『八葉鏡の徒桜』エピソード1−2:芦原で今宵はお祭り(後篇)

2019.07.17 Wednesday

0

    《前へ》      《目録へ》      《次へ》

     

     ゆらりゆらり、横たえた身体が、水面に揺蕩う。
     今日の海はほとんど凪で、空もよく晴れ渡っている。あまりに太陽を遮るものがないから、適当に獲ってきた昆布を目隠しにしているほどだ。じりじりと焼けるような熱を帯びていく身体の前面と、ひんやりとした海水に浸かった背面で、冷温合わさった心地よさが彼女を満たしていた。

     

     海のメガミ・ハツミ。
     象徴するものを体現するように、彼女は人の世で過ごす時間の多くを海で過ごしている。それは砂浜であったり、磯であったり、あるいはこんな、四方に何も見えないような大海原のど真ん中であったりする。

     

    「んうぅ……やめてよぉ、えへへ……」

     

     つんつん、と突かれた頬に昆布を退ければ、海豚が鼻の先で彼女のことを呼んでいた。口端からよだれを垂らし、まどろみに心を溶かされかけていたハツミは、すり寄ってきた海豚を撫でてやってからやんわりと押し返した。
     すると海豚は仕返しとばかりに、ハツミが被り直そうとしていた目隠しの昆布を咥えて持っていってしまう。

     

    「あっ、こらぁ……んもー」

     

     ふふっ、と悪戯されたというのに、ハツミは幸せそうに微笑んでいた。
     遮るものがなくなってしまい、瞼越しに焼かれてしまう目を、今度は自分の右腕で覆う。変に動こうものなら姿勢を崩して沈んでしまうが、とても器用に水面に浮かび続けている。本当に海を布団にしているかのようだった。

     

     平穏な時間に、ハツミが抗うことはない。
     ただ、穏やかな波に身を任せ、そのうち静かな眠りに落ちていく。

     

     ……次に目を覚まさせたのは、身体を襲う大きな揺れだった。

     

    「――……ん」

     

     意識が瞼の向こうの光を捉え始める。けれど、あれだけ眩しかった日差しの気配がない。
    それどころか、微かな波の音と鳥の鳴き声しか聞こえなかったというのに、水と水が激しくぶつかり合う音がそこかしこから聞こえてくる。
     しまいには、ぐわん、と背にした海が動き、宙に放り出された。

     

    「んん!? ――へぶっ!」

     

     まともに顔面から海面に叩きつけられたハツミは、痛む肌に目を覚ましながら、慌てて状況を把握する。
     あんなに凪いでいた海はどこへやら、暗雲の下に広がる大海原の機嫌は最悪だった。何故気づかなかったのか分からなかったが、大きな雨粒が続々と海面を叩いており、波を生む凄まじい風と相まって、酷い大嵐となっていた。

     

     しかも、どうやらハツミは寝ている間に流されてしまっていたようで、辺りを見渡せば岸も近く、人里が雨の帳に見え隠れしている。海豚なんてよほどでなければ迷い込んでこない、そんな沿岸で一人、ハツミは荒波に揉まれていた。
     と、彼女が沖を様子に目をやったときだ。

     

    「ひええぇっ!」

     

     海に、巨大な壁が生まれていた。
     津波だ。それも、町一つ優に呑み込んでしまうほどの。
     いかにハツミだろうと、これに流されたらひとたまりもない。

     

    「や、やば――あいだーっ! あーもう、やるしかないぃ!」

     

     流されてきた丸太を頭にぶつけながら、遮二無二力を発揮する。ハツミの呼びかけに応じた海水はその大質量を宙に浮かび上がらせ、岸を護る壁となって立ち上がる。水を動員したおかげで、彼女の足は干上がった海底に着いていた。
     ハツミはそれを、思い切り津波に向かって放った。波に波をぶつけても対岸が大惨事になることを知っていた彼女は、半ば自棄になって水の塊をぶつけて相殺しようと試みたのである。

     

     果たして、それは腹の底に響くような轟音と共に、大波を打ち崩した。
     勢いを殺しきれなかった余波が、滝のようにハツミへ降り注ぐ。

     

    「ど、どわぁああっ!」

     

     思わずぎゅっと目をつぶり、頭を抱えて蹲る。
     だが、ばらばらと周囲を打ち据える大水をよそに、ハツミが頭から水を被ることはなかった。それどころか、水位も徐々に戻っていくはずなのに足元は乾いたままで、そのうち雨が地を打つ音もだんだん乾いたものになってきた。
     そして、

     

    「ハツミ様ーっ! ありがとうございます!」
    「助かりました、流石ハツミ様!」
    「もう駄目かと思ったのに、こりゃあ奇跡だ……!」

     

     人々の歓声が、何故か聞こえてくる。いつの間にか、乾いた音は拍手から生じたものへと変わっていた。

     

    「あ、あれ……?」

     

     狼狽えるハツミが目を開けると、自分を信仰する民に囲まれていた。どうしてか、海にいたはずなのにもう浜にいる。まだ空はどんよりとしているが、雨風は弱まり、嵐は確かに去ったのだと辛うじて理解できる。
     ぱちくりと目を瞬かせ、混乱を禁じ得ないハツミだったが、このままだと縋り付いてくる民にもみくちゃにされかねなかったので、手で制止を示しながら慌てて大きく飛び退いた。

     

     人々はそれに、言葉を賜るのを待っていた。期待の眼差しが、ハツミへ注がれる。
     本当は、自分を襲った災いをただ退けただけで、結果的に人里が救われただけなのに。
     けれど、民の純粋な気持ちを裏切ることは、彼女にはできなかった。

     

    「き、聞きなさい、おまえたち!」

     

     だからハツミは、メガミとして民に告げる。その裏で頭を目まぐるしく回転させ、必死に言葉を探しながら。

     

    「どのような凪の海も、どのような大荒れの海も、等しくあたしたちの海だ! 己が乗りこなすべき、大いなる海だ! このくらいの大波はあたしならどうにかできる。だけど、あたしを宿すのなら……あたしを頼ってばかりではなりません!」
    「…………」
    「海原と共に生きる民よ、逞しくありなさい! どのような嵐の海も己の力で乗りこなすべく、常に精進なさい! そんななよっちい身体じゃ、鯨と力比べなんて夢のまた夢です!」

     

     喝破と共に、静寂が波のように民衆へと広がっていく。そして返す波は打ち震える海の漢たちに感嘆から生まれ、ざわめきとなって場に満たされていった。しまいには己の不覚を恥じて膝をつく始末である。
     ハツミには、あの嵐が人間にどうにかできるなんて思っていなかったが、万が一そうなってくれたら遠慮なく海で静かに過ごし続けられるというもの。頼られることもなくなれば、愛しい海獣たちとの穏やかな暮らしが約束されるのだから。

     

    「それでは、期待していますよ!」
    「破ッ!」

     

     故に、彼女にとっては体裁と保身を両立した言葉でしかなかったはずだった。そそくさと海に帰って、無事切り抜けられたと思う程度のものだった。
     それを再び思い出すのは、この大嵐から半年後のことになる。

     

     

    「あれ、また……」

     

     海に潜って溶けた意識が再浮上すると、ハツミはどうやら己が陸で腰掛けていることに気づいた。
     今度は拍手ではなく、太鼓の音が。
     そして、聞こえるはずのない、筋肉の躍動する音が。

     

    「ハツミ様ァッ! ハァーッ、どうですかな!?」
    「フンッ! 船を押して鍛えたこの腕、御覧くださいッ!」

     

     太鼓に合わせ、ハツミの前を入れ替わり立ち代わり、褌を締めた漢たちが筋肉を見せびらかす。一応順番待ちのつもりのようなのだが、鍛えた肉体を見てほしいあまりに押し合いへし合い、夜の砂浜の一角のむさ苦しさは尋常ではないことになっていた。
     呼び出されてついていったら、いつの間にか筋肉の森に迷い込んでいた。
     それは、半年前に思いつきで口走った言葉が原因で、馬鹿正直に肉体を磨き上げていた民によるお披露目会であった。

     

    「さあ、我らの成果、いかがでしたかッ!?」

     

     問われたハツミは、真顔を保つので精一杯だった。むしろ彼女の顔の筋肉が鍛えられてしまいそうなほどだ。彼らはあくまで、ハツミが望んだことを行っただけなのだから、それに笑ったり嫌悪したりなんてできるはずもないのである。少なくとも表面上は。
     そして彼女は、どうにか答えを絞り出す。

     

    「この程度で満足すると……? まだまだ鍛えが足りませんね」

     

     篝火に照らされたハツミの頬がぷるぷると震える。
     そんなこともつゆ知らず、民は膝をつき、頭を砂にこすりつけた。汗まみれの肌に、べったりと砂粒がまとわり付いていた。

     

    「お、お許しください、ハツミ様。これからも精進を重ねます故……!」
    「どうか俺たちを見捨てないでやってください!」
    「ま、また半年後には必ず……!」

     

     懇願する彼らをよそに立ち去るハツミ。「考えておきます」と言い残した彼女の頭は、躍る筋肉で埋め尽くされていた。

     

     

     ……そして、さらに半年後。
     嫌なものから嫌なものを想起するように、ハツミは入江の口から浜の様子を遠巻きに眺めていた。

     

    「はぁ……」

     

     これ以上近づいたら民に見つかってしまうが、近づけば近づくだけ筋肉もまた近づいてくる。その先に待つ筋肉の森が、どうしてもハツミに浜の砂を踏ませなかった。約束を反故にした罪悪感を上塗りするほど、思考を埋め尽くす筋肉は心の傷になっていたのである。

     

     さらに、悪夢はこれで終わらなかった。どうせすぐ飽きるだろうという彼女の考えは甘く、その催しは都合のいいように解釈――いや、昇華され、祭となって連綿と続いていくことになる。豊漁祭なんてもっともらしい大義名分を脇に添えてからはもう、各地から観光客すら集まる催しにまでなっていた。
     隠れて見ている中、筋肉のメガミなんて不本意な呼称が耳に飛び込んできたところで、訂正しに出ていくわけにもいかない。

     

    「どうして……」

     

     過去に目撃した筋肉たちが脳裏を駆け巡り、豪快な漁師たちの笑い声がこだまする。
     半年に一度、祭が近づいてくると決まって見る悪夢に、ハツミは意識を手放した。

     

     

     

     


     廊下がにわかに騒がしくなり、外から届く賑やかさも増してきた頃。

     

    「うわああぁぁぁっ! ――あれ、ここどこっ!? うわっ、クルルじゃないですか、なんでこんなとこに!?」

     

     そこに、畳に寝かされていたハツミが目を覚まし、一人で喧騒を上乗せしていく。頭の上で彼女の髪を手慰みに編んでいたクルルの姿を認めるなり、慌てて起き上がって壁際へと避難していく。
     そんな光景に、ヤツハは申し訳無さを覚えつつも苦笑いしてしまった。

     

    「あの、お体は大丈夫ですか?」
    「ほえ……? あ、なんか痺れるけど、とりあえず……」
    「ふむぅ、ふらんくりん君はそこまでの出力じゃなかったんですけどねえ。めんて不足でしょうか」
    「あぁ……だいたい察しました。やっぱこいつのせいですか、ははっ……」

     

     顔をひきつらせながら、どこか呆れたように空笑いをこぼす。適当に編まれていた髪は頭を掻きむしったことで戻っていくが、生乾きだったせいか、賢明に手ぐしを通したところで肩口にかかった毛先の寝癖は一向にとれないままだった。
     それからハツミは、二柱を見比べてから、ヤツハを指さしながら渋々といった様子でクルルへ訊ねた。

     

    「こいつ、どなたさま……? なんか妙な感じするけど」

     

     それにクルルは、大きな身振りでヤツハを示すと、

     

    「よくぞ聞いてくれましたあ! やつはんこそが、北限で出会ったまいとれじゃーなのです!」

     

     自慢げに胸を張っていても、ハツミにほとんど伝わっていないことに本人は気づかない。どうやら必要十分を話した気になっているらしいとハツミは悟ったのか、訊いた己の不覚を顔に表わしていく。
     
    「まいとれじゃー? ええーと、ヤツハ、でいいんです? なんでまたこんなのと」

     

     胡乱げなものを見るような目つきと共に、ハツミがクルルを指差しながら矛先を変える。
     それにヤツハは、苦笑を零しながら居住まいを正した。

     

    「はい、ヤツハと申します。北限の方で目覚めたのですが、記憶がなくてくるるんさんに調べてもらっているんです」
    「へぇー、そりゃまた大変……。ま、がんばってくださいな」

     

     さりげなく、一歩踏み出した足を、す、と引き戻すように、自ら広げた話題を閉じようとするハツミ。いかに厄介者から比べたらまともそうに見えたところで、厄介事の気配は身を引かせるには十分だったらしい。

     

    「うわ、まだ水溜まってたんじゃないですか。畳がびしゃびしゃ……」

     

     膝立ちになりながら、中途半端に湿ったままの装いをあちこち確かめるハツミ。偉大なる海の王、というにはいささか以上に可憐であり、むしろ愛らしい姫のようですらあった。先程までは無惨にも水揚げされていたわけだが。
     初めその姿を目にしたとき、驚きが生まれたことはヤツハの記憶に新しい。女将の話から思い描いていた人物像とは随分と離れていて、己の見識のなさを恥じ、さらなる出会いに胸を膨らませたものだった。
     と、そこでヤツハは、この降って湧いた機会に尋ねることがあると思いだした。

     

    「そうだ、いくつかお訊きしてもいいでしょうか?」
    「ん? なんです?」

     

     大げさに首を傾げて見せるハツミに、ヤツハは改めて背筋を伸ばして問う。

     

    「私、今言ったように記憶がないので、メガミがどういう存在か、どうあるべきか、分かっていないんです。特に知りたいのは人々とメガミの関係で、先程までここの女将さんにハツミさんのことを色々教えてもらっていたんです」
    「ほうほう」
    「それで……ハツミさんにとって、芦原の人たちはどういう存在ですか?」
    「ふんふ――」

     

     ハツミの顔は、相槌も半ばに穏やかな笑みを湛えたまま固まった。
     脳裏に筋肉がよぎり、口の周りが僅かにひくつく。泳がせた目は、気迫ある大波の描かれたふすまのところで留まった。予行演習なのか、どこか無秩序な祭囃子が外から響いてくる。

     

    「あの……?」
    「あ――ええーっと、すいませんすいません! ここの人たちのことですよね!?」

     

     心配し始めていたヤツハだったが、五つ数える間にきちんとどこかから帰ってきたハツミの態度に安堵のため息を零す。ただ、何故か手刀を両手に構え、腰を引いたような姿勢になっている意味は分からなかったが。
     それからはっとしたように胡座になったハツミは、腕を組んで深く唸ってから、

     

    「うーん、そうですねえ……まだまだ手のかかる、愛しい子と言うべきでしょうか」
    「おぉ……あの大波から守った逸話から、皆さん努力されているようですが」
    「ははっ、全然足りませんよ。認めてあげたいのはやまやまですけどね? 甘やかしたところで、みんなのためになりませんから。調子に乗って海の藻屑になるところなんて、誰も見たくはないでしょう?」

     

     なるほど、とヤツハは胸中、女将視点との乖離が誤解でしかなかったと納得していた。それでいて、民には明かしていない本音も聞くことができ、その興味深さにさらなるハツミへの興味が湧いてくる。
     ただ、きりりとした作り顔の裏で、乾いてきていたハツミの肌が今度は冷や汗に濡れ始めたことを、ヤツハは知る由もなかった。

     

    「そうですね……ハツミさんも、いつも見守っているわけにもいかないでしょうし」
    「そ、その通りその通り。芦原の民にばっかりかまけていられるほど、あたしも暇じゃないのです。どこぞのご隠居メガミと違って、目は一つしかついてませんから、やはり民に自分自身を高めてもらうのが理想なんですよ」
    「なるほど……それがメガミからの視点、ですか。長い目で見たときのことも、確かに考える必要がありそうですもんね……」
    「えっ――あっ、そう、そうですよ! その場その場を凌ぐだけじゃ駄目ですからね! あは、あはははは」

     

     乾いた笑いも、先入観に支配されていたヤツハには余裕の笑みにしか見えていなかった。視点の違いに大きく納得したように頷き、今後メガミとして人々に関わるときのための参考資料として胸にしまう。
     もっと具体例に踏み込んでいきたい、と次なる質問を脳裏でまとめ始める。
     だが、裾を引っ張られる感覚がそれを妨げた。

     

    「うー、人間がどうとか、そゆのどーでもいいですぅ」

     

     ごろん、と寝転がっていたクルルが、いかにもつまらなそうにヤツハの服の端を摘んでいた。

     

    「ごめんなさい、私だけ」
    「クルルはクルルで気にしなさすぎな気もしますけど……」

     

     どこかほっとした様子のハツミの言葉に、特にクルルが反論することはない。仰向けのまま万歳をして、ぶらぶらとハツミへ手を伸ばす。

     

    「というか、はつみんは結局なんであそこにいたんですか? 今日はお祭りなんですよね? ふらんくりん君の中じゃお祭りは見れませんよぅ」
    「う……そ、それは……」

     

     今度は顔を引きつらせながら、つー、と視線をクルルたちから外す。

     

    「いや、あたしにもね? やんごとなき事情っていうのが、あって、ですね……誰にも言えない、みたいな……?」
    「もしかして、美味しいおさかなをひとりじめするきだったんですかぁ? くるるんたちの分は取っておかないとめーですよぉ」

    「誰が横取りするっていうんですか! ……そ、そうじゃなくて」

     

     しどろもどろになりながら、ああでもないこうでもないとあやふやな言葉を重ねていく。その要領のなさに、クルルの顔がふざけたようにわざとらしく歪められていく。
     けれど、同じくハツミの様子を窺っていたヤツハは違った。
     はっ、と何かに気づいた彼女の口から、解答がこぼれ落ちる。

     

     

    「さぷらいず……ですね!」
    「え――」

     

     予想外どころか、意味のまるで理解できない単語にハツミは硬直した。
     ヤツハはそれに補足をするように、

     

    「あっ、と驚くような贈り物のこと、らしいです。もしかしてハツミさんは、久しぶりにお祭りに顔を出すのに、町のみなさんを驚かせようとしていたんじゃないですか? それで言いづらそうに……」

     

     提示された答えは、別段瑕疵のないものだった。
     しかし、ハツミにとってはそれが不味かった。真実を覆い隠すための蓋が見つからなければ、あとはもう自分が覆いかぶさるしかない。
     それがどんな結果を生むことになっても、ただ無心で。

     

    「え……ぁ……うん。……そ、……そうかも、いえ、そうです。そうです……ね」

     

     希望と心を失っていく声で肯定すれば、ヤツハはぱあっと笑顔を咲かせた。偉大なるメガミに対して抱いた期待が裏切られることはなかった。

     

    「素敵です、ハツミさん! あ、でも、ここにいて大丈夫ですか……? 楽しそうな音も増えてきましたし、もうそろそろ始まるんじゃ……」
    「そ……ソウ、デスネ」
    「くるるんさんがお魚を捕りに行ったのも私のためでしたし、なんだか申し訳ないです……」

     

     至って真剣に落ち込むヤツハ。
     だが、それも束の間、

     

    「そうだ、くるるんさん! ハツミさんの『さぷらいず』、成功させるようにお手伝いできませんか?」
    「うーん、あんま興味ないですけど、やつはんが言うならいいですよ」
    「やった……! そうと決まれば急がないといけませんね!」

     

     トントン拍子に話が進んでいく。それを今更制止することは、ハツミにはできなかった。
     祭りとさぷらいずへの期待に目を輝かせるヤツハに、そんなハツミの心境は知る由もない。ただ、自分のために何かしてくれることへの嬉しさを既に知る身であるが故に、純粋な気持ちで立ち上がる。
     全ては、尊敬すべき先達のために。

     

    「アハハ……」

     

     連れ立ったハツミ本人の声が、鳴り始めた祭囃子にかき消されていく。
     伸ばされた指先は、何かに縋るように意味もなく、ひくひくと動いていた。

     

     

     

     


     そしてその夜、海の漢祭本番。
     穏やかだった昼間とはうって変わって、身体に叩きつける潮風は祭の空気に煽られたように強まっていた。腹の底に響く太鼓の音がそれに負けじと響き渡り、賑わう人々の気勢をさらに高めていく。

     

    「ハッ、ヤッ!」
    「ヨイショォ!」

     

     到るところに篝火の焚かれた芦原の浜辺で、褌一丁の筋肉たちが踊っていた。檜舞台の上で演じられるような流麗なものではなく、太鼓に合わせて鋭く激しく、キレのある動きを作り続けるそれは、厳しい演武のようですらあった。

     

    「わあっ、すごいですよくるるんさん! お胸がぴくぴく動いてます!」

     

     観衆に紛れていたヤツハが、鍛え上げられた肉体から繰り出される技に歓声を上げる。街道の練り歩きも終わり、伝承に語り継がれるお披露目の舞に移った祭を楽しんでいた。

     

    「どれだけ頑張ったらああなれるんでしょうね……流石はハツミさんを信じる方々です!」
    「はいー、そですねー」

     

     その隣で、クルルは心ここにあらずといった様子で生返事する。端から漢たちには一切興味を向けておらず、手元で弄っている何かに集中しているようだった。
     と、筋肉の躍動も最高潮を迎えた頃だった。
     海の向こう、入江の入り口あたりに、ぽう、と桜色の光が灯った。

     

    「お、おい! なんかこっち来とるぞ!」

     

     どこかから生じた困惑は、さざ波のように人々へ広がっていった。彼らが目にしたのは、その光が祭の会場である浜辺へと一直線に向かってきている光景だった。
     太鼓も一度鳴り止み、漢たちも謎の光に対して威嚇するように筋肉を張り上げる。
     ざわめきが、芦原の浜を覆い尽くした。

     

    「み、見ろ! あれは――」

     

     一歩、果敢に波打ち際まで近づいていた漢が、松明を掲げた。
     すると、顕になったのは人間の大人ほどの木偶人形であった。全身に海藻を巻き付け、あちこちを貝殻であしらっているそれは一見すれば漂流物のようである。人の下半身にあたる部分には何本もの足が複雑に生えており、砂浜を実に歩きづらそうに進んでいた。
     そして、その人形は、頭の代わりに人を戴いていた。

     

    「は、ハツミ様だァーッ!」

     

     人形の肩に腰掛けていた者の正体に気づいた筋肉の塊が、叫びを上げた。

     

    「ハツミ様だって!?」
    「なんてことだ、ハツミ様がいらっしゃっただと!?」
    「嘘だろう、ついにお認めいただいたのか!?」
    「あぁ、ハツミ様だ……! ハツミ様に、祭に来ていただけたんだ!」

     

     信じられないといった声は、ハツミが次第に浜の中心まで上陸したことで歓喜の絶叫へと変わっていく。絶叫はさらなる絶叫を生み、ざわめきは一転して爆発的な快哉となって浜を包み込み、興奮のるつぼと化す。
     しかし、そんな中でも、人々は祭の本懐を忘れていなかった。いち早くハツミの周りに集ったのは、この日のために己の肉体を磨き上げてきた海の漢たちであり、瞬く間に筋肉の森が姿を現す。

     

    「っしゃァー! てめェら、気合入れてくぞォ!」
    「「「「応ッ!!」」」」

     

     顔役らしき漢の掛け声によって、筋肉の舞が再び繰り広げられていく。またとない機会に、彼らは全身全霊でもって、肉体をハツミへと誇示していく。

     

    「フンッ、ハァッ!」
    「ソイヤッ!」

     

     野太い声が、祭囃子もかき消すように交錯する。
     もはやそれは、演武ですらない。原点に立ち返った、お披露目そのものであった。

     

    「ヨッ、セイッ!」

     

     いっそう太鼓は激しく、いっそう筋肉は逞しく。
     いかに立派に己を見せられるか、ただそれだけを考えた姿勢を続け、ハツミの中心にぐるぐると回る。

     

    「ハァーッ、フンッ!」

     

     視界の中には常に筋肉が存在し、四方八方を筋肉に囲まれたハツミは、逃げ出すことも目をそらすこともできない。ぴくぴくと彼女が痙攣する様は、海の漢たちであっても、観衆も、あるいはヤツハやクルルでさえも、誰も認めることはなかった。

     

     何故こうなったのか。
     自分は何を間違えたのだろうか。
     ただ、海で平穏に暮らしたかっただけのはずなのに、自分を囲むのは愛らしい海獣ではなくむさ苦しい人間の雄たち。

     

    「なん、でぇ……」

     

     筋肉地獄に放り込まれ息も絶え絶えになったハツミに、望む答えを返す者はいない。
     頬を流れた一筋の雫に、益々熱気は高まっていく。

     

    「フンッ!」

    「ハァッ!」

    「ソイヤッ!」

     

     ……今宵の芦原は桜降る代に語り継がれる盛り上がりを見せ、そして祭は実に三日三晩にわたって続いたという。

     

     

    《前へ》      《目録へ》      《次へ》