『桜降る代の神語り』第43話:戦火の後で

2017.11.24 Friday

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     天音揺波たちにとって、あの助けは青天の霹靂と言う他なかっただろう。
     なにせ隠れ里の窮地に、鞠つきでもして遊んでいるような子供が現れたんだ。冗談みたいだろう?
     けれどそれは、襲撃者たる叶世座一行にとっても同じこと。
     どんなに気の抜けた名を名乗っても、彼女の力は本物だったんだからね。

     

     


    「ぽ、ぽわ……? なんだって!?」
    「ユリナさんたちにこんな酷いことするなんて、許せません!」

     

     困惑の色を隠しきれない翁面に、その少女がもう一度名乗ることはなかった。代わりに露わにした憤慨は、いかに彼女が可愛らしい身なりであったとて、真剣さを噛み締めざるを得ない圧力を伴っていた。
     そんな中、少女は何かを掴むように右腕を横に突き出した。

     

    「わたしがやっつけてあげます!」

     

     すると、彼女の手の中に四方八方から桜色の光が集まっていく。それらは次第に棒状の形を成し、小さな手に握りしめられる。長さは優に彼女の身の丈を越えており、頭二つ分も飛び出ている。だが、手中に収まるのはただの棒だけではなかった。
     ひらり、と。棒の先から、光の布が尾を引いていた。さながら、桜の花びらを織り合わせたような生地が、戦火に包まれる忍の里で気高く、されど優雅に、その身を泳がせていた。

     

     カン、と少女が地面を打ち鳴らすそれは、旗。
     揺波たちミコトが思わず決闘を思い起こし、奮い立ってしまうほどに、その旗の桜色は力強い。決闘に向かう道すがら、ようやく神座桜が見えてきたときの高揚感に似ているのだと、揺波は刀を持つ手に力を込め直した。

     

    「ぽわぽわちゃん、行きます!」

     

     

     そして少女は、その旗を自分の背後から正面に向かって、思い切り振った。その軌跡からは桜吹雪がこぼれ、同時、先程翁面を襲った翅を持つ桜の光球が、洪水のように旗の指し示す方向へ突撃していった。
     光球の濁流は仮面たちを食らう蛇のように、戦場を瞬く間に駆けていく。一つ一つは微々たる衝撃でも、まとわりつかれれば急流に足を取られたように身動きはとれない。さらに、ただでさえ仮面で欠けている視界を光で潰されては、現状の把握もままならない。

     

    「う、おぉぉ……! 邪魔だ!」

     

     光の流れから、時折叫びと共に炎が吐き出される。が、光球の勢いは留まることを知らず、十は下らない数の仮面たちが無力化されていった。

     

    「この小娘がっ!」
    「ぽわぽわちゃん、危ない!」

     

     光球の誘導に気を取られていたのか、揺波が叫んだときには、少女の死角に入り込んだ仮面の男は炎を放つべく構えたあとだった。
     しかしそこで、少女の顔に焦りの色が浮かぶことはなかった。

     

    「えいっ!」

     

     咄嗟に翻した旗を、下から上へ振り上げる。地面からすくい上げるようなその動きに応えるように、足元から吹き上がった桜の光は、すんでのところで放出された炎を受け止める。
     思わぬ対応に狼狽えた仮面へ、少女は反撃の動きを作る。くるりと回転しながら一歩飛び退り、天を指した旗を仮面へと向け直せば、より強烈な勢いで光の玉が突進していく。今度は身動きを封じるどころか、弾き飛ばされた男はほうほうの体で距離をとっていった。

     

    「オォ、スゴイデス……」
    「えへへー、そんなことないですよっ」
    「えっ、ジュリアさん……!?」

     

     少女の後ろ、まだ無事な家の戸から顔を出していたのは、間違いなくジュリアその人であった。見知ったように謎の少女と言葉を交わしていることはともかく、戦闘能力のないジュリアがこの場で姿を晒していることに揺波は不安を覚える。
     しかし、彼女を守るべきか否か、その判断は無用のものとなる。
     戦場に響く嘶きは、ジュリアを守るための矛のもの。傍にあって然るべきそれは今、赤い仮面の男を追い立てながら姿を現した。

     

    「あなたは防げても、他はどうかしら!?」

     

     ひゅん、と空気を裂く音が離れた揺波に伝わってくるほど、鋭く唸るのは剣の鞭だ。しかし狙いは赤面ではなく、忍相手に立ち回る翁面である。
     回避が間に合わないと察した翁面は、本能的に腕でかばってしまう。歯車仕立ての複製機構が、留め金を外されたようにばらばらと崩れていく。
     赤面を相手にしつつ忍に加勢するサリヤだが、ヴィーナの細かな駆動は両立をきちんと叶えていた。長く尾を引く鞭は、炎の朱と桜の光を受けて艶かしく輝いている。

     

    「なんだこれは!? 聞いていないぞ!」
    「じゃあ最後まで聞いていきなさい、よッ、と!」

     

     急停止の勢いを使って放たれる剣は、桜の光に溢れる光景に戸惑う赤面に吸い込まれていくが、幾度となく阻んできた桜色の兜は未だ健在である。
     けれどサリヤには今、なかったものがある。

     

    「たああああああああああっ!」
    「ぬぅ!」

     

     猛然と駆け込んできた揺波の一刀を、地面に倒れ込むようにして回避する赤面。すかさず揺波は追撃を容赦なく突き入れるが、転がる男は首を跳ね上げて兜で受け流す。
     避けられるか受け止められるものとして体重を込めていた揺波の身体は、軸をずらされて僅かに傾ぐ。そこへ赤面は、爆発と見まごうばかりの炎を放って彼我の間合いを離した。

     

     天音揺波がいる。ヴィーナを駆るサリヤがいる。そして、桜の光を操る少女がいる。
     忍だけでは、そして各々だけでは対処しきれない相手であっても、まとまれば十分に対抗できる。桜の光の奔流は相手を倒しきれるものではなかったが、質と量を備えた相手に対する一手としては最善に近いものであった。

     

    「潮時か……」
    「撤収! 撤収!」

     

     その厄介さを認識した叶世座の動きは早かった。戦闘も破壊工作もぱったりとやめ、ある者は北の入り口へと、ある者は森の中へと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。赤面の男だけが、森に逃げ込む直前未練がましく樹を焼いた。
     彼らの姿が見えなくなるまで、そう時間はかからなかった。
     いなくなってみれば、燃え盛る森や家々が嘘であるかのように、嫌な静けさが場に降りた。

     

    「終わ、った……?」

     

     その理不尽さに耐えかねたように、揺波はぽつりと、事実を反芻することしかできなかった。

     

     

     

     


     重点的に攻められた北側を中心に、散発的な攻撃のあった南側を始め、人との戦いが終わったあとは火災との戦いが待っていた。
     住人たちの能力の高さもあって、家屋への被害は初動の速さによってかなり抑えられている。だがその一方で森に放たれた火を鎮めるにはかなりの手間を要した。元々湿気が多く、加えてオボロの熊介がうまく樹を倒して延焼を防いでいたにも関わらず、火の手は広範囲に広がっていたからである。

     

     それでも、夕暮れ時までに一旦の消火が落ち着いたのは統率された忍の為せる技か。
     今はオボロの号令の下、治療中の者や外周の見廻りを除き、里の中央広場に全員が集められていた。

     

    「いつか血を見る事態にまで発展するのではないかと考えていた。だが、それは今日、この日に為された。犠牲となった者は少なくない。里もこの有様だ。失ったものは多い。そして、古鷹という盟友もまた、我々は失ったに等しい。それを拙者は、残念に思う」

     

     ただし、と熊介の背に乗った隻腕のオボロは続けようとする。傍で控えていたサリヤとジュリアは神妙な面持ちでそれを聞いていたが、揺波とハガネは、間にいる謎の少女のことが気になって仕方がないようであった。それは忍たちもまた同様であった。

     

    「運命の日がこの日であったことは、むしろ幸運だった。我々は、失ったと同時に、新たな戦友を得ることができた。桜の光に救われた者は、彼女に感謝す――」
    「ぽわぽわちゃんありがとー!」
    「……!」

     

     いきなり、オボロを揺波が遮って、少女に抱きついた。ハガネは少女の手を握って、彼女の名前を連呼しながらぶんぶん上下に振っている。

     

    「ほんっと、すごかった! ぽわぽわちゃん、あんなことできるなんてびっくりしました!」
    「そ、そうですか?」
    「うんうん、ふぁーって光って、だーって敵やっつけちゃうんだもん!」
    「ふ、ふぁー?」

     

     厚い感謝に困惑する少女であったが、その有様にため息をもらしたオボロは、やがて小さく笑みを作った。

     

    「改めて、拙者からも礼を言おう。助力がなければどうなっていたか――」
    「あっ」
    「あ?」

     

     今度オボロの言葉を断ち切ったのは、その少女自身だった。
     少女はそれから何も告げることなく、

     

    「あれ、消え――わたた!」

     

     突如として抱きついていた身体が失われ、倒れそうになった揺波はハガネに支えられる。
     視線を戻したとき、そこにはあの桜色の光がふわふわと浮かんでいた。

     

    「ふむ、あの顕現体を維持できるほどの力がなくなったのだろう」
    「顕現体……? って、それって」

     

     頬に擦り寄ってくる光に構いながら、揺波は引っかかった単語から得られる推論を、オボロに差し向けていた。
     オボロは揺波の意を汲みとり、

     

    「結論から言えば、それは生まれたばかりのメガミだ」
    「え……」
    「以前から気配は感じていたのだが、確証もなくてな。それに、拙者もメガミの誕生を見たのは数えるほどだ。詳しい説明は省くが、今回の場合はおそらく、人間が成ったわけではなく、メガミとして発生したメガミだろう」

     

     忍の間でどよめきが起きる。
     その様子にオボロへ質問を投げかけたのはジュリアである。

     

    「トッテモ、珍しいなんです?」
    「拙者もここに留まって長いからなんとも言えんが、最近ではそうだな。それに、こちらで生まれたメガミは、すぐに桜を通ってメガミの座に向かうのが常だ。生まれる瞬間も、生まれたメガミも、普通の人間が見ることはまずないだろう」

     

     ただ、と繋げたオボロの表情はやや渋い。

     

    「今の状況で座に向かうのはおすすめしかねる。拙者やハガネから分かる通り、何かが起きている。そんな中で強行するよりも、一段落するまでそのまま揺波の左手に宿っているのがいいだろう。――まあ、本人はそれが気に入っているようだから、問題ないようだがな」
    「ずっとユリナちゃんに宿っているのは何か問題が?」
    「分からんな。メガミをまるごと宿すなど大抵のミコトでは耐えきれたものではないが、生まれたてだからできるという可能性もある。拙者は一般論として、座に収まるのが自然だ、と言っているだけにすぎん。具体的なことは不明だ」

     

     回答を得たサリヤは、件の左手を心配そうに見つめた。揺波は揺波で、己のそれを不思議そうに眺めている。
     そんな様子を見て取ったオボロは、口元を少し緩めて、

     

    「まあそう深く考えるな。友好的であることは間違いないのだから、よくない事態に発展しそうになったら素直に伝えてくるだろう」
    「悪い子じゃないもんね!」
    「ハガネがそう言うのなら尚更だ。――しかし、拙者にも不可解なことが一つあってな」
    「……?」
    「いや、まさかとは思うのだが、あの権能がな……」

     

     顎に手をやって考えるオボロは、その推測が合っていて欲しい気持ちと、間違っていて欲しいという気持ちが同居したように複雑そうな表情を醸し出していた。
     ややあって、

     

    「もしや揺波、其奴の名は……?」

     

     オボロはそう、揺波に問うた。
     無論、揺波は迷いなく答える。

     

    「ぽわぽわちゃんです!! わたしが考えました!」

     

     胸を張って。いっそ、気迫すら放っているかと思うほどに、堂々と。

     

    「……………………」

     

     揺波とハガネ、そして本人以外、告げられたその名に固まっていた。何故か、オボロの眼鏡が、ずり落ちた。

     

    「い、いや……愛称ではなく、真名を――」
    「ぽわぽわちゃんです!!」

     

     くらり、とオボロの身体が傾いた。辛うじて一歩、踏みとどまろうとしたが、そこは不安定な熊介の背中の上である。踏み外し、滑り落ちそうになったオボロをサリヤが慌てて支える。
     この取り乱し様になお取り乱したのは忍であったが、あまりに純真な揺波に反論できる者はいるはずもなかった。

     

    「待て待て待て! もし拙者の予感が正しければ、いくらなんでもそれはあんまりだ!」
    「でも、ぽわぽわちゃんも気に入ってますし……」

     

     オボロの傍では、その名を誇るかのように桜の光が飛び回っている。
     思わず天を仰ぐオボロ。ハガネも愉快そうに笑っているし、ジュリアとサリヤは苦笑いをこぼすのみで、味方する者はいない。だが、メガミの矜持にかけてもここは譲るわけにはいかないのであった。

     

    「流石にメガミの名がそれでは問題だ! 頼む、なんとかその……ぽわぽわ! ぽわぽわというのを尊重した名にするから勘弁してくれ!」
    「えぇ……これ以上いい名前なんてないと思うんですが……」
    「ええい、しばし待て! 今考える!」

     

     不満を露わにする一人と一体を無視し、ぶつぶつと考えを口に出しながら、永き未来に渡って残る非常に重要な名を検討し始める。

     

    「ぽわぽわ……ぽわぽわとは何だ? 浮かぶ、和やかさ、可愛らしさ、あとは……ぐぅぅ、愛称から名付けるとは何たる理不尽!」
    「だからぽわぽわちゃんで……」
    「形状からも考えよう。桜、光、翅、球――本質は桜と……光もか? 光……ひかり……陽ではなく、灯りの光……浮かぶ灯り……はっ! そうか、形状や動作ではなく、光の印象! ぽわぽわした光……行灯の火のような、穏やかな光…………これだ!」

     

     腿をぽんと叩いたオボロは、難題を解き終えたような晴れやかな顔で、解答を述べる。

     

    「ホノカ。いいか、このメガミの名前はホノカだ。断じてぽわぽわちゃんではない!」

     

     普段見ることのない元祖の姿に、忍たちはまばらな拍手を送る。
     無論、不服の構えを崩さないホノカは、叶世座たちを撃退したとき以上に力強い体当たりの連打を繰り出していた。
     それに知らんぷりを通すも、揺波が少し頬を膨らませているのを見て、オボロはこれ以上平和的な解決は見込めないと悟ったのか、「決まりだ決まり!」と叫ぶと、

     

    「このホノカだが、実際その力を目の当たりにした者も多いだろう。生まれたてとはいえ、この状況下においてメガミの助力ほどありがたいものはない。連中が所構わずメガミの力を使ってきた以上、戦力的な不利は免れなかったが、局所的には解消の希望も持ち得よう」

     

     強引に畳まれようとするも、戦略的な話には揺波も口を挟むことはできず、抵抗勢力は長く垂れたオボロの髪を弄ぶホノカだけとなった。
     それに安心したのか、オボロは話をこの状況に対する大局的な所感へと変える。

     

    「ただまあ、正確な戦力差は不明だが、まあ間違いなく今のままでは押し切られてしまうだろう。今回も、誰か一人欠けていれば、ただでさえ脆かった防衛線は瓦解していただろう。故に戦力の増強をさらに推し進めねばならん。幸い、実証は叶ったのだ。神代枝の運用でかなり改善されるだろう」
    「アノ……それですが……」
    「む、どうした」

     

     おずおずと、とても言い出しにくそうに手を上げたのは、ジュリアだった。
     彼女は揺波の下に戻ったホノカを指し示しながら、こう切り出した。

     

    「ホノカ、サン……使っちゃいました。神代枝も、材料も、タクサン……半分以上デス……」
    「……!」

     

     その報告は、皆の表情を凍りつかせた。
     たった今、対抗策として挙げられたものが、なくなった。その事実は、悲惨な状況下にあって見出していた希望が、輝きを失ったかのようであった。

     

    「…………」

     

     沈黙の中、ホノカでさえもそれを汲んだかのように、揺波の頭の上で落ち着いていた。
     ぎり、と歯を噛むオボロ。けれど、その遺憾を振り落とすように、束の間、顔を伏せたかと思うと、

     

    「案ずるな! 顔を上げよ!」

     

     オボロの一喝が、広場に響き渡る。

     

    「確かに神代枝は限りあるものだ。だが、それを使ってホノカは里を救った。その事実はなんら変わり得るものではない。むしろ、蓄えを活用し、最もきわどい初撃をうまくいなしたとさえ言える。戦果のために相応の対価を払った。それだけのことだ」
    「でも、また敵サン来たら、全然足りなくなるデス!」
    「拙者の見立てでは、しばらくは奴らも仕掛けて来ないだろう。未だ仔細の分からぬ力だが、向こうはそのことを知らん。張り子だろうと虎は虎、二の足を踏ませるには十分過ぎる」

     

     淡々と挙げられていく評価に、不安げながらもジュリアは納得したようだった。
     ただ、オボロもオボロで、未来の話をすぐさま続けられない程度には、状況を判断しかねているようで、

     

    「事が起こってしまった以上、可及的速やかに指針を見直さねばならないのは間違いない。備蓄計画も先行きが不透明なままに進められていたからな。……ただ、その議論は後にしよう。皆疲れているだろう? 各自休憩をとりたまえ。その後、改めて対策会議といこう」

     

     オボロはそこで、胸の前に右手を持ってきて、何も起きないことに気づいて頭を掻いた。手を打ち鳴らそうにも、彼女の左手はないのだ。

     

    「では、解散!」

     

     

     

     

     

     号令に、三々五々散っていく一同。ちょうど夕食時であるためか、近所同士でまとまって今後の衣食住について確認し合う者も多い。雰囲気こそ暗いものの、悲観に暮れるのではなく合理的な対応を試みようとするあたり、オボロの教えが行き届いているのだと伺える。

     

    「オボロさん、ちょっといいですか?」

     

     そんな流れの中、揺波は熊介から降りて去ろうとするオボロを呼び止めた。

     

    「なんだ? 寝床であれば、以前と同様に使ってくれて構わないが」
    「あ、いえ。それもそうなんですが……さっきから探してたんですけど、千鳥さんが見当たらなくて。見廻りに行ってるならいいんですけど、ひょっとしたら……」

     

     目を伏せる揺波。そこから先は、口に出してしまったら現実になってしまうようで、続けられなかった。何しろ揺波は、自分の関わった忍の無残な姿を目の当たりにした後である。刀を納めて落ち着き始めてから、じわじわとその現実が心に這っていた。
     しかし、揺波のそれは杞憂でしかなかった。

     

    「勝手に殺してやるな。あいつなら問題ない」

     

     オボロの代わりに答えたのは、不機嫌さを隠そうともしない藤峰であった。

     

    「よかった。生きてたんですね……」
    「違う。それ以前に、そもそもあいつは――」

     

     彼の目は、揺波を見ていなかった。
     遠く、遠く。それも里を囲む森すら越えて、もっともっと遠くのどこかを、彼は見つめていた。

     

     


     そうだね。天音揺波を導いた忍の少年は、今回の動乱に巻き込まれてはいなかった。その理由を語るために、少し時を遡ることにしよう。
     天音揺波が、瑞泉驟雨が、それぞれメガミへと挑み、そして世界が一変するよりも。
     天音揺波と氷雨細音が、最後の決闘をするよりも、いくらか前。
     それは天音揺波が己の因縁に決着をつけるため、旅立った数日後。
     少年もまた、己の因縁へと向き合うために――

     

     


     のどかな街道を行く少年の手には、笹の葉に包まれた握り飯。

     

    「オボロ様には感謝しないとなあ」

     

     忍装束ではなく、どこにでもいるような旅人の格好をした彼は、他に誰もいないのをいいことに、道のど真ん中をゆったりと歩いていた。それは彼がのんびりしているというわけではなく、考え事のついでに足を動かしていたからである。

     

    「さて、まずはどうすっかな」

     

     少年は、かぶりと握り飯に食らいついた。
     

     

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