、芦原からここに至るまでに同道した理由。ここから稲鳴の海に向かうとなると、瑞泉とは逆方向になる。お互いに必要な時間は定かではないが、記憶を取り戻すために助力するという約束は果たせないだろう。
     ただ、それを理解したヤツハは、やんわりと首を横に振った。

     

    「私のことなら、大丈夫ですから」
    「ヤツハ……」

     

     背中を押すヤツハの眼差しには、きちんと己の意思が宿っていた。

     

    「ハツミさんは、ハツミさんがメガミとしてやるべきことへ力を注いでください。もう瑞泉もすぐそこですから」
    「うぅ、ごめんなさい。最後までご一緒したかったのですが……」
    「いいんです。こちらこそ、くるるんさんと一緒に色んなところを案内していただいて、とっても助かりました。本当に感謝してます」

     

     湯船の中、別れを惜しむように手と手を取り合う。ハツミは抱いた不安を隠すようにはにかんでいるが、時折上目遣いに窺う様にはどこか罪悪感が滲んでいた。
     この長いようで短い旅の中でも、ヤツハは幾度の出会いと別れを繰り返してきた。だが、ハツミは特に尊敬されるべきメガミであると同時に、クルルの次に寝食を共にしてきた存在である。記憶のないヤツハにとっては、今までで一番重い別れだった。

     

     けれど、突然訪れたそんな別れであっても、正しく送り出すことができる。縋る相手もいなかった凍土での自分からすれば、少しは成長したかもしれない、とヤツハは寂しさに紛れる不安に目隠しをしながら笑顔を作った。

     

    「ということですので、ライラ、あたしも稲鳴へ向かいましょう」
    「ありがとう。助かる」

     

     方針も決まり、今後の予定を協議していくハツミ。
     しかし、

     

    「どこに向かえばいいですか? 様子見ながら、海岸線を辿っていきます?」
    「大丈夫、行く」
    「へ――」

     

     真意を訊ねるよりも、ライラの動きのほうが早かった。
     彼女は風になったかのように踏み切ると、広い湯船の真ん中にいたハツミめがけて宙を疾く駆けた。そのまま器用に彼女の腕をひっつかみ、人一人荷物を抱えているのが信じられないくらい滞空した後、着水することなく対岸まで一足で渡りきってしまった。
    そしてそのまま脱衣所の屋根にまで軽々と飛び登る。

     生まれたままの姿のハツミを引きずって。

     

    「え、ちょ――待って! 待ってください! このまま行くんですか!? 荷物! というか服! 服くらい着させてください!」
    「らい、急ぐ」
    「いやだから分かりましたからせめて服構成する時間くら――ぃ、ぁあああああああっ!」

     

     悲鳴が、桜の下に響き渡る。やがてそれは、風の鳴き声に紛れ、消えていった。
     後に残されたヤツハは呆然とするしかない。

     

    「行っちゃい……ましたね」
    「忙しないですねえ。らいらんも温泉入ればよかったのに」

     

     濡れた手ぬぐいで目で覆いながら、もったいないというようにクルルは呟く。
     久しぶりに訪れた二人だけの空間は、なんだか少し、静かであった。

     

     

     

     


     そして数日後――

     

    「…………」

     

     黙々と歩き続けるヤツハとクルルの姿は、煙家と瑞泉と繋ぐ輪車街道にあった。二柱の行く見慣れた土の道と、平らになるようみっちりと敷き詰められた石の道が半々になった、仄かに潮の香る一路である。
     一つ前の宿場を抜けて随分経った今、彼女たちはぽっかりと空いた間隙のような、のどかな一帯に差し掛かっていた。
     ヤツハには、それが嵐の前の静けさのように思えてならなかった。

     

     彼女が後にした宿場での案内は、ここが瑞泉の都に向かう最後の場所だというもの。
     旅の終わりは、刻々と近づいてきている。
     自分のちょっと斜め前でゆさゆさと揺れる背嚢という光景も、何も持たなかったヤツハが得た、数少ない日常だ。そんな貴重な日常に幕を下ろし、目的を果たしたその先へ向かうのかと思うと、緊張にも似た感覚が染み出してくる。

     

    「ハツミさん、大丈夫でしょうか……」

     

     その不安を紛らわせるためか、また別の不安を吐露するヤツハ。
     それにクルルは、ちら、と肩越しに視線を寄越した。

     

    「はつみんなら、なんだかんだで何とかしますよ。らいらんも一緒ですしぃ」
    「でも……」

     

     素直に飲み込めないヤツハの意識は、背後に向けられている。手の届かない、彼方の先であったが、後ろ髪を引かれるといった面持ちなどでは決してない。
     しかし、クルルは自分勝手な共感を寄せて、

     

    「確かにアレは、かなーり気になりましたけど、くるるん的には今はやつはんを調べるほうが大事ですねぇ。いろいろ仮説はありますから、じゃんじゃん協力してくださいねぇ」
    「……! そう、ですね……がんばります」

     

     本懐を改めて突きつけられたようで、ヤツハは月並みな返答しかできなかった。
     他人を心配できるほど、己の足場は固まってはいない。
     楽しい旅が終わったら、いよいよ自分と向き合う時が来る。
     ただクルルに明かしてもらうのではなく、自身で求めた曖昧な鏡像に、自ら手を伸ばす義務がある。

     

     それが、己に宿した意思。
     そして同時に、メガミたちに後押しされて歩んだ道なのだから。

     

    「見えてきましたよぉ」

     

     呼びかけを受けて意識を風景に移すヤツハ。気づけば、若干の上り坂となった街道の向こうに一つの街が見え始めていた。

     

     

     瑞泉。
     ヤツハが失った己への手がかりが、この街にある。
     旅の終わりが、形となって目前に現れたようだった。

     

    「楽しい旅……でしたね」
    「んー……、そうですねぇ」

     

     そこから堰を切ったように思い出が語られることなんてない。楽しかった今までを肯定する言葉があれば十分だった。
     ヤツハが見初めた好奇心は、もう鏡の向こう側を覗き込もうとしている。
     彼女にはそれが、とても頼もしく見えた。

     

    「……お願いします、くるるんさん」

     

     故に、一歩を前へ、並び立つ。
     共に見定めていくために。

     

    「……はい、お任せあれ」

     

     探究者の笑みが、静かに深められた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     こうして彼女の旅は、終わりを告げた。彼女はこの地に触れ、この地を学び、そして幾許か親しんだことだろう。
     だけど楽しいだけのひとときもまた、終わってしまった。
     もちろん、この先の彼女に一切の幸福がないなんて、カナヱは言うつもりはないさ。けれど君と同じく、カナヱにだって未来は分からない。彼女を待ち受ける運命が、この旅のように温かいだけというのは、少しばかり楽観的なんじゃないかと、そう思うわけさ。

     

     さてさて、彼女の未来を知りたいのはやまやまだけど、残念ながら旅の終わりは今この時。故にまだ分からない。
     それよりも、だ。この地――いいや、この世界で起こっていた出来事は、彼女の旅だけじゃあない。むしろ、彼女の旅は平穏に過ぎたと言ってもいい。

     

     次なる舞台は、二つの海。

     いやはや、彼女の先見性には舌を巻くね。いつかの言葉を覚えているかい?

     

    『私は一足先に、次の次の舞台へと渡ります』

     

     この旅が次の舞台だったならば、次の次とはつまり――

     

     

     

     


     砕ける波が船体を叩く。先程まで凪いでいた晴天の大洋も、行く手の遙か先では雨雲を戴いている。負けじと黒雲をその高い鼻のような煙突から吐き出すこの船も、いかに湾港では大山のようだと言われたところで、洋上では荒天に泣くただの一点に過ぎない。
     帆の見張り台から降りて船内に向かう観測手を横目に、甲板にて交わされる声は二つ。

    「無理を言ったみたいになっちゃってごめんなさいね。どうしても一度行ってみたかったの」
    「いいえ、大丈夫よ。私たちの国に興味を持ってくれたのは嬉しいし、私もちょっと……不安だったから」

     

     船縁に腕を預ける女たちを風が撫でていく。色合いの対照的な長い髪が、宙に遊んでいた。

     

    「呼び出しは前からあったんでしょ?」
    「ええ。だけど、ここまで大仰なものは初めて。それにこれが本当なら、私もジュリア様も、応じないわけにはいかないわ」
    「気になるのは分かるけれど……今から固く考えすぎたら疲れちゃうわよ。久しぶりの里帰りなんだから、そのくらいの心持ちのほうが上手くいくわ」
    「……そうね。そうかもしれないわね。ありがとう、ユキヒ」

     

     大海原を、船が行く。
     胸には希望と、僅かな不穏を載せて。

     

     

     

     

     

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