『桜降る代の神語り』第47話:世の趨勢

2018.01.19 Friday

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     敵の本拠地に単騎乗り込んで、敵将と相まみゆ……そう言うと聞こえはいいが、当の本人たる天音揺波の刀は収められたままだった。
     ただ平穏で静かな屋敷に、さしもの彼女も戸惑ったさ。一瞬、立場も忘れるほどにね。
     そしてそれは、招いた張本人と相対したところで、何ら変わることはなかった。
     いやむしろ――天音揺波はそこで、戸惑いを加速させることになる。敵将と認識していた古鷹京詞が示した、大きな選択肢によってね。

     

     

     


     都の大路を真っ直ぐ行くことしばし。突き当たった一帯には政所が立ち並び、さらに奥へ進むと、左右に果てなく続く白塗の塀と彫刻の施された大きな門が出迎えてくれる。そこから先は古鷹邸の敷地内だと仲小路に聞いた揺波は、実家との比較を早々に諦めた。
     門をくぐってまず目に入るのは、精緻に整えられた庭である。通された道以外は、基本的に玉砂利が敷き詰められているか、綺麗に刈り揃えられた芝が広がっているか――どちらにしても、立ち入るのが憚られるような完成された景色だ。葉も花もつけていない枯れ木にどうしてか目を引かれる揺波は、野山のそれとの違いを言葉にできず、呆然と眺めるのみであった。

     

    「あのような立派な門こそ構えられておりますが、この素晴らしい庭は、領民の方でしたら簡単に鑑賞できるのですよ。大社までとなると、そういうわけにはいきませんが」
    「大社? お屋敷に、社があるんですか?」
    「ええ。さらに奥へ参りますと、白金滝桜を戴く古鷹大社がございます。そちらには舞台が用意されていまして、我々叶世座も上がらせていただくことがあります。限られた方のみのご招待となりますが……当主殿とお近づきになられるようでしたら、機会もありましょう」

     

     古鷹の本邸は、そんな風流な庭園の一部であるかのように広がっていた。高さもなく、華美にすぎる装飾もなく、巨大な城のように一目見てあっと言わせられるような屋敷ではない。だが、庭園の優雅さを華をつける草木だとすれば、然と彼らの礎となる重厚な大地こそがこの古鷹邸である。龍ノ宮城を比較対象にしていた揺波は、佇まいの静謐さにただただ息を呑む。

     

    「では、こちらへ」

     

     そして揺波が案内されたのは、屋敷の中そのものではなかった。外れるように横へ横へと向かっていくと、こぢんまりとした離れが見えてくる。刀を持つようになる前の頃に、教養として教えられた記憶を辿れば、質素なその庵はきっと茶室であると揺波は少し困惑する。

     

    「あの、わたし……」
    「中で当主殿がお待ちです。ご不安なようでしたら、刀はお持ちのままでも構わないと」

     

     大丈夫だから、とでも言うような仲小路の微笑みに送られれば従うしかない。
     作法もへったくれもなく、刀を先に差し入れると、袂に身を隠すホノカをやや気遣いつつ、狭い戸口から中ににじり入る。
     適当に後手で戸を閉めれば、四畳半の庵に二人きり。
     花瓶の飾られた床の間の前には、初老の男が。

     

    「直に出迎えなかったこと、平にご容赦願いたい。――ようこそ、古鷹へ」

     

     落ち着いた色合いの着物に身を包んだ身体は、やや痩せぎすで頼りない。けれど、背中に筋の通ったような居住まいが、先程庭園で見たような、どうしてか目が離せない力強い枯木を感じさせる。そこにはもちろん、荒してはならないという忌避感もまた存在している。
     古鷹家当主・古鷹京詞。
     目下、瑞泉に次ぐであろう、敵の大将格。揺波にとっては、大家会合以来、二度目の邂逅となる。

     

    「お久し……ぶり、です」
    「まあ楽にしてくれ、形式張るつもりはない。武人として来た者に、いきなり作法を問うような真似はしないさ」

     

     言われた揺波は膝を折り、ぽっかり空いた畳の穴に収まる釜を挟んで、彼と相対する。敵意こそないが、その手に煌めくミコトの証が重圧をかけてくる。衰えもなく、以前の印象通り強者であることは間違いないようだった。
     不安げに壁に刀をたてかけた揺波に、古鷹が小さく苦笑する。

     

    「そう構えないでくれ……と言いたいところだが、そちらにしてみれば『どの口が』といったところなのだろうな」
    「あの……よかったんですか、刀」
    「いい。君をここに呼ぶ通行料のようなものだ。それに、この狭い茶室ではろくに振り回せんだろうしな。暴れてくれるなよ? 茶器のどれもが一点物だ」

     

     わざとらしく飄々と答える古鷹に、やはり揺波はやりにくいものを感じる。忍の里を襲った非道との差ということなのだろうが、それを出汁に煽っているわけではなさそうという直感が齟齬を生む。
     何か、認識が間違っている――そんな感覚に苛まれた揺波は、自分にとって明快に事を進めるべく、単刀直入に問うことにした。

     

    「どうして、忍の里を襲撃したんですか」
    「なるほど……どうして、ときたか。存外、落ち着いているようで助かる」
    「……っ! 死んだ人だっているんですよ!?」

     

     淡々と答える古鷹に反射的に食って掛かる揺波であったが、

     

    「確かにそれは事実だ。だが君の言う『何故』は、憤りだけから生まれたものではあるまい」
    「え……」
    「その言葉を受け止める義務が私にはある。だが、謗るためにはるばる来たわけではないだろう。君の目は、真に理由を欲している目だ。虚飾というわけではもちろんないのだろうが、君自身が最も知りたいことは別だろう」

     

     揺波はそれに、咄嗟に反論できなかった。思考の流れるままに手に取った問いは、自身でも主題ではないと考えていたからだ。
     彼女が問うべきは、どうして、ではなく、どうやって。

     

    「……襲ってきた仮面の人たちは皆、同じ篭手をつけてました。それを使ってか、ヒミカさんの炎を武器にしていました。ミコトじゃない人でも、です」
    「…………」
    「反対に、忍の人たちは満足にメガミの力を使えなくなったと言っていました。どっちもおかしいことですけど、一度に起こればもっとおかしい。あれは、なんですか? 一体、何が起きてるんですか?」
    「確かに、尋常ならざる現象だな」

     

     す、と差し出されたのは、一切れの羊羹の乗った漆塗りの小皿だ。菓子切と懐紙も添えられている。
     いきなりの菓子にどうしたものか迷う揺波の様子を見てか、古鷹は率先して半分ほどに分けて口に運んだ。それに倣った揺波は、上品な甘さが舌の上に広がるのを感じつつも、相手の調子になっていることに早くも微かな焦りを覚えていた。

     

    「これが天災の類でないことを思えば、きっと歴史の語り部が喜々として後世に語り継ぐことだろうよ。人の身に、このような所業を編纂する術があるとは思えんからな」
    「なら、古鷹さんはやっぱり訳を――」
    「おっと。その話に移る前に、君はまだ知らない、この場を用意した前提について明らかにしておくことにしよう。招いた理由も伝えなければ、話は先に進むまい」

     

     案内した仲小路は、ついぞ揺波にそれを話してはくれなかった。だから彼女は、この茶室に入るときも、そして明かされようとする今このときも、覚悟を持っておくことぐらいしかできはしない。
     特に態度を変えることもなく、古鷹は続ける。

     

    「二つ、理由はある。残念ながらその中に、君の問いに答える、というものはない。だが、君の存念は理解できる。故に、ここは交換というのはどうだろうか。私の知りたいことを教えてくれたら、君の知りたいことも教えよう」
    「お、オボロさんたちのことなら、お話できることは何もありませんよ!」

     

     狼狽えた揺波に口角を上げる古鷹。揺波は藤峰から、あまりこちら側の情報を出さないように、と道中忠告されていた。しかし、このあまりに露骨な反応を藤峰が見れば、先が思いやられるあまり、目を覆い天を仰ぐことだろう。

     

    「なに、それを問うつもりはない。そもそも、だ。私自身、君から無理に情報を聞き出して森を焼こうなどとは思っていない。もはや信じてもらうしかないが、私はこの件に積極的な立場にはない」

     

     どっと疲れたように言い捨てる彼もまた、露骨であった。それが本当であれば、彼に対する印象の齟齬も説明できようが、演技か否か、揺波には判断できる能力も材料もない。
     ただ、そんな揺波の複雑な思考も、次の一言で真っ白になった。

     

    「聞きたいのは、氷雨細音の動向についてだ」
    「……へ?」

     

     突拍子もない名前に、間の抜けた声が漏れてしまう。ただ、古鷹はそれをあげつらうことなく、至って真剣に事の次第を説明し始めた。

     

    「御冬の里で決闘を行う、というところまでは知っている。だが、そこへ赴いて以降、一切の連絡が取れんのだ」
    「は、はあ……それでわたしに?」
    「相手は君だったのだろう? 当事者に聴取するというのは道理に適っていると思うのだが。あやつはたまにぶらりと放浪することはあっても、こうも連絡のとれない事態になったことはなかった。雇い主としても、動向を掴み損ねているというのは問題だからな」

     

     眉尻を僅かに下げた古鷹の表情は、心配そのものだ。彼のことが、揺波はますます分からなくなる。
     とはいえ、気を張って隠す類の問いでないことは揺波の緊張を和らげる。加えて、当事者であったとしても、氷雨細音という好敵手の行方ははっきりとしないままだ。ここに至るまで、誰にもそのことを話す機会のなかった揺波にとっては、水を向けられたと言ってもよかった。

     

     そんな懸念も含め、揺波はあの決闘の顛末を古鷹に語って聞かせた。その後について追求されたらどうしよう、とやや不安に思っていた彼女であったが、古鷹の示した反応はその逆、納得であった。

     

    「ほう……よもや氷雨がな」
    「あ、あの……つまりどういうことなんですか?」
    「案ずる必要はなかろうよ。あやつは別天地でよくやっていることだろう」

     

     膝下に視線を落とした古鷹の顔が、ほんの僅かに綻んだ。納得を得られたのならいいか、と揺波もそこで引き下がる。健在であるのなら、また次もあるのだろう――そう、あの雪原で打ち合った時間を懐かしむ。
     と、間をとるように残りの羊羹を口に収めた古鷹は、今まで通りの起立する枯木のような顔つきに戻った。

     

    「では、感謝と共に私も義務を果たすとしよう。君が今追っている流れについてだ」

     

     揺波もまた、姿勢を正す。これこそが本題であり、真に彼に対する態度を決める局面である。

     

    「初めに断っておくと、我々とて事態の中心ではない。我々は、君たちよりも少し上流にいるというだけで、山の源泉から全てを眺めているわけではない」
    「仕方ないことだった、ってことですか」
    「人間は、滝を登れない。ミコトであっても、だ」

     

     順を追って話そう、と責める揺波を受け流す。

     

    「ミコトに出ている影響は、概ねそちらが把握している通りと考えてもらって構わない。古鷹に属するミコトや、氷雨のような雇いからも同様の症状が報告されている。ただし個人差は著しく、二柱とも同程度、という例は稀だった」
    「どっちも宿せなくなったミコトもいるんですか」
    「ああ。雇いの者だったんだが、泣いて国に帰ったよ。……だが、そんな者たちのおかげで分かったことがある。個人差は、ミコトにではなく、メガミに対しての修辞であることがな」

     

     大げさに頷いて見せる揺波は、もう知っていますと言わんばかりである。古鷹は特に咎めも言及もしなかったが、代わりに一つ、問いを差し向けた。

     

    「ところで君自身は、影響を受けたかね?」
    「え、あ……そういえば、結局なんともないままです。それも不思議で」
    「君は確か、ザンカを宿しているのだろう? 聞きしに勝る武神――風聞する限りでは、現在宿すのは君一人のはずだ」

     

     遠慮がちに頷く揺波。彼女はザンカに対して、他のミコトのような特別な感情を持っていない。だから特異なことだと指摘されたとしても、今ひとつ実感が湧いてこない。
     古鷹はその返答をじっくりと噛みしめるように、深く目をつぶる。

     

    「ああ、よかった。私も似たようなたちなのだが、君の希少性には敵わん」
    「それって……他に全然宿してる人のいないメガミだったら、影響を受けない、ってことですか?」
    「だと推測している。概ね、認めた者しか宿すことを許さないようなメガミについては、宿すにほぼ支障はない。影響を受けたミコトの情報を並べる限り、そのような法則性が浮かび上がったのだが、それはつまりミコトにではなく、メガミに問題が生じている可能性を大きく支持するものだ」

     

     導き方が逆にせよ、オボロたちとすり合わせた認識と相違ないことに安堵する揺波であったが、そこで決定的な事実に気がついた。
     原因を現象から推測している古鷹はつまり、

     

    「じ、じゃあ古鷹さんは、その何かに、ただ巻き込まれてる側だってことですか!? 仕掛けた側じゃなくて!?」
    「そんなに意外か?」
    「だって……」

     

     愕然とする揺波。分かりやすく繋がっている古鷹に解答を求めたのに、当の本人が完全な被害者側では得るものも得られない。よしんば影響を受けていても、対策しているか、因果くらいは理解しているものだとばかり思い込んでいたのである。
     揺波には、彼への認識のずれの一端がようやく見えた。一対一の決闘ならば相対する者は皆明確な敵であり、殺し合いなら皆明確に切り捨てる相手であるが、己よりも上流に位置する者が皆明確な敵というわけではないのだ。

     

     瑞泉との繋がりを持って、忍の里を襲ったのは間違いない。
     けれど、瑞泉側であるのに、ミコトを襲う現象については仔細を知らされていない。
     つまり、単純な力関係さえ分かってしまえば、自然と行き着く一つの可能性。

     

    「襲撃は、瑞泉がやれ、と……?」
    「…………」

     

     否定はなかった。肯定は、無表情のその奥にしまわれている。
     古鷹は問いかけに直接答える代わりに、極めて客観的な事実を述べる。

     

    「瑞泉は、この現象を掌握しているという。それを交渉の札として、多くの地域に政治的圧力をかけている。民のほとんどは知らないことだろう。裏側から、瑞泉は全てを掌握しようとしている」
    「いくら、なんでも……他の大家とかは……」
    「ここもその一つなのだがな。時に、君はあの絡繰をもう知っているだろう? 桜の下でなくとも、宿しておらずとも、あまつさえミコトでなくとも、メガミの力を使えるあの絡繰を」

     

     それが、と言いかけた揺波は、零すように古鷹が口にした言葉に遮られた。

     

    「悲しいかな、あれは武力だ。直接的な圧力となる、武力だ。忍以外にも、それは例外なく差し向けられる。いや、差し向けられた、と言い直そうか」
    「……!」
    「伝え聞くに、クルルというメガミが作ったものらしいが、まさかメガミの創造物が人々の争いを助長させることになるとは、ヲウカ様も頭を痛めるやもしれんな」

     

     それは、愚痴以外の何物でもなかった。もう、揺波には感情を燃やす以外、彼を糾弾する燃料は残っていなかった。
     辛うじて揺波が拾えたのは、クルルという名前だけ。細音との決闘で埋没することとなっていた記憶を辿れば、また一つの現実の形が見えてくる。

     

    「細音さんが、わたしと決闘する前に、クルルに会った、と言っていました。怪しい装置の実験台にされて、細音さんが宿していたメガミの力が奪われたようだ、とも。それって、絡繰の篭手と無関係じゃあ……ないですよね」
    「メガミの力への干渉か……ああ、ああ! それならば、なるほどそうだろう。尤もらしく筋が通る。だが……歴史に残る偉業とて、鏃とされれば血に塗れるだけだろうに」

     

     深いため息に乗って、憤りが彼から吐き出されていくようだ。
     これ以上何を訊けばいいのか、揺波には分からなくなっていた。決め込んだ覚悟への見返りが得られるものだと信じていた彼女には、瑞泉がより大きな脅威であると再認識できただけのこの会談は、足踏みとしか思えなかった。いや、いっそ里の犠牲を思えば、矛先を惑わされただけ後退ですらあるのかもしれなかった。
     彼の言うとおり、古鷹は立派な大家だ。その古鷹ですら、瑞泉の力に歯噛みしているのが現状だった。

     

     茶室に降りる沈黙が、痛々しかった。
     耐えかねたように、古鷹は釜から湯を汲んで、茶を立て始めた。持ち出した茶器のあれこれに言葉を尽くすこともなく、ただ黙々と茶筅が抹茶をくすぐる。
     と、彼が手を止め、再びの静寂が訪れたときだ。

     

    「そういえば、二つ目がまだだったな」
    「……?」

     

     差し出す茶は新緑のような鮮やかなもの。揺波はうろ覚えの知識で受け取り、さらりとしたそれを口に含む。刺すような苦味ではなく、色合いのように爽やかさが印象に残る苦さであったが、なお揺波の顔は渋い。
     素直に茶碗を置いて礼をした揺波を見て、古鷹が持ちかけたのは、ある提案だった。

     

    「天音。私の下で、決闘代行をする気はないか」

     

     口の中に残る苦味すらも忘れるほど、それは揺波の意識の外からやってきた。
     言葉を失くしている様に、補足が必要か、と古鷹はさらに続ける。

     

    「知っての通り、氷雨は既に私の下を離れた。年も考えれば、あやつほど実力のあるミコトは稀有だ。他にも雇いの者はいるにはいるが、粒ぞろいとまではいかない。その点、君はあの氷雨と互角に渡り合い、以前には岩切以北の桜を総嘗めする勢いだった」
    「………」
    「辛いことを思い返させるようで恐縮だが、もはや天音家は用をなしていない。なれば、名実共に優秀な君を放っておくのはもったいないとは言えないかな」

     

     彼の言葉は、理にかなっている。正直、揺波からしてみれば、願ったり叶ったりの提案だ。決闘を礎として生きていく身に、それ以上の処遇は到底思いつかない。
     しかし、揺波には首を縦に振れないだけの感情が、まだ残されている。

     

    「わたしは、あなたを許したわけではありません……! 忍の里に恩義がある以上、そこに手を出したあなたに加わるなんて……申し訳が……」
    「尤もだ。開口一番にそのことを問うただけの隔意、むしろ忘れられては困る。私は、責められるだけのことをした。私が、やったのだ。その事実に変わりはない」

     

     だが、と結ぶ古鷹の表情は、細音のことを話題にしたときと同じそれ。

     

    「もはや世の趨勢は瑞泉に傾きつつある。諍いを忘れたこの地は、水の染み入る紙が如し。その手の速さは、実際に見てもらったほうが分かりやすいだろう」

     

     

     そう言うと古鷹は、袂から一枚の丸めた紙を取り出した。畳の上に広げると、それが地図であることが分かる。蟹河で細音にもらったものよりも、もう少し海岸線がはっきりしていた。そして何より異なっているのが、大地が色分けられていること。
     細音に教えられた地理を紐解けば、大地の中央あたりが天音家のあった岩切であり、そのまま南下すると咲ヶ原、瑞泉と続く。龍ノ宮は岩切の南東、咲ヶ原の東であり、そこから海に至る赤南・赤東を含め、以降は全て龍ノ宮領地である。
     ……その、はずだった。

     

    「わかるか? この南に広がる一帯は、現在全て瑞泉支配下にある」
    「龍ノ宮さんの……領地は……」

     

     僅かに首を振る古鷹に、揺波は返す言葉もない。
     元々、南端に位置するほど小さな領地を持つ瑞泉は、いまや南の海岸線を独占する勢いで勢力を伸ばしていた。
     加えてだ。湾を囲む土地に位置するのが瑞泉領、と覚えていた揺波は、さらにその西にまで支配が及んでいるのを見て取った。その半島には煙家が、その北隣には菰珠が――二つの大家が、存在しているはずだった。

     

    「ここ、もしかして……」
    「直接的な、圧力だ」

     

     それ以上の説明は不要だった。
     奸計によって自分の家が滅んだことを、否が応でも終わりと刻み込まれていた揺波は、その終わりから更なる終わりへ向かって加速度的に事態が進行しているのだと、視覚に訴えられることでようやく実感を得た。
     これが、ミコトとメガミの仕組まれた不調に端を発しているというのなら。
     未来予想図は、あまりにも、黒い。

     

    「理解してもらえたようで何よりだ。多くを聞かせた甲斐があった」
    「本当に、起きてることなんですか……」
    「間違いなく事実だ。だからこそ、受け入れがたいと知っていても、君の利のために雇用を提案している。恩義は理解するが、恩義のためだけに君が忍と命運を共にする必要はない」

     

     袂に地図を戻した古鷹は、重い空気を纏っている。今まで表に出すまいと努めていたものが、限界を迎えたかのように溢れ出したかのようだ。
     気苦労の絶えない領主と呼べば、まだ愛嬌も湧くだろう。
     実際は、激流と化した世情の中、憤怒の顔で起立し続ける当主こそが、古鷹京詞という男であった。

     

    「家長もミコトも不在となれば、天音もすぐにこの流れに呑まれるだろう。そこに残った大切な人々もだ。死んでは、誰も守れない。我々ならば、新世代の覇王にもほど近く、うまく立ち回れることだろう。だから……今は、私に協力はしてくれないだろうか」

     

     深々と、美しさすら感じる礼をされたところで、揺波は困惑を増すばかりだった。
     揺波には、事態の解決を図るだけの道理があり、オボロたちへの恩義という感情もある。だが古鷹もまた道理と感情を与えてくれた。何より、オボロと同じ命運という言葉が、揺波をいっそう惑わせる。そのせめぎあいは、想定通りに事が運んだ次の一手を繰り出そうと考える自分と、背を流れる冷や汗に一歩引こうとする自分が、決闘中にいがみ合うようなものである。

     

     そうやって迷っていると、顔を上げた古鷹は儚げに笑みを零した。催促の意はなく、得心がいったように揺波の気持ちを推し量っていた彼は、大きく手を叩き鳴らした。外からは、仲小路の存在を主張する声が短く届く。

     

    「急いで答えを出す類の話ではない。――部屋を用意させよう。当分の間、落ち着いて考えなさい。君が満足の行く答えを見つけるまで、好きなだけ居るといい」
    「ありがとう……ございます。あの……お茶、すみませんでした。お作法もろくに覚えてなくて……」
    「いいんだ。礼儀作法は、敬意を示すもの。礼の心があれば、後からついてくる。この状況下では、むしろ口すらつけてくれんと覚悟していたんだがな。作法を学びたいのなら、なんなら茶道の講師でもつけるかね?」

     

     曖昧に笑って応じる揺波が戸を開けるなり、古鷹の態度から重苦しい空気が消えていった。外にそれを晒さないその気丈さを称えるべきなのか、己だけに明かしてくれたことを喜ぶべきなのか、揺波には判断しかねた。
     最後に、と古鷹は付け加える。

     

    「これだけは覚えておいてほしい。誰にでも、守るべきものがある。この都は、そういったもので満たされているという自負もある。そして、守るべきものを持つ者は、守らねばならないときを必ず迎える。今度日を改めて、君に私の大切なものを見せるとしよう」

     

     それっきり、彼は何も言わなくなった。ずっと目を閉じて、茶室に生えた一本の枯木になったように、思想の海へと旅立っていったようだった。
     戸口からにじり出た揺波は、手にした刀が随分と頼りなく感じられた。
     これでは、激流に静かに抗い続ける枯木にすら、傷一つつけられないのではないかと。

     

     

     


     天音揺波は、それまでも確かに歴史に名を連ねる者だった。
     けれど、彼女は家という規模を越えて、更なる歴史の岐路にはっきりと立たされることになった。
     英雄は、現実を知る。快刀乱麻を断つ彼女ですらも刃先を震わせるほどの現実を。
     現実を知った彼女は、これから先、どう向き合っていくのだろうか。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME  地図作成、設定:夏野トキユキ

     

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