『八葉鏡の徒桜』エピソード1−6:山城ではじめての〇〇(後篇)

2019.08.21 Wednesday

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     荒れた野にぽつんと咲く、一本の神座桜。周囲には社すら存在せず、遺棄された武具が時折思い出したかのように顔を見せるのみ。この寂れた古戦場を、遠く、後方にそびえる城が見下ろしていた。
     ここは山城の外れ……かつてはミズキが軍を率い、菰珠の民やコダマとの戦いを演じた舞台の一つだ。係争は決着を見たものの、地理的な活用のしづらさや心理的な抵抗から、現在もこうして騒乱の爪痕が剥き出しのままになっている。

     

     そして今、桜の前には一人の少女が。
     桜を挟んで菰珠側に立つ彼女は、戸惑いを示すようにその夕焼け色に染まった頭を掻いていた。

     

    「コダマ様にいきなり、代理戦争だって駆り出されたときには何が何やらって話だったけどさ……」

     

     独りごちるようで、けれど少女の意思は確と前へと向けられている。
     すなわち、山城側に立つ者へと。

     

    「まさか、相手がキミだとはね。こんな形でまた会うとは思わなかったよ」

     

     苦笑いしながらも、その瞳は真剣さを湛えていた。
     少女の向かいに立つのは、緊張の面持ちを浮かべるヤツハ。
     そしてヤツハの向かいに立つのは、先日彼女が鞍橋で出会った、鏡に忠告をしてきたあの少女である。

     

    「オマエが気になると言ったんだ、丁度いいだろう」

     

     少女の言葉を拾ったのは、彼女を連れてきた張本人であるコダマだった。桜の根本で腕を組み、微動だにすることなく激突の瞬間を待ちわびていた。
     軽く頭を下げて少女はコダマへと肯定を示すと、気を取り直したように一つ息を吐き、浮かべていた笑みを好戦的なものへと変えた。

     

    「あのときは名乗っていなかったね。ボクは夕羅、 遥原夕羅 はるばらゆうら だ」
    「ヤツハ、と申します」

     

     名乗り返したヤツハは、心の底に沈んでいた反発心が浮かび上がってくるのを感じていた。鞍橋での少女――夕羅の言動に対して覚えた感情は今、ヤツハに僅かながら夕羅を睨ませる、という形となって現れていた。
     それをどこ吹く風と受け流す夕羅は、その場で軽く足踏みをしながら、

     

    「確かにせっかくの機会だし、ここで見定めさせてもらうよ。準備はいいかい?」

     

     自信の上に立って見下ろしているような、そんな挑発じみた問いかけ。傲慢と謗られても仕方のない口ぶりではあったが、戦いに際して必要以上に気負わない姿勢は、夕羅が信じる実力が虚飾ではないと悟らせるには十分だ。

     

     ただ、ヤツハにとっては夕羅への悪印象を強めるだけだった。相手がどんな力量を持っていようと、戦場に立った記憶のないヤツハから見たら誰もが等しい。
     その不安はもちろん、夕羅への反感と共に彼女の中に生まれていた。けれど、自分を見守っているはずのクルルやハツミ、そしてミズキの存在を感じ、雑念を払拭するように改めて意思の光を瞳に宿す。

     

     それを夕羅は可と受け取った。
     宣誓が、古戦場に響く。

     

    「遥原夕羅、桜降る代に決闘を」

     

     そして、応じるように初めての宣誓が、一言一句確かめるようにヤツハの口から為される。

     

    「ヤツハ……、桜、降る代に、決闘を……!」

     

     桜花結晶を身に纏い、桜を挟んで相対す。
     この地を、さらには自分を知るための戦いが今、幕を開ける。

     

     

     

     


     どこからか、不思議な力が流れ込んで、身体に通っていく。そうとしか説明できない感覚が桜花決闘に臨むヤツハの意識を満たしていく。
     その力は初め、どこかよそよそしく感じられた。けれど、それが他人から借り受けたもの――ミズキの力だと気づくと、己を護る力としての頼もしさが背中を押してくれるような感覚へと移り変わっていくようだった。

     

     そして僅かな後、あるいはヤツハにとっては力を受け入れた相応の後。第一の流れを追うように、ヤツハの身体にはもう一つ、別の力が流れ込み始める。
     その力はどこか懐かしいようで、ようやくあるべき場所へ帰ってきたような安心感があった。ミズキの力に護られていることとは違う、己の内側にあることがもっともらしいと思えるような、そんな安心感だった。

     

     しかし、だ。その優しい感覚も刹那のうちに過ぎ去った。
     代わりに流れ込んできたのは、身震いするような恐ろしさを伴ってやってくる、暴虐的な力の奔流であった。

     

    「うっ……ああっ……!」

     

     相手を前にしていることも一時忘れ、両腕で身体を抱くようにして耐えるヤツハ。内側から弾けてしまいそうな苦しみに喘ぎながら、ただ祈るようにして怒涛が収まるのを待ち続ける。
     やがて、どうにか耐え忍んで息を落ち着けた頃には、その力の奔流を体現する物が彼女の隣に現れていた。

     

    「おおっ!? これはこれは……」

     

     真っ先に声を上げたのは、歪んだ笑みを浮かべたクルルだった。
     鏡。北限の地にて、コルヌを退けたあの鏡が、ただ静かに宙に浮かび、夕羅の姿を映し出していた。
     唯一ヤツハの様子に心を砕いていたのはハツミだけであり、この代理戦争の主人たる二柱は対照的な反応を見せていた。ミズキは目を細めるようにして冷静に観察し、理解に努める一方で、コダマはどこか呆然としながらも、口元は笑っていた。

     

     そして相対する夕羅は、彼女の宿すメガミと同じく表面上は呆れながらも、飄々とした態度を潜めて眼光鋭くヤツハを睨んでいた。

     

    「やっぱりキミはあの鏡を使っていたんだね」

     

     売りに出されていた欠片と同じ文様が、現れた鏡の縁にはっきりと刻まれている。肝心な経緯を教えていない以上、夕羅の誤解も当然だったが、この段になって誤解を解く余裕はヤツハにはなかった。
     夕羅は顕現させた鋼の拳を打ち鳴らし、力を溜めるように重心を沈める。飾り気のない鉄の板で覆っただけの手袋だからこそ、コダマの顕現武器には純粋に威力を求める意思の発露を感じさせてやまなかった。
     そして、

     

    「でもその力、ボクが打ち破らせてもらうよッ!」

     

     言い終わると共に弾かれたように踏み出し、先手の動きを作る夕羅。身体を軸を僅かに左右にずらしながら、猛然と前へと駆け出した。

     

    「あっ……! え、ええと……」

     

     対するヤツハはそれにまず動揺を示してしまう。決闘の流れこそ教えてもらいこそしたが、誰も力の詳細を分かっていないのに戦い方を授けられるわけもなく、夕羅の機敏な動きに初陣のヤツハはただただ慌てることしかできなかった。
     それを見て取ったか、

     

    「ほら、来ないのかい!?」

     

     半分ほどの間合いをもう詰めようかというところで、盾のように手の甲を向けて構えられた両腕の合間から、嘲笑う夕羅の表情が覗く。

     

     混乱ここに極まったヤツハは、半ば考えることを放棄しながら、己に満ちる力に意識を注いでいた。
     想起するのは、北限の番人に膝をつかせた恐ろしい星空の怪物たち。
     鏡から溢れてきたあの巨腕や牙こそ、ヤツハの知る唯一と言っていい攻撃の形だった。夕羅のように己の身体でどうにかするなんて考えもしなかった。だからただひたすら、自身の力があの形となって鏡から現れることを願いながら、少しでも時間を稼ぐように後退ることしかできなかった。

     

     しかしてそのがむしゃらな祈りは、現実となって現れる。
     今まで夕羅だけを映していたはずの鏡の奥から、蠢く星空が鏡面を食い破るようにして世界に溢れ出した。

     

    「おっ」

     

     夕羅の前に織り成したのは、人一人を飲み込んでしまえるほどに大きな獣の顎である。夕日に炙られたように赤みがかった夜空の色は、凄惨な威力を物語っているようだ。
     だが、放たれた猛獣を前に、夕羅は小揺るぎもしなかった。

     

    「はッ!」

     

     襲いかかった大顎の横っ面を、その硬い拳の甲で鋭くはたき落とす。ひび割れた地面に打ち据えられるというところで、呻き声一つ上げることなく獣は宙に溶けていく。
     そのまま夕羅はさらに加速を作ると、手を伸ばせば触れ合える最至近の距離へと踏み込んだ。同時、纏っていた鋼の拳を還し、こちらは本物の獣を思わせる装飾の施された三叉の爪をその手に顕現させる。

