『八葉鏡の徒桜』エピソード2−2:Social Circle

2019.09.15 Sunday

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     一日の始まりには日が昇り、一日の終わりに沈んでいく。それは桜降る代もこの異国ファラ・ファルードも変わらない。
     けれど、日暮れと共に訪れるはずの宵闇は、今この広間では無縁であった。

     

    『それでは失礼します』

     

     案内してもらった女中に礼を言うことも忘れ、ユキヒは目の前に広がる綺羅びやかな光景に胸を躍らせていた。

     端から端まで人の顔が定かではなくなるほどの広大な室内は、高い天井から提げられた、光を乱反射させる宝石のような明かりに隈なく照らされていた。外の庭でわだかまっているはずの夕焼けは、緞帳の如き豪奢な窓掛けによって遮られている。壁に飾られたいくつもの絵画はどれも色鮮やかだったが、この場に集まった者たちはさらに華々しかった。
     花瓶に生けられた花よりもなお着飾った者たちは、めいめい硝子の酒器を片手に、あるいは机に供された料理を摘みながら歓談に勤しんでいる。贅沢なことに、隅に控えた楽師たちの奏でる優雅な音楽さえも、あちこちで咲く談笑の背景にしかなっていなかった。

     

     ヴィルドニールに誘われた、彼の屋敷での社交パーティー。その規模の大きさと華美な空間に、お座敷で宴会する場面を想像していたユキヒは目を輝かせるしかない。

     

    「すごいわねえ……お部屋全部が芸術品みたい」

     

     送り出された二階部分から、ハイヒールの踵を絨毯に埋めながら階段を下る。彼女の装いもまたこの国のドレスに合わせて誂えられたものであり、普段の着物の淑やかさを残しつつも脚回りを花開かせるような、絢爛さを取り入れた意匠となっている。
     ただ、会場の中では中々に特徴的な衣装のようで、降り立つユキヒへと視線が集まる。

     と、そこで、

     

    『もしや、あれがメガミ様か……?』

     

     誰から放たれたかも判然としない呟きだったが、それを皮切りに近くの参加者たちが一斉に目の色を変えた。
     にっこりと肯定の笑みと共に手を振れば、後に続くのは熱烈な歓迎である。

     

    『おぉ、彼の地の神はどうしてこうも美しくあらせられるのでしょう……!』
    『素敵なお召し物……あちらの方々は、皆メガミ様のような装いでいらっしゃるのでしょうか?』
    『失礼、拝謁の誉れを賜りし感謝を述べたいのですが……』
    『お初にお目にかかりますメガミ様。まずは当家自慢の一杯、いかがでしょう?』

     

     野蛮に争うことはしないものの、僅かな言葉の隙を見つけてユキヒに話しかけてくる一同。招待客は皆貴族であるようなので、振る舞いこそ礼節を保っているが、言葉に出さない圧によって順々に下がらされたりしており、水面下の争いが透けてしまうようだ。彼らの背後にそれぞれ控える者たちのせいで、戦のにらみ合いのようですらある。

     

    『え、ええと……はじめまして。私がユキヒです。メガミ、です』
    『おおっ、ユキヒ様!』

     

     名乗るだけで湧く聴衆に、さしものユキヒもたじろいでしまう。
     彼女としては、こういった社交の場に招かれたからには、できるだけ多くの人々と言葉を交わしたかった。貴族からは貴族の、民草からは民草の話が聞けるために、ユキヒの中で貴賤こそないが、高位の立場の者と話せる機会は実際稀有である。
     しかし、いくらメガミとはいえ、一度に十人以上と会話できるような力はない。言葉の聞き取りだって一瞬で限界を超えて耳から抜けていくし、嬉しい悲鳴というにも過剰な人数を前に少し目がまわりそうだった。

     

    『ちょっと待ってね』

     

     

     故に彼女は、やむなく相手を選別するために、その権能を呼び起こした。
     今目の当たりにしている光景が影に覆われ、時が止まったように速度を失っていく。そうした後に現れるのは、人々へと紡がれる膨大な縁の糸――ユキヒにしか見えない、人と人との繋がりの証が無数に広がっていく様である。
     その糸の質や形は、毛糸のようなものから縄のようなものまで様々だ。彼女はその一本一本を丁寧に紐解いていき、結ばれている縁を、結ばれゆく縁を検分していく。

     

     人を通じて世界を裏側から覗くような視界を得ながらも、これでもユキヒは僅かばかりやりにくさを覚えていた。桜降る代から遠く離れているためか、力が少し詰まるような使いにくさを覚えていた。
     だが、そんな小石を踏むような些細な違和感は妨げにもならない。この場で最も最も太く、それでいてしなやかそうな杜若色の絹糸を選び取るのに苦労はなかった。

     

     ユキヒが選んだのは、葡萄酒の注がれた酒器を差し出してきた男である。彼はユキヒが名乗った際、反応を示さなかった者の一人であった。
     焦点を縁の糸から外した彼女は、その酒を受け取ると、

     

    『ありがとう。……あら、いいお味ですね』
    『お気に召したようで何よりでございます』

     

     彼は大仰に礼の動きを作ると、自らも酒器を小さく掲げてから赤紫の液体を口に含んだ。ぴょこんと跳ねた口髭が印象的な壮年の男で、整った指先ながら、右手の中指だけは擦れて腫れたようになっていた。
     と、二人の間に生まれた会話の気配に、ユキヒを囲っていた他の者たちが潮のように引いていく。そのほとんどは上辺、何事もなかったかのように談話に戻っていったが、中には明確に肩を落とす貴族もいる。その背中は、半ば納得を示す落胆を物語っているようだった。
     一方、選ばれた彼はといえば、訝しる顔の裏に驚きを隠しながら問う。

     

    『我々貴族について、お詳しいので?』
    『えっ?』
    『いえ、お相手していただけるなど光栄の限り。しかし、自分で言うことも憚られますが、こうもずばりとご指名なされるとは。――申し遅れました。私は五大貴族に連なるアルトリッド家当主、ロナルド・ラストラ・アルトリッドと申します』

     

     重ねて頭を垂れる所作もどこか飄々としており、口にした立場の重みを感じさせない。背後に控えている者たちの数の多さだけがその証となっている。
     そんな彼への答えは一つだ。

     

    『不勉強でごめんなさい、知りませんでした。ですが、良い縁を、感じましたので』
    『――ほぉ……』

     

     確信を持ったその理由は、人と人の間であれば単なるお世辞と受け取られるものだ。けれどアルトリッドの浮かべた笑みは、広がる交友にただ喜ぶものではなく、超常を為した者に対する湧き上がる興奮や畏れが滲み出ていた。

     

    『こちらとしても、良い関係を築けることを祈っております』
    『それは嬉しいわ。この国のこと、たくさん知るために来ました。色んなものが新鮮で、とても面白いです!』

     

     ユキヒとて、メガミとしての己の立場を理解している。それこそ、繋がりを持とうと集られるくらい仕方ないと思えてしまうほどには。
     ただ、彼女はそれを否定しない。明らかに黒ずんだ糸で結ばれている者はさておき、縁とは互いがあって初めて生まれるものなのだから、異国への好奇心を満たすためであればこれくらい安いものだった。

     

    『ははは、自分に答えられることなら何でもお答えしましょう。ただ……この国の法に関してだけはおすすめしません。何しろ我がラストラは法を司る秩序の徒なものですから、この一晩だけでは到底時間が足りないでしょう』
    『まあまあ、それはとっても怖いわね』

     

     くすくす、と。微笑むユキヒに、アルトリッドも、後ろの参加者も笑いを零す。
     異国の地での社交は、軽やかな出だしを迎えていた。

     

     

     

     


    『ご歓談中、失礼!』

     

     会場に響き渡る声をユキヒが耳にしたのは、五人目の貴族を相手にしている最中だった。

     

    『何かしら?』
    『おや、ヴィルドニール卿がおいでになったようですが……』

     

     今まで話していた貴族に釣られ、彼の視線の先を追う。言葉尻に滲ませた疑問の意味は、すぐに明らかとなった。
     昼間会ったときよりさらに豪奢な装いに身を包んでいたヴィルドニールが、ユキヒがこの会場に至るまでに降りてきた階段の中二階で、肩を張ってその鷲鼻を鳴らしていた。その隣ではテルメレオが愛想のよい表情を張り付けており、概ね数刻前の再現といった様子だった。

     

     彼ら二人の後ろに立ったサリヤもまた、その再現に拍車をかけていた。彼女はユキヒの見慣れた鎧姿ではなく、しっかりと糊の利いていそうな服に袖を通していた。
     だが、ユキヒにはどうも、サリヤがこの屋敷に来る前に別れたときとは異なる雰囲気を纏っているように感じられてならなかった。

     

    『これより当家主人、アーギュメンテ・ヴェラシヤ・ヴィルドニールより大きな発表がございます。皆様、何卒ご清聴いただきますようお願いします!』

     

     使用人と思しき男の声によって思索が留められる。
     しん、と衣擦れだけが場に響くようになった頃、ヴィルドニールが一歩前へ出た。
     そして咳払い一つしてから、静かに、けれどこの広間に響く重厚な声で言葉を紡ぎ始める。

     

    『我らヴェラシヤの管理するコールブロッサムの一つが、急速に成長したことについて、皆も既に聞き及んでいるかと思う。供給を減らして申し訳なかったが、その理由と今後について、今日ここに皆へ知らせる場を設けさせて頂いた』

     

     ユキヒの首が僅かに傾げられる。
     けれど彼女は、ヴィルドニールが次に告げた『理由』に、さらに眉を顰めることになる。

     

    『ここにいるサリヤ・ソルアリア・ラーナークこそがその理由だ。我らファラ・ファルードの民にして、ヴェラシヤ・クラーヴォに仕えるソルアリアの盾……彼女が、かの桜降る代における神・メガミとなったためである』
    『……!』

     

     もたらされたその『真相』に、参加者の間にどよめきが走る。
     彼は聴衆が静まるのも待たず、いっそ歓喜を示すかのように先を続けた。

     

    『コールブロッサムとは、元々彼の地におわす神々――八ツ空の神々とはまた異なる神の恩寵によるものだ。だが! この地の民、すなわちサリヤがその一柱として列せられたことにより、その恩寵はこの地へと広がったのだ! 満開の結晶は、その証である!』

     

     それは、祝いの言葉だった。自分たちを言祝ぐ宣言だった。
     ざわめきのついでと、飛び出た質問にも、彼は鷹揚に答えてみせる。

     

    『で、ではあのコールブロッサムは――』
    『あぁ、そうだ。あれこそが神々に恩寵に満たされし、真なるコールブロッサムの姿。我々は、神の恩寵に与ることを許されたのだ!』

     

     歓喜は伝染する。ヴィルドニールの言葉が正しいということは、この国の教えを司るテルメレオが同意している事実が、そして何より、当の神本人の存在が証明していた。いくつもの視線がサリヤへと向けられる。
     テルメレオがサリヤへ促すように前を示すと、一歩を踏んで、ヴィルドニールの隣に立つ。その険しい顔つきに、会場は再び静寂を取り戻していく。

     

     手を掲げるその姿は、宣誓の前触れ。
     故にサリヤは、メガミとして、ファラ・ファルードの民へと御言葉を届ける。

     

    『桜降る代のメガミとして、そしてヴェラシヤに仕える者として、この恩寵を皆さんに届けられたこと、大変嬉しく思います。ファラ・ファルードにさらなる輝きがあらんことを』

     

     ヴィルドニールとは対照的に、それは祝言でありながら、サリヤの表情は口の動きに紛れてしまうほど微かにはにかむのみであった。
     それきり下がった彼女に代わり、ヴィルドニールはさらに仔細を述べていく。

     

    『大変有り難いことに、彼女はかのコールブロッサムを守護する者としてこの地に在り続け、我らヴェラシヤ・ヴィルドニールにその恩寵を与えてくださることになった。そして、ヴェラシヤの守護神として我々の安寧と発展を末永く見守ってくれるそうだ』

     

     従って、と彼は結論を齎した。

     

    『メガミ・サリヤの名の下に、かのコールブロッサムは当家の管理下に置くこととする。近いうちに、皆へ恩寵を届けることになるだろう』

     

     それから二、三細かい話を終えたヴィルドニールは発表を締めくくり、パーティーの再開を宣言してから二階へと去っていった。テルメレオもサリヤもそれに続く形で後を追う。
     発表の衝撃は、この地の貴族たちを大いに揺るがせたようだった。歓談は打って変わって、小難しい顔で話し込んだり、喧々諤々に論を交わし始める貴族たちの騒々しさに覆い尽くされる。降って湧いた恩恵に感嘆する者もまだまだ多い。

     

     しかし、広い会場に嘘のようにぽつんと一人になったユキヒは、その誰とも違う疑念を抱いていた。
     彼女は、告げられた決定と真実の間に横たわる事実を知っている。

     

    「どういうこと……?」

     

     ヴィルドニールが口にしたコールブロッサム巨大化の理由は、明らかに嘘だった。そんな事例を知らない以前に、メガミとしてサリヤを見てきた経緯からもそう断言できるし、そもそも昼に案内された段階で原因を訊ねられたばかりだ。彼の言動はどう考えても矛盾している。
     そういう意味では追認したサリヤも矛盾を抱えているものの、そうするだけの理由が存在しているであろうことを、ユキヒははっきりと『視て』しまっていた。

     

     何かを押し殺しているようだったサリヤに紡がれた縁。
     それは、獲物を絡め取って離さない蜘蛛の巣のような、どこか恐ろしげな粘着質の白糸だったのだ。

     

    「サリヤ……」

     

     猛烈に募っていく心配に、サリヤが去っていった場所へ憂いの視線を送る。
     発表の話題でもちきりの会場では、もう何食わぬ顔で歓談することなんてできそうになかった。
     サリヤは別れ際言っていたのだ。「パーティーで会いましょう」と。

     

    『あの、ユキヒさ――』
    「ごめんなさい、また後でねっ!」

     

     居ても立っても居られなくなったユキヒは、声をかけてきた参加者に断りを入れて、人をかき分けるようにして会場を突き進む。まだ慣れない装いではあるが、衝動のままにサリヤを追っていく分には問題ない。むしろ着物より脚を動かしやすいくらいだ。
     そのまま二階まで駆け上がり、控室のある一帯に差し掛かる。ここから二手に別れているうち、片一方はユキヒが貸された部屋のある屋敷の中心へと向かう廊下になる。彼女を導く縁は、さらに屋敷の奥へと繋がるもう一方を微かに示していた。

     

     赤絨毯を辿るように廊下を進んでいくと、右の曲がり角のその先に人の気配を感じる。
     事態の不穏さから、ちら、と覗けば、胸元を板金で護った男が二人、三つ角で道を塞いでいた。ユキヒのいるところからすると、左手に曲がる方向を堰き止めている形だ。抜剣こそしていないが、骨董も飾られているような廊下では、佩いているだけで物々しい。

     

    「あの先、かしらね」

     

     右手側は元来た場所へ戻る方向だ。サリヤがいるのは、騎士たちの守る廊下の奥に違いなかった。
     ただ、二人の騎士は帯びた使命に忠実らしく、離れたユキヒにも伝わってくるような強い警戒心が、その精悍な顔だちから窺える。たとえ彼女が正面からお願いしたとしても梨の礫になるのが目に見えているような、逆に言えばそうまでして守らなければならないものを背にしているような頑なさである。

     

     どうしたものかと思案するユキヒ。
     そこへふと、意識をそばだてる音が――

     

    (ねえ……ねえ……)

     

     それは、脳の芯から染み出してくる、泡影のような呼びかけ。朝靄の奥に幻視する神秘などではなく、夜陰から手招きをするような不吉さを拭いきれない。

     

    (ここはアタシに任せなさい)

     

     声質はユキヒそのものにして、どこか甘く、それでいて澱んだような声色。
     その誘いの主に姿はない。この場に存在するのはユキヒというメガミただ一柱。

     

    「そう……?」
    (そうよ。こんなときこそ、でしょう?)

     

     彼女たちの間でだけ成立する会話を、誰も聞くことは能わない。
     やや訝しげなユキヒは、不承不承といった様子で髪を結い留めていた簪を抜き払った。解かれた長い黒髪が頭の動きに合わせ、はらり、はらりと彼女を覆い隠す。
     そして前に垂れた髪を後ろへと掻き上げた後には、柔和だった今までの雰囲気が塗りつぶされたように、その瞳を別人のように暗澹と曇らせていた。
     にたりと、口元だけを嗤わせて、騎士に聞こえないよう彼女は呟く。

     

    「影に咲く、死と暗殺の象徴が輝くのは」

     

     

     

     

     


     警戒とは、緊張の糸という弦で矢を番えるようなものだ。そこに重責や敵の接近もあれば、弦はさらに張り詰めていく。
     だが、如何に敵を前にしていようとも、常に弦を引き絞り続けることはできない。緊張を支えるための集中はいつか尽き、あるいは限界を超えて緊張の糸が切れてしまう。居るかどうかも分からない相手に鏃を向け続けようものならなおさらだ。

     

    『くぅ……』

     

     通路を守り続けていた二人の騎士にも、その瞬間は訪れた。気疲れにも堪らなくなったか、装具同士が擦れ合う音を立てながら伸びをする。
     ユキヒが求めていたのは、その僅かな気の緩みであった。

     

    「ッ――」

     

     吐きかけていた息を止め、隙を逃さぬように角から踏み出す。床を踏み鳴らすような踵の靴にもかかわらず、彼女は足音一つ立てることはない。そのまま一息に騎士たちのいる側の壁際へと肉薄すると、伸びをする騎士自身の腕で生まれた極小の死角を遡るように走り込む。
     低い姿勢を保ったまま瞬く間に至近を叶えるユキヒは、あと三歩というところで彼女から見て奥の騎士に接近を気づかれた。

     

    『お、おい!』

     

     ただ、慌てて意識を向けただけで、強襲に頭が追いついていないのか、ろくに警告の言葉も作れていない。制止を訴えようとする片手が宙で遊んでいる中、もう一方の手が剣の鞘を押さえているのは訓練の賜物か否か。
     しかしユキヒは、彼らに対応することも許さない。

     

    「ふふふっ……!」

     

     彼女の装いが、駆ける速さに負けたかのようにはだけられた。露わになる胸元が艶かしく、手を伸ばせば触れられそうなところへ現れた生肌は男を蠱惑する。
     けれど、妖艶さを振りまく主が湛えるのは、獲物を前した凄絶な笑み。

     

    「――!」

     

     突如として現れたそんな女に、騎士たちの動きが固まった。
     その間に最後の距離を詰めたユキヒは、ぬるりと纏わりつくように彼らの背後に回ると、後ろ手に隠していた肘まであろうかという長さの簪を構える。
     その磨かれた切っ先は迷いなく、奥にいた騎士の首筋へと吸い込まれていく。

     

    『が、っ……!』

     

     打ち込まれた簪が抜き去られ、一人目が膝から崩れ落ちる。

     

    『貴さ――っ!?』

     

     起きた出来事を理解したもう一人の騎士が動きを作る前に、振り回されたユキヒの黒髪が彼の視界を遮った。
     そして反転を成したユキヒが狼狽える彼へと抱きつくように接近すれば、のけぞって無防備となった首筋に簪を突き立てることはあまりに容易い。本能のままに簪を引き抜こうとするも、その手が届く前に騎士は力を失った。
     どさり、と動かなくなった男を放り出して積み重ねる。

     

    (ちょっと、やりすぎよ)
    「ふふ、安心して。殺しちゃいないわ」

     

     頭の中で咎めてくる声に、ついた微量の血を払いながら答える。簪を外す前とは逆転した立場は、まるで柔和だったユキヒが甘言に騙されたようでもあったが、今は姿の見えない彼女の意思がそれ以上追求することはなかった。

     

     それからユキヒは、開かれた道をさらに奥へ。屋敷の複雑さは二つの意思が共にあっても地図を描くのに苦労するほどではあったが、僅かにではあるかはっきりとしていく縁の糸を頼りに進んでいく。
     警備の騎士は倒した二人のみならず邸内を守っていたが、ユキヒの簪が再び閃くことはなかった。衣擦れすらも聞こえてこないような無音の行軍は誰の耳もそばだてることはなく、夜に落ちる影の中を渡るような歩みは誰の目にも留まることはない。

     

     彼女の足が止まったのは、扉が小指の先ほど開かれたままになっている部屋の前だった。尋ね人へ繋がっているはずの糸が、その先に続いている。
     ただ、決め手となったのは、結ばれた縁ではなかった。

     

    「これからどうなるんだ、一体……」

     

     重く沈んだ男の声。この旅ではもう聞き慣れた、佐伯のものだった。
     ユキヒは廊下に他の気配がないことを確認してから、扉の隙間から部屋を覗き込む。内装自体はユキヒにも用意された控室と似ており、鏡台の前では佐伯が小椅子に座って頭を抱えており、鏡には傍らに立っているであろうサリヤの姿が映っていた。
     二人の表情は共に沈痛なそれであり、苦々しさは隠しようもない。一人では抱えるのに辛すぎる不本意な事態に歯噛みしているようだった。

     

    (ああっ、やっぱり何かあるんだわ! 早く聞いてあげましょうよ!)

     

     パーティー会場で抱いた疑念を裏付けるような光景に、脳裏の声が身体を急かす。
     だが、主導権を持つ意思は、それに待ったをかけた。

     

    (ここで騒ぎが起きようものなら、ただでさえ分からない情勢がもっと狂ってしまうかもしれないわ)
    (でも……)
    (本当にアタシたちが必要になったら出ていきましょう? こうしてお話も聞けることだし、サリヤがどう思っているか知るには悪くないと思わない?)

     

     諭す意思に、反論はなかった。
     己の中で方針を定めたユキヒは、いっそう気配を押し殺し、室内の会話に集中する。

     

    「私だってあんなこと……でも……」
    「分かっているとも。誤算だったのは、ヴィルドニールがここまで業突く張りだったことだ。よもや君と神座桜を、ただ地位を盤石にするためだけにここまで利用するとは」

     

     重苦しい溜息が落ちる。
     サリヤはそれに、頭痛の種はまだあると言わんばかりにこめかみを押さえた。

     

    「厄介なのはテルメレオ猊下のほうよ。猊下ほどの方になれば教典を書き換えることだってできる。もちろん、既にいらっしゃる神々のことを変えるわけにはいかないだろうけど……」
    「新しい神なら都合のいいように、ということか」
    「召集に猊下のお名前があったのは気になっていたけど、最初から結託していたのね……」

     

     居たたまれずに帽子をいじるサリヤに、佐伯は悪い事実を見出してしまったかのように呻いた。

     

    「資源の独占に、自らが据えた神。そのような家に抗える者などいるのか……?」
    「いないでしょうね。きっと、遠くないうちに法をも変えられる。……私の赦しでもって、ね」

     

     自嘲するつもりだったのか、サリヤは口端を歪めたが、すぐに堪えきれなかったように色が変わるほど強く唇を噛む。
     佐伯はそんなサリヤへ縋るように、

     

    「君が桜降る代に帰ってしまえば……」

     

     だが、返されるのは否定だ。彼もまた、首を横に振られることが分かっていたようで、感情に任せた短絡さに失笑を漏らしていた。
     サリヤが吐露するのは、後悔すらうまく抱けないほどに厳しい苦境だ。

     

    「これは言うなら、この国の階級構造に基づく恫喝よ。ヴェラシヤはね、コールブロッサムの採取権を始め、多かれ少なかれヴィルドニール家に様々な権利を管理されているの。そんなところに私がノーと言えば、間違いなくクラーヴォ家へ圧力がかかるわ」
    「あぁ、そうだな。まだ見ぬ方々とて、嫁の家族を犠牲にすることなどできない……できるわけがない……」

     

     もちろん、と佐伯は継いだ。
     彼にも、鏡面にも背中を見せた、サリヤに向かって。

     

    「君もだ、サリヤ。クラーヴォに圧がかかれば、そこに付く君の家にだって累が及ぶ。そうだろう……?」
    「…………」

     

     雄弁に語る沈黙に、佐伯は再び深い溜息をついた。それきり、行き場を失った憤りと絶望が言葉に現れることはなかった。
     しかし、それが真なる孤独な絶望ではないと、彼らは未だ知らない。
     紡がれた縁のその先で、その心中を代弁する者たちがいる。

     

    (随分と舐めた真似してくれてるみたいじゃない……!)

     

     二人の失意を礎に生まれた怒りが、ユキヒの中に湧き上がる。
     それは、隠伏する温和な意思もまた同様だった。

     

    (ええ、こんなこと聞かされちゃったら、おちおち観光なんてしていられないわ)

     

     表裏の意思それぞれが、サリヤたちを代弁するように憤りを訴える。抑えきれない感情が、簪を握り締める手の力に表れていた。

     

    (あの曲がった鼻をへし折れるのは、どうやらアタシたちだけみたいだし――)
    (あんな悲しい顔をさせないように、なんとかしてあげましょう)

     

     そして一つの器に宿る彼女たちは、一つの意思を決する。
     ほつれゆく縁を、撚り直すために。

     

    ((お友達の危機ですもの……!))

     

     一陣の黒い風が吹いたかと思えば、そこにはもう、誰もいなかった。

     

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    『八葉鏡の徒桜』エピソード2−1:Sudden Growth

    2019.09.06 Friday

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       潮風が、肌を撫でる。遮るもののない早朝の日差しは、桜降る代の南東に位置するここ瀧口の港に燦々と降り注いでいた。
       帽子の一つでも欲しくなるような快晴の下、港に鎮座するのは一艘の大型船だ。帆柱まで含めれば立派な神座桜もかくやという威容を誇り、その巨体には水夫たちが追い込みをかけるようにあくせくと荷を積み込んでいるところだった。

       

       

       そんな船を見上げるようにして、何かを待つように岸に佇む者たちがいた。
       一人はだらしなく着流した、少し頭に白髪の混ざり始めた中年の男だ。彼は名を 楢橋平太 ならはしへいた という。色街通いが似合いそうな軽薄な雰囲気を醸し出しているものの、彼の右手が握っているのは小さな子供の手だった。
       そしてその二人目の子供は、齢十にもまだ満たないような少年であった。日に焼けたというには色濃い肌と、白よりは銀と呼ぶべき絹糸のような髪を持ち、纏った異国の雰囲気は港の男たちの視線を集めている。
      と、そこへ、

       

      「こちらでしたか」

       

       横合いからかけられた声に楢橋が顔を向けると、そこには同じくらいの年頃の、けれど彼にはない威厳と風格を身に纏った男がいた。眼鏡の向こうには知性を感じさせる眼差しが静かに煌めいているが、爪を生やした手袋を腰に提げており、学者然としていながらも内なる獣性を主張しているようだった。
       男―― 佐伯識典 さえきさとのり は僅かな目礼と共に、さらに言葉を作った。

       

      「お手数をおかけして申し訳ありません、銭金さん。息子をよろしくお願いします」

       

       彼の礼は、楢橋でも、子供でもない、銭金と呼ばれた三人目の恰幅のよい老人へと向けられていた。
       杖をつき、いかにも高級そうな艷やかな衣服に袖を通す彼は、媚びるような笑みを佐伯へと見せる。見てくれだけなら大商人の風格さえある銭金だが、どことなく滲む小物臭さ故に貫禄はあまりない。あるいはそれを、親しみと呼ぶ者もいるかもしれない。

       

      「いえいえ、お任せください佐伯殿。ご子息はしっかりとお世話させていただきます。――こいつが」
      「…………」

       

       杖で小突かれた楢橋の目は死んでいた。焦点はまるで過去を見つめているように合っておらず、半開きの口からは限界まで薄く伸ばした溜息が溢れていた。
       少年はそんな楢橋のことなどお構いなしに、退屈を訴え始める。

       

      「おい楢橋ー、遊ぼうぜー! なぁ!」
      「うん……おまえのお父さん見送ってからな……」
      「えぇー、じゃあ泳ぎたいぃー!」
      「おじさんついてけないから、せめて川にしような……」

       

       絞り出した返事に漂わせる哀愁も、当の親である佐伯と主人たる銭金の微笑みの種となる。もはや気力がないのか、腕をぶんぶん振り回されても為すがままだった。
       佐伯は我が子の頭をくしゃりと撫でると、

       

      「ありがとうございます。それでは、行ってきます」

       

       踵を返し、大型船から吐き出されるようにかけられた舷梯を昇っていく。その足取りに淀みはなく、途中で振り返って手を掲げた後は楢橋たちに顔を見せることはなかった。彼の背を照らす太陽も旅立ちを祝しているようだった。
       残された者たちは、その長き旅路の無事を祈ることしかできない。

       

      「くらえー、メガミマンパーンチ!」
      「ご、ふぅッ……!」

       

       少年の無邪気な拳が、無情にも楢橋のみぞおちへと突き刺さった。
       船が、唸りを上げる――

       

       

       

       

       


       そして、半月を超えようかという時が流れた。
       着港を歓迎する陽光は、あの日の桜降る代のように港へ強く照りつけていた。

       

      「まあ! まあまあ!」

       

       久しぶりに地に足を着けた乗船客の女が、興奮を隠しきれないといった様子で忙しなく首を動かしていた。長旅の疲れなど一瞬にして忘れ去ったと言わんばかりで、爛々と輝く瞳は目に映るものすべてが掻き立てる好奇心に満ち満ちていた。
       縁を象徴する存在として知られるメガミ・ユキヒ。藍色の着物に身を包む彼女は、各地の風景や人々の営みを旅して見て回る、いわゆる旅行を趣味としている。ただ、メガミとしての長い生の中で、彼女は桜降る代の名所を粗方回り終えてしまっていたのだった。

       

       けれど今、ユキヒは見たことのない風景を目の当たりにしている。
       今しがた降りてきた船のほうへ、振り返りながら問う。その先にいたサリヤは、同じメガミながらにして、桜降る代から見た異邦を故郷とする元人間であった。

       

      「ここが、そうなのね!?」
      「ええ。ここが私たちの国――」

       

       問われたサリヤは笑みと共に頷く。
       そして、彼女は友人を歓迎する言葉を告げた。

       

      「ようこそ、ファラ・ファルードへ」

       

       元来、海の向こうに存在する国は、ごく限られた者しか目にすることはできなかった。双方の発見から四十年を経た今でも交流はごく一部に者たちに留まっており、たとえメガミの意思があったとしても、両国を隔てる大海原はそう易々とは越えられない。それはユキヒとて例外ではなく、夢想してきた地に立っているという実感が彼女の中にふつふつと湧いてくる。

       

       桜降る代との違いとしてまず目についたのは、建物の造りだった。船着き場から見える港の街並みは総じて赤や白の石で築かれており、木は屋台のような簡易なものくらいだった。山城であってもここまで多いわけではなく、木造建築に慣れ親しんだユキヒにとってその街並みは目新しく映っていた。
       行き交う人々は皆、サリヤのように色濃い肌と銀の髪と有している。肩からすっぽりと足まで覆うような装いのものが多く、今日のような少々暑い日には風が気持ちよさそうだ、とユキヒは思う。

       

      「すごいわ! あっちのお船のお魚、色とりどりでとっても綺麗! たくさん獲ってるし、食べるためよね? 美味しいのかしら。……わぁ、あっちのほう、あんなにのっぽな建物があるわ! お星さまが描かれてるけど、あれは偉い人のお屋敷か何かなの?」

       

       視界に収まるものすべてに目移りしながら、サリヤへ次々に質問を投げかける。普段の淑やかさを海の向こうに忘れてきたようで、昔桜降る代に不慣れだったサリヤからの疑問を一身に受けていたときとはまるで立場が逆になっていた。
       それにサリヤは、くすり、と笑ってから、

       

      「そうね、あっちにはいない魚も多いわよ。食べる気がしない見た目のもいるけど、案外美味しかったりするわ。向こうの塔が立っている建物が、前に言った寺院ね」
      「あぁ、こっちのお社ね! 行けば誰か会えるかしら」
      「あー、いや、メガミじゃないんだから。ま、まあ、会えるというのも間違ってはいないんだけど……」

       

       

       どう説明したものか困惑している様子のサリヤに、小首を傾げるユキヒ。
       そんな二人に、さらに背後から潜めた男女の笑い声が聞こえてくる。
       一人は、ユキヒたちと共に海を越えてきた佐伯その人。そしてもうひとりは、サリヤと同じ肌と髪を持つ若々しい女だ。

       

      「メガミサマがワタシタチの国を見てコーフンしてるなんて、ヘンな感じデス」

       

       訛りのある言葉で語る彼女はジュリア・ヴェラシヤ・クラーヴォ。サリヤが人間時代に守護騎士として仕えていた、この国出身の技師である。街の人々と同じく、ゆったりとした亜麻色の装いに身を包み、腰まで伸びた癖毛が潮風に揺れていた。桜降る代におけるかの動乱を経験した人間ではあるが、当時から比べても異様なほどに姿が変わっていない。
       対し、佐伯はユキヒへ顔を向けると、

       

      「ジュリアにとって桜降る代が未知であるのと同じように、ユキヒ様にとってもここは未知ですからね」
      「そうね……人が違えば、色んなものが形を変えていくわ。着いて早々これじゃあ、目を回さないか今から心配だけど」
      「はは、そう急ぐ必要もないかと。ゆっくり観光できるだけの時間はあるでしょう」

       

       それにユキヒは笑みを深め、胸の前で両の手を握った。
       その秘した感嘆を微笑ましく見守っていたサリヤとジュリアだったが、港に立ち並ぶ建物のほうからこちらに向かってくる一団を認めた。先頭を行く二人の男に、護衛と思しき帯剣した者と侍従が、それぞれ一人ずつ控えている形だ。
       遅れて気づいたユキヒは、サリヤが気持ち背筋を伸ばしているのを見て道を開ける。迎えが来ると言われたことを思い出す。

       

       二人の男は一行の前で立ち止まると、サリヤとジュリアを間近で眺めて僅かに驚きの表情を作った。
       それをしまい込み、先に口を開いたのは一方の鷲鼻の初老だ。白を基調とした上下に別れる装いではあるものの、前をきっちりと閉じた上着は、至るところに刺繍が施された豪奢なものだった。彼の鋭い眼光は、高い知性と毅然たる意思を示すようだ。

       

      『ご機嫌麗しゅう、クラーヴォのご令嬢。ラーナークの盾も壮健で何よりだ。聞いてはいたが、写真から抜け出てきたように変わらんな』
      『そちらもお元気そうで何よりです、ヴィルドニール卿』

       

       この国の言葉で述べた挨拶に、同じ言葉で返すのは恭しく頭を下げるジュリアだ。後ろに控えたサリヤもそれに倣う。
       そしてもう一人の男は、対照的に温厚そうな老人だ。淡い紫地に金の縁取りをした布をすっぽりと被ったような服に、六つの頂点を持つ星があしらわれた帽子をその禿頭に乗せている。にこにこと人当たりのよさを感じさせる僧のような印象だが、その裏に牙の存在を予感するような男だとユキヒは胸中で書き留める。

       

      『猊下もお変わりなく』
      『いえいえ、私ももういい歳になりました。聖典を一節読み上げるだけで一苦労で……。こうして若々しいお姿を保っていらっしゃるお二方を目の前にすると、羨む気持ちを禁じえませんな』
      『向こうでも、お世話になった方々からよく言われました。特に私に関しては、報告の通り再現性のない事故によるものなので、在りし日の猊下を、というわけにはいかないのですが』
      『それは実に残念です。寂しくなった頭と、もうしばらく付き合うことにしましょう』

       

       冗談にしずしずと口を抑えてジュリアは笑う。
       と、そこでサリヤから短く名を呼ばれたジュリアは、現地人ではないユキヒと佐伯が置いてけぼりになっていることを思い出したようで、慌てて紹介を始めた。

       

      『えー、こちら、我が国における五大貴族の筆頭・ヴィルドニール家の当主、アーギュメンテ・ヴェラシヤ・ヴィルドニール卿でいらっしゃいます。私のクラーヴォもヴェラシヤですが、ヴィルドニール家はヴェラシヤの最高位にあたります。ちょうど、私とサリヤの家が丸ごと下につく形ですね』

       

       まずは鷲鼻のヴィルドニールを。そしてもう一人、

       

      『こちらは、テルメレオ・フェラム・エフメレオ猊下。八ツ空の神々を信仰する我らが国教の指導者・フェラムのエフメレオ家の長であらせられます。そうですね……あちらでいうならば、一番偉い宮司さんの一人、と言えば分かりやすいでしょうか』

       

       名を出されたエフメレオが小さく会釈する。
       続けて、桜降る代から訪れた一柱と一人を紹介しようとするジュリアだったが、それに先んじて両者は一歩前へ出た。
      まずはユキヒが、多少詰まりながらもヴィルドニールたちの言葉に合わせて自ら名乗る。

       

      『桜舞う彼方より、ジュリアさんのご高配あって、お邪魔させていただいております。私は、メガミのユキヒ、と申します。かねてより、この国のことは窺っておりましたので、この日をとても楽しみにしていました』
      『おぉ、貴女様がかの……!』

       

       言い終えられたことにホッとするユキヒに、迎えた二人の表情に感心の色が咲く。
       ヴィルドニールは少々大げさに礼をしてから、

       

      『いやはや、かの地の神であらせられるお方に、我が国の土を踏んでいただけるというだけで光栄だというのに、そこまでご興味を持っていただけるとは』
      『そちらとこちらではだいぶ言葉も違うようですが、とても流暢にお話しなさる! さぞ苦労なさったことでしょう』

       

       追従するエフメレオ。だが、それにユキヒは苦笑いをこぼした。

       

      『今の挨拶、練習していました。サリヤから、教えられて……本当は、まだ不自由ない会話は難しいんです』
      『何をご謙遜なさるか。十分に伝わっていますとも、流石はラーナークの御子が教師をしただけある。元々、彼女がいれば通訳には困らないと思っていたのですよ』
      『エフメレオ猊下。そういうことでしたら、こちらに一人、母国語同然に話せる方がいらっしゃいます。彼が、あの佐伯さんです』

       

       口を挟んだサリヤが示すのは、機を窺っていた佐伯である。
       彼は一瞬サリヤに目配せしてから、朗らかな笑みを浮かべてエフメレオたちの前へと出る。

       

      『佐伯識典です。両閣下にお会いできて光栄です』
      『では、君がクラーヴォのご息女と?』

       

       ええ、とヴィルドニールに答えてから、

       

      『契りを結ばせていただきました。本当はもっと早くにご挨拶に伺えればよかったのですが、息子がある程度大きくなるまでは、と』
      『この遠路を無理するものではないだろう。もっとも、クラーヴォ卿は首を長くしていたようだがな。ジュリア嬢の兄君も、会うたびに君の話題を欠かさない』
      『ははっ、ご勘弁を。今すぐ甥の顔を見たいなどと言われないことを祈ります』
      『こちらに住んでしまえば、いつだって顔を見せられるさ。そのつもりはないのか? まさかその舌の回り方で、会話に不自由するとは言わんだろう?』

       

       それに佐伯は、ゆるりと首を横に振る。

       

      『あちらで為すべきこともありますので、すぐには難しいでしょう。ですが、この縁を以っていずれ双方の懸け橋となれるよう、夢想する日々です。その暁には、きっと』
      『ほっほっ、両国の未来は明るいですな。人にとっても、神にとっても』

       

       両手を腰に当て、エフメレオが好々爺然と微笑んだ。この場にいる皆が、大海原を越えた邂逅が無事相成ったことを確認するように、彼に倣う。
       そうして互いの紹介が終わった頃合いを見計らって、話を先に進めるのはサリヤだ。

       

      『それで閣下、我々が召集された件に関してですが……』

       

       これほどの重鎮が直々に出迎えていると知ってから、ユキヒは彼らがこれから優しく観光案内をしてくれるなど露ほども期待していなかった。元より用事に付いてきただけの身であるために不満に思うこともなかったが、航路で見せられたサリヤの憂いをどうしても思い出す。
       水を向けたサリヤに、ヴィルドニールは背後の侍従の一人に目配せした。その侍従がどこかへ向かったのを認めてから、彼は一行を促すように告げた。

       

      『案内しよう。早速だが、語るよりは実際に見たほうが早いだろう』

       

       

       

       


       街の景観もそこそこに、屋根のついた荷台で揺られること四半刻ばかり。仕事の合間を縫って来たらしいエフメレオと別れ、一行は郊外にあるという『現場』へと向かっていた。
       牛馬の代わりに、蒸気を吐き出す大きな釜がその三つの車輪を忙しなく回して、荷台を力強く牽く様にユキヒは感心していたが、石に乗り上げたときの揺れの大きさは如何ともし難い。その乗り物の中で向かい合って並ぶように座って、硝子窓の外の風景を横目に流し、互いの近況を語らう輪に入っていた。
       やがて辿り着いた目的地で降ろされたユキヒは、ある意味で意外なものを前にした。

       

      「あら、立派な桜ねえ」

       

       荒れた地面から伸びる、一本の神座桜。郊外に咲くそれは、周囲をいくつもの煤けた小屋で囲まれた、妙に物々しいものであった。見上げる威容は、桜降る代に咲く平均的な桜よりもなお大きい。
       周囲に人の気配はなく、ユキヒたちだけがそれを眺めている。
       だが、その桜に感嘆ではなく、驚愕を示す者たちがいた。

       

      『ジュリア様、これは……』
      『私たちが今、祖国にいることを忘れてしまいそうだわ』

       

       一大事を前にした者の反応であることはユキヒにもすぐに分かった。同じく桜降る代に生きる佐伯の顔を窺うが、彼はユキヒと同様、初めて見る海の向こうの神座桜を違和感なく受け入れているようだった。
       正常であることが、異常。さながら、持つ常識によって認識が正反対になっているよう。

       

      『一体どういうこと……? ここまで大きな変動は今までなかった……大きなエネルギーの源泉を、たまたまこのコールブロッサムが掘り当てたっていうの? エネルギーは地層になっている? いえ、それなら環境の差異がもっと――』

       

       ぶつぶつと、ジュリアの口から目の前の現象に対する考察が溢れ出す。
       その様子に、さもありなん、と納得の表情を作ったヴィルドニールは、彼女の見出した異常のあらましを語る。

       

      『ご存知かもしれないが、この地におけるコールブロッサム――あちらでは神座桜、でしたかな。そのどれもが、これほどの花を咲かせることはないのです。大半は、枯れ木のような見た目で、ぽろぽろと花弁の欠片を零すだけに過ぎない』
      『しかし、この桜は……』
      『元々は――そう、あの一階建てのほうの工場があるだろう。あのくらいの大きさだったわけだが……』

       

       今はと言えば、優にその倍以上の樹高を誇っていた。

       

      『ひと月ほど前から、急激に成長を始めたのだ。それがついにはここまでに……。資源が増えることは歓迎するものの、コールブロッサムを管理するヴェラシヤとしては、不穏に過ぎて採取を中断せざるを得なかった。これを見て、何か心当たりは?』

       

       軽く問うヴィルドニール。だが、メガミ二柱を含む四人は、誰も答えを持っていなかった。
       その上で納得したように頷く彼は、舞い落ちてきた結晶を手のひらで受け止めた。そして、降って湧いたようなその結晶を摘んでサリヤたちに見せる。

       

      『二人を呼び出したのは他でもない。この事態についての見解を訊き、今後の方針を定めるためだ。早々で悪いが、話し合いの場を設けてある。共に来てほしい』
      『卿の頼みとあらば、喜んで』
      『また――佐伯殿』

       

       名を呼ばれ、意外さを滲ませた彼へ、

       

      『君も今はクラーヴォの身内だ。それはすなわち、ヴェラシヤの身内ということでもある』
      『…………』
      『加えて、あちらについて造詣の深い者からも意見を貰いたい。ジュリア嬢に同行してくれると有り難いのだが』
      『是非もありません。微力を尽くさせていただきます』

       

       答える傍ら、ジュリアと確認するように目を合わせる。ただ、ジュリアの意識はこの咲き誇るコールブロッサムに半分以上持っていかれているようで、佐伯の口端が苦笑に歪んだ。
       残るユキヒは、早くもここまでの道で気になったものを脳裏に思い浮かべていた。おかしな桜に興味をそそられないかと言えば嘘になるが、彼女にとっては見慣れたものより見知らぬ土地である。メガミとしての感覚も、特に大きな違和感を訴えているということもなかった。
       そんな彼女にヴィルドニールは、

       

      『メガミ様のお手を煩わせるつもりはございません。こちらに滞在される間、我が屋敷の一室をご自由にお使いください。望まれるなら、世話係もつけましょう』
      『ありがとうございます。すごく、助けになります』

       

       さらにヴィルドニールは、片手を胸に当てて軽く頭を垂れる。
       告げるのは、宴への招待だ。

       

      『今晩には、各界のゲストを呼んでのパーティーが予定されています。かの地のメガミ様にご参加いただければ、私どもとしては恐悦至極に存じます』
      『まあ! それは楽しみですね!』
      『そう言っていただけると有り難い限りですな』

       

       喜びを示すユキヒに、ヴィルドニールはその皺の刻まれ始めた顔を僅かに綻ばせた。人の話を聞くのが好きな彼女にとって、異邦での社交の場への誘いは願ってもないことだった。
       幾許かして、彼女は一人だけ浮かれているようになってしまっていることに気づいたようで、目の前の異物に未だ違和感を隠しきれないでいるサリヤにばつが悪そうに断りを入れる。

       

      「ごめんなさいね、私だけ何もしないで。お仕事、頑張ってね」
      「元からその予定だったんだからいいのよ。それに、パーティーなら私たちも出るでしょうから、また後でね」

       

       片目を瞬かせるサリヤに、ユキヒは微笑み返す。
       サリヤの抱えていた面倒事もそれほど大事ではなさそうだ、と一安心するユキヒは、少しばかり蓋をしていたこの異邦への期待を今一度呼び戻す。背にした神座桜こそ遠方であることを感じさせないが、面白い出会いが待っている予感は確かにしていた。

       

       ……そう、このときは、まだ。

       

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      『八葉鏡の徒桜』エピソード1−7:そして彼女の旅は終わる

      2019.08.30 Friday

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         人々が見上げるものと言えばなんだろうか。
         雄大に広がる空、山の威容、はたまた絢爛に咲き誇る桜。
         しかしてこの街にはもう一つ、人の手によって築かれたものが天を指し、そして吐息を吐き出していた。

         

        「遠目で見たときには、お山が燃えているのかと思いましたけど……」
        「まあ、最初はそう思いますよね」

         

         苦笑いと共に同意を示すハツミを横に置き、ヤツハは街中に立ち並ぶ煙突の煙の行く先を目で追っていた。

         煙家。この地の南端に広がるものづくりの街である。目的地である瑞泉の隣に位置しているが、一行は山城から菰珠の端を横切るように南下して煙家の中央に向かったため、やや寄り道をした形となる。
         鉄を主とした豊富な鉱物資源を有する山々を擁し、産出される金属とその加工によって栄えたこの街は、製錬の際の強烈な火より立ち上る煙をその名の由来としている。桜降る代に流通する金物の半分はここから生まれ、金物屋の軒先では、この品は煙家産か否かと問われるほどだ。

         

         

        「山裾の煙突のほうが大きそうですね。ここにあるのも十分大きいですけど」
        「掘ったやつを、すぐにたくさん溶かすためじゃなかったでしたっけ。木とか石炭とか、山から燃料も採れるみたいですし。こっちのほうは手元で加工するような工房が多いんで、だいたいこぢんまりしてるんだと思いますよ」
        「なるほど、わざわざ運ぶのも大変そうですもんね……」

         

         そういうヤツハの視線の先には、いかにも重そうな金物の詰まった荷車を、汗水垂らして牽く町人の姿があった。

         クルルはといえば、相変わらず我が道を行くといったように先陣を切っている。ただ、今までと違ったのは、遠回りになるこの煙家行きを告げた際に、「ふっふのふー」とあからさまに目的を隠していたことだった。
         この大通りの遠く先では、煙突すら小さく見えるほどに立派な桜が聳えている。おそらくそこが目的地なのでは、という予想がヤツハにはあったが、「さぷらいず」の可能性も考慮して深く訊ねることはしなかった。

         

        「漁師の使う道具なんかも、ここの野鍛冶が作ってたりするんですよね」
        「西側だから、鞍橋を経由して?」
        「芦原向けにはそうです。東側の、たとえば蟹河なんかは、最近だと龍ノ宮が多いですけど。あっちはヒミカとハガネのお気に入りなので」
        「えっと……メガミ、の方ですか?」

         

         あー、とハツミは一気に話を進めすぎた自省をしつつ、足りない言葉を補った。

         

        「ヒミカというのが炎のメガミで、ハガネは大地を象徴してるメガミです。金物扱うには、鉱物と火が欠かせませんからね。煙家でも信仰してる人は多いみたいですよ」
        「へえ……その方たちが、ハツミさんや、この間だとミズキさんやコダマさんみたいに、この街の人達に尊敬されてるメガミの方なんですね……」

         

         そうして顔も知らぬメガミへの羨望を抱くヤツハであったが、その言葉にハツミはヤツハから視線を外しながら、ぎくしゃくと肯定を示す。

         

        「ま、まあ、ヒミカにハガネ……確かにあいつらも、影響力がありますね。ですけど……」
        「……? 他にもいらっしゃるんですか?」

         

         歯切れの悪さにヤツハは小首を傾げる。
         と、そのときだった。

         

        「おぉーっ! げんきっつぁんじゃあないですかぁ!」

         

         唐突に声を上げたのはクルルだった。いつの間にかヤツハたちの前から姿を消しており、彼女たちの歩いていたほうとは斜向いにいる老人へと突撃していた。ただの荷車とはまた違った、車輪をつけた木造りの船のようなものを押しており、それに興味を惹かれたのかもしれなかった。
         ヤツハが思い出すのは、鞍橋で店主を散々質問攻めにして困らせていたクルルの姿だ。それ以外にも、これまでの旅で気になったものには食いついて離れない彼女と、迷惑がる人々という構図を何度か目にしてきていた。
         また一方的に捲し立てて困らせるのだろうか――そう思い、様子を窺うヤツハだったが、

         

        「おや、クルル様! いらしていたのですか。お久しゅうございます」

         

         老人は最初驚きを顕にしたものの、好々爺然とした笑顔でクルルを迎えた。腰回りに何本も道具をぶら下げており、職人という風情であった。
         クルルは彼の荷物をきょろきょろと、時には地面を這って底を眺めつつ、

         

        「ほうほう、これはこれは……? 陸船車にしては踏車が見えませんねえ。むむむ、ここがこうして回って、ここに繋がって……なるほどぉ、これはひょっとして、例の蒸気車の小型版ですかねぇ?」
        「はは、流石はクルル様。街道の鉄道計画の一環で、色々と試している最中でして。効率のいい機構を模索するついでに、街中でも安定して使える自走車を作っているところです。工場と工場の間すら不安定なようでは、道ができても安心して乗れませんからな」
        「ほほー。でもですよぉ? 充填式は炉が要らなくて楽ちんとはいえ、荷物が重たいと、ちょろーっとここらへんの機構が怪しく感じますねえ。すけーるについていけなさそうですぅ」

         

         クルルの指摘に、予想通りの展開を見たヤツハは軽く手で顔を覆った。
         しかし、

         

        「そう! そこなんですよ!」

         

         老人は怯むことはなく、むしろ返答は熱を帯びていた。傍から聞いている限り、問題点への質問攻めが始まってもおかしくないような内容なのに、遊び相手を見つけた子供のような、無邪気ですらある雰囲気で破顔して見せたのだ。
         ある程度の高みを見た老練さは鳴りを潜め、まるでクルルの好奇心を鏡写しにしているかのようにヤツハの目には映った。

         

        「このまま大型化をしても、動力に見合うだけの積載量が稼げないのが目に見えていて、どうしたものかと皆で頭を悩ませていたところなのです。鉄素材にして頑丈にしたら今度は重くて速度が稼げず、牛に牽かせるのと変わりなくなります」
        「そですねぇ。重い、重いかぁ……動力……――むむっ? 重いと、足りない……。くるるーん☆ ひらめきましたぁ! 動力機構を二倍にすればいいじゃないですかぁ!」
        「な、なんと! 蒸気機関を、ですか!?」

         

         唐突なクルルの閃きに、老人は興奮を抑えきれないといったように訊ねる。

         

        「頑丈にしたら重くなって物足りなくなるなら、単純に増やしちゃえばいいんですぅ! それこそ三倍でも四倍でも、あとは耐えられる本体を作ればいい話なんですから! それがどんなに重くても関係ないですぅ!」
        「なる、ほど……できるのか……? あんな複雑なものを――いや、複雑さの代わりに大きさに応じて動力が手に入るなら、十分見合っている、ということですか。機体や蒸気圧の安定性に、燃料効率も問題になりそうですが……」
        「燃料なんて桜に寄れば手に入るんですから、ぱわーとえねるぎーを突き詰めてからが本番ですよぉ。早すぎる最適化はおじゃま虫ですぅ」
        「発想が逆になってしまっておりましたな! あぁ、あぁ……そうか、丸ごと二個ではなく、中の筒を交互に稼働させる方法がよさそうです!」

         

         少年の頃に帰ったような老人との会話は、発想が発想を呼び、二人の間で次々に創造の花を咲かせていっているようだった。
         ぽかん、とその光景を眺めていたヤツハ。その肩を、ぽん、とハツミが叩く。

         

        「意外、って顔ですね」
        「え……。あ、はい……」

         

         取り繕うことなく、正直に答える。
         これまでクルルのことを見る目は、自分の手を取ってくれた恩人に対する色が強かった。北から南まで大地を縦断するように旅をしてきたが、その間、クルルのメガミらしい様を見かけることはなかったのである。北限で演じた戦いは唯一の例外だが、むしろあのときのコルヌのように、人々から疎まれているのではないかとも薄々感じていた。

         

         だから、メガミが知恵を下賜している、というにはやや趣を異にしているかもしれないが、人に対して何かを成している姿が、ヤツハにはとても新鮮に映っていた。
         その隣で、ハツミは困ったように笑いながらため息を零すと、

         

        「あいつはあいつで、適当にメガミをしてるんです。ただただ自分の着想に正直で真摯なのがあいつの迷惑なところですけど、それがうまいこと働くことだってあるんです」
        「結果的に、助けになってる、ということですか……?」
        「周囲に頓着するようなやつじゃあないですからね。ちょっとは考えてほしいですけど」

         

         なので、と継ぐハツミの視線は、地面に図を書くクルルへと注がれている。

         

        「ヤツハを助けようとしてるのもそういうことです。ただ、あいつが特定の個人にこんなふうに接するのは、本当に珍しいことなんですけどね」
        「…………」

         

         それは、差し伸べられた手と共に告げられたものであり、そして、ヤツハ自身今まで思ってもみなかったことだった。その特別が、クルル自身の胸の内にあるのか、それともヤツハ自身にあるのか、ずっと考えたところで、今更答えが出るはずもなかった。
         そうして旅の友の一面に思索の海を泳いでいたヤツハだったが、

         

        「やつはん、ぼーっとしてどーしたんですかぁ?」
        「……!」

         

         いつの間にか老人との会話を終えていたクルルが、半ば呆然としていたヤツハの前できょとんと首を傾げていた。
         ヤツハとしては、今まで当然のように隣にいた者が突然違って見えるようになって、どう返したらいいかどころか、どう接したらいいか軽い混乱に見舞われていた。各地で会ってきた尊敬されるべきメガミたちの一柱が、このところずっと一緒にいたのだから。

         

        「えっ、あ、あの……」
        「んーぅ……?」

         

         垂直を越えてさらに首を傾げるクルルの背嚢が、中でがたりと音を立てる。
         慌ててヤツハは、クルルへの印象の話を避けるようにして、

         

        「えっと、この街に来たの、って……絡繰の職人さんたちがいるから、だったんですか? 金物だけじゃなかったんですね」

         

         その問いに、クルルは得意げに鼻を鳴らしてみせた。

         

        「ふふん。それもまたもっちもちのろんろんですが、一番の目的はそうじゃあありません。この旅が始まった時点で、これだけは欠かせないと思っていたわけ、なの、です!」
        「それは一体……?」

         

         どうも相槌を打って欲しがっていた気配を悟り、先を促す。もうこの段階で、ヤツハの妙な態度など頭から消し飛んでいるに違いなかった。
         そしてクルルは、左手を腰に添え、右手で彼方を指す。
         その指先には、通りの果てにある巨大な神座桜。
         しかし、弾む声で告げられた目的は、ヤツハの想像していた何物とも違っていたのだった。

         

        「おんっ、せんっ、ですぅ!」

         

         

         

         


         ひらりひらりと、花弁が舞い落ちる。水面に浮かんだ結晶は、穏やかな流れと共に流されていき、やがて上気した柔肌に受け止められた。
         それごと両手で掬った湯を眺めれば、仄かに桜色に染まるのが見て取れる。結晶が溶け込んでいったような色合いは、頭上で数多の花をつける壮大な神座桜の姿を映し出しているようだった。

         

         

        「ふゅぅー……極楽ですぅ……」

         

         湯船の縁の岩に後頭部を預けたクルルが、溜まった疲れを全て吐き出すように呟く。その蕩けた姿がまたヤツハには新しく映るが、深い考えはもう湯に流れ出てしまっていた。
         束ねて前に回した髪を抱き寄せながら、頭上を見上げるヤツハは、

         

        「壮観ですね……ここまで大きな桜は初めてです」
        「七大名桜なんて呼ばれてるうちの一つですからね。温泉に桜といえばまずはここ、湯煙桜の名前が挙がりますよ」

         

         補足するハツミもまた、ぷかぷかと浮力に任せるままに身体を遊ばせている。湯の中を上下に行ったり来たりするたびに、底に沈んでいた桜花結晶が巻き上げられ、彼女が桜吹雪に浴しているかのようだった。

         

         煙家が煙家たる所以は、炉の煙こそ最初ではあるものの、もう一つ有名なのが湯煙――つまり大地より湧き出る温泉である。その多くが採掘中に偶然発見されたものだが、ヤツハたちが堪能しているこの桜湯は桜からの恵みとして昔から愛されている。
         小高い岩山の頂に屹立するこの湯煙桜は、瑞泉の翁玄桜、古鷹の白金滝桜に次ぐ大神座桜であり、その枝花で礎とする山をすっぽり覆い隠してしまうほどの威容を誇る。根本から湧き出る温泉は周囲にとめどなく溢れ、山の至るところに湯溜まりができている。どの場所も等しく桜に覆われているためか、どこが最も良い眺めなのかという議論が絶えることはない。

         

        「ここはやっぱり一味違うんですよねぇ」

         

         ハツミの言葉を受けて感想を漏らすクルル。彼女もまたハツミとは一味違った胸をぷかぷかと水面に浮かべていた。

         

        「どーでもいいことがつるっと洗い落とされるというか、ぴっちぴちのあいであが湧いてくるというか……頭を活性化させる効能は、ここがさいきょーですぅ」
        「万病に効くと言っても、それは保証外なんじゃないですかね……」

         

         年中湯治目的の客で賑わっている桜湯だが、この浴場には三柱しかいない。麓の番頭がクルルの顔を見るなり、空いている場所を貸し切りにしてくれたのだ。幹にかなり近い場所で、植え込みの向こうに煙家の街並みを一望することができる。
         そのこなれた様子を思い出したヤツハは、はらり、と鎖骨に落ちた花弁を優しく払いながら問う。玉のような肌を湯と共に滑り落ちていった先に揺蕩うものを、ハツミが無言で己のものと見比べてから、誰もいない虚空に向かって深く頷いた。

         

        「くるるんさんは、ここによくいらっしゃるんですか?」
        「煙家に寄ったときはだいたい入りに来ますねえ。というか、温泉入りに煙家来てるようなもんですぅ」
        「あれ……絡繰のほうが主目的じゃあないんですね」

         

         それにクルルは曖昧に頷くと、

         

        「くるるんにしてみれば温泉地でしかなかったわけなんですが、居心地がいいものでむかーしにここであれこれ作ったりしてたことがあったんですねぇ。まあなんかそうしたら、ここの人間たちもいつの間にかいっぱい絡繰作るようになってて」
        「さっきのおじいさんみたいに、助言したからとか、そういうことなのでは……」
        「うーん、あんましよく覚えてないですぅ。温泉でまったりできれば、あとはなんでもよいのでー」

         

         いつも以上に返事が雑なのはこのお湯のせいに違いない。それもまた仕方ないと納得してしまいそうなほど、ヤツハも心地よさに負けてしまっていた。もちろん旅の道中でも湯船に浸かることはあったが、比べ物にならないほど格別だった。わざわざ寄り道をするほどのとっておきなだけはある。

         

        「そうですね……髪洗うのに出るのも億劫になってるくらいです。ちょっと埃っぽいところを通ったので、早くちゃんと洗いたいのはやまやまなんですが」
        「ヤツハ、頑張って一緒に抜け出しましょう。これは罠です。そのうち頭がふやけて、気づいたら桜の中に帰ってるとかありそうで怖いです」
        「あはは……それじゃあここまで歩いてきたのが台無しになりますね。あ、お背中流しましょうか?」

         

         苦笑いしながら、手ぬぐいを手に立ち上がるヤツハ。滴り落ちる湯と同じように、彼女もほんのりと桜色に染まっていた。
         そしてハツミと共に洗い場を目指し、湯船から足を上げた。
         そのときだった。

         

        「ん……!?」

         

         ぴたり、と足を持ち上げた姿勢のまま固まるのはハツミだ。
         彼女が何に反応したのか、ヤツハだけは分からずにいた。クルルも顔を上げ、訝しげに山の外側へと目を向けている。
         二柱が共に示したのは警戒だ。

         

        「……どうかしましたか?」

         

         腕を掻き抱くように胸元に添えながらヤツハが訊ねる。
         ハツミは、端的に回答をもたらした。

         

        「誰かが近づいてきます……!」
        「えっ……」

         

         それが、貸し切りのこの浴場に迷い込んでしまった客への反応ではないことは確かだった。ハツミもクルルも脱衣所の方向を一切気にしておらず、山をそのまま何者かが登ってくるような予兆を掴んだかのようだった。
         もちろん、そんなことをする者が普通であるはずもなく、理解不能の意思を向けられたようで、ヤツハも不安になりながら周囲へと注意を配る。

         

         メガミたちの裸体を覗く根性のある不届き者であれば、まだ笑い話になるだろう。
         どこに自分に対する敵意が転がっているか分からないヤツハにとっては、不穏そのものへ過剰に身構えてしまう。
         と、

         

        「来た……!」

         

         ガサガサ。
         人の手でいくらかは手入れされていると思しき植え込みに、何者かの到来が音となって現れる。
         湯に戻って両手の手刀を構えるハツミ。
         すると、

         

        「いた、みんな」

         

         

         顔を出したのは、獣――いや、獣のような耳を頭頂に生やした女だった。所々雷のような色の指した黒髪が毛皮の模様を思わせる。
         知らない人物の登場に、ヤツハは一歩、石床を後退る。
         しかし一方で、ハツミから漏れ出た空気は安堵そのものであった。

         

        「なんだ、ライラですか……脅かさないでくださいよ」
        「らい、脅かす、違う」

         

         見れば、クルルもまた態度を弛緩させており、元の極楽に戻っていったようだった。もはや意識の一切が向けられている気配がなく、関心は一瞬にして蒸発したらしい。
         一人だけ取り残されているヤツハの前に、獣耳の女が完全に姿を現す。空気をたっぷりと含んでいそうな毛皮の襟巻きと靴と、曝け出された動物的なしなやかさを醸し出す健脚。独りでにゆるく棚引く長髪は尾を引くようで、獣性が人の形を取ったようだ、とヤツハは思う。
         どこか助けを求めるようにハツミへと目を向けると、気を取り直すように再び肩まで湯に浸かりながら口を開く。

         

        「安心してください、彼女もメガミです。名前はライラ、風と雷の象徴です」
        「らい、らい。おまえ、だれ?」

         

         誰何する口ぶりは、言葉とは裏腹に決して刺々しいものではない。けれど同時に気遣うような優しさも見受けられず、淡々と天秤にヤツハを載せようとしているようだった。

         

        「えっと……ヤツハと、申します。一応、メガミ、です……よろしくおねがいします」
        「………」
        「あの……」

         

         じっ、と。
         名乗ったヤツハに対し、ライラは探るような視線を向け続ける。それはコダマのような恣意的な品定めとは違い、ただただ純粋に存在の奥深くまで問うているような、ある種の警戒とも言える瞳だった。どこかそれは、荒れた道で出会った、人を知らない獣に探られているような雰囲気を思い出させる。
         たじろぐヤツハにハツミは慌てた様子で、

         

        「べ、別に獲って食おうとしてるってわけじゃないですからね!? ライラはこういうやつですけど、無口なだけでいいやつですよ!」
        「メガミ、食べられない。……ハツミ、メガミ食べる?」
        「ものの例えですよ、そんなわけないじゃないですか! ほら、そこで引かないで! あたしたちに用があって来たんじゃないんですか!?」

         

         ライラはそれから、特に未練もなさそうにヤツハから意識をそらした。敵意がないことはなんとなく感じていたものの、その圧力が外れてヤツハは陰で息をつく。身体の冷えを覚え、湯船の縁に座って脚を浸けた。
         来訪者の向き直った先は、ハツミだった。

         

        「ハツミ、来て、力、貸して」
        「えっ……?」

         

         戸惑う彼女に、ライラは拙いながらも本題を切り出した。

         

        「稲鳴の海、変。恐ろしいもの、感じる」
        「ま、待ってください! 突然そんなこと言われても……恐ろしいもの、ってなんなんですか一体」
        「分からない……。でも、放っておく、できない」
        「うーん……」

         

         ライラの言葉はかなり断片的だが、それ故に彼女の抱える物事の本質だけが伝えられる。煙家の街のさらにその向こうに広がっているはずの海に、なんらかの脅威が存在している――飾らないからこそ滲み出す不穏に、ハツミは答えを待ってもらうように口元を水面下に沈めた。海という単語が出てからといもの、その眼差しは真剣そのものだ。

         

         そして些か考える間を取った後、ハツミの焦点は、ちら、とヤツハに向けられた。
         その意味するところは、芦原からここに至るまでに同道した理由。ここから稲鳴の海に向かうとなると、瑞泉とは逆方向になる。お互いに必要な時間は定かではないが、記憶を取り戻すために助力するという約束は果たせないだろう。
         ただ、それを理解したヤツハは、やんわりと首を横に振った。

         

        「私のことなら、大丈夫ですから」
        「ヤツハ……」

         

         背中を押すヤツハの眼差しには、きちんと己の意思が宿っていた。

         

        「ハツミさんは、ハツミさんがメガミとしてやるべきことへ力を注いでください。もう瑞泉もすぐそこですから」
        「うぅ、ごめんなさい。最後までご一緒したかったのですが……」
        「いいんです。こちらこそ、くるるんさんと一緒に色んなところを案内していただいて、とっても助かりました。本当に感謝してます」

         

         湯船の中、別れを惜しむように手と手を取り合う。ハツミは抱いた不安を隠すようにはにかんでいるが、時折上目遣いに窺う様にはどこか罪悪感が滲んでいた。
         この長いようで短い旅の中でも、ヤツハは幾度の出会いと別れを繰り返してきた。だが、ハツミは特に尊敬されるべきメガミであると同時に、クルルの次に寝食を共にしてきた存在である。記憶のないヤツハにとっては、今までで一番重い別れだった。

         

         けれど、突然訪れたそんな別れであっても、正しく送り出すことができる。縋る相手もいなかった凍土での自分からすれば、少しは成長したかもしれない、とヤツハは寂しさに紛れる不安に目隠しをしながら笑顔を作った。

         

        「ということですので、ライラ、あたしも稲鳴へ向かいましょう」
        「ありがとう。助かる」

         

         方針も決まり、今後の予定を協議していくハツミ。
         しかし、

         

        「どこに向かえばいいですか? 様子見ながら、海岸線を辿っていきます?」
        「大丈夫、行く」
        「へ――」

         

         真意を訊ねるよりも、ライラの動きのほうが早かった。
         彼女は風になったかのように踏み切ると、広い湯船の真ん中にいたハツミめがけて宙を疾く駆けた。そのまま器用に彼女の腕をひっつかみ、人一人荷物を抱えているのが信じられないくらい滞空した後、着水することなく対岸まで一足で渡りきってしまった。
        そしてそのまま脱衣所の屋根にまで軽々と飛び登る。

         生まれたままの姿のハツミを引きずって。

         

        「え、ちょ――待って! 待ってください! このまま行くんですか!? 荷物! というか服! 服くらい着させてください!」
        「らい、急ぐ」
        「いやだから分かりましたからせめて服構成する時間くら――ぃ、ぁあああああああっ!」

         

         悲鳴が、桜の下に響き渡る。やがてそれは、風の鳴き声に紛れ、消えていった。
         後に残されたヤツハは呆然とするしかない。

         

        「行っちゃい……ましたね」
        「忙しないですねえ。らいらんも温泉入ればよかったのに」

         

         濡れた手ぬぐいで目で覆いながら、もったいないというようにクルルは呟く。
         久しぶりに訪れた二人だけの空間は、なんだか少し、静かであった。

         

         

         

         


         そして数日後――

         

        「…………」

         

         黙々と歩き続けるヤツハとクルルの姿は、煙家と瑞泉と繋ぐ輪車街道にあった。二柱の行く見慣れた土の道と、平らになるようみっちりと敷き詰められた石の道が半々になった、仄かに潮の香る一路である。
         一つ前の宿場を抜けて随分経った今、彼女たちはぽっかりと空いた間隙のような、のどかな一帯に差し掛かっていた。
         ヤツハには、それが嵐の前の静けさのように思えてならなかった。

         

         彼女が後にした宿場での案内は、ここが瑞泉の都に向かう最後の場所だというもの。
         旅の終わりは、刻々と近づいてきている。
         自分のちょっと斜め前でゆさゆさと揺れる背嚢という光景も、何も持たなかったヤツハが得た、数少ない日常だ。そんな貴重な日常に幕を下ろし、目的を果たしたその先へ向かうのかと思うと、緊張にも似た感覚が染み出してくる。

         

        「ハツミさん、大丈夫でしょうか……」

         

         その不安を紛らわせるためか、また別の不安を吐露するヤツハ。
         それにクルルは、ちら、と肩越しに視線を寄越した。

         

        「はつみんなら、なんだかんだで何とかしますよ。らいらんも一緒ですしぃ」
        「でも……」

         

         素直に飲み込めないヤツハの意識は、背後に向けられている。手の届かない、彼方の先であったが、後ろ髪を引かれるといった面持ちなどでは決してない。
         しかし、クルルは自分勝手な共感を寄せて、

         

        「確かにアレは、かなーり気になりましたけど、くるるん的には今はやつはんを調べるほうが大事ですねぇ。いろいろ仮説はありますから、じゃんじゃん協力してくださいねぇ」
        「……! そう、ですね……がんばります」

         

         本懐を改めて突きつけられたようで、ヤツハは月並みな返答しかできなかった。
         他人を心配できるほど、己の足場は固まってはいない。
         楽しい旅が終わったら、いよいよ自分と向き合う時が来る。
         ただクルルに明かしてもらうのではなく、自身で求めた曖昧な鏡像に、自ら手を伸ばす義務がある。

         

         それが、己に宿した意思。
         そして同時に、メガミたちに後押しされて歩んだ道なのだから。

         

        「見えてきましたよぉ」

         

         呼びかけを受けて意識を風景に移すヤツハ。気づけば、若干の上り坂となった街道の向こうに一つの街が見え始めていた。

         

         

         瑞泉。
         ヤツハが失った己への手がかりが、この街にある。
         旅の終わりが、形となって目前に現れたようだった。

         

        「楽しい旅……でしたね」
        「んー……、そうですねぇ」

         

         そこから堰を切ったように思い出が語られることなんてない。楽しかった今までを肯定する言葉があれば十分だった。
         ヤツハが見初めた好奇心は、もう鏡の向こう側を覗き込もうとしている。
         彼女にはそれが、とても頼もしく見えた。

         

        「……お願いします、くるるんさん」

         

         故に、一歩を前へ、並び立つ。
         共に見定めていくために。

         

        「……はい、お任せあれ」

         

         探究者の笑みが、静かに深められた。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         


         こうして彼女の旅は、終わりを告げた。彼女はこの地に触れ、この地を学び、そして幾許か親しんだことだろう。
         だけど楽しいだけのひとときもまた、終わってしまった。
         もちろん、この先の彼女に一切の幸福がないなんて、カナヱは言うつもりはないさ。けれど君と同じく、カナヱにだって未来は分からない。彼女を待ち受ける運命が、この旅のように温かいだけというのは、少しばかり楽観的なんじゃないかと、そう思うわけさ。

         

         さてさて、彼女の未来を知りたいのはやまやまだけど、残念ながら旅の終わりは今この時。故にまだ分からない。
         それよりも、だ。この地――いいや、この世界で起こっていた出来事は、彼女の旅だけじゃあない。むしろ、彼女の旅は平穏に過ぎたと言ってもいい。

         

         次なる舞台は、二つの海。

         いやはや、彼女の先見性には舌を巻くね。いつかの言葉を覚えているかい?

         

        『私は一足先に、次の次の舞台へと渡ります』

         

         この旅が次の舞台だったならば、次の次とはつまり――

         

         

         

         


         砕ける波が船体を叩く。先程まで凪いでいた晴天の大洋も、行く手の遙か先では雨雲を戴いている。負けじと黒雲をその高い鼻のような煙突から吐き出すこの船も、いかに湾港では大山のようだと言われたところで、洋上では荒天に泣くただの一点に過ぎない。
         帆の見張り台から降りて船内に向かう観測手を横目に、甲板にて交わされる声は二つ。

        「無理を言ったみたいになっちゃってごめんなさいね。どうしても一度行ってみたかったの」
        「いいえ、大丈夫よ。私たちの国に興味を持ってくれたのは嬉しいし、私もちょっと……不安だったから」

         

         船縁に腕を預ける女たちを風が撫でていく。色合いの対照的な長い髪が、宙に遊んでいた。

         

        「呼び出しは前からあったんでしょ?」
        「ええ。だけど、ここまで大仰なものは初めて。それにこれが本当なら、私もジュリア様も、応じないわけにはいかないわ」
        「気になるのは分かるけれど……今から固く考えすぎたら疲れちゃうわよ。久しぶりの里帰りなんだから、そのくらいの心持ちのほうが上手くいくわ」
        「……そうね。そうかもしれないわね。ありがとう、ユキヒ」

         

         大海原を、船が行く。
         胸には希望と、僅かな不穏を載せて。

         

         

         

         

         

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        『八葉鏡の徒桜』エピソード1−6:山城ではじめての〇〇(後篇)

        2019.08.21 Wednesday

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           荒れた野にぽつんと咲く、一本の神座桜。周囲には社すら存在せず、遺棄された武具が時折思い出したかのように顔を見せるのみ。この寂れた古戦場を、遠く、後方にそびえる城が見下ろしていた。
           ここは山城の外れ……かつてはミズキが軍を率い、菰珠の民やコダマとの戦いを演じた舞台の一つだ。係争は決着を見たものの、地理的な活用のしづらさや心理的な抵抗から、現在もこうして騒乱の爪痕が剥き出しのままになっている。

           

           そして今、桜の前には一人の少女が。
           桜を挟んで菰珠側に立つ彼女は、戸惑いを示すようにその夕焼け色に染まった頭を掻いていた。

           

          「コダマ様にいきなり、代理戦争だって駆り出されたときには何が何やらって話だったけどさ……」

           

           独りごちるようで、けれど少女の意思は確と前へと向けられている。
           すなわち、山城側に立つ者へと。

           

          「まさか、相手がキミだとはね。こんな形でまた会うとは思わなかったよ」

           

           苦笑いしながらも、その瞳は真剣さを湛えていた。
           少女の向かいに立つのは、緊張の面持ちを浮かべるヤツハ。
           そしてヤツハの向かいに立つのは、先日彼女が鞍橋で出会った、鏡に忠告をしてきたあの少女である。

           

          「オマエが気になると言ったんだ、丁度いいだろう」

           

           少女の言葉を拾ったのは、彼女を連れてきた張本人であるコダマだった。桜の根本で腕を組み、微動だにすることなく激突の瞬間を待ちわびていた。
           軽く頭を下げて少女はコダマへと肯定を示すと、気を取り直したように一つ息を吐き、浮かべていた笑みを好戦的なものへと変えた。

           

          「あのときは名乗っていなかったね。ボクは夕羅、 遥原夕羅 はるばらゆうら だ」
          「ヤツハ、と申します」

           

           名乗り返したヤツハは、心の底に沈んでいた反発心が浮かび上がってくるのを感じていた。鞍橋での少女――夕羅の言動に対して覚えた感情は今、ヤツハに僅かながら夕羅を睨ませる、という形となって現れていた。
           それをどこ吹く風と受け流す夕羅は、その場で軽く足踏みをしながら、

           

          「確かにせっかくの機会だし、ここで見定めさせてもらうよ。準備はいいかい?」

           

           自信の上に立って見下ろしているような、そんな挑発じみた問いかけ。傲慢と謗られても仕方のない口ぶりではあったが、戦いに際して必要以上に気負わない姿勢は、夕羅が信じる実力が虚飾ではないと悟らせるには十分だ。

           

           ただ、ヤツハにとっては夕羅への悪印象を強めるだけだった。相手がどんな力量を持っていようと、戦場に立った記憶のないヤツハから見たら誰もが等しい。
           その不安はもちろん、夕羅への反感と共に彼女の中に生まれていた。けれど、自分を見守っているはずのクルルやハツミ、そしてミズキの存在を感じ、雑念を払拭するように改めて意思の光を瞳に宿す。

           

           それを夕羅は可と受け取った。
           宣誓が、古戦場に響く。

           

          「遥原夕羅、桜降る代に決闘を」

           

           そして、応じるように初めての宣誓が、一言一句確かめるようにヤツハの口から為される。

           

          「ヤツハ……、桜、降る代に、決闘を……!」

           

           桜花結晶を身に纏い、桜を挟んで相対す。
           この地を、さらには自分を知るための戦いが今、幕を開ける。

           

           

           

           


           どこからか、不思議な力が流れ込んで、身体に通っていく。そうとしか説明できない感覚が桜花決闘に臨むヤツハの意識を満たしていく。
           その力は初め、どこかよそよそしく感じられた。けれど、それが他人から借り受けたもの――ミズキの力だと気づくと、己を護る力としての頼もしさが背中を押してくれるような感覚へと移り変わっていくようだった。

           

           そして僅かな後、あるいはヤツハにとっては力を受け入れた相応の後。第一の流れを追うように、ヤツハの身体にはもう一つ、別の力が流れ込み始める。
           その力はどこか懐かしいようで、ようやくあるべき場所へ帰ってきたような安心感があった。ミズキの力に護られていることとは違う、己の内側にあることがもっともらしいと思えるような、そんな安心感だった。

           

           しかし、だ。その優しい感覚も刹那のうちに過ぎ去った。
           代わりに流れ込んできたのは、身震いするような恐ろしさを伴ってやってくる、暴虐的な力の奔流であった。

           

          「うっ……ああっ……!」

           

           相手を前にしていることも一時忘れ、両腕で身体を抱くようにして耐えるヤツハ。内側から弾けてしまいそうな苦しみに喘ぎながら、ただ祈るようにして怒涛が収まるのを待ち続ける。
           やがて、どうにか耐え忍んで息を落ち着けた頃には、その力の奔流を体現する物が彼女の隣に現れていた。

           

          「おおっ!? これはこれは……」

           

           真っ先に声を上げたのは、歪んだ笑みを浮かべたクルルだった。
           鏡。北限の地にて、コルヌを退けたあの鏡が、ただ静かに宙に浮かび、夕羅の姿を映し出していた。
           唯一ヤツハの様子に心を砕いていたのはハツミだけであり、この代理戦争の主人たる二柱は対照的な反応を見せていた。ミズキは目を細めるようにして冷静に観察し、理解に努める一方で、コダマはどこか呆然としながらも、口元は笑っていた。

           

           そして相対する夕羅は、彼女の宿すメガミと同じく表面上は呆れながらも、飄々とした態度を潜めて眼光鋭くヤツハを睨んでいた。

           

          「やっぱりキミはあの鏡を使っていたんだね」

           

           売りに出されていた欠片と同じ文様が、現れた鏡の縁にはっきりと刻まれている。肝心な経緯を教えていない以上、夕羅の誤解も当然だったが、この段になって誤解を解く余裕はヤツハにはなかった。
           夕羅は顕現させた鋼の拳を打ち鳴らし、力を溜めるように重心を沈める。飾り気のない鉄の板で覆っただけの手袋だからこそ、コダマの顕現武器には純粋に威力を求める意思の発露を感じさせてやまなかった。
           そして、

           

          「でもその力、ボクが打ち破らせてもらうよッ!」

           

           言い終わると共に弾かれたように踏み出し、先手の動きを作る夕羅。身体を軸を僅かに左右にずらしながら、猛然と前へと駆け出した。

           

          「あっ……! え、ええと……」

           

           対するヤツハはそれにまず動揺を示してしまう。決闘の流れこそ教えてもらいこそしたが、誰も力の詳細を分かっていないのに戦い方を授けられるわけもなく、夕羅の機敏な動きに初陣のヤツハはただただ慌てることしかできなかった。
           それを見て取ったか、

           

          「ほら、来ないのかい!?」

           

           半分ほどの間合いをもう詰めようかというところで、盾のように手の甲を向けて構えられた両腕の合間から、嘲笑う夕羅の表情が覗く。

           

           混乱ここに極まったヤツハは、半ば考えることを放棄しながら、己に満ちる力に意識を注いでいた。
           想起するのは、北限の番人に膝をつかせた恐ろしい星空の怪物たち。
           鏡から溢れてきたあの巨腕や牙こそ、ヤツハの知る唯一と言っていい攻撃の形だった。夕羅のように己の身体でどうにかするなんて考えもしなかった。だからただひたすら、自身の力があの形となって鏡から現れることを願いながら、少しでも時間を稼ぐように後退ることしかできなかった。

           

           しかしてそのがむしゃらな祈りは、現実となって現れる。
           今まで夕羅だけを映していたはずの鏡の奥から、蠢く星空が鏡面を食い破るようにして世界に溢れ出した。

           

          「おっ」

           

           夕羅の前に織り成したのは、人一人を飲み込んでしまえるほどに大きな獣の顎である。夕日に炙られたように赤みがかった夜空の色は、凄惨な威力を物語っているようだ。
           だが、放たれた猛獣を前に、夕羅は小揺るぎもしなかった。

           

          「はッ!」

           

           襲いかかった大顎の横っ面を、その硬い拳の甲で鋭くはたき落とす。ひび割れた地面に打ち据えられるというところで、呻き声一つ上げることなく獣は宙に溶けていく。
           そのまま夕羅はさらに加速を作ると、手を伸ばせば触れ合える最至近の距離へと踏み込んだ。同時、纏っていた鋼の拳を還し、こちらは本物の獣を思わせる装飾の施された三叉の爪をその手に顕現させる。

           

           間断なく繰り出される動きを前に舌を巻くヤツハ。鍛えられたミコトの技を初めて目にするのがこんな間近になろうとは夢にも思わなかっただろう。
           動きより遅れて理解を得る彼女に、反応など許されるわけもなかった。ましてや星空の獣と解き放つために己を駆け巡った力の衝動に意識を割かれては、瞬き一つの間に迫りくる刃を正確に追うことすら難しい。

           

          「エヤァァァッ!」

           

           飛びかかるように突き出される、あまりに前のめりな一撃。多少の反撃を受け入れてでも繰り出そうとする連撃を予感させる動きだったが、それに鏡の獣が応じることはなかった。

           

          「っ……!」

           

           代わりに犠牲となったのは、ヤツハが念じるように差し出した桜花結晶だ。軌道を逸らされた夕羅の切っ先が、ヤツハの帯を掠めていく。しかし返す刀で振り上げられた爪に充てがうには間に合わない。
           だが、第二撃がヤツハの顔を切り裂くことはなかった。咄嗟に働いた防衛本能が、鈍い桜色に輝く不可思議な防壁となって刃を阻んでいたのである。
           気づけば、ヤツハの頭上を宙に浮かぶ巨大な兜が覆っていた。人が被るには一回りも二回りも大きく、左右に伸びた角は勇猛さを示すよう。これこそ護りの象徴たるミズキの力を宿す証左であり、ヤツハへの堅固を約束するように悠然と聳えていた。

           

           城壁を象る防壁を前に、夕羅は勢いを殺されていた。彷徨う視線は次の手を探すようで、防壁を食い破ることを諦めても前への意思は途絶えていないようだ。
           故にヤツハは企図を挫くべく、己の頭を振るえば、それに追従する兜の逞しい角が眼前の空間を薙いだ。

           

          「っと……!」

           

           夕羅はそれに桜花結晶を充てがうことで逸らし、再び爪を突き出すだけの勢いを残そうと試みたものの、体勢は果敢な連撃を繰り出すには心もとないものとなる。
           距離を望むヤツハには、今度は鏡が応える。標的を見据えるように夕羅へ向けられていた鏡面がヤツハも捉えるように向き直り、僅かな後に彼女の像をその後方へと映し出した。不思議なことに、視点は刹那の後にその像の位置からのものに変わっていた。

           

           仮初の離脱を確かなものとするべく、さらに夕羅を追い払おうと鏡から生み出したのは怪物の爪だ。消える防壁に代わって、暴虐的な斬撃が夕羅に襲いかかる。

           

          「くっ、あぁっ……!」

           

           人の背丈を超える大きさの爪はもはや斬撃というより打撃のほうが近かった。足捌きによって避けられないと受け流す構えをとった夕羅を嘲笑うかのように、盾とした彼女の爪と結晶ごと薙ぎ払う。その威力に怯んだかのように、ヤツハの纏っていた結晶が彼女から離れていく。
           その様にさらなる追撃を訴えるのは、ヤツハを巡る鏡の力だった。鏡の向こう側にいる何者かが、彼女の意思に関係なく鏡面を跨いで溢れ出てくるような、暴走じみた衝動が内側から胸を叩き続けていた。

           

          「だ、だめ……」

           

           破滅的な末路すら想像してしまうそれを、ヤツハは必死に乗りこなそうと力の流れを意識する。蓋をしてしまっては意味がなく、制御することこそ重要なのだと肝に銘じて、暴れる力に己の意思を訴え続けた。
           鏡による像が元に戻り、視界が大きく一歩分前にずれる。目の前では、舌打ちと共に暴虐の余韻から解き放たれた夕羅が立ち直ったところだった。

           

          「……少しはやるね」

           

           彼女に戦意の衰えはない。それどころか、相手を食らわんとする意欲を益々漲らせているようだった。
           そして夕羅は、その意を示すように、

           

          「でも」

           

           地面を強烈に踏みしめ、凄まじい威圧感を放つ。意思という力がびりびりと空間を伝わってくるような、不思議な力場が突如として周囲を覆った。その中で彼女は、意思の源としてヤツハへと毅然とした一歩を踏み出している。
           危険を察知したヤツハは反射的に退避を選択しようとする。しかし、彼女の足はどれだけ力を込めても、地面に縫い付けられたままだった。

           

          「……!」

           

           分かったときには時既に遅し。接近への拒絶を許さない力場の中、ヤツハの眼前にて大地を抉るほどに踏みしめられた夕羅の姿勢は、不動を貫くことで力を高めているような、破壊的な一撃の到来を告げていた。
           そして腰だめに構えられた右の拳には、岩をも穿つ鋼の顕現が。

           

          「ヤァッ!」
          「ご、ぅ……!」

           

           目で追うこともままならない鋭い正拳が、ヤツハの腹部を強かに捉えた。護りの結晶を満足に充てがうこともできず、身体の中で何かが身代わりとなって砕ける感覚がありありと分かる。それでもなお減じきれない凄まじい衝撃が、彼女の足元を不確かにさせた。
           さらに夕羅は好機と見たのか、手中に爪を顕現させると、回避もままならないヤツハに向かって振り下ろす。ばち、ばち、と雷を纏ったその一撃は拳に劣らず機敏かつ鋭利で、意識をも揺さぶられていたヤツハに綺麗に吸い込まれていく。

           

          「い、っ――ああっ……!」

           

           重ねられた連撃に、堪らず膝をつく。兜の重みはないはずなのに、自然と頭を垂れるような姿勢が生まれる。それに先程の防壁を思い出したのか、夕羅はそれ以上の攻めの手を僅かに躊躇したが、ヤツハから窺い知ることはできない。

           結晶があったところで、身を裂く一撃は苦痛を伴う。元ミコトとしてミズキから教えられていたものの、聞くのと実際に感じるのとでは訳が違う。見届人たちの存在も含め、命の危険はないと励ますように送り出されていても、ヤツハにそれを感じるなというのは土台無理な話だった。
           その恐怖は、一抹のものであっても芯に据えたはずの意思を蝕んでいく。

           

          「い、嫌っ……!」
          「……!?」

           

           鏡を御していたヤツハ自身の意思の力が緩み、鏡が輝きを放つ。その結果にもまた恐れを抱きながら、己を害する者への恐怖心は力を解き放つことを選ばせた。

           鏡から現れたのは、鉤爪のついた無数の細腕。
           一つ一つは大きな顎や爪ほどではない。けれど、それこそ星の数ほどもあろうかという大群は、蹲るヤツハの周囲に嵐のような暴力の場を容易く生み出した。

           

          「ちょっ――」

           

           夕羅が腕を一つ打ち落とそうとも、何事もなかったかのように次の腕が迫りくる。二本しかない腕では対処できる数には限界があり、結晶を盾としても完全に防ぎ切ることは叶わない。
           その一方で、この嵐には安全地帯など存在しなかった。敵に向かうことだけを目的とした腕たちは、暴れまわるあまりにヤツハすらも傷つけていた。それでも夕羅の至近への恐怖は勝っており、じっと嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶ。

           

          「う、うぅっ!」
          「でたらめな力だ……!」

           

           毒づく夕羅は抵抗虚しく、鉤爪の渦に飲み込まれていく。彼女のまた防御の姿勢をとって耐えきることを選んだようだった。
           しかし、無数の腕の中に消える夕羅の最後の表情が至って冷静なものであることに、ヤツハは息を呑んだ。にやりと歪められた口元に悪寒を覚え、自身をも苛む嵐の中で歯を食いしばりながら立ち上がった。

           

           しばらくするうちに、殺到した腕は力を失って日差しの中にゆっくりと消えていった。
           そうして現れる、夕羅の姿。

           

          「でも、それは悪手だよ」

           

           膝をつくことなく、勝利を確信する声と共に、反撃の意思を示すべく爪を掲げていた。
           消えた星空の代わりに纏うは、漂う桜色の霞を巻き上げる風と、怒りを体現するかのように嘶く雷。
           暴虐的な嵐を乗り越えた先には、新たな嵐が待っていた。

           

          「あ……」

           

           今度は自分がその嵐に呑み込まれるのだと、ヤツハは悟ってしまった。恐れに突き動かされて遮二無二力を放ったところで、倒せなければその次が粛々とやってくるだけだった。
           我こそが食らう者だ、と主張するように、夕羅の爪が獣の大口のように構えられる。周囲で鳴り荒ぶ嵐が指向性を持ち、ヤツハという獲物へ狙いを定めた。

           

          「はあぁぁぁぁッ!」

           

           大地をかき乱す風雷が、強烈な一撃となってヤツハに襲いかかる。彼我の間合いを切り裂くような鮮烈さが、彼女の脳裏に敗北の二文字を過ぎらせる。

           

          「――――」

           

           大自然の猛威を前に、動くことも、声を上げることすらできない。
           そんなヤツハの脳裏にはふと、旅立ちを決意した山の景色が思い起こされた。それからはまるで走馬灯のように、北限からこの山城に至るまでの旅の様子が次々と浮かんでは消えていった。
           決別したコルヌと、手を取ってくれたクルル。有り様の手本となるハツミに、人からの視点をもたらして天詞たち。近くは鞍橋で起きた夕羅との諍いがあり、そして今、山城で刃を交える自分がある。

           

           視界の端でさざめく神座桜と、根本にいるはずのクルルたち。
           そして眼前では、己と鏡をどこか蔑視する相手が、ヤツハの向こう側にある勝利へと手を伸ばさんとしていた。

           

          「…………」

           

           言葉は出ない。けれど、彼女の胸に飛来する想いはあった。

           まだ、分からないことだらけ。誰かに導かれてばかりいる。
           それでも自分は今、己の足でここに立っている。
           だから、

           

          『あぁ、ここは、勝っておきたい』

           

           と。

           

           自分でも驚くような、そんな柄にもない感情だった。もしかしたらそれは、反感を礎とした仄暗い出処の想いかもしれない。
          けれどヤツハは、じわじわと染み渡るその感情を受け入れた。終わりをもたらす一撃という光景があっても、自身でらしくないと思っても、もう一度、手をぎゅっと握りしめて立ち向かう意思を奮い立たせる己を、止めることなんてできなかった。

           

           そしてヤツハは、背後に控えた鏡へと、決意を込めた。
           すると、

           

          「何を――」

           

           眩い輝きを放ち始めた鏡が、ヤツハの盾となるように差し出される。
           大嵐の前では、一抱えほどもある鏡であろうとも容易く吹き飛ばされてしまう……はずだった。
           しかしヤツハの鏡は、風雷を受け止め――そして、弾き返した。

           

           

          「な……!」

           

           まさしく鏡写しにするように、鏡面に触れた途端に反転する嵐は、それを成した夕羅の元へと向かう。
           跳ね返したそれは、確かに荒ぶる風であり、地を裂く雷だ。
           けれどその実態は、あの怪物のような星空――静謐な夜の海など知らない鏡の向こうの何かが、夕羅の放った大嵐を象って現れたのである。

           

          「ぁ、がぁっ……!」

           

           元の嵐はかき消され、予想外の反撃に夕羅は防御もままならずに弾き飛ばされる。それでも彼女は、身の内に残された結晶を頼りに膝をつくことはなかった。

           

          「あぁッ、ちくしょう……、でも……