『桜降る代の神語り』第52話:逃れえぬ邂逅

2018.03.02 Friday

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     敵の総大将自ら姿を晒す――それは、桜花決闘という文化が下地にあったところで、いや、あればこそ、ひどく受け入れがたい光景だ。
     命のやり取りに巻き込まれてもなお、己が目に収めなければならない何がある。
     全軍で最も貴重な存在を使ってまでも、勝ち得たい何かがある。
     瑞泉驟雨には、それができるだけの力と自信、そして願望があったのさ。

     

     


     止んだ拍手の音が、公演場を取り囲む闇に飲み込まれていく。

     

    「おめでとう、天音揺波。見事な決着、感服の至りだ」

     

     ゆったりと、客席の奥から舞台へ歩み寄る瑞泉。灰髪の少女もそれに付き従う。
     血の池に伏す古鷹の姿に、揺波は混乱の最中にあった。けれど、既視感を覚えるあの日の惨事との違いが、まとまりを失いかけていた思考を辛うじて指向性を与えていた。
     目の前に現れたのは、息絶える者を支持したメガミではない。
     この場にいるはずのない人物であったとしても、敵であるということは分かる。

     

    「瑞泉、驟雨ッ……!」
    「そう怖い顔をするな。こうして大物食いの現場に居合わせることができたんだ、その幸運に感謝するくらい許してくれたまえよ」

     

     ふ、と鼻で笑った瑞泉は、向けられた敵意なぞどこ吹く風、と足を止めない。

     

    「どうだ? 龍ノ宮に続いて、古鷹まで討ち取った感想は」
    「…………」
    「いやはや、強行軍をしたかいがあった。流石の私も、これほど愉快な結末は望めまいと思っていたが……奴とて結局人間だったか」

     

     客席の最前列で止まった彼を注視していた揺波だったが、床についた手先が濡れたことに気づいた。広がる血は彼の言う結末をどうしようもなく肯定していたが、だからと言って語ることなく倒れた古鷹の蛮行は理解できないままだ。
     だが、古鷹が物言わぬ身体になったとしても、そんな彼を嘲笑う瑞泉がいる。敵と認識しているからこそ、疑問をぶつけることはなお容易かった。

     

    「なんで……なんでですか!? 古鷹さんは、どうしてっ……!」
    「……おいおい、君はまだその段階なのか。もう少し自分の価値を――」

     

     さらに嘲る瑞泉だったが、「いや」と浮かべたのは哀れんだ微笑みであった。

     

    「いいだろう。その『何故』に答えてあげようじゃあないか」

     

     侍らせた少女をよそに、瑞泉は客席の縁に腰掛ける。揺波はそのわざとらしい余裕にこみ上げるものがあったが、がむしゃらに切り込むような真似はできなかった。ただ無表情で立っているだけの少女の威圧感に、ただ斬華一閃の所在を確かめる。
     そんな揺波に、瑞泉はしみじみとした調子で問いかける。

     

    「天音。君は、古鷹殿の娘さんのことを、聞いたことがあるか?」
    「え……? い、いや……」
    「古鷹殿は長いこと世継ぎを授かれなかったようでなあ。しかも、ようやく一人もうけられたかと思えば、随分と身体が弱くてな。名を天詞と言うのだが、学に秀で、見目もよく、ミコトの才もないわけではない。しかし、事あるごとに病に臥せっているようでは、京詞殿から芸を受け継ぐ以前の問題だ」

     

     唐突な話に揺波は疑念を強めるが、彼の話しぶりに違和感を覚えた。その違和感の源に辿り着く前に、瑞泉は結論を告げる。

     

    「その天詞殿は、療養と学問のため、一昨年より我が瑞泉領にご滞在中だ」
    「……!」
    「そして私は古鷹殿にこう提言したんだ。天音揺波の身柄を確保してくれれば、天詞殿はもっと健やかに育ちなさるだろう、とな」
    「それって……!」

     

     つまり、人質。
     友好関係にある家同士ではそう珍しくはない行いだ。平和だったこの時代、そのような悪い形で使われること以外は。
     家族を人質にとられたことを考えて、揺波は憤りに手を戦慄かせる。
     それを、決闘の相手ではない第三者にやられたときのことを、だ。
     しかしその一方で、嫌でも意識を向けさせられる事実も彼は口にしていた。

     

    「わたしなんかのために、どうして……!」
    「そう! それだよ、天音。私は、君を求めている。……いや、正確には君自身ではないが。古鷹をも打ち倒すその実力に興味がないと言えば嘘になる。しかし用があるのは腕ではなく、こっちだ」

     

     そう言って瑞泉は、自分の左手の甲を揺波に見せるように小さく掲げた上で、指差した。彼もまたミコトであり、そこには結晶が鈍く輝いている。ただ、両の手はミコトを示す以外にもう一つ重要な意味を含んでいる。

     

    「君が宿すメガミの力を、私は欲している」
    「ザンカ、の……?」
    「はは、白を切るなよ天音。報告を受けてまさかと思ったが、今の決闘を見て確信した。君のその左手に宿る力は、まさしくヲウカの力! 私は、それを求めて来たのだよ……!」

     

     全てのミコトにとってその名前は、一番身近であっても、一番遠いものだった。
     縁を結んだメガミはいても、相手が宿すメガミはいても、お互いがその名前を口にしようとも。彼女がどのようなメガミであるか人々が知っていたとしても、それはあくまでも語り継がれる存在であった。ましてや彼女を宿すなど、お話の中だけのことだった。
     だが、そんな笑われてしまう法螺話に聞こえたとしても、口角を釣り上げる瑞泉の視線は、現実を射抜いている。

     

     瑞泉はうまく飲み込みきれていない様子の揺波をせせら笑う。そして隣の少女を示して、

     

    「そういえば紹介がまだだったな。君も忍に聞かされていたかもしれんが、彼女はウツロ。大昔、ヲウカと戦ったとされる古きメガミだ」
    「……ん」

     

     紹介されたウツロは小さく頷いただけだった。
     少なくとも揺波はウツロから敵意を感じていない。ザンカの語ってくれた強大なメガミだと告げられたところで、その小さな身体に秘められた力は、他のメガミより桁外れに大きいというわけではないということもまた揺波は理解していた。それが幸いか、災いの前触れか、揺波の戦闘勘は判断し損ねていた。

     

    「ヲウカとウツロは対比して語られるメガミだ。しかし、より深い歴史を紐解けばそれ以上の関係であったことが窺える。ヲウカの権能はこの世に花という形で力を咲かせることであり、ウツロはその逆……花を塵と散らせ、土に還すことだ。分かるか?」
    「…………」
    「一度くらい不思議に思ったことがあるだろう。神座桜は何故咲き続けるのか、と。散った結晶は、塵となった後どこへ消えているのか、と。その答えが、世界の陰陽の巡りを担うこの二柱ということになる。彼女らの権能によって、力は常に巡っているのだ」

     

     足元に落ちていた結晶を摘んで弄びながら、瑞泉はさらに続ける。

     

    「ヲウカを宿した者も、ウツロを宿した者も、それぞれ過去の記録が存在を示している。直接見知る人間などいようはずもない昔のことだが、話に謳われた豪傑は、実際にその強大な力を振るっていたようだ」

     

     だが、と瑞泉はその結晶を砕き、力強く立ち上がった。

     

    「その二柱を同時に宿したミコトは、未だ存在しない!」
    「……!」

     

     高らかに、歌い上げるように。
     客席側にいるはずなのに、舞台の主役は野心溢れる男に取って代わられていた。

     

    「力を得るだけではなく、力そのものを統べる! ……これこそ、人の世を支配できるだけの絶対権力だとは思わないか……?」

     

     いるはずのない観客の喝采を浴びる彼の意識は、前言通り揺波自身には向けられていない。
     もちろん、間で横たわる古鷹であったものにも、それ以外のもの全てにも。
     憤りは、明確な怒りへと昇華する。

     

    「古鷹さんは……」
    「ん……?」

     

     床に突き立てた斬華一閃の刃先が血を散らす。

     

    「そんなことのために、古鷹さんは死んだんですか」
    「はは……そんなこと、ときたか」
    「そんなことのために、龍ノ宮さんも、古鷹さんも、忍のみんなも、犠牲にしたって言うんですか!? そんなことのために、ミコトのみんなも、メガミの皆さんも、あんな目に遭わせたって言うんですか!?」

     

     言葉をぶつけても、気を強くもって見下ろしても、瑞泉に侮られているという印象は変わらない。そして同時に、その態度が答えであることを理解してもなお、揺波は目の前の男に問う必要があった。

     

    「あなたのせいで、どれだけたくさんのことがおかしくなったと思ってるんですか! ……わたしには、あなたが何を目指しているかなんて分かりません。わたしだって強くありたい……でも! あなたみたいに人を踏みにじるのは、違う!」
    「仕方のないことだ。人の世を統べる――私はただ、その目的を叶えようとしただけに過ぎない」
    「メガミから力を奪ったせいで、決闘ができなくなることも仕方ないで済ませるんですか!?」

     

     返答は、わざとらしいため息だった。瑞泉はやれやれと言うように、苦笑いしながら緩く首を横に振る。
     届かない言葉に歯噛みする揺波は、ホノカの宿る左手を瑞泉の視線からかばうように抱きかかえた。

     

    「だいたい、さっきからヲウカヲウカ、って……この子はぽわぽわちゃんです! 人違いです!」
    「ふ、はは……! ヲウカも随分と可愛らしくなったものだな。聞いたかウツロ。ぽわぽわちゃんだぞ」
    「確かに強くて頼りになる子ですけど、ヲウカじゃありません!」
    「それで……?」
    「っ……」

     

     返す瑞泉の失笑に、言葉に詰まる揺波。怒りが霧散するほどではないが、手応えがないまま壁を打ち続けることは自分の心を痛めつける行為でもある。
     救いを求めるように視線をそらせば、そこには無反応のままのウツロがいる。

     

    「あなたもなんでこんなやつに協力してるんですか? 人だけじゃなくて、メガミにも酷いことをしてるんですよ? 止めなくていいんですか?」

     

     けれどその懇願も、彼女には届かない。いや、届いていてなお、答える必要性を感じないからとでもいうように、ウツロはただぼうっと揺波を見返すだけだった。
     ぱん、と鳴らされた手の音に、揺波はびくりとする。

     

    「これ以上君と話していても仕方がない。ただの器が、中身の処遇を知る必要もなかろう」

     

     そして瑞泉が冷たく言い放つのは、終わりの合図だ。

     

    「ウツロ」
    「……うん」

     

     

     一歩、少女が踏み出す。それだけで、公演場に広がっていた陰が、ず、と巨体を蠢かせたように、莫大な圧となって揺波を締め付ける。
     決闘の直後で疲労しているという悪条件すら、揺波は考慮する必要性を感じていなかった。如何に過去ハガネとの決闘で勝利を収めたからといって、それはあくまで決闘の話。細音に助けられなければ消し炭になっていたヒミカとの邂逅を考えれば、決闘外でメガミが襲い掛かってくるという事実だけで絶望的である。

     

     様々な出来事や真実に削られた心は、刀を構え直そうとするだけで精一杯。
     逃げる選択肢は夢物語に過ぎ、力なく迎え撃つ他に考えが巡らない。

     

    「ぁ、ぁ……」

     

     瑞泉に向けた怒りが、何もできない自分に返ってくる。
     そうして、決めきれずにいた、そのときであった。

     

    「っ……――!」

     

     ぞ、と。
     全身が総毛立つような、禍々しく不吉な気配が、瞬く間にこの場へ染み渡った。
     最初それは、ウツロがその力を解き放ったものだと揺波は思っていた。しかし、見るとウツロも瑞泉も、その気配に息を呑んでいた。
     そして禍々しさの源は、瑞泉を志向しており、彼に襲いかからんとしていた。
     だが、揺波に分かったのはそこまでである。

     

    「天音!」
    「えっ――わぁっ!?」

     

     突如足を掴まれたかと思えば、いつの間にか舞台に空いていた穴に引きずり込まれる。舞台の倍以上の高さを落ちれば、そこは人が二人もいれば狭く感じられる、明らかに人工的な地下空間が広がっていた。そこからさらに、暗がりの中に横穴が口を開けている。
     不格好ながらも抱きかかえられていた揺波は、薄闇に浮かぶ助けの顔が千鳥のものであることに気づいて安堵した。

     

    「よし、逃げるぞ。藤峰さんが先行してる」

     

     揺波に反論の余地はなかった。その必要はそもそもなかった。
     想いを踏みにじる者に想いを届かせるだけの力がないことを痛感した揺波は、狭い通路を行く千鳥の背中を追った。

     

     

     

     


     揺波が逃走に成功した一方、ウツロは飛来する脅威に対応を余儀なくされていた。

     

    「あぶない……!」

     

     

     僅かに語気を強めたウツロは、振り返るなり地面から掬い上げるようにして影の幕を生み出すと、何かから守るように瑞泉に覆いかぶせる。
     脅威となる何かが瑞泉の右腕に刺さったのは、ウツロの影が彼の身体に染み入った直後のことだった。

     

    「……助かった」

     

     長い針が、彼の右腕に刺さっていた。彼の右腕の一部だけ、まるで影で作られたようになっており、傷口のあたりから煮詰めたような濃い紫色の液体が、血に混じって細く流れて落ちていた。その液体の禍々しさに、瑞泉は肝を冷やしたように礼の言葉を零す。
     不吉な液体が流れきったのを確認してから針を引き抜く瑞泉。身代わりとなった影も同時に消えるが、大鎌を模った影で武装したウツロが、彼を守るように立ちふさがる。
     瑞泉は不機嫌さも顕わに、舞台の屋根の上に姿を見せた人物へ針を投げ返した。

     

    「そういえば、君はこの屋敷を熟知していたな」

     

     鋭く返されたその針を掴み、忌々しげに懐にしまったのは闇昏千影であった。
     彼女は器用に屋根の縁に捕まりながらくるりと飛び降り、舞台の上へ着地する。その背後には、ついさっき揺波と千鳥が逃げるために用いた奈落が口を開けている。
     ただ、瑞泉はそんな千影に今度は、にたり、と笑みを浮かべた。

     

    「まさか生きてまた会えるとはなあ。あの有様だったものだから、腹を割いて自害していてもおかしくないと思っていたのだが」
    「ち、千影がそんなこと……するわけないじゃあないですか」
    「そうかそうか。あのメガミ……ホロビ、だったかな?」
    「…………」
    「どうなんだ? 心酔するホロビの加護を失った今の気分は。あいにく私じゃあ分からないんだ、教えておくれよ」

     

     くつくつ、と笑いを噛み殺す瑞泉を、澱んだ千影の眼差しが捉えていた。
     だが、瑞泉はウツロの守りからさらに身を出して、

     

    「そんな顔をしないでくれ。これでも私は、君に感謝しているんだぞ」
    「なに……?」
    「神渉装置の被験者として本当によくやってくれた。君以上の逸材はいなかったと断言してもいいだろう。君がいたからこそ、あの装置の可能性を見出すことができた。あれ以来、同様の事例は起きていなくてね」

     

     千影にとって、装置の被験体にさせられたことはそれ以上でもそれ以下でもなかった。オボロらと情報の共有をした今となっては、ホロビもまた力を奪われたのだという認識である。だからこそ、千影にはホロビの声が聞こえなくなったことの理由があやふやなままであった。
     故に彼女は、顔を強張らせた。
     首謀者であるこの男が、自分の知らない事実を知っているとしたら。

     

    「実に我々の研究に役立っているよ。君の、ホロビはね」

     

     あえて名を強調した瑞泉。その意味を千影が咀嚼する前に、彼はさらに可笑しいといった様子で、

     

    「これも、君が深い繋がりを持ってくれていたが故の成果だ。理論上可能とは言っていたが、クルルも驚いていたさ。まさか存在そのものをこちら側へ引き込めるとはな」
    「は……」
    「おかげで、他のメガミが力だけ抽出できたものを、ホロビに関してはその全てを得ることができた」
    「あ、あぁ……」

     

     震える手で構えられる苦無と毒針。
     それを後押しするように瑞泉が作ったのは、貼り付けたような優しい笑みだった。

     

    「ありがとう、闇昏千影。ホロビをくれて」
    「あ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

     

     堰を切ったように感情を爆発させ、瑞泉へ踏み切った千影は、彼をそこへ縫い付けるように苦無を投げつける。手に持つ毒針には、彼の手に堕ちたホロビの力を凝縮した、禍々しい死の毒が塗られている。先程は対応されたが、本来はかするだけで死に至る一撃、それこそが本命だ。

     

     対し、口元を歪めた瑞泉は、ウツロと共に彼女を迎え撃つ。
     ウツロはその場で大きく縦に鎌を振り上げ、その場で直上に飛び上がる。小さな身体を存分にひねって放たれるのは、一見ただ地面を抉るだけのような大鎌での切り上げだ。けれど、柄すらどっぷりと地面に突き込んだ鎌の刃は、彼女の手の届かないところで斬撃を成していた。
     舞台と客席の間の地面、そこに広がる影を食い破り、いきなり巨大な影の刃が姿を現す。まるで地面を無視して伸長した大鎌で切り上げたかのような一撃は、間合いを詰めようと気負う者を刈り取るものだ。
     けれど、

     

    「ひひっ……!」

     

     その刃が切り取ったのは、一房の前髪だけだった。
     舞台から下りた千影の一歩は、前へ踏み切るものではない。
     彼女は致命の毒針を投げるどころか、突き刺すために至近することもしなかった。あと僅かでも攻めの意思があれば手痛い傷を負っていたところを、紙一重で回避する。

     溜め込んだ力を利用して、彼女は即座に舞台へ舞い戻る。そして後に残されたのは紙の巻かれた球であり、勢い良く毒々しい煙を吐き出し始めた。
     咄嗟に口元を覆う瑞泉はもちろん、どうしたらいいか判断に迷って棒立ちになったウツロも、飛び退る千影の姿を見送ることしかできない。

     

    「くっ……」
    「あ、ありがとうございます、瑞泉驟雨。ホロビのこと、教えてくれて」

     

     皮肉げな捨て台詞を残す彼女に、情動に突き動かされている印象はない。ホロビが大切であろうとなかろうと、千影の行動指針はただ一つ、生きることである。判断能力を取り戻した今、千影の生への嗅覚は誰よりも鋭く、怨嗟を理性と本能で押さえつけた彼女は、勝てぬ戦いから躊躇なく身を引く。

     毒煙を尻目に奈落へ飛び込んだ千影は、覚悟していたほどには恐怖に震えていない自分に気がついた。それどころか、もう割り切っているにも関わらず、どこか後ろ髪を引かれているようですらあった。
     優しく、けれど力強く懐の小瓶を握りしめながら、千影は弟たちの後を追った。

     

     

     

     


     毒煙が晴れた頃には、舞台上には古鷹の死体と、奈落だけが残っていた。

     

    「……面倒なことになったな」

     

     瑞泉に奈落の通路がどこに繋がっているか知る由もない。毒づく彼の意識は奈落に注がれていたが、若干の躊躇も窺える。
     やがて素直に追うことを決めたのか、舞台に上がろうとする瑞泉。
     だが、

     

    「そこまでよ」

     

     

     警告と攻撃は、同時だった。
     瑞泉とウツロを襲ったのは、宙を裂く数多の扇。ただひらひらと飛ぶだけではなく、先程まで古鷹が放っていたような、鋭い鷹のような力を孕んでいる。
     二人は目の前に展開された、ひときわ濃い闇でできた壁に隠れてそれらを凌ぐが、食い破られた隙間から飛び込む扇に打撃される。

     

     扇の群れが飛び去り、影の壁が宙に溶けたとき、生まれていたのは対立だ。
     離れから駆けつけた叶世座の面々が、素顔のままじっと瑞泉たちを見据えていた。
     じっ、と。あえて表現すべき感情などないというように、ただじっと見つめてくる集団は不気味ですらあった。

     

    「随分とご挨拶じゃあないか」

     

     気圧されぬよう軽口を叩いたところで反応はない。
     なにより、先頭に立ち、可憐な出で立ちに反して真顔を貫くメガミの姿は、見る者にひたすら自省を促すようですらあった。
     そんな彼女に――扇で口元を隠したトコヨに、瑞泉は不敵に返す。

     

    「古鷹を討ったのは天音揺波だぞ? 仇討ちなら筋違いだ」

     

     ほんの少しだけ。瑞泉のその言葉に、叶世座の何名かが表情を歪めた。
     けれど、この場にいる誰よりも、ウツロよりもなお小さなトコヨの視線は、瑞泉とウツロの一挙手一投足を見定め続けていた。一瞬だけ、瑞泉の背中越しに舞台の様子を目にしたが、顔色一つ変えなかった。
     トコヨは、答える。

     

    「いいえ。そんな毒にも薬にもならないこと、する必要はないわ」

     

     あくまでも、彼女の態度は毅然としたものだった。

     

    「あたしたちの目的は、芸術と伝統の守護であり、発展。それを営みとするこの地は、古鷹京詞の死を以って、不能に陥るでしょう。よって、次代当主が定まるまで、このあたしがその役目を担うことにしたわ」
    「ほう……メガミ様の指揮で、我々に仇をなすか?」

     

     問われたトコヨは、目を閉じ、小さく首を横に振る。骨の一つ一つをゆっくりと重ね、静かに閉じていく扇のように、彼女の言葉は淡々としたものだ。

     

    「我々は、不干渉を貫く。我々は、我々の守るべきを守る。それだけよ」
    「ほう、それは結構。ならばどうし――」
    「だけど」

     

     バチン、と。
     閉じた扇で瑞泉を遮ったトコヨ。その眼差しは、さらに強く、鋭く、何物をも刺し通す針のように彼へ改めて向けられる。その威圧感に、瑞泉から冗談めかした態度が削ぎ落とされた。

     

    「これ以上この場を騒がすようなら、ただじゃおかないわ」

     

     その言葉だけで背筋を正さずにはいられない……そんな警句。
     瑞泉はちら、と横目でウツロを窺う。意図を汲み取った彼女は、無感情ながらも大鎌を持つ手に力が篭っていた。

     

    「勝てなくは、ない。けど……」

     

     伏せられた目が、言葉の続きを物語っている。
     瑞泉は、硬直した己を解きほぐすようにわざとらしく苦笑した。

     

    「というわけだ。まさか伝説に残るような戦いをさせるわけにもいくまい。このあたりでお暇させてもらうことにしよう」
    「お帰りはあっちよ」

     

     戦闘態勢を解いたウツロを連れ、瑞泉は一般客用の出口へ向かう。
     トコヨも、叶世座も、見送りに下げる頭もなければ、視線で追うこともない。
     瑞泉が去り、ウツロの気配も消えた公演場には、ただ静寂だけが居座っている。
     そんな中、トコヨは何も言わずに一人舞台へと歩き出した。慌てるでもなく、けれど軽やかでもなく、ぽっくり下駄の音だけが、等間隔に場に響く。

     

    「トコヨさ――」

     

     指示を仰ごうとした叶世座の一人が、仲小路にやんわりと遮られる。
     トコヨは脇に据えられた階段で舞台に上がり、血の海に倒れる古鷹の下へ。汚れも厭わず躊躇なく膝をつき、彼の手足を整えてやる。

     

    「馬鹿ね……誰に許可なく死んでるのかしら。あんたみたいなの、探すの大変なんだから。まったく、三人目は何百年後になるやら……」

     

     その様は一見、床に伏す親を仕方なく看病する娘のようでいて、どこか時折、手のかかる子を世話する母のようでもあった。
     最低限繕え終えたのか、一息ついたトコヨは、目を細め、頬に薄く笑みを乗せた。
     彼女の指の背が、古鷹の瞼を落とす。

     

    「おやすみなさい、常世郷風月。あなたの芸は、永遠に残るでしょう」

     

     舞台を見下ろす白金滝桜が、ざあ、と風に啼いた。
     まるでそれは、人生を演じ終えた一人の男に対する賞賛のようで、じっと彼の姿を目に焼き付けるトコヨに悲しみの色が浮かぶことは、ついぞなかった。

     

     

     

     


     こうして天音揺波と瑞泉驟雨の、決定的な邂逅は幕を閉じた。
     彼はその野心にて全てをかき乱し、天音揺波も、闇昏千影も彼と強い因縁で結ばれることとなったわけだ。彼の覇道は全盛を迎え、英雄たちはまだ立ち上がったばかり。
     しかしそれでも、これからだ。英雄たちが刃を手に、立ち向かっていくのは、これからだ。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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