     

     間断なく繰り出される動きを前に舌を巻くヤツハ。鍛えられたミコトの技を初めて目にするのがこんな間近になろうとは夢にも思わなかっただろう。
     動きより遅れて理解を得る彼女に、反応など許されるわけもなかった。ましてや星空の獣と解き放つために己を駆け巡った力の衝動に意識を割かれては、瞬き一つの間に迫りくる刃を正確に追うことすら難しい。

     

    「エヤァァァッ!」

     

     飛びかかるように突き出される、あまりに前のめりな一撃。多少の反撃を受け入れてでも繰り出そうとする連撃を予感させる動きだったが、それに鏡の獣が応じることはなかった。

     

    「っ……!」

     

     代わりに犠牲となったのは、ヤツハが念じるように差し出した桜花結晶だ。軌道を逸らされた夕羅の切っ先が、ヤツハの帯を掠めていく。しかし返す刀で振り上げられた爪に充てがうには間に合わない。
     だが、第二撃がヤツハの顔を切り裂くことはなかった。咄嗟に働いた防衛本能が、鈍い桜色に輝く不可思議な防壁となって刃を阻んでいたのである。
     気づけば、ヤツハの頭上を宙に浮かぶ巨大な兜が覆っていた。人が被るには一回りも二回りも大きく、左右に伸びた角は勇猛さを示すよう。これこそ護りの象徴たるミズキの力を宿す証左であり、ヤツハへの堅固を約束するように悠然と聳えていた。

     

     城壁を象る防壁を前に、夕羅は勢いを殺されていた。彷徨う視線は次の手を探すようで、防壁を食い破ることを諦めても前への意思は途絶えていないようだ。
     故にヤツハは企図を挫くべく、己の頭を振るえば、それに追従する兜の逞しい角が眼前の空間を薙いだ。

     

    「っと……!」

     

     夕羅はそれに桜花結晶を充てがうことで逸らし、再び爪を突き出すだけの勢いを残そうと試みたものの、体勢は果敢な連撃を繰り出すには心もとないものとなる。
     距離を望むヤツハには、今度は鏡が応える。標的を見据えるように夕羅へ向けられていた鏡面がヤツハも捉えるように向き直り、僅かな後に彼女の像をその後方へと映し出した。不思議なことに、視点は刹那の後にその像の位置からのものに変わっていた。

     

     仮初の離脱を確かなものとするべく、さらに夕羅を追い払おうと鏡から生み出したのは怪物の爪だ。消える防壁に代わって、暴虐的な斬撃が夕羅に襲いかかる。

     

    「くっ、あぁっ……!」

     

     人の背丈を超える大きさの爪はもはや斬撃というより打撃のほうが近かった。足捌きによって避けられないと受け流す構えをとった夕羅を嘲笑うかのように、盾とした彼女の爪と結晶ごと薙ぎ払う。その威力に怯んだかのように、ヤツハの纏っていた結晶が彼女から離れていく。
     その様にさらなる追撃を訴えるのは、ヤツハを巡る鏡の力だった。鏡の向こう側にいる何者かが、彼女の意思に関係なく鏡面を跨いで溢れ出てくるような、暴走じみた衝動が内側から胸を叩き続けていた。

     

    「だ、だめ……」

     

     破滅的な末路すら想像してしまうそれを、ヤツハは必死に乗りこなそうと力の流れを意識する。蓋をしてしまっては意味がなく、制御することこそ重要なのだと肝に銘じて、暴れる力に己の意思を訴え続けた。
     鏡による像が元に戻り、視界が大きく一歩分前にずれる。目の前では、舌打ちと共に暴虐の余韻から解き放たれた夕羅が立ち直ったところだった。

     

    「……少しはやるね」

     

     彼女に戦意の衰えはない。それどころか、相手を食らわんとする意欲を益々漲らせているようだった。
     そして夕羅は、その意を示すように、

     

    「でも」

     

     地面を強烈に踏みしめ、凄まじい威圧感を放つ。意思という力がびりびりと空間を伝わってくるような、不思議な力場が突如として周囲を覆った。その中で彼女は、意思の源としてヤツハへと毅然とした一歩を踏み出している。
     危険を察知したヤツハは反射的に退避を選択しようとする。しかし、彼女の足はどれだけ力を込めても、地面に縫い付けられたままだった。

     

    「……!」

     

     分かったときには時既に遅し。接近への拒絶を許さない力場の中、ヤツハの眼前にて大地を抉るほどに踏みしめられた夕羅の姿勢は、不動を貫くことで力を高めているような、破壊的な一撃の到来を告げていた。
     そして腰だめに構えられた右の拳には、岩をも穿つ鋼の顕現が。

     

    「ヤァッ!」
    「ご、ぅ……!」

     

     目で追うこともままならない鋭い正拳が、ヤツハの腹部を強かに捉えた。護りの結晶を満足に充てがうこともできず、身体の中で何かが身代わりとなって砕ける感覚がありありと分かる。それでもなお減じきれない凄まじい衝撃が、彼女の足元を不確かにさせた。
     さらに夕羅は好機と見たのか、手中に爪を顕現させると、回避もままならないヤツハに向かって振り下ろす。ばち、ばち、と雷を纏ったその一撃は拳に劣らず機敏かつ鋭利で、意識をも揺さぶられていたヤツハに綺麗に吸い込まれていく。

     

    「い、っ――ああっ……!」

     

     重ねられた連撃に、堪らず膝をつく。兜の重みはないはずなのに、自然と頭を垂れるような姿勢が生まれる。それに先程の防壁を思い出したのか、夕羅はそれ以上の攻めの手を僅かに躊躇したが、ヤツハから窺い知ることはできない。

     結晶があったところで、身を裂く一撃は苦痛を伴う。元ミコトとしてミズキから教えられていたものの、聞くのと実際に感じるのとでは訳が違う。見届人たちの存在も含め、命の危険はないと励ますように送り出されていても、ヤツハにそれを感じるなというのは土台無理な話だった。
     その恐怖は、一抹のものであっても芯に据えたはずの意思を蝕んでいく。

     

    「い、嫌っ……!」
    「……!?」

     

     鏡を御していたヤツハ自身の意思の力が緩み、鏡が輝きを放つ。その結果にもまた恐れを抱きながら、己を害する者への恐怖心は力を解き放つことを選ばせた。

     鏡から現れたのは、鉤爪のついた無数の細腕。
     一つ一つは大きな顎や爪ほどではない。けれど、それこそ星の数ほどもあろうかという大群は、蹲るヤツハの周囲に嵐のような暴力の場を容易く生み出した。

     

    「ちょっ――」

     

     夕羅が腕を一つ打ち落とそうとも、何事もなかったかのように次の腕が迫りくる。二本しかない腕では対処できる数には限界があり、結晶を盾としても完全に防ぎ切ることは叶わない。
     その一方で、この嵐には安全地帯など存在しなかった。敵に向かうことだけを目的とした腕たちは、暴れまわるあまりにヤツハすらも傷つけていた。それでも夕羅の至近への恐怖は勝っており、じっと嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。

     

    「う、うぅっ!」
    「でたらめな力だ……!」

     

     毒づく夕羅は抵抗虚しく、鉤爪の渦に飲み込まれていく。彼女のまた防御の姿勢をとって耐えきることを選んだようだった。
     しかし、無数の腕の中に消える夕羅の最後の表情が至って冷静なものであることに、ヤツハは息を呑んだ。にやりと歪められた口元に悪寒を覚え、自身をも苛む嵐の中で歯を食いしばりながら立ち上がった。

     

     しばらくするうちに、殺到した腕は力を失って日差しの中にゆっくりと消えていった。
     そうして現れる、夕羅の姿。

     

    「でも、それは悪手だよ」

     

     膝をつくことなく、勝利を確信する声と共に、反撃の意思を示すべく爪を掲げていた。
     消えた星空の代わりに纏うは、漂う桜色の霞を巻き上げる風と、怒りを体現するかのように嘶く雷。
     暴虐的な嵐を乗り越えた先には、新たな嵐が待っていた。

     

    「あ……」

     

     今度は自分がその嵐に呑み込まれるのだと、ヤツハは悟ってしまった。恐れに突き動かされて遮二無二力を放ったところで、倒せなければその次が粛々とやってくるだけだった。
     我こそが食らう者だ、と主張するように、夕羅の爪が獣の大口のように構えられる。周囲で鳴り荒ぶ嵐が指向性を持ち、ヤツハという獲物へ狙いを定めた。

     

    「はあぁぁぁぁッ!」

     

     大地をかき乱す風雷が、強烈な一撃となってヤツハに襲いかかる。彼我の間合いを切り裂くような鮮烈さが、彼女の脳裏に敗北の二文字を過ぎらせる。

     

    「――――」

     

     大自然の猛威を前に、動くことも、声を上げることすらできない。
     そんなヤツハの脳裏にはふと、旅立ちを決意した山の景色が思い起こされた。それからはまるで走馬灯のように、北限からこの山城に至るまでの旅の様子が次々と浮かんでは消えていった。
     決別したコルヌと、手を取ってくれたクルル。有り様の手本となるハツミに、人からの視点をもたらして天詞たち。近くは鞍橋で起きた夕羅との諍いがあり、そして今、山城で刃を交える自分がある。

     

     視界の端でさざめく神座桜と、根本にいるはずのクルルたち。
     そして眼前では、己と鏡をどこか蔑視する相手が、ヤツハの向こう側にある勝利へと手を伸ばさんとしていた。

     

    「…………」

     

     言葉は出ない。けれど、彼女の胸に飛来する想いはあった。

     まだ、分からないことだらけ。誰かに導かれてばかりいる。
     それでも自分は今、己の足でここに立っている。
     だから、

     

    『あぁ、ここは、勝っておきたい』

     

     と。

     

     自分でも驚くような、そんな柄にもない感情だった。もしかしたらそれは、反感を礎とした仄暗い出処の想いかもしれない。
    けれどヤツハは、じわじわと染み渡るその感情を受け入れた。終わりをもたらす一撃という光景があっても、自身でらしくないと思っても、もう一度、手をぎゅっと握りしめて立ち向かう意思を奮い立たせる己を、止めることなんてできなかった。

     

     そしてヤツハは、背後に控えた鏡へと、決意を込めた。
     すると、

     

    「何を――」

     

     眩い輝きを放ち始めた鏡が、ヤツハの盾となるように差し出される。
     大嵐の前では、一抱えほどもある鏡であろうとも容易く吹き飛ばされてしまう……はずだった。
     しかしヤツハの鏡は、風雷を受け止め――そして、弾き返した。

     

     

    「な……!」

     

     まさしく鏡写しにするように、鏡面に触れた途端に反転する嵐は、それを成した夕羅の元へと向かう。
     跳ね返したそれは、確かに荒ぶる風であり、地を裂く雷だ。
     けれどその実態は、あの怪物のような星空――静謐な夜の海など知らない鏡の向こうの何かが、夕羅の放った大嵐を象って現れたのである。

     

    「ぁ、がぁっ……!」

     

     元の嵐はかき消され、予想外の反撃に夕羅は防御もままならずに弾き飛ばされる。それでも彼女は、身の内に残された結晶を頼りに膝をつくことはなかった。

     

    「あぁッ、ちくしょう……、でも……まだだッ!」

     

     決定的な一撃を打ち破られた苛立ちが、悪態となって表れる。その右手には雷を帯びた爪を、左手には鋼の拳をそれぞれ顕現させ、黒き暴風の止んだ彼我の間合いを猛進する。この段になって武器を同時に顕現させる技量は称賛されて然るべきものだ。
     けれどそれも、正しく使われれば、の話。
     決着までのあと一歩こそ、冷静さをもって踏破しなければならない。糧とするべきは執念であり、自尊心のような不純物は致命に足る枷となる。

     

    「……焦りすぎだ、未熟者」

     

     ぽつりと、眇めるコダマが零した声も、夕羅には届かない。
     そして対するミズキは、頬に薄く微笑みを乗せて、隠した口元から言葉を漏らす。

     

    「今ですわ……!」

     

     走り込む夕羅は獣性すら思わせる低い姿勢でヤツハへと食らいつく。もはや火を見るより明らかとなった互いの敏捷さは、肉薄した後こそが駆け引きの場なのだと告げている。
     事実、瞬く間に距離を詰めた夕羅の爪は、電光石火の勢いでヤツハの腕をえぐった。

     

    「っ、ぅ……!」
    「おォッ……!」

     

