『桜降る代の神語り』エピローグ

2019.02.15 Friday

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     瑞泉への強襲、時代を巡る英雄たちの激闘、終焉の影の目覚め、記録には残されていない初陣、そして三柱の和解と宣言。
     あまりにも多くのことがあった一夜から、時は流れて一ヶ月。
     狭間の時代は終わり、新たな始まりを人々は感じていた。だけれども、日常にはまだまだ動乱の余韻は色濃く残っている。
     桜降る代は、そんな夜明けを迎えていた。

     

     

     

     


     奥へ踏み込むには灯りの一つも欲しくなるような洞窟。わだかまる闇は、壁面のそこかしこに水晶が顔を出していたとて払えるものではない。
     ただ、その暗がりの中、吹き込んでくる風もないというのに、風を切るような音が次々と生まれていく。

     

    「ふッ……はッ……!」

     

     己の吐いた白い息をも断ち切るのはサイネだ。
     一人、演舞をするように薙刀を操る彼女には一糸の乱れもない。僅かにでも集中を欠けば、長い得物が壁や天井に当たってしまうというのに、一太刀ごとに勢いを増してすらいる。美しくも力強い薙刀捌きは、人間時代の愛刀から持ち替えたところで、むしろさらなる冴えを見せているようであった。

     

     やがて手を止めたサイネは、手ぬぐいで汗を拭いながら、上気した身体を冷ますように洞窟の外へと向かう。
     御冬の里。雪に覆われた彼女の故郷の外れに、小高い丘がある。彼女の姿は今、そんな里を遠くに見下ろす位置にあった。

     

    「相変わらずですね……」

     

     視力のないままである彼女が嘆息したのは、その耳が捉えた里の様子のせいだった。
     御冬の里は本来、雪に音が吸われきってしまったように静かな場所だ。海に寄ればまた違ってくるが、外ではしゃぐ子供の声すらあまり聞こえてこない。南に比べたら寂しさもあれど、耳の良すぎるサイネにとってはそれがありがたくもあった。

     

     けれどここ1,2週間、里には普段とは違った騒がしさで溢れていた。祭の季節でもないのに、どこか活気に満ちているようだった。その源泉こそが、ようやくこの北限の玄関口にまで届いた、様々な噂話である。
     動乱の委細についてがその大半を占めている。だが、中にはサイネのことも含まれており、耳をくすぐられる度に彼女はむず痒さを覚えるのだった。
     そして人々の関心の中心の一つが、新たな桜花決闘について、である。

     

    「大したものです」

     

     発起人として挙げられた好敵手の名を、彼女はもう何度聞いたか分からない。それも、あの日サイネが刃を交えた強大なメガミと共に、だ。感心する想いに偽りはなかった。過去にユリナが打ち明けてくれた通りに事が運ぼうとしているのだから。
     けれどサイネは同時に思うのだ。決闘を推し進めていくのは結構だが、自分と渡り合えるだけ武に力を注げるのか、と。

     

    「今度は、私が……」

     

     口に出しかけて、やめた。渦巻いた感情を打ち払うように首を振り、己の不出来を認めて微笑んだ。
     時代は変わって次の流れが始まり、ユリナとの付き合いもまた長くなる予感はしていた。けれど、メガミになっても修行を続けているように、自分は自分らしく武の道を進めばそれでいい。自分の道からでも、賑やかな流れを感じることはできるのだから。

     

     再び洞窟へ戻ろうとしたサイネを、南からの風が撫でた。
     心なしか温かなその風の来た道には、因縁の地からの脱皮を図ろうとしているらしい、この地で最も騒がしい町の一つがあるはずだった。
     そう、動乱の始まりの地、龍ノ宮が。

     

     

     

     

     


    「はーい、そこ止まってー!」

     

     ねじり鉢巻を頭に巻いた童女が、建材を運ぶ大工たちに指示を飛ばしていく。

     

    「そのおっきい石、たぶん割れやすくなってるから下のほうに積むのはやめてね。細工の人に持ってくといいかも」
    「こいつらは如何しましょう!」
    「おー、そっちの丸太はよさそうだね! それはあっちのおじさんに回して! で、こっちは……ジュリにゃん!」

     

     喧騒に負けないハガネの大声に、遠くから銀の髪を揺らして少女が駆け寄ってきた。

     

     旧龍ノ宮領。此度の動乱の始まりの地でもあるここも、ようやく大火からの復興の終わりが見えてきたところである。しかし町並みは戻せても、生活や人の心まで元通りというわけにはいかない。当主の死や瑞泉の支配による余波は、依然として残ったままであった。
     しかし、そんな領内にあって往時に負けない賑わいを見せる一角がある。それが、ハガネたちのいるここ――龍ノ宮が守護していた神座桜のうちの一つが膝下であり、そこに堂々とした建造物が新たに築かれつつあった。舞台があり、それを取り囲む客席があれば芝居のそれかと思われるものの、彼女たちの目指すものは、一柱の武神の望みを体現する場であった。

     

    「オォ……チョウドぴったり! コノ七十三から七十八番に使えそうデス! 中心軸をチイサイ歯車で組み合わせるのムズカシくてですね、台を支える重さも考えると、やっぱりアブナいのは、ココ! から、ココ! なんですよ。この角度に負荷かかるのが大変デス」

     

