『桜降る代の神語り』第66話:闇昏千影

2018.10.13 Saturday

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     探究者という生き物は、自分の興味あるもの以外眼中にないやつらがほとんどだ。
     けれどそれは、興味に没頭できる環境にいることが前提で、それが侵されたとき、探究者としての死を迎えるか、探究者たるべく剣を取るか、選択することになる。
     英雄たちは奪還のため、クルルという着想の体現者に絡繰の剣を抜かせた。

     

     求めるものと守るもの。歪に交錯する信念は、火花となって交錯し――

     今ここに、彼女たちの決戦が始まった。

     

     

     


     何かする前に止めなくてはならない。それが、クルルに対する千影とサイネの共通見解であった。

     

    「ちっ……!」

     

     桜の根元で絡繰を組み立て始めたクルルへ、千影は毒づきながら遮二無二前進する。サイネは右へ、千影は左へ、それぞれ展開しながら、絡繰の完成を妨害できる間合いまでの至近を己に求めていた。
     だが、クルルも黙ってそれを見ているわけではない。

     

    「お邪魔虫には、ぱーになってもらいます」

     

     組み立てていたうちの一つが、銃のような形を木で組み上げる。クルルの手中に収まったそれは、銃身が円筒ではなく角ばっていて、側面にはぴかぴかと薄桃色に光る直線的な意匠が成されていた。
     彼女はそれをおもむろにサイネに向けると、引き金を引いた。銃声はなく、代わりに桃色の光条がサイネへと一瞬で到達する。
     外傷はない。光を浴びただけなのだから当然だ。けれど、

     

    「え、ぁ、っと……」

     

     突然、サイネがたたらを踏んだ。転びそうになったところを薙刀を杖代わりにしてなんとかとどまる。
     めくらである以上、現象を把握していないだろうサイネへ、千影が短く叫ぶ。

     

    「変な光を当ててきました!」
    「あ、あたまが、かき回されたみたいで……」

     

     人為的に与えられた混乱を追い払うように頭を振り、接近を再開する。
     先行することとなった千影は、謎の光を放つ銃の射線から身体を外しつつ、毒針を投射する。

     

    「おぅふ……!」

     

     人間であれば反射的に避けるであろう脳天への一投を、クルルは避ける気も防ぐ気もなく、素直に額で受け止めた。思わず銃を取り落としてしまい、針から垂れた毒液が眉間をつー、と伝う。
     しかし、それでもクルルは嗤っていた。

     

    「くらくらしますぅ……でも、これもいい感じですぅ!」

     

     攻撃を嘲笑うのではなく、純粋に攻撃を受けたその結果を、彼女は興味深く受け入れていた。

     

    「はッ!」

     

     そこに合わせられるのは、肉薄するサイネの断ち落としだ。柄を長く持って、重力と遠心力も乗せた一太刀は、クルルの左胸から右脚にかけてを削ぎ落とし、傷口から桜色の飛沫を舞わせる。
     さらに、返す刀で腹を両断するように薙ぎ払おうと、体重をさらに前へとサイネは押し出した。
     だが、

     

    「いただきまぁす」
    「……!」

     

     突如として、クルルの背後で翼が広がった。
     それは浮雲たちが使うミソラの力によるものではない。複数の歯車を組み合わせた骨組みに、歯車模様の風呂敷を皮とした、絡繰の翼だ。元々クルルが腰の後ろに携えていたものが展開したようで、翼の全長は彼女が両腕を広げたよりもなお長いだろう。

     ただ、二撃目をもう放ってしまっていたサイネを待っていたのは、羽ばたくことによる回避ではなかった。
    振り抜く途中で、喪失感に見舞われる。
     自分が守りとしていた桜花結晶が、相手へと吸い寄せられていってしまう感覚が、サイネを襲う。

     

    「くっ……!」
    「どもども」

     

     クルルの身代わりとなって砕ける結晶。そんな軽すぎる手応えにサイネは歯噛みしつつ、あっさりと振り抜いて威力を持て余してしまった得物をどうにか宥めようと踏ん張りを利かせる。

