『桜降る代の神語り』第50話:望まれぬ戦いへ
2018.02.09 Friday
英雄にとって、試練はいつだって過酷なものだ。
けれども、此度の試練はどうにも肩すかしと言えるだろう。
事実、メガミの力を宿した天音揺波たちに、襲撃者はあっけなく倒されていった。
それもそのはず。この襲撃は、前哨戦でしかないのだから。
英雄は、本当の試練へと挑む。
たとえ英雄が――天音揺波が、それを望んでいなかったとしても、ね。
千影の突き出した傘の頭が、黒い人影のみぞおちを的確に捉えた。
「が、ふ……!」
「おやすみなさい……!」
さらに一歩踏み込んだ強烈な殴打は、見事に顎を打ち抜いて相手を弾き飛ばす。すかさず追撃とばかりに投げた針は、的確に黒衣のめくれ上がった相手の首筋へと吸い込まれていく。塗り込められた千影手製の麻痺毒は、彼に地獄のような眠りをもたらすことだろう。
「このッ!」
「っ……!」
返す刀で掲げた傘が、振り下ろされた一対の太い棍棒を受け止める。たくましい腕を持った更なる襲撃者が、彼女の隙を窺っていたのだった。
体勢を整える暇のなかった千影は、しかし相手の力強い連打をいなしていく。真正面から受けきったのは最初だけ、傘で受け流したり、立ち位置を変えたりして相手の攻撃の調子をじわじわと崩していく。
そして均衡が自分へと傾き始めたのを見るや、千影はいきなり踏み込んで傘を開いた。
「うお……!」
突然視界が奪われた襲撃者は、咄嗟に胸と顔を守るように身構えてしまう。だが、この一瞬が命取りであった。
はらり、と勢いを失って転がり落ちる傘の向こうに、千影の姿はない。
「どこ――」
問いの答えは、彼の右耳に走った一閃だった。
目眩ましの間に高く一回転しながら跳躍していた千影は、宙で逆さまになりながらも、肌の晒されていた耳を毒針で切り裂いたのだった。
さらに、それだけでは終わらない。
「来て!」
合図と共に、襲撃者の足元へ倒れるところだった唐傘はひとりでに閉じ、呼ぶ千影の下へ引かれるように勢い良く動き出す。
もちろん、その間にいる者の都合などお構いなしに。
「ご、ぉ……ぁ……」
耳を切られ、反射的に身体を反っていたところに強烈な突撃の合わせ技。いかに黒衣の上から分かる図体の大きさがあったとて、到底耐えられるものではなかった。
畳に伏した相手を忌避感たっぷりに見下す千影は、戻ってきた傘を振りかぶろうとして、
「姉さん、もういいよ」
「あぁ……」
静止する千鳥の声に顔を上げれば、月光が淡く差し込めるこの部屋に立っているのは四人だけとなっていた。
倒したばかりの男の手から棍棒を足で遠くに退けた彼女は、その中の一人である揺波の姿をじっと見つめている。
傷もなければ、襦袢をほとんどはだけさせもしていない。にも関わらず、得物を構えたまま呆然と荒い息を整えている揺波は、千影の目にとても弱々しく映っていたのだった。
「おい、見ろ」
三人の忍が襲撃者たちを拘束、検分している間、手早く身なりを整えた揺波は、そんな藤峰の言葉に意識を戻された。屈んだ彼の示す先では、畳の上で伸びている襲撃者の一人が顔を露わにされていた。
それを見て、あっ、と声を上げた揺波に藤峰は頷いて、
「覚えていたか」
「この人……里に乗り込んできた人、ですよね……?」
脳裏に焼き付いて離れない宣戦布告。御堂という男の蛮行は、古鷹の矜持と立場、そして決断を知った今でも無視できない違和感となって揺波の心に残り続けている。いわばそれは、彼女にとっての古鷹の悪行の象徴でもあった。
その彼が、ここで倒れている意味とは。
「間違いないな。古鷹の手の者たちだ」
「そんな……!」
思わず声を大きくしてしまう揺波を、藤峰が視線だけで咎める。
その藤峰は、御堂の腕を次いで指した。御堂はこの襲撃者の中でも数少ない歯車の篭手を持つ者だった。
「御堂はこれでも叶世座の有力者だ。俺が調べた限り、こいつがこの中で一番上だ。大方、御堂の一派総出といったところか?」
「でもなんで――古鷹さんには、わたしを狙う理由は……!」
「理由がなくとも証拠はある」
きっぱりと言い切った彼に、揺波は反論するための言葉が出てこなかった。
そんな二人に割って入ったのは、陰鬱さに焦りを混ぜた千影の声だった。
「あ、あの……いいから早く逃げませんか。応援が来たらジリ貧なんですよ分かってるんですか?」
「確かに、姉さんの言うとおりだな」
同意する千鳥で、揺波はこの二人のことを姉弟であると認識する。面差しは確かに似通っているのだが、如何せん明るい千鳥に対して、千影はやつれ気味だったり目の下のくまが酷かったりと雰囲気がかけ離れているのだ。
先程は千影に一方的に名乗られたことを思い出し、揺波は頭を下げる。
「あの……天音揺波です。助けてもらってありがとうございました」
「愚弟が……せ、世話になったようですね」
「いえ、そんな。無事に会えたみたいでよかったです」
「あれ……姉さん探すのに出てた、って誰かから聞いたのか?」
千鳥の疑問には、藤峰が咳払いを以って答えとした。厳しい視線は油断なく四方八方へ向けられており、滞りのない撤退のための警戒は途切れることはない。
「積もる話はまた後で。今はとりあえず逃げよう」
催促に応じるように、天井に空いた穴を指す千鳥。彼は千影の足場となるべく、中腰に構えた。
ただ、千影がそんな彼の両手に足をかけたときだった。
「……だめです。わたしは、行けません」
動きを止めた忍たちに注視されながら、揺波は告げる。
「古鷹さんのところに、行きたいと思います」
「天音……ッ!」
この害意に晒されてなお出てくるとは思えない発言に、藤峰は激昂する。ここが戦場となった敵陣であるとの意識が、辛うじて怒鳴りつけたい気持ちを押さえつけているようだった。
「貴様、自分が何を言っているか分かってるのか!?」
「分かってます!」
「なら何故、渦中に飛び込む真似をする!? 大将首でも討ち取るつもりか!? やつの強さは本物だぞ!」
「そういうんじゃありません! わたしはただ、納得できないんです!」
頑なな揺波の語気は荒くなっていき、忍たちは屋敷に響いていないかと気が気でない。しかし彼らにとって揺波は要救助者であって、素直に応じてくれないから、と置いていくわけにもいかない。無論、乱暴な手段が通じる身でもない。
唇を噛みながらも聞く態度をとった藤峰に、揺波はその内に抱える疑念をぶつける。
「この四日で、古鷹さんのことも、この都もことも、色々知りました。悩んで、悩んで、それでもどうしようもなくて、守りたいものを守るためにそれ以外を捨てることを選んだって」
「だからどうした。それでも、我々が捨てられたことには変わりないんだぞ?」
「違うんですよ! 古鷹さんは、こんなわたしだって守ろうとしてるんです! わたしに、決闘代行をやらないか、って……。そんな古鷹さんがわたしを襲うなんて、どう考えても筋が通らないんですよ!」
その事実は藤峰にも意外だったようで、ぴくり、と眉が動いた。けれど、煩わされる怒りに満ちながらも、彼の反論は至って論理的だ。
「敵の言葉を真に受けるのはともかく、この短い間に考えが変わった、ということもありえるだろ!」
「古鷹さんがわたしに示してくれた礼は、その程度のものじゃありませんでしたよ! そもそも古鷹さんは、お互いのためになると思ってそれを提案したんです。取り下げるにしても、あの人はきっと自分の口から言うはずです! もし、わたしを切り捨てるように言われたんだとしてもです!」
「同じように叶世座を使ったのかもしれんぞ? 大将が出張って万が一があれば事だからな」
「古鷹さんの強さが本物なのに、ですか?」
ぎり、と藤峰の歯が軋む。
「これが古鷹さんの命令したことだったら、その真意を問いたい。一緒に瑞泉を敵だと思ってくれた古鷹さんの力になれないか、道を探りたい。……もしもこれが、古鷹さんの意に反するようなことだったら――」
「……部下の統率は長の義務だぞ」
「忍の里をあんな形で襲ったことにも、わたしは違和感を覚えてました。選択肢がなかったんだとしても、やっぱり古鷹さんらしくない。だからわたしは、どんな理由で襲われたんだとしても、古鷹さんに直接話を聞きたいんです」
光と消えた斬華一閃の代わりに、いつもの刀を佩く。その眼差しは、決闘に挑むかのように真っ直ぐだった。決して、不可解な事態への迷いが消えたわけではない。それは、迷いに戸惑うのではなく、迷いに真っ直ぐ向き合うことを決意した目であった。
藤峰はそんな揺波の態度に観念したのか、
「……正気の沙汰ではないが、これが混乱だとすれば、情報収集以上に交渉の余地も生まれるかもしれん」
「じゃあ……!」
「ああ。――くそッ、なんで俺がこんな目に……」
毒づく藤峰に深々と頭を下げる揺波。その傍ら、緊張した面持ちで成り行きを見守っていた千鳥は、ほっと一息ついてから顔を引き締める。
「よし、ならさっさと行こうぜ」
「……? どういう了見だ、千鳥」
「え、俺も一緒に行くんじゃ――あだっ!」
何の疑問も持たずに同行しようとした千鳥だったが、しびれを切らした千影に頭を踏み台にされて言葉を遮られる。
華麗な動きで天井裏に飛び込んでいった千影が、穴から身を出して腕を伸ばす。
「何寝ぼけたことを言ってるんですか。千影たちが顔を見せる義理はないですよ」
「また囲まれないとも分からないし、戦力は多いほうが……」
「おまえは馬鹿ですか。千影たちはまだ存在を知られていないんですよ? 天音が懐に飛び込むというのなら、伏兵として振る舞うほうが合理的でしょう。ちゃんとオボロ様に頭も鍛えてもらいましたか?」
ねちねちと諭す千影本人も、変わった風向きにあまり乗り気ではないようだが、苦笑いする弟を引き上げてから、下の揺波たちにこう言い残した。
「ちゃ、ちゃんと見てますから。か、勝手に……逃げないでくださいよ……!」
それは弁明のようでもあり釘を刺すようでもあったが、どう答えたものか揺波が迷っている間に天井板が嵌め直されてしまった。
残された揺波は、藤峰に向かって深く頷く。
迷いを払拭するため、争いの空気が未だ残る部屋を二人は後にした。
このとき、月は頭上に輝いて久しかった。障子戸を全て開け放たれた客間は、深夜にも関わらず並べられた行灯と月明かりによって、注意せずともお互いの顔がはっきりと分かる程度には照らされていた。
用意された座布団の上で膝を畳む揺波と、座布団を無視して傍に立つ藤峰。
そして、
「お待たせした。話を、お聞かせ願おう」
二人の正面に座す、古鷹京詞。
彼を覆うのは、眠りを妨げられたものとは断じて異なる倦怠感。そして彼の顔ににじみ出ているのは、やつれた見た目以上の悲壮感。
いきなり本題に入った彼が纏う空気に、揺波は息を呑んだ。
古鷹の下へ至るまでに一悶着あるかと予想していた揺波たちであったが、彼の居室に出向くまですれ違う者はいはしたものの、拍子抜けするほどすんなりとたどり着くことができた。さらには、古鷹の名を呼ぶなり配下の者が即座に面会の場を立ててくれ、今に至る。
およそ先程の戦闘が嘘のような成り行きに却って不安を覚えていた揺波であったが、何かを覚悟したような古鷹の様子は、その不安の矛先を容易に変えさせるものだった。
「夜襲に、遭いました。助けもあって無事でしたが、犯人に叶世座の方々がいました」
「…………」
「古鷹さん、違いますよね? 古鷹さんが指示したことじゃ、ありませんよね……?」
間違いであって欲しいという願いを込めた問いに、古鷹は目を瞑ったまま静聴を貫くのみだった。
それがもどかしくて、揺波は前のめりになりながら、
「だって、言ってたことと違うじゃないですか! 古鷹さんがわたしを襲う理由なんてないじゃないですか! ミコトが欲しい、って……だからわたしに協力してくれって……」
「…………」
「きっと、あの人たちが勝手にやったことなんですよね? じゃなければ、誰かに騙されてるとか……それなら、色々誤解もあると思うんです。わたしはただ、どうしてこんなことが起きたのか、聞きたいだけで……だから、その……また話を……」
相槌すら打たない古鷹を前に、どう言葉を作っていけばよいか迷ってしまった揺波は、この場に来るまでの強い想いとは裏腹に、段々声をすぼませていく。そして場に降りるのは、居た堪れない沈黙だ。
そんなじれることすら許さない静寂の中、古鷹はゆっくりと瞼を上げる。
「あぁ……」
伏せがちな眼差しは、諦観の色を帯びていた。そこにあると分かっていながらも、もしかしたら見間違いではないかと自分を騙すように疑っていた者が、変わることのない現実を直視してしまったような、そんなくすんだ色合いだった。
一つ、大きく息を吸った彼は、気持ちを切り替えようとしたようだったが、揺波を見返す目には諦観がこびりついたままだった。
「確かに。君の言うとおり、私が直接関与したものではない」
「……!」
「独断とはいえ、背信と看做される此度の不始末、信頼回復のためにはまず詫びる他ないだろう」
もたらされた答えは、揺波の抱えていた違和感を正しく説明するものだった。
あとは詳しい説明と、今後どうするべきか話し合う――そんな最善の道筋を浮かべ、僅かながら揺波は肩の荷を下ろそうとしていた。
「だが」
しかし、その安堵は許されない。
