『桜降る代の神語り』第57話:激震の時

2018.06.08 Friday

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     いくら口が回ると言っても、それだけで万事うまくいくわけでもない。
     哀れにも矢面に立たされた楢橋平太は、けれど他の二人から目をそらす案山子としては適任だったのかもしれない。
     闇昏千影たちにとって大切だったのは、夜を静かに迎えること。
     そう――決戦の開始を知らせた、あの瞬間をね。

     

     

     


     ずっと一人だった御者台。
     けれど、今は隣を埋めてくれる者がいる。

     

    「そうかそうか。疑っていたわけではないが、弔慰満ちる古鷹の民が賢明な判断をしてくれたようで安心した。肩を並べられないのは残念ではあるが、再び足並みを揃える日が来ることもあるだろう」
    「そ、そっすね……」

     

     それが上半身裸の厳つい筋肉男でなければどれほどよかったか――楢橋は曖昧に頷いておきながら、己の不運を呪った。
     持ち込んだ荷を買い叩かれそうになったところを架崎に助けてもらった彼であるが、何故かこうして肩を並べて世間話に興じている。本来は搬入と会計処理に遠藤たちが手間取っている間の僅かな時間潰しで済むはずだったのだが、つい先程代金を受け取ってからも架崎は離れようとしなかった。

     

     実際のところ、楢橋はその理由の検討がついていた。けれど、その一つである『主人たちを待っている』という身から出た錆じみた嘘はともかくとして、もう一方の理由はもはや彼にはどうしようもないものであった。

     

    「しかし、古鷹の酒とあれば道中でもよく売れるだろうに。商人たちからはよく聞くんだ、南に下るまでの間に、忍が荷をくすねてしまう、とな」
    「随分と手癖の悪い連中がいたものですね。まあ、お馬さんと重い想いを分かち合うのは遠慮願いたいですから」
    「だから近年は商船を多用し始めていたわけだが……民草に混じって買い付ける暇もないほど、最近の忍は忙しいと見える。あるいは――」

     

     わざとらしく眉を上げて、架崎は問う。

     

    「帰る家をなくして、酒に浸っているのかと思っていたのだがな。そんな忍の姿は見なかったか?」

     

     ……商人とは、物だけではなく情報も扱う人種である。物流から政治的な動向を察知しなければ、その変化の波に乗らなければならないか判断することもできない。それができない者は、荒波に揉まれて大損するのだ。
     つまり架崎は、楢橋という商人から世間話ついでに情報を聞き出そうとしていたのである。古鷹から、といううってつけな条件に加え、口利きした礼代わりに南西部の情勢を聞き出そうとしていたのである。

     

     弁が立ち、のらりくらりとかわすことに関しては優秀な楢橋であっても、架崎の肉体と複製装置が織りなす威圧感の前では、失言をしないことに集中するので精一杯。無駄に消えていく時間は嵩み、陽も朱色から藍色を帯びて久しい頃合いになっていた。
     楢橋は、自分を置いていった忍二人を努めて意識から外しながら、

     

    「い、いやー、どうでしょうかねえー……。旦那様方はともかく、あっしのようなぺーぺーの出る幕ではございませんで。そりゃあ商人の端くれですから忍の方々とあれこれ云々などなどございますのは存じてますが」
    「その主人たちは懇意だと?」
    「そうじゃございませんよ。もっとお偉い方の話で」
    「ふむ……そうか。それもそうだな」

     

     残念そうに引き下がる架崎だが、視線に未練が残っていた。
     そろそろ限界を感じていた楢橋は、下手を打つ前に離脱したほうがいいかと話を打ち切る覚悟を決める。

     

    「ならこういう話は聞かないか? 炎に焼かれたあの天音の生き残――」
    「っかーッ!!」
    「……!?」

     

     突然額を抑えながら叫んだ楢橋は、御者台から下りてぺこぺこと架崎に頭を下げる。

     

    「す、すいやせん。そういえば宿に行くよう言われてたの思い出しまして。大目玉食らっちまう! ……えっと、天音がなんでしたっけ?」
    「いや……すまない。随分と引き止めてしまったな」
    「いえいえ。今後共よろしくおねがいしますね!」

     

     渋々立ち上がった架崎は、ずっと待ちくたびれていたように鼻を鳴らした馬の背を撫で、その場から立ち去ろうとした。
     だが、そこへ、

     

    「あ、架崎ぃ!」
    「……っ!」

     

     芯の通った女の一喝が、通りに響いた。明らかにこちらへ向けられたその声と、反応した筋肉男によって、楢橋は手綱を拾う体勢のまま凍りついた。

     

    「あんたこんなところで何油売ってんだい!」
    「いや、油を売っていたわけでは。浮雲こそ先に戻っていたのでは」
    「だからあんたを呼びに戻ってきたんじゃないか。あんたみたいな筋肉ダルマでも、居ないと進まない話だってあるさね」

     

     傷んだ髪を乱雑に後ろでまとめたその女・浮雲は、少しばかり低い背を物ともせずに架崎を叱咤する。狩人然とした格好ではあるが、その気性はこの辺りに溢れている海の男たちとも似通ったものがある。
     つかつかと歩み寄ってきた浮雲は、そこでようやく架崎と馬の陰に隠れた楢橋の姿を認めた。

     

    「……なんだ、本当に油でも売ってたのかい」
    「いや、年若く、わざわざ古鷹から来てくれたものを、騙されそうになっていたところを俺が取り持っただけだ。栗谷君と言う」
    「へえ……」

     

     手綱を掴み上げた楢橋は、ぎこちないながらもなんとか浮雲に笑顔を見せる。その腕の複製装置に汗を垂らしながら。
     浮雲は出発しようとする楢橋を邪魔するように、御者台に座った彼の前に片足を入れた。そして、ぐいと顔を近づけた彼女は、

     

    「あんた、どこのもんだい?」
    「ぜ、銭金です……下っ端でございますが……」
    「ほう、そうかいそうかい」

     

     その圧力に耐えかねて、僅かに目をそらしたときだった。
     浮雲は、楢橋の顎を掴んで無理やり自分へと顔を向けさせる。

     

    「……!」
    「商人らしい良い面構えじゃないか。こういう、一見人畜無害そうな顔してる奴が一番食えないんだ。……そう、食えないんだよ。なあ?」
    「ひゃ……ひゃい……」
    「おい浮雲……」

     

     じっくりと至近距離で観察され、遮二無二逃げ出したくなる楢橋だが、敵を前に敵地で逃げ出すことの愚かさを理解しているだけに、動くに動けない。疑われているというより、ただカマをかけられている段階で無理をすれば、逃げる背中を刺されても文句は言えないだろう。
     筋肉男を嘆いていたら、それよりも強烈な狩人の女に絡まれた。そんな嵐をただただ過ぎ去っていくことを祈るしかない楢橋は、できる限りの笑顔を保ち続けるしかない。

     

     と、そんなときだ。
     ひゅん、と風を切る音がしたかと思うと、すぐ傍を通りがかった二頭立ての荷馬車の荷台が、突然姿勢を崩して荷の樽をぶちまけた。

     

    「ああ、クソッ! 車輪が逝っちまいやがった!」

     

     響く御者の嘆きの中、楢橋たちのいる商館前に向かって転がっていく樽。大量に積まれていたそれらは、あるものは壊れて中身の魚を撒き散らし、あるものは鈍器となって彼らに襲いかかる。

     

    「チッ……」

     

     長旅を共にした馬を心配する楢橋であったが、しかしそこは鬱陶しそうにしながらも架崎と浮雲がてきぱきと樽をいなしていったため、結局のところ荷台に二つほどぶつかった程度で収まった。
     悪態をつきながらも荷を回収していく御者を尻目に、けれど架崎と浮雲は壊れたその荷馬車を注視していた。

     

    「はぁん……」

     

     半ば納得したように声を上げる浮雲。その瞳には、どちらも一本だけ鋭利な断面を晒して折れている、二つの車輪の軸が映っていた。
     彼女からは背になっていたが、荷台を破壊したのは鋼鉄製の糸である。細さと強靭さによって刃物と化したそれは忍の武器の一つ。本来は罠に用いるものであるが、精密かつ高速に投擲された糸は、宙を裂く刃に等しい。

     

    「じ、じゃあ、ありがとうございましたー!」

     

     好機と見た楢橋も馬を走らせ、架崎はそれを目で追っていた。
     じり、と二人の脚に力が籠もる。荷台を壊した犯人の不在を悟った二人にとって、不自然な現象で最も利益を得た楢橋は重要参考人に他ならない。
     しかし、二人が実際に楢橋を追うことはなかった。
     そんなことよりも身も心も揺り動かされる事態が起きたからだ。

     

    「っ……!」

     

     ぐらり、と。
     足元が不確かになるような、そんな揺れが浮雲を襲った。
     地震だ。
     それも、家屋が軋みを上げるほどの、大きな地震である。

     

    「ゆ、揺れだー! 荷を守れーっ!」
    「うおぉぉぉハガネ様がお遊びなさってるぞぉぉぉ!」
    「船攫われないように気をつけろォー!」

     

     揺れは二度か三度、大きなものが来て、その後しばらく控えめの揺れが長らく続き、そして収まった。
     蔵町だけあって各所で商人が点検に大わらわになり、宵の口ともあって惜しげもなく灯りを使う蔵が、その口から淡い光を吐き出し始めた。平時とはまた別の活気が生まれるその中で、崩した荷を戻したばかりの御者が、再び崩れた樽の前で泣いていた。

     

    「珍しいな」
    「ああ、だね」

     

     架崎の感想に相槌を打つ浮雲は、顔に不快感をにじませていた。
     彼女の視線は、訝しるように一点に注がれていた。

     

    「けど、どうにもきな臭いねえ」

     

     揺れが収まったにも関わらず、ずっと、小さく不規則に揺れ続けている、他の商館の脇に吊るして干されていた魚たちを。

     

     

     

     


     時は遡り、大地が揺れるその少し前。岩だらけの山肌を晒す御蕾山が、赤みの差し始めた日差しに照らされている頃。
     山の中腹もとうに越えた場所に、二つの人影があった。夜が迫る中、上へ上へと足を止めないその二人は揺波と千鳥だ。サリヤたちから遅れること一週間、合流を目指す揺波たちはその最終行程に差し掛かっていた。

     

    「サリヤさんたち、順調だといいなあ」

     

     先を行く揺波がひとりごちる。あってないような登山道を走破するその速さは、山登りというには急ぎすぎているようであったが、火照った身体が山の涼やかな空気で冷やされる心地よさを満喫しているようでもあった。
     それに追従する千鳥は、

     

    「俺たちが無事に着いたんだ、あっちもきっと万全の体制で待っててくれてるさ」
    「でも実質サリヤさん一人なんですよね……? 大丈夫かな」
    「まあ……そこはほら、あっちのすごい技術でなんとかするんじゃ?」

     

     もう幾度となく交わした会話を、これで最後とばかりに繰り返す。
     それからもうしばらく登っていくと、山の頂上まであと二合かそこらという位置ある、開けた場所に出た。下を見るのが恐ろしいくらいの崖の上からは、大きな河の流れる平野が一望でき、夕日に焼かれる都の姿がその先に見て取れた。

     

    「ユリナちゃん!」

     

     そんな景色を前に立ち止まった揺波の名を呼んだのは、サリヤであった。

     

    「よかった、ちゃんとここまで来れたのね!」
    「はい! サリヤさんも大丈夫だったみたいでよかったです!」
    「そうね、ちょうどいい助っ人も来てくれたことだしね」

     

     助っ人という言葉に首を傾げる千鳥は、直後、自分に向かってくる助っ人を見て露骨に顔をしかめた。

     

    「うげ……なんで佐伯さんが」
    「何か不満でもあるか? そっちは、天音を届ける任務を果たせるほどにはガキの使いから卒業できたようだな」
    「最初からガキの使いじゃねえよ!」

     

     にらみ合う両者に苦笑いするサリヤは、

     

    「準備は順調よ。ハガネちゃんもなんとかいけそうだって」
    「そうですか。で、あれが――」

     

     揺波の視線が示す物を見て取ったサリヤは、頷くと共に揺波たちをそれの下へと案内する。作業中だったジュリアが揺波たちに気づき、拳から親指だけを上げて笑ってみせた。

     

    「ちょうどよかったデス! あとモーチョット!」
    「九割方完成してるわ。あとは最後にあちこちしっかり固定するだけ」
    「すごい……」

     

     揺波の感嘆が向けられたもの。それは、大きな筏であった。
     複数の丸太の足場に支えられたその筏は、下手な家よりもなお広い面積を有しており、この場にいる五人を乗せてもまだ余裕がある。帆がない代わりに、揺波の顔くらいまでの高さがある四本の柱が立てられており、結ばれた頑丈そうな紐が船上に垂れていた。緩く三角を描く前面には、何かを阻む盾のような板が取り付けられている。

     

     ここまでであればそこまで大きく目を引くようなものではないが、特徴的なのはその船首に据えられたサリヤの愛機・ヴィーナである。丸太から切り出された複数の歯車が、車体を飲む込むようにして複雑に絡み合い、ヴィーナの力を伝えるように船体へ組み込まれていた。その様子は、筏を何か未知の乗り物へと変貌させているかのようであった。

     

    「いざ目の前にすると、なんというかこう……本当にやるんだな、って気持ちになりますね」
    「正気か、って思ってたけど、これ見たらなおさら正気を疑うよ、俺は……」

     

     引きつった笑いを見せる千鳥は、もちろん計画の全容を知っており、サリヤたちの作るこの筏が要の一つであると理解しているし、納得もしている。けれど、絵空事のようであった計画が形になったことに驚く揺波とは違い、これから行われることを想像させられて彼はげんなりしていた。
     と、登場した二人を佐伯が急かす。

     

    「もう猶予はない。ぼさっとしてないで手伝え。お前たちにもできる、この縄で丸太と丸太を力いっぱい縛るだけの簡単な作業だ」
    「それならなんとかやれそうです!」
    「天音……おまえ……」
    「千鳥さん?」
    「いや、なんでもない」

     

     縄紐をどっさりと受け取った二人は、指示された通りに筏の土台となる丸太を固定していく。元々既に縛って固定してあるようだが、さらにきつく強固に、丸太同士は密になり、三列で組まれた厚い土台がさらに頑丈さを得ていく。
     その過程で隙間から筏の内側を覗いた揺波は、思ってもみなかった有様になっていることに感心の声を上げる。

     

    「千鳥さん、これこれ。どうやって作ったんでしょう。というより、どうなってるのかさっぱりです」
    「うわ、前のほうすごいことになってるな。……あー、あそこが動くようになってるのはまだ分かるけど、そこから先は俺もさっぱりだ」
    「えっ……あっ、ほんとだ! 一緒に動いてます! ……どうして?」
    「これ、二段目に絡繰詰め込んでるのか……にしても分からん……」

     

     理解の及ばない機構の理解を試みては、返り討ちにあって知恵熱を出す揺波。日も落ちてきた中、暗がりになった内部を凝視しようとするが、忍の利を活かして夜目を利かす千鳥であっても遠く理解が及ばない。
     そんな彼女たちへ、ヴィーナの足回りをいじっていたジュリアは得意げに、

     

    「フフン……今回はイロイロ制限ある中、ワタシもがんばりマシタよ! 耐久と安全が必要でしたノデ、イマイチなところ結構ありますが、機関はヴィーナスペシャルエディションでお届けデス!」
    「鋼鉄のヴィーナと木造機関の組み合わせには私も驚かされました……それに応えられる加工法にも。ジュリアさんたちの技術には学んでばかりです」
    「思いつきですし、大したコトないデスよー。ねえ、ミコトのミナサン!」

     

     えへへー、とこすった鼻を墨色に染めるジュリア。その姿にサリヤは仕方ないといったようで、あちこち煤と土と木くずまみれになっていたジュリアにはもはや世話を焼くことを諦めていたようだった。

     

    「いえいえ! あなたがたのご協力があれば、きっとこの地は正しく進歩を加速させていくものだと確信しております……! その際にはこの佐伯、全力を尽くさせていただきますので――」
    「喋ってないで縄とってくれよ、佐伯さん?」
    「…………」

     

     言葉を遮られた佐伯が、沈黙と共に千鳥へ縄を乱暴に投げて渡した。
     そして丸太との格闘に戻った佐伯が、ぶっきらぼうに言い放つ。

     

    「もうすぐ日没だ、急ぐぞ」

     

     くすくすというサリヤの抑えた笑い声を耳にしながら、揺波は受け取った縄を丸太にくくりつけていく。
     そんな彼女たち五人の手元を、宵の色が覆い始めていた。

     

     

     

     

     


     一人の少女が、大地に身を委ねるように寝そべっていた。
     一見するとただ眠っているようだが、彼女を中心として渦巻く力、そしてそれ故の強大な存在感は人の身には余りある。

     

    「ふぅー……」

     

     その名はハガネ。大地を象徴するメガミである。
     サリヤたちが準備を整えている間、ハガネもまた一人、準備を進めていた。そして今日それは終わり、黙して夜を待っていた。
     溜め込まれた力は、少し気を抜いただけで取り逃がしてしまいそう。大地を間近で感じる以前に、今のハガネにはそれ以外のことをする余裕はない。全てを機が熟すその瞬間に捧げていた。

     

     爽やかな山の晴れを見送り、燃えるような朱い夕日に別れを告げた。
     日没。
     その夜の始まりが、合図だった。

     

    「よし、やるぞッ!!」

     

     気合を入れ直すような発声と同時、この数日間溜めていた力を解放する。
     その向き先は、大地。
     大地の力が、御蕾山という突き出た大地、さらにはこの一帯に注がれていく。

     

    「う、っとと……」

     

     堰を切ったように流れ出していく膨大な力に制御が乱れそうになるも、なんとか持ち直して最後の撃鉄を起こし終える。
     ちら、とその目線が、山の上へと向けられた。

     

    「あたしはここまでだけど……ユリりん、サリねえ、ジュリにゃん……絶対勝ってね……!」

     

     夜闇の中、白い歯を覗かせて、ハガネが作ったのは小さな笑顔だった。
     そして大きく一つ、深呼吸し、

     

    「いっくよーーー! 大山をッ、穿つッッ!」

     

     

     その瞬間、大地が、山が、鳴動した。

     

     

     

     


     立っていられないほどの揺れが襲い、サリヤはヴィーナの舵を握る手にいっそうの力を込めた。

     

    「みんな、掴まって!」
    「うわわわわわわ! 流石にやばいってこれ!」
    「ヒャー! どのくらいのエネルギーなんでショウ!?」

     

     筏に乗り込んでいた一行は、反射的に突き立てた丸太に飛びついた。ガタガタ、と足場からふるい落とされるように筏は移動を始め、千鳥が思わず自分の命綱を確かめた。
     揺れはさらに大きくなり、山を底から斧で叩き割ろうとしているような衝撃が何度も突き上げてくる。

     

     と、サリヤはその揺れが一瞬収まったのを感じた。
     代わりにやってくるのは、浮遊感だ。

     

    「サリヤさん! 崩れ始めました!」
    「オッケー!」

     

     応じる言葉と同時に麓に大量の土砂の流れが生まれ、遅れてサリヤたちのいる場所もつられたように山の斜面だった痕跡を滑り落ちていく。山の内側から溢れ出た水と共に、その流れは土色の滝となって麓の森へと殴りつけるように注いでいた。
     サリヤが持ち手をひねりながらヴィーナの頭を持ち上げると、それに応じて筏が首をもたげた。すると、滝に沿って垂直落下しようかという寸前で、筏は滑空するかのように滝から離れていく。

     

    「ああああああああっ、落ち、落ちるううぅぅぁあああああああ!!!」
    「あぁっ! ら、ライラ様っ、シンラ様、どうか、お守りをぉぉ……!」
    「舌噛まないでねッ!」

     

     悲痛な悲鳴を上げる千鳥と、眼鏡を抑えて小刻みに震える佐伯へとサリヤが忠告したその直後、森を強引に流れていく濁流の上に、筏が盛大な飛沫を上げて着地する。高度から考えれば真っ二つになっていないことが不思議なくらいだが、乗員共々筏は無事であった。成果を誇示するように、ヴィーナを取り巻く歯車が忙しく回っている。
     筏はそのまま、大きく、速く、そして力強くなっていく土砂の川に運ばれ、一気に裾野を突き進む。森を抜けたところには海まで続く長柄河が流れており、穏やかだったはずのその河も、文字通り顔色を変えて荒れ狂っていた。

     

     土石流。
     大地の力によって生じた奔流に乗って、五人を乗せた筏は進軍を開始する。

     

    「波に乗るのは好きだけど……まさかこんな形で活かされるなんてね」

     

     独り言は、河に合流してさらに勢いを増した土石流の轟音にかき消される。
     舵代わりのヴィーナをしっかりと操りながら、暴力的な波に飲まれないよう確かに船首を南へ向ける。
     その先で夜陰に紛れる、最終決戦の地・瑞泉へと。

     

    「さあ、行くわよ!」

     

     

     


     この策を知ったときには、正直カナヱも驚いたさ。見様によっては、馬鹿じゃないかとすら思うようなものだからね。。
     しかしこれはハガネの存在によって可能となり、その利点は無視できない。まさに奇策にして上策だったんだ。
     これくらい危険で突飛なことを実行に移せるのもまた、英雄の素質なのかもしれないね。

     

     さて、強襲を敢行した天音揺波一行だけれど、瑞泉領までは少なくない距離がある。
     常識はずれの奇策だからといって、一筋縄ではいかないのが瑞泉だ。さあ、返す一手はどうなるか、ご括目と行こうか。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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