『桜降る代の神語り』第68話:斬華一閃

2018.11.02 Friday

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     ひとつの英雄譚が幕引きを迎えても、この物語の舞台は一つじゃあない。
     最後の英雄・天音揺波。そして、狂える武神・ザンカ。
     二人が刃を振るうそれぞれの舞台もまた、結末に向けて収束していく。

     

     さあ、剣戟高鳴る二人の行く道を、今こそここに語ろう。

     

     

     

     


     晴れの夜空の下、瑞泉城の一画は霧で澱んでいた。水霧などではないことは、薄墨を垂らしたような灰色で地表を塗りたくっていることからも分かる。
     それは、尋常ではない量の桜花結晶が、砕けに砕け、空気に混じった光景だった。どうにか形を残している結晶も、積もることを許されずに舞い上がっている。宵闇の底にあって、そこは命の行き着く先であるかのように色を失っていた。

     

     ウツロとザンカは、その死地にて未だ打ち合っていた。
     荒げた息も、あちこち穴の空いた地面も、死闘を物語る要素ではあるものの、人間には血の赤が見えなければ、凄惨という印象は受けないかもしれない。
     だが、メガミ同士の戦いとはすなわち、桜の力によって維持される顕現体の破壊を意味する。
     この場に漂った塵全てが、彼女らが失った血肉に他ならないのだ。

     

    「はぁ……あぁッ!」

     

     突進して切り込んで来るザンカに対し、ウツロは影の大鎌を真正面から地面に突き立てる。その切っ先はザンカを捉えることはなかったが、突き立った刃を支点として、ザンカを跳び越すように己の身体を宙に打ち上げた。
     眼下に見るザンカを狙うよう、ウツロは手をかざす。漂っていた塵が、ザンカの周囲で色を濃くしていく。
     しかし、たった数秒といえど、時間をかけて絡め取るだけの猶予は存在しない。
     壮絶な衝撃の踏み込みによって勢いを殺したザンカが、己の頭上を越えようとしていたウツロへ急反転して飛びかかった。

     

    「……!」
    「ァウガァッ!!」

     

     猛烈なザンカの切り上げに、咄嗟に大鎌を再形成して振り下ろす。
     刀から発したとは思えない鈍い音と共に、二柱が宙で静止する。ただ、ウツロはそこで一時的に大鎌を塵に還し、ザンカが勢い余って空を切り裂こうとする中、崩した体勢を整えるべく着地する。
     そこにきっと、油断はなかったのだろう。
     反転し、無防備になったザンカを切り裂こうと構えたウツロは、

     

    「ぎ、ぃっ……!?」

     

     左腕を深くえぐった大質量に、思わず一歩たじろいだ。
     ウツロのすぐ隣に、ザンカの投げつけた刀が突き立っていた。不利な体勢を憂うのではなく、ザンカは追撃の一手を選んでいた。それどころか、彼女はウツロの隙に乗じて、無手のまま再び飛び込もうと駆け込んでいさえする。
     痛みを堪えるウツロが、今度こそ無防備になったザンカめがけて影の刃を地面に走らせる。避けようともしない進撃に両脚から大量の結晶が溢れ出すものの、蒸発した理性はただ前を目指すのみ。

     

     果たして、再び刀を手にしたザンカの間合いからウツロは脱し得なかった。
     影で編んだ壁を肉厚の刃が両断し、叩きつけた地面から凄まじい風が迸る。

     

    「うぐ……!」

     

     全力でその場から飛び退くウツロ。そんな彼女の目に、ザンカから遠ざかる膨大な塵が映る。
     すかさず、次の一歩の代わりに地面に落ちた影へウツロは飛び込み、一拍経って現れた彼女は、背中に生やした二対の闇色の翅を大きく羽ばたかせ、一気に人の手の届かない上空へと舞い上がる。
     本来ならば、弓でもなければ手のだしようもない安全圏。
     しかし、謳われし者たちの戦いにおいて、その程度の彼我の距離で安心を得ることはできない。

     

    「……っ」

     

     眼下に置いているはずなのに、ザンカから立ち上る気配にちりちりと焼かれる錯覚がウツロを襲った。
     これまでのザンカも、恨みを練り上げ、怒りを纏い、己の理性すら既に刀の錆にしてしまったような、常人では御し得ない気配を振りまいていた。だが、ウツロを見上げるザンカは今、狂人の慟哭すら内に秘し、これまでの狂気すら生ぬるいと告げるように、恐ろしくおぞましい気配を高めていた。

     

    「斬華六道――獄」

     

     声は、ないはずだった。
     けれど、そう宣言されたと感じ取ったウツロは、爆発的に膨れ上がったザンカの圧気に飲み込まれてしまう前に、決意していた力を先に放った。

     

    灰滅 ヴィミラニエ ――!」

     

     桜花結晶は、塵に。
     力ある者は、世界に積もる灰と共に。
     存在の根幹を奪い去るウツロの権能が、ザンカをザンカ足らしめているものを塵と散らせる。ただ手をかざしただけで、ザンカの全身からとめどなく色を失った結晶がこぼれ始めた。
     だが、

     

    「……!?」

     

     ザンカの気迫は潰えない。
     ただ真っ直ぐ、今から切り捨てる者を見定めるように刃を構え、脚に溜めていた力を解き放たんとしていた。
     ウツロにとって、直接塵化してなお止まらないというのは予想外だった。ただ、それでも致命に足る一撃である確信はあったため、ザンカの次の一撃を捌きえすれば問題ないはずだった。受けきれる自信がなくとも、躱せばそれで終わりのはずだった。

     

     ザンカの構えた刃の切っ先が、微妙にズレていることに気づくまでは。
     存在を賭して相手を屠る一撃であることは間違いない。
     けれど、ウツロは激戦の中で失念していたのだ。
     門番として、怨嗟振りまくザンカの侵入を阻止していたことを。

     

    「はっ……!」

     

     背後には、瑞泉城が静かにそびえていた。
     ザンカの一撃は立ちはだかるメガミを殺すためのものではなく、それすら超え、怨敵のいる瑞泉城そのものを破壊するためのものであった。
     故にウツロは、回避を選択することはできなかった。

     

    「オ……アァ……ッ――」

     

     臨界を越え、ザンカの禍々しい気配が赤黒い波動となって彼女から発される。
     直後、ザンカは消えた。僅かして、彼女の立っていた地面がクモの巣状にひび割れ、陥没した。

     砲弾のように飛び出したザンカは、ただの障壁であるウツロめがけて、一直線に突撃する。

     

    終末 カニェッツ ――」

     

     その一声で、瞬く間に城を覆うような巨大な影の壁が展開される。真正面から受け切るのではなく、左手に力を逃がすように傾けて。
     激突は、一瞬だった。

     

    「う、ぐぁっ……!」

     

     壁で吸収しきれなかった衝撃は、主たるウツロへと伝わる。弾かれたように吹き飛ばされた彼女は、その小さな身体を何度も地面を跳ね、門の前に転がされた。影の壁の残骸は、不甲斐なさを詫びるように空気に溶けて消えていった。

     

    「ウ、アゥ……」

     

     足をもつれさせながら降り立ったザンカに、先程までのおぞましい気配はない。威力こそ完全に殺されたが、邪魔者であるウツロは、意識こそあるものの立ち上がることさえできない。それを理解したのか、ザンカは荒い息を乱暴に吐き出した。
     そして、狂えるメガミは守り手のいなくなった門を越え、城内へと駆け出した。
     後にはただ、土のついたメガミだけが横たわっていた。

     

     

     

     


     時は遡り、天より降り注いだ雷が揺波を焼いた天守閣。
     持てる力、そして与えられた力を使い果たした彼女からは、身体に残っていた数少ない結晶が塵となってこぼれ出ている。視界の端を流れるその輝きに、丸腰となった揺波は思わず歯噛みする。

     

    「くくく……どうだ、敗北の味は?」

     

     嘲笑う瑞泉の頭上では、立ち込めていた暗雲が、雷鳴の余韻を残して散ろうとしていた。それを決着の余裕と捉える程度には、揺波の闘志は燃え尽きてはいなかったが、どんな手であっても抗えないだろう、という現実もまた見えていた。
     武器にできるものも、部屋の入り口に転がった普段遣いの刀くらいしかない。けれど桜の助けを失った今、メガミの力をふんだんに使う瑞泉相手に、それがどれほどの助けになるというのだろうか。

     

    「ま、だ……」
    「諦めが悪いのはいいことだ。だが……ふふ、私としても舞台を血に染める真似はしたくなくてね」
    「っ……!」

     

     愉悦に口を吊り上げる瑞泉を前に、何も言い返せない。
     勝敗は、決してしまったのか。
     揺波の理性が、残酷な答えに手を伸ばそうとした、そのときだ。

     

     轟、と。
     凄まじい衝撃が足元を揺らした。
     城の外で起きた、常識の埒外にある『何か』が、大地に楔を打ち込んだかのようだった。

     

    「なんだッ!?」

     

     動揺した瑞泉が、一瞬、窓の外に目をやった。
     揺波にとって、それだけで十分だった。
     彼に生じた隙をついて、全力で踵を返す。現実から導き出した戦略的撤退という結論を体現するべく、疲労に満ちた身体に鞭を打つ。

     契機となった破壊は、ここに来た味方の誰もが成し得るはずがない規模のものだ。けれど一方で、瑞泉の反応は揺波の不思議な感覚を後押ししていた。
     轟音の正体が、どうしてか分かったような気がする。
     根拠のないその予想は、敗北の絶望の中で小さな希望となって、未来への道筋を暖かく囁いてくれたようだった。

     

    「……チッ!」

     

     一拍遅れて逃走に気づいた瑞泉が、舌打ちと共に現した銃の引き金を引く。けれど脚を狙ったそれは床を抉るのみで、下へ続く階段に飛び込んだ揺波の足を止めるには至らない。

     

    「絶対に逃すなッ!」

     

     響く怒声を背後にした揺波は、辛うじて拾えた自前の刀を鞘ごと前に構えながら、先程辿ってきた廊下を戻らんとする。
     しかし、もう一つ下った先で、瑞泉の命に応えるように人影が現れ始めた。
     今まで不気味なまでに人のいなかった城内が、やはり不吉な幻であったかのように、逃亡を阻止するべく瑞泉の兵が続々と姿を見せたのである。

     

    「どい、てッ!」
    「がっ……!」

     

     さらなる階下への道を塞ぐように立ちはだかった兵を、刀の峰で殴打する。振り払われた棍をすんでのところで躱しての一撃は、相手を打ち払って廊下から追い出せたものの、瑞泉との戦いによる損耗のためか、威力の低下が著しい。
     と、僅かに足を止めた揺波を、冷ややかな空気が撫でた。

     

    「あぶ――」

     

     瞬時に今倒したばかりの兵に飛び乗ると、廊下の床が揺波のいた場所に氷が押し寄せるように凍りついた。
     ちら、と背後を窺えば、複製装置を装備した兵が追手に混ざっていた。常人であればどうにかまだ相手する余地があるものの、燃え上がる忍の里を思い出せば、メガミの力で武装した複数の相手と戦う愚は犯せない。

     

     階段への最短距離にも装置持ちの配置を確認すれば、正面突破を回避するのは自然なことだった。
     狭められていく人の網を食いちぎるように、一般の兵を薙ぎ倒して別の経路へ逃げ込むことを揺波は選ぶ。
     そこへ、瑞泉が叱咤する声が響く。

     

    「何故階段を固めなかった!」

     

     確実に同じ階にいると、揺波には理解できた。彼に追いつかれれば、抗いようのない敗北が待っている。

     

    「奴はもう力を失った、複数でかかれ! 絶対に殺すなよ!」

     

     けれど同時に、間近で飛ばされる指揮は、さらなる組織的な追跡の呼び声となる。ここが敵の本拠地である以上、地の利は完全に向こうにあり、繕った投網に絡め取られるのは時間の問題であった。
     なんとしてでも城から脱出しなければならない。この中で勝ち筋を見出すことはもはや不可能であり、希望を外に求めるための逃げ道を、今は辿らねばならなかった。

     

    「大丈夫……」

     

     か細い可能性を通す自分を鼓舞するように。
     順路を捨て、事前に千影に教えられていた隠し通路へ揺波は駆け出した。

     

     

     

     


     静かだろうが、騒がしかろうが、関係がなかった。

     

    「ィ……ンア、ァ……」

     

     がらがら、がらがら、と長大な刀を引きずるザンカは、物々しい雰囲気に包まれた城内へ、ふらふらと何かに導かれるように足を踏み入れた。
     彼女はただ、求めるものに忠実だっただけだ。狂気の論理に後押しされただけで。
     故に、厳戒態勢の敷かれた城内に立ち入るザンカは、中の事情など当然関知しているはずも考慮することもなかった。
     けれど、相手である瑞泉の兵は違う。

     

    「お、おい! と、とと止まれ!」
    「ア……ァ?」

     

     幽鬼のような、明らかに人ではない闖入者にも、兵は槍を向けざるを得ない。
     今まで姿を隠していた彼らには、表で繰り広げられていた超常の戦いの委細を知る由もない。けれど、度重なる異常な戦闘音は、一階にいた彼らを陰で怯えさせるには十分だった。
     それでも、義務が彼らの背中を押す。尖兵となった槍使いから離れ、二人の弓兵は既に震える手で矢を番えていた。複製装置という強力な兵装を身に着けている者も、例外なくザンカの気配に呑まれていたが、逃げ出すことはできなかった。

     

    「あっ、ああっ……! 止まれよぉぉっ!」

     

     恐怖が限界に達した槍兵が、無様な動きで槍を振るう。
     だが、本来なら刀を寄せ付けない槍相手であろうと、斬華一閃は容易くその刀身を届かせる。

     

    「ぎぁ――」

     

     悲鳴すらもかき消すように、雑に振り抜かれた刀の腹に打撃された兵は、近くの柱に打ち付けられ、ぐったりと倒れ伏した。
     歪な方向に斃れた首は、破滅への引き金となる。

     

    「うわあぁぁぁぁぁっ!!」

     

     恐怖の限界を迎えた弓兵が、歩みを止めないザンカに向けて矢を放った。
     錯乱状態での射撃がまともに当たるはずもなく、右肩を掠めようとした矢をザンカは小さく身体を傾けて回避する。それで相手を障害と捉えたのか、踏み込みのために床がみしりと鳴った。

     

     そこへ、複製装置を装備した一人の兵が、悲鳴を抑えながら小刀を構えザンカに肉薄した。恐れは、忍ぶための力にぎりぎりのところで押さえつけられていた。義務を果たした先に待ち受ける結末は、常人が受け入れられるものでは到底ない。
     ただ、彼がぞんざいに斬り捨てられるということはなかった。
     彼の小刀は、ザンカの左脇腹にそのまま吸い込まれていったのだ。

     

    「へぁ!?」
    「ァグ……」

     

     素っ頓狂な声が、凄絶な戦闘の始まりを予感させた場に響く。
     刺した彼自身も、他の兵たちも、意外さのあまり言葉を失い、恐る恐るザンカの様子を窺った。
     そのザンカも、その傷が意外なものだというように、兵を振り払おうともせずにぼうっと立ち尽くしていた。

     

     彼女の意識は、一瞬だけ、その間隙にあってまっさらになっていた。
     ……そしてその瞬間、誰も気づかない中、彼女に紡がれた不可視の糸が、ほんの僅かな間だけ、淡く輝いた。
     刀をきつく握りしめるその手に、そっと、手を重ねられたような。
     自分が本当に見るべきものへ導いてくれるような、そんな温かさが、荒れ狂っていたザンカの精神に染み渡っていった。

     

    「あ……」

     

     怒りを忘れたように、ゆっくりと一度、ザンカは瞬く。
     意識の戻った瞳が、痛みを追うように、小刀を突き込む兵を捉えようとしていた。

     

    「こ、こいつは手負いだッ! やれるッ!」
    「行けるぞ! 間合いに入らせるな!」

     

     兵たちにもまた思考が戻る。どれだけ恐ろしい相手であろうとも、刺突一つ避けられないような半死半生の状態であれば活路は生まれる。集団の利を活かせば、辛うじて手に負える水準の相手であると理解したのだ。
     しかもこれは、人智を超えたメガミを討ち取るという大業の好機が、目の前に転がってきたということでもある。

     

     希望と野心は、彼らの恐怖を上回ろうとしていた。
     一つ一つでは羽虫のようであっても、束となれば明確な壁となる。

     

    「おい、逃げたぞ!」
    「撃て! 撃て!」

     

     突然、がむしゃらに突き進もうとしていた姿勢を変え、ザンカは背を向けて城内の別方向へと駆け出した。小刀を刺した兵は気力を失ったようにへたりこんでいたが、他の者は現れた好機を逃すまいと、態度と一変させて攻撃の手を休めない。
     そのまま兵に構うことなく右へ左へと進んだザンカは、後ろを顧みることなく、二階へと続く階段を駆け上がった。
     迷うことなく、上を目指して。

     

     

     

     


    「おい、いたか!?」
    「いいや。だがこの階にはいるはずだ」

     

     床を蹴る音が、明後日の方向に去っていく。胸を大きく上下させる揺波は、それを曲がり角の向こうまで響かせないよう、袖で強く口を抑えていた。
     寄りかかった壁には、つぅ、と赤い線が床まで伸びていた。結晶の守りを失った彼女へ無数に刻まれた細かい傷が、じくじくと堪えきれないように吐き出した血は、致命傷を物語るほどではないにせよ、困窮を示すには十分であった。

     

    「ふぅーっ……」

     

     一息のうちにできるだけ長く移動できるよう、深呼吸一つしてから駆け出す。
     隠し通路の存在は、揺波が追手を翻弄するに足る要素であった。交戦を避けることで体力を少しでも温存し、それでいて階下へ進む助けとなる。稼いだ距離と時間は、孤立していた揺波だけでは決して生み出せないものであった。

     

     しかし、ここが敵の本拠地であるという事実は非常に重くのしかかった。揺波が利用することが意外だっただけであって、隠し通路の存在を城の主である瑞泉本人が知らないわけがない。
     地上まで身を隠しながら、という甘い願望は、通路の出口に陣取っていた兵から受けた痛みによって打ち砕かれた。人員こそ対応に割かせることはできたが、自由に飛び込める安全圏を奪われた揺波には、城内をひたすら逃げ回る以外に道は残されていなかった。

     

     ただ、彼女の瞳はこの状況に置かれても、まだ光を失っていない。
     轟音と共に感じた繋がりを、揺波も、そして相手も、お互いに手繰り寄せている感覚が、揺波の支えとなっていた。自分たちを繋ぐ見えない糸を通じて伝わってくる、希望と暖かさがなければ、自身の足取りすらも信じることができなかっただろう。
     けれど一方で、伝わってくる暖かさが、時を追うごとに失われていくような気がしてならなかった。手をかざしていた希望の灯りが小さくなっていくともなれば、不安を焦燥で炙ったような、叫び出したい感情が湧き上がってくるのは当然のことだった。

     

    「いたぞーッ!」」
    「……っ、ぐっ……!」

     

     叫びとほぼ同時、揺波の腿を二本の矢が掠めていった。後方で二人の弓兵が構えているのを見て、嘆く暇もなく速度を上げる。時折不確かになる足つきで左右に身体を揺らすその姿は、見ているほうが不安になる必死さを滲ませていた。
     このやり取りも、何度繰り返しただろうか。その度に削られていく命は、揺波本人のものである。
     希望に手を伸ばして斃れないよう、歯を食いしばって射手の死角に入るべく、横合いに伸びている通路を目指した。

     

    「はぁっ……は、あぁっ……!」

     

     その先には、誰かの気配がある。逃げ込んだ先でも危機は続くだろう。
     それでも他に退路のない揺波は飛び込むしかない。これは決闘ではないのだ。至近という目的のために矢衾に甘んじる余裕なんてあるわけがない。

     

     だから、決断を翻すことなく揺波は逃げ込んだ。
     その先には、人の形があった。

     

    「あ……」

     

     けれど、突然の邂逅に、声が漏れた。刃を構えようとした手が、止まる。
     相手に、害意も、敵意も、ありはしなかった。長大な刀を握りしめるその手は、戦意だけははっきりと示していた。そしてそれは揺波もまた同様で、戦舞台において油断することはなくとも、目の前の相手に敵対する必要がないことを、すぐに悟った。
     お互いこの邂逅を、唐突には思っても、意外だと捉えることはなかった。
     縁を辿った末の出来事であれば、それは当然の帰結なのだから。

     

     出会ったのは、一人と一柱。
     天音揺波とザンカは、兵たちの怒号も遠く、じっと互いに視線を交わしていた。

     

    「…………」

     

     悲惨なほどに傷ついた見てくれであろうとも、誰何の声が出るはずもない。
     その代わり、一歩、また一歩と、ゆっくり間合いを詰めるようにお互いの距離を縮めていく。それは、揺波の刀にとってはちょうどよく、ザンカの長大な刀にとってはかなり近い、そんな間合いまで続いていった。

     

     やがて、二人の足が止まる。
     揺波は僅かにザンカを見上げ、
     ザンカは僅かに揺波を見下ろし、
     歓喜も、悲哀も、憐憫も、慈愛も……どのような感情をも表さず、ただ自然体のままに二人は見つめ合う。

     

     そして、二人は互いに前へと踏み込んだ。
     手にした刀を、相手へと振るう――

     

    「やあぁぁッ!」
    「はッ……!」

     

     しかし、閃光のような斬撃は、揺波も、ザンカも、喰らうことはなかった。

     

    「あ、が……はっ……」

     

     ザンカの一撃は、揺波の背後で爪を振るおうとしていた兵を斬り伏せ、

     

    「ごっ――」

     

     揺波の一撃は、ザンカの背後で小刀を突き出そうとしていた兵を叩き伏せる。

     

     残身を解いた二人が再び向かい合うと、そこには微笑みが咲いていた。再会を祝すようであり、阿吽の呼吸で同じ解答を示したことを可笑しく笑うようでもあった。

     

    「ふふ……」

     

     つかの間の沈黙が訪れる。それを、気迫の叫びを聞きつけた瑞泉の兵たちの足音が乱していくものの、彼らはもう一歩、二人のいる廊下の中へ踏み込んでいくことができなかった。

     

    「揺波」

     

     静かに。けれど、思い溢れるように。
     ザンカの声が、揺波を呼ぶ。

     

    「我は狂乱の渦に呑まれようとも、契を違えることなく、何時でもそなたの闘いを見ていたぞ」
    「はい」
    「欣然と刃を振るうことが能わぬ世情をよくぞ生き抜いた」
    「……はい」
    「為虎傅翼と斯様な高みに至る様、麗句など相応しくもあらず、幾万言費やしたとて賛美を成し得ること能わぬ。誉れ高き永久の申し子と舞い踊る一戦は――揺波……?」

     

     くすりと笑っていた揺波に呼びかければ、懐かしむように微笑みを浮かべた。

     

    「ザンカの言うことって、相変わらず難しいな、って」
    「あぁ……すまない」
    「大丈夫ですよ。何が言いたいのか、なんとなくでも伝わってくる気がします」

     

     そんな曖昧な肯定に、ザンカも自嘲するように口端に笑みを乗せ、頭を振った。とめどなく溢れ出してくる揺波への言葉をまとられるはずもないと、素直なミコトを見て諦めたようであった。
     だから、薄く、柔和な笑みに乗せて、ザンカはただ一言、こう問うた。

     

    「桜花決闘は好きか」

     

     と。

     それを受けた揺波は、僅かに曇った視界が晴れたような感覚を覚えた。
     答えは、決まっていた。

     

    「はいっ!」

     

     ザンカは、満足そうに目を細め、じっくりと頷いた。
     だが、その顔から溢れたのは、涙でも、笑みでもない。

     

    「ザンカ、それ……」

     

     気づいた揺波が、声の調子を落として訊ねる。
     さらさらと、ザンカの身体から桜の塵が落ちていた。顔だけではなく、手も足も、着ているものでさえも、巻き戻すことなどできないというように、淡々と失われ初めていた。

     

     じっと、揺波を見つめ返すことで、ザンカは問いの答えとする。そこに悲しみの色はないが、諦観が彼女の中に横たわっていなければ、そのような答えにはならなかっただろう。
     揺波はそれ以上、口に出して追求することはなかった。ザンカが受け入れたように、揺波もまた、現実とザンカの想いを受け入れた。見えないよう、少しだけ唇を噛んで。

     交わし合う視線の最後にザンカは、

     

    「これを」

     

     己の愛刀・斬華一閃を揺波へと差し出した。
     やや戸惑いながらも、揺波は自分の刀を納め、人の身には大きすぎるきらいのあるそれを受け止めるべく、両の手を差し出した。
     それを見たザンカは、安堵に身を委ねるように、ゆっくりとまぶたを落とす。

     

    「なれの愛する桜花決闘のために、受け継いで、欲しい……」

     

     言い終わる前に、刀の柄をしっかりと、揺波の手に託した。そして、揺波は一刹那の後、確かにそれを受け取るように、ぎゅっと握りしめる。
     その瞬間、ザンカの身体は弾けたように桜の光へと解けた。
     それは舞い上がるでもなく、降り積もるでもなく、抱きしめるかのように揺波へと降り注いだ。

     

    「はい……」

     

     

     噛みしめるような応えを、聞き届ける者はもういなかった。
     薄暗さを取り戻した廊下で、揺波はぽつんと取り残されたように立ち尽くしていた。
     彼女の瞳からは、気づかぬままに涙が一滴、こぼれ落ちていた。

     

     

     

     


     追い詰めた形を作ったにも関わらず、瑞泉の兵は全くそんな気がしていなかった。
     斬華一閃を手に、感傷に浸る揺波を逃すまいとする包囲網は、けれど一定の距離から先を詰めることはなかった。しないのではなく、できないというほうが正しい。厳しく敵視されているわけでも、刃を向けられているわけでもないのに、醸し出される威圧感に誰もが二の足を踏んでいた。

     

    「まったく……どこまでも手こずらせてくれる」

     

     と、苛立ちを顕にした瑞泉が、兵の壁を割って現れる。
     彼はいくつも歯車を埋め込んだ神帯鎧を未だその身に纏ったままであったが、その手には一つも武器は顕現していなかった。それどころか、それぞれが時を刻んでいたはずの歯車が、精彩を欠いたように歪な間隔で蠢いているようだった。

     揺波は瑞泉へゆるりと斬華一閃を向ける。不思議と力が湧いてくるようだったが、襲いかかってくる様子のない瑞泉に、本気で警戒をしているわけではなかった。
     彼はその刀を忌々しそうに見やると、

     

    「決着をつけねばならない。君もそう思うだろう? 戦いはまだ終わってない」
    「…………」
    「勘違いするなよ。何も、ここで続きをやろうって腹じゃあない。つまらん犠牲が増えるのは本意ではないからな、君の望むように一対一は守ってやるさ」

     

     それに同意したのは、囲んでいた兵たちだった。彼らは瑞泉以上に、揺波が構える斬華一閃の意味を知っている。
     けれど、揺波には話の展開がいまいち読めなかった。神帯鎧の圧倒的な優位性を活かした戦いにおいて、揺波は遅れを取り続けた。今ならばまだ、という想いはあるが、神代枝を使い果たした事実は絶対的なものである。

     

     でも、今の彼からはそんな有利な立場にある者の驕りはなかった。
     揺波がそれを訝しんでいると、神帯鎧の右の篭手に手をかけた。

     

    「これが気になるようだな。なら、これでいいか?」
    「な……!」

     

     あろうことか、瑞泉は篭手を外し、兵に投げて寄越したのである。
     自ら有利を手放すだけの驕りは、やはり見受けられない。巧妙に隠しているのであればともかく、揺波には彼の意図が理解しきれなかった。
     瑞泉はそんな彼女に仮初めの答えを与えるように、

     

    「言っただろう。犠牲は出したくないと。その刀から伝わってくる力を、私は計りかねている。そんなものを振り回して暴れられては、どれほどの被害が出るか分からない。ここの主として看過できないほどにはな」
    「でも……」
    「だからこそ、一騎打ちの舞台に上がってもらおうとしているんだ。分かったかな?」

     

     まだ納得しきっていない様子の揺波に、彼は大きく鼻を鳴らす。
     意志を高め、挑戦そのものであるその言葉を投げつけるために。

     

    「重ねて言おう。戦いは、まだ終わっていない」
    「…………」
    「君の好きな桜花決闘で決着をつけようじゃあないか」
    「……!」

     

     もたらされた提案に、まず兵たちがどよめいた。
     そして揺波は、受け止めた言葉に泥土のような怒りや殺意が湧いてこないことを自覚した。
     ただ勝敗を決する場に、その感情が似合わないことを、彼女は知っている。
     故に、天音揺波は応える。

     

    「望むところです」

     

     勝利への決意を込めて。

     

     


     縁の糸は、全て収束していく。
     英雄とは、そういう人物を指すのかもしれない。

     これにて数多の糸はひとつになり、大いなる道が彼女の前に広がった。分かたれた道も、途切れた道も、この終わりに向けて伸びていた。
     その先に待つのは、天音揺波と瑞泉驟雨の最終決戦。
     長い長い英雄譚の幕引きは、もうすぐそこまで迫っている。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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