『桜降る代の神語り』外伝1:夜天爆炎逃走劇

2019.03.22 Friday

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     やあやあ久方ぶり。カナヱだよ。
     よかったよかった、今日は君が来るのを待っていたんだ。長い長い英雄譚も語り終えてしまったから、もう来ないんじゃあないかと心配していたよ。
     今日はちょっとした小噺を君に贈らせてもらうよ。
     より正確には君にとは限らないかな。これはある覇者に奉げる、ちょっとした昔話さ。時間がかかったのは許してほしい。かの英雄譚が一区切りつくまでは、彼女らの間柄を語るのはあまりにも難しかったのだからね。

     時は英雄譚から1年弱、世界が桜降る代に向け邁進していく中の一幕をお楽しみあれ。

     

     

     

     


     全てはその日その時、忍の里に出向いたからだった。

     

    「おお、チカゲ。ちょうどよかった」
    「な、なんでしょう……」

     

     呼び止めてきたオボロに、チカゲはこの時点で若干ながらも嫌な予感を覚えていたことは確かだった。
    人間時代の名残からか、メガミになってからもよく顕現して過ごすことの多いチカゲであっても、古巣である忍の里に立ち寄ることは少なかった。ほとんど精算されたものの、過去の因縁によってどうしても気まずさを禁じ得ないからだ。

     

     それでも彼女が今日、朝も早くからここに立ち寄ったのは、古鷹山群特有の薬草の知見を蓄えるためだった。他の地域のものよりも詳しいのは間違いないのだが、何しろこの地域は広大かつ独特の植生もある。昔の逃亡生活で調査する機会を大きく失っていたことも手伝って、感情を抑えても訪れる価値がある場所なのである。彼女は忍である以上、そういった合理性に逆らうような育ちはしていないのだ。

     

     しかし、押し殺した気まずさに気を取られていたのは間違いない。
     半年ほど前に手に入ったメガミの身体が、人のそれより死から遠いものだと理解したからなのか、あるいは忍の里にチカゲを脅かすほどの外敵が存在するはずもないだろう、という推論からなのか、彼女にしてみれば少々油断していたことも否定できない。

     

     全力で警戒していれば、きっと今日、古鷹山群に近づくことすらしかなかっただろう。
     だからチカゲは、その名前が出てくるその瞬間まで、災厄が迫っていることに感づくことができなかった。
     オボロは何気ない様子で、要件を口にしようとする。

     

    「ヒミカがお主を――」
    「……ッッ!?」

     

     最初の三つの音を脳が理解する以前に、チカゲは脱兎のごとく駆け出していた。里の中にも関わらず、大量の煙玉を放って、だ。

     

    「あっ、おい待て!」

     

     突然のことに面食らったオボロは既に白煙の向こう側だが、チカゲは己の師匠が本気を出せば一瞬で追いついてくることを知っている。オボロも協力者である可能性が少しでも残っている以上、それでも逃げなければならないのだと、久しぶりに全開となった死を忌避する本能が叫んでいた。

     

     ヒミカ。それはチカゲにとって目下最大の死の象徴である。
     かの動乱の中、チカゲは必要に迫られて龍ノ宮一志をその手にかけた。それが瑞泉の蛮行が本格的に始まるきっかけになったことは、ホロビの末路を考えると後悔する他ない。殺らなければ殺られる(と思い込んでいた)状況であったとしても、だ。
     しかし龍ノ宮殺害は、同時にとんでもない爆弾を生み出していた。彼を気に入っていたヒミカが、その遺体を目にして多くのものを怒りで焼いたことは記憶に新しい。

     

     ヒミカは、まだユリナが殺したものだと認識しているはずだった。チカゲが真犯人であることを知る者は限りなく少ない。
     もしも、その矛先が自分に向いたとしたら?
     一つの家をも消し炭にした炎で、自分の身を焼こうとしてきたら?
     怒れる炎神に真相が伝われば、魂すら焼き尽くすような獄炎が待っている。それが、動乱をくぐり抜けたチカゲを今なお縛る鎖であった。

     

    (な、なんでっ……! 誰がバラしたんですか!?)

     

     霧けぶる森へと飛び込んで、目的地もろくに設定せずにただただチカゲは逃げ回る。
     しばらく前に聞いた情報では、ヒミカは桜降る代の到来に伴う変化を見て回るために、全土を気ままに巡っているという話だった。偶然出会うこともないだろう、と同じく顕現体で活動するに際して胸をなでおろしたものだったが、真実が露見していれば話は別だ。

     

     オボロが続いて何を言おうとしていたのか、チカゲには知る由もない。けれど、ヒミカが自分に用があると考えられるだけで十分だった。用件なんて一つしかチカゲには思いつかないのだから。
     暗殺のことはオボロにもはっきりとは伝えていない。たどり着いているだろう、という確信めいたものはあるが、証拠もないのにやり玉にあげてくるようなメガミでもない。それが自分を売ったのか、と不審がまた蘇ってきそうで思わず滅灯毒の位置を意識してしまった。

     

    (うぅ……どこ逃げれば……)

     

     隠れ家にできる場所はいくつかある。けれど、穴蔵に逃げ込んだところを丸焼きにされる可能性を考えると、どこも安心はできなかった。
     だからチカゲは、ひたすら森の続く方向にずっと逃げ続けていたが、混乱の末の失策だったと悔やむことになる。

     

     轟、轟、と。
     小さな爆発が連続するような音が、背後から近づいてくる。
     森に相応しくないそれに思わず振り向いたチカゲが見たものは、霧を吹き飛ばしながら宙を突き進んでくる、笑顔を浮かべた災厄の形だった。

     

    「おーい、逃げんなよー!」
    「ひあぁぁっ!!」

     

     現れてしまったヒミカに悲鳴を上げ、恐怖ががむしゃらに脚を突き動かす。
     投げかけられた声はのんきそうだったが、チカゲにはそれが却って恐ろしく聞こえた。笑顔の裏でどれほどの怒りを煮えたぎらせているかと想像すると、開口一番で怒声を浴びせられるよりも心が竦んでしまう。

     

     ミコト時代より身体能力が上がっていても、富豪的なまでに権能を使ったヒミカの飛行に敵うはずもない。障害物の多い森の中ですらこの有様なのだ、木々を抜けてしまえば本格的に逃げ場がなくなってしまう。

     

    「だからなんで逃げるんだよー! 待てよ新入りー!」
    「い、いやですっ! 絶対にいやっ、死にたくないっ!」

     

     進退窮まったチカゲは、足止めをするべく毒煙幕を展開し、さらに毒針を鋭く背後へ放つ。針は蔦を避けようとしていたヒミカへと吸い込まれていき、紫煙の向こうで確かに刺さったようだった。
     どちらも有効であれば、身体は麻痺と弛緩に襲われ、まともに動けなくなっているはずだった。少なくとも、彼女の得物である銃では狙いをつけることすら困難だろう。滅灯毒と違って自前なので、きちんとメガミに効くのかは分からないが、効かなければどのみち生き残る道は格段に狭くなる。

     

    (い、今のうちにできるだけ遠くに……)

     

     あるいは彼女の性質を鑑みて、海に飛び込んでもいいかもしれない。そう計画を練り直すチカゲだったが、取り戻したなけなしの余裕もすぐさま吹き飛ぶことになる。
     背後から、まだ声が。

     

    「ま……テぇ……」
    「ひっ」

     

     尽きない炎の音の陰で、恨みで絞り出したかのような声がしたのを、チカゲの耳は拾ってしまっていた。
     まだ逃げないといけないのに、足が止まる。振り返ってしまう。

     

    「し、ん、イりぃ……」

     

     

     晴れていく紫煙の中から、ぬっ、と現れた顔。
     今まで仮にも笑みすら浮かべていたヒミカのそれは、毒の影響で歪んでしまい、これから起きるだろう悲劇を待ち望んでいるかのような凄絶なものとなってしまっていた。だらん、と垂れた両腕や、出力の上がった足の裏の炎と合わせて、地獄からの使者のようだった。

     ヒミカは、とても億劫そうに、上がりきらない頭から瞳だけを動かしてチカゲを見ている。
     傍目にはそれは、獲物を睨めつけているようでしかなかった。

     

    「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

     

     自分が原因だということも忘れて、絶叫するチカゲ。
     再び走り出した彼女は思う。己はこれから、ずっとこれに怯えて過ごさなければならないのだろうか、と。
    逃走劇はそれから、実に二刻以上も続くこととなる。

     

     

     

     


     忍の里から古鷹の都までは、徒歩であれば早くても二日程度を要する。一応存在する行商路ですら獣道に毛が生えた程度の、しかもかなりの迂回路であることが原因で、道ですらない険しい山を越えることのできる忍であればもっと短くなるだろう。

     

    「まずいなー、もう結構暗くなっちまった。間に合うかな」

     

     では空を飛べる者であればどうか、という話で行くと、半日かそこらでたどり着ける。それを叶えられる存在はごく限られているが、ヒミカはその数少ない例外に属している。
     そんなヒミカに抱えられている者もまた、三日月が顔を見せ始めた藍色の空路の中、古鷹の都を目前としていた。高空から見下ろす古鷹の地では、都の北側で暗い海が微かに月に煌めいている。

     

    「しにたくないしにたくないしにたくない……」
    「あ? なんか言ったか?」
    「な、なんでも……」

     

     チカゲはヒミカに両脇を抱え上げられた格好で、瞳を濁らせていた。口からは、壊れた絡繰りのように感情が漏れ出していた。
     古鷹山群での決死の鬼ごっこはヒミカに軍配が上がった。逃げるだけなら右に出る者はそういないチカゲであっても、森まるごと焼き尽くす、という選択肢の前に隠れることが許されず、最終的に崖から海に飛び込んだところで、着水前に攫われて今に至る。
     追いかけてきたヒミカの言い分は、終始して「見せたいものがある」というものだった。

     

    「こう、バーン! ってやつをだな」
    「バーン……!?」
    「どっかーん! ってなるんだぜ」
    「どっかーん……!?」

     

     それはつまり自分の散り様のことではないのか、とは流石のチカゲでも生殺与奪権を握られた状態では言えなかった。
     暴れて拘束を振りほどくのは容易だろう。そもそも、今もヒミカの腕に捕まっている状態である。けれど、空中での機動能力なんてチカゲにはない。すぐに追いつかれて再び捕まえられるか、そのまま焼かれるのがオチだ。第一、人が米粒程度の大きさに見える高度から落ちて助かる気がしなかった。

     

     そうして夜の涼しさを孕んだ風を浴びていると、ヒミカの進路はどういうわけか古鷹の都から反れたまま、海を目指していた。
     不安から、問いが口に出る。

     

    「あ、あの、古鷹は……」
    「海でやるんだからこっちであってるよ。町中じゃいくらなんでも危ないからな」
    「海で……」

     

     水辺は事を起こすのにちょうどいい。対象を始末した後に川にでも流してしまえば、土左衛門と勘違いしてくれる上に逃げる時間も稼げる。海ならまず見つかるまい。命の危機に瀕している今、チカゲの脳裏に浮かぶのはそんなことばかりだった。

     

     今からでも遅くないから、龍ノ宮暗殺に関して弁解するべきだろうか。あれは命令されて仕方なくやったことなのだと。あるいは、嘘をついて他の瑞泉側の暗殺者をでっちあげてもいいかもしれない。命乞いにも戦術というものがある。
     同じメガミになったのだから手出しはしてこないだろう、という淡い期待はとうの昔に捨て去っていた。それを言ってしまえば、動乱の終わりなんてメガミ同士の争いがそこかしこに見られていたのだから、期待した自分を恥じるだけだった。

     

    「うぅ……」

     

     活路がない。ホロビの半分を預かった以上、なおさら死ぬわけにはいかないというのに。
     生存に関して諦めるということを知らないチカゲであっても、手詰まりを感じていた。死なないことに賭けて飛び降りるのが最善だ、という結論が出ようとすらしている。間違いなく、人生で最悪の窮地だった。

     

     毒を仕込んだ暗器の所在を確かめて、溢れる唾を飲み込む。
     海に着くまで待つか否か、迫られる決断に思考が渦を巻く。
     ぬるり、とヒミカの腕を掴む手が、脂汗で僅かに滑った。

     

    「おっと」
    「……!」

     

     抱え直すヒミカに、チカゲの心は決まった。この瞬間に袖の毒針を刺して、ヒミカの手から逃れよう、と。
     一瞬左手を離し、短い毒針を手中に収める。
     絶望的な感情に支配されながら、それを突き立てようとした。
     しかし、そのときだ。

     

     ドンッ! と。

     

    「ぃ……!?」

     

     いきなり正面から浴びせられた、腹の底に響くような大きな音に、チカゲはびくりと大きく身体を震わせた。すぐ後ろから聞こえる、ヒミカの火の音とは比べ物にならない大きさだ。
     突然の出来事に毒針は指から零れ落ち、地表へと落ちていった。
     だが、どうしてか、三日月の夜闇が落ちていたはずの下は、満月のような明かりに照らされていた。瞬く間に消えてしまったそれは、砕けた星々が降り注いできたかのようだった。

     

    「……っぶね」

     

     暴れてずり落ちそうになったチカゲを、ヒミカはどうにか右腕を掴んで離さなかった。
     そしてヒミカは、困ったように笑いかけた。

     

    「合図もナシでいきなりデカいのぶっ放すなんて、そりゃあビビるよな」
    「…………」

     

     チカゲの視線は、正面を向いたままだった。今にも落ちてしまいそうなことだって、今は忘れていた。

     高空であってもなお見上げるほどの威容は、けれど息付く間に儚く消えていく。

     

     夜の空に咲いた、大輪の華――花火が、海岸線から次々と打ち上げられ、惚けるチカゲを照らしていた。

     

     

    「どうだ、すごいだろ!」
    「見せたいものって、もしかして……」

     

     規則正しく咲いていく数々の花火は、チカゲの常識にはないものだった。発破を習った経験から、それがいかに職人芸であることを知っていたからだ。さらに、ずっと前に見たものよりも大きく、心なしか色も鮮明だった。
     どういうことか、と見上げれば、ヒミカは音に負けないような大声で、

     

    「トコヨんところの連中が、絡繰で花火を打ち上げる、なんて言い出したからアタシも手伝ったんだよ!」
    「古鷹に、ここまでの技術はなかったはずですが!」
    「新しい技術が手に入った、ってさ! 瑞泉から絡繰屋が来たんだとよ!」

     

     その言葉の意味を最初飲み込み損ねて、そして理解してからチカゲは鼻で笑った。賠償の話は風のうわさ程度に聞いていたが、まさかその成果がこれとは思うまい。
     再び抱え上げられたチカゲは、けれど解せないことがあった。それを明らかにするまでは、こんな特等席であってもおちおち鑑賞もできない。

     

    「どうして、私に?」

     

     破裂音の間に、その疑問は滑り込む。
     それにヒミカは、同じく問いで返した。

     

    「なんか言えないこと、あるんだろ?」
    「……ッ!」

     

     ギリギリのところで抑えられていた恐れが蘇る。
     しかしヒミカは、声を張り上げることはあっても、声色に怒りを混ぜるということはなかった。

     

    「いいんだ、言いたくないことは言わなくていい! それも、正直ってことだからな!」
    「…………」
    「最初は、ただ新入りに自慢したかっただけなんだ! だけど、すげぇ悩みみたいだから、こりゃなおさら連れてかないと、って思って追いかけ回しちまった! 無理強いしちまったみたいで悪いな!」
    「いえ……」

     

     その悩みの対象がヒミカ自身だと気づいているのかどうか、チカゲには訊ねる勇気はなかった。余計なことを言って、すぐ隣で花火が咲くことだけは避けなければならない。
     ヒミカはそんな懊悩を知ってか知らずか、

     

    「メガミになったばかりで、色々不安もあるかもしれないけど、大抵のことはどうにかなるんだから気楽に行こうぜ!」
    「は、はあ……」
    「その点、花火はいいぞー! 悩み事なんて全部吹っ飛ばしてくれる! 風流とかよく分かんね―こと言ってるやつらは分かってないんだ、火の力強さこそ一番感情を揺さぶるんだってな!」

     

     だから、とヒミカの顎が、胸元まで抱え上げられたチカゲの頭に乗せられた。花火の音と共に、ヒミカの声がチカゲの中に響いていく。

     

    「何があったのか知らないけど、これから楽しんでいこうぜ。な? コーハイ」

     

     そこに敵意も害意もないことくらい、チカゲには分かってしまった。悪意を嗅ぎ分けられないほどなまっていたわけでない。
    ただ、それでもチカゲは、素直に返答することを憚られていた。あまりにも能天気で、逃げ回っていたことが馬鹿らしく思えたとしても、過去に起きたことがなくなったわけではない。この手が血に染まっていることを、誇りに思うことがない一方、否定することもないのがチカゲという存在だった。

     

     仇であることは変わらない。いつまでも、気が変われば消し炭にされるのだろう。恐れが消える日が来ることはないと断言すらできる。
     だから、

     

    「善処します……」

     

     精一杯の返事は、花火にかき消されていった。聞き返されても、それもまた聞こえないふりをしてやり過ごした。
    咲き誇る夜の華を、適当な相槌を打ちながらチカゲは眺め続ける。
     本当は、夜に照らし出されてしまうから花火はあまり好きではないということを、最後まで胸にしまいながら。

     

     



     久方ぶりの物語、楽しんでもらえたのであればカナヱも嬉しい限りだよ。また昔話を見つけたら語るつもりだから、君の再来を待っているよ。

     ところでこれはカナヱの予感に過ぎないのだけれどね。今この時代、桜降る代にもうじき大きな激動が起こる……そんな気がしてならないんだ。例えばあと僅か、実に一週間後にはこの地の頂点を決める大きな大きな祭りが開かれるようだね。それだけじゃあない、どこかで、何かが動き出しているような、そんな予感を覚えるよ。

     君がもしこの時代の流れを辿り続けたいのならば、もはやカナヱだけを頼るべきではないかもしれないね。カナヱの権能はあくまで歴史、すでに終わったことを語るのみだ。これからの物語は、今この時代で動き出すのだから。

     


     例えばこの時代を共に生きる、他のメガミたちの話なんか参考になるんじゃあないかな?