     材木を運んできた大工に、設計図片手のジュリアが説明を始める。彼女一人で設計した絡繰仕掛けの舞台装置を、彼女以外の人間が理解できるはずもない。その饒舌な説明も、だ。辛うじて意訳してくれていた従者も今は側にいない。
     目を回しそうになった大工へと助け舟を出したのは、ジュリアの陰からひょっこりと現れたこそ泥であった。

     

    「あー、つまりですね? 七十三番から七十八番の大歯車を切り出してくれ、って話なんだけども、向かって右っかわに繋がる歯車からの力がヤバイかも、って。形ぴったりでも、力に耐えられなかったら意味ないからさ、ちゃんと耐えられそうか確認しといてちょ」
    「お、おぅ。分かった。あんがとな、兄ちゃん」

     

     礼を述べ、去っていく大工に笑顔で手を振る楢橋。
     そんな彼の手を取って、ジュリアは目を輝かせていた。

     

    「ヘータサン、ありがとゴザイマス! カラクリのこと、いっぱい興味持ってくれてホントに嬉しいデス!」
    「い、いやぁ、役に立ってるんだったらオレっちも大感激! ジュリアさんのとこだったらバリバリ働いちゃうもんね! こ、こんなキレーな手に力仕事とかさせるわけにいかないしさ、いくらでも手伝っちゃうよ!」

     

     彼の鼻の下は、噛み砕いて伝えた内容が合っていたことへの安堵と、柔らかでいながらもある種の強かさを併せ持つ彼女の手から伝わる温もりによって、際限なく伸び切っていた。
     けれどこの楢橋、ジュリアの周囲を勝手にうろついているだけである。もちろん、ジュリア本人を含めて、誰からも従者の真似事をしろなどと請け負ってはいなかった。
     つまるところそれは、本来の仕事をすっぽかしているわけで。
     背後から迫る巨大な拳骨に、苦笑いするジュリアを見逃したのが、彼の運の尽きだった。

     

    「楢橋てめぇ!」
    「い、っだぁぁーっ!」

     

     丸太のような腕から繰り出された拳骨に、楢橋はあえなく撃沈し、激痛に地面を転がることとなった。制裁を成した山岸は、肩に乗せて運んでいた木材の先で、しぶとく逃げようとする楢橋の背中を軽く押さえつける。
     そこへさらに、汗を滲ませた銭金が顔を突き出した。

     

    「貴様、あれほど持ち場を離れるなと言っただろうが! なんとしてでも納期に間に合わせなければならんのだぞ!」
    「だ、だってぇ……」
    「だってもへちまもあるか! これが一体どれだけの収益に繋がるか、耳にタコができるくらい聞かせてやったと思ったんだがまだ足りんか! 商人として、この新しい流れに乗らんわけにはいかんのだ!」

     

     小太りの中年男性から飛んでくる叱責に唾と汗が混ざっていれば、楢橋がげんなりとするのも無理はない。
     暴れるのを諦め、言い訳だけが地面に吸われていく。

     

    「ちぇ……いいじゃんかよぅ。ジュリアさんの助けになれてたし、今もいい感じで……」

     

     それを小馬鹿にしたように鼻で笑った山岸は、

     

    「やめとけやめとけ。てめぇに勝ちの目はねぇからよ」
    「それどういう――っておい、離せ! やめろってば! 頼むから、ジュリアさんと愛の共同作業を続けさせてぇーー!! おっさんばかりはやだぁーっ!!」

     

     木材とは逆の肩に楢橋を担いだ大男は、銭金と共に別の作業場に向かっていった。響き渡る悲鳴も、もうこの場の皆も慣れてしまったのか、最後まで成り行きを見守ることなく粛々と作業に戻っていた。
     一人取り残されたジュリアだったが、隣に並んだハガネが悪戯めいた笑みを見せていた。

     

    「相変わらず、面白い人たちだね」
    「ソ、ソウデスネ……いいヒト、思います」

     

     思いもよらない同意を求められて、言葉が見つからなかったジュリアは雑に返してしまう。彼女自身は研究絡みで破天荒な行動をすることが多いものの、以前は従者がいたし、家柄から周りには落ち着いた人間たちばかりだった。だから彼女は、拙いこの地の言葉ではうまく言い表しきれないほどには、賑やかな人々に呆気にとられているのである。

     

     吹き飛んだ頭の中の作業手順を整え直そうとしていたジュリアは、しかし空から聞こえてきた風を切る音に意識を取られる。
    見やればそこには、炎を使って飛ぶヒミカの姿があった。

     

    「よう、順調か?」
    「ダイジョブですヨ! ヒミカサンも、1週間ぶりですけど、ドコ行ってましたか?」

     

     とつ、と降り立ったヒミカにジュリアが問う。
     ヒミカはそれに、ちろちろと頭上の炎を揺らしながら、

     

    「そこらじゅう回ってきたんだよ。やっぱどこも盛り上がってるわ。そりゃ百云十年ぶりかって一大事だもんな、みんなわくわくするに決まってる!」
    「ヒミカっちはもーっとわくわくしてるでしょ!」
    「たりめーだろ!」

     

     からから、と相手の背中や肩を叩きながら二柱は笑い合う。その遠慮のなさが、彼女たちの心の距離の短さを物語っているよう。
     そこでふと、ヒミカは思い出したように、

     

    「そういや、この間港にデカい船来てたみたいだけど、あれ大丈夫だったのか?」

     

     本来、おまえたちが乗るはずのものだったのでは、と。
     動乱の中、不安渦巻く胸の奥で幾度求めたか知れない帰郷の手段。結果的にジュリアたちは救いの手として必要とされたが、それももう終わった。だから今度こそ、異邦の地から脱する術に彼女が手を伸ばすのだと、多くの人が当然のように、それでいて仕方なく思っていた。
     だが、

     

    「オコトワリ、しました」

     

     爽やかな笑顔を浮かべ、何も後腐れを感じさせないよう、彼女は答えた。

     

    「調査は続けます。マダマダ知りたいコト、たくさんありますし、ミナサンと一緒に何かを造れるの、トッテモ楽しいデス。色々報告したら、心配されましたケド。デモ……」
    「でも?」
    「イチバンは、ここにサリヤがいるからデスヨ!」

     

     ジュリアの視線の先では、一本の神座桜が立派に花弁を咲き散らせていた。
     未だ姿を見せない従者が、そこから繋がる世界のどこかにいるのだと彼女は知っている。たとえ直に触れ合うことがまだ叶わなくとも、健在であることを聞き及んでいる。実在をその目で確かめるまでどこか不安が消えないのは、技術者であるが故か。

     

     答えに満足したのか、ヒミカはにかり、と歯を見せて笑った。
     そして、ジュリアの想いに応えるようにこう言った。

     

    「心配すんなって、あいつがちゃんと新入りの面倒見てるはずだからよ!」

     

     

     

     

     


     ぺらぺらと捲れる冊子の感触は、今までのものと遜色ない。少し前まではどこか少しだけ浮いた感じがしていたものの、背中を預けている樹皮の手触りも、仄かな桜に色づいた空気の味も、もう彼女のよく知るそれでしかなくなっていた。

     

    「うーん……うん?」

     

     頁を行ったり戻ったりしながら、サリヤはうまく飲み込めないその内容の難しさに、眉間に皺を寄せていた。
     渡航前にみっちりと予習していたサリヤは、この地の言葉での読み書き会話は難なくこなせていた。だから今読んでいる本も、所々難解な表現がありはしたものの、意味をなぞるだけならば彼女には問題はないはずだった。
     ただ、彼女の持つ常識との齟齬が、その読解を妨げている。

     

    「えっと……ユキヒ? ちょっといい?」

     

     自力での理解を諦めたサリヤは、未だ呼び慣れない名で講師に助けを求めた。
     斜めに伸びる大きく太い桜の根の一部に、鉋を突き立てたかのように抉れた場所がある。十分に駆け回れるだけの広場になったそこでは、まどろみに意識を任せかけていたユキヒと、その傍らでごろごろと暇そうに転がるライラが、新たにメガミとなったサリヤの目付けとして、彼女の勉強の様子を見守っていた。
     柔和な笑みで応じたユキヒに、本を掲げるサリヤは困惑した表情で訊ねる。

     

    「あの……私の理解が間違ってたらごめんなさい。でも、なんというか、ここからはメガミの役割がうまく読み取れないというか……その、適当? って言えばいいの?」
    「ちゃんと適当よ。適当に、適当なメガミをやっているわ」
    「えぇ……もっとこう、持てる者の義務、みたいなものはないの? 言い方は悪いかもしれないけど、色んなことが主従なくなあなあで決まっていると言うか。てっきり、メガミが一番上で、次にミコト、それ以外、みたいな階級があるのかとばかり思っていたのよ」

     

     だが、彼女が渡されたこの地についての書に、そのようなことは一切書かれていなかった。存在からして既に異なっているという以前に、サリヤの故郷とは文化の面からして違う。だから、彼女がいくら肩に負った気でいた義務に背筋を正そうとも、それを求める者は誰もいないのである。

     

    「ふふ、海の向こうは大変なのね。そんなにかっちり考えなくても大丈夫よ」
    「自然、従う。それ、すべて」
    「……そういうもの、なのかしら」

     

     先輩からのふわふわとした回答を理解しつつも、釈然としないサリヤ。
     そこへ、

     

    「ユキノたちの言う通り、ですよ」

     

     根の下のほうから登ってきた影から、追認する声がかかる。揺れる襤褸の外套はこの優しい桜色に満ちた世界では少々浮いていて、枝から離れられずに朽ち果てた葉のようだった。
     同じくメガミの一員となったチカゲは、言葉を続ける。

     

    「ホロビも、オボロ様もユキノも、チカゲに優しくしてくれます。でも、本質的には自由な存在なんです。ぎ、義務なんてもってのほかですよ」

     

     その言葉を受けてユキヒは声を上げるが、

     

    「だから私はもうユキヒだって――」
    「チカゲにとっては、ユキノとホロビですよ」
    「…………」

     

     はっきりとそう言い切られてしまえば、ユキヒはもう眉を下げて言及をやめる他ない。
     現れたチカゲは、外套の裏地から小さな薬包を取り出し、摘むようにしてサリヤに掲げてみせる。

     

    「身体、大丈夫ですか。一応、用意しておきましたけど」
    「もうだいぶ馴染んできたみたい。おかげですごい助かったわ、ありがとう!」
    「お、恩を返しただけです」
    「でも、やっぱりチカゲちゃんがすんなりいったのは羨ましいわ。覚悟はしてたけど、最初は身体がばらばらになりそうだったもの」

     

     そう言って、サリヤは自分の身体をゆるく抱きかかえる。
     チカゲは自身とサリヤの差異がまだ腑に落ちていないようで、先達であるユキヒに水を向けた。

     

    「こういう拒否反応じみた症状に、前例はないんですか」
    「そうねえ。比べられるほど、メガミ成りしたての子に会ったことはないのよねえ。ひょっとしたら、ミコトの身体じゃないから、なんて話だけかも」
    「そ、それを言ってしまえば、サリヤさんはこの地の生まれですらありません。それとも、チカゲのようにメガミの何かを受け継いだとか、そういうきっかけもなく飛び込んだから、という可能性のほうがもっともらしいとは思いませんか。権能もまだ、判然としていませんし」
    「それ、すぐ、見つかる……ぐぅ」

     

     議論を交わす二柱と、睡魔に囚われた一柱。その間もチカゲは、誰からも一定以上距離を保ったままだ。それはユキヒであっても例外ではない。けれど、こちらに来てから生えた警戒の棘はもう随分と折れかけているようで、無防備に寝返りを打ったライラ相手に間合いを保つ努力は放棄していた。
     と、自分のことについで論じられていたサリヤは、二柱に対してわざとらしく肩をすくめてみせた。

     

    「私の権能だとか、それこそ私を宿すミコトが出てくるとか、どうしてもまだ信じられない。メガミになってこれからどうしようかなんて、想像もつかないわ。ジュリア様はまだこの地にいらっしゃるみたいだから、どうにか守っていきたいけど……」

     

     主の名を口にしたことをきっかけに、サリヤの表情に僅かな陰が差す。
     装備もほとんどそのままだし、彼女の愛機もついてきている。しかし、自分という存在が絶対的に変わってしまったことへ順応することは難しい。守り続けてきた主が隣にいないという以上に、見知らぬ地で分不相応の立場を手に入れてしまった事実はあまりにも大きかった。
     ただ、

     

    「いいじゃないですか。チカゲなんてもういるんですよ」
    「えっ」

     

     自分で言ってから渋い顔をするチカゲに、サリヤは思わず聞き返した。

     

    「だから、もうチカゲを宿す酔狂なミコトがいるんです。正直、むず痒くてやめてほしいんですが」
    「あ、そういう感覚なの……?」
    「い、いえ、宿されているという事実が既に……」

     

     やり場のない感情を握りつぶすように外套の裾を掴む。
     けれど、うつむき始めたチカゲを追撃するのは、微笑みを湛えたユキヒだ。

     

    「何言ってるのよ。薬学の権能を頼りに、お医者様なんかが宿してるのよ? とっても素敵なことじゃない!」
    「ど、どどどうして知ってるんですか、知らないでおいてくださいよっ! 情報が伝わるのが早すぎます!」

     

     慌てふためいたチカゲは、そのうち何かに気づいたよう叫びを上げ、頭を抱えてうんうん唸り始めた。
     彼女の古巣は、対外的には諜報を売りにしている組織なのだから。

     

    「ううぅぅぅ、ユキノが知ってて、皆が知らないはずがありません……絶対です、知らないほうがおかしいんです! 一体どういう顔で接すればいいっていうんですか! チカゲを避けてた人たちからいきなり敬われても嫌ですっ! 挙げ句宿されるなんてもっての外、気まずいにもほどがありますっ!」
    「ま、まあまあ、すぐそうなると決まったわけでもないし」

     

     気まずさというより怖気の源を取り込まないように頭を押さえつけていたチカゲは、ありもしない視線を気にして忙しなかった瞳を地面に向けた。長く息を吐き、苦笑いを浮かべるサリヤとユキヒの目も避けるようにそっぽを向いてしまう。
     そこでチカゲは、自分を宥めるようにとつとつと、

     

    「あの愚弟が宿していないだけマシと思いましょう……」
    「ああ、そうだ。宿す宿さないは置いておいて、一度は会いに行ってあげたら? 彼も大変みたいよ」

     

     その提案に、チカゲは小さく鼻で笑った。
     そこに浮かべられた微笑みを、誰も目にすることはなかった。
     メガミになっても消えることはなかった、優しい姉の表情を。

     

    「まあ、当然の報いです。チカゲを、こんなふうに引っ張り出したんですから」

     

     

     

     


     動乱の最中、炎に飲まれた地は多い。ヒミカに焼かれた龍ノ宮城や天音邸だけではなく、侵攻の果てに人の手によって燃やされた集落も無視することはできない。
     そんな焼き討ちに遭った場所の中でも、最も復旧が早かった忍の里は、強襲をかけられる以前の姿に戻っていた。建材には事欠かない地であることもそうだが、優秀な忍たちの手の速さは市政の大工たちにも引けを取らない。

     

    「闇昏千鳥」
    「は!」

     

     里の広場に、青年の力強い返答が響き渡る。硬く、どこか緊張を隠すような発声だ。
     そのまま千鳥は集団から抜け出すように一歩前へ。彼の前にはずらりと上位の忍たちが立ち並び、中には千鳥のことをあからさまに睨みつけてくる者もいる。
     そして今、彼の目の前には、忍の元祖たるオボロがいた。

     

    「お主の弛まぬ研鑽を認め、ここに中位の証を贈ることとする」
    「一層精進することを誓いますっ!」

     

     簡潔で、ほとんど定型句でしかないやり取り。オボロの手から真新しい小刀を受け取ることもまた決まりきっている、そんな儀礼。
     見た目以上にずしりとしたそれを千鳥は恭しく両手で受け取り、顔も上げないままその場で手早く腰に佩く。
     それもまた、決まった手順だった。緊張のせいで少しだけまごついただけだ。
     けれど、姿勢を正した千鳥が目にしたのは、表情を崩したオボロだった。

     

    「よくがんばったな。自慢の弟子だ」
    「え……」

     

     

     予定になかった言葉に、千鳥は戸惑う。
     あの終焉の影との戦いをくぐり抜け、彼女に褒められはした。けれど、それも非常にそっけない、普段と変わらない調子であった。

     

     今まで一度も受け取ったことのない称賛に、うまく応えることができない。
     落ちこぼれだった自分がそう呼ばれる日など、出来損ないの見習いだったときの彼は想像もしていなかった。ずっと願っていた姉との再会も果たし、背中を預け合うまでとなった。
     その得難き結果が手中にあるのだと、オボロによって改めて悟った千鳥の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。

     

    「ありがとう、ございますっ!」

     

     再度一礼をした千鳥が顔を上げたときには、オボロが呆れたように下がるよう目で追い払われていた。
     ……その様子を、非常に気に食わないといった態度で、上忍の列から眺める者が一人。

     

    「見習いから一気に中忍など異例にも程がある……俺はまだ、あの姉弟を認めていないというのに……!」

     

     藤峰徹。今回の動乱と決戦において、最前線で戦うことになった忍である。
     ぎりぎりオボロに聞こえるかどうか、という小声で悪態をつく彼と意見を同じくする者は少なくない。けれど闇昏が成した功績はあまりに大きく、過去については早めに忘れてしまおうという忍らしい合理的な考えの者もまた多い。
     最も近くでそれを見てきた藤峰が千鳥たちを認められないはずもないのだが、騒動からこちら、ずっとこの調子であった。

     

    「藤峰よ、貴様も素直になったらどうだ?」

     

     くつくつ、と含み笑いと共に姉弟の肩を持つのは、隣に立つ榊原。
     煽ったような物言いに、藤峰は矛先を榊原へと向けた。

     

    「俺は正しく評価しているつもりだ。お前こそ、闇昏姉に請願したとはどういう了見だ」
    「なに、私も彼女の精進と、今回の努力を認めたからこそ。貴様がメガミを変えた理由も同じだと思っていたのだがな」
    「その口を閉じろ」

     

     じろり、と睨む藤峰に、榊原は言われた通り口を閉じたまま静かに笑った。
     小さく咳払い一つ、無理やり平静を装った藤峰は、

     

    「例の件はどうなった」

     

     強引に変えられた話題に、しかし榊原は素直に応じる。実務の話であれば、戯れを続ける理由など彼らにはない。

     

    「もうひと波乱あるかと思ったが、連中、意外にも大人しい」
    「ほう。逆に不安になるな」
    「念の為、漆谷を送り込んである。……が、この様子だと問題は起きんだろう」

     

     楽観ではなく、確たる己の推測を語る榊原と、直に振り回された藤峰との間の温度差は激しい。ただ、藤峰はそれが、深手を負わされた恨みからくる個人的なものであるということをきちんと理解していた。

     

    「瑞泉共も、このままおとなしくしてくれればいいが……」

     

     彼は、願うことしかできない。
     もう当分、動乱の中心だった地へ行かなくて済むように、と。

     

     

     

     


     広い畳の間にぽつんと座り続ければ、脚も心もしびれを切らすというもの。たとえそれが三人揃ってのものだとしても、いつ来るか分からない待ち人相手に焦れてしまうのは仕方のないことである。

     

    「美の都という割には質素だな」
    「おい」

     

     景観と沈黙に飽きた末の失礼な文句に、浮雲は右隣の架崎の腿を叩いた。彼女たちが今、身を置いているのが古鷹の都であり、ただならぬ因縁を抱えていたことを考えれば、常識的には出てこない発言だ。
     しかし、浮雲が頭痛を覚える中、彼女の左隣から同調の声を上げるのは五条だ。

     

    「もう少し豪華にしてもいいんじゃないかとは、私も思いますがね。そう、例えばあの欄干の細工に仕込みを入れて、一定周期で木彫りの鳥を羽ばたかせるとか!」
    「やめなやめな! こういうのは、これで収まってるもんなんだよ。あたしもよく分からないけど、少なくともあんたらよりはよっぽど趣味がいいさね。……ったく、邪魔になるんだったら、大人しく寝ててくれたほうがいくらもよかったよ」

     

     大きなため息が一つ。
     彼女にとっては毒づいただけだろうが、当の男二人はただの心配と捉えたようだった。

     

    「はっ! 安心しろ浮雲、俺の肉体はあんな土石流程度に負けるような作りはしていない。見ろこの腹筋を! 果敢にも臓腑を最後まで守り通したおかげで随分と傷んでしまったが、もはや傷は見る影もない。むしろ躍動を抑えきれんほどだ!」
    「いやいや、人間の再生力に頼るよりも、部位を代替可能にしたほうが便利ですぞ! 真っ二つにされたこの腕も、一週間も経たないうちに時計の組み立てまでできるようになりましたからな! ある意味、病床とはもう無縁の身体と言えましょう!」

     

     甦った己の肉体を自慢する架崎と五条に、浮雲はわざと聞こえるように舌を打ち鳴らした。暑苦しい空間に、心底鬱陶しがっているようだった。
     架崎はそれに、「冗談だ」と詫びながら、静かに笑みを深めた。

     

    「この状況で瑞泉の地を守るためには、倒れている暇などないからな。心配は無用だ」
    「はは、そうかい。――っと」

     

     近づいてくる気配を察し、二人に黙るよう身振りで伝える。ややもしないうちに、す、とほとんど音も立てずに襖が開き、桜色を基調とした装いに身を包む少女と、彼女の後ろに控える初老の男が姿を見せる。
     ただ黙って部屋に足を踏み入れただけなのに、少女の発する威圧感に浮雲は息を呑んだ。それは少女が浮雲の正面で向かい合うように膝を折った後も、収まることはなかった。

     

    「確認は終わったわ。心身共に問題なくて結構」

     

     至って事務的に告げたのは少女・トコヨだった。浮雲たちは、瑞泉家が引き受けていた古鷹の者をここまで護送するという役割を担っていた。トコヨの言葉は、そんな爆弾のような案件が無事完了したことを意味しており、浮雲は思わず安堵に表情を崩しかける。
     だが、戦後処理はまだまだ続くのだということも、彼女は理解していた。

     

    「あなたたちが瑞泉の代表、でいいのかしら」

     

     トコヨは胡乱げに浮雲たち三人を見渡すと、そっけなくそう訊ねた。

     

    「はい。当主驟雨は臥せっておいでですので、私・浮雲耶宵以下三名が代理として遣わされています」
    「そう。世話になったから挨拶したかったんだけど、ならいいわ。で、早速本題だけど……」

     

     適当に納得したのか、端から言うほど興味がなかったのか、トコヨは半ば一方的に話を進めていく。

     

    「今回のお詫びの話。こっちも色々考えたんだけど、瑞泉の絡繰技師を何人か、うちに派遣してもらうって案が出てね。どうかしら」
    「なる、ほど……それは――」
    「はい、お任せを! 謹んでご協力させていただきますとも!」

     

     浮雲の言葉を遮って、応じたのは五条だった。
     トコヨの出した案は、そういう話になるかもしれない、と事前に打診されていたものの一つだ。けれど、いかに浮雲が気を病んだ当主に代わって重い決定権を預かっているとは言え、提案された段階のそれを即決してしまう勇気は彼女にはなかった。
     けれど五条が発した言葉はもう戻らない。幸いなのは、内容的にどのみち判断材料を彼に求めていたであろうことだ。歯噛みする浮雲は、睨みを利かせながら、黙って様子を伺った。

     

    「此度の騒動においては大変ご迷惑をおかけしたものの、クルル様の技術は混乱をもたらすものばかりではありません。枢式絡繰を取り入れた我々瑞泉の技術力は、この地随一だと自負しております。麾下の者をお送りしますので、必ず役に立ってご覧に入れましょう」
    「そう言って、爆発しなければいいけどね」
    「クルル様のことをよくご存知で。ですが、爆発には我々ももう飽き飽きしておりますので、古鷹の技術者が爆発に悩むことはないかと」

     

     自身を売り込む五条は、流石に専門ということもあって口が回る。クルルの名前が出てきた段階でトコヨの眉がひそまったものの、特段事を荒立てるつもりもないようで、程々の嫌味を五条は無事に受け流した。

     

    「じゃ、そういうことにしておきましょう。仲小路」
    「詳細については、私から詰めさせていただければ幸いです」

     

     そこからは、トコヨの隣に座した仲小路との交渉が始まった。賠償の名目である以上、古鷹側主導で出された条件に、瑞泉側は大きく抗うことはできない。あまりに一方的なものではないにしろ、分かりづらい細かい部分まで引き出されたあたり、仲小路の性格と秘めた想いが知れる。
     やがてそれも一段落し、深い因縁にも関わらず、割合あっさりと会談は終わる。結局、茶の一つも出されないままに、浮雲たちはこの場から去っていった。

     

     トコヨと共に部屋に残された仲小路。
     彼は瑞泉との間に交わされた証文を整理しながら、トコヨに問う。

     

    「これでよろしかったのですか」

     

     それに彼女は、感情を揺るがすことなく答える。

     

    「新しい流れが来ているわ。だから、伝統はその新しきを十分に知り、いずれ膝元に置かなくてはならないの。好きになんてさせないわ」
    「座員からは反発もありそうで心配なのですが」
    「それを抑えるのはあんたの約目でしょ。あたしは別にそういう折衝がしたいわけじゃないもの。そういう意味だと、天詞の教育方針も早いとこ考えないと」

     

     突然次期当主の名を負ったまだ若い娘の未来に、鞠つきでもして遊んでいるような見た目のトコヨが思い馳せる。
     仲小路はそれが頼もしいやら可笑しいやらで、笑みを漏らしながら懸念を告げる。

     

    「筋はいい、学もある。ですが、いかんせん身体の弱さだけはどうにも……」
    「それよねえ。舞にしても演奏にしても、すぐ息が上がっちゃうんじゃ」
    「詩文方面の才覚もありますし、政を学ぶにつれ、いっそう筆が手放せないお人になるやもしれません」
    「うー、そうよね、当主だものね。統治者としてのお勉強……あいつがまた話振ってきそうだなあ」

     

     トコヨの脳裏に浮かんでいる顔に、仲小路は心当たりがあった。交流のあるメガミではあるのだが、芸事についての話題で出てくるときはともかく、損得の絡む話になるとトコヨは必ずと言っていいほど渋い顔をするのだ。
     彼は、そのメガミの力も知っているため、背中を押すばかりである。

     

    「悪い話ではないと思いますが」
    「悪くはないだろうけど、あいつだからたちが悪いのよ」

     

     けれどトコヨはやはりいい顔はしなかった。天秤が動いたまま定まらないといった様子だった。
     足を崩し、畳に手をつきながら天を仰ぐ彼女は、溜まった疲れを吐き出すようにぼやく。

     

    「どうせ、ろくでもないこと考えてるだろうしねえ」

     

     

     

     


     天窓より差し込めた光は、静謐な空間にもたらされる恩寵のようだった。紙が擦れる音、筆が走る音、時折交わされる会話も落ち着き払ったもので、荘厳さを醸し出す室内には知性もまた溢れている。
     その文机の並んだ一角から、佐伯は書を片手に立ち上がった。
     向かうのは、部屋の最奥で構える、彼が崇敬するメガミの下である。

     

    「シンラ様、誘致に際して提示する書面の確認をお願いします」

     

     まるで鎧のように何重にも着込んだ服を畳に広げるシンラは、目を通していた書を横に置き、無言で彼の書を受け取った。
     それから手早く目を動かして内容を確認すると、

     

    「問題ないでしょう、ご苦労さまでした」
    「……! じ、じじ直に労っていただくなど、恐悦至極に存じます!」
    「……何度も顔を合わせているのに、いまさら何を言っているのですか」

     

     呆れるシンラ。彼女の言う通り、ここ碩星楼の秘密の部屋で佐伯は度々シンラを交えた議論に加わっていた。
     しかし今、佐伯たちがいるのは碩星楼でも表の場所。
     佐伯と共に書き仕事に励んでいた構成員たちの中には、ついこの間までシンラの顕現体に対面したことすらなかった者までいる。

     

    「皆と同じ空間に、シンラ様がいることがまだ慣れないのです……。この試みを伺ったときの驚きすら、まだ忘れられないというのに」
    「もう少し、表に出るだけですよ。そんなに驚くようなことではありません。むしろ、暁星塾の設立と合わせても、半ば当然の帰結とも言えるでしょう」

     

     為政者に知恵を貸す賢人集団としての表の顔と、己の理想へ世界を誘導していく秘密結社としての裏の顔。二つの顔を持つ碩星楼でも足りないと踏んだシンラは、碩星楼の面々を動かして新たな学習機関を創設するために動いていた。
     と、シンラは自分が口にした言葉に、自嘲気味に笑った。
     そして彼女は、佐伯に謝罪を述べる。

     

    「折角、最善を尽くしたのに……最後に負けていなければ、また遠回りをすることもなかったでしょうに。申し訳ないわ」
    「そ、そんなとんでもない! 道はまだ潰えていないと、ご自分でおっしゃっていたではありませんか。この佐伯、どんなに絶望的な状況であっても一生お供させていただきます」
    「頼もしいですね」

     

     でも、とシンラは続けて、

     

    「今回の件……すべてが理想通りとはいきませんでしたが、別に悪い結果に終わったわけではありません。ヲウカは姿を変えて生き長らえていましたが、少なくともヲウカの糞婆そのものは消えたのですから」
    「…………」
    「つまり、老練に事を進め、私の動きを抑制していた存在が消えたと断言してよいでしょう。ホノカとかいう小娘をどう扱うべきかは、桜花拝宮司連合でも判断が分かれている通り、今は混乱の最中にあります」

     

     一呼吸入れたシンラに、佐伯は先を訊ねた。

     

    「だからこそ、ですか」
    「そう……今こそ、表舞台へと駒を進めていくべき時……今こそ、この世界に考え方という種を撒いていくべき時なのです」

     

     そう言うと彼女は、笑みを張り付かせて脇に退けてあった複数の書簡をやんわりと指した。それらは各地から報告された、新たに生じた勢力の動向についてまとめたものである。
     シンラは、他ならぬ自分に言い聞かせるように、言葉を作る。

     

    「ユリナたちの高い求心力によって、『新たな桜花決闘』を中心に大きな流れが生まれつつあります。そのような中で、一つ覚えで逆行するのは賢いとは言えません」
    「厳しい時代が、始まりますね」
    「幸い、あの連中は糞婆のように悪賢く地位を築こうとするでもなければ、この地を致命的にかき乱すほどに愚かすぎるということもありません。ならば急ぐ必要はなく、理想の世界を作るために、正しく時間を使っていくとしましょう」

     

     そして彼女は、今は何処とも知れぬ宿敵に、冷たい笑顔で語りかけた。

     

    「武神ユリナ。次の戦いは、長く続きますよ」

     

     

     

     

     


    「ん〜! やっぱりここのお団子が一番ですねえ」

     

     美味に緩んだ頬。みたらし団子を手にしながら、ユリナは昼下がりの細い街道を行く。
     彼女の後ろにはホノカとウツロが続き、桜団子を頬張っていたホノカは上機嫌で笑顔を咲かせていた。

     

    「ですね! 本当においしいです! ほら、ウツロちゃんも食べて食べて!」
    「ん……」

     

     口元に運ばれた団子を、ウツロは小さな口でひとかじり。もぐもぐと無表情で味わっていた彼女は、やがて微細に表情を緩めてから、ぽつりと呟く。

     

    「おいしい……」
    「ですよね! ウツロちゃんも自分の買っておけばよかったのに」
    「私は、別に――んぐ」
    「そんなこと言ってー、ほっぺたはもっと食べたい、って言ってますよ。こんなに美味しかったら、ほっぺた落ちちゃうのも仕方ないですよねえ。わあ、ほっぺぷにぷにです!」

     

     

     ユリナにされるがままになっているウツロ。逆の頬をホノカにも弄られ、おかしな顔になったところで一同から笑いが起きる。
     あまりに平穏な時間。けれど、彼女たちは理想に向かって進む者たちである。
     この一月の間にも、少しずつ、着実に彼女たちは歩んでいた。

     

    「それにしても大変でしたね。まさか龍ノ宮さんの名前で、あんなこと企んでたなんてひどいですっ!」

     

     つい先日の出来事を思い出しながら、ホノカは頬を膨らませる。
     ユリナたちは現在、見聞を広めるための旅の道中にあった。今は蟹川を西に発った後で、そこでかの最強の男を騙る者が引き起こした事件を解決していたのだった。
     ユリナは残りのみたらしをホノカと交換しながら、

     

    「ですねえ。でも、蟹川が龍ノ宮さんの故郷だったとか、お兄さんがいたとか、全然知りませんでした。そもそも、蟹川ってかなり近かったのに、知らないことばっかりで……サイネさんと来たときも町まで行きませんでしたし」

     

     緩んだ表情が引き締められていく。けれどそれは深刻というよりは、己の想いの先にあるものを、自然と見定めているからだった。
     吐露するように、確認するように、ユリナは口にする。

     

    「世界は、分からないことだらけ。わたしたちが素敵な桜花決闘を広めていきたいと思っても、みんながどう感じるか、これからどう変わっていくかは分からない」
    「ユリナ……」
    「だから、世界のことをちゃんと知ろう。大きな間違いを犯さないために。今は三人で、世界を回ろう」

     

     故に、彼女たちは途上にある。自分たちの信じるものが、みんなにとってどういうものかを理解するために。
     言い出したユリナも計画を明確に持っていたわけではなく、ふらふらと何かに導かれるように旅は続いている。目的地はなく、しいて言えば『みんな』こそが目指すもの。はっきりとした形が見えてきたということもないが、幼いメガミたちは、少しずつ確実に己の世界に色を塗っていた。

     

     何度目かの決意に沈黙が降り、黙々と足を動かす中、街道の脇から山へと続いていく林が目に留まる。ユリナはとても見知ったその景色に笑みを取り戻した。

     

    「あそこを抜けたらすぐですよ」

     

     心なしか、足取りが速くなる。
     天音領。山に囲まれ、見上げるような神座桜もなければ、常に活気に溢れた町もない。見渡せば田畑が延々と続くような、面白みがないと言われてしまえばそれだけの場所である。

     

     けれどユリナは、そこから始まった。
     天音揺波を形作ったものは、そこにある。
     変わり果てた姿になっていようとも、桜花決闘を愛する少女の礎は、今もそこにある。

     

    「あれが、ユリナの故郷……」
    「はい、とっても素敵な場所ですよ」

     

     呟いたウツロに、ユリナは微笑んだ。
     近づいてくる故郷の姿は、やはりユリナの記憶と相違なかった。修練のために駆け回った畦道が懐かしく、点々と構えられた家もそのままだ。実際、年を一つや二つ数えたところで風景が劇的に変わることもないが、ここはさらに時間の進みが遅くなったようだった。

     

     けれど、そんな変わらない光景の中に、ユリナの知らないものが一つ。
     街道の先で、集まる人々がいる。

     

    「え……」

     

     彼らは皆、手を振っていた。
     誰かを迎える、歓迎の手を。
     それは、農作業をほっぽりだした天音の領民たちであり、天音家に奉公に来ていた者たちであった。ユリナが随分と世話になった女中の姿もある。
     そのみんなは、ユリナたちを迎えようとしていた。

     

    「わぁ……!」

     

     感嘆の声を上げるホノカの見上げた先、ユリナの目頭に涙が滲む。
     失くなったと思った帰る場所は、ここにある。ミコトからメガミになっても、変わらずここにある。
     未知に向かって駆け出した彼女を、よく知るみんなが迎えてくれる。
     だからユリナは、誰からも見えるように大きく手を振り返した。
     そして、万感の想いを込めて叫んだ言葉は、遍くこの地に響き渡った。

     

    「ただいま!」

     

     

     

     


     そして、桜降る代へと世界はたどり着く。
     ひとつ前の時代の英雄たちは結末へとたどり着き、ひとつ上の視点から次の物語を見届けていくのだろう。
     新たな桜花決闘が広がり、人々の賑わいも、神座桜の働きもより大きくなった黄金の時代へ。

     

     カナヱが語るべき歴史はもはやこれで終わりだ。
     だってこの先どうなるかなんて、全く分からないのだから。
     でも、この先の時代を作り、世界を進めていくのが誰かははっきりしている。

     

     さあ、物語を次の段階へと進めて、

     

     

     

     

     

     君たちの物語をはじめよう。

     

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