『桜降る代の神語り』第63話:影の中枢へ

2018.09.07 Friday

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     闇昏千影らのひとつの戦いが終わった以上、もうひとつの戦場へと舞台が移るのは必然だ。
     しかし、先程垣間見せた危機……そこから物語を紡いでも難解に過ぎるというものだろうね。

     

     ここはひとつ、時を遡るとしよう。
    闇昏千影らが研究所へと潜入してからおよそ一刻ーー天音揺波らが瑞泉城へと到着したそのときから始めるとしようか。

     


     空に、怪鳥が舞っていた。
     立派な双翼を生やしたヴィーナは、揺波たち五人を乗せて夜の空に威容を示していた。とはいえ、人気の少ない河の方角から飛んできたこともそうだが、非常識極まりない謎の飛翔物相手に地上が騒がしくなるということはなかった。
    だが、誰もが見間違いで済ませようとした怪鳥は、瑞泉城の敷地へと突き刺さるような姿勢で、地面に引きつけられつつあった。

     

    「みんな備えてッ!」

     

     大気を裂く音に負けじと声を張り上げるサリヤに、ぎゅっと抱きつくジュリア。後部の臨時座席に残りの三人がしがみついている状況だが、地面への進入角度の深さは軟着陸とは程遠い。
    もはや激突待ったなしの状況で、真っ先に飛び降りたのは揺波だった。そこに顔を青くした千鳥と佐伯が続き、各々土に塗れながらも大地に立つ。
     そして僅かに遅れ、ガンッ! とヴィーナの車輪が地面に打ち付けられた。

     

    「……っ!」

     

     着地の衝撃は、間に合わせでしつらえた後部座席を破壊し、勢い余って地面に着いた翼の先端をばらばらにしてしまう。しかし、乗っていたサリヤとジュリアが投げ出されることもなければ、ヴィーナ本体はサリヤの求めに応じて、きぃと叫びながら車輪の回転を必死に押し留めており、あっという間に速度を減じさせていた。

     

    「大丈夫だった!?」

     

     瞬く間に体勢を立て直したヴィーナを駆り、生身で降りた三人の下へと近寄る。ジュリアは衝撃に頭を揺らされたようで、サリヤの背中でややぐったりとしていた。ガシャリ、ガシャリ、と軋みを上げながら、翼が元の位置に格納されていく。
    最も土汚れの少ない千鳥が、冷や汗をかきながら、

     

    「あの、なんというか、もうちょっと優しい感じに着陸とか、できたら嬉しかったなーなんて……」
    「ごめんなさいね。ここまでの運用をしたのは初めてだったから……」
    「あ、いや……! みんな無傷みたいだし、それだけで十分ですよ! こうして、予定通り城に乗り込めたわけだし」

     

     そう言う千鳥が見上げるは、敵の居城であった。
     一行が降り立ったのは、城へと続く門の前の広場であった。塀に囲まれているという圧迫感こそあるが、人間を百人単位で並べられそうなほど広い空間だ。今は衛兵の類の姿は見えず、降り立った五人だけである。

     

    「すぐに誰かが駆けつけてくるでしょう。急がないと」
    「ですね。目の前に降りられてよかっーー」

     

     佐伯の言葉に同意する揺波であったが、突然その言葉を自ら遮った。
     そして佩いた刀に手をかけると、

     

    「……! 避けてッ!」

     

     

     短い警句を発し、遮二無二その場から離れようと駆け出した。他の者も、揺波に従って即座に散開する。急発進したヴィーナの唸り声だけが、一行から上がった悲鳴のようだった。
     揺波が感づいた現象は、足元から発露していた。地面に落ちた夜闇から溢れ出した影色の茨が、生ある者を中に引きずり込もうとするように揺波たちに追いすがっていたのである。

     

    「な、なんだこれ……!?」

     

     塀の上に退避した千鳥は、それでも延々追ってきた茨がようやく諦めた様子を見て、不本意にも荒げた息を整える。
    結果として、茨に飲まれた者はいなかった。走って振り切ることができる程度には、この空間が広かったのも幸いだっただろう。斬っても手応えのないそれに、揺波もひたすら距離を取る他なかった。

     

     と、唐突に湧いた敵意ある現象に喘ぐ中、佐伯の口からこぼれ落ちたそれは、絶望であった。

     

    「最悪だ……」

     

     彼の視線の先にあるもの。
     それは、影だった。
     薄く開いた大きな門から、身を滑り込ませるようにして姿を晒していたのは、人の形をした影に灰をかぶせたような少女。その特徴はもとより、夜闇の中にあってなお、門の篝火に淡く照らされてもなお、目を離すことができないほど重くのしかかる圧は、彼女の正体を皆に悟らせる。

     

     ウツロ。瑞泉に与する、強大なメガミ。
     作戦中最も恐るべき障壁が、今ここで現れたという事実に、揺波たちは息を呑んでいた。

     

    「うそ、だろ……だって……」

     

     呆然とする千鳥。ウツロという大きな脅威に対しては、オボロが何かしら対処の手配を進めているはずだった。だが、札がまだ切られていないのか、それとも無駄だったのか、判然としない中でなおさら後ずさる足を止めることはできない。そしてそれは、サリヤの乗るヴィーナもまた同様だった。
     初めてメガミの威圧感に晒されたサリヤは、背中の主をウツロから隠すよう、咄嗟に向きを変えながら後退させた。自然と佐伯に並ぶ形となったが、彼は小さく震える指先で眼鏡の位置を直していた。

     

     存在するだけで気圧されるというのに、とつ、とつ、と歩いて向かってくるウツロの姿は悪夢でしかない。不幸なのは、これが現実の出来事ということ。一同は恐れから、それぞれ得物を構える。


     あとはただ、蹂躙の開始を待つばかりーーそう、誰もが覚悟していた。
     たった一人を除いては。

     

    「天音……!?」

     

     驚愕する千鳥の視線の先で、揺波は彼とは逆に、一歩を踏み出していた。
     千鳥が声を上げた理由はそれだけではない。
     揺波の刀は地面を向き、戦いに挑む気迫は欠片も見当たらなかったのだ。

     

    「ウツロさん、ですよね」

     

     静かで、およそ敵に対するものとは程遠い、語りかけるような声色。その誰何に、ウツロは立ち止まり、ややあってから僅かに首を縦に振った。
     以前とは違い、少しでも反応があったことにほっとした揺波は、

     

    「あのときは、結局答えてくれませんでしたね」
    「…………」
    「どうして、こんなことに手を貸しているんですか?」

     

     古鷹の舞台での邂逅。そのときに投げかけた疑問を、もう一度繰り返す。

     

    「そんなこと訊いてる場合じゃーー」

     

     やきもきしていた千鳥が一見無駄な揺波の行いを止めようとするが、それに佐伯が静止の手を向ける。揺波はそんな彼らに目礼する。
     その様子も、ウツロはただ黙って眺めるだけだった。
     揺波はさらに、言葉を重ねる。

     

    「ウツロさんが瑞泉に手を貸す理由だけが、どうしても分かりませんでした。酷いことを喜んでやっているようには見えない。でも、嫌々従ってるようにも見えない……ぽわぽわちゃんも、わたしも、ウツロさんが悪いメガミだとは感じられないんです」

     

     自らの内に宿る幼きメガミと意志を共にするように、緩く握った左手を胸に当てる。
     そして、真っ直ぐな問いを、彼女へ向ける。

     

    「ウツロさんは……何が、したいんですか?」

     

     それが、揺波がウツロを知るための道の途中、何故、を考えた果ての行き止まりにあった疑問だった。
     じっ、とウツロは変わることなく無感情なまま、揺波を見返していた。
     はっきりと。己に向いたその意志を、揺波の瞳の中に見出すように。

     

     ただ、それも長くは続かない。
     揺波から目をそらしたウツロは、そのまま目を伏せてしまった。初めて揺波が目にした、もっともらしいウツロの意志であったが、なんと声をかけたらいいものか迷ってしまう。
     と、

     

    「……ない」
    「え……?」

     

     闇に溶け込んでしまいそうな小さな声を、揺波の耳が捉えそこねた。
     ウツロは目線を落としたまま、今度はもう少しはっきりと、言葉を作った。

     

    「私は、ないの。何も、ない。空虚。私がしたいことは……何もない」
    「何もない、って……」

     

     予想外の答えに詰まる揺波。
     しかし、「でも」と続けたウツロは、前掛けの端を甘く握りながら、

     

    「負けたらだめ。それだけは、感じる」

     

     相手や具体性に欠けた物言いに、揺波は戸惑いながらも問いを重ねていく。

     

    「負けたら、って……何に、どうして……?」
    「分からない。でも、私が言ってるの」

     

     何故だろうか。ウツロの示す自身は、どこか自分とは違う誰かを指しているように聞こえた。

     

    「負けるのは嫌。負けるのは怖い。もう……私がなくなるのは、嫌……!」

     

     

     ぎゅっと、その手が握りしめられる。それは、今までの彼女の態度からは想像できないほどに強い、感情の発露と言って相違なかった。
     万人を恐れさせる側の存在が、恐れを抱いている。その事実は成り行きを見守っていた佐伯からして感覚を裏切られたようで、眉をひそめて疑いの視線をウツロへと注いでいた。

     

     一方で、揺波が作ったのは、笑みだった。
     分かりあえるものが見つかったという、安堵の笑みだ。

     

    「負けたくない……分かります。わたしも負けるのは嫌です。今までずーっと、決闘で負けてきませんでした。これからもずーっと、勝ち続けたい……負けたときのことなんて考えられないくらい、わたしも負けたくなんてないです。一緒ですね」

     

     共通項を頼りに、対話を続けていく。ウツロへの理解の先には、手と手を取り合う未来だってありえる。現状の悲惨さを憂う気持ちはもとより、ホノカと交わしあったウツロへの印象は、瑞泉に与しないよう説得できる可能性を無視できるようなものではなかった。
     だが、

     

    「……話しすぎた」

     

     緩く頭を振ったウツロは、拒絶を形と成した。
     飲み込まれそうな敵意と共に、彼女の手に影の大鎌が現れたのだ。

     

    「だから、ここでも負けられない。……消えて」
    「……わたしだって、負けませーー」
    「馬鹿か天音! 貴様が張り合ってどうする!」

     

     今度こそ、佐伯が揺波を止めに入った。勝ち負けが示す結末を想うまでもなく、付け加えられた物騒な台詞は武器を構え直す理由としては十分すぎた。
     経緯も理由もどうあれ、目の前のメガミは敵。
     結局、その現実は変わらなかったのだ。
     そして何より、ここはまだ大命を遂げるための道中なのである。

     

    「そ、そうだよ! ここで天音が消耗しちゃうのは流石にまずいだろ! 瑞泉のために温存させないと……」
    「で、でも……」

     

     千鳥の意見は、ウツロ相手に足止めを買って出ることを意味している。
     逡巡する揺波であったが、サリヤたちも千鳥に追随するように、

     

    「ユリナちゃん、ここは私たちに任せて!」
    「先行ってクダサイ! ダイジョブです!」

     

     計画通り、最も高い戦力を誇る揺波を大将の下へ送るべく、戦闘能力を持たないジュリアでさえも、重圧に負けないようウツロに敵意を向ける。
     揺波の逡巡は、大局に向け直された意志に飲まれ、消えていった。

     

    「はいっ……!」

     

     ウツロから大きく距離を取るように、門へと駆け出す揺波。幾ばくかの名残惜しさを覆い隠すように、警戒心を最大にまで高める。それを援護すべく千鳥たちは身構えた。
     けれど、千鳥の構えた苦無が、宙を裂くことはなかった。
     ウツロは、動かなかったのだ。

     

    「え……」

     

     不思議に思いながらも、無傷で門の向こうへと消えていく揺波。
     それを背に見送ってか、ウツロは残る四人に向き直る。

     

    「アマネユリナは、いい。でも、あなたたちは、通せない」

     

     門を遮るように立ち位置を変えた彼女は、その体躯とは対照的に、圧倒的な存在感を持つ門番と化した。

     

    「忍、覚悟は決めたか?」
    「なーに、これでも子供の扱いは慣れてるんだ、任せてくださいよ」

     

     煽る佐伯も、軽口を叩く千鳥も、謳われしメガミを前にして口は全く笑っていない。
     それはサリヤも同様だったが、ジュリアだけは心なしか口端が歪んでいた。

     

    「サリヤ、出し惜しみムヨウです!」
    「はい……! ――I AM THE SERPENT, I CURSE YOU...」

     

     サリヤの操作に応じるように、光を孕むヴィーナ。先程までのように翼を生やすのではない。光に包まれているのはヴィーナの前半分と後部座席である。
     うつ伏せになった人間が膝立ちになるかのように、前輪が軸を折り曲げるように中心にまで移動し、代わりにサリヤたちの座席が鎌首をもたげるかのように持ち上げられる。そして後部座席は、爬虫類を思わせる尻尾のように伸ばされていく。

     

    「TRANSFORM FORM:NAGA!!」

     

     宣言と同時、突き出た操縦席の前面が、双眸のように赤く光る。

     

    「…………」

     

     しかし、それでもウツロは動じることはなかった。
     戦力にして、一柱対三人。
     どれだけ武装を揃えようとも、その対比が意味するものは、無謀。

     

    「ん……」

     

     ウツロの手にした鎌が、希望を刈り取る形となって、四人に向けられる。

     

     

     

     

     


     抜刀したまま城内を進む揺波だったが、その刀が振るわれることはなかった。
     人が、いないのだ。

     

    「こっちかな……」

     

     気配がないわけではない。けれど、敵陣に突入した段階になって、行く手を阻む者が一向に現れないというのは不気味ですらあった。来たこともない大きな城ということもあり、差し込める月明かりといくらかの行灯だけという薄暗さも相まって、抱えていたはずの強い意志が端から少しずつ削れていくようだ。
     上階にいると目される瑞泉は、襲撃を冷静に受け止めている節があるように揺波には思えた。ウツロが通してくれたこともそうだが、どうにも誘われているようでならないのである。

     

     揺波を招き入れる理由ははっきりとしている。揺波が宿すホノカーー瑞泉曰く、ヲウカの力を手に入れるためだ。彼が古鷹の亡骸を前に語った内容は、未だ揺波の中で消化しきれていないものの、彼の究極の目的のために必要とされていることだけは理解している。
     万全の状態で瑞泉と会敵できれば最上だ。けれど、たとえそれが叶ったとしても、だからこそ一筋縄ではいかないような気がするのである。

     そんな不安を抱きながら、階段を一つ上りきったときである。

     

    「ようこそ、天音の娘」
    「……!」

     

     いきなりかけられた声に、咄嗟に刀を向ける。
     その先ーー大人が二人、並んで両腕を広げてもなお余裕がありそうな廊下に、枯木のような老人がぽつんと佇んでいた。薄闇ということもあって、どきりとしてしまう光景である。
     紋付袴姿の彼に、揺波は見覚えがあった。ただ、大家会合で見たことがある、というところまでしか思い出せず、次第に眉をひそめていく。
     そんな彼女の様子に、かか、と笑った老人は、

     

    「まともに覚えとらなんだか。ーー儂は瑞泉海玄。息子の驟雨が世話になっとる」
    「あ、はい……天音揺波です」

     

     一応名乗り返す揺波は、少しばかりやりづらさを覚えていた。
     海玄は、確かに彼女の行く手を阻むように立ちはだかっている。けれど、今にも飛びかかってきそうな気迫は感じられない。しかし一方で、それをただ、老人だから、の一言で済ませられない剣呑な空気だけが、揺波に刀を構えさせている。

     

    「あの……通してもらえたりは……しませんか?」

     

     ウツロの例もあり、期待がなかったかというと嘘になる。
     ただ、海玄はその問いをまるっきり無視し、

     

    「儂はな。これでもメガミ様は敬うべき存在だと思うとる」
    「え……」
    「なんだその意外そうな顔は。まあ、言いたいことは分かる。驟雨のやつがやっていることは、罰当たりも甚だしい。メガミ様に害をなすなぞ遺憾の極みよ。よもや儂がそれに加担する日が来るとは思わなんだ」

     

     だが、と海玄はほくそ笑んだ。

     

    「儂は敬虔なメガミ様の信徒である前に、一人の父親だ。息子が野望を成り遂げようとしている姿を、どうして夢見ずにいられようか!」
    「な……!」

     

     絶句する揺波。その価値観の差は、嗤う海玄との間で明白だった。

     

    「そ、そんなことでみんなを……!」
    「そんなこと? おぉ、おぉ、よりにもよって天音の者に謗られるとは。近年稀に見る野心家だった天音がなあ」
    「わ、わたしは、別に……」

     

     否定する揺波に、海玄は口端を吊り上げる。

     

    「何も揺波、お前さんのことを言ってるわけじゃあない。今は父親の話をしているんだ。……そう、時忠殿だ。ある意味、あやつも儂と同じだったと思わないか? 野心はあった、だがそれ以上に……揺波、お前さんの才能に夢を見ていたんだよ、あれは」
    「違う……お父様を、あなたたちなんかと一緒にしないでっ!」
    「くかかかっ!」

     

     挑発だということは理解できていた。けれど、海玄の言葉に真意しか含まれていないこともまた、理解できてしまっていた。
     もはや言葉を交わすことは無意味だった。ウツロにはまだ希望があったが、海玄は違う。あまりに違う方向を向いている以上ーーいや、自身というものを横に置いてなお、瑞泉驟雨が目指す先を見ようとしている以上、戦いは避けられそうにない。

     

     しっかりと、切っ先を海玄へと向ける。いかに枯れた身体であろうとも、若手のミコトをなぎ倒す老齢のミコトなんて珍しくもないのだから、見た目で油断することはできなかった。
     けれど、海玄はその構えに待ったをかけた。

     

    「奥の手、あるんだろう? 使っておいたほうが懸命だと思うが」

     

     そう言うと海玄は、羽織を脱ぎ捨てる。
     その下に現れたのは、両腕に取り付けられた複製装置であった。骨ばった腕のせいで、まるで歯車が回るたびに活力が吸い上げられていっているような錯覚に陥る。

     

    「こいつはな、複製装置<雫>と<滅>ーー儂が宿していたメガミ様の力を引き出してくれる」
    「自分の……メガミを……」
    「そうだ。故に、その力の使い方は熟知しておる。くれぐれも、古鷹の芸人風情とは比べてくれるなよ」

     

     そして、と継いだ彼は、

     

    「双方がメガミの力を借りれば、それはもう桜花決闘に違いあるまいて。仕合いたいのだろう、お前さんは。その望みを叶えてやろうというのだ。もちろん、勝てば道を譲ってやろう。メガミの力も使わぬ小娘に、できるとは思えんがの。くくく」
    「っ……」

     

     歯噛みする揺波に、実質的に選択権はなかった。複製装置を使う相手に、メガミの力抜きで戦うのはあまりに厳しい。むしろ、戦闘中にどうやって使うか、という駆け引きの手間を省いてくれただけ、有情とも言える。……神代枝が、貴重な物資であることを除けば、だが。
     全てを分かった上で、彼は使用を強いている。
     そんな、自分の預かり知らぬところで整えられた舞台で行う決闘に、揺波は既視感を覚えてしまっていた。

     

    「ザンカ……ぽわぽわちゃん……お願い」

     

     言われた通り、神代枝を砕く。普段遣いの刀を納め、手に握り込むのは斬華一閃。その肉厚の刀身を掲げ、この決戦の地で唱えるはずのなかった誓いを口にする。

     

    「天音揺波。我らがヲウカに決闘を」
    「瑞泉海玄。我らがヲウカに決闘を」

     

     神座桜があるはずもない暗い城内で、異例の桜花決闘が幕を開ける。

     

     

     

     

     


     先に動きを見せたのは、海玄であった。一方で、彼の足は止まったままである。

     

    「…………」

     

     静かに様子を伺う揺波の視線の先では、一抱えほどもありそうな水球、そして不吉な予感を禁じ得ない黒い霧が、海玄の周囲を固めるように宙に揺蕩っていた。
     一歩、また一歩。じりじりと距離を詰める。
     水球は三つに増え、黒い霧も範囲を少しずつ拡大しつつある。そんな中、単身飛び込むのは蛮勇というものだ。
     故に、

     

    「む……」

     

     揺波は斬華一閃を手放し、虚空を掴んで振り抜かんとする。光と消えた刀の代わりに彼女の手に収まっていたのは、薄暗い廊下を照らすように淡く輝く桜色の旗だ。

     

    「やッ!」

     

     振るわれた旗は、その軌跡から煌く流れを生み出した。その輝きの一粒一粒は桜花結晶そのものである。
     勢いよく送り出された桜吹雪は、主の手の届かない間合いで泰然と構える海玄へと迫り、守りの一つであった水球がその身代わりとなって弾けた。
     ただ、それを攻撃の皮切りとしたところで、海玄の次の動きに虚を突かれる。

     

    「ふん……!」
    「……!」

     

     海玄は、顔をしかめながらも前へ踏み出したのだ。
     距離を保ちながらの戦いを志向するとばかり考えていた揺波は、さらに警戒心を高めながらも同じく前進を選んだ。

     

    「ほぅれ」

     

     その僅かな動揺を押し広げようと、海玄が浮かべていた一つの水球を源にして、鉄砲水が猛々しく揺波へと襲いかかる。
     揺波の勘は、足を止めてはならないと叫んでいた。後ろへと回避するのではなく、選択したのは防御だ。手首で旗を小さく振り落とし、生じた軌跡の光によって水流を防ぐことで進路を保つことで、さらに一歩二歩と間合いを詰めていく。
     得手とする距離に入った揺波の手に、再び斬華一閃が握られた。

     

    「や、ぁアッ!」

     

     浅く飛び込むような踏み込みと共に、鼻先をかすめるような斬撃が放たれる。近距離戦での先手をまず取りに行くような、流れの礎となる牽制じみた一撃だ。
     これに海玄は一歩足を引き、その身を黒い霧の中に隠すように躱した。近くで見る霧は意外なほどに濃く、手応えがないことだけが、有効打にならなかったという事実を教えてくれた。

     

     それでも、刃の届く範囲を脱されたわけではないことは、隠しきれていない足元が保証していた。
     だからこそ揺波は、霧の危険性を承知で、二の太刀を浴びせにかかった。
     不吉さを薙ぎ払うような、一閃ーー

     

    「はッ……!」
    「ぬ、ぅ……!」

     

     命中した。
     手応えは、間違いなく海玄を捉えていた。
     このまま何もさせずに押し切る……そう、意思を固めたほどには、気持ちがいいくらいの快打であった。

     

     だが……次の手を繰り出そうとする揺波の視界に、異物が映った。
     ばしゃり、と。床を濡らす水の音だけであれば、海玄の操る水のせいだと無視することもできただろう。
     その場で踏ん張る海玄の足元に、撒き散らされたソレ。

     

    「ぇ……」

     

     赤。
     この満足に明かりのない廊下でも分かる、鮮やかな赤。
     本来、桜花決闘では目にすることがない、赤。
     気づかなければ、そのまま連撃も成せていただろう。
     気づいてしまったからこそ、一刀を振り切ったところで、揺波は固まってしまった。

     

     それが、海玄の血であることに。
     相手には、身体を護る桜花結晶が、ないということに。
     この戦いはーー誓いが空虚になるほどの、偽りの桜花決闘だということに。

     

    「ひ、ひっ……」

     

     ぬるり、と。
     額に脂汗を浮かべた老骨が、黒い霧の中から姿を現した。生身の脇腹が受け止めた刃を頼りにするように、傷がさらに深くなることも構わず、揺波の懐へと潜り込む。
     いつの間にか、その手には立派な簪が一つ。
     まるで、その一歩を踏み出させた歪な執念が宿るように、黒い霧をまとった簪の切っ先が、揺波の胸を指し示す。
     老人に、嗤う骸骨が重なって見えたような気がした。

     

    滅灯揺灯 ほろびのゆらりび

     

     

     迷いのない一突きが、揺波の心臓を貫いた。

     

    「あ……がッ……!」
    「くく……くひひ……ひひぁ……!」

     

     今まで受けたことのない衝撃と激痛に、頭が真っ白になる。脂肪も、肉も、骨も、本来それを守るはずの部位の悉くを無視し、心臓への一撃という死への誘いを成就させた海玄は、叩き込んだ死を示すかのように不吉に嗤う。
     ただ、彼が返り血を浴びているということはなかった。
     人間としての守りを全て突破されようとも、揺波は今、少なくとも彼女自身は、桜花決闘の場に相応しい力を携えている。体内の桜花結晶が、死に至る刺突を肩代わりしたために、揺波の肉体は無傷のままであった。

     

     死を想起させられた彼女は、自身の状況を理解して、さらに冷や汗を流した。
     あと一つ。それが、体内に残った結晶の数だった。
     二度目など、当然許されるはずがない。

     

    「は……あぁッ!」
    「がッ……」

     

     簪を押し込み続けようとする海玄を、打ち払うように刀を引いた。死を運んだ老人には、もうそれに抗うだけの力は残されていなかった。

     

    「……!」

     

     上段に構えようとしていたことに気づいて、揺波はその手を止めた。
     たたらを踏んだ海玄は立っていることもままならず、膝から崩れ落ち、そして倒れ伏した。飛び散った血が、彼の粘つくような感情を代弁するように、揺波の脚に着いた。
     顔を狂喜に歪ませたまま、海玄は床に命を吐き出すだけの物と化した。

     

     下ろした斬華一閃の先から、ぽた、ぽた、と先程まで彼の中で巡っていた血が滴り落ちる。
     整えられた舞台は、その既視感通りに再演を終えた。まるで演者の亡霊が、ゆめ忘れるなと彼女に悲惨な結末を見せつけているかのようだった。彼がそんな人間ではないとは分かっていても、血溜まりに倒れる姿に幻視するなというほうが無理だった。

     

     手の震えに、刃先に溜まる血が小さく波を打つ。
     ぎゅっと、揺波は胸を押さえた。

     

     

     

     


     上へ、上へ。
     それが本当に正解かも分からないのに、ただひたすら上を目指した。
     障壁はもはやなく、これが奇襲の効果だとすれば作戦の妙に喜ぶべきだが、不自然なまでに人気のない城に、捨て身の狂気に晒されたということもあって、揺波は奇妙さに息苦しさをやや感じていた。
     引き込まれている。後戻りも許されないよう、手を、脚を、見えない手が掴んでは奥に連れ込もうとする。そんな不気味な不可視の意志に後押しされながらの行軍に、不安を覚えないというのも無理な話であった。
    けれど、引きずり込まれきったその先で、不安は無用なものとなる。

     

     階段を上った揺波は、開け放たれたふすまの向こうに、この階唯一にして最大の部屋を認めた。
     他に廊下の類は見受けられず、最上階に違いない。ただ、現れた部屋は、地上から見上げるほどの高さにあるというにはあまりに広い。畳敷きのそこは、決闘をするにもなお余裕のある、無駄な空間を作っている。

     

     特筆すべきは明るさだ。火を用いた灯りは一切ないというのに、この夜の最中にあって、夜明けを思わせるほどに視界は明瞭だった。仄かに桜色めいた光に目を移せば、城と肩を並べる巨大な神座桜の結晶たちが、一方の壁一面に大きく誂えられた、雲のような曲線形の窓の向こうに覗いていた。他方から差し込める月明かりが、誰も居ない廻縁を照らしている。

     

     そして、その最奥。
     逃げも隠れもせず、彼はそこにいた。
     戦場にふさわしくない堂々たる態度が、しかし揺波には妙な納得感をもたらす。

     

    「ようこそ」

     

     瑞泉驟雨。
     打倒すべき元凶。
     脇息にもたれかかり、余裕ある笑みを浮かべた彼は、ただ一言、現れた揺波を歓迎した。

     

     

     

     


     ウツロを仲間に任せ、瑞泉海玄を打破し、ついに天音揺波は瑞泉驟雨と相対することになった。
     そう、まずは作戦は成功といってよいだろう。こうして、英雄は敵将と向き合うこととなったのだからね。

     ただし、天音揺波はもはやただ一人。そして、この状況を望んだのが天音揺波たちの方だけとは、限らない。

     さあさあ、いよいよ今こそが真価が問われる大一番だ!
     この戦いの趨勢を決める、一大決戦に括目あれ。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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