『桜降る代の神語り』第64話:瑞泉驟雨
2018.09.14 Friday
因果は巡り、その果てで天音揺波と瑞泉驟雨は向かい合う。
もはや前置きはいらないだろう。
その決戦を、今ここに語ろうじゃあないか。
「よく来てくれた、天音揺波」
端に笑いを乗せつつ、瑞泉はゆったりと立ち上がる。
余裕をひけらかすような態度で待ち構えていた彼であったが、その装いはくつろぎとは程遠い。丁寧になめされた革の外套は彼の全身をすっぽりと覆っており、足袋を履いた足元と何も持たぬ手先、そして不敵に笑う首より他は、濃い飴色で塗りつぶされている。
そんな瑞泉に、揺波は何も応じない。
彼女の靴底が、一歩、敷居をまたぎ、畳を噛んだ。
「遠路はるばる西から東へ、さぞかし大変だっただろう。それとも、我が城にたどり着く道のりのほうが険しかったかな? 息もつかせぬ侵攻の手立てには興味をそそられるが、まずは私の下までやってきたその意気を称えようじゃないか」
いつの日かを繰り返すように、拍手の音が短く響く。
そんな瑞泉に、揺波は何も答えない。
彼女の瞳が、間断なく見渡していた空間全体から、瑞泉へと向けられる。
「もちろん、退路へ振り返らなかった君の勇猛さもまた、称えるべきものだ。……なあ天音。君の切り札、あと何枚残っている?」
せせら笑う彼は、つい先程階下で何が起きたのか、その目で見てきたようだった。
そんな瑞泉に、揺波の奥歯がギリ、と軋む。
彼女の手が、懐より取り出した神代枝を砕き、眼前に放った。
天音揺波という存在が、戦いに向ける想いは単純だ。執着、歓喜、恐怖ーーそれら全ては、己が勝利することに紐付けられている。彼女にとって、戦いの相手とは勝ち負けとそこから生まれる想いを共有する同胞以外に大きな意味を持たなかった。
だが、古鷹との望まぬ戦いを経て、自分の大切なものを目の前の男によって歪められた揺波は、ある感情を覚えていることに気づいた。
殺意。
勝敗を越え、喜怒哀楽も越え、生まれて初めての感情が、心の底からふつり、と湧いていた。神代枝の軌跡から引き出すように顕現させた斬華一閃は、限界を超えてむしろ凝縮された彼女の感情を代弁するかのように、鋭利な煌きを放っている。
「ふっ……構わんよ。やろうじゃあないか。楽しい楽しい決闘を」
「……っ!」
桜もなければ、宣誓もない。
偽りの決闘を終えた矢先に始まるのは、決闘でもなんでもない。
一歩、踏み出したそれが、戦いの始まりを告げる合図だった。
空間を切り裂くのは、鉛の塊だった。
眼前にあてがった結晶の盾が、それを外側へと弾き、砕けた。
「はッ!」
次弾を撃つまでの一瞬の隙をついて、脚を前へと踊らせた揺波は、右の耳の傍を小さな何かが高速で駆け抜けていった感触を、その場に置き去りにした。
瑞泉がまず構えたのは、ヒミカの情熱の炎で弾を撃ち出す銃だった。揺波にとってその炎は、燃え上がる城や里を想起させるものである。しかし今の彼女が考えるのは、久しぶりに見たその銃口に、身体がきちんと追いついているということだった。
何より、今の揺波にはあのときになかったものがある。
「行って!」
指示するように左手で瑞泉を指し示すと、ざわめきをもって集まってきた桜の光の球たちが、一つの流れを作って敵へと殺到せんとする。目の前に厚い結晶の壁を作り、弾丸の雨の中で揺波も同時に間合いを詰める。
龍ノ宮はあのとき、間合いを詰められきったと理解するや武器を持ち替えた。
遠距離戦を挑んでくる相手を前に、揺波ができることは唯一つ。いかに少ない犠牲で己の得意な近接戦に持ち込ませるか、ということ。二柱がどちらも近距離が苦手ということは考えにくい以上、近接武器を持ち出させるのが初手の狙いだった。
「おぉ、怖い」
先に襲いかかった光の奔流を前に、瑞泉はその頭に角のついた兜を顕現させた。威力を減衰させられた桜の光たちは、無念とばかりに周囲の空間に溶けていく。
銃と兜。その二つの力を確認した揺波は、守りの力ごと打ち砕かんとする気概で刀を握る手に力を込める。
