『????????』プロローグ5−2:舞台裏

2019.05.31 Friday

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     さらさらと、筆が紙を走る。時折、行灯の火が、じ、と芯を焦げ付かせる微かな音でさえも耳につくような静謐さは、無心となるには相応しい場である。
     けれど、それは一人きりだったときのこと。しかも突然やってきたその相手が、ただ黙して語らず、庭に脚を放り出したような格好で縁側に寝そべっているのだから、余計集中を削がれてならない。晴れた夜空に浮かぶ大きな月を眺めているというには、彼女の視線はぶっきらぼうに天井に向けられたままだった。

     

    「あの」

     

     筆を止めぬまま、部屋の主たる女・古鷹天詞は相手に向かって切り出した。

     

    「冷えるので、せめて障子は閉めていただけませんか」
    「いやよ」

     

     ばっさりと切り捨てられた提案に溜息をつきながら、天詞は薄めの袢纏を羽織り直した。
     古鷹家当主・古鷹天詞。二十代もようやく折り返したかという齢にして、桜降る代随一の大家を統べるミコトである。古鷹の名に恥じず芸に秀でるが、舞を極めた先代・京詞とは違って詩文の才に溢れ、若くして歌壇や文壇にその名を馳せている。
     線が細く、儚げですらある容姿であり、心地よい涼しさの今晩であろうと膝掛けも欠かせない。だが、正された背筋から受ける印象は手折られる花などではなく、柳のようなしなやかで強かなものだ。

     

     幼い頃はただ身体の弱く遠慮がちだった女の子を、亡き先代に代わってここまで育て上げたのは主に二柱のメガミである。
     故に彼女は、どれだけ多くの民をまとめ上げる為政者であろうとも、そのうちの一柱――トコヨが傍で明らかにへそを曲げていると知って、いつまでも邪険にはできないのであった。

     

    「……それで、何かあったのですか?」

     

     観念したように水を向ける天詞。

     

    「シンラ様でしたら先日発たれましたが」
    「知ってる。っていうか、なんでそこであいつの名前が出てくんのよ」
    「いえ、ご歓談のお相手がいらっしゃらなくて、さぞお寂しいのかと」
    「……んなわけないでしょ」

     

     僅かに詰まったトコヨの答えの意味を天詞は掴みかねた。再び書状の上で筆を走らせながら、意識と耳を師へと向ける。
     対してトコヨは、息を吐くようにその名を告げた。

     

    「サイネよ、サイネ」
    「あぁ……」

     

     得心がいったような、微妙に芯を外したような、そんな曖昧な応じ方。二柱の仲の良さは天詞の知るところではあるが、だからこそトコヨの眉間に皺が寄っているその理由が、すぐには思い浮かばなかったのである。

     

    「久しくお会いしておりませんが、お変わりなく?」
    「あたしが知りたいわよ、そんなの……!」
    「……?」

     

     沈黙によって先を促した天詞に、心構えをするように長く溜息をついたトコヨは、

     

    「思えば天音杯のときから変だったのよ。いや、その前からかもしれないけど。あの子、ユリナたちの活動に思うところはあったみたいだけど、なんだかんだ決闘は嫌いじゃないし、天音杯の計画持ち上がったときも、見に行くって言ってたのよ……?」
    「もしや、いらっしゃらなかったのですか?」
    「ユリナも結局見なかったって、随分前に日取り伝えたみたいなのに。ねえ、サイネが来ないなんてありえると思う……? あたしのミコトも決闘でもやるんだってとこ、ちょうど見せられたはずだったのに……!」

     

     強めた語気と共に、がばりと起き上がって身を乗り出すようにトコヨは訴えた。
     ただ、天詞は淡々とそれに応じていく。

     

    「普段は御冬におられるのでしょう? 天音までそう近いわけではありませんし、赴くのも一苦労では」
    「それはあんたのことでしょ。二つ返事で招待断っちゃって」
    「……はぁ、それでご様子を気になさっていたのですか。メガミ様が巻き込まれるような一大事は、あいにく耳に入ってきてはおりませんが」

     

     けれどトコヨは、俯きがちに首を振った。

     

    「二十年前みたいな大変な騒ぎなんて起きないでしょうし、サイネが健在だっていうのはあの子のミコト連中見てれば分かるもの。でも、ちょっと気になることもあるのよ」
    「気になる、というと」

     

     問いを返されて、一息つくようにトコヨは膝を畳んだ。先が気になったのか、一筆終えた天詞が墨を乾かしながら、意識と共に視線も送る。
     それにトコヨは、天詞に回想を促すように、

     

    「座員に、サイネを宿してるひょろ長のがいるじゃない?」
    「……おそらく、明石さんあたりでしょうか。禿頭の」
    「そいつそいつ。前に舞台で見たときに力の使い方が妙だったから覚えてたんだけど、演舞の練習してるところ見かけて確信したの。ただ単に、技に美しさと鋭さを帯びただけじゃないって」
    「それだけだと、修練の賜物のように聞こえます」

     

     天詞の感想に、でもね、とトコヨは続けた。

     

    「どこかね……危うくて、冷たかったの、その技。触っただけで指が切れちゃいそうな薄氷みたいにね」
    「…………」

     

     反論する言葉を天詞は持たなかった。その目で確かめていない以上に、師でありメガミであるトコヨの感覚を否定などできるわけがなかった。長としての懸念ですらもはっきりとは浮かびきらず、ざわついた心を隠すように次の書面に手を伸ばす。

     

    「座長はそれを?」
    「伝えたところでねえ。もちろん、そいつが悪さし始めたとかそういうのじゃないし……技の良し悪しで言えば良い方に行ってるんだから、傍からは克己的に励んでるようにしか見えないのよ。あたしが感じた危うさだって、気をつけなきゃ紛れちゃうくらい小さな変化なんだもの」

     

     確信を得たと言いつつ、トコヨの声色は理解が及んでいないものへ言及する、地に足が着ききっていないそれであった。
    ならばもう本人に訊ねる他ないのでは、という結論に至った天詞は、しかし師の最初の嘆きを思い出して、筆へと伸ばした手を止めた。
     すなわち、

     

    「サイネ様が消息を断たれたのですか……?」

     

     だが、結論から言えばその帰結は誤っていた。
     天詞がそれを悟ったのは、訊ねられたトコヨの表情が、泣きそうになりながら憤りを漏らし、かと思えば何かに耐えるように口をすぼめるという複雑怪奇なものへ変わったからだった。

     

    「違うわ……」

     

     

     そして、ぽつりと否定を零し、天詞の目から逃れるように僅かに顔を伏せた。ただ、手慰みのように取り出した扇を弄ぶ手の力は、決して弱々しいものではなかった。

     

    「天音杯に来なかったことといい、ミコトの変化といい、なんか妙だと思って御冬の里までサイネに会いに行ったのよ。洞窟でまた修行してるみたいだったから入っていったら、足音であたしに気づいたあの子、どうしたと思う?」
    「さあ……『今は独りにしてください』と言ったとか?」
    「まだ顔も合わせてないのに、何も言わず水晶で道塞いできたのよ。会いたくないならそう言ってくれればいいのに、なにもそこまですることないと思わない……?」

     

     ようやく開示されたもっともらしい不機嫌さの源泉に、天詞は一瞬納得しかけた。しかし、意味深な拒絶にどういう理由があろうとも、それを語るトコヨの面差しは憤りだけに満ちたものではないこともまた確かであった。

     

    「あーもう、思い出したら腹が立ってきたわ。もうサイネなんか知らないんだからぁ!」

     

     ぐったりと、全てをなげうつように寝そべったトコヨ。
     そんな彼女の憤慨を、天詞が額面通りに受け取ることはなかった。二十年来の付き合いを通してみれば、いくらも作為的に見えてしまう憤慨の陰に隠した真意を汲み取るには十分だったのである。
     故に天詞は、くすくす、と枕を置くように笑って宥めの言葉をかける。

     

    「サイネ様を心配なさるお気持ち、察して余りあります」
    「ちょ、そんなんじゃ――」

     

     慌てて顔を上げる少女に、作った悲しげな顔を向ける。

     

    「そうでしたか。トコヨ様は別け隔てなく胸襟を開かれる素直なお方ですものね、きっとそうなのでしょう。あぁ、それにしてもサイネ様はどうされてしまったのでしょうか……心配でなりません」
    「うぎぎ……」

     

     およよ、と袂で目元を隠して嘘泣きする天詞に、トコヨがこれ以上不服を言い立てることはなかった。
     ただ、密かに嘆息する中で、否が応でもトコヨのもたらした異変の断片を様々な角度から見ざるを得ない己がいることを、天詞は自覚していた。それが古鷹の長の務めであり、この地に生きるミコトとしての責であり、トコヨという師を戴く身の義務である。

     

    「トコヨ様、また強引に楽団に誘ったりしませんでしたか?」
    「失礼ね、ちゃんと弁えてるわよ!」

     

     その程度のいざこざで終わるのであればどれだけいいことか。
     調子を取り戻した師に安堵しながらも、その裏に不安を隠した若き当主は、新たな書状に筆を滑らせていった。

     

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