     まろび出る結晶。雄叫びを上げてさらに一歩、表情の機微すら見て取れるほどの至近に至り、力を蓄えていた拳を次弾として繰り出す。
     しかし、打撃されたのはヤツハの肉体でも結晶でもなく、堅牢な護り。

     

    「ぐッ……!?」

     

     城壁を模した光の壁が、続く拳を受け止めていた。
     見れば、ヤツハを覆う兜が淡く輝いている。まるでそれは、庇護する主に対して、今こそが好機だと告げているようであった。
    その意を、無駄にすることはない。
     勝ちたい、と願ってしまったからには。

     

    「来てッ!」

     

     兜の声に従い、か細く吠えるヤツハ。それに応えるように、鏡の向こうから星空が怒涛の勢いで溢れ出す。
     振るわれる巨大な爪は、防護壁に勢いを全て殺されてしまった夕羅を容赦なく斬りつける。護りを固めるしかなくとも、集めた桜花結晶を根こそぎ刈り取られてしまえば、後のない無防備な状態を晒すしかない。

     

    「う、ぐぅぅぅ……!」

     

     そして鏡の怪物は、大口を開けてその最期を待っていた。
     見上げるほどに大きな、怪物の咢。
     その、落ちてくる厄災のような星空に、夕羅が抗うことはできなかった。

     

    「あぁぁぁぁぁ――」

     

     がぶり、と。
     恐怖ではなく、憤りの叫びと共に、彼女は呑み込まれていった。
     大顎の獰猛な歯の隙間から、砕けた結晶が風に乗って散っていく。
     夕羅に残されていた、最後の結晶が。

     

     

     

     


     漠然とした感覚だった。相手が全てを失ったという感覚が、勝利したという事実となってヤツハの胸に落ちていく。消えていく怪物たちが、一仕事を終えて夜空に帰っていくようだった。

     

    「私……」

     

     それを自分が成したのだと実感し始めると、遅れて湧き上がりつつある高揚感をどう扱っていいのか分からずにただ呆然とする。兜が消え去り、浴びた日差しに目をしばたかせる。
     そこに、

     

    「やっつはぁーーーーーん!」
    「くるるんさ――わっぷ」

     

     桜の下から走り出してきたクルルが、興奮を抑えきれないといった様子で飛びついてきた。ヤツハの両肩を力強く握りしめ、息がかかるような距離で満面の笑みを咲かせていた。

     

    「ばっちしだったですよ! こんなことならもっと早くに決闘してもらえばよかったってくらいですよぅ!」

     

     そして興奮は伝播する。
     ヤツハの中で溜まっていた感情が、感激となって噴き出した。

     

    「く、くるるんさん、私やれました……! 勝てましたよ……!」
    「ほんとにないすな仕事でしたぁ! あの鏡の様子に、星空のもんすたー! 傍からたっぷり見れて予想もいろいろ立ちましたよぅ。いやーぁ、瑞泉では検証の時間が無限に必要ですねぇ!」
    「見守っててくれてありがとうございました……! 私、途中で挫けそうで……」

     

     微妙に噛み合っていない感激のやり取りの中、緊張の糸が切れたようにヤツハの目尻に涙が浮かぶ。
     続けて彼女は、同じく決闘を見守ってくれたメガミたちへと顔を向ける。

     

    「ハツミさんも、ミズキさんも、本当にありがとうございました。最初は戸惑いましたけど、桜花決闘を通じて、この力と少しはきちんと向き合えたような気がします……!」
    「おめでとう。貴女がその力を、より正しく使えることを祈っていますわ」
    「い、いやー、すごいですねぇ! まさか勝っちゃうなんて……」

     

     微笑を浮かべ激励するミズキの横で、ハツミはぎこちない笑顔のまま一人慌てたように拍手する。

     

    「ここまで見越して代理戦争を提案してくださったなんて、ハツミさんは本当にすごいお方なんですね……! 感謝してもしたりません」
    「えっ!? あ、まあ――あは、あははっ! ヤツハのためになってよかったですよ!」
    「はいっ! この機会をくださったこと、ずっと忘れません!」

     

     目を泳がせるハツミをよそに、重ねての感謝は止まらない。
     だが、やがてハツミの視線が別の場所に向けられていることに気づいたヤツハは、はっ、と思い至ったようにクルルから離れた。
    勝者がいれば、敗者もまた存在する。

     

    「あんな素人みたいな動きで……でも、あの力をあんなに……」

     

     ぶつぶつと、起きた現実が信じられないといったような面持ちで夕羅は呟く。地べたにあぐらをかいて座り込んでおり、ヤツハが見た限りでは怪我はしていないようだった。
     ただ、蹲るようにして抱きかかえた左手を、右の手で強く握りしめているのは、悔しさからだろうか。

     

    「それに……ボクの力が……」
    「夕羅」

     

     そこへ、歩み寄ったコダマが彼女の名を呼んだ。
     弾かれたように顔を上げた夕羅を認めると、コダマは僅かばかり口角を上げながら言葉をもたらした。

     

    「良い戦いだった。修行の旅をしていると聞いたが、腕を上げたな」
    「いえ……」
    「しかし、己の道を急ぎ過ぎているようにも見える」
    「…………」

     

     目をそらす夕羅。
     コダマはそれに構うことなく、一呼吸置くと、

     

    「どうだ、一度稲鳴平野に戻り、己を見つめ直すのは」
    「それは――」

     

     思わず、といった様相で反論しかける夕羅だったが、奉ずるメガミの忠言に心当たりがあったのか、喉まで出かかった声を押し留めたようだった。
     そこに重ねるようにしてコダマは、

     

    「オレとしても、稲鳴に向かってほしいんだ。少し、気になることもあってな」
    「そう、ですか……分かりました」

     

     納得を見せた夕羅が立ち上がる。土埃を軽く払い、気持ちを切り替えるように自らの顔を数度叩いた。
     そのまま彼女はヤツハに向かい合う。決闘前の挑発的な態度は鳴りを潜めているが、気落ちしているかといえばそうではなく、真にヤツハと向き合う気持ちを固めたような面持ちだ。

     

    「今回は負けを認める。でも、次は負けない」
    「……はい」

     

     それにきちんと応じなければならないような気がして、ヤツハは背筋を伸ばした。
     それから夕羅は浅く頭を倒し、礼の形を作る。

     

    「その力にそこまで向き合ってるキミに、無礼を働いてしまった。申し訳ない」
    「…………」
    「だけど、それでも言わせて欲しい。むしろそこまで向き合ってるからこそ、その力には注意して欲しいんだ」

     

     余計な感情を排した純粋な忠告であることは、ヤツハにも理解できた。気を抜けば暴れまわるこの力の危険性も、実際に決闘を通じて手綱を握ったことで痛感している。
     こくり、と頷いたヤツハに、夕羅がほっと安堵を示す。
     二人の間にわだかまっていたものは、これにて一旦の決着を迎えた。
     と、

     

    「よし、終わったな!」

     

     手のひらに拳を打ち付け、落着を明示するのはコダマである。ただ、その声色は終わりを告げるものではなく、隠しきれない高揚はむしろこれから始まる何かに対しての期待を訴えているようだった。
     もちろん、彼女が望むものは唯一つ。

     

    「次はオレの番だ」
    「……貴女、本当に最近おかしいですわよ?」

     

     茶化すように呆れるミズキ。二度は言わないとばかりに桜にもたれかかって、参戦への拒否を態度で示す。
     故に、コダマの視線は一点に――ミズキの隣へと注がれる。
     本来ミズキの代わりに戦わんとしていた者へと。

     

    「さあ、構えろハツミ。ミコトが良い戦いを見せてくれたんだ、オレたちが応えないわけにもいかないだろう」
    「ぴぇっ!?」

     

     突然の指名にハツミが飛び上がる。代理戦争も終わって一件落着となったところで油断していたのか、よそへ押し付けたはずのお鉢を回されて冷や汗が溢れ出す。
     そんな彼女を追撃するように、きらきらと輝く尊敬の眼差しが。

     

    「わぁ、ハツミさんのお力を見られるんですね……!」
    「うぐっ」

     

     無垢で純粋な上に、決闘の後で向学心まで帯びたヤツハの期待が、あまりに眩しかった。
     断るための大義名分もないどころか、ヤツハのためという大義名分まで得てしまう。
     前門のコダマに、後門のヤツハ。
     もはや、退路はなかった。

     

    「ぅ……うぇええぇ……」

     

     必死に表情を取り繕う陰で、漏らしたか細い呻きは誰の耳に入ることもない。
     待ち遠しく鋼の拳が打ち鳴らされる音が、古戦場に響き渡っていた。

     

     

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