     しかし、それだけの猶予だろうが、クルルにとっては十分だった。
     彼女は両手共に組み上げた同じ絡繰を、にわかにサイネ、そして畳み掛けようと飛び込んできた千影に向けた。
     バリ、と閃光と同時、大気が裂けた。

     

    「あ、がぁ……っ!?」
    「ぐぁ……!」

     

     雷撃が二人を焼く。身構えることができた分だけ、千影は素早く数歩下がった。傷は結晶が肩代わりしてくれたとしても、手足のしびれまでは防ぎきれない。追撃よりも、クルルが下がっていくことを許容しても、一呼吸置くことを千影は選んだ。

     一方で、遅れて薙刀を構え直すサイネにその選択肢は許されない。相手の奇想天外な手のきっかけが見えない分、いっそう己のやり方を貫き通さなければならないというのは、クルルを宿していたであろう五条との戦いで身にしみている。

     

    「嫌ですね……」

     

     背後を見やりながら、ぽつりと千影は呟く。
     その言葉は、目の前のメガミに向けられたものではない。クルルのために揃えた戦力を分散せざるを得なかった、その元凶たる浮雲たちに苛ついていた。

     

     こんな速度が命の展開にも関わらず、最速の戦力たるサリヤをクルルへあてがうことはできていない。否、そうしたくともできない状況下にあった、というほうが正しい。彼女の強みは速さだけではなく、集団への対応能力の高さも挙げられるのだから。
     追いついてきた兵は、クルルへの加勢ではなく、屋敷へ向かっていたジュリアたち怪我人を狙ったのである。一部を割いてくるとは予想されていたが、千影たちを見向きもしないのは想定外にも程があり、サリヤをその対応へ回さざるを得なかったのだ。

     

    「お願いしますよ」

     

     戦場に閃く白銀は未だ健在である
     それだけ確認した千影は、再び奪還への一歩を刻んだ。

     

     

     

     


     サリヤの避けがたい剣閃は、鞭のような刀身とヴィーナの急制動によって生まれる。しなりながら蛇のように食らいつく刃が、目を疑うような予測困難の動きで敵を切り刻むのである。速度と合わせ、その広く読みづらい間合いが人数差を覆す武器であった。
     けれど、今のサリヤが扱う剣は、手にした一本だけではない。
     飛来する兵たちの主戦場である宙は今、ヴィーナから伸びた幾本もの剣の鞭によって切り刻まれていた。

     

    「行かせない!」

     

     三輪へと変化した機体を急停止させ、勢いをそのまま手中の剣に込める。有翼の兵に向けて一直線に飛びかかるが、すんでのところで回避される。構えられた弓は、空色の矢をつがえられていた。
     それを見たサリヤは、左手と脚の操作でヴィーナにその場で車輪を急回転することを命じる。得られた回転はヴィーナの各部から伸びた剣の鞭に躍動を与え、サリヤの舵さばきによって指向性を与えられる。
     予想外の二の矢を受けて、兵の血が夜空に咲いた。

     

    「ぐあっ!」
    「まだまだ、いけるわよっ!」

     

     威嚇するように吠えるサリヤの横を、打ち損じた矢が抜けていった。余裕を持って避けられない程度には、その威勢は絞り尽くされたものであった。
     敵の狙いを読み違えたことで、本来メガミの力を使える状態の千影やサイネと共に相手にするはずだった兵を、こうして全員サリヤが抱えることになった負担は大きい。主人たちを狙う兵の数をどうにか減らそうと奮闘するも、体力には限界がある。

     

    「次……!」

     

     砂利をヴィーナで巻き上げながら、残りの兵を五と見定める。いつ相手の気が変わって、先に千影たちにも手を出されるか分からない状況では、その数字はやはりサリヤ一人で支えるにはあまりに多すぎる。
     ちら、と屋敷の廊下を窺うや、立ち位置をやや下げた。重傷者がいる中では退避すらもおぼつかない有様で、唯一無傷であるジュリアが楢橋と共に藤峰に肩を貸しているところであった。千鳥が流れ弾を撃ち落としていなければ、とうに全員射抜かれていただろう。

     

     と、そんなときだ。
     ヴィーナの嘶きに紛れるように、どたどたと廊下を駆ける音が響く。

     

    「みなさん、早くこちらへ!」
    「さ、サーキ!」

     

     息を切らして廊下の向こうから現れた佐伯が、ジュリアたちを急かすように手招きする。
     味方が増えたことに安堵する中、千鳥は、

     

    「おいあんた、今までどこ行ってたんだよ!」
    「いいから急げ、ここじゃいい的だ! 逃げ込むぞ!」

     

     怒りを無視し、ジュリアと交代して庭からでは容易に様子も伺えない屋内を目指す佐伯。正論でしかないそれに千鳥は言葉を飲み込み、最大限の警戒でもって殿を買って出た。
     そして佐伯は、サリヤに対して声を張り上げる。

     

    「一人ずつならこちらでなんとかします! サリヤさんはあちらの援護を!」
    「オーケー、ありがとう!」

     

     彼の復帰により、天秤の傾きが緩くなった。残る相手が全員、閉所を不得手とする、翼を生やした射手であることも大きい。きちんと立ち回れるのであれば、囲まれる心配はかなり減る。
     ヴィーナが、威圧するように低く鳴いた。
     千影とサイネへ加勢するために、サリヤは前を向く。

     

    「チッ……! 先にあの黒焦げ女から殺るよ、囲め囲め!」

     

     浮雲の命令により、桜の下に向かって発進したサリヤを、四人の兵が四方から取り囲もうと展開する。ヴィーナの速度についていこうとしたのか、精度を気にせず雨あられと空色の矢が降り注ぐ。
     だが、サリヤとヴィーナだからこそ為せる変則的な機動は、面で制圧するほどの数がいない相手にとっては、手の中からすり抜けていくようであっただろう。背後に気を回さなくてよくなった分、その走りはいっそうキレを増している。

     

     行く手に待ち受ける兵の一人が、狙いあぐねて集中を回しすぎたのか、翼の動きが鈍る。無論、その隙を見逃さず、サリヤは剣を持つ手に力を込めた。

     

    「はぁッ!」

     

     急制動から繰り出される斬撃が、咄嗟に避けた兵の脚を掠めただけに終わる。
     次いで、急旋回するヴィーナから繰り出される刃が、背後から追ってきていた兵を捉えた。自らの速度も相まって、まるで挙動の定まらない剣を回避することができず、刃のついていない平らな面で打撃され、撃ち落とされる。

     

     脚が止まれば狙われるのはサリヤも同様だ。ヴィーナの初速はいかにその不利を少なくしていようと、無ではない。
     視界に光る空の色に反応し、サリヤは思いっきり腰を落とす。

     

    「っ……!」

     

     浮雲の精密な援護射撃が、サリヤの左肩を掠めた。鏃がある程度肉を削いだようで、褐色の肌に赤い直線が刻まれる。
     痛みに耐えながら速度を纏い、それでも初速を稼ぐまでの僅かな間に避けきれなかった分の矢は、どうにか手甲で弾く。
     当たりを確信していた兵の一人へ、主人を害した怒りをぶつけるように、ヴィーナの刃が閃いた。

     

    「あ、あぁぁぁっ!」

     

     思わず腕で顔を守ってしまった彼は、絡繰の故障に伴って翼を奪われ、落下する。サリヤにそれを見送る必要も余裕もなく、今度は手にした剣で矢を払い落としながら、砂利から土へ変わった地面を疾駆する。

     

     ……しかし、だ。サリヤは一つ、勘違いしていることがあった。
     浮雲たちが真っ先にジュリアたちを狙ったのは、そうするだけの積極的な理由があったからではなく、他方を狙えないだけの理由があったからだ。

     

    「うるさいですねぇ」
    「……!」

     

     思っていたよりも近くから聞こえた、苛立たしげなメガミに声に、サリヤは肩を震わせる。それは、宙にいた浮雲の兵たちもまた、同様だった。
     撹乱しながらヴィーナを駆ってたサリヤは、空を行く相手ということもあって、目まぐるしく移り変わる戦場を把握しきれていなかった。可能な限り相手の戦力を減らしながら、最終的には千影とサイネに合流する、という目的だけを抱えていた。

     

     クルルは今、サイネの振り下ろした薙刀と、千影の放つ苦無を、妖しく光る壁によって防いでいた。二人の攻撃はそれだけでは捌ききれるものではなく、防護壁の届かない位置から的確に傷をつけられている。
     けれど、クルルの苛立ちは千影とサイネに向けられていなかった。
     じろり、とその瞳が、宙空を――サリヤを追っていた、浮雲たちへ向いた。

     

    「集中できないんで……静かにしてもらえますか?」

     

     感情の起伏の少ない言葉が、普段の彼女の言動と相まって、息を呑むような威圧感を生む。
     その直後だった。
     浮雲を始め、空にいた者たちの複製装置が、音もなく弾け飛んだように、一瞬で分解された。大小様々な部品が、水の中を揺蕩っているかのようにふわふわと浮かぶ。

     

    「でも――」
    「そ、総員、着陸ッ!」

     

     その意味を察した浮雲が、悲鳴じみた命令と共に、自らもまた急降下を始める。
     だが、一つ数える間に、彼女たちの翼が消えた。
     複製装置によってもたらされていたミソラの力が、装置の分解によって霧散した。
     後に待っているのは、仮初の翼をもがれた人間が、ただ地面に引かれて落ちるという至極当然な帰結だ。

     

    「ぉぐっ……!」

     

     咄嗟の警告が功を奏したのか、浮雲たちが地面の染みになることはなかった。受け身をとってもなお衝撃に息が詰まる高度ではあったが、苦しむ程度で済んでいる。人によっては骨も折れているかもしれない。少なくとも、精度を求められる射撃は彼らにはもうできそうになかった。
     そんな突然の同士討ちに困惑するサリヤの前から、分解された部品が飛び立った。
     他ならぬ、クルルの下へと。

     

    「歯車ちゃんたちを連れてきてくれたことには、感謝しますぅ」

     

     千影も、サイネも、無意識にたじろいでいた。
     集まる部品は複製装置の残骸のみならず、神座桜の周辺に散らばっていた一見ゴミにも見える物体から何まで、使えるものはなんだって使うという有様であった。それらはクルルの目の前に集まり、下からどんどん組み上げ、時にはクルル自身が生み出した部品とも組合わさり、体積を増やしていく。

     

     数多の歯車の集積の果て、生まれた形は、人であり、山であった。
     背後にそびえる翁玄桜も相まって、大きさの感覚が破壊される。真っ直ぐに伸ばされた両腕が、桜の輝きを受けて大きな影を地面に落としていた。足はなく、極太の丸太によって支えられた上半身は、まるで案山子のようであった。

     

    「な、に……これ……」
    「かもーんっ! びっぐ、ごーれむ……あるてましーん、もーどっ!」

     

     向かい合った千影の呟きが、組み上がった巨大絡繰の駆動音にかき消される。
    見上げるほどの巨体が、その双眸に妖しい光を湛えた。

     

     

     

     


     質量は、それだけで暴力になる。ただしそれは、その大質量を動かし得たら、と但し書きがつく。
     ならば、山のような巨体が拳を振るうという動作は、正しく暴力であろう。
     巨人の胴体が回転し、右の巨腕が前方で絶句していた千影を襲う。

     

    「ぁ――」
    「危ないッ!」

     

     回避の遅れた千影を、サイネが薙刀の柄で殴りつけるように弾き飛ばす。サリヤが間一髪、自力で逃れると、殴打の軌道には結晶をまとめて構えたサイネの姿だけが残ることになる。

     

    「く、うぅッ――ぅあッ!」

     

     薙刀の柄も合わせ、巨大な拳を受け流す。圧倒的な暴力に砕け散った結晶たちが、風圧によって吹き散らされる。
     しかしサイネにとって、盾の喪失は攻撃への転換を意味する。己の技を曇らせる結晶を捨てた彼女は、むしろ予備動作の聞こえやすい巨人へ、躊躇なく刃を振るう。

     

    「たぁッ!」
    「はっはっは。たくさーん遊んであげてくださーいな」

     

     巨人の後ろへ下がったクルルは、自慢げに笑う。サイネの斬撃は、去っていく巨人の右手首に傷をつけたが、巨体からすればかすり傷に過ぎない。メガミの威力でその程度である以上、千影とサリヤは観察を続けるしかない。
     と、巨人に回転打撃を続けさせるクルルの視線が、そんなサリヤを射止めた。
     正確には、彼女の乗っているものを。

     

    「おほーっ! さっきがっしゃんがっしゃんしてた乗り物じゃあないですか! よく戻ってきてくれました! くるるんにそれ、貸して触らせて見せてくださいよぅ!」
    「誰があなたなんかに!」
    「そんな意地悪しないでー」

     

     ではまあ、と拒絶されたクルルが、顔の横で人差し指を立てる。

     

    「ごーれむが壊しちゃう前に、ここはひとつ、このすーぱー兵器で眠っててもらいましょう! かおすすとーむ、ぽちっとな!」

     

     言い終わる直前、巨人の双眸の光が、一瞬引っ込められた。
     そして声を上げる間もなく、放たれたまだら模様の光条がサリヤを直撃した。

     

    「うっ、あぁ……」
    「サリヤさん!」

     

     サイネを襲った光線同様、やはり外傷はない。だが、サリヤは機上でふらふらと身体を揺らし、耐えきれないというように手で抑えた。重心がまるで定まっておらず、思考の焦点もまた定まっていないように、視線を彷徨わせている。
     無論、そんな状態で操作できるほど、ヴィーナは優しくない。搭乗者の混乱は増幅されて動きに反映される。左右に倒れそうになったり、急制動で身体が投げ出されそうになったり……唯一の救いは、ヴィーナを暴れさせながらもどうにか後退できたことであった。

     

     狂乱したヴィーナの嘶きが、桜の下に痛々しく響く。
     光景を目の当たりにせずとも、サイネが異常を察知して余りあるほどには。

     

    「一体何をしたんですかッ!」
    「ふむふむ、これでのーぷろぶれんです」

     

     問いには答えず、満足そうにクルルは頷く。
     だが、その笑みが凍りついた。
     投げつけられた三本の針から、胸を締め付けられるような破滅の気配が漂っていた。

     

    「っは……!」

     

     忘れていた呼吸を取り戻し、とんと味わったことのない感情に戸惑いながらも、強いられたように咄嗟に首を横に倒した。
     とす、とす、と。
     首筋に一本、左肩に一本、いっそ間の抜けた音をたてて、投げつけられた針はクルルの身体に突き立った。ぬらり、とたっぷり塗られた毒液が傷口から滴り落ちる。だが、この負傷はクルルにとって特筆すべきものではなかった。

     

     彼女の額めがけて飛んでいた、最後の一本。
     何もしなければ刺さっていたそれは、クルルが初めて選んだ回避によって、彼女の背後で、背後でしゃりん、と音を鳴らして地面に落ちた。

     

    「…………」

     

     クルルが無言で瞳だけを動かしたのは、毒によって身体が麻痺したわけではない。
    緊張。そして安堵。
     どうしてもそれだけは避けなければならない、という強迫観念に屈し、けれど従ったことで命拾いしたという事実が彼女に染み渡っていた。クルルは回避を選んだのではなく、回避を選ばされていた。最後の一本には、メガミに致命を確信させるだけの破滅が込められていた。

     

     クルルの視線の先には、同じく無言で、じろりと睨む千影の姿がある。
     破滅の残り香を、その手に纏わせて。

     

    「そうですかぁ……!」

     

     冷や汗を流しながら、恐れを塗りつぶすように、狂気の笑みを浮かべる。
     す、とクルルの右手が緩く掲げられた。

     

    「完全態神渉装置……滅灯禍辻」

     

     今まで時を刻むように駆動していた翁玄桜の装置が、ガコッ、ガコッ、と動きを速めていく。
     すると、クルルの背後から、澱んだ薄墨のような、不吉な未来を予感させてやまない霧が撒き散らされた。

     

    「これは……」

     

     巨人に対抗していたサイネは、気配の変化に警戒し、距離を取る。
     けれど千影は、逆に一歩前へ踏み出した。
     その霧の正体を、知っていたから。
     千影は、煮詰められた殺意を込めて、問いを放つ。

     

    「ホロビは、どこですか」

     

     応じるクルルは、親指で背後を指した。
     すなわち、メガミの力を奪う、神渉装置を。
     隠し立てすることなく。

     

    「ここですよ」

     

     黒い霧に包まれた舞台が、終着点であると、クルルは示していた。

     

     

     

     


     全ては自分の安寧のため、そして安寧の大部分を占める大切な彼女を救うため。
     瑞泉驟雨は、千影のせいだと言った。実際、そのとおりだった。千影は、己の選択が大切な人を苦しめる結果を生んだことを後悔もした。

     

     しかし、彼女が後悔に埋もれることはない。
     彼女の悲嘆も、彼女の怒りも、どんな激情もよき未来の枷になると理解していた。振り返ることはあっても、慚愧に囚われることは無意味なのだと、澱んだその瞳で前だけを見ることができていた。

     

     彼女は忍――目的を合理的に果たす者である。
     故に、千影は宣言する。
     怨嗟の叫びを上げることもなく、ただ意志だけを一点に込めて。

     

    「返してもらいます」

     

     言葉と同時、千影は地を蹴った。サイネもまたそれに追随する。駆け出しながら構えられた得物が空を切るのに合わせ、場に満ちた黒い霧が緩慢に流れていく。
     二人にとって、絡繰巨人はただ消耗を強いられるだけの壁でしかない。本来であれば無視してクルルを直接狙いたいところである。本人も本人で、見えない防護壁を展開して守りを固めたりと、接近が叶っても一筋縄ではいかない。

     

     ただ、強い意志で飛び出したにも関わらず、彼女たちの足取りは重い。
     それは、疲労のためではない。地面に澱む黒い霧を脚がかき分けるたびに、どんどん気力が奪われていくようだった。
     何かする前に止める、というこの戦いにおける目標など、到底叶えられない。
     巨人に対抗するよりも前に、クルルが手にした絡繰を二人へ向けた。

     

    「うぐ、ぐぅぁあぁぁっ……!」

     

     雷撃に喘ぐ千影から、受けた熱量を示すかのようにか細く湯気が立ち上る。砕けた桜花結晶が、足元の霧の中へ消えていった。
     それでも千影たちは足を止めない。奪われる以上の気力を振り絞るように、焼かれた身体を押してひたすらにクルルとの距離を詰めようとする。

     

    「いいですよぅ! さあ、決着を付けましょう! そしてここからわくわくどきどきのー……」

     

     立ち向かう二人を前に、クルルは力を溜めるように身体を縮め、

     

    「科学の灯が、灯るのでぇす!」

     

     回転させるように手を揺らしながら、大きく腕を広げた。そしてその左腕を、サイネへと向ける。
     反応したのは巨人だ。クルルの所作を真似するように、左腕を震わせる。打撃同様に胴の回転が始まり、拳が振り下ろされるか、と思うものの、それだけではない。手刀を形作った手首から先が甲高い音を立ててさらに高速回転し、槍のように鋭利な刺突を形成した。

     

     しかし、拳を受け流すだけでも精一杯であったサイネだが、それに怯むことはなかった。
     防ぎはしない。避けもしない。
     むしろ、重量にものを言わせての単純な打撃よりも、小細工を弄した攻撃のほうが、彼女にとっては反撃の好機に他ならない。精緻を極めた技巧を通して見れば、威力のために工夫された攻撃は、常人には手の出せない多くの隙を孕んでいる。

     

     その隙をつくことも、サイネにならば可能だった。
     不可解で暴力的な一撃に、息をもつかせぬ連撃が叩き込まれる。

     

    「私もッ、借りを……返させて、もらいますッ!」

     

     そこに腕力は必要なかった。高速で動くものには、的確に刃を当てるだけでよい。言うは易しを実現するサイネの技は、彼女の聞き取った巨人の手の僅かな軋みに全て吸い込まれていった。
     見事に稼働に必要だった部品を断ち切られ、万物を貫くように回転していた巨人の左手が、己の持っていた力を御しきれずに自壊する。指は千切れ、手首から吹き飛んで千影の脇を掠めていった。

     

     重量の釣り合いがとれないのか、衝撃も相まってのけぞる巨人。両目を明滅させながら、左腕の代わりに後ろに回っていた右腕をどうにか千影に叩き込もうともがいている。
     今ならば、クルルに手が届く。
     千影もサイネも、狙うは本体だった。暴風のような回転攻撃が止まっている今、またとない好機であった。これを逃して新たな絡繰を組み立てられては、数々の雷撃を見舞われた二人に抗するだけの力はもう残らない。

     

    「うああぁぁっっ!!」

     

     足を前へ。己を鼓舞するように、声を発しながら。
     手にした針の切っ先が、クルルへと向けられる。
     今までは巨人の腕に阻まれて立ち入れなかった間合いへ、二人が踏み込んだ。目と鼻の先で、クルルが笑っていた。

     

     ……そう、笑っていた。
     頭の中で組み立てた流れが、目の前で再現されていることに喜んでいるように。

     

    「おめが……ぶれーどぉ!」

     

     

     ゾンッ! と光が大地に突き立った。
     サイネたちの阻止が間に合わないはずだった巨人の右手から、限界まで凝縮されたような光の奔流が放たれ、刃と化した。その威力に、あれだけ重く澱んでいた黒い霧が余波だけで吹き飛ばされる。
     右手は拳を作ることを諦め、生み出した光刃で間合いの中に潜り込んでいた二人を薙ぎ払おうと、手を傾けた。

     

    「ぁ……」

     

     その一瞬の出来事の中で、千影に光刃をかわすことは不可能だった。刃の幅は人の背丈よりもなお広い。それを巨人は、ほんの僅かに手をひねるだけで届かせることができる。
     もちろん、刃をくぐってクルルへと迫ることもまた、できなかった。
     手の届くところまでたどり着いたはずなのに、光刃で分かたれた距離は、決定的な破局を示すかのように遠かった。

     

    「ふふ……」

     

     けれど、そんな状況で、薄く笑みを浮かべる者がいた。
     千影には、少しだけ先行していたサイネが、自分に向かって小さく頷いたような気がした。
     自身に生じた想いを、おかしく思っているような。
     向けた者に望みを託すような。
     全てを切り裂く刃を前にした表情にしては、あまりに不吉で、あまりに示唆的で、あまりに希望に満ちていた。

     

    「っ……!」

     

     その意味を理解して、それを言葉で確かめる余裕がないことが、千影には恨めしかった。その選択は、千影にとっては最も理解のできない行いなのだから。
     だが、活路がそこにしかないことも分かっているからこそ、千影は足を止めない。
     他人の自己犠牲に成り立つ生を信じることが、彼女が今歩まねばならない生きる道なのだから。

     

     刃を合わせられる寸前、サイネは自らの周囲に水晶を浮かべた。
     そして、自分ら光刃に飛び込むように跳び上がり、己の身体ごと光刃を受け止めた。

     

    「――――」

     

     

     その刹那、全ての音が消えた。
     一瞬、時が止まったようだった。
     その間隙へ滑り込むように、千影は跳んだサイネの下をくぐり抜けた。彼我を絶対的に分けていた光刃の境界は、サイネに受け止められていたそのごく一部だけが、綻んでいた。
     直後、砕けた水晶、こぼれ出た結晶、それらの粒子が、音のない世界であっという間に空へ散っていく。

     

    「ぁ……ぐ……」

     

     そして音が戻り始めたとき、苦痛を訴える呻きは、クルルから見て光刃より手前から起き上がった。
     満身創痍の闇昏千影がそこにいた。
     サイネが引き受けてくれたとはいえ、光刃を紙一重でくぐり抜けた千影は、余波を至近で受けてさらにぼろ布のようになっていた。元々襤褸であった外套は引きちぎれ、一部を巻きつけるように右手に握られるのみ。

     

     それでも、彼女の意志が潰えることはない。
     整えてくれた道を踏破したその先に、長い旅路の終わりが待っている。
     澱んでいても、歪んでいても、まっすぐとクルルを――そしてその背後にいるはずの彼女を見据えていた。

     

    「ほろ、びをぉぉっっ……!!」

     

     光刃を振り回される前に、最後の気力を振り絞ってクルルへ肉薄する。
     その手に、苦無はない。
     その手に、小刀はない。
     彼女を取り戻すための最後の一撃。それは、彼女を奪った者に対して相応しい、千影と彼女だけの一撃だった。

     

     千影の右手に巻き付いていた外套のボロ布がひらめき、毒針の姿が露わになる。
     毒を芯にまで仕込むことのできるその毒針には今、紫色をした小瓶が据え付けられていた。
     ホロビの力を――死を象徴するメガミの力を濃縮した毒が。
     その権能が、一点に、クルルに、向けられる。

     

    「ひ……!」

     

     ……このとき、クルルは初めて、真に恐怖を覚えた。
     思考すら絶対的な闇で塗りつぶす、抗いようのない死という終わりに、彼女は己が持てるあらゆる絡繰を作動させようと試みた。その中には、回る歯車の力によってクルルを後ろへ運ぶというものもあり、特にその機構にすがっていた。
     絡繰は、彼女の想い通り、動作した。
     けれど結果として、クルルは足を引っ張られたように、背中から転倒する。

     

    「あっ、がぁ……なんで……」

     

     

     見れば、クルルの右脚には、銀に光る鞭のようなものが巻き付いていた。
     辿ったその先で、回転の余韻に耐えきれなかったように片膝をつくサリヤ。混乱によってヴィーナを降りた彼女が、最後の力を振り絞って、自らの力で放った剣が、クルルの逃走を妨げていた。柄に込める力をどうにか絶やさず、憔悴した顔ながらサリヤが歯を見せて笑う。

     

     原因が分かったところで、クルルにはもう為す術はない。
     目線を戻した彼女を待ち受けているのは、致死の一撃を携えた千影。
     飛びかかるその姿は、クルルにとって破滅の象徴となって、魂に刻まれる。

     

    「かえしてぇッ!!」
    「ひああぁぁぁぁぁっっッ!!」

     

     

     千影とホロビの絆が、クルルを貫いた。
     メガミの絶叫が、決着を告げる鐘となって、桜の下で響き渡った。





     こうして、闇昏千影の最後の戦いは、鮮烈なる決着を迎えた。死を恐れ、仲間からも逃げ、孤独と共依存の泥濘へと溺れつづけた彼女が、まさかこのような意思を示すとはカナヱとしても驚きだよ。

     はじまりが共依存であっても、絆は絆。闇昏千影とホロビの間で育まれた絆は決して淀み、歪んだものだけじゃあなかった。

     絆は崩れかけた心を辛うじて護り、そのわずかな時間が弟との縁を紡いだ。救いを得た彼女は敵を見定め、戦う意思を得た。決意ゆえに仲間は彼女の力となり、強大な敵へと立ち向かう勇気になった。

     そして仲間と勇気は最後には、彼女に勝利をもたらした!
     深い絶望の中から、希望の道を見出した彼女にどうか喝采を!


     

     

     

     

     

     





     そして、今この時だ。

     

     





     君が神話を辿るならば。あるいは彼女の異なる強みを探すならば。
     この時の彼女のあり方は、なかなかに興味深いと言えるんじゃないかな?
     怯え、恐れ、それゆえに生きる道を見出す暗殺者のあり方を、今だけは捨てて……、

     恐れを勇気に変えて進む、英雄として――

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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