『????????』プロローグ3−3:彼女にとっての邂逅と決断

2019.05.04 Saturday

0

    《前へ》      《目録へ》      《次へ》

     

     大自然の脅威と、それに立ち向かう探求者。どんな秘境においても見られ得る光景であろうそれが、ヤツハの眼の前で繰り広げられている。試練を課す側が人の形を有しているせいで、拒絶をいっそう肌身で感じられてしまう。まさしくコルヌは、厳寒の体現者に他ならなかった。

     

    「早々に往ね!」

     

     降りしきる雪が寄り集まり、排斥の意思を示す鋭利な刃となって相手を襲う。
     背嚢の女はどうにか光の盾でコルヌの攻撃を防いでいたが、如何せん数が多かった。盾がどれだけ死角も守ってくれたところで限界はあるようで、吹雪に紛れて間断なく飛び込んでくる刃は次第に女の身体を掠めていくようになる。
     そしてついに、吹雪に乗った殺意が女の肌を捉えた。

     

    「おわぁーっ! あし、あしがーっ!」

     

     刃が身体をなます切りにしたわけではなく、着弾した女の右足は靴ごと氷塊に閉じ込められていた。そのまま脚を動かすことはできるようだったが、ただでさえ大荷物を背負っている彼女の鈍重さに拍車がかかるのは間違いなさそうだった。

     

    「足は探検の命なんですよぉ!」
    「ならば去るしかあるまいよッ!」

     

     気迫と共に、今まで女の周囲を旋回していたコルヌが、軌道を変えて一気に至近を試みる。身動きの取れなくなった女に向かって伸びた氷の一本道は、直接強烈な一撃を叩き込む宣告のようだ。
     けれど、対する女も座して待つわけではなかった。いや、ヤツハは最初それが、その女が成したものであることに考えが及ばなかった。

     

    「なに、あれ……」

     

     女の隣で、何かがひとりでに組み上がっていく。素材は一見して木だが、その部品は虚空に瞬く淡い光の中から現れているようにしか見えなかった。ただ無秩序に積み上げているというだけではないことは、ヤツハのいる場所からでも容易に分かる。盾ではない何かが、明らかに形作られている。
     やがて女の背を優に超すまでとなったそれは、コルヌの接近を許すまでに工程を終えたようだった。
     そして、中心軸から三枚の翅を生やしたその構造物は、猛烈に軸を回転させ始める。

     

    「こるぬんもお帰りくださいな!」

     

     轟、と。
     翅の動きは風を生み、翅の残像すらまともに見えなくなったところで、吹雪すら吹き飛ばすような強烈な暴風が生み出される。巻き上げられた雪が、戦場を白で満たしていく。

     

    「小癪な……!」

     

     当然、人がまともに立っていられないような風の中では、コルヌも突撃を断念せざるを得なかった。生み出した氷の上を滑走していた彼女は、辛うじて体勢を保ちながら、暴風の範囲から逃れるようにやむなく間合いを取り直す。
     女の権能の一端を垣間見たヤツハであったが、どんな絡繰で動いているのか分からないあの風の源を紐解く猶予は与えられなかった。

     離れたコルヌを追い打つように向きを変えたせいで、暴風がヤツハに吹き付けたのだ。

     

    「きゃあぁ……っ!!」

     

     飛ばされてしまわないよう、蹲ることしか彼女にはできない。時折交じる雪の礫が痛みをもたらし、暴れる髪のせいで頭が背後に引っ張られる。勝手に出てきた身として、飲み込み損ねた悲鳴に肝まで冷えるようだったが、幸いにも冷酷な叱責も氷の刃も風に乗って飛んでくることはなかった。
     暴風の進路はそのままヤツハを通り過ぎていき、目を開けた頃には雪煙すらどこかへ消えてしまった後だった。白い地面がやや照っているように見えるのは、もしかしたら表面の柔らかい雪があらかた飛ばされてしまったのかもしれなかった。

     

     致命的な流れ弾を受けてしまわないように、もう少し離れていたほうがいいかもしれない。
     そう、怯んだヤツハが顔を上げたときだった。
     目が、合った。
     ぞくりと背筋の凍るような、見られるはずのないものをどうしてか見られてしまったような気味の悪さが、ヤツハを襲った。

     

    「あっ」
    「……!」

     

     侵入者の女と、目が合ってしまったのだ。遠く離れていても互いにそうと分かる、言い逃れのしようもない、はっきりとした邂逅だった。
     女は刹那の間放心していたが、ぱあっと笑顔を咲かせると、

     

    「ああああああああああっ! これです! これですこれですこれですよっ!」

     

     コルヌのことすら忘れ去ったように、興奮のままに声を上げ始めた。その待望の歓喜は、明確にヤツハへと向けられている。
     最初に出会ったコルヌと同じく、正体のはっきりしたものに対する視線ではなかった。目に映るもの全てを観察し、くまなく身体の内側まで解体し、隅々まで知り尽くさんとするような瞳――言葉が通じることすら奇跡に思える、価値観を共有できない別の生き物に見つめられようで、生じた恐怖に一歩後退る。

     

     しかしヤツハは、同時に自らの心に小さな違和感を覚えていた。
     総毛立つような嫌悪感と、今すぐにでも逃げ出したいという忌避感。けれど、それらの中に潜む、足を止めさせるような小さな違和感。
     足がすくんでいるのだと言われれば否定できない。しかしそれだけではないと、心の何処かが訴えていた。

     

     何故、と自問を繰り返しながら、目を泳がせるヤツハ。そうしたところで、答えに導いてくれる存在が見つかることはなかったが、銀世界には侵入者の女ともう一人、彼女に相対するコルヌの姿を見出すことはできた。ヤツハが唯一、女と比べられる存在だ。
    コルヌにあるのはなんだったのか、心の中で数え並べていく。刺々しい警戒心、脅威と見做す敵視、そして――
     感覚の手がかりをヤツハは手繰り寄せんとする。だが、そんな彼女の思考を殴りつけるような叱責が飛んできた。

     

    「貴様、何故来たッ!」
    「ひっ……」

     

     身をすくめたヤツハに向け、その端正な顔をしかめたコルヌが猛進を始める。
     けれどコルヌの位置は、ヤツハから遠く離れたところにあった。暴風に追いやられ、周囲で巻き上がる雪煙によって発見も遅れていた。
     故に、

     

    「お待ちあれ、まいすいーととれじゃー! 今行きますよぅ!」

     

     コルヌよりも手前に位置していた相手の女は、足元から雪を吹き上げながら先行を叶える。走っているわけではないし、氷の上を滑っているわけでもないが、何かしらの推進力が雪上の女に速度を与えていたようだった。
     あっという間にヤツハの前に辿り着き、測ったようにぴたりと止まる。女はヤツハより背が高く、コルヌと同じくらいではないかという印象を受けた。それでも、目を合わせた際に感じたように、やはり威圧感の方向性は全く異なっている。

     

     がっしりと、女は力強くヤツハの両肩を掴んだ。
     瞳には、爛々と好奇の星が輝いている。

     

    「やっと見つけましたっ! あなたこそが、北限に眠るとれじゃー!」
    「え……」
    「反応の源を探して、ぐるぐるしてたかいがありました! どーしてこんな数値が出てくるのか、色々教えてほしいんですよぅ。あなたの権能は? いつからここに? というかいつ生まれました? 会ったことないですよね? 向こうでも調べたいんですけど、だいたいどのへんに? あ、とりあえずお名前訊いてもいいですかね?」

     

     矢継ぎ早に放たれる質問にたじろぎながら、ヤツハはどうにか最後の問いにだけ答える。

     

    「や、ヤツハです……」
    「やつはん! なるほどなるほど、くるるんには聞いたことないお名前ですねぇ……やっぱりこれは、ひょっとしてひょっとして、びんごーってやつではないですかぁ!? だうざー君4号がきゃっちしたここに、やつはんが居た! これは世界に轟く大・発・見の可能性、大ですっ! なので是非、あなたをじっくりたっぷり調べさせてください! 今こそ、くるるん一生のお願いを使うとき!」

     

     このとぉーり! と両手を合わせ、がくがくと頭を下げる動きにつられて、背負った背嚢の中身ががたがたと音を立てる。
     ヤツハには目の前の女の言っていることはほとんど理解できていなかった。何かしら彼女なりの根拠があって、ヤツハが気になるという大筋くらいなものだ。ただ、その現実味のない大げさな扱いをされるという点においては、方向性こそ正反対を向いているけれど、彼女は既にコルヌから味合わされていたばかりだった。

     

    「ええと……」

     

     どう答えたものか迷い、まず話の中に出てきた『くるるん』という不思議な響きの単語が本当に相手の名前なのか、それもまたヤツハを困惑させていた。
     だが、ヤツハがそれを口に出す前に、雪原を駆け抜けた疾風が追いついてきた。

     

    「いい加減にせぬか!」
    「お、ほぉっ……!」

     

     遠慮容赦のないコルヌの蹴撃が、女の横っ腹へと刺さる。靴底の刃はついたままという、殺意しか感じられない一撃だ。
     しかし、だ。それでも女が体制を崩すことはなかった。その場で堪えた、というだけの意味ではない。

     

    「お、おねがいじまず……!」
    「…………」

     

     ヤツハに頭を下げた姿勢のまま、コルヌの蹴りなどなかったかのように女は繰り返していた。苦悶の表情を浮かべることもなく、腹から空気が追い出されて喋りづらいことだけを問題にしているようである。ヤツハもこのときばかりは、顔を引きつらせたコルヌと想いを一つにしていた。
     ただ、狂人という形容が正しいのだと目の当たりにしたことで、ヤツハの中で感覚に論理が追いついていく。

     

     女の反応は、まさしく子供が好奇心をくすぐられる玩具を目の前にしたようなそれだ。その玩具が仮に生きていたとしても、その人格をきちんと見るかすら怪しい。
     だが、だからこそ、彼女はコルヌと違う。
     警戒心も、敵視もなく、人形の腹を割いて中がどうなっているか探る行為に無邪気な残忍さを見たのだとしても、そこには敵意も害意もない。
     却ってそれは酷く恐ろしい存在なのかもしれないけれど、それでも――

     

     そこまで思考の海を泳ぎ、歯車が噛み合った。
     彼女はただ純粋に、ヤツハを調べ上げることを望んでいる。
     ヤツハ自身すら分からない、ヤツハの正体を率先して調べようとしてくれている。

     

     それこそが、ヤツハの抱えていた小さな違和感の正体だった。嫌悪感すら湧くような煮詰められた好奇心は、今のヤツハにとって特効薬になり得る。そう捉えられるほどに、彼女の態度は本物だった。
     もちろん、実際に何をされるか分からないという問題はある。けれど、ヤツハの有り様に至るというその一点においては信じることができるのだ。

     

     逆に、コルヌの論理は明白だ。一切の狂気はなく、脅威と思しきものを守護する地から排斥するという使命によって動いている。
     けれど、使命の裏側で何を抱え、コルヌ自身が何を望んでいるのかはまるで分からない。使命という蓋が取り払われたとき、彼女がどんな牙を剥いてくるのか想像ができない。その使命の中ですら、彼女の意図が漏れてくる気配もないというのに。

     

     そもそも、コルヌの使命の重要さを、ヤツハは知らない。それ以前に、この地がなんなのかも知らない。
     自分は、自分の目覚めた『ここ』について、あまりにも何も知らない。
     自分自身も、何もかも。
     ならば――

     

    「ええい、手間をかけおって。よほど痛い想いをしたいらしいな」

     

     コルヌの周囲に浮かび上がる冷たい刃が数を増していく。ヤツハに向けられたのと同じ敵意が、堪えきれないというように発露していく。
     いつ、それらが降り注ぐともしれない。この均衡は、決して長くは持たない。
     意志を、決めなくては。

     

    「あのっ!」

     

     

     一歩、拝み続ける女へと踏み出した。自分でも驚くような声に、女も、コルヌも、ヤツハ自身すらも動きを止めていた。
     そして、胸に手を当て、

     

    「お願いします。……私を、調べてください」
    「え……」

     

     頭を下げっぱなしであった女が、きょとんとした顔を上げた。言っていることは理解できるが、うまく噛み砕けない、そんな予想外の返答に惚けた表情だった。
     やがてそれは彼女の中で確信に変わったようで、きらきらと輝きを取り戻した。言葉にならない歓喜の声が、喉の奥から湧き上がる。

     

    「ほんとに、ほんとにいいんですか……!?」
    「はい。自分でも、私のことが分からないんです。……痛いのだけは、止めてほしいですけど」
    「もっちろん、このくるるんにお任せくださいっ! 痛いのは最後にとっておきましょう!」

     

     やる予定ではあるのか、とまではヤツハは言わなかった。そんな些細なことよりも、寄る辺を一つ手に入れたことによる安堵がじわりと染み出していた。いかに理屈で導いた選択とはいえ、その支えとなる心にまで嘘はつけなかった。
     だが、この探究者――クルルを味方に選んだところで、話は終わりではない。

     

    「戯言を抜かすなよ、貴様ら……」
    「っ……!」

     

     底冷えするような怒りが、ヤツハたちに向けられる。
     ヤツハにとって味方が一人増えた一方、コルヌにとってははっきりと敵が二人に増えた。選択の末に生まれる窮状から抜け出さなくてはならない。
     クルルもそれを理解しているようで、手袋をはめた彼女の手が、冷えたヤツハの手を掴む。

     

    「ここは逃げるが勝ち、とゆことで一つ」

     

     風の音に紛れそうになる囁きに、ヤツハはこくりと頷いた。反応を待つ間にもクルルは既に行動を始めていたようで、空いたクルルの手は何かを弄るかのように動かされていた。権能を使っているのか、その指先は仄かに光を帯びていた。
     だが、その行動が結果を生む前に、裁定は下される。

     

    「もはや看過できぬ。すまないが、眠ってもらうぞ」

     

     研ぎ澄まされた敵意が、コルヌから表情を失わせる。その宣言の音一つ一つが、胸の奥を凍りつかせるようだった。
     そして、コルヌが手をかざした瞬間だ。
     雪原に吹き荒れていた吹雪の矛先が、全てヤツハたちへと向けられた。

     

    「ひぁ――」
    「どっひゃああぁぁぁっ!」

     

     冷気が肌を切り裂き、息をすることすら憚られるような酷寒の嵐が彼女たちを襲う。雪に混じって大量の氷塊が飛来し、物理的な痛みだけではなく、先程クルルの足を凍てつかせた氷刃のように、当たったそばから氷が這っていく。
     ちょうど立ち位置からヤツハの盾になっていたクルルは、あの光の盾でどうにか身を守ろうとしていたが、この物量の前ではほとんど無意味だった。

     

     肌の露わなクルルの脚が、どんどん氷に包まれていく。それを、彼女の背嚢にしがみついて見ることしかできないヤツハがいる。今はまだ無事だが、完全に隠れられているわけではなく、衣服の端が凍りつき始めていることからも氷漬けにされるのは時間の問題だった。
     これほどまでに強い力に、抗う術はない。クルルの力でも無理なものを、無力な己にどうにかできるはずもない。

     

    「すいません……私の権能、分からなくて……」

     

     苦い思いが口をついてでる。そうしたところで、これから探ろうという前途を挫かれている現状が変わることはない。蓋をするようなコルヌの非情な行動を恨めしく思うものの、彼女の論理を考えれば当然の帰結なのだと納得さえしてしまう。
     だが、納得はしても受け入れることはできない。道を選んだ決意は、襲い来る困難に対して憤りを覚えさせるほどに、ヤツハの中で確かに燃えていた。

     

     訳も分からないままに放り出されて、己を知らぬままに終わるのか。
     どれほど祈っても、願っても、奮い立っても、コルヌたちのような不思議な力が現れる気配は、やはりない。想いが、叶えられることはない。

     ……しかし、ヤツハの謎だけは、彼女にはしっかりと伝わっていた。

     

    「ふっふっふ」
    「……?」

     

     突如笑いだしたクルルは不敵――いや、狂気的で不気味ですらあった。
     凍り始めた顔をヤツハへ向けながら、その興奮を抑えられないといったように続ける。

     

    「なるほどなるほど……やつはんは力が分からないと。それならば、くるるんがその力、引っ張り出せばいいのです」
    「え……」
    「この……、神渉装置で!」

     

     直後、背嚢の中から猛烈に何かが回転する音が鳴り響く。同時にヤツハの左腕の周囲に多数の木の部品が現れ、籠手のように組み上げられていく。その大半は大小様々な歯車で構成されており、まるで自身の何かを巻き上げるようだとヤツハは感じた。
     やがて背嚢から一本の革紐が伸びてくると、ヤツハの籠手の一部に絡みついていき、完成の合図を知らせるように籠手の歯車も回転を始めた。

     

     

     すると、

     

    「えっ――ええっ……!?」

     

     ヤツハを中心として、青白い光が広がった。いきなり壇上に上げられたような変化に、驚きが口をついて出る。
     雪景色の中でも、氷雨の中でもなお強く主張する輝きには、夜空の星々を思わせるような瞬きを孕んでいる。まるで、雪の上に宵の空を映したかのようだ。
     背嚢から聞こえる駆動音は、光の発現を皮切りに悲鳴に近づいていく。ヤツハの腕もそれに応じて極寒に負けない熱を帯びていく。
     そして、光が一気にヤツハの足元へと収束した瞬間、上空で生じた圧倒的な力の奔流が、吹雪をも吹き飛ばす暴風となってヤツハとクルルに襲いかかる。

     

    「きゃあああああっ!」

     

     予期していなかったクルルは顔面から冷たい地面に激突し、ヤツハもうずくまって堪えられているのが奇跡だった。
     程なくして爆風が止んでから、恐る恐る顔を上げる。ただ、ヤツハが見たのは、こんな場所にあることが不思議な物だった。

     

    「え……」

     

     鏡。
     一抱えほどもあるような丸い大きな鏡が、ヤツハの遥か頭上で遠くの雪景色を映し出していた。

     

     彼女の疑問を置き捨てるように、鏡はくるりくるりと横に回転したかと思えば、先程よりも濃く煮詰められたような光を周囲に広げ始めた。まるで今が昼間であることのほうが嘘だったかのような星空が、ヤツハたちを覆い始める。

     


     それがコルヌにまで届くかどうかというところで、次なる変化が訪れる。
     星空が、落ちた。

     

    「な……!」

     

     否、それはむしろ、星空が氷の大地を喰い千切った、といったほうが正しい。
     獣の顎。
     広がった闇から急激に伸びてきた、星空そのものの色をした巨大な口が、コルヌの間近を喰らったのである。ズドン、という輝きの美しさとはかけ離れた衝撃音が、あまりに生々しい破壊がもたらされたことを否が応でも教えてくれていた。

     

     さらにそれは堰を切ったように星空から溢れ出し、見上げんばかりの巨人の腕となったり、人の身など容易く刺し穿てるほどの牙となったり、星空を身にまとった怪物が見境なく暴れ始めたようであった。
     まるでその様や、星の揺蕩う海に潜みし恐怖の顕現。
     ヤツハにとっては、今まで綺麗だと思っていた瞬きのその全てが、破滅を振りまく怪物の瞳に思えてならなかった。

     

    「冗談では――」

     

     吹雪を止め、退避を選んでいたコルヌへと無慈悲に怪物は迫る。星空の下に存在する唯一の獲物であると、怪物は曖昧にも認識しているようだった。大地を砕いだ氷の礫すら、銃弾のように周囲を襲う。
     故に、向けられた巨腕の拳を体捌きによって躱そうとしていたコルヌは、荒れた地面に少しだけ足を取られた。
     拳が、彼女の肩を僅かに掠める。

     

    「ぐぁ、っ……!」

     

     既のところで受け流していたのか、一度、二度と地面を跳ねてからも器用に体勢を整えるコルヌ。だが、その膝はがくがくと震え、本人もそれが信じられないといった様子でやがて膝をついた。
     吹き飛ばされたコルヌを、怪物は追うことはなかった。星空の下に追うべき獲物がいないと悟ったのか、ぴたりと顕現は止む。それでも、歯噛みするコルヌがすぐに元凶への接近を再度試みることはなかった。

     

    「予感は、正しかった……! この出鱈目な力、危険に過ぎるわ!」

     

     息荒くヤツハにぶつけられた意思は、敵意などという生ぬるい表現では足りなかった。いっそ、厄災とまみえてしまった者の焦燥に炙られているようですらある。
     けれど、現れた力を恐ろしく思っているのはコルヌだけではない。

     

    「っ……」

     

     ヤツハは、何も言い返せなかった。どう見ても危険な力に、彼女も膝をつきそうだった。
     ただ、今の彼女は既に道を選んだ身。自分から危険なものが現れたところで、正体を明らかにすると決意したのだから、いずれそれは白日の下へと晒されることになるだろう。むしろ危険だからこそ、害を振りまく意思のない自分は、それが何なのか知らなくてはならない。
     顔だけ起こして事態を観察していたクルルに、ヤツハは手を貸そうとした。けれど、震えるその手は胸元を僅かに離れただけに終わった。

     

    「これが、私……みたいです……だから――」
    「ぐれいとぅでみすてりぃな権能をお持ちのようで! わっくわくが止まりませんなこれは! あっはっは!」

     

     翻意を示すどころか、輝きを増すその好奇の眼差しが、ヤツハの気持ちを少しだけ軽くしてくれた。
     改めて言うまでもなかったことに安堵しつつ、離れたコルヌへと向き直る。
     まず口から出たのは、謝罪だった。

     

    「コルヌさん、ごめんなさい……」

     

     強大で得体の知れない力への驚怖から、戦慄きを抑えることはできなかった。自衛ではあったものの、自分の力でありながら自身の制御下にない破壊に覚えなかったかと言えば嘘になる。
     けれど、だからといってヤツハが己の意志を挫くということはなかった。どれだけ声が震えていても、傷つけた相手をついぞ真っ直ぐ見ることができなかったとしても、ヤツハの言葉には定めたばかりの意志が籠もったままであった。

     

    「私は、私のことを知りたいんです。……ここからは、出ていきますから」

     

     弱々しさとは裏腹に、堅い意志はコルヌの返答を求めていなかった。
     怒気に染まったコルヌの顔を、ヤツハはいつまでも窺うように見つめ続けていた。

     

     

     

     


     僅かばかりの穏やかさを取り戻した吹雪の中、屹立する白い影が一つ。仮初めの夜も終わり、戦いによって荒れた雪原は少しずつ雪に埋もれていたが、ひりついた空気は未だ漂ったままであった。
     その影――コルヌの表情に、今や色はない。じっと南に向かう二組の足跡が消えていく様を見つめるのみだった。
     じっと、胸の奥に刻みつけるように。
     じっと、その先を見据えるように。
     ただ、じいっ、とその有り様のままに。

     

     







     改めて振り返ると、我が性分が悪しき方向へと働いたのは否めない。
     この北限の地に生じた異変の気配。そしてまさにその顕現と言わんばかりに現れたあの娘。北限の守護者としては、警戒せねばならぬ。そしてかの異変はこの地において悪しきものであるかどうかを見定めねばならぬ。
     我は己が役割を正しく果たした。あの怯えが欺瞞であり、包み隠された悪意であった可能性は否定できなかったのだから。

     しかし事が斯様に治まり、あの娘の行動を振り返ればなるほどあやつは本当に何も知らず、己が何者なのかすら分からず、ただ戸惑う迷い子であった。今となってどちらが正しいのか判断するならば、そうなのだろう。
     狂人の闖入があったとはいえ、自省の念はもはや消せぬ。


     だが、今はそれどころではない。自省を繰り返したところで物事は進まぬ。
     あの娘――ヤツハが迷い子だったとしても、あの力は危険に過ぎる。

     遥か昔、我が北限で目覚めたとき、我は己の役割を漠然とながら認識していた。
     我は北限の守護者なり。

     もし、その役を担った理由が今にあるのならば。
     解き放たれたあの力に対し……我の成すべきことは――


     

     

     

     

     

     

     


     願わくは。
     あの力がこの地へと広がらぬことを。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     



     

     

    《前へ》      《目録へ》      《次へ》