そして、至近距離で脅威が少ないことが露呈した相手の腹を切り払おうとした。
だが、
「な……!」
瑞泉の身体が、後方へ浮いた。
決して飛び退いたというわけではない。桜の光に頭を押さえつけられている以上、予備動作なしに躱すことなどありえないはずだった。ヒミカの力による爆風を利用したのかと一瞬疑うが、そのような音は聞こえない。
視点を少しずらした揺波は、現象の理由を知る。
瑞泉の背中から、猛禽を思わせるような翼が一対、生えていた。
人間のものではない。けれど、ヒミカのものでも、ミズキのものでもない。
三柱目の力に、揺波の身体が僅かに硬直する。
さらに、
「そうら」
つい、と瑞泉が優雅な手付きで虚空を押しやった。
それに連動するのは、逃げる瑞泉を追うべく意識を再び前に向けようとしていた揺波の全身であった。
意図とは逆に、後ろへ跳んだのだ。
「あっ……」
刹那の間に得た感覚は、御することのできない浮遊感と、少しの脱力感。
無防備ーーそんな言葉が彼女の脳裏をよぎった瞬間だ。
仄暗い部屋のはずなのに、影が揺波を覆った。
身の丈ほどもある巨大な鉄槌が、破壊の二文字となって側面から迫っていた。
突然でこそあるが、再度の懐かしき光景に揺波の戦闘勘はすぐさま最適解をーーすなわち、力の奔流を吹き荒らすことによって、威力を低減させる策を呼び起こす。
けれど、
「ぇーー」
でない。あの嵐が、出せない。
それが、自らの内に流れる力が、先程の脱力によって滞っているためだと理解したときには、もう遅かった。
「ぉ、ごぁ、ぁッ……!」
暴力をまともにその身に受けた揺波が、畳の上を跳ねるように転がされる。せめて腕で頭への直撃を避けられたことだけが救いだったが、体内の結晶をかき集めてあてがってもなお身体の芯を揺さぶる衝撃に、一度、立ち上がり損ねた。
なんとか瑞泉を正面に構え直すと、彼は鉄槌を虚空に還しているところであった。背中の翼も消えており、狐につままれたようですらある。
「どうした?」
「くっ……!」
それでも揺波はもう一度前へと踏み出す。狙いをつけさせないように複雑に距離を詰めるその足捌きは、衝撃の余韻を全く感じさせない。
間合いに入った揺波は、攻めを組み立てるための牽制として、踏み込みながらも次の流れを意識した斬撃を見舞う。
対して瑞泉は、手にしていた銃で刀をそらす。そこまでは揺波の想定内であったが、問題なのは彼の手の軌跡から、黒い霧がもうもうと湧き出たことである。
「……っ!」
海玄が繰り出してきたあの不吉な霧だ。
意表を突かれるものの、彼女にとってはただの目くらましでしかない。その向こう側に消えたとて、刃が防がれるわけでもないことは、先程の戦いでそれこそ嫌というほど思い知っている。
瞬く間に視界を塞ぐ霧へ、揺波は下から右上へややすくい上げるように刀を振るう。ちょうどそれは瑞泉の下腹を捌くような高さであったが、海玄のときのような嫌な手応えは一切なかった。
空振りという結果を理解する間もなく、黒い霧の中に、白んだ黄色の光が走った。
バリ、バリ、と。
まさにそれは雷雲。不吉さの果てに、大自然がもたらす破局が待っているような、そんな無慈悲な力の発露を感じさせる天蓋。
そこから突き出された爪は、その天の力たる雷を纏い、揺波に迫った。
「ぐ……」
「ふははっ!」
身を捩り、背中から倒れ込むようにして躱そうとするが、迅雷は揺波の左肩に三筋の痕と僅かな痺れを残す。
本来ならここから、悪い体勢を立て直すべくわざと転んで跳ね起きる手もあった。だが、揺波にとって近接戦に持ち込むことは本望であり、そのための傷は厭わない。ここでは少しでも距離を詰めたままでいることが、彼女にとっての正解であった。
ここを逃すことは、勝機を逃すことと同じーーその直感が、揺波に食いとどまらせるだけの力を発揮させる号令となる。
背後に流れそうになった左足を杭を打つように踏ん張り、振り抜いた状態の右腕を、無理やり上段になるよう整える。左手を添えるだけの余裕はないが、勢いをつけるために無駄にする部位は一つもない。
踏ん張ることで溜め込んだ力を飛びかかる力と変え、爪を繰り出した瑞泉を袈裟斬りにする。それが、現状可能な、最大の反撃であった。
「ぅ、ぐ、あぁーー」
だから、その力を解き放つために、揺波にそれ以外のことを対処する余裕など、ありはしなかった。いや、執念によって無理を通そうとしている中、余裕を残していたとしたら、全ての力を賭すという決断に偽りがあった、ということでもある。
故に揺波は、結果を先に知ることになる。
「ーーあ……?」
左足の踏ん張りが、突如として効かなくなった。
蓄えていた力は後ろへと抜け、勢いよく左足だけが持ち上がる。それにつられ、身体は逆に前へとーー瑞泉のいる側へと倒れ込む。
「まったくーー」
瑞泉の言葉と共に、揺波は脚を撫でる冷ややかな空気の存在を知った。
そして、前へ傾ぐ視界は、彼女の足元だけが凍りついていることもまた、教えてくれた。
爪の顕現を解いた彼が、その手に無骨な金属の拳を宿したことも。
その鉄拳が、万全の踏み込みによって、振るわれることも。
……己が、無防備であることも。
「愉快だ、なァッ!」
「が、ぁ……!」
顔面を襲った衝撃に、揺波の思考が一瞬飛んだ。
殴り飛ばされた身体を止めようと、戻った思考は斬華一閃を突き立てることを選んだ。しかし、揺波が秘めた力ごと衝撃が吹き飛ばしてしまったかのように、ろくに入らない力では、畳の縁で止まった刀身に掴まり切ることができず、手を離してしまう。
「あ……ぅぁ……」
どうにか片膝で立ち上がり、斬華一閃を掴もうとする揺波であったが、その手は空を切る。見れば、斬華一閃の刀身は端から淡い光と消えていくところであった。
神代枝の効果が切れた。
ただ、揺波にとってそれそのものは、重要視するような出来事ではなかった。
今の打撃により、揺波は結晶を全て失った。その事実の裏から囁いてくる敗北の存在に、瑞泉を睨む気力が無尽蔵に湧いてくるようだった。
「は、はははっ! なんだその有様は。無敗のミコトが聞いて呆れるな」
そんな彼女を見下ろしながら、嗤う瑞泉。
と、鉄拳を含めた全ての武器の顕現を解いた彼だったが、左脇のあたりから着ていた外套の一部がはらり、とめくれ落ちた。
「おっと……避け損ねたか」
「それ、は……」
わざとらしく肩をすくめる瑞泉とは対照的に、揺波が目を見開いたのは、彼のその外套の下にあるものを目にしたからであった。
「気になるか? まあ、破れたままというのも不格好だからな」
そう言って外套を脱ぎ捨てた瑞泉が纏っていたのは、奇怪な鎧であった。
護りというにはあまりに隙間が多すぎるその鎧は、木を纏っている、と表現したほうが近いような代物で、身体の線に沿って幾本の木が蔦のように柔軟に張り付いて形を成している。
そして最も目を引くのが、胴や袖、草摺にあたる部位に、いくつも埋め込まれた歯車である。当然のようにそれらは回転を続けているが、全体で揃っているということはなく、部位ごとに固有の時を刻んでいるようだった。
「まさか……」
揺波にとってその意匠は、今まで瑞泉が繰り出してきた理不尽な攻撃に、ある悪夢のような説明をもたらすのに十分なほど示唆的であった。
揺波は、分かっていたはずだったのに、その理解でも不十分だったのである。
これが、ただの戦いであるということを。
この世を覆そうとしている者に、予断を持ってはならなかったのだと。
「そうだ。これは君の想像通りのもので違いない」
見せつけるように胸を開いてみせた瑞泉は、
「知っての通り、複製装置はメガミの力を引き出すことのできる道具だ。君が使われたことがあるのは……<雫>に<滅>、それに<焔>といったところかな。ああ、架崎と浮雲を忘れていた。<空>に<雷>、それと<氷>もだな」
「…………」
「私は、それらの複製装置を扱うことができる。同時に、だ。正確には、それら『も』と言うべきだな。<護>、<巌>、<力>、<算>、<顎>、そして<忍>……計十二の複製装置を適切に連結し、内包したこの鎧があれば、私はその全ての力を使いこなすことができるのだよ」
そして、彼は告げる。
「これぞ名付けて、
優越感に浸る瑞泉の言葉は、揺波にとって絶望の追認でしかなかった。一人を相手にするミコトにとって、想定外のメガミの技はそれだけで脅威である。それが十二柱分ともなれば、苦境は筆舌に尽くしがたい。
その数のメガミが被害を受けているという現実は、揺波がここに立っている意味をさらに強めるものだ。けれど、どれほど背中を押されようとも、流れた涙の分だけ敵が強大になっている事実は変わらない。
まだふらつく身体の回復を待つように、揺波は疑問を投げかける。
「それも、クルルってメガミが、作った……ものなんですか」
深く考えず、湧いた言葉をそのまま発しただけの問いに、瑞泉は失笑を漏らした。
「この鎧はな。瑞泉の技術の粋を集め、クルルの閃きを分析し、そして私が最大限に活用できるように作り上げたものだ。メガミからの幸を待っているだけの我々ではない。侮ってもらっては困るな」
「…………」
てっきり、発明のメガミとやらが全ての謎の現象を生み出しているのだと思っていた揺波は、敵ながら瑞泉のことを評価せざるを得なかった。
彼女には複製装置自体の使い勝手は分からない。けれど、特異な状況とはいえ最近ようやく二柱の力をそれなりに扱えるようになった経験から、複数のメガミの力を使いこなすことを容易いと断ずることはできない。
彼もまた、天才であり、努力を重ねた達人ーーそう、認識を改める。
「で……もう終わりか?」
歩を進め、窓からの景色を眺める瑞泉の声は、せせら笑うそれだ。それに混じっていささかばかりの期待が込められているのを、揺波は感じ取っていた。
待っていてくれるのであれば、それでいい。
いくら下に見られようとも、息を整える時間には代えられない。
結果こそが全てなのだから。
「まだ……まだっ……!」
回答と、次の神代枝が砕かれたのは同時だった。
斬華一閃を手中に顕現し直し、屈んだ体勢から弾かれたように飛び出した。
「そうこなくては!」
愉悦を表す瑞泉が手を掲げる。それを合図として、彼の背後からいくつもの氷の礫が揺波へと吹き付け始めた。指先ほどの大きさからこぶし大のものまで、険しい北の吹雪よりもなお険しい道程が、彼女の前に広がった。
小さいものであれば、当たろうが無視するだけだ。けれど、堪えるには大きすぎる氷塊には回避を強要され、思うように前へと進めない。
さらに、胸元に迫った礫を、刀を小さく合わせて断ち切ろうとしたときである。
礫がいきなり軌道を変え、揺波の腹部に突き刺さった。
「う、ぐ……!?」
「計算外という顔だな?」
見れば、雹の届かない遠くに佇んでいた瑞泉は、その手に持った算盤を弾いていた。
指が珠を弾くたび、氷の礫がぐにゃりと進路を変える。なまじ視認できる速度だからこそ追っていたそれらが揺り動かされ、回避と防御の狭間で脳が悲鳴を上げ始める。
結局、眼前に斬華一閃を掲げ、意識を脅かす致命的な一打だけを防ごうとするも、計算を狂わせる珠算がある限り、状況を覆すための一手を計算することも難しい。
そして、刀では防げない脚へと礫が迫ったときだ。
無理やり前方への脱出を図ろうとした揺波は、視界の端できらめく何かを見咎めた。
「ーーっと……!」
「惜しい」
差し込む月光を受け、足元で怪しく光るのは、極細の鋼線で編まれた迷宮。
結晶の盾も構えずに勢いよく一歩を踏み出そうものなら、脚をずたずたに切り裂かれているところであった。味方を罠に巻き込んでは本末転倒だ、と忍の里で見せてもらっていなければ、気づかず術中にはまっていただろう。
もちろん、回避を中断した揺波の脚を、前進する意志をくじくように硬い氷塊が打ち付ける。
「い、っ……」
肩代わりされてなお襲ってくる鈍い痛みに、けれど揺波は乱された先を見出していた。
割合あっさりと至近を許した先ほどまでとは打って変わって、今の瑞泉は近づくことすらも許さないような立ち回りを演じている。それを叶えるだけの豊富な攻撃手段には舌を巻くしかないが、その変化が揺波にとっての鍵だった。
焦り。保身。
からかって野良犬に手を出したら、噛まれてしまったような、そんな心変わり。
怯えるほどではないのだろう。けれど、疎んではいる。
危険を自ら招くことを思いとどまった彼の真意ーーそれは、その危険が命を脅かす、取り返しのつかない失敗の元であると認識したためだ。
海玄同様、彼もまた、その身を守る桜花結晶を持たない。
どれだけ多くのメガミの力を扱えたとしても、斬りつけられれば死が待っている。
見た目よりも遥かに遠くなった彼我の間合いは、そのまま瑞泉の命の残量だ。
近づいて、致命の一撃を浴びせるーーそれが唯一にして最短の解である。
揺波の本能は、それ以外の一切を切り捨てることを、己に許した。
「斬華六道・羅」
それは、自分への号令のようなものだった。
今まで氷の礫に耐えながら、鉄の糸をいかに越えようと画策していた揺波が、目の前に広がった困難を断ち切るように、虚空を両断した。張力を失った鋼線がゆらめき、力なく畳へ落ちるが、宙に渡った細い光がなくなることはない。
だが、
「斬華六道ーー餓」
斬華一閃を正眼に構えた揺波は、そのままの姿勢で前へ飛び出した。
残った鋼鉄の糸に己の脚を引き裂かれても、構うことなく。
軌道を変えて横殴りに飛来した氷の礫に打撃されても、構うことなく。
天音揺波の桜花決闘は、勝利への道筋があるのなら傷を負うことも躊躇わない、そんな執着を体現する戦いである。
しかし、これはもはや、決闘に勝つための戦い方ではない。
ただただ目の前の敵を斬ることだけに特化した揺波は、己の内で燃える意志を賭すために、保身のための計算すらも打ち捨てていた。
勝利という結果ではなく、斬り伏せるという目的にこそ、全神経が注がれる。
「む……」
変化を捉えたのは瑞泉もまた同様だった。淡々と猛進の足音を刻む揺波の気迫に、思わず表情を歪める。
彼は礫の弾幕では不十分と見て、背中に生やした翼で宙へ浮かぶ。さらに、周囲に水球と黒い霧が出現し、それでも足りないと見てか、両側面に角を生やした、護りの象徴たる桜色の兜までをも顕現させる。
瑞泉の判断は、正しい。
今の揺波は、どれほど妨げられようとも、止まることはない。
「ああぁぁぁぁッ……!」
すぐにやってくるであろう痛みを覚悟するように、雄叫びを上げながら揺波は躊躇することなく瑞泉の守護領域に飛び込んでいく。
まず、文字通り冷や水を浴びせるように、水球が揺波に向かって弾けた。ただ、彼女を襲ったのは刺すような冷たさではない。じゅう、という音が身体のあちこちから生じ、結晶で負担しきれなかった皮膚がひりついた痛みを訴える。
酸の飛沫を抜けた矢先、次は黒い霧が彼女の腕にまとわりつく。込めていた力が、霧散してしまうかのように端から気力ごと抜けていくようだ。
一気に前へ跳躍することで振り切るが、瑞泉へ肉薄したにも関わらず、一拍、斬華一閃を振るう手が遅れる。
羽ばたき、剣戟を避けた瑞泉は、ついでとばかりに今一度大きく翼を動かした。
「ふんッ!」
「……っ!」
生み出された強烈な風が、獲物を捉えそこねた揺波を押し返そうとする。
しかし、そこで踏みとどまった揺波は、跳躍と共に鋭い突きを瑞泉の顔めがけて繰り出した。
「あァッ!」
高低差を物ともしない神速の一撃に、体捌きを満足に行えなかった瑞泉は、高度を下げながら顎を引くことで、切っ先を兜のある頭へずらすことを選択した。硬い感触に弾かれた斬華一閃が、誰もいない天を向く。
加えて瑞泉は首を捻り、角に斬華一閃の刀身を巻き込んで床へ叩き落とそうとする。
けれど、突然揺波の得物は、光と散った。
「……!」
わざと還した顕現武器を見送る間もなく、無事着地した揺波。その間際、もう一度顕現させなおした彼女の目は、瑞泉をーー彼に浴びせる一太刀を、もう見据えていた。
高度を落とした瑞泉に覆いかぶさるように、揺波は再び跳び上がる。
繰り出すのは、いくつもの勝利を得てきたあの技。たとえこれが決闘ですらない、泥にまみれるような戦いであろうとも、切れ味に不安があろうはずもない。
「つき、かげっーー」
生まれて初めて、ただ斬るためだけに、刃は振り落とされた。
「おとおぉぉぉぉしッッ!!」
対し、
「チッ……!」
瑞泉の兜がさらに光を強め、彼を囲む光の城壁が即座に展開される。回避不能と判断した彼は、真っ向から防御することを選んだ。
壁は、揺波の刀を受け止めた。
一瞬の静寂の後、衝突の余波が四方八方に撒き散らされ、爆発したかのように部屋の調度や畳、天井が吹き飛んでいく。
「ううぅぅぁぁぁッッッ!!!!}
「ぐ、ぐぅ……!」
爆心地での拮抗は続く。刃は、確実に壁に食い込んでいた。
最初の衝撃の余波を耐えきった双方だったが、両手で叩き込むように刀を押し込む揺波のほうが、重さを威力に転じられる分有利だった。無論、己の力を、そしてメガミの力を燃やし尽くさんと刃に乗せた爆発力は、高さ程度に左右されるものではない。
もはやそれは、斬るというよりも、力をぶつけると表現するべき一撃だった。
真っ直ぐに放たれたそれが、瑞泉の守りをじり、じり、と粉砕していく。
そして、ダメ押しとばかりに意気を込めた。
「はぁぁぁ……ーーァァァッ!!」
「な……!」
光の城壁が、崩れ落ちた。
威力の大半を減衰させられながら、守りを打ち砕いた斬華一閃のその向こうに、むき出しになった瑞泉の顔がある。
「くそ……!」
地に引かれるように吸い込まれていった刃は、咄嗟に出された瑞泉の左腕によって致命の一撃とはならなかった。篭手の部分に据え付けられていた歯車たちは、主の身を守るようにして破壊される。
ただ、繰り出した月影落の威力はそこで全て使い果たしてしまった。腕を断ち切って胴に届かせる余力はもうなく、揺波の身体はあとは無防備に着地するのみとなった。
そこを見逃す瑞泉ではない。
すぐさま鉄拳を右手に顕現させた彼は、邪魔だとばかりに城壁の残骸を踏みしめ、揺波の腹部を目一杯の力で殴り上げる。
「はァッ!」
「ごっーー」
打点をずらすこともろくに叶わなかった揺波は、自分の結晶が全て吹き飛んだことを悟った。衝撃に、打点から身体が浮き上がり、打ち払われた斬華一閃が消滅する。
けれど、揺波の瞳から光が失われることは、やはりない。
この好機に、彼女の意志が叩き潰されることは、ない。
強靭な意志をもって、両の脚をしかと床に着けた揺波の手は、迷うことなく次の神代枝を砕いていた。
懐から抜き払うように掴み取った斬華一閃を手に、
「やあぁぁァァァッ!」
全力の守りを打ち砕かれた瑞泉へ、斬りかかる。
……それで、終わるはずだった。
「……!?」
大上段に振り上げた手が、動かない。
後ろから、腕に巻き付けられた縄のようなもので、引っ張られているような感触。
「やれやれ……その執念、恐ろしいにも程がある」
冷や汗を流す瑞泉が、その言葉と共に深く息をつく。
揺波の手には、影の茨が巻き付いていた。
この城に到着するなり、襲ってきたあのメガミの茨が、腕に、身体に、脚に、瑞泉への進撃を妨げるかのように、絡みつく。
「ウツロに力を貸しておいてもらって助かったな。この鎧でもまだ足りないとは」
「はな、してっ……!」
「だが、それももう終わろう」
す、と掲げられた瑞泉の右手が、天を指す。
衝撃波によって崩壊していた天井を越え、その指先は、星空の中、次第に集まってきた黒い雲を示していた。
「天雷よ」
それは、天の怒りを示すように。
それは、天の嘆きを示すように。
雷鳴轟く暗雲から、数多の雷撃が揺波へと落とされた。
「が、あぁ……」
己の内側から何度も焼かれるような痛みと痺れに、結晶の絶対的な不足が脳裏をよぎる。神代枝を使ったばかりだろうと、このまま打たれ続けては、心の前に身体が焼ききれてしまう。
必死の抵抗で後ろ手に茨を何本か断ち切る揺波。そしてすぐさま、神代枝を納めていた帯の中へと手を伸ばす。
「ーーーー」
絶句。
さらなる守りを求めて伸ばした手が、あの感触を得ることはなかった。
与えられた神代枝は、すでに使い果たしてしまっていた。
「ははは、ははははッ! 万策尽きたか、天音揺波……!」
その哄笑に見返す手段はない。
頭上で轟く雷鳴が、彼女の終わりの刻を告げているようだった。
急な制動によって速度を得た剣の鞭が、空間を食い破るように現れた影色の壁に吸い込まれていった。
悠々と攻撃を無力化したウツロが大鎌を振るえば、威力がそのまま飛来する影の刃という形となって、サリヤへと襲いかかる。
「く……ぅぁッ!」
無理やり舵を切って、地を這う刃を紙一重で躱す。
サリヤの息は荒い。蛇のような姿に変形したヴィーナ自身の兵装のみならず、自らも剣ととって傷を負わせようと試みていたものの、実態はこのような一方的な展開の中、辛うじて踏みとどまっているというのが現状だった。
千鳥も佐伯も倒れ、ジュリアを下ろすという非常手段に出てもなお状況が好転する兆しは見えない。遠くから破壊を撒き散らすウツロに対して逃げ回り続けるのは至難の業で、背後に負傷者がいては行動はさらに制限される。
あとはもう、サリヤの体力が尽きるのを待つばかり。
さしものジュリアも、倒れる佐伯の傍で絶望に瞳を濁らせ始めた、そのときだった。
「ここは私がーー」
突如、風のように場を駆けた白と青で彩られた人影が、ウツロへと肉薄する。
大鎌の柄に抑えられたその一薙ぎは、八相の構えから振り落とすような薙刀によるもの。
「お相手、します……!」
激突による衝撃が場に広がり、ギリギリとした膠着が生み出される。
闖入者たるサイネに、緩慢な動きでウツロの視点が移された。
「メガミ……? 面倒。でも……」
形を持たない鎌の柄を、ウツロの小さな手が、さらに強く握りしめられる。
「負けない……!」
「望むところですッ!」
注目を引きつけられたと悟ったサイネは、一撃を防いだ柄の上で刃を素早く滑らせ、刀身側を握っていたウツロの右手を離させる。そこから振り戻した刃を間断なく繰り出し、ウツロを攻撃の渦中に縛り付けた。
と、突然の出来事に理解が追いついていないサリヤに、場違いに能天気な声が呼びかける。
「サリヤさぁーん!」
「ヘイタくん!? じゃあ……!」
腕を抑えながら駆けつける楢橋に先行して、忍装束に戻った千影と藤峰が負傷者の運搬と手当にあたる。予定されていたメガミ救助班の面々が、援護として到着したのだ。
主が気が気でなかったサリヤは、ウツロと激しくぶつかりあうサイネをよそに、ジュリアの下へとヴィーナを走らせる。疲れから、安堵なのか、制御しきれずに一同の集まった傍にある塀に機体の端を軽くぶつけてしまう。
そんな彼女の様子を見て、千影が蓋のついた小さな竹筒をサリヤに投げて渡す。
「飲んでください。気休め程度ですが」
「あ、ありがとう……」
「ほら、千鳥も。寝てたら巻き込まれて死にますよ」
朦朧とした意識の千鳥の口へ、薬液を無理やり突っ込む。同じような有様になっていた佐伯は、千鳥よりは軽症のようで、増えた面々にきちんと焦点を合わせ、薄く微笑んでいた。
そんな中、現れた希望にすがりついたのはジュリアだった。
「カミシロノエは……カミシロノエは、アリマセンカ!?」
結果を見守ることしかできなかった彼女は、ぼろぼろになった従者たちに心を痛めていた。その痛みが、状況を少しでも改善できる力を持つ、己の生み出した道具を求めて止まない。
だが、言い寄られた藤峰は、首を横に振った。
「エ……」
「すまない、こちらもなくなった。ただ、メガミを一柱、救出に成功した。助力も快諾してくれた」
藤峰の険しい視線は、奮戦するサイネへと移り、そして天守の頂へと注がれた。
「どうにか時間を稼ぐしかない。天音の勝利を祈って……」
「ソンナ……」
か細い希望に顔を伏せるジュリア。メガミの助けが得られても、ウツロの強さを目の当たりにしてしまった彼女は、決して現状を楽観視できない。謳われし存在としてウツロを認識する藤峰たちであればなおさらである。
ただ、首の皮は一枚だろうと繋がっている。彼らの勝利条件は、ウツロの打倒ではなく瑞泉驟雨の打倒なのだから。
そのためには、捨て身の覚悟でウツロを止める必要も出てくるだろう。
だが、
「がッーー」
そんな決意を挫くように、空色の矢が一本、藤峰の右の太腿に突き刺さった。
被弾の衝撃に藤峰が倒れ、苦悶の表情を浮かべる。血管を著しく傷つけたのか、鮮やかな血が傷口からわらわらと溢れ出してくる。
「あ、ぐぁ……!」
「キャァァッ!」
目の前で血を見たジュリアの悲鳴をよそに、武器を持つ者は臨戦態勢に移る。
その中でも千影は、矢の特徴に忌々しげに舌打ちを一つ鳴らすと、油断なく苦無を構えながら上空を見上げた。
「浮雲……!」
「相変わらず不景気な面晒してるじゃない、闇昏」
夜空に映える、空と桜を混ぜ合わせたような色合いの翼。矢を放った残身をゆるりと解きながら、その場で羽ばたく浮雲は千影を見つけて嘲笑う。
その余裕は、決して高度の差だけから来るものではなかった。二人、三人、と同じ翼を生やした者たちが、空を駆けて浮雲に並び、手にした弓に空色の矢をつがえる。
「うそ……。だって……!」
呆然とするサリヤの目には、外側から風を纏って塀に乗り上げてきた男たちの姿が映っていた。
増援。援軍。
土石流によって兵力を分断したこの作戦は、その妨害を敵軍が乗り越えるまでの時間で決着を着けることが大前提であった。少数精鋭の侵攻は、隠密行動と小回りのよさに利点を置くが、多勢に無勢という状況だけは避けなければならなかった。
だが、浮雲の率いてきた兵たちは、着実にその数を増やしている。大軍というほどではなく、足の速い限られた人員であることは予想できるが、それでも手負いでメガミの力もないサリヤたちを制圧するには十分と思われる数である。
そして何より、一度決壊した堤防は、その亀裂から洪水を吐き出すもの。
奇襲によって稼いだ優位は、もう失われ始めていたのだ。
「ち、ちちちち千影ちゃん? お知り合いなんだったら、せめてオレっちだけでも見逃させてくれない……?」
「…………」
黙殺する千影の目がせわしなく動く。目的を果たしきれていない彼女に、この現実はあまりに酷だった。
そして、
「……!?」
天が唐突に唸りを上げ始めたかと思うと、ガガッ、ガガッ、と稲光が轟音と共に千影たちの目を焼いた。
天雷は、瑞泉城の頂に降り注いでいた。
痛みに歪んでいた藤峰の顔が、なお蒼白なものと化す。
月明かりに浮かぶ、浮雲の壮絶な笑みが、声に出さずとも彼我の関係を物語っていた。
絶体絶命にして、唯一の希望も光に焼かれた。
誰もが言葉を失い、降りた沈黙に、遠く、メガミ同士の剣戟の音だけが慰みのように響いていた。
しかし、このような絶望の中で、密かに笑みを湛えていた人物がいた。
哄笑を響かせる瑞泉でも、獰猛に笑う浮雲でもない。
この場において、その笑みに気づいた者はおそらくいなかっただろう。
そして、彼だけが、その声を聞いていた。
「機は熟しました。今がその時」
最初に反応したのは、人の理を超えた二柱。次いで千影と浮雲が反応し、後の者は彼女らの動向を追うようにそちらへ目を向けた。
その刹那ーー
轟、と。
世界が壊れるような音が、全員の身体を震わせた。
命を取り合うような泥臭い戦いに、反則も何もあったものじゃあない。
無敗で知られる天音揺波も、十二の力の前にはこうして膝を折った。
瑞泉驟雨は決して大言壮語を吐いていたわけではなかったということさ。
こうして彼女らは敗れ、物語は絶望で終わった。
――と、締めくくるのはまだ早いようだね。戦場に響いた轟音は、果たして……?
語り:カナヱ
『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
作:五十嵐月夜 原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME