『桜降る代の神語り』第53話:彼女たちの決意

2018.03.16 Friday

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     闇昏姉弟の機転もあり、瑞泉の魔の手から逃れた天音揺波たち。
     脱する頃には中立地帯になっていた古鷹領を背に、一同の拠り所たる忍の里へひた走る。
     幸いにして……いや、必然だったのかな。道中に敵の影はなかった。奴には、必要がなかったからね。
     そして彼女らは無事、オボロに再会することになる。

     

     それから数日後――

     

     

     


    「よく聞け、同胞たちよ!」

     

     霧に包まれた森に、オボロの声が響き渡る。彼女の前に整然と並ぶ多くの忍たちは、めいめい忍装束に身を包み、大なり小なり荷を携えていた。
     熊介の背の上で腕を振るうオボロの左目には、革の眼帯がかけられている。

     

    「時は来た! 彼らが敵地へと向かった今、我々は役目を果たさねばならない。拙者たちの働きによって、本隊の戦いが苛烈を極めるか否か、決まると言っていいだろう。こちらが忙しい分、あちらが楽をできる――といった度合いの話ではない。死ぬ気で事を為せ! 未来ある者に決死の覚悟を抱かせるな! 泥濘に身を浸すのは、英雄たちに希望を抱く我々だけで十分だ!」

     

     だが、とオボロは不敵に笑ってみせる。

     

    「朧忍軍! ……これより戦争行動を開始する我々は、忍の軍勢だ。忍の本分とは何だ? 本命のために正面から事にあたって玉砕することか? それとも、果敢に攻め入って城を落とすことか? ――拙者はそれにこう答えよう。断じて否だと。忍の本分とは、最小の損失で最大の成果を上げること。死ぬ気でやって本当に死ぬ阿呆はここにはいないと信じよう! 死は最大級の損失である!」

     

     だからこそ、と続ける彼女の拳は天に掲げられた。

     

    「拙者たちだからこそできることを! 隠れ潜み、生きながらえ、撹乱せよ! 泥濘の中から手を伸ばし、敵を停滞の沼に引きずり込め! 選ばれし彼女たちの活路を切り開け! ……そして夢見よ、騒乱が終わった未来、密かに誇る己を。世を救った英雄の、礎であったと」

     

     静かに締めるオボロに注がれる視線は熱い。忍たちが浮かべるのは固い決意の表情だ。
     それに満足そうに深く頷いたオボロは、

     

    「さて、猶予はそうあるわけでもない。計画については事前に各班長に伝えてあるが、改めて概要を確認しておこう。各班の裁量の多い任務となるため、いざ班同士での連携が必要になった際、予定経路の把握が肝要となるだろう。道中含め、他班についても把握しておいて欲しい」

     

     それからすらすらと数ある班に行動方針をあてがっていく。忍たちから疑問がほとんど出なかったのは、時間の限り検討された内容であると理解されているためだ。信頼の厚さを当然のものとすれば、裁量の多さは準備時間のなさの現れであると、この場の誰もが悟っていた。
     と、オボロは同じく忍たちに向かい合っている者に目配せした。

     

    「おう、オボロ様! 俺様に任せと――」
    「儂のことだ、このデカブツ! ――いやあ、失礼しましたぁオボロ様。商會についてでございますね?」

     

     熊介のような巨漢の山岸の腹を一発張り飛ばしたのは銭金だ。すかさず態度を変えて揉み手も忙しい彼は、一歩前に出てオボロに求められていたことを述べる。

     

    「お伝えさせていただいた通り、特に千洲波東部の宿は駐留地の一つとしてご活用いただけるでしょう。本当は煙家にも同様の拠点をお約束できればよいのですが、連絡がつかないことには確実なことは言えません」
    「戦時に確実なんて言葉はないさ。行商路を利用させてもらえるだけありがたい」
    「いえいえ、とんでもございません。代わりに蟹川、龍ノ宮についてはわたくしめの縄張りでもありますし、商會の者に存分に頼っていただければと。安全を期すなら、芦原の漁師連中から荷運びを請け負うと、うまく紛れ込めるかもしれません」

     

     満面の笑みで説明する銭金であるが、商人の自制心であっても冷や汗までは止められない。彼にとってオボロたちへの協力は、掻き乱された商売を立て直すための投資である。それが覇権を握らんとする勢力への抵抗となれば、命が賭け金に含まれることは避け得ない。
     銭金との確認と補足を終えたオボロは、それを踏まえての指示を出していく。それも終わると、一つ、大きく深呼吸をした。
     片方だけになった目を見開き、そして、

     

    「各自行動を開始せよ! 解散ッ!」

     

     鋭く告げた言葉を皮切りに、忍たちが一斉に散っていく。それはまるで、森の中に黒い嵐が吹き込んでいくようだった。唯一の例外は忍たちに引っ張られていった銭金と山岸の姿であったが、それもやがて霧と木々の闇に飲まれて見えなくなっていった。

     

    「ふぅ……」

     

     演説で溜まった熱気を吐き出すオボロ。
     彼女は熊介から下りたところを、残った忍――榊原に迎えられた。

     

    「私も向かいます。変更はなく?」
    「ああ。向こうの者と仲良くやって欲しい。何しろ一世一代の大仕事だからな――っと」

     

     なにもないところであったが、歩いていたオボロが突然よろけた。さっと肩を支える榊原は意表を突かれたようであったが、彼女の冗談じみた軽さに驚愕し、そして歯噛みした。子供のような体格であっても、腕一本失っていてもなお嫌に軽かったのである。
     けれど、嘘のような軽さであっても、確かに彼女はそこにいる。

     

    「……我々は、オボロ様を失わずに済むのですね」
    「まだ決まったわけではないさ」
    「しかし、天音や闇昏は助力を申し出てくれました。安堵したというのが正直なところです」
    「拙者もだよ。配役がうまくいったことに、まず安心してしまった。まだまだ甘いな」

     

     自嘲しながら離れるオボロに、榊原は目を瞑って僅かに首を横に振った。

     

    「生きたいと願う気持ちがあれば、それも当然かと」
    「そうか……ならばせめて拙者らは、最善を尽くことにしよう」

     

     オボロは目を眇めつつ、陽の昇る森の向こう側を振り返った。
     英雄たちが散っていった東の方角を。

     

     

     

     


     低い嘶きは途切れることなく平原に響き渡る。整備された街道とは縁遠い道を突き進む乗騎ヴィーナは、定員を超えていようともその安定した走りを妨げられることはない。

     

    「この先もっと揺れそうですから、しっかり捕まっていてくださいね!」
    「ダイジョブです! そのままゴーゴーしましょう!」
    「わーい、ゴーゴーシマショウ!」

     

     先頭で操舵するのはサリヤ。その腰に腕を回してしがみついているのはハガネであり、さらにその後ろにジュリアが続く。本来無理してようやく二人、という座席を少し拡張し、ハガネ分の余裕を設けた形である。体躯を考えるとハガネは最後尾になるところだが、その腕力でジュリアが落ちないよう繋ぎになっていた。
     状況をあまり理解していなさそうな二人に、サリヤがため息混じりに、

     

    「まさか、自分の手でジュリア様とメガミ様を前線に運ぶ日が来るなんて思いませんでした。ハガネちゃんはともかく、ジュリア様が目の届く範囲に居てもらったほうが安全、なんて船に揺られてる私に言ったらびっくりされますよ」
    「ショーガありません。動かなかったら、モット危ないなりますし、せっかくの研究環境も、オボロサマたちも、バイバイしてしまいます。だから、攻撃アルノミです! サリヤならワタシを守れます!」
    「サリねえは、えいゆーだもんね!」

     

     ハガネの言葉に、サリヤは頬をかく。元々片手で操縦することが想定されているヴィーナは、たくさんの荷を抱えているにも関わらず、馬よりも速く、平然と真っ直ぐ走り続けている。

     

    「英雄、ってなんだか恥ずかしいんですよ。メガミを宿せない状態でも戦えるから、って言われても、そもそもメガミを宿せないって感覚がぴんとこないので……」
    「自覚なしにあの仮面をばしばしやっつけてたんだから、それだけでもうすごいよね」
    「サリヤとヴィーナが一緒なれば、トーゼンデス!」

     

     相変わらず自信満々な主にサリヤが苦笑いしていると、腰に回されたハガネの手に力が篭ったのを感じる。

     

    「うん、だよね……」
    「ハガネちゃん?」
    「みんなみたいに戦えはしないけど……あたしにしかできない大仕事だもん。やっと回ってきた番なんだから、あたしも頑張るよ!」

     

     からっと晴れたような気持ちの良い宣言に、サリヤはその決意を高め合うかのように、ハガネの手に自分の手をしっかりと重ねた。
     当然というように、ジュリアもそれに追随する。

     

    「ワタシタチも負けてはいられません! オボロサマに匿ってもらった間、タダ隠れてたわけではアリマセンヨ!」

     

     そんな主の興奮した声に答えるように、サリヤが持ち手をひねってヴィーナを唸らせる。

     

    「ええ、この通りヴィーナの調子も上々です。私たちが使える最大の力で当たりましょう。出し惜しみしていては、護れるものも護れません。ジュリア様も、この地で助けてもらった方々も。それと、研究環境も……ですよね?」
    「ソウデス! そしていざとなれば、ふふふ……」

     

     その不敵な笑みは、彼女たちが賑やかさの底で共有していた意思とはまた違った方向性であった。けれど、研究開発という領域で勝負するジュリアにとっては、それを磨くことこそが、皆を助けることに繋がるのだと理解しているのだ。

     

    「使いまショウ。Blackboxを――!」

     

     その名を受けたサリヤの表情は、自信と期待に満ちていた。
     三人を載せたヴィーナは、さらに街道から外れた道なき道をひた走った。

     

     

     

     


     一方、のどかな田舎道で、のどかに荷馬車を走らせている男が一人。

     

    「はぁーあ。オレっちったら、なんでこんな部隊に入れられちゃったんだろう……馬とか久しぶりすぎてもう疲れちゃったよぅ」

     

     ぼやく楢橋平太の姿は、商人は商人でもその小間使いといった格好である。滲み出る品行の悪さが、そのまま出世しなそうな雰囲気に置き換わったかのようだ。

     

    「せーっかくサリヤさんとジュリアさんと会えたと思ったら別行動だし、揺波ちゃんも磨けば光そうな娘だったし、ハガネちゃんは……まあメガミだけど、関係ないよね? 将来は絶対可愛い子に育つと思うんだぁ」

     

     手綱をだらしなく握りながら、頬杖をついていた彼だったが、ふと背中を指で突かれる。
     振り返った先の荷台では、並べられた樽を避けるようにして二人の商人が荷台の縁に腰掛けていた。荷台の手前側には小柄な者が、奥には腕っぷしの強そうな男が、それぞれ笠を目深に被って人目を避けていた。どちらも忍であり、その正体は千影と藤峰である。

     

     楢橋を呼んだ千影は、至って真面目な顔で竹筒からお茶を汲むと、懐から取り出した試験管から鮮やかな青をした液体を全て注いだ上で、彼に差し出した。

     

    「どうぞ。助平に効くと言われているお茶です」
    「待って!? ねえ待って!? 今明らかに飲んじゃいけない色したもの入れたよね!? ほらめっちゃダメな色してるじゃん! 物資の無駄遣いするな、って言ってきたのそっちでしょ! ほら捨てよ? 絶対毒でしょそれ?」
    「あなたにお望みの光景を見せてあげようとしたのですが。幻覚ならいつでも可愛い女の子に会えますよ」
    「そのまま永遠に夢見そうだからダメ! オレ死んじゃったら案内できなくなるでしょー!」

     

     その反論に、不承不承といった様子で道端に奇怪な色をした液体を捨て、器も放り捨てる千影。見境のない楢橋ですらも彼女には近寄りがたさを感じているが、貴重な情報と盗人の技術を持つ彼が千影と行動を共にするのは必然ですらあった。
     千影が取り出した小瓶を慈しむように撫でるのを見て、楢橋は嘆息する。

     

    「ほら、あのメガミ。助けに行くんでしょ? 英雄さん」
    「もちろんです。ホロビを放ってなんておけません。ユキノとも約束しましたから」

     

     小瓶の蓋を親指でぐりぐりといじる度に、辺りに嫌な気配が漏れ出していくよう。開け放つ前から感じる不吉な気配に、ミコトでない楢橋ですらも、目撃したメガミの正体を悟らされたのである。

     

    「瑞泉がホロビの力を奪い去ったのだとしても、ここに残ったホロビとの絆が失われることはありません。千影は英雄と呼ばれる器ではありませんが、その力がある限り、千影は絶対に負けません」
    「御大層なことだが、そいつをいじるのはよせ。気配がだだ漏れだ」

     

     指摘は、奥の藤峰からだった。硬い表情は緊張感の現れか、楢橋がこの部隊を憂う大きな要因の一つとなっていた。
     藤峰は、憮然とした態度で小瓶をしまう千影に対してさらに、

     

    「俺はまだ、一度里を捨てたお前を認めたわけではない。覚えておけ」
    「そ、それで構いませんよ。千影のこと、殺すつもりがないのなら。千影だって、都合がいいことなんて分かってるんですから」

     

     でも、と継いだ千影は、己に言い聞かせるように、宣言する。

     

    「千影はホロビを助けます。絶対に。そのためなら、命以外のなんだって賭けます。誰になんと思われようとも」

     

     澱んだ瞳は、変装のことを忘れきった本心の発露だった。純粋なる執着が、決意となって千影なりに現れた結果を、藤峰は鼻で笑って明後日の方向を向いてしまった。
     その様子を見ていた楢橋が、肩をすくめて苦笑いする。

     

    「だから楢橋、真面目にやってくださいね。案内、お願いしますよ」
    「へいへい」

     

     生返事と共に、三人を乗せた荷馬車は、心なしか先を急いだ。

     

     

     

     


     まず感じたのは、浮遊感だった。

     

    「――…………?」

     

     薄ぼんやりと、覚醒と休眠の狭間に揺蕩っているような感覚に身を委ねていた細音は、それが今まで感じていたものとは別物であることを、はっきりしない頭で考えていた。
     天音揺波との決闘を終えた後、水面まで果てしない隔たりがある水中のようでどこか違う、不思議な場所に浮かんでいるような感覚にとっぷりと浸かっていたのが、細音の最後の記憶だった。

     

     音はよく聞こえない。周りの何かに吸い込まれてしまっているかのように、ぼぅ、という無個性な無音がずっと続いている。
     身体も、まぶたさえもまだ満足に動かせない細音は、そこが自分の知る本当の水中に近しいということだけを理解していた。けれど、清めるために度々身を投じた故郷の極寒の海でないことも、彼女はまた理解していた。

     

     氷雨細音は、不確かな意識でただただ問う。
     ここはどこか――と。

     

     

     

     


    「お姉さんとは一緒に行かないで、よかったんですか?」

     

     前を行く千鳥へ問いかけた揺波は、歩幅を広げて彼に並んだ。先程まで両側に田園地帯の続いた街道も、今は面白みのない平原が延々と広がっているだけだった。
     ごく普通の旅姿に扮していた千鳥は、なんと答えたものか考えあぐねていたようだが、やがてそれが無意味だと悟ったらしく、頭を掻きながら答え始める。

     

    「やっぱりさ、俺はまだ未熟なんだよな。ああ、別に不貞腐れてるとかじゃなくて、実際そうだってこと」
    「そうですか……? 会う度に強くなってる気がしますけど」
    「あんたに褒められたら悪い気がしないけど、強い弱いって話じゃない。商人に成りすまして拠点に潜入、なんてのは荷が勝ちすぎてるって話だよ。自分でもそれが分かってるから、悔しいけど納得してる。ま、どうせ天音のお目付け役に適任だってのも分かってたしな」

     

     彼の表情からは、彼自身の言葉通り不服の色は見られない。ただ、荷の紐を握る手が、僅かに強張っている。

     

    「天音こそ本当にいいのか。死ぬかもしれないんだぞ」

     

     返す刀で訊ねる声色は、近くに誰もおらずとも、自然と潜められる。
     けれど、揺波は道の先を見据えながら、はっきりと答えた。

     

    「いいんです。正しいとか間違ってるとか、そういうのは分かりませんけど、わたしは瑞泉を許せません。桜花決闘は、あんなに悲しいものなんかじゃないはずだって……わたしは、わたしの好きな桜花決闘のために、戦うんですから」
    「そっか。天音みたいな真っ直ぐなやつに、それができるだけの力があったのは、本当によかったと思う」

     

     それに揺波は、優しく手の甲を交互にさすりながら、首を横に振った。

     

    「ザンカの力も、ぽわぽわちゃんの力も、二人のおかげです。わたしはただ、二人の力を借りてるだけですから。ミコトって、そういうものですよね?」
    「天音の技量もあると思うけど……そうだな、わざわざ英雄なんて呼び方してても、結局ミコトらしくいられるだけだもんな」
    「はい。だから、わたしにできるのなら――わたしも、皆も、これからもそうでいられるように、人とメガミの繋がりを守りたい」

     

     大切なものがそこにある。そう言うように、両手で胸を抑えた揺波は、それを確かめるように閉じていた目を見開く。

     

    「人の世を守るとか、そんなことは分かりません。でも――」

     

     道の先、地平にそびえる山を見通し、果てに待つ敵を、揺波の視線は射抜いた。

     

    「桜花決闘は、わたしが守ります」

     

     

     

     

     


     こうして、四人の英雄は、決戦の意思を宿した。
     最後の戦いまで、後幾許もなし。
     さあ、物語を次の段階へと進めよう。そして、彼女らの決意を見届けよう。

     

     ああ、しかしそれは簡単な話ではない。
     敵はもはや、かつてないほどに強大なのだから――

     

     

     

     


     開け放たれたふすまに、誰もが視線を注いだ。
     城内の広間に集まった一同に姿を晒したのは、瑞泉驟雨とメガミ・ウツロ。
     まず口を開いたのは、驟雨の父、老齢の海玄である。

     

    「この忙しいときに勝手なことをしおって」

     

     責める言葉とは裏腹に、隠そうともしない苦笑いは愉快さを存分に孕んでいる。蛮行と謗られてもおかしくない息子の行いであっても、能力を信じている海玄は、息子が上機嫌であると知れた時点であっぱれと冗句に留めるのみである。
     驟雨は床の間の前に座りながら、

     

    「申し訳ない。しかし、見合った成果はありましたよ」
    「それは重畳」
    「――では、首尾のほどを聞かせてもらおう」

     

     やおら彼の傍に集まる姿は、海玄を含めて五つ。ウツロもまたそこに並べば、六つ。
     そのうちの一つ、堰を切ったように手を挙げるのは、全身に力を漲らせる男・架崎宗明だ。

     

    「驟雨様、長らく抵抗していた蟹川の一派が、とうとう投降しました!」
    「ほう……!」
    「これは最後の壁が失われたと言っても過言ではありますまい! これより他は、主なき天音や、ろくな相手のいない北方のみ。もはや世界制覇は目前です……!」

     

     息巻く架崎の報告に満足し、薄笑みで瑞泉は手をかざす。同じく笑みを浮かべる架崎は、わざとらしく笑いを零しながら「これは早計でした」と謝罪した。
     次に手を挙げたのは、脇に弓を携えた女・浮雲弥宵である。
     彼女は落ち着き払った様子で、

     

    「南西は変わらず順調さね。お利口さんたちは、血を見ることになる前に併合に同意したよ。大家の変な見栄で拗れたらどうしたもんか、と思ってたもんだけど、やっぱり楽な狩りが一番だ」
    「安心していい。張り合いのある連中など、もう数えるほどしかいないのだからな」

     

     そんな驟雨に、浮雲はおどけたように肩をすくめてみせた。
     と、

     

    「神渉装置の稼働も順調です、驟雨様!」

     

     報告を継いだのは、猿のように赤く、歯車の歯が口に覗いた面をつけた男だった。
     彼は大仰な手振りを交えながら語り始めるが、

     

    「メガミたちの力もどんどん! 集まってきております。結果として、複製装置の――」
    「『でゅーぷりぎあ』ですぅ!」

     

     隣に座っていたクルルに小突かれ、赤面の男は短く悲鳴を上げる。

     

    「し、失礼しました。……でゅーぷりぎあの量産も進んでおり、機巧兵団の編成もいよいよ大詰めです。その前に全ての者が投降したら、日の目を見ることもありませんがね」
    「そう楽であってくれるとありがたいのだがな。ところでクルル、今は何を?」

     

     思い至った驟雨が、名前の違いに頬を膨らませて怒っていたクルルに水を向ける。
     指を頬に当て、しぼませてからくりくりといじる彼女は、左手だけ隣のウツロの頬をぐにぐにと弄びながら、こう答えた。

     

    「んー、そですねえ。うつろんを完全に出してあげられないか、考えてますねえ。神渉装置も後は仕掛け網にワニとか引っかかってないか、楽しみにするくらいですしー」
    「完全に? 可能なのか」
    「くるるんに不可能はなっしんぐぅですからね! まだそこらへんに落ちてる理屈をつまみ食いしてる段階ですけど、実現したら全盛期のうつろん伝説が現代に蘇れば、いーなー? なんちて?」
    「面白い話だが、程々にしておいてくれよ。制した大地が吹き飛んだなんて洒落にならん」

     

     えへへー、とウツロに無理やり笑顔を作らせるクルルに、驟雨は困ったようにため息をついて苦笑した。
     そして一通りの報告を聞き終えた彼は、膝を叩き、快哉を叫ぶ。

     

    「素晴らしい、諸君! 引き続き、存分に辣腕を振るって欲しい」

     

     そして、と告げた驟雨の言葉に、一同はどよめく。

     

    「私からの報告だが……天音揺波に宿っているのは、ヲウカの力に間違いない」
    「驟雨様、それは……!」
    「ああ、これも我が覇道のための天啓に違いない。順調過ぎて、次の目的がなかなか定まらぬという贅沢な悩みともこれでお別れだ。奴が逃げ惑うにせよ、万が一攻め入ってくるにせよ、望むところじゃあないか」

     

     くつくつと嗤う驟雨の口端は吊り上がり、海玄と架崎がそれに同調する。顔を覆った彼の手指の間から、欲望を凝縮した眼差しが、ここにはないものを捉えていた。

     

    「奴を捕らえ、ヲウカの力を我が手中に収める……!」

     

     ゆっくりと握り込めた手が、期待と興奮によって震えた。彼の思い描く未来で、手にした力が溢れ出してしまうように。
     それを振りまくように、彼は両腕を広げ、高らかに宣言した。

     

    「そしてこの世の法則そのものを手にし、世界を征するのだ……!」

     

     叶えんとする未来を、確かなものとするように。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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    『桜降る代の神語り』閑話:ある幕裏の群像

    2018.03.09 Friday

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      「いかがされましたか? 何かご不明な点でも」

       

       

       問う初老の男の声に、目を閉じて考え込んでいたオボロは「いや」とだけ応じた。その声は、二人のいる空間を包む土に、そして闇の中に吸われていく。
       古鷹山群の南西に位置するこの地下空間は、オボロの研究所兼隠れ家の一つである。小さな山の裾にひっそりと口を開けており、枝分かれした先のいくつもの空洞は生活領域とするにはうってつけの場所だ。いざとなれば近くの海にさらに逃げられることも評価が高い。

       

       その中の一室、採光を一切考えられていない部屋で、オボロと男は対峙していた。明るみに出れば男の身なりがごく普通の農民のものだと分かるが、物腰や言葉遣いといった態度はそれが仮初のものであると告げていた。
       男はオボロの言葉を待ち続けていたが、その長考が本当のものらしいと悟ったのか、

       

      「……あなたほどの方がお悩みになられるとは」
      「なに、拙者とて悩むさ。お主らの長と、頭の切れ具合で比べてくれるな」
      「これに比肩しうる選択肢がおありとでも?」

       

       男の声は、純粋な疑問に染まっていた。
       オボロはそれに、苦笑しながら答える。

       

      「五十歩百歩といったところか。だが、どちらにしようか、歌いながら決めるには憚られるくらいの差はある」
      「歌い続けて恣意的に選ぶことが求められているのでしょう。あべべのべ、でしたか」
      「遊び心も許されんとは参ったな」
      「それほどの事態ですから。猶予もそう多くないかと」

       

       違いない、と同意するオボロは、あえて飄々と答えているようでもあった。

       

      「まあ、こうして間接的とは言え、奴と見解の一致が得られたのだ。この状況でそれを僥倖と思えぬというのは、それこそ贅沢というもの。その上、互いに満足できるような対案を出せんとなれば、この策で行くしかあるまい」
      「随分と消極的ですね」
      「ばらまいた玩具を片付けさせるには、誰かが叱ってやらねばならない。だが、それが必要なことであったとしても、喜んで見るような光景ではない。誰が叱るにしてもそれは変わらん。一つ望むとすれば、最低限同胞には確実に言って聞かせねばな、というところか」
      「なかなかの難題ですが、お伝えしておきます」

       

       男はそれっきり口を開くことはなく、ざり、ざり、と草履が土を噛む音が遠ざかっていく。
       暗闇から暗闇へ。相手が知覚の範囲外まで去っていったことを確認して、オボロはその場で膝を抱えるようにしてかがみ込んだ。中身のない白衣の左腕が、だらしなく地面に折り重なる。

       

      「はぁーっ……」

       

       重く、長い溜息は、彼女の憂慮の残り火のようであった。下した決断と、それに要した覚悟を妨げることがないよう、溜め込んでいた不安を吐き出してしまおうとしているオボロは、そのままごろりと後ろに倒れ、壁に頭を預ける。
       と、そこへ、

       

      「オボロ様! オボロ様! いらっしゃいますか!?」
      「どうした榊原!」

       

       ひとまず応じたオボロからは、既に物憂げな気配は消え去っていた。
       思考に耽る間も与えられず呼び出された彼女は、隠れ家内に響き渡るような忍の声から彼の位置を特定し、五つ数える間に目の前まで移動する。呼び出す声の調子から緊急度はそう高くないとオボロは感じ取っていたが、有事態勢下において油断はできない。
       榊原は隠れ家の入り口、四方八方の部屋へ繋がる明るい空間で、顔に困惑を浮かべていた。普段顔色一つ変えずに淡々と仕事をこなす彼らしくない様子である。

       

      「それが、里に不審者との報がありまして」
      「里、だと……? 火事場泥棒にしては根性がありそうだな」
      「取り合わせの妙な三人組で、捕縛も容易だったようなのですが……うち一人が、例の絡繰篭手を所有していたようです」

       

       説明を聞きがてら地上へ向かうオボロの眉根がひそまる。警戒よりも疑念が滲んでいた。
       そこへさらに騒ぎを聞きつけてきたのか、サリヤも合流する。

       

      「また攻め込んできたのでしょうか。ジュリア様、お休みになられていますが、起こしてきたほうがいいですか?」
      「いや、そういった類ではなさそうだと思うが……。抵抗はそうなかったのだろう?」

       

       頷く榊原は、

       

      「岩場まで連行しているようなので、ご覧いただいたほうが早いかと」
      「追手は?」
      「迂回してきたようですが、痕跡は見当たらなかったとのこと」
      「囮という線も薄いか」

       

       いっそう怪訝な顔つきになったオボロは、入り口を覆い隠している木々に万が一に備えて留まるようサリヤに言いつけると、榊原と二人で開けた場所へ姿を現す。
       岩山の麓であり、むき出しの岩盤が広がるそこには、二人の見張りの忍と、手を背中に回され、きっちりと縛られた三人の男がいた。三人とも隠れ家とは反対方向を向かされており、今にも斬首が行われてもおかしくないような光景であった。
       ……彼らの馬鹿騒ぎがなければ、だが。

       

      「だから俺様はやめとけ、っつったんだよ!」
      「はぁー? 山ちゃんだってノリノリだったじゃんかよ! 『おい楢橋ぃ、俺様が運んでやるから取り分は多めに頼むぜぇ』ってさぁ!」
      「なんだァそれは。誰の真似のつもりなんだ!?」
      「あんたのだよ、あ・ん・た・の! 舌の根も乾かないうちに嘘ついて、もー。それとも頭に筋肉詰まってるから記憶力ないの!?」

       

       まだ距離があるのに響き渡る喧嘩の声は、最低限の警戒の必要すらオボロに迷わせるほどろくでもないものであった。

       

      「なんだあの……でかいのと、細いのと、太いのは」

       

       不審者を目の当たりにしたオボロは、榊原同様に困惑を浮かべるしかなかった。囲む忍たちもどうしたものかと呆れ顔だ。彼らがオボロらに仇をなす存在であるかどうかという前に、滲み出る滑稽さが忍一同の目について仕方がなかったのである。

       

      「おい銭金のオッサン! こいつが適当こいてやがるんだよ、何か言ってやってくれ!」
      「オレっち何も間違ったこと言ってないじゃんかよー! おっさーん!」
      「だぁぁぁもう! 貴様ら、今どんな状況か分かっとるのか!? 捕まっとるんだぞ!? 忍に! 曲者として!」

       

       口論していた巨漢と細身を、肥えた男が悲壮感たっぷりに咎める。
       彼らの傍までたどり着いたオボロは、早くも気疲れを感じていた。

       

      「クセというか、アクの強そうな賊だな、お主たち」

       

       呆れながら述べた彼女の声に、肥えた男が全身を硬直させた。
       そしてぎこちなく首を回し、背後にいるのが何者なのか理解した彼は、

       

      「ぴ、ぴぎぇッ!? オボロさまっ!?」

       

       素っ頓狂な悲鳴を上げて、文字通り飛び上がった。その反動で体勢を崩し転げてしまった彼は、自力で身体を起こすことを諦めたのか、うねうねとその丸々太った身体を蠢かせてオボロへ平伏の姿勢をとった。
       下手から媚びを売るように見上げる彼であったが、背で縛られているために揉みしだきたくてもできない両手がそれでも奇っ怪な動きをしているのは、逞しさなのか否か。

       

      「あ、あの……オボロ様。お騒がせしてたいっっっっへん申し訳ありません。わたくし、銭金商會の銭金舐蔵と申す者でございます」
      「はあ……」
      「実はわたくし、オボロ様に是非お耳に入れていただきたい情報を持ってきたのですが、里があのような惨状になっていると露知らず……。多少の行き違いはあったかと思われますが、当方のためにも知っていただきたいことですので、どうでしょう! ここは双方の利益のためにも、何卒お耳を拝借させてはいただけないでしょうかぁ……!」

       

       脂ぎった笑顔は、この状況下においても満点である。だらだらと汗が止まらないことを除けば、であるが。
       オボロはその様子にあっけにとられていたようで、反応を待たれていることに気づいて苦笑いした。

       

      「なんと、まあ……」
      「他にこちらへのご要望があれば、なんでもお答えさせていただいきますので、何卒、何卒……!」
      「そう言われてもだな……」

       

       ぽりぽりと頬を掻くオボロに、控えていた榊原はわざとらしい冷たい声色で、

       

      「この状況下で情報を売るなどと言っている輩です、信用はできません。銭金の名を出していますが、あいにく楠坂の一派くらいしか顔は知りませんので」
      「頃合いが頃合いだからな。裏取りする余裕もあるか怪しい今、その懸念は正しい」
      「どうしましょう、ここで吐かせますか?」

       

       見せつけるように榊原が抜いた小刀のきらめきに、肥えた男はまたしても悲鳴を上げた。

       

      「は、はか、吐かせる!? 何を!? わ、わわ儂は別に、瑞泉の手先ではありませんぞ!」
      「……やはり怪しいな」

       

       さらに汗まみれになっていく男に、オボロの冗談まじりの言葉がなお刺さる。その醜態の温度感を残りの二人はさほど理解していないようで、生暖かい目で肥えた男のことを見守っていた。
       このまま喜劇のような尋問が始まるのかと思われたが、それはオボロの後ろから追いついてきた、潜められた別の笑い声によって止められた。

       

      「オボロ様、その辺にしてあげてください……悪い方ではないんです」
      「む、サリヤ殿のお知り合いか?」

       

       笑いをこらえきれず、ばつが悪そうに地に這う男から目を逸らしたサリヤ。彼女の登場に、男は「あ!」と叫んで口を開閉させている。
       サリヤは、まるでそれが申し訳ないことであるかのように、オボロにこう告げた。

       

      「ゼニカネさんは、私たちを窮地から救ってくださったなんです。……これでも」
       

      語り:カナヱ
      『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
      作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

       

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      『桜降る代の神語り』第52話:逃れえぬ邂逅

      2018.03.02 Friday

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         敵の総大将自ら姿を晒す――それは、桜花決闘という文化が下地にあったところで、いや、あればこそ、ひどく受け入れがたい光景だ。
         命のやり取りに巻き込まれてもなお、己が目に収めなければならない何がある。
         全軍で最も貴重な存在を使ってまでも、勝ち得たい何かがある。
         瑞泉驟雨には、それができるだけの力と自信、そして願望があったのさ。

         

         


         止んだ拍手の音が、公演場を取り囲む闇に飲み込まれていく。

         

        「おめでとう、天音揺波。見事な決着、感服の至りだ」

         

         ゆったりと、客席の奥から舞台へ歩み寄る瑞泉。灰髪の少女もそれに付き従う。
         血の池に伏す古鷹の姿に、揺波は混乱の最中にあった。けれど、既視感を覚えるあの日の惨事との違いが、まとまりを失いかけていた思考を辛うじて指向性を与えていた。
         目の前に現れたのは、息絶える者を支持したメガミではない。
         この場にいるはずのない人物であったとしても、敵であるということは分かる。

         

        「瑞泉、驟雨ッ……!」
        「そう怖い顔をするな。こうして大物食いの現場に居合わせることができたんだ、その幸運に感謝するくらい許してくれたまえよ」

         

         ふ、と鼻で笑った瑞泉は、向けられた敵意なぞどこ吹く風、と足を止めない。

         

        「どうだ? 龍ノ宮に続いて、古鷹まで討ち取った感想は」
        「…………」
        「いやはや、強行軍をしたかいがあった。流石の私も、これほど愉快な結末は望めまいと思っていたが……奴とて結局人間だったか」

         

         客席の最前列で止まった彼を注視していた揺波だったが、床についた手先が濡れたことに気づいた。広がる血は彼の言う結末をどうしようもなく肯定していたが、だからと言って語ることなく倒れた古鷹の蛮行は理解できないままだ。
         だが、古鷹が物言わぬ身体になったとしても、そんな彼を嘲笑う瑞泉がいる。敵と認識しているからこそ、疑問をぶつけることはなお容易かった。

         

        「なんで……なんでですか!? 古鷹さんは、どうしてっ……!」
        「……おいおい、君はまだその段階なのか。もう少し自分の価値を――」

         

         さらに嘲る瑞泉だったが、「いや」と浮かべたのは哀れんだ微笑みであった。

         

        「いいだろう。その『何故』に答えてあげようじゃあないか」

         

         侍らせた少女をよそに、瑞泉は客席の縁に腰掛ける。揺波はそのわざとらしい余裕にこみ上げるものがあったが、がむしゃらに切り込むような真似はできなかった。ただ無表情で立っているだけの少女の威圧感に、ただ斬華一閃の所在を確かめる。
         そんな揺波に、瑞泉はしみじみとした調子で問いかける。

         

        「天音。君は、古鷹殿の娘さんのことを、聞いたことがあるか?」
        「え……? い、いや……」
        「古鷹殿は長いこと世継ぎを授かれなかったようでなあ。しかも、ようやく一人もうけられたかと思えば、随分と身体が弱くてな。名を天詞と言うのだが、学に秀で、見目もよく、ミコトの才もないわけではない。しかし、事あるごとに病に臥せっているようでは、京詞殿から芸を受け継ぐ以前の問題だ」

         

         唐突な話に揺波は疑念を強めるが、彼の話しぶりに違和感を覚えた。その違和感の源に辿り着く前に、瑞泉は結論を告げる。

         

        「その天詞殿は、療養と学問のため、一昨年より我が瑞泉領にご滞在中だ」
        「……!」
        「そして私は古鷹殿にこう提言したんだ。天音揺波の身柄を確保してくれれば、天詞殿はもっと健やかに育ちなさるだろう、とな」
        「それって……!」

         

         つまり、人質。
         友好関係にある家同士ではそう珍しくはない行いだ。平和だったこの時代、そのような悪い形で使われること以外は。
         家族を人質にとられたことを考えて、揺波は憤りに手を戦慄かせる。
         それを、決闘の相手ではない第三者にやられたときのことを、だ。
         しかしその一方で、嫌でも意識を向けさせられる事実も彼は口にしていた。

         

        「わたしなんかのために、どうして……!」
        「そう! それだよ、天音。私は、君を求めている。……いや、正確には君自身ではないが。古鷹をも打ち倒すその実力に興味がないと言えば嘘になる。しかし用があるのは腕ではなく、こっちだ」

         

         そう言って瑞泉は、自分の左手の甲を揺波に見せるように小さく掲げた上で、指差した。彼もまたミコトであり、そこには結晶が鈍く輝いている。ただ、両の手はミコトを示す以外にもう一つ重要な意味を含んでいる。

         

        「君が宿すメガミの力を、私は欲している」
        「ザンカ、の……?」
        「はは、白を切るなよ天音。報告を受けてまさかと思ったが、今の決闘を見て確信した。君のその左手に宿る力は、まさしくヲウカの力! 私は、それを求めて来たのだよ……!」

         

         全てのミコトにとってその名前は、一番身近であっても、一番遠いものだった。
         縁を結んだメガミはいても、相手が宿すメガミはいても、お互いがその名前を口にしようとも。彼女がどのようなメガミであるか人々が知っていたとしても、それはあくまでも語り継がれる存在であった。ましてや彼女を宿すなど、お話の中だけのことだった。
         だが、そんな笑われてしまう法螺話に聞こえたとしても、口角を釣り上げる瑞泉の視線は、現実を射抜いている。

         

         瑞泉はうまく飲み込みきれていない様子の揺波をせせら笑う。そして隣の少女を示して、

         

        「そういえば紹介がまだだったな。君も忍に聞かされていたかもしれんが、彼女はウツロ。大昔、ヲウカと戦ったとされる古きメガミだ」
        「……ん」

         

         紹介されたウツロは小さく頷いただけだった。
         少なくとも揺波はウツロから敵意を感じていない。ザンカの語ってくれた強大なメガミだと告げられたところで、その小さな身体に秘められた力は、他のメガミより桁外れに大きいというわけではないということもまた揺波は理解していた。それが幸いか、災いの前触れか、揺波の戦闘勘は判断し損ねていた。

         

        「ヲウカとウツロは対比して語られるメガミだ。しかし、より深い歴史を紐解けばそれ以上の関係であったことが窺える。ヲウカの権能はこの世に花という形で力を咲かせることであり、ウツロはその逆……花を塵と散らせ、土に還すことだ。分かるか?」
        「…………」
        「一度くらい不思議に思ったことがあるだろう。神座桜は何故咲き続けるのか、と。散った結晶は、塵となった後どこへ消えているのか、と。その答えが、世界の陰陽の巡りを担うこの二柱ということになる。彼女らの権能によって、力は常に巡っているのだ」

         

         足元に落ちていた結晶を摘んで弄びながら、瑞泉はさらに続ける。

         

        「ヲウカを宿した者も、ウツロを宿した者も、それぞれ過去の記録が存在を示している。直接見知る人間などいようはずもない昔のことだが、話に謳われた豪傑は、実際にその強大な力を振るっていたようだ」

         

         だが、と瑞泉はその結晶を砕き、力強く立ち上がった。

         

        「その二柱を同時に宿したミコトは、未だ存在しない!」
        「……!」

         

         高らかに、歌い上げるように。
         客席側にいるはずなのに、舞台の主役は野心溢れる男に取って代わられていた。

         

        「力を得るだけではなく、力そのものを統べる! ……これこそ、人の世を支配できるだけの絶対権力だとは思わないか……?」

         

         いるはずのない観客の喝采を浴びる彼の意識は、前言通り揺波自身には向けられていない。
         もちろん、間で横たわる古鷹であったものにも、それ以外のもの全てにも。
         憤りは、明確な怒りへと昇華する。

         

        「古鷹さんは……」
        「ん……?」

         

         床に突き立てた斬華一閃の刃先が血を散らす。

         

        「そんなことのために、古鷹さんは死んだんですか」
        「はは……そんなこと、ときたか」
        「そんなことのために、龍ノ宮さんも、古鷹さんも、忍のみんなも、犠牲にしたって言うんですか!? そんなことのために、ミコトのみんなも、メガミの皆さんも、あんな目に遭わせたって言うんですか!?」

         

         言葉をぶつけても、気を強くもって見下ろしても、瑞泉に侮られているという印象は変わらない。そして同時に、その態度が答えであることを理解してもなお、揺波は目の前の男に問う必要があった。

         

        「あなたのせいで、どれだけたくさんのことがおかしくなったと思ってるんですか! ……わたしには、あなたが何を目指しているかなんて分かりません。わたしだって強くありたい……でも! あなたみたいに人を踏みにじるのは、違う!」
        「仕方のないことだ。人の世を統べる――私はただ、その目的を叶えようとしただけに過ぎない」
        「メガミから力を奪ったせいで、決闘ができなくなることも仕方ないで済ませるんですか!?」

         

         返答は、わざとらしいため息だった。瑞泉はやれやれと言うように、苦笑いしながら緩く首を横に振る。
         届かない言葉に歯噛みする揺波は、ホノカの宿る左手を瑞泉の視線からかばうように抱きかかえた。

         

        「だいたい、さっきからヲウカヲウカ、って……この子はぽわぽわちゃんです! 人違いです!」
        「ふ、はは……! ヲウカも随分と可愛らしくなったものだな。聞いたかウツロ。ぽわぽわちゃんだぞ」
        「確かに強くて頼りになる子ですけど、ヲウカじゃありません!」
        「それで……?」
        「っ……」

         

         返す瑞泉の失笑に、言葉に詰まる揺波。怒りが霧散するほどではないが、手応えがないまま壁を打ち続けることは自分の心を痛めつける行為でもある。
         救いを求めるように視線をそらせば、そこには無反応のままのウツロがいる。

         

        「あなたもなんでこんなやつに協力してるんですか? 人だけじゃなくて、メガミにも酷いことをしてるんですよ? 止めなくていいんですか?」

         

         けれどその懇願も、彼女には届かない。いや、届いていてなお、答える必要性を感じないからとでもいうように、ウツロはただぼうっと揺波を見返すだけだった。
         ぱん、と鳴らされた手の音に、揺波はびくりとする。

         

        「これ以上君と話していても仕方がない。ただの器が、中身の処遇を知る必要もなかろう」

         

         そして瑞泉が冷たく言い放つのは、終わりの合図だ。

         

        「ウツロ」
        「……うん」

         

         

         一歩、少女が踏み出す。それだけで、公演場に広がっていた陰が、ず、と巨体を蠢かせたように、莫大な圧となって揺波を締め付ける。
         決闘の直後で疲労しているという悪条件すら、揺波は考慮する必要性を感じていなかった。如何に過去ハガネとの決闘で勝利を収めたからといって、それはあくまで決闘の話。細音に助けられなければ消し炭になっていたヒミカとの邂逅を考えれば、決闘外でメガミが襲い掛かってくるという事実だけで絶望的である。

         

         様々な出来事や真実に削られた心は、刀を構え直そうとするだけで精一杯。
         逃げる選択肢は夢物語に過ぎ、力なく迎え撃つ他に考えが巡らない。

         

        「ぁ、ぁ……」

         

         瑞泉に向けた怒りが、何もできない自分に返ってくる。
         そうして、決めきれずにいた、そのときであった。

         

        「っ……――!」

         

         ぞ、と。
         全身が総毛立つような、禍々しく不吉な気配が、瞬く間にこの場へ染み渡った。
         最初それは、ウツロがその力を解き放ったものだと揺波は思っていた。しかし、見るとウツロも瑞泉も、その気配に息を呑んでいた。
         そして禍々しさの源は、瑞泉を志向しており、彼に襲いかからんとしていた。
         だが、揺波に分かったのはそこまでである。

         

        「天音!」
        「えっ――わぁっ!?」

         

         突如足を掴まれたかと思えば、いつの間にか舞台に空いていた穴に引きずり込まれる。舞台の倍以上の高さを落ちれば、そこは人が二人もいれば狭く感じられる、明らかに人工的な地下空間が広がっていた。そこからさらに、暗がりの中に横穴が口を開けている。
         不格好ながらも抱きかかえられていた揺波は、薄闇に浮かぶ助けの顔が千鳥のものであることに気づいて安堵した。

         

        「よし、逃げるぞ。藤峰さんが先行してる」

         

         揺波に反論の余地はなかった。その必要はそもそもなかった。
         想いを踏みにじる者に想いを届かせるだけの力がないことを痛感した揺波は、狭い通路を行く千鳥の背中を追った。

         

         

         

         


         揺波が逃走に成功した一方、ウツロは飛来する脅威に対応を余儀なくされていた。

         

        「あぶない……!」

         

         

         僅かに語気を強めたウツロは、振り返るなり地面から掬い上げるようにして影の幕を生み出すと、何かから守るように瑞泉に覆いかぶせる。
         脅威となる何かが瑞泉の右腕に刺さったのは、ウツロの影が彼の身体に染み入った直後のことだった。

         

        「……助かった」

         

         長い針が、彼の右腕に刺さっていた。彼の右腕の一部だけ、まるで影で作られたようになっており、傷口のあたりから煮詰めたような濃い紫色の液体が、血に混じって細く流れて落ちていた。その液体の禍々しさに、瑞泉は肝を冷やしたように礼の言葉を零す。
         不吉な液体が流れきったのを確認してから針を引き抜く瑞泉。身代わりとなった影も同時に消えるが、大鎌を模った影で武装したウツロが、彼を守るように立ちふさがる。
         瑞泉は不機嫌さも顕わに、舞台の屋根の上に姿を見せた人物へ針を投げ返した。

         

        「そういえば、君はこの屋敷を熟知していたな」

         

         鋭く返されたその針を掴み、忌々しげに懐にしまったのは闇昏千影であった。
         彼女は器用に屋根の縁に捕まりながらくるりと飛び降り、舞台の上へ着地する。その背後には、ついさっき揺波と千鳥が逃げるために用いた奈落が口を開けている。
         ただ、瑞泉はそんな千影に今度は、にたり、と笑みを浮かべた。

         

        「まさか生きてまた会えるとはなあ。あの有様だったものだから、腹を割いて自害していてもおかしくないと思っていたのだが」
        「ち、千影がそんなこと……するわけないじゃあないですか」
        「そうかそうか。あのメガミ……ホロビ、だったかな?」
        「…………」
        「どうなんだ? 心酔するホロビの加護を失った今の気分は。あいにく私じゃあ分からないんだ、教えておくれよ」

         

         くつくつ、と笑いを噛み殺す瑞泉を、澱んだ千影の眼差しが捉えていた。
         だが、瑞泉はウツロの守りからさらに身を出して、

         

        「そんな顔をしないでくれ。これでも私は、君に感謝しているんだぞ」
        「なに……?」
        「神渉装置の被験者として本当によくやってくれた。君以上の逸材はいなかったと断言してもいいだろう。君がいたからこそ、あの装置の可能性を見出すことができた。あれ以来、同様の事例は起きていなくてね」

         

         千影にとって、装置の被験体にさせられたことはそれ以上でもそれ以下でもなかった。オボロらと情報の共有をした今となっては、ホロビもまた力を奪われたのだという認識である。だからこそ、千影にはホロビの声が聞こえなくなったことの理由があやふやなままであった。
         故に彼女は、顔を強張らせた。
         首謀者であるこの男が、自分の知らない事実を知っているとしたら。

         

        「実に我々の研究に役立っているよ。君の、ホロビはね」

         

         あえて名を強調した瑞泉。その意味を千影が咀嚼する前に、彼はさらに可笑しいといった様子で、

         

        「これも、君が深い繋がりを持ってくれていたが故の成果だ。理論上可能とは言っていたが、クルルも驚いていたさ。まさか存在そのものをこちら側へ引き込めるとはな」
        「は……」
        「おかげで、他のメガミが力だけ抽出できたものを、ホロビに関してはその全てを得ることができた」
        「あ、あぁ……」

         

         震える手で構えられる苦無と毒針。
         それを後押しするように瑞泉が作ったのは、貼り付けたような優しい笑みだった。

         

        「ありがとう、闇昏千影。ホロビをくれて」
        「あ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

         

         堰を切ったように感情を爆発させ、瑞泉へ踏み切った千影は、彼をそこへ縫い付けるように苦無を投げつける。手に持つ毒針には、彼の手に堕ちたホロビの力を凝縮した、禍々しい死の毒が塗られている。先程は対応されたが、本来はかするだけで死に至る一撃、それこそが本命だ。

         

         対し、口元を歪めた瑞泉は、ウツロと共に彼女を迎え撃つ。
         ウツロはその場で大きく縦に鎌を振り上げ、その場で直上に飛び上がる。小さな身体を存分にひねって放たれるのは、一見ただ地面を抉るだけのような大鎌での切り上げだ。けれど、柄すらどっぷりと地面に突き込んだ鎌の刃は、彼女の手の届かないところで斬撃を成していた。
         舞台と客席の間の地面、そこに広がる影を食い破り、いきなり巨大な影の刃が姿を現す。まるで地面を無視して伸長した大鎌で切り上げたかのような一撃は、間合いを詰めようと気負う者を刈り取るものだ。
         けれど、

         

        「ひひっ……!」

         

         その刃が切り取ったのは、一房の前髪だけだった。
         舞台から下りた千影の一歩は、前へ踏み切るものではない。
         彼女は致命の毒針を投げるどころか、突き刺すために至近することもしなかった。あと僅かでも攻めの意思があれば手痛い傷を負っていたところを、紙一重で回避する。

         溜め込んだ力を利用して、彼女は即座に舞台へ舞い戻る。そして後に残されたのは紙の巻かれた球であり、勢い良く毒々しい煙を吐き出し始めた。
         咄嗟に口元を覆う瑞泉はもちろん、どうしたらいいか判断に迷って棒立ちになったウツロも、飛び退る千影の姿を見送ることしかできない。

         

        「くっ……」
        「あ、ありがとうございます、瑞泉驟雨。ホロビのこと、教えてくれて」

         

         皮肉げな捨て台詞を残す彼女に、情動に突き動かされている印象はない。ホロビが大切であろうとなかろうと、千影の行動指針はただ一つ、生きることである。判断能力を取り戻した今、千影の生への嗅覚は誰よりも鋭く、怨嗟を理性と本能で押さえつけた彼女は、勝てぬ戦いから躊躇なく身を引く。

         毒煙を尻目に奈落へ飛び込んだ千影は、覚悟していたほどには恐怖に震えていない自分に気がついた。それどころか、もう割り切っているにも関わらず、どこか後ろ髪を引かれているようですらあった。
         優しく、けれど力強く懐の小瓶を握りしめながら、千影は弟たちの後を追った。

         

         

         

         


         毒煙が晴れた頃には、舞台上には古鷹の死体と、奈落だけが残っていた。

         

        「……面倒なことになったな」

         

         瑞泉に奈落の通路がどこに繋がっているか知る由もない。毒づく彼の意識は奈落に注がれていたが、若干の躊躇も窺える。
         やがて素直に追うことを決めたのか、舞台に上がろうとする瑞泉。
         だが、

         

        「そこまでよ」

         

         

         警告と攻撃は、同時だった。
         瑞泉とウツロを襲ったのは、宙を裂く数多の扇。ただひらひらと飛ぶだけではなく、先程まで古鷹が放っていたような、鋭い鷹のような力を孕んでいる。
         二人は目の前に展開された、ひときわ濃い闇でできた壁に隠れてそれらを凌ぐが、食い破られた隙間から飛び込む扇に打撃される。

         

         扇の群れが飛び去り、影の壁が宙に溶けたとき、生まれていたのは対立だ。
         離れから駆けつけた叶世座の面々が、素顔のままじっと瑞泉たちを見据えていた。
         じっ、と。あえて表現すべき感情などないというように、ただじっと見つめてくる集団は不気味ですらあった。

         

        「随分とご挨拶じゃあないか」

         

         気圧されぬよう軽口を叩いたところで反応はない。
         なにより、先頭に立ち、可憐な出で立ちに反して真顔を貫くメガミの姿は、見る者にひたすら自省を促すようですらあった。
         そんな彼女に――扇で口元を隠したトコヨに、瑞泉は不敵に返す。

         

        「古鷹を討ったのは天音揺波だぞ? 仇討ちなら筋違いだ」

         

         ほんの少しだけ。瑞泉のその言葉に、叶世座の何名かが表情を歪めた。
         けれど、この場にいる誰よりも、ウツロよりもなお小さなトコヨの視線は、瑞泉とウツロの一挙手一投足を見定め続けていた。一瞬だけ、瑞泉の背中越しに舞台の様子を目にしたが、顔色一つ変えなかった。
         トコヨは、答える。

         

        「いいえ。そんな毒にも薬にもならないこと、する必要はないわ」

         

         あくまでも、彼女の態度は毅然としたものだった。

         

        「あたしたちの目的は、芸術と伝統の守護であり、発展。それを営みとするこの地は、古鷹京詞の死を以って、不能に陥るでしょう。よって、次代当主が定まるまで、このあたしがその役目を担うことにしたわ」
        「ほう……メガミ様の指揮で、我々に仇をなすか?」

         

         問われたトコヨは、目を閉じ、小さく首を横に振る。骨の一つ一つをゆっくりと重ね、静かに閉じていく扇のように、彼女の言葉は淡々としたものだ。

         

        「我々は、不干渉を貫く。我々は、我々の守るべきを守る。それだけよ」
        「ほう、それは結構。ならばどうし――」
        「だけど」

         

         バチン、と。
         閉じた扇で瑞泉を遮ったトコヨ。その眼差しは、さらに強く、鋭く、何物をも刺し通す針のように彼へ改めて向けられる。その威圧感に、瑞泉から冗談めかした態度が削ぎ落とされた。

         

        「これ以上この場を騒がすようなら、ただじゃおかないわ」

         

         その言葉だけで背筋を正さずにはいられない……そんな警句。
         瑞泉はちら、と横目でウツロを窺う。意図を汲み取った彼女は、無感情ながらも大鎌を持つ手に力が篭っていた。

         

        「勝てなくは、ない。けど……」

         

         伏せられた目が、言葉の続きを物語っている。
         瑞泉は、硬直した己を解きほぐすようにわざとらしく苦笑した。

         

        「というわけだ。まさか伝説に残るような戦いをさせるわけにもいくまい。このあたりでお暇させてもらうことにしよう」
        「お帰りはあっちよ」

         

         戦闘態勢を解いたウツロを連れ、瑞泉は一般客用の出口へ向かう。
         トコヨも、叶世座も、見送りに下げる頭もなければ、視線で追うこともない。
         瑞泉が去り、ウツロの気配も消えた公演場には、ただ静寂だけが居座っている。
         そんな中、トコヨは何も言わずに一人舞台へと歩き出した。慌てるでもなく、けれど軽やかでもなく、ぽっくり下駄の音だけが、等間隔に場に響く。

         

        「トコヨさ――」

         

         指示を仰ごうとした叶世座の一人が、仲小路にやんわりと遮られる。
         トコヨは脇に据えられた階段で舞台に上がり、血の海に倒れる古鷹の下へ。汚れも厭わず躊躇なく膝をつき、彼の手足を整えてやる。

         

        「馬鹿ね……誰に許可なく死んでるのかしら。あんたみたいなの、探すの大変なんだから。まったく、三人目は何百年後になるやら……」

         

         その様は一見、床に伏す親を仕方なく看病する娘のようでいて、どこか時折、手のかかる子を世話する母のようでもあった。
         最低限繕え終えたのか、一息ついたトコヨは、目を細め、頬に薄く笑みを乗せた。
         彼女の指の背が、古鷹の瞼を落とす。

         

        「おやすみなさい、常世郷風月。あなたの芸は、永遠に残るでしょう」

         

         舞台を見下ろす白金滝桜が、ざあ、と風に啼いた。
         まるでそれは、人生を演じ終えた一人の男に対する賞賛のようで、じっと彼の姿を目に焼き付けるトコヨに悲しみの色が浮かぶことは、ついぞなかった。

         

         

         

         


         こうして天音揺波と瑞泉驟雨の、決定的な邂逅は幕を閉じた。
         彼はその野心にて全てをかき乱し、天音揺波も、闇昏千影も彼と強い因縁で結ばれることとなったわけだ。彼の覇道は全盛を迎え、英雄たちはまだ立ち上がったばかり。
         しかしそれでも、これからだ。英雄たちが刃を手に、立ち向かっていくのは、これからだ。

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

         

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        『桜降る代の神語り』第51話:古鷹京詞

        2018.02.16 Friday

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           ここまで来てしまったら、もはや前置く言葉はあまりに少ない。
           天音揺波と古鷹京詞の桜花決闘。避けられなかったその戦いを、カナヱはただ語るだけだ。
           そして、その先を――迎えた結末を、ただただ語ることにしよう。

           

           

           


           半日足らず。たったそれだけしか経っていないのに、篝火で浮かび上がる舞台への道は、揺波にはあまりにも長い時間が過ぎてしまったかのように、ひどく違ったものに見えていた。

           

          「…………」

           

           黙々と、一歩一歩進む一人きりの道。古鷹は先へ、そして藤峰も罠の可能性を探るべく先に舞台へ向かった。反応を窺うどころか、古鷹はその動きに「どうぞご自由に」とまで言ってのけた。
           古鷹京詞という男は、真実、桜花決闘によって何かを決めようとしている。けれど、その動機が揺波には分からない。その動機が勝利の報酬という矛盾が、集中しなければいけない揺波の心をかき乱す。

           

           盤外がいくら歪だからといって、これから行うは紛れもなく桜花決闘だ。いかに相手が大家の当主であろうと、揺波に負けるつもりはない。勝った結果として、押し通してまで揺波にさせたかった何かができず、古鷹が何かを失うことになっても、それは変わらない。
           だが、と視界に流れていく篝火を揺波は眺める。
           その向こうに幻視する龍ノ宮一志に、本当にこれでいいのだろうか、と問うことだけは、どうしてもやめられなかった。

           

           と、

           

          「……?」

           

           向こう側、舞台のほうから揺波のいるほうへ向かって、歩いてくる者がいる。ちょうど、離れから廊下に降りてきたようだった。
           最初はうまく見定めることができなかったが、次第にその影が自分より小さなものであると気づいた揺波は、それが本来この時この場所にいるはずのない少女だという結論に辿り着き、驚きを得た。

           

          「久遠さん……?」

           

           歩み来る少女は、確かに幾年久遠その人である。
           やや混乱を生じつつも、ここは仮にも騒乱の場である、と思い至った揺波は、親切心からはっきりと彼女を呼び止めようとして、

           

          「久遠さ――…………っ!」

           

           口も、そして足も、動かすことができなくなった。
           じわじわと密度を上げていく圧に押し潰されるように、次第に息も苦しくなっていく。
           その源は、揺波の前から優雅に、そして静かに迫っていた。

           

          「…………」

           

           

           扇で口元を隠し、淀みなく歩を進める久遠。その動きに無駄はなく、髪先の揺れ一つとっても完成されきっているという印象を強烈に与えてくる。彼女の歩みを止めることが、いや、余計な声を出すことすら許される者がいるのだろうか――息苦しさに喘ぐことすら琴線に触れてしまうようで、ただただ揺波は久遠が通り過ぎるのを待つしかない。
           しかし、だ。圧を放つ久遠から感じるのは、静謐さではない。

           

           研ぎ澄ました顔からにじみ出ているのは、隠すことのできない憤怒。
           煮えたぎるそれを土台にしてもなお、静かで、美しい。人知を超えた計り知れない表現を肌身に受けて、揺波は恐ろしさに脂汗を流していた。
           これと同じものを、揺波は知っている。そして、あの殺意の炎の持ち主と同類であることを確信する。何故メガミだと今まで気づかなかったのか、と身も蓋もない後悔が彼女を襲う。

           

           この廊下は今、あの日の龍ノ宮城と同じだった。
           龍ノ宮一志とヒミカの関係も、そのまま古鷹京詞と久遠に映し出されているよう。
           あのときは細音がいた。神座桜の近くだったから、生き延びることができた。
           揺波が意識するのは懐の神代枝。先手を打たれて生きていられる保証はない。
           いつでも使えるように手を添え、覚悟を決める。

           

          「止める、んですか……」

           

           重い空気をかいくぐるようにして、その言葉は確かに久遠に届いたはずだった。
           実際、眉間に皺を寄せた久遠は、それでもなお美しく不愉快を露わにした。
           これまでか――そう、神代枝を掴む指に力を込めようとした揺波だが、

           

          「いいえ。どうでもいいわ」

           

           返答は、心底つまらなそうな否定だった。揺波すら見てない久遠は、そのまま揺波の横を通り過ぎ、母屋に消えていった。
           圧から解放された揺波は、生まれた安堵と大きな疑問をよそに、深く息を整える。
           どれだけ多くのしこりが残されていようとも、彼女が相対すべき敵は、この先で待っているのだから。

           

           

           

           


           夜更けにも関わらず、舞台は光に満ちていた。

           

          「……いいんですね」

           

           数時間前には皆が舞い、奏でた舞台には今、二人の主役が立っている。左手には揺波、右手には古鷹。四方に灯された篝火とは別に、天井からは上品な明かりが二人を照らしている。背景とした白金滝桜の輝きと相まって、既に絵になる美しさであった。
           人の身の観客はただ一人。この公演場への出入り口を警戒する藤峰のみである。彼からの異常なしという報告は、気休め程度ではあるが揺波から肩の荷を一つ下ろさせた。

           

           向かい合う古鷹の返答はない。堅く口を結んだ彼からは、その感情を読み取れない。袖と袴の裾だけが、小揺るぎもしない枯木のような彼が生きているのだと教えてくれる。
           それを見て揺波は、不要なもの全てを切り捨てるように、一言、宣誓する。

           

          「天音揺波。我らがヲウカに決闘を」

           

           手にした斬華一閃の重みは、ザンカの期待の重みである。そして、揺波の勝利への執着心もまた加わっているようだった。桜の下で相手と対峙した今、刃を露わにするにつれて霞のように残った存念が消えていく。
           それに応じるのは、色のない古鷹の声。

           

          「古鷹京詞。我らがヲウカに決闘を」

           

           胸の前で虚空を右手で握り、左手を添えた古鷹。右腕を前へと伸ばすにつれ、そこにはなかったはずの扇が水平に開かれていく。
           次いで、その扇の優美さを魅せるように、顔の前で一振り、二振り。すると、いつの間にか彼の顔は何やら奇妙な下三角の薄い石版で隠されていた。ぐるぐると描かれた一対の模様はまるで目のようで、彼の眼前に浮かんでいるそれは古の仮面のようだと揺波は感想する。左右に行ったり来たり、本当に表情を隠すことが目的ではないようで、やや安堵した。

           

           そんな仮面は、ただ奇妙なだけではない。ともすれば生きているとさえ思わせるような、生命力と存在感がひしひしと伝わってくるのだ。
           世を襲う現象の例外たる揺波とザンカを指して、似たようなものだ、と言った古鷹の言葉を揺波は思い出す。扇も、仮面も、僅かな綻びも感じさせない。それは、古鷹もまた、例外的なメガミを宿しているという事実を指す。

           

           相手にとって不足はない、といった熱意は揺波には沸かない。最も大切なのは、今ここに立つ相手の動きを判断し、最適な対応をすること。相手の失策を最初から期待していない揺波にとって万全な状態の相手とは、自他共に想定外な動きに構える必要がなくなるということでしかないのである。

           

           だからこそ、揺波はただ相手を見据える。
           古鷹京詞の一手を、見極めるために。

           

           

           

           


           間合いの変化は静かだった。

           

          「…………」

           

           しん、と多くを静寂が支配する場に、板を踏む音が窺うように響く。方や揺波の靴の硬い音、方や古鷹の厚い足袋の微かな音。
           両者とも、ゆっくりとだが着実に間合いを詰めている。窺うような古鷹の足音は、前を志向することに消極的であることを示している。だが、後退の意思はそこにはない。着実な一歩は意図を感じさせないよう、巧妙に作られている。

           

           息を呑むような静かな状況は、彼が演出したと言っても過言ではなかった。近い間合いを得手とする揺波でも、即座に距離を詰めようとは思えなかった。作られた状況下において、攻撃の届かない中距離を一気に駆けることに危険を感じたのである。
           だが、それとは別に警鐘を鳴らすのは、渦巻く仮面の瞳であった。時折静かに鈍く輝くそれは、間違いなく何かをしている。遠距離攻撃であれば、現在の間合いにいるのは上策ではない、という板挟みの状況が既にできあがっていた。

           

          「っ……」

           

           踏み込むべきか、もう少し出方を窺うべきか。
           未だ打ち合ってもいない段階で僅かに逡巡する揺波だったが、その隙に別の選択を強いられることになる。

           

          「やッ!」

           

           ゆるりと構えていたはずの扇を、古鷹は俊敏な動きで揺波へと放った。空を駆ける扇は、獲物を見つけた猛禽類のように一直線に正中を狙う。
           咄嗟に刀を盾にし、保険とばかりに結晶も構える。
           だが、

           

          「う、く……!」

           

           水平に羽を広げる扇は、立てられた刀を避けるように身を倒す。そして守りとした結晶をあざ笑うかのように、ひらり、風に舞うような優雅さで潜り込んだかと思えば、脇腹への打撃を為した。啄まれた体内の結晶が、塵となって舞台に輝く。
           必要以上に様子を窺っていたからこそ受けてしまった先手。後悔すべきところを、揺波は前への原動力へと変えた。

           

          「はぁぁッ!」

           

           未だ投擲の残心を解いていなかった無手の古鷹に対し、右下段から腹を薙ぎ切るような一刀を繰り出す。
           けれど一寸踏み込みが浅いことを見切ったのか、古鷹は半歩下がりつつ半身になりながら、揺波の切っ先が帯を掠めたところで、斬華一閃を送り出すように優しく左手を振り下ろした。その手には、投げたはずの扇が既に顕現し直されている。
           自分の力以上の推進力を刀に与えられて、揺波は体勢を崩しそうになる。しかし、これを揺波は身体を回転させることによって、不完全ながらも更なる攻撃へと転じる。

           

          「ぃ――ぃぃやッ!」
          「ほう」

           

           回転力を乗せ、半ば飛びかかるように彼の背を斬りつける一撃は、彼女の貪欲さと技巧が生み出したものである。切り返しの間に合わなかった古鷹は、左肩に傷を甘んじて受けた上で猛る揺波を正面に捉え直そうと試みる。
           さらに一歩、滑るように間合いを離す古鷹を、揺波は逃さない。有効打の代わりに陥った無理な体勢の中、強靭なばねで踏みとどまる右足は、確信によって支えられている。切っ先が届かなくなる前にあと一撃、放つだけの猶予を彼女は自覚していた。
           だが、

           

          「ぁ、っと……?」

           

           その踏ん張りが、突如利かなくなる。揺波の信じていた三撃目のための力を否定するような、そんな虚脱感が彼女を襲った。
           不可解な現象に追撃を中止、咄嗟に後退し、離した間合いで体勢を立て直す。
           再び泰然と構えた古鷹の顔を、仮面が半分ほど遮っている。彼はやはり無表情であったが、仮面の模様に帯びた光が仄かに胎動している。己を襲った虚脱感は仮面による力か、と評価を付け加える。

           

           けれど、離れた間合いにいる意味がないことを揺波は既に理解している。古鷹が迫ってくることはないが、風に舞う扇は容易く距離の壁を超えてくる。さらにはこの仮面の力だ。
           虚脱が解けたことを確認するなり、もう一度飛び込んだのは道理であった。

           

          「ふッ――」

           

           揺波の一手は、小さくまとまった下腹部への切りつけ。これもまた、そう避けることが台本に書かれていたような自然さで、古鷹は身を捻って避ける。返す刀で狙うは扇を持つ右手であり、あてがわれた結晶の盾を奪い去るが、流れを作るような決定打には至らない。
           さらに喉元を狙った突き込み。けれどそれは閉じた扇に痛打され、古鷹の首の僅か一寸隣を抜けていく。身体を前に差し出すことになった揺波は、がら空きになった自身の喉元に緘尻――扇の根元を合わせられ、自身の推進力を身をもって味わうことになる。

           

          「ぉ、ごっ……」

           

           突き出した刀を振り払い、飛び退くことで追撃は阻止したものの、繰り出した攻撃の手応えは、塵と消えた結晶に比べて見劣りしてしまう。
           届いている攻撃はある。けれど、古鷹の芯をあと一寸捉えきれていない。彼の舞うような戦いは、揺波の攻撃を華麗に受け流してしまう。舞という印象だけで言えば細音と似たような印象であるが、その実、打ち合う様は比ぶべくもない。

           

           細音は薙刀の間合いの広さ、そして八相の構えによって後の先を得手とするが、流れるような薙刀捌きから繰り出される連撃もまた強力無比である。守りを切り捨てているにも関わらず、自らも攻め、撃ち合いすら演じてみせる彼女は基本的に前を志向するミコトだ。
           けれど古鷹は違う。徹頭徹尾、後の先を志向している。
           自ら攻めることはなく、攻撃をいなし、揺波にできた隙を鋭く刺す。攻撃は最大の防御と言うが、それは攻撃によって相手の動きを支配できたときに限られる。守りによって攻撃者を支配し、間隙を縫うように繰り出す防御不能の一撃によって古鷹は攻めるのだ。

           

          「ふぅぅ…………」

           

           達人。そう呼ぶべきなのだろう。
           数度の撃ち合いによって知り得た古鷹京詞というミコトを、揺波はそう評さざるを得なかった。

           

           龍ノ宮の苛烈な攻めを最強の矛とするのなら、古鷹の鉄壁の守りは最強の盾。ハガネとの決闘も経て、強大な力を捌く術を揺波は磨いていたが、これほどの守りを持つ者を相手にした経験はない。舞うような立ち回りを得た細音との死闘がなければ、届かない刃の歯がゆさに致命的な焦りを得ていたことだろう。
           ただ、正反対とはいえ、恐ろしさでいえば龍ノ宮と同等だという事実がまだ救いだった。あのとき彼は本調子ではなかったのだろうが、古鷹と同じ領域に立つ者を、さらには彼らに力を与える立場の者を、今まで打ち倒してきたという自信が、己と向き合わされるようなこの決闘での支えとなっていた。

           

          「…………」

           

           古鷹はやはり、間合いを詰めてくることはない。彼の描く決闘の筋書きにそのような動きは載っていないとでも言うようだった。
           それに三度距離を詰め、刃を向ける揺波。彼女の考えることは一つ、古鷹の守りを崩すことである。
           方策はある。ザンカの威風を、より細かく、より稠密に発揮させるのだ。感覚的には、守りの手を気で圧するようなもの。龍ノ宮戦のように激しい攻撃を縫う必要がない以上、やれないはずはなかった。

           

          「やッ!」

           

           小さな踏み込みから、牽制よりも僅かに力を込めて切り下ろす。右肩から左脇腹へ抜けるような軌道は、身を倒しての回避だけでは避けきれない。揺波の読み通り、古鷹は軌道をそらすべく、左足を引きながら右の扇を掲げる動きを見せた。
           今までであれば、推力を加えられた刀が床を削るところである。

           

           だが、刀と扇が触れ合った瞬間。
           全身に溜め込んできた気を、揺波は一気に高める。膨張する圧力は、破裂した際の破滅的な結果を否が応でも相手に悟らせる。

           

          「……!」

           

           その時点で、古鷹の動きはほんの少し、乱れを見せた。床へ刀を送り出す扇の動きを、やや乱暴に加速させたのだ。それは、膨らむ圧の先に待つものへの対処を求められたことからくる焦りによって生まれた動きだった。
           そして、揺波にとってその対処はむしろ好都合だった。

           

          「はぁぁッッッ!!」
          「ぉ、ぐ……!」

           

           臨界を迎えた気の爆発は、結晶の守りを散らす威風となって舞台に吹き付ける。その向きは頭を押さえつけるように上から下――今まで古鷹が揺波にそうしてきたように、刀をはたきおとす腕の動きをさらに加速させる。
           そうして得られるのは、古鷹の体勢の揺らぎだ。構えていた分、揺波の返しはこの戦いの尺度で言えば圧倒的に速い。
           いかに僅かな間だったとしても、そこには確かに、守りは存在していなかった。

           

           相打ちを狙うかのように仮面が光を帯び、揺波の腕を痛みが襲う。けれどそれは、虚脱でない以上攻撃の妨げにはならず、相打ちを望んだ以上、彼は今、己を守るための技を繰り出せないと告げたようなものだった。

           

          「っくぁッ!!」

           

           強烈な逆袈裟が、古鷹の胴を裂いた。砕け散る結晶は、確実な負傷の証だった。

           

          「く……!」
          「ふッ! てェァッ!!」

           

           彼に構え直す暇を与えぬよう、刀を振るえるギリギリまで至近し、今までの負債を払うように切りつけていく。古鷹は今、守りとする結晶を持たない。吹き荒ぶ揺波の気に盾を奪われた彼へ、芯を打ち据える斬撃が見舞われていく。
           有効打の感覚を受け、機を見た揺波に浮かぶのは勝利の二文字。手の届くところまで降りてきたそれを掴むべく、渾身の一撃を決意する。

           

          「つき、かげ――」

           

           跳び上がった揺波の背には、天井に据えられた舞台照明。満月のように丸いその光を浴びた彼女の影が、見上げる古鷹へ降り注ぐ。

           

          「――おとぉぉぉぉぉおし!!」

           

           

           全霊を込めた一撃が、仮面ごと叩き切ろうと振り下ろされる。
           竹を割るような痛快な一撃は、無防備な古鷹にとっては趨勢を決する威力を有している。受けたが最後、数多の結晶の塵を吹き散らし、決着を迎えることは避け得ないはずだった。

           

           だが、

           

          「久遠の花を――」

           

           

           ぽつり、と漏らした古鷹は、両手に扇を広げ……舞った。
           自らを花弁と見立てるように、両腕を咲かせ。
           雨風に負けることなくたおやかに咲き続けるように、揺波の一刀を受け流す。むしろそれは、斬華一閃のほうから傷つけまいと避けているようですらあった。
           そして、花は吹雪く。

           

          「君が摘める道理はない……!」
          「が――!?」

           

           無防備に落ちてくる揺波の腹を目掛け、見舞われる返しの一撃。結晶が身代わりとなってなお、弾き飛ばされる揺波に重い痛みが襲いかかる。
           苦悶しながら見上げる古鷹の姿は、風に靡いただけのよう。
           決着はまだ遠く――揺波の渾身の一撃が、破れた瞬間であった。

           

           

           

           


           敗北を知らない揺波には、土に塗れた経験はない。地面に転がって相手を見上げることも。

           

          「ぁ……ぐ……」

           

           月影落は、これまで幾度も相手を打ち倒してきた技だった。辛うじて守り抜いたとしても、すぐそこに詰みの状況が待っているような、そんな必殺の一撃であった。
           それを、躱されるどころか、綺麗に返された。
           戦意を失ったとしてもなんら不思議ではない結果である。

           

           けれど、ここで諦めることは、揺波にはできなかった。
           彼女の眼は、まだ死んでいない。
           彼女の勝利への執念は、決して敗北への道を歩ませない。

           

          「ふぅぅ、ふぅぅ……!」

           

           古鷹を睨みながら、立ち上がる揺波。燃える瞳で見出すのは、平然としているよう見せて、肩で息をしている古鷹の様子。失った結晶も含め、彼もまた万全とは程遠い。
           まだ負けてはいない。決め手が返されたことは、敗北を意味しない。

           

          「はあぁぁ……ああああああぁぁぁッ!!」

           

           意気を高揚させ、空気を震わせたのは、唸りとは違う圧。
           桜の塵が舞い上がり、揺波の闘志を現すようだ。まさしくその様は気炎万丈である。
           左半分が顕になった古鷹が、驚いたように強張り、それから頬を微かに緩ませた。

           

          「行きますッ!」

           

           誰にとはなく宣言した揺波の踏み込みが舞台を揺らす。

           

          「あァッ!!」

           

           猛進し、斬りかかる揺波の振りは軌跡が見えるほどに素早い。それすらもなんなく紙一重で躱してみせる古鷹だが、揺波の切り返しは掛け合いの呼吸を覚えた相手役のように、間断なく為される。
           一振り、二振りとさらに速度を上げて迫る。けれど今、この舞台上で主役は古鷹であった。どれほど焦がれる恋歌を詠もうとも、さらに深みある返歌で窘めるように、執念を纏った斬撃はどれほども彼には届かない。

           

          「はっ!」
          「ぅ……っう……!」

           

           反撃を辛うじて防御した揺波は、戦闘勘に導かれるままに深追いを避け、間合いを離す。
           いかに意気を込めた連撃を見舞おうとも、届かなければ意味はない。その勢いも長く続くものではなく、時間が経つほどに守りによる支配から抜け出すことは困難になる。
           諦める揺波ではない。けれど、現状を打開するような策はもう残っていない。

           

          「はぁ……はぁ……」

           

           現実を前にして挫けそうになる揺波は、それでも挽回の一手を探す。
           と、そんなときだ。

           

          「……?」

           

           刀を握り直そうと緩めた左手が、熱を帯びていることに気がついた。激しい剣戟や熱意によるものではない、果ては熱さとも違う。仄かなそれは、優しく安堵するような力を湛える暖かさだった。
           揺波は、それを知っている。いや、その源を知っている。
           自身の左手にあるものを。自身の左手に宿るものを。

           

           思い起こされるのは、この地、この舞台に至る元凶となったあの戦い。
           求める形は、既に彼女が見せてくれていた。

           

          「む」

           

           斬華一閃を古鷹に向かって投げつける。彼は即座にそれに反応し、足捌きで避けようとするが、あては外れることになる。
           大気に、斬華一閃が解けていく。桜の光となって消えていく様は、自棄になった攻撃などではなく、ミコト自身の意思によって消される顕現武器そのもの。

           

          「ぽわぽわちゃん!」

           

           揺波が掲げるは、信頼すべき暖かさ宿る左手。
           その手に握るは、桜色の長い柄。
           そしてたなびくは、満開の桜並木を思わせるような標。
           暖かな力を導くホノカの旗は、今揺波の手の中に顕現した。

           

           

          「力を!」

           

           大きく振り上げたその旗は、舞台に力の流れを生む。我こそ主役とばかりに集める衆目は、散りばめられた桜花結晶のもの。彼女の示すその先を共に見るため、揺波が巻き上げる気炎の更なる糧となる。

           

          「なん……」

           

           仮面で隠れていても、古鷹の動揺は声に現れていた。投げつけられた刀の変化にも反応していた彼だったが、かき集めた守りの結晶が離反するところまでは、台本には載っていなかっただろう。
           彼女が執念を燃え上がらせる限り、勝負は終わらない。
           揺波の瞳は、古鷹を――その先にあるものを、今度こそ捉えている。

           

          「はあああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

           

           なればあとは辿り着くのみ。闘志の権化となった揺波は、前へと踏み出す。
           牽制として振り払われた旗に対し、古鷹が選んだのは後ろへの回避だった。

           

          「くっ……」

           

           飛び退きながら、揺波を隠す旗の尾を巧妙に避ける弾道で扇を投げ込む。決死の前進であっても、攻撃を放つ前に倒れてしまっては意味がない。そんな一手を打った古鷹は、事ここに至ってなお冷静であった。
           けれど、

           

          「お願い!」

           

           揺波は、扇を撃ち落とそうとも、躱そうともしない。
           彼女が掲げるのは、ミコトの証たる結晶輝く左手。
           その輝きが一段と増した瞬間、獲物を食らう鷹のような扇は、見えない壁にぶつかったように力なく落ちていく。

           

          「……!」
          「やああぁぁぁぁぁ――」

           

           そこにもはや、揺波の進撃を阻むものはなかった。旗は花びらとなって消え、彼女の手には再び愛刀が握られる。
           左手の結晶は、守った対価を払うように輝きを失っていく。けれど揺波には、ホノカが背中を押してくれた結果のような気がして、斬華一閃を握る手にいっそう力が入る。
           そして振り抜く一閃の前に、古鷹を守る結晶も、技も、皆無だった。

           

          「――ぁぁぁあああああッッッ!!!!」

           

           横一文字の軌道にそって、彼の身体から砕けた結晶が溢れ出す。
           脱力し、膝をつき、手をついた古鷹に、残された結晶はない。まるで揺波に頭を垂れているようなその姿は、紛れもなく終わりを示していた。たとえ仮面で顔が隠れていても、扇を握りしめていても、それが力を生むことはもうない。
           決着は、ここに成ったのだ。

           

           

           

           


           終わってみれば、舞台は静かなようでいてざわめきに包まれていた。舞台上のものだけに注いでいた集中が緩んだことで揺波が耳にした音は、葉と葉が擦れ合うような、神座桜の鳴き声だった。それが決闘を見届けた桜の歓声のようで、心地よい。

           

          「ふぅ……」

           

           息を整えるこの時間は、揺波がいつも勝利を得た充足感を咀嚼する場だった。けれど、どこか満たされないことに戸惑う揺波は、始まる前に追いやっていたこの決闘の背景を思い出すに連れて、それが虚しさであると思い至った。気づいてしまえば、勝利への一撃を成した斬華一閃が、いやに重く感じられた。
           古鷹は未だ、膝をついたままだ。消え始めた仮面は、勝利を手に彼と話さなければならないその時が来てしまったのだと告げていた。

           

          「え……」

           

           けれど、いざ古鷹の様子を見て、揺波は言葉を失った。
           このまま顔を上げるべきか、それともこの顔を見せぬようにすべきか――そう逡巡するかのように半端に浮いた彼の顔は、決闘中にすら見られなかったほどに、歪んでいた。
           わなわなと震える手が、それが悔しさであると思わせるが、違う。

           

           恐怖。
           古鷹京詞は、恐れにその顔を歪ませていた。

           

          「あ、の……」

           

           尋常ではないその様子に、恐る恐る呼びかける揺波。
           答えは、辛うじて得られた。

           

          「す……」
          「……?」

           

           何かを言いかけて、けれど飲み込んでしまった古鷹に心配を募らせる揺波。結晶が身代わりになってくれたとしても、響いた打撃の余韻や単に集中力の決壊で決闘の後に動けなくなる場合はないわけではない。
           だからこそ、揺波はその左手を、古鷹に差し出した。
           ……その優しさが、引き金となった。

           

          「あっ……!?」

           

           突如、古鷹に左腕を捕まれ、床に引きずり倒すように引っ張られる。がくん、と体勢を崩した揺波は、眼前に迫るものがなんなのか理解して、ゆっくりと流れる時間の中で凍りついた。
           緘尻。刺突用途に用いる場合、最も力の集まる、先程は揺波の喉を捉えたその一点。
           顕現させたままだった古鷹の扇のそれは、一直線に揺波の左の眼球を目指していた。

           

           一切容赦のない、殺意の発露。
           既に古鷹の結晶は失われ、決闘が終わりを迎えたというのに、だ。

           

          「っ……!」

           

           目を瞑ってしまいそうになる恐怖に打ち勝ち、抵抗するのではなく身体を引っ張られたほうへ――右側へと思いっきり倒す。
           間一髪、こめかみを掠めていった扇を見送り、転げて身体を起こした揺波は、次の動作を身体が動くに任せていた。敵を背にした状態で離脱してしまった際は、追撃の可能性を考慮して背後を薙ぎ払うようにして体勢を立て直す……それが、揺波の身体が覚えていた動きであった。

           

           その腕は、止まらない。
           手に持ったままの斬華一閃は、容赦のない動きに対して、容赦なく振り抜かれる。
           そしてその腕が知らない、歪な手応えを、揺波は得る。

           

          「が……ぁ……」

           

           それは藁束のような繊維質の集合を断ち切るようでもあり、水面を切り裂いたときのようであり、どちらにも似ているようで、何かが違っていた。
           切り払い、振り向いた揺波の頬を、水滴が濡らす。

           

          「あ……あぁ……」

           

           ぼた、ぼた、と。既に衣服が受け止めきれなくなったのか、一太刀の軌跡が生み出した断裂から、命がこぼれ落ちている。
           扇が消え行く手で、力なく押しとどめようとする古鷹の顔から、急激に色が失われていく。彼の顔に焦りはなく、呆然と納得が混じり合っているようだった。

           

          「ぁ、ぁ……ぅ……」

           

           言葉にならない声で力を使い果たしたように、人形のように倒れ込む。びじゅり、と不快感を覚える音と共に、古鷹から流れ出した血が揺波の足元に飛び散った。

           

          「こだか、さん……? なん……で…………?」

           

           答えは、得られない。答えられる者は、その能を失っていた。
           古鷹はまだ、勝利した揺波の疑問を解消するという義務が残っていた。履行されぬまま冷たくなっていく彼の姿は、それを反故にし、更なる疑問を揺波に植え付けるものであった。

           

           決着がついてなお抗する理由が、揺波には当然分からない。
           それを冷静に考察できるほどの余裕など、あるわけがない。
           天音揺波というミコトは今、二度目となる惨状を目の当たりにして、混乱の渦に叩き込まれていた。

           

           そんなときだ。
           しっかりと聞かせるような、ぱち、ぱち、という拍手が、くつくつという嗤いと共に、揺波の意識に引っかかる。

           

          「なに……?」

           

           賞賛の源は、客席の最後尾。ぎこちない動きで首を動かした揺波は、そこに伸びる二つの影を見て取った。
           一人は、理性と野心、さらに自信をその身から溢れさせる男。揺波は彼を知っている。大家会合の際、古鷹以上の強者だと認識した若き為政者だ。
           そして傍らには、黒を基調とした衣を身に纏った、灰色の髪の少女。揺波は彼女を知らない。けれど、離れていても分かる紛うことなきメガミの威圧感に、思わず唾を飲み込んでいた。

           

          「素晴らしい……!」

           

           明らかに皮肉った声色の賛辞が響き渡る。
           瑞泉驟雨とメガミ・ウツロが、舞台の明かりに僅かに照らされて、夜闇の縁にわだかまっていた。

           

           

           


           英雄とは輝かしいものだ。彼女がこの時代で成し遂げたものが、悪行などと言うようなものはそうはいないだろう。
           けれど、その軌跡が輝かしいものだけでできているとは限らない。彼女の選択と因果の導きにより、歩む道の礎となった者もいた。
           古鷹京詞は、そんな一人だ。嗚呼。惜しいミコトを亡くしたと、カナヱも思うよ。……本当に。

           

           しかし、その道があってこそだ。こうしてまた一歩、英雄は先へ進んだ。
           古鷹京詞を超え、道を拓いた彼女を出迎えるのは、意外や意外、敵の総大将・瑞泉驟雨。
           突然現れた彼の思惑とは、果たして。

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

           

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          『桜降る代の神語り』第50話:望まれぬ戦いへ

          2018.02.09 Friday

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             英雄にとって、試練はいつだって過酷なものだ。

             けれども、此度の試練はどうにも肩すかしと言えるだろう。
             事実、メガミの力を宿した天音揺波たちに、襲撃者はあっけなく倒されていった。


             それもそのはず。この襲撃は、前哨戦でしかないのだから。

             英雄は、本当の試練へと挑む。
             たとえ英雄が――天音揺波が、それを望んでいなかったとしても、ね。

             

             


             千影の突き出した傘の頭が、黒い人影のみぞおちを的確に捉えた。

             

            「が、ふ……!」
            「おやすみなさい……!」

             

             さらに一歩踏み込んだ強烈な殴打は、見事に顎を打ち抜いて相手を弾き飛ばす。すかさず追撃とばかりに投げた針は、的確に黒衣のめくれ上がった相手の首筋へと吸い込まれていく。塗り込められた千影手製の麻痺毒は、彼に地獄のような眠りをもたらすことだろう。

             

            「このッ!」
            「っ……!」

             

             返す刀で掲げた傘が、振り下ろされた一対の太い棍棒を受け止める。たくましい腕を持った更なる襲撃者が、彼女の隙を窺っていたのだった。
             体勢を整える暇のなかった千影は、しかし相手の力強い連打をいなしていく。真正面から受けきったのは最初だけ、傘で受け流したり、立ち位置を変えたりして相手の攻撃の調子をじわじわと崩していく。
             そして均衡が自分へと傾き始めたのを見るや、千影はいきなり踏み込んで傘を開いた。

             

            「うお……!」

             

             突然視界が奪われた襲撃者は、咄嗟に胸と顔を守るように身構えてしまう。だが、この一瞬が命取りであった。
             はらり、と勢いを失って転がり落ちる傘の向こうに、千影の姿はない。

             

            「どこ――」

             

             問いの答えは、彼の右耳に走った一閃だった。
             目眩ましの間に高く一回転しながら跳躍していた千影は、宙で逆さまになりながらも、肌の晒されていた耳を毒針で切り裂いたのだった。
             さらに、それだけでは終わらない。

             

            「来て!」

             

             合図と共に、襲撃者の足元へ倒れるところだった唐傘はひとりでに閉じ、呼ぶ千影の下へ引かれるように勢い良く動き出す。
             もちろん、その間にいる者の都合などお構いなしに。

             

            「ご、ぉ……ぁ……」

             

             耳を切られ、反射的に身体を反っていたところに強烈な突撃の合わせ技。いかに黒衣の上から分かる図体の大きさがあったとて、到底耐えられるものではなかった。
             畳に伏した相手を忌避感たっぷりに見下す千影は、戻ってきた傘を振りかぶろうとして、

             

            「姉さん、もういいよ」
            「あぁ……」

             

             静止する千鳥の声に顔を上げれば、月光が淡く差し込めるこの部屋に立っているのは四人だけとなっていた。
             倒したばかりの男の手から棍棒を足で遠くに退けた彼女は、その中の一人である揺波の姿をじっと見つめている。
             傷もなければ、襦袢をほとんどはだけさせもしていない。にも関わらず、得物を構えたまま呆然と荒い息を整えている揺波は、千影の目にとても弱々しく映っていたのだった。

             

             

             

             


            「おい、見ろ」

             

             三人の忍が襲撃者たちを拘束、検分している間、手早く身なりを整えた揺波は、そんな藤峰の言葉に意識を戻された。屈んだ彼の示す先では、畳の上で伸びている襲撃者の一人が顔を露わにされていた。
             それを見て、あっ、と声を上げた揺波に藤峰は頷いて、

             

            「覚えていたか」
            「この人……里に乗り込んできた人、ですよね……?」

             

             脳裏に焼き付いて離れない宣戦布告。御堂という男の蛮行は、古鷹の矜持と立場、そして決断を知った今でも無視できない違和感となって揺波の心に残り続けている。いわばそれは、彼女にとっての古鷹の悪行の象徴でもあった。
             その彼が、ここで倒れている意味とは。

             

            「間違いないな。古鷹の手の者たちだ」
            「そんな……!」

             

             思わず声を大きくしてしまう揺波を、藤峰が視線だけで咎める。
             その藤峰は、御堂の腕を次いで指した。御堂はこの襲撃者の中でも数少ない歯車の篭手を持つ者だった。

             

            「御堂はこれでも叶世座の有力者だ。俺が調べた限り、こいつがこの中で一番上だ。大方、御堂の一派総出といったところか?」
            「でもなんで――古鷹さんには、わたしを狙う理由は……!」
            「理由がなくとも証拠はある」

             

             きっぱりと言い切った彼に、揺波は反論するための言葉が出てこなかった。
             そんな二人に割って入ったのは、陰鬱さに焦りを混ぜた千影の声だった。

             

            「あ、あの……いいから早く逃げませんか。応援が来たらジリ貧なんですよ分かってるんですか?」
            「確かに、姉さんの言うとおりだな」

             

             同意する千鳥で、揺波はこの二人のことを姉弟であると認識する。面差しは確かに似通っているのだが、如何せん明るい千鳥に対して、千影はやつれ気味だったり目の下のくまが酷かったりと雰囲気がかけ離れているのだ。
             先程は千影に一方的に名乗られたことを思い出し、揺波は頭を下げる。

             

            「あの……天音揺波です。助けてもらってありがとうございました」
            「愚弟が……せ、世話になったようですね」
            「いえ、そんな。無事に会えたみたいでよかったです」
            「あれ……姉さん探すのに出てた、って誰かから聞いたのか?」

             

             千鳥の疑問には、藤峰が咳払いを以って答えとした。厳しい視線は油断なく四方八方へ向けられており、滞りのない撤退のための警戒は途切れることはない。

             

            「積もる話はまた後で。今はとりあえず逃げよう」

             

             催促に応じるように、天井に空いた穴を指す千鳥。彼は千影の足場となるべく、中腰に構えた。
             ただ、千影がそんな彼の両手に足をかけたときだった。

             

            「……だめです。わたしは、行けません」

             

             動きを止めた忍たちに注視されながら、揺波は告げる。

             

            「古鷹さんのところに、行きたいと思います」
            「天音……ッ!」

             

             この害意に晒されてなお出てくるとは思えない発言に、藤峰は激昂する。ここが戦場となった敵陣であるとの意識が、辛うじて怒鳴りつけたい気持ちを押さえつけているようだった。

             

            「貴様、自分が何を言っているか分かってるのか!?」
            「分かってます!」
            「なら何故、渦中に飛び込む真似をする!? 大将首でも討ち取るつもりか!? やつの強さは本物だぞ!」
            「そういうんじゃありません! わたしはただ、納得できないんです!」

             

             頑なな揺波の語気は荒くなっていき、忍たちは屋敷に響いていないかと気が気でない。しかし彼らにとって揺波は要救助者であって、素直に応じてくれないから、と置いていくわけにもいかない。無論、乱暴な手段が通じる身でもない。
             唇を噛みながらも聞く態度をとった藤峰に、揺波はその内に抱える疑念をぶつける。

             

            「この四日で、古鷹さんのことも、この都もことも、色々知りました。悩んで、悩んで、それでもどうしようもなくて、守りたいものを守るためにそれ以外を捨てることを選んだって」
            「だからどうした。それでも、我々が捨てられたことには変わりないんだぞ?」
            「違うんですよ! 古鷹さんは、こんなわたしだって守ろうとしてるんです! わたしに、決闘代行をやらないか、って……。そんな古鷹さんがわたしを襲うなんて、どう考えても筋が通らないんですよ!」

             

             その事実は藤峰にも意外だったようで、ぴくり、と眉が動いた。けれど、煩わされる怒りに満ちながらも、彼の反論は至って論理的だ。

             

            「敵の言葉を真に受けるのはともかく、この短い間に考えが変わった、ということもありえるだろ!」
            「古鷹さんがわたしに示してくれた礼は、その程度のものじゃありませんでしたよ! そもそも古鷹さんは、お互いのためになると思ってそれを提案したんです。取り下げるにしても、あの人はきっと自分の口から言うはずです! もし、わたしを切り捨てるように言われたんだとしてもです!」
            「同じように叶世座を使ったのかもしれんぞ? 大将が出張って万が一があれば事だからな」
            「古鷹さんの強さが本物なのに、ですか?」

             

             ぎり、と藤峰の歯が軋む。

             

            「これが古鷹さんの命令したことだったら、その真意を問いたい。一緒に瑞泉を敵だと思ってくれた古鷹さんの力になれないか、道を探りたい。……もしもこれが、古鷹さんの意に反するようなことだったら――」
            「……部下の統率は長の義務だぞ」
            「忍の里をあんな形で襲ったことにも、わたしは違和感を覚えてました。選択肢がなかったんだとしても、やっぱり古鷹さんらしくない。だからわたしは、どんな理由で襲われたんだとしても、古鷹さんに直接話を聞きたいんです」

             

             光と消えた斬華一閃の代わりに、いつもの刀を佩く。その眼差しは、決闘に挑むかのように真っ直ぐだった。決して、不可解な事態への迷いが消えたわけではない。それは、迷いに戸惑うのではなく、迷いに真っ直ぐ向き合うことを決意した目であった。
             藤峰はそんな揺波の態度に観念したのか、

             

            「……正気の沙汰ではないが、これが混乱だとすれば、情報収集以上に交渉の余地も生まれるかもしれん」
            「じゃあ……!」
            「ああ。――くそッ、なんで俺がこんな目に……」

             

             毒づく藤峰に深々と頭を下げる揺波。その傍ら、緊張した面持ちで成り行きを見守っていた千鳥は、ほっと一息ついてから顔を引き締める。

             

            「よし、ならさっさと行こうぜ」
            「……? どういう了見だ、千鳥」
            「え、俺も一緒に行くんじゃ――あだっ!」

             

             何の疑問も持たずに同行しようとした千鳥だったが、しびれを切らした千影に頭を踏み台にされて言葉を遮られる。
             華麗な動きで天井裏に飛び込んでいった千影が、穴から身を出して腕を伸ばす。

             

            「何寝ぼけたことを言ってるんですか。千影たちが顔を見せる義理はないですよ」
            「また囲まれないとも分からないし、戦力は多いほうが……」
            「おまえは馬鹿ですか。千影たちはまだ存在を知られていないんですよ? 天音が懐に飛び込むというのなら、伏兵として振る舞うほうが合理的でしょう。ちゃんとオボロ様に頭も鍛えてもらいましたか?」

             

             ねちねちと諭す千影本人も、変わった風向きにあまり乗り気ではないようだが、苦笑いする弟を引き上げてから、下の揺波たちにこう言い残した。

             

            「ちゃ、ちゃんと見てますから。か、勝手に……逃げないでくださいよ……!」

             

             それは弁明のようでもあり釘を刺すようでもあったが、どう答えたものか揺波が迷っている間に天井板が嵌め直されてしまった。
             残された揺波は、藤峰に向かって深く頷く。
             迷いを払拭するため、争いの空気が未だ残る部屋を二人は後にした。

             

             

             

             


             このとき、月は頭上に輝いて久しかった。障子戸を全て開け放たれた客間は、深夜にも関わらず並べられた行灯と月明かりによって、注意せずともお互いの顔がはっきりと分かる程度には照らされていた。
             用意された座布団の上で膝を畳む揺波と、座布団を無視して傍に立つ藤峰。
             そして、

             

            「お待たせした。話を、お聞かせ願おう」

             

             二人の正面に座す、古鷹京詞。
             彼を覆うのは、眠りを妨げられたものとは断じて異なる倦怠感。そして彼の顔ににじみ出ているのは、やつれた見た目以上の悲壮感。
             いきなり本題に入った彼が纏う空気に、揺波は息を呑んだ。

             

             古鷹の下へ至るまでに一悶着あるかと予想していた揺波たちであったが、彼の居室に出向くまですれ違う者はいはしたものの、拍子抜けするほどすんなりとたどり着くことができた。さらには、古鷹の名を呼ぶなり配下の者が即座に面会の場を立ててくれ、今に至る。
             およそ先程の戦闘が嘘のような成り行きに却って不安を覚えていた揺波であったが、何かを覚悟したような古鷹の様子は、その不安の矛先を容易に変えさせるものだった。

             

            「夜襲に、遭いました。助けもあって無事でしたが、犯人に叶世座の方々がいました」
            「…………」
            「古鷹さん、違いますよね? 古鷹さんが指示したことじゃ、ありませんよね……?」

             

             間違いであって欲しいという願いを込めた問いに、古鷹は目を瞑ったまま静聴を貫くのみだった。
             それがもどかしくて、揺波は前のめりになりながら、

             

            「だって、言ってたことと違うじゃないですか! 古鷹さんがわたしを襲う理由なんてないじゃないですか! ミコトが欲しい、って……だからわたしに協力してくれって……」
            「…………」
            「きっと、あの人たちが勝手にやったことなんですよね? じゃなければ、誰かに騙されてるとか……それなら、色々誤解もあると思うんです。わたしはただ、どうしてこんなことが起きたのか、聞きたいだけで……だから、その……また話を……」

             

             相槌すら打たない古鷹を前に、どう言葉を作っていけばよいか迷ってしまった揺波は、この場に来るまでの強い想いとは裏腹に、段々声をすぼませていく。そして場に降りるのは、居た堪れない沈黙だ。
             そんなじれることすら許さない静寂の中、古鷹はゆっくりと瞼を上げる。

             

            「あぁ……」

             

             伏せがちな眼差しは、諦観の色を帯びていた。そこにあると分かっていながらも、もしかしたら見間違いではないかと自分を騙すように疑っていた者が、変わることのない現実を直視してしまったような、そんなくすんだ色合いだった。
             一つ、大きく息を吸った彼は、気持ちを切り替えようとしたようだったが、揺波を見返す目には諦観がこびりついたままだった。

             

            「確かに。君の言うとおり、私が直接関与したものではない」
            「……!」
            「独断とはいえ、背信と看做される此度の不始末、信頼回復のためにはまず詫びる他ないだろう」

             

             もたらされた答えは、揺波の抱えていた違和感を正しく説明するものだった。
             あとは詳しい説明と、今後どうするべきか話し合う――そんな最善の道筋を浮かべ、僅かながら揺波は肩の荷を下ろそうとしていた。

             

            「だが」

             

             しかし、その安堵は許されない。
             むしろ古鷹は、揺波を――追い打つ。

             

            「今の私に、下げる頭はない」
            「え……」

             

             彼女にとって、それはあまりに突拍子もない言葉だった。真っ白になった頭に優しく流し込むように、古鷹はさらに言葉を補う。

             

            「私は、彼らの行いを否定する立場にもはやない」
            「古鷹、やはり貴様……!」
            「問題は、彼らが独断で事を起こしたとか、そういった領域から既に外れているのだよ」

             

             にわかに殺気立つ藤峰を眼中に入れず、古鷹は自嘲するような笑いを零した。
             呆然と、処理しきれない想定外の返答を理解しようとする揺波は、決定的な局面を迎えてしまったことすらも十分に掴み取れていない。
             揺波が下していた古鷹の評は、彼の思想や街並み、芸から大いに影響を受けている。だが、決して情にほだされていたわけではない。今後の人生、ひょっとしたらこの世にすら影響しかねない彼を、揺波は努めて冷静に、客観的に判じている。故に、彼女の思考を白く塗りつぶしたものは、裏切りによる衝撃ではなかった。

             

             揺波が持っている理屈では、彼の答えが説明できなかった。
             揺波に根ざした合理性では、彼の態度を理解できなかった。

             

            「君は……そうだな。結論から入ったほうがよかったか。ならば、今宵の出来事を全て鑑みた上で、私は君に一つの提案をする」

             

             そしてその提案すらも、揺波は、呑み込むことができなかった。

             

            「私、古鷹京詞は、天音揺波に対し、桜花決闘を申し入れる」

             

             宣言する古鷹からは、先程から彼を覆う暗い覚悟しか読み取れない。彼には断じて、氷雨細音や龍ノ宮一志が揺波に宣戦した際のような、燃えるような覚悟は宿っていなかった。少なくとも揺波には、そう思えてならなかった。
             何故、と彼女の口から滑り落ちた疑問に、古鷹は取り合わない。

             

            「私が勝利したならば、天音、君は私に従いたまえ。逆に君が私に勝利したならば、君の望むことはなんでも話そう。全て、だ」
            「それでは天音の掛け金が重すぎるぞ!」
            「優しいことだな。ではこうしよう。私が敗北した際には、古鷹は忍の里に従うこととする。異論はあるか?」

             

             まるで初めから用意していたような追加条件を突き返され、藤峰も言葉に詰まる。
             さらに、古鷹の追撃はそこで終わらなかった。彼は懐から取り出した扇子を、閉じたまま畳へ突き立てる。うつむく揺波をさらに下から覗き込む彼の表情は、挑発でも、嘲笑でもなく、暗く汚れた鉄面皮であった。

             

            「提案とは言ったが、君に選択の余地はない。これは決定事項だ」
            「ぇ……いや、だって……」
            「君が決闘を受けないというのなら、今度は独断ではなくなることになる」
            「……!」
            「残念ながら前と違って猶予はやれないが、なに、今ここで首を縦に振れば済む話だ。お暇するというのであれば、私の意思で連中を遣いに出すことになるだろう。そのあたりをよく考えた上で、さあ……君の大好きな決闘をしようじゃないか」

             

             意図が読み取れなくなってしまった古鷹は、もう揺波の知っている彼ではなくなっていた。優雅を謳う彼に武力でもって脅されることなど考えられなかった揺波は、突きつけられた選択肢なき提案から吹き出るあの違和感に押しつぶされそうになっていた。
             助けを求めるように藤峰を見やるが、苦虫を噛み潰したように口を閉ざしている。反抗心は冷や汗となって流れ出ているようで、もはや何も言うことはできないとばかりに、揺波からも古鷹からも目を逸らしている。

             

             彼女の中から、何故、は消えない。解消すらも許されなかった。それを責める言葉は、彼女の歩んできた道のどこにもなかった。
             こんなはずではない。
             決闘は、こういうものではない。
             その想いが、雫となって目端に浮かぶ。

             

            「わかり……ました。よろしく、おねがい……します…………」

             

             承諾を絞り出すように、頭を下げた揺波の手は、爪が食い込むほどに握りしめられていた。

             

             


             百戦無敗の英雄にふさわしい試練となれば、当然、決闘だろう。

             けれど、その決闘が望んだものとは限らない。
             決闘を芯に据えた天音揺波にとって、これは不服の極みと言える決闘だった。
             そして、生まれて初めての、彼女の意に沿わない決闘だった。

             

             強いられた決断。その先に待つものは、果たして。
             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

             

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