むしろ古鷹は、揺波を――追い打つ。
「今の私に、下げる頭はない」
「え……」
彼女にとって、それはあまりに突拍子もない言葉だった。真っ白になった頭に優しく流し込むように、古鷹はさらに言葉を補う。
「私は、彼らの行いを否定する立場にもはやない」
「古鷹、やはり貴様……!」
「問題は、彼らが独断で事を起こしたとか、そういった領域から既に外れているのだよ」
にわかに殺気立つ藤峰を眼中に入れず、古鷹は自嘲するような笑いを零した。
呆然と、処理しきれない想定外の返答を理解しようとする揺波は、決定的な局面を迎えてしまったことすらも十分に掴み取れていない。
揺波が下していた古鷹の評は、彼の思想や街並み、芸から大いに影響を受けている。だが、決して情にほだされていたわけではない。今後の人生、ひょっとしたらこの世にすら影響しかねない彼を、揺波は努めて冷静に、客観的に判じている。故に、彼女の思考を白く塗りつぶしたものは、裏切りによる衝撃ではなかった。
揺波が持っている理屈では、彼の答えが説明できなかった。
揺波に根ざした合理性では、彼の態度を理解できなかった。
「君は……そうだな。結論から入ったほうがよかったか。ならば、今宵の出来事を全て鑑みた上で、私は君に一つの提案をする」
そしてその提案すらも、揺波は、呑み込むことができなかった。
「私、古鷹京詞は、天音揺波に対し、桜花決闘を申し入れる」
宣言する古鷹からは、先程から彼を覆う暗い覚悟しか読み取れない。彼には断じて、氷雨細音や龍ノ宮一志が揺波に宣戦した際のような、燃えるような覚悟は宿っていなかった。少なくとも揺波には、そう思えてならなかった。
何故、と彼女の口から滑り落ちた疑問に、古鷹は取り合わない。
「私が勝利したならば、天音、君は私に従いたまえ。逆に君が私に勝利したならば、君の望むことはなんでも話そう。全て、だ」
「それでは天音の掛け金が重すぎるぞ!」
「優しいことだな。ではこうしよう。私が敗北した際には、古鷹は忍の里に従うこととする。異論はあるか?」
まるで初めから用意していたような追加条件を突き返され、藤峰も言葉に詰まる。
さらに、古鷹の追撃はそこで終わらなかった。彼は懐から取り出した扇子を、閉じたまま畳へ突き立てる。うつむく揺波をさらに下から覗き込む彼の表情は、挑発でも、嘲笑でもなく、暗く汚れた鉄面皮であった。
「提案とは言ったが、君に選択の余地はない。これは決定事項だ」
「ぇ……いや、だって……」
「君が決闘を受けないというのなら、今度は独断ではなくなることになる」
「……!」
「残念ながら前と違って猶予はやれないが、なに、今ここで首を縦に振れば済む話だ。お暇するというのであれば、私の意思で連中を遣いに出すことになるだろう。そのあたりをよく考えた上で、さあ……君の大好きな決闘をしようじゃないか」
意図が読み取れなくなってしまった古鷹は、もう揺波の知っている彼ではなくなっていた。優雅を謳う彼に武力でもって脅されることなど考えられなかった揺波は、突きつけられた選択肢なき提案から吹き出るあの違和感に押しつぶされそうになっていた。
助けを求めるように藤峰を見やるが、苦虫を噛み潰したように口を閉ざしている。反抗心は冷や汗となって流れ出ているようで、もはや何も言うことはできないとばかりに、揺波からも古鷹からも目を逸らしている。
彼女の中から、何故、は消えない。解消すらも許されなかった。それを責める言葉は、彼女の歩んできた道のどこにもなかった。
こんなはずではない。
決闘は、こういうものではない。
その想いが、雫となって目端に浮かぶ。
「わかり……ました。よろしく、おねがい……します…………」
承諾を絞り出すように、頭を下げた揺波の手は、爪が食い込むほどに握りしめられていた。
百戦無敗の英雄にふさわしい試練となれば、当然、決闘だろう。
けれど、その決闘が望んだものとは限らない。
決闘を芯に据えた天音揺波にとって、これは不服の極みと言える決闘だった。
そして、生まれて初めての、彼女の意に沿わない決闘だった。
強いられた決断。その先に待つものは、果たして。
語り:カナヱ
『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
作:五十嵐月夜 原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME