『桜降る代の神語り』第67話:サリヤ・ソルアリア・ラーナーク

2018.10.19 Friday

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     手繰り寄せた絆の果て、怨敵たるクルルを討ち取った闇昏千影。
     彼女の奮起が称賛に値しようが、目的は何も首級を挙げることじゃあない。
     寄り道を終え、己の生きる道へ共に帰る――そんな終着点に向けて、あと一歩が残っている。
     しかし、それが暗澹たるものである現実に、闇昏千影は直面することになる。

     

     ……でも、彼女には今、仲間がいる。
     誰かはこう言うだろう。出会いは必然なのだと。
     中でも、サリヤ・ソルアリア・ラーナークが、ジュリア・ヴェラシヤ・クラーヴォが、共に戦いを決意しなければ、この歴史が紡がれることはなかった。
     ミコトでも、メガミでもない、この地とは異なる存在によって、あんな結末を迎えられるようになるなんて、カナヱも想像だにしなかったさ。

     

     さあ、英雄譚の一つの終わりを、語るとしよう。
     撚り合わされる縁の糸は、君の生きるこの桜降る代まで繋がっている。

     

     

     

     


     巨人が沈黙し、クルルも消えた翁玄桜の下は、神渉装置の駆動音が未だ響いているにも関わらず、静寂を取り戻したようだった。

     

    「ツギに、この管を切断デス」
    「これで合ってますか?」

     

     慎重に確認を重ねたサイネは、ジュリアの指示通りに木でできた細長い管を断ち切る。中から特に何か出てくるということもなかったが、ほんの少しだけ、温かさが漂ってきたのをサイネは手先で感じた。

     

    「それから……コレですね。この歯車の、ここ! ここから右だけ、壊してクダサイ」
    「これですよね……?」
    「そうで――イヤ、ここからコウなって、コウ……コウ……コウ、と行って、そこからどうして上マデ伝わってるか、イマイチなんですが、たぶんコレで合ってるとは思うので、ウーン……アッ、だ、ダイジョブです!」
    「ええと、やりますよ?」

     

     後ろ髪引かれるように考えを切り上げたジュリアに困りながらも、再びサイネが刃を閃かせた。

     

     どうにかクルルを撃破した一行は、それでも止まらない神渉装置の停止、解体を試みていた。製作者本人は、千影の一撃によって白目を剥いたまま桜となって消えてしまったので、ジュリアがどうにか構造を紐解きながら指示を出している。
     ただ、実務が可能な者は限られており、死闘を繰り広げた千影とサリヤは、翁玄桜の伸びた根に背中を預けて休息をとっている。疲労が限界を迎えそうになっていたこともそうだが、二人は装置を的確に破壊する手段に乏しかったのである。

     

     サイネはぎりぎり余力を残した一人であり、ジュリアと共に高い根囲いの上で、主力となって解体作業に勤しんでいる。とはいえ、歯車に向かって繰り出す斬撃は精彩を欠いており、クルルに負わされた傷が見た目以上に深いことを物語っていた。
     と、機構の破壊によって装置全体が軋みを上げる中、根元から千鳥の声がかかる。

     

    「準備できましたよー!」
    「アリガトです! こっちも、あと一箇所だと思いマス!」

     

     眼下で彼が仕掛けの紐をまとめているところを見て、満足そうにジュリアは頷く。
     それから高所での作業を終えた彼女がサイネと共に降りれば、千鳥に仕掛けを手伝わされていた楢橋が、緊張が解けたあまりに口から魂を吐き出しそうな様相で工具箱にもたれかかっていた。

     

    「ジュリアさん……オレっち、頑張りました……自爆こわい……」
    「おつかれサマです! 皆さん、巻き込まれないようにシッカリ離れてますね? ……おや? サーキは、姿ありませんね?」

     

     彼女の疑問には、千鳥が眉をひそめながら答える。

     

    「あいつなら、やることがあるって邸内に戻りましたよ。まったく、こんなときに……」
    「オゥ、そうですか。でも、サーキにできることあまりありませんし、サーキにはサーキの考えがあるのでショウ」
    「まあ、そうですけどね」

     

     煮え切らない態度をしまうように、肩をすくめた千鳥は、手にした紐の束をそっと地面に置き、懐から火打ち石と黒い綿のような火口を取り出した。撚り合わされた紐の先はそれぞれ装置の土台の柱に繋がっており、導火線の役割を果たす。
     千鳥たちはサイネのように自身の手で装置を破壊することはできないが、知恵と工夫によって目的を果たすことは可能だった。

     

    「いきますよー!」

     

     改めて安全圏に退避したことを確認してから、彼は打った石で油を含ませた紐に点火する。
     そして、火が柱に到達するなり、ボンッ、ボンッ、と大きな音を立てて次々と爆発が生まれた。楢橋と仕込んだ爆薬は、この場の物全てを吹き飛ばしたわけではない。柱が手前側に折れるように調整し、根囲いに寄生したような装置の基幹部分を、幹から剥がそうと試みたのである。

     

    「うわあ……間違えて発火させてたら、今頃オレっち粉々じゃんかよ……」
    「火元がないんだから大丈夫だって言っただろ」

     

     ギ、ギギ……と大質量の柱が爆破によって抉られ、自重を支えられなくなったのか、ひとかたまりの絡繰群もろとも地面に部品をぶちまけられる。荒っぽいようだが、致命的と思われる箇所はジュリアの推定を元にサイネが破壊してあるため、いっそ潔く破壊されていく。
     立ち上った土煙が晴れていくにつれ、装置の変化は明確に現れた。
     自儘に時を刻んでいた、幹に取り付けられた一対の大歯車が、動くのをやめたのである。

     

    「ヤリマシタ! 予想通り、ここが受信システムだったようデス! これがなくなるダケでも、そのうちエネルギーが足りなくなって、構造を維持できなくなるハズです! 三択を外さなくて安心シマシタ!」
    「なんか最後さらっとすごいこと言いませんでした? ――って、姉さん!?」

     

     破壊された装置の箇所に向かって駆け出し、ふらり、と力を失ったように、膝をつく千影。慌てて近寄った千鳥は、姉の焦点が不安定ながらも一点に向けられているであろうことに気づく。
     貸そうとした肩を、力なく押し戻した千影は、

     

    「い、いいから、早く……早く、ホロビをっ……!」

     

     急かすその言葉に、場が色めき立つ。
     一角を破壊された装置のその向こう――幹との間に、絡繰に囲まれ、根と根の間で抱きかかえられているように、一つの棺のようなものが斜めに寝かされていた。
     誰も、それが彼女の目的のものであることに、異を唱えなかった。

     

     ただ、駆け寄った千鳥とジュリアが、その丸みを帯びた棺の中身をはっきりと見ることは叶わなかった。前面が硝子張りになっていることは理解できるものの、その硝子は内側から黒く煤けたように汚れていた。うっすら、人の形があることだけが分かる。

     

    「オォ……これが、ウワサの受信端末……。どうやってエネルギーを閉じ込めることができたのか、気になりマス……」
    「す、すいません! とりあえず今は、取り外すの優先でお願いします!」
    「オット、ソウデスネ」

     

     千鳥の要請もあって、目を奪われていたジュリアが周囲の絡繰との接合を確認し始めた。
     ややあって、合流したサイネと楢橋の助力もあり、装置に取り込まれていた棺は完全に切り離された形となる。地面に横たえてしまえば、これから最後の別れが待っているような、そんな不吉さすら思わせる。
     気力だけで存在を保っているような千影が、その棺の前にたどり着いたのは、ちょうどそんなときだった。

     

    「ほろび……ほろびっ……!」

     

     黒ずんた硝子のその向こうに、尋ね人がいるのだと確信したように、千影は棺にすがりつく。まだ開いていない棺をどうにかする余力もなく、うわ言のように名前を呼びながら、愛おしさと悲痛さが入り混じったように棺の肌を撫でる。

     

    「細音サン、結局窓破って出てきたから分かんないけど、色々調べてたから開け方の当たりはついてるよ。ほら、こことか、あそことか……」
    「ナルホド……だったら、コッチが怪しいかもしれません」

     

     実物を知っている楢橋の所感をジュリアが答え合わせするように、棺の構造を確かめていく。
     やがて、パチ、と留め具が外れるような音と共に、千影の目の前で蓋が僅かに持ち上がった。
     残った力で、放り捨てるように棺を開く。

     

    「っ……!」

     

     横たわっていたのは、故人を想起させるほどにやつれた女だった。
     吸い込まれるような深い黒をした、棺から溢れんばかりの長い髪だけを身体に纏い、下手に手を伸ばしてしまえば死出の旅に連れて行かれてしまいそうな、そんな不吉な気配を感じさせてやまない。

     

     彼女こそは、千影と共に在ったメガミにして、死を象徴するメガミ、ホロビ。
     再会を待ち望んできた千影の瞳から、涙がつぅ、と頬を伝った。

     

     しかし、

     

    「ほろ、び……?」

     

     こわごわと、その頬に手を伸ばした千影に、歓喜は色づかなかった。今まで溜め込まれていたあらゆる感情が、目の前の光景によって足場を外されたように崩壊していくようだった。
     ホロビは、静かに棺の中で眠っていた。
     息をしているかも分からないほどに、彼女は動かなかった。

     

    「ねえ、ホロビ、千影です。千影が、助けに来たんです。聞いてますよね……? 聞こえてないなんて、言わないですよね? それとも、千影のせいでこうなったこと、怒ってるんですか……? なんとか、言って、くださいよ……ホロビ……」

     

     それでも、ホロビが応えることはなかった。
     千影の呼びかけだけが、桜の下で虚しく響く。
     遠くに行ってしまったかのように、千影の求めたホロビは、目覚めない。

     

     

     

     


     気まずさの中で己を動かすのは、義務感である。

     

    「エット……まだ解体は終わってないですから、ハヤク進めましょうか」
    「そう、ですね」

     

     ジュリアの言葉にサイネが同意する。だが、ホロビの手を握りしめて額にこすりつける千影が、魂が抜けたようにとつとつと語りかける声は、サイネの心を翳らせたままである。沈痛な空気に飲まれて、すぐに気持ちを切り替えられるわけもなかった。
     けれど、無理にでもそんな空気を打ち破る変化は、唐突にもたらされる。

     

     上空から降ってきた何かが、一同の付近に着弾した。
     すわ新手かと緊張が走るが、先程ウツロ相手に暴れていた存在と比べれば、争いを思わせるような気配はなかった。
    小さな雷が弾ける音が、徐々に消えていく。

     

    「もう、むり……」

     

     言葉と同時、どさり、と倒れ込んだのはメガミ・ライラである。意識を完全に失ったのか、顔を地面に打ち付けてもうめき声一つ漏らさなかった。
     千鳥たちにとってライラは面識のないメガミであったが、彼女に連れられていたもう一柱は、とても馴染みの深いメガミである。

     

    「ゆ、ユキノさん……!?」
    「こんばんは、千鳥君。それに……千影ちゃんも」

     

     ライラの頭を撫でたユキノは、翁玄桜の下に集まる一同と、周囲の破壊の痕跡を眺めながら、重苦しい雰囲気で挨拶を口にした。彼女の手の中でライラが桜と消え、労う指先が風に溶ける塵を受け止める。。
     突然の出来事に、千鳥の頭はこれをオボロが寄越した増援と解釈した。用意していなかった言葉をかき集めながら、瑞泉城突入から装置の解体に至るまでのあらましをユキノを説明した。
     だが、「そう」とそっけなく相槌を打ったユキノは、視線をホロビの眠る棺で止める。

     

    「それで、これはどうしたの?」
    「そ、それは……前も言ってたホロビ、なんだけど……神渉装置に直接繋がれて、力を奪われてたみたいでさ。装置から外したところまではよかったんだけど、全然反応なくて……」

     

     その説明を聞きながら、ユキノは千鳥の前を通って棺へと向かう。
     から、ころ、と鳴る下駄に、千影が億劫そうに顔を上げる。彼女はここでようやくユキノたちに気がついたようで、自分が宿すメガミの登場に、徐々に瞳が光を取り戻していった。

     

    「ユキノっ! ほ、ホロビが……ほろびがぁっ!」
    「ちょっとごめんなさいね」

     

     すがりついてきたその手を、自身の手でくるむようにやんわりと引き剥がすと、膝を折って、沈黙を続けるホロビへと手を伸ばす。
     額へ、頬へ、そして胸へ、何かを確かめるかのように動かされるその手に淀みはない。まるで、こうすることを最初から覚悟して来たかのようであった。
     やがてユキノはホロビから手を離すと、屈んだままこう切り出した。

     

    「私たちも……メガミも、自分自身について理解できてるわけじゃないんだけど……」

     

     そんな前置きに、皆が息を呑む。
     そして告げられた結論は、特に千影にとって、あまりにも劇物のようであった。

     

    「ホロビは今、死にかけてる。身体だけじゃなく、存在そのものの死が、迫ってるみたいなの」
    「……!」

     

     想像が、言葉で裏打ちされる。事実への拒絶反応で、千影の肩が震えた。
     説明を求めたのは、サイネである。

     

    「存在の死、とは……?」
    「メガミって、人みたいに死ぬことは滅多にないの。この身体――顕現体が壊れても、ユキノというメガミが二度と目覚めなくなったり、消滅しちゃったりするわけじゃあない。私たちが元々いる場所に帰るだけなのね」
    「では、ホロビがそうならないのは何故でしょう……?」
    「意識が失われているから、帰るに帰れなくなってるんじゃないかしら」

     

     ユキノは続けて、

     

    「ホロビは、この装置で顕現体を引きずり出されて、メガミの力の大半を『本質』から切り離された状態にある。本質っていうのは、そのメガミ自身の根幹を成してるものを私がそう呼んでいるのね」
    「本質……」
    「それだけでも本質の維持がままならなくなるのに、顕現体に残った力も底をついたら存在全てが消えてしまう……。例えるなら、これは餓死……それも、食べ物に手を伸ばすだけの意識もない、死に絶え、朽ち果てるのを待つだけの段階に入ってるわ」

     

     残酷な宣告に、理解に努めようとする千鳥の心が沈黙を選んだ。他の者も、自分たちの手の届かない厳しい話に、地面に視線を落とすのみだった。
     ただ、千影だけは違っていた。
     半ばぶっきらぼうに、震えた声でユキノに問う。

     

    「何を言っているか、分かりません……。じゃあ、ホロビがどうしたら助かるのか、教えてくださいよっ……!」

     

     同じメガミならば、という期待の反動が、棺の縁を握りしめる力となる。諦めたくない意志と、それを否定された絶望感が彼女の中でせめぎ合っていた。
     ユキノは、不安げに答える。

     

    「たぶん……だけど、方法はある」

     

     あやふやであることに気後れしているような彼女に、先を促すような千影の視線が刺さる。

     

    「自力が無理なら、私たちがやればいい。この顕現体を本質に戻して、力を取り戻させてあげれば……」
    「だから、どうやってッ!」
    「連れていきましょう。扉を開いて、『私たちのいる場所』へ」

     

     ……ユキノ以外の誰もが、彼女の言わんとしていることを理解し、けれど納得できなかった。
     メガミがおわすのは神座桜である。だが、メガミたちがその中でどう過ごしているかなんて誰も見たことがないし、メガミもあまり語ろうとしない。桜という境界は、人とメガミの居る場所を、認識の上でも明確に分ける象徴であった。

     

     ユキノはこう言ったのだ。
     境界を越えて、メガミのおわす座に行くのだ、と。
     そしてなにより、彼女の言いようは、ユキノ自身がそれを行うのではなく、この場にいる皆に提案しているようだった。

     

    「私たちは、望めばそこに行ける。でも、ホロビはこの状態だし、私がそうやって連れ帰ることもできない。だから、扉を開いて、ここにある顕現体を、あっちに残った本質に直接引き合わせるの」
    「そ、そんな簡単に言うけど……」
    「そうね。ミコトだったとしても、普通人間ができるようなことじゃあないわ。私もおんなじ」

     

     千鳥の疑念を汲んだユキノは、言い終わるかどうかというところで、積み上げられた神渉装置の残骸に目を移した。

     

    「でも、ここは今、クルルの絡繰のせいで、場の繋がり――縁が乱れてる。何もないところからじゃ無理だったとしても、これを利用すれば、どうにか『あの場所』への扉が開けるかもしれない」

     

     それは、希望の言葉だっただろう。しかし、雲をつかむような話に、千影はまだ心が澱んだままであった。
     が、ユキノの話から具体的な方向性を見いだせた者が一人。

     

    「ハイッ! ソレなら、試せそうな方法がアリマス!」
    「えっ!? い、いくらジュリアさんでもそれは……」
    「ゼッタイいけます! この容器に繋がってた部分は、まだハカイしてません! もっとコアなシステムだと思うので、そこにエネルギーをとってもたくさん送れば――ソウデス、サリヤ! ヴィーナを持ってきてクダサイ!」

     

     興奮しながら、早口で己の考えを唱えたジュリアが、居ても立ってもいられないというように、棺の収まっていた根元の装置をせかせかと調べ始める。
     ぽかん、と置いていかれたようになった千鳥たちをよそに、少し離れて休んでいたサリヤが、主の命通りにヴィーナを押してやってくる。全身から疲労が溢れ出しているようであったが、その口元は苦笑いに歪んでいた。

     

    「ジュリア様……随分と壮大な話が聞こえてきましたけど、本当に大丈夫ですか?」

     

     その問いに、ジュリアは試しに歯車を回す手を止めた。
     顔だけでぎこちなく振り返りながら、

     

    「タブン……40パーセントくらい……?」
    「そんなことだと思いました。こういうときのジュリア様の『絶対』は、成功を信じていたいときですからね」
    「ウゥ……時間がナイなら、感覚でやるしかありませんカラ……」

     

     ただ、そう言うサリヤが、ジュリアを制止するということはない。ジュリアもまた、小言をもらったところで手を止めることはなく、ヴィーナを装置に組み込むよう絡繰を再構成していく。サリヤはまたそれに跨がり、さも操縦するのが当然だと言わんばかりに、車輪と連動する歯車の動きを確かめている。
     お互いの信頼の下に進む作業に、失意に飲まれていた場が、手の届く希望に仄かに照らされ始めたようだった。
     それに微笑みを浮かべたユキノは、

     

    「絡繰については、このお二人に任せるとして……千影ちゃんと、そこの……薙刀のあなた?」
    「サイネと申しますが……」
    「まあ! 素敵なお名前ね! ……あなたたちには、扉を開けるための後押しの役割を担ってもらおうと思うの。こちらとあちらと結ぶ縁が強ければ、それだけ開きやすくなるわ」

     

     呼ばれた千影は、思い当たるものを取り出す。
     滅灯毒の入った紫の小瓶。ユキノに出会った際、ホロビが消えたことを訴えた千影は、縁を示す品としてそれを見せたのだった。
     ユキノはその解答に深く頷く。

     

    「千影ちゃんが持ってるそれは、きっとホロビの本質と引き合うと思うの。だって、権能をそのまま抽出したものだもの」
    「ホロビの、死が……」
    「そしてサイネさん。あなたはまだ座についてない、成りたてのメガミよね? 本来、今頃あっちにいるべきあなたには、あの場所と引き合う縁が見えるの。もちろん、一人だったら、メガミとして望んで行ったほうが確実でしょうけれど……」

     

     その提案に、サイネは僅かに即答を迷った。ただ、へたりこんだままの千影に顔を向け、微笑んだことが答えの代わりとなった。

     

    「なん、で……」

     

     千影には、それが理解ができなかった。

     

    「サイネ、も……サリヤ、さんも……ホロビのために、協力して、くれるっていうんですか……?」

     

     ユキノは、人間には想像もつかなかった可能性を提示した。ましてや、彼女は自分たちでも完全に理解しているわけではない、とすら前置いた。
     千影にとって、理解が及ばない場所へ踏み出すことは、死に近づくことと同義だ。
     故に、危険を顧みずに力を貸してくれると、行動で、笑顔で、示してくれた二人のことを、彼女は理解することができなかった。

     

     けれど、恐る恐る反応を窺うように問いかけた千影に、二人は力強く応じる。
     申し訳なく思うことなんてなにもないのだ、とでも諭すように。

     

    「あなたの求めに応じて、私はここにいるのです。乗りかかった船、最後までお付き合いしましょう」
    「お姉ちゃんが、必ずホロビさんに会わせてあげるわ! だから大丈夫!」

     

     視界を滲ませた千影が、感謝を述べることはなかった。
     彼女はただ、ホロビの手を包み込むようにして祈る。
     自分にできることは、絆を強く信じることだけなのだから。

     

     

     

     


    「うぅ……細音サンもサリヤサンも行っちゃうー! オレっちも行くー!」
    「邪魔になるからやめろっつの!」

     

     千鳥に首根っこを掴まれながら、桜の根元から遠ざかっていく楢橋を見送り、ジュリアが最後の部品をヴィーナに取り付ける。瑞泉城に突入した際のように大所帯を支える機体は、発進を待ちわびているように低く唸りを上げている。
     ぐったりと力ないホロビを抱えるのは、操舵席に座るサリヤだ。その後ろにしがみつくかのように連なっているのは、千影、サイネ、ユキノである。

     

    「オーケーデス! いつでも行けます!」

     

     その合図を出したところで、ジュリアが千鳥たちのように退避しないことは、サリヤには分かりきっていた。これから常識を覆すような現象が起きるというのに、ジュリアが間近で観察したがらないはずがなかった。
     だから、諦めたようにため息をついたサリヤは、蹴りつけることでヴィーナを焚きつける。
     このために、残りの造花結晶を全て食らった乗騎が、興奮を示すように白い息を胴から吐き出した。

     

    「行くわよっ!」

     

     彼女の手によって、操縦桿が一気に前へ、回される。ヴィーナの低い嘶きが甲高い叫びに代わり、車輪に連結された絡繰が泡を食ったように動き出す。
     変化は、誰の想像よりも早く訪れた。

     

    「……!」

     

     ヴィーナの目の前の空間に、翁玄桜の結晶のものではない、桜色の光が見え始めたのである。
     その兆しに、さらに加速が叩き込まれる。少しでも気を抜いて減速したら、もう二度とその先を見ることはできないのではないか、という恐れから、暴れそうになるヴィーナを御して前へ前へと力を込める。

     

    「Go Ahead――!!」

     

     ならばいっそ装置を食い破って、加速の果てに光へ飛び込めよ、と。
     光はサリヤの気迫に応えるように、どんどん強く、そして大きく広がっていく。
     千影はそれを、手にした滅灯毒の小瓶をぎゅっと握りしめながら、しっかりと見据えていた。目の前で横たわるホロビも、絆の象徴たる滅灯毒も、それだけでは足りない。前で、その先で、待っている彼女をこそ、千影は求めているのだから。
     と、膨張した光が空間の一点から溢れ始め、ヴィーナを包む風のように流れ始める。

     

    「あ……」

     

     そんな光に撫でられた千影に、身体が浮かび上がるような感覚が芽生えた。
     そして、サリヤの身体を掴むその腕が、彼女の目に朧げに映る。もう泣き止んだはずなのに、と自分の身体が薄れていく光景に疑問を覚えるものの、それよりも奇妙な感覚に全身を支配された。

     

     身体に何かが染み込んでくる。
     じわじわと感覚だけが巡るそれは毒なのだと、なぜか千影には思えてならなかった。しかし、蝕まれた害もなければ、恐れもまたなかった。むしろそうあることが自分にとって当たり前であるかのように、毒は自然に染み入ってくる。
     それが、闇昏千影の感じた最後の感覚だった。
     まるで光に溶け込んでしまったかのように、忽然と姿が消えてしまったのだ。

     

    「えっ……!」

     

     サイネは、掴まっていた千影がいなくなったことに驚きの声を上げる。
     慌てて後ろのユキノへ、

     

    「あの、千影が――」
    「心配ないわ、ふふっ」

     

     けれど、ユキノは驚いている様子もなく、むしろ少し嬉しそうに、サイネの言葉を遮った。それがなんだかサイネには、不思議な納得感を与えてくれた。
     自分はそれを知っているような気持ちがじんわりと湧いてきたサイネは、この正念場にあって千影が消えてしまったことが、ユキノが想うように喜ばしいことのような気がして、静かに顔を綻ばせた。

     

     ただ、そんな事態を、サリヤは全く感知していなかった。
     光のさらにその先へ集中させていた意識は、己の身体を掴んでいた腕が消えたことも疑問に思う余地を持たない。
     前へ、ただ前へ。
     光の向こう側へ。

     

    「扉を……開けるわ。Open The Gate!!」

     

     

     

     光がひときわ輝き、大樹の根元は桜一色で塗りつぶされた。
     それが晴れたとき、そこにはもう誰もいなかった。
     人も、メガミも、乗騎でさえも。

     

     それでも、その光景を目撃した者たちが、彼女たちの旅路を祈る心は幻ではない。
     月夜に輝く翁玄桜の下、襤褸の外套が、風に舞った。

     

     

     

     


     英雄は生まれ、英雄として戦い、英雄に相応しい座にたどり着く。
     カナヱが語ってきた英雄譚は、そんな人間の偉業の始まりと終わりを示すものだ。
     氷雨細音。闇昏千影。サリヤ・ソルアリア・ラーナーク。
     三人の英雄は人としての終わりを迎え、彼女たちの英雄譚はここに幕を下ろす。


     光に消えた彼女たちがどうなったか……この桜降る代を生きる君であれば、もちろん分かるだろう?

     

     残されたのは、最後の英雄の物語のみ。

     

     

     

     

     

     そしてもうひとつ、カナヱは今こそ語ろう。

     表の歴史では語られぬ、ある二柱の終わりと、一柱のはじまりを。

     

     

     

     


     桜色の光の中を、歩く。
     白い枝を伝い、進んでいく。
     彼女の足取りに迷いはない。
     かつ、かつ。こつ、こつ。
     下駄を鳴らし、動かない友の身体を抱えながら、彼女はそこを目指していく。

     

     たどり着いた枝の先は、やや黒ずんだ色合いをしていて、節ばった手のひらを上に向けているような、そんな場所だった。
    そこに、光の輝きが、緩く球を描いていた。
     輝きはかなり鈍っていて、淡い光に満たされたこの空間にあっては、いっそ世界のほうが眩しいほどであった。

     

    「おまたせ」

     

     彼女は、手にしていた友の身体を、その光に焼べるように差し出した。すると、身体は徐々に光と混じり合い、ついには溶け込んだように消えてしまった。

     

    「ねえ……あの子、随分と泣いていたわ。あなたが見たら、さめざめ泣いちゃうくらいにはね。昔のあなただったら、また悲しませた、って自分の殻に閉じこもっちゃうかもしれない。一途に過ぎるのも、大変よね」

     

     懐かしむような。それを、今に見出そうとしているような。
     彼女は、ここに想いの結実を願っていた。

     

    「でも、あの子の涙を本当に拭ってあげられるのも、あなただけなのよ。どんな歪んでても、他の人が望むような、強い縁が結ばれてることには変わりないもの。……だから、お願い。返事して」

     

     しん、と。
     彼女の声が散っていき、応じる声も、そして気配も、ありはしなかった。
     鈍い光の輪郭が揺らめいて、火が消える前の最後のあがきを思わせる。ただ、そこには誰の意志も含まれてはおらず、むしろ残滓のような意志まで燃やし尽くしている最中のようであった。

     

     彼女はしばらく様子を窺っていたが、小さなため息一つ。
     ゆるゆると頭を振った彼女は、困窮を示すように頬に手を添えて、罪悪感を吐き出すように呟く。

     

    「できれば、これで目覚めてくれたらよかったんだけど……。これだけじゃ無理でした、なんてチカゲちゃんや千鳥君に言えないわ」

     

     と、彼女はそこで何かに気づいたように、自分の手をまじまじと見つめた。
     鈍い光と、己の身体を見比べる。

     

     そして、大きく深呼吸一つ、意を決したようにその光を見据える。

     

    「あなたの心は、私が受け入れる。縁を結び、心を繋ぐ、わたしならできるわ」

     

     これだけでは足りないのなら。
     足りている者を頼ればよい。
     彼女にとって、それが自分自身だったというだけのこと。
     その先で何が起きるのかを含めて、全て受け入れるための決意だった。

     

    「だって……こんな不器用ないい子が、報われないなんて、ダメでしょ?」

     

     その言葉は、他ならぬ自分に向けているようで。
     微笑みを浮かべた彼女は、目の前に浮かんだ死にかけの光に近づいた。

     己の胸を空けるように両の手を開き、抱くように光へ触れる。

     

     そして、二つの姿が光に包まれた。夜の雪路を照らす、小さな灯籠の明かりのような、そんな静かで優しい光だった。
    やがて光が消え、二つの姿もまた、消え去った。
     ユキノとホロビ……その名が示すものは、もう、どこにもなかった。

     

     

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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