『桜降る代の神語り』第59話:潜入
2018.07.13 Friday
闇昏千影たちの行動を語るには、時間を少し遡る必要がある。
天音揺波たちが土石流に乗って順調に行程を消化している、まさにその最中。
地震の余韻が未だに残る瑞泉の都を、闇昏千影たちは夜陰に紛れて侵攻していた。
そう。彼女の大切な存在を、取り戻すためにね。
港から蔵町を通り、西寄りに少しばかり北上すると、ぱったりと蔵がたち消える場所がある。用水路に囲まれたそこは人通りも少なく、木組みの塀にぐるりと囲まれた大屋敷だけが、尋ね人を拒むかのように月明かりの底で鎮座していた。
千影は、夜空から逃れるように蔵の壁に背を預けながら、そんな屋敷をじっと見つめていた。あるいは彼女は、屋敷ではなく、その中にいるはずの誰かを壁越しに見つけ出そうとしているかのよう。瑞泉・クルルの研究所と目されるそここそが、彼女がこの地に来た大目的なのである。
と、背後から聞こえてきたわざとらしい荒い息遣いに、彼女は張り詰めさせていた指の力を僅かに抜いた。
「あぁ……居た居た……よかったぁー!」
「遅いぞ」
姿を現した楢橋へ、千影と共に警戒を緩めた藤峰が短く、声を抑えつつも叱咤する。地震によって商人たちが巣を突かれた蜂のように騒いでいたにも関わらず、不自然なまでに静かなここ蔵町の外れでは、楢橋の声はよく響いた。
その意味を介した楢橋は、意図して声を潜めながらも、叱咤への反論を止めることはない。
「そんなこと言ったってさー、もー! あんな厳つい連中の前に置いてくなんてありえなくない!? 場所知ってるオレっち見殺しにしちゃったら意味ないでしょー! 危ないから荷馬車も捨てなきゃいけなかったしさあ……おかげで疲れちゃったんだけど?」
「見つかる危険を冒して時間稼ぎしてあげたんですから、感謝してくださいよ」
「違うの! そうじゃなくて、むしろ今はこっちを労って!?」
「だから無駄口を叩くな」
再度の指摘に、楢橋は口を尖らせながら肩をすくめてみせる。
そんな様子に呆れたように小さく息を吐いた藤峰は、背負っていた風呂敷包みの口を器用に片手で解き、腕の上で広げてみせた。
その中に入っていたのは、真新しい三着の服だ。やや青の差した白地の上下であるが、黄色地の袖には半分になった歯車が、上下で噛み合うような模様の細かな刺繍が施されているのが目を引いた。
「これで間違いないか?」
「そう、ですね……。確かに奴らが――」
「そうそうこれこれ! 一回着たしそりゃ覚えてるってー。流石銭金のおっさん、顔の広さだけはソンケーしちゃうね」
「…………」
楢橋に倣い、そのうちの一着を手に取る千影は、忌々しさを隠すことなくその瞳を澱ませる。
二人から是を受け取った藤峰を皮切りに、示し合わせたように背中合わせとなって、その白装束に身を包み始める三人。今まで商人として振る舞ってきた千影たちは、袖に腕を通すことで研究員の身分を得ていくのである。
「千影ちゃん、お着替えてつだおっ――」
「刺しますよ」
言葉とは裏腹に、振り向こうとした楢橋の顔のすぐ横を通って、一本の針が道に積まれたままになっていた空の木箱に浅く刺さる。その針の先が妖しく濡れていることに気づいた彼は、固まった笑顔のまま首を戻し、袴を履く作業に戻った。
そんな楢橋だったが、ふと、
「ねえ、そういえばなんで天井裏通らないの? 変装してるって言っても、入り方見つけるのにぶらぶらしてたら危ないっしょ。こそこそ上通ったほうが確実じゃない?」
それは泥棒である彼にとっては、半分程度本気の疑問だった。金品へと一度たどり着けた経路というのは、カモがカモであり続ける限り有効だ。盗まれていることが分かったとて、精々置き場所を変えたり門番を叱るくらいで、根本となる天井裏への侵入経路を塞ぐ者はそうそういない。
けれど、彼はそれなりに腕の立つ泥棒ではあるが、前科を延々数え上げられるくらいには縄をかけられている程度の泥棒でもある。
彼が今、行動を共にしているのは、より深く陰に潜む者。そして、死に対する嗅覚を研ぎ澄ませた者である。
「道筋は確実でも、安全性は確実ではありません。あなたたち、クルルに見つかったんですよね? 敵対してるメガミにですよ?」
「いや、そうだけどさ。まあ、見つかったのオレっちじゃないけど」
「千影なら、絶対に天井裏に罠を仕掛けます。向こうはこっちの狙いを分かってるんですから尚更です。一度使った道どころか、見つかった道を使うなんて自殺するようなものですよ……? 分かってるんですか……?」
千影の嫌悪感は、楢橋にだけ向けられているわけではなかった。それはここまでの旅で初めて本格的に表現された感情であり、苦笑いで謝罪した彼をよそに、手袋で隠された右手の甲を撫でるにつれて、千影の中へと戻っていった。
「よし、最後の確認だ」
そして変装を終えた彼女は、藤峰の言葉をきっかけとするように、陰から月明かりに照らされた研究所を睥睨する。
「これより我々は、瑞泉の研究所に潜入、楢橋の発見した隠し部屋への正規の入り口を探し出し、囚われているホロビ、氷雨細音両名を救出する。可能であれば二人を戦力とし、脱出。以降、天音本隊への支援へと移る。以上、質問は?」
「早く……早く、行きましょう」
「……ああ」
研究員となった三人が、明るみに躍り出る。彼女たちが小橋を通って足を向けた先には、長く続く塀の切れ目、研究所の裏口がぽっかりと口を開けていた。
守衛はいない。それに準じるであろう研究員は先程まで居たが、中から出てきた別の研究員たちに呼び戻されていたところを、先に到着した千影たちが確認していた。
一歩、誰にも見咎められることなく、堂々と敷地へと踏み入れる。端に雑に放置された木材がうら寂しげだが、口を開ける玄関のその向こうに見えるのは、どたばた、と静寂とは程遠い忙しない人の駆け回る姿であった。
「ホロビ……もうすぐですよ……」
人知れず呟いた言葉は誰の耳にも留まることがなかったように、彼女たちの戦いは静かに、幕を開けた。
迷宮、というほどではないが、いかんせん広い。見通しの立たない屋内というのは、それだけで強い方向感覚を求められる。天井からはある程度の数、行灯が吊り下げられているおかげで、暗闇でこそないものの、仄暗い屋敷は心理的にも歩きづらい場所である。
しかし一方で、暗さというものは適切に扱えば味方となり、半端な備えはかえって自分に牙を剥く。
「左」
そう呟いた千影が視界の端に捉えていたのは、左手に伸びる廊下の先の四ツ辻に、うっすらと差し込んだ光だった。何者かが灯りを持って差し掛かったその兆候を察知し、三人は無用な接触を避けるべく、今いる広間から奥の廊下へと歩を速める。
夜分にも関わらず、研究員たちの足音の数は千影が耳にしただけでも五人はいる。彼らは灯りを持って所内を巡っているらしく、もしかしたら商人たちのように備品設備の点検に追われていると思われた。千影としては、想定よりずっと少ない人数でいるうちに事を済ませたいところである。
無論、研究員に化けているのは怪しまれないためであるが、千影や楢橋が服を覚えていたように、研究員の中に二人の顔を覚えている者がいないとも限らない。そんな者と出くわせば実力行使する他ないが、救出のための潜入で派手に行動する必要もない。
何より、彼女たちには絶対に見つかってはならない相手がいるのだ。
「逸れてる。右だね」
「もう一本先だ。いるぞ」
楢橋の頭の中の方向を頼りに進みつつ、忍二人が研究員を察知して誘導していく。三人の足音が限りなく小さいためか、一部屋挟んだ向こう側で床板が軋む音すらも、すぐ隣から聞こえてくるようであった。
研究所は、作業を行うためと思しき広間がいくらかと、無数の小部屋がそれ以外を埋めるように乱立していた。文机の並んだ畳敷きの広間では、地震の影響か壁際で書架が何枚も背中を晒していて、所内での地震の被害の程度が伺える。
と、
「っ――! 痛ったぁ……!」
「……!」
左右を部屋に挟まれた廊下を行く中、楢橋が唐突に足を押さえてうめき始める。瞬時に藤峰が彼の口元を抑えにかかる。
目で抗議する楢橋の視線を追うと、床に転がっていたのは行灯であった。頭上には、蔓のような紐が揺れており、地震によってちぎれ落ちたようだった。呆れたように灯りの消えたそれを拾い上げる千影はもちろん気づいていたが、夜目が十分利くのは忍二人だけなのだ。
すぐさまこの場から離れようとする三人だが、悲鳴というものは押し殺していたとしてもよく通るものである。
右手のふすまが、がらり、と開け放たれた。
「ど、どうしました? 大丈夫ですか?」
現れたのは、ひょろりと背の高い研究員だった。その部屋はどうも倉庫のようで、彼越しに中身を床にぶちまけたたくさんの木箱が転がっていた。
研究員は目を眇めて千影の手元と足を押さえる楢橋を見比べて、得心がいったように頷くと、
「あぁ、灯りも持たずに歩くからですよ。何転がってるか分からないんですから」
「いやー、面目ない」
「ガラス片でも踏んだら大事です。……しかし――」
さらに彼は、三人の顔を順繰りに眺めて、首をひねった。
そして、
「今日の深夜の番は、原と近藤ではありませんでしたっけ……?」
「…………」
問を向けられた千影と藤峰の顔に、表情が張り付いた。
だが、僅かに流れた沈黙を破ったのは、苦無の閃きでも、毒針の煌きでもない。
二人の様子を見て取った楢橋が、にっこりと笑顔で研究員の肩を叩いた。
「それが聞いてよー。瑞泉サマが臨時に増員せよとのお達しでさ、たまたま目についたオレたちに白羽の矢が立っちゃったわけ。地震で色々大変っしょー?」
「増員か……それは助かりますけど、いくら大地震とはいえ瑞泉様が珍しいですね」
「ほら、地震で物が倒れたりもそうだけど、大地が緩くなっちゃったりしてたら危険だから、って。万が一があっちゃ困るのはオレも分かる。分かるんだけど、それってオレも危ない目に遭うってことなんだよねえ」
およよ、と嘘の涙を拭ってみせた楢橋。そんな彼に、研究員はふすまをさらに開けて三人を歓迎するが、
「だったら、ひとまず部品の整理を手伝って欲し――」
「おーーーっと!」
「……!?」
「ごめんねえ。オレらほら、まず指示もらうように言われてるから行かないと。どこらへんにいるか分かる?」
手を合わせての謝罪と共に投げかけられた、曖昧でしかない質問に研究員は納得したようで、一瞬だけ左に目線をそらし、
「なるほど。クルル様なら二号実験室で見かけましたよ。五条さんも資料室にいたはずです」
「ありがとー探してみる! あとで手伝いに来るから!」
そのまま、研究員の目線の通り、今まで来た道を引き返していく楢橋と忍二人。角を曲がるなり、周囲に他の研究員がいないことを確認すると、音を立てぬよう注意を払いながら、全力で先程の倉庫の前を迂回する。
その間、じと、とした冷ややで湿った眼差しを千影は楢橋に向けつつも、持ってきてしまっていた行灯を、落下していた別の行灯の傍に置き捨てる。
「なにさー! 自分のお尻は自分で拭いたでしょ!」
「次は知りませんよ」
「おい、前だ」
灯りと足音の予兆を受けて、警告する藤峰はどこか嘆息混じりだ。緊張感を失うほどのことではないが、忍にしてみればやり方の大きく異なる者との隠密行動を強いられているのだから、やりづらさを覚えるのもむべなるかな。
さらに研究員の目をかいくぐりながら、一行は研究所の奥へと突き進んでいく。
コンコン、という小気味の良い木を叩く音が一つ。それと比べてやや重くくぐもった、しかし同様に木を叩く音が一つ。それぞれ前者が右に広がる壁からのものであり、後者は突き当りの壁である。左手の壁は、やや離れた位置でふすまが閉まっていることからも分かる通り、その向こう側に部屋の存在が確認されていた。
「……合ってるみたいですね」
「どんなもんよ」
得意げに胸を張る楢橋を他所に、千影は僅かに口端を吊り上げた。
順調に研究所の探索を続けていた一行は、楢橋の記憶と感覚通りに隠し部屋の手前まで辿り着くことに成功していた。見た目上は経路の一つも存在せず、他と何一つ変わらない壁に囲まれた空間であるが、ここに至るまでの部屋の配置が巧妙で、よほど空間の把握に長ける者でなければ見つけることはできないだろう。
「見た目によらず頑丈そうだな。金属で補強してあるのか……」
「そのようで。用心深くて嫌になります」
「単純な回転扉の類ではないな。こういう場合は仕掛けがありそうだが――たとえば、隠された取っ手を引っ張るなり、扉自体を変形させて回転できるようにするなり。とはいえ、迂闊に触って罠でも仕込まれていたら堪らんな」
侵入方法を検討する藤峰は、行灯以外ほとんど物のない背後の廊下を一瞥して、小さく嘆息した。
千影も概ね彼の意見に同意しているようで、
「床を傾けて、自重で勝手に動かす、なんて仕掛けもありましたね。で、ですが、罠は最後にはどうせ待ち受けているものなんですから、腹をくくるしかないんです。幸い、罠避けが1人いるので、一回くらいは間違えてもなんとかなりますよ」
「ねえ、なんでオレっちのほう向いてそんなこと言うの? ねえってば!」
生贄にされては敵わない、と楢橋は慌てて代案を出す。
「ほ、ほら。普通の力じゃ無理かもしれないけど、今はアレがあるから、ドカンと一発でいけたりしないかな!?」
「アレ……もしかして、神代枝のことですか」
「そうそう。メガミの力、ここでも使えるんでしょ? 扉くらい、こう……景気よく吹き飛ばせないもんかな」
身振りで何かがはじけ飛ぶ光景を伝える彼の言葉に、千影と藤峰が少しの間視線を交わしあった。その顔色は決して否定的なものではなかったが、さりとて賛同するわけでもない。
ややあって、千影は自分の考えを再確認したように答え始める。
「だめですね。これは救出任務なんですから」
えぇ、と残念がる楢橋へ、さらに彼女は、
「救出対象が十全な状態であれば、速攻をかけるという手はないわけではないです。ですけど、ホロビたちが動けない状態だったら、追手を撒くにも一苦労でしょう。安全は最後まで考慮するべきです」
「うーん、まあ、それは確かに」
開かない扉に手を当てる千影の憂いは、再会まで数間と迫ったところで晴らされることはない。彼女の終着点は、ホロビを救出し、共に生き延びるところにあるのだから。
……だが。
それを見据える千影であってもなお、やはり意識を削がれていたのかもしれない。
自分の心を埋めてくれる者を前にして、恐怖の極地から得られる感性は、ほんの少しだけ、鈍っていた。
「それにですよ。神代枝を使うなら、メガミにはまず気づかれるものと考えるよう言われていたでしょう? クルルとは、可能な限り接触を避けます。メガミから逃げながら救出なんて、できっこないです」
千影がそう、一呼吸置いた、そのときだった。
この仄暗い屋内に似つかわしくない、脳天気な声が、背後から。
「呼びましたぁ?」
『……っ!?』
一斉に、千影たちは振り返った。
ぬっ、と。満足に足元まで照らしきれていない灯りの中、隣の部屋の入り口から、一つの頭が真横に突き出ていた。角と歯車を模った髪飾りは重力に逆らう中、青みがかった桃色の髪が、だらんと垂れている。
それから、ひょっこりと廊下に現れたその女の姿に、千影は震えを押さえつけるので精一杯になっていた。そしてその恐れは、明らかに異質な雰囲気と相まって、直接至近で相まみえたことのない藤峰と楢橋に伝搬する。
クルル。この動乱の主犯格の一柱にして、狂気の生み手。
千影たちの中に、何故現れたか、を問う者は誰もいなかった。最悪の状況が、想定通りに顕現した、ただその結果に疑問する余裕はない。彼女たちが――特に強く千影が思うのは、何故強大なメガミの接近を察知できなかったのか、ということだった。
「おんや、おっかしーですねえ。ありゃ、むしろおかしくない? おかしくないわけがないわけがないないないなーい、なので、やっぱりおかしい気がするんですよぅ」
「な、何が……でしょうか」
慌てて言葉を絞り出したのは藤峰だ。
彼の返答に、ゆっくり一歩ずつ、大げさに頭をひねるように身体を左右に揺らしながら近づいてくるクルルは、
「なんかですねー、みょーなですねー、気配がですねー……うーん、なんでそれを追いかけたら、同志の皆さんに行き着いたんでしょーか。はい! そこのアナタ、元気よくお答えください」
「え、うぇ!? オレ!?」
「ぶー、時間切れです。回答権はくるるんに移ります」
「あ、あの……」
「でも分かんないんですよねえ……」
両手の人差し指をこめかみに当て、うんうん唸っている。それが演技ではなく、ましてや謀るような意図などないことは、皆で感じ取っていた。
現れたクルルは何か目的こそあれど、三人を研究員だと思いこんでいるようだった。それは、最悪の出会いを果たした侵入者側にとって最大の幸運でもある。
藤峰と楢橋は、最初にして最後のその幸運を活かすべく、口を開く。
「く、クルル様。先程の地震の影響で、不安定になっているだけかもしれませんよ。先程から一帯の整理と見回りをしていますが、特にそれらしいものは何も」
「そうですそうです! 何かあったらお知らせしますから。あー、第一実験室の被害なんですけど、さっきクルル様に確認してもらいたいって言ってましたよ?」
「そですねー……確かめてみるのが、やっぱりイチバンですよねえ」
明らかに上の空だったその返答に、それ以上言葉を弄することはできなかった。
一歩、一歩とさらに近づき、楢橋を押しのけ、彼女がたどり着いたのは千影の眼前。迫られた千影は、じり、と限界まで距離を取ろうとするも、元よりここは行き止まりである。
「ここから――」
「……!」
そして千影は、ようやくクルルの捜し物と、何故接近に気づかなかったのか、その答えを同時に得た。
焦点が定まっているのかいないのか、あやふやなクルルの視線は、千影の懐に熱く注がれている。クルルが今、それにだけ注目し、興味の全てを注いでいる。
……以前、実験台にしたはずの千影を、全く認識することなく。
当時受けた印象と威圧感は、クルルのおぞましいほどの好奇心に晒された状況で得たものであって、注目されていない現状では気にかかるものではなかったのである。
ただ、クルルにとって不可解だっただろうこの状況が、加速度的に彼女の歪で強大な好奇心を広げ始めていた。たとえ直接好奇の的にされておらずとも、千影にはそれが痛いほど感じ取れてしまう。
感じ取れてしまうからこそ、千影は耐えられなかった。
たとえ千影の顔を覚えていなかったとしても、隠し持った滅灯毒に向けられるその好奇心が、ホロビとの繋がりを断った事実には変わりないのだから。
「みょーな気配が、するんですよねぇ」
「ぅぁ……!」
クルルが、千影の懐に手を伸ばそうとした瞬間、反射的に千影の苦無が閃いた。
伸ばされたその右手に、黒が突き刺さる。
「うおっとぉ!」
痛みによる悲鳴ではなく、驚きのそれ。
全く予期していなかったという表情でのけぞったクルルは、そのまま尻もちをついてしまう。
つい反撃してしまった後悔と、あっけなく攻撃が通った困惑が千影に満ちる。男二人もその感情に倣うように、倒れたメガミの動向を身構えながら見守っている。
と、そんな倒れたクルルの傍の床に、先程まではなかったものが転がっていた。
それは、幾何学的な模様が四方に描かれた、いわゆる寄木細工だった。手のひら大よりも一回りほど大きな立方体のそれは、転倒に驚いたように天を向いた面をいきなりぱっくりと開いた。
そして、それに気づいたクルルが、『やってしまった』というように、
「あっ」
「……!?」
一瞬にして、淡い桃色の煙が場を覆い尽くした。
理解不能の煙幕に、ひとまず天井に張り付いて逃げようと考える千影だが、それが叶うことはなかった。脚に力を溜めようとした途端、桃色に染まっていく世界が眼前と中心にして渦を巻き始めたのである。
身体ではなく、感覚と意識がその渦に吸い込まれていく中、強烈なめまいに襲われたように、自分が動いているのかどうなのかさえ不確かになっていく。味方の無事を訊ねることすらもできず、思わず目頭を抑えていることにすら自信が持てない始末。次第にその認識も、立ちくらみのような思考の空白へと消えていった。
「う、うぅ……」
やがてその症状も収まってくると、武器に手をかけるだけの余裕が生まれた。目の前で倒れているはずのクルルに向けて小刀を向ける。
だが、
「え……」
狂気のメガミは、いなかった。
それどころか、藤峰も、楢橋も。
あの謎の煙もねじれていく世界も、嘘だったかのように元の仄暗い研究所の一室だけが、千影の前に広がっていた。
そう、一室である。
今までいたはずの隠し扉の前の廊下ではなく……薬品棚が乱立した部屋。それが、千影の現在位置だった。
因果の果てに、彼女は1人、どことも知れぬ場所に放り出されたのだ。
「ふぅー……ふぅーっ……」
高鳴る胸、そして懐の滅灯毒の感覚は変わらない。荒くなっていく呼吸を抑える千影の拳が、強く握りしめられ、それでも震えを孕み始める。
壁一枚だった距離は、不可解の前に大きく後退したのだった。
いかに人間を騙せると言っても、メガミを騙すのは簡単なことじゃあない。
優れた感覚、感性……それを出し抜くのは難しいことだけれど、クルルのやつは予想すらも軽く飛び越えてくるから尚更だ。
そして闇昏千影は、そんな狂気が徘徊する本拠地で、これからあてどない行程を辿ることになる。
彼女は果たして、救いの手を伸ばし続けることができるのかな?
語り:カナヱ
『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
作:五十嵐月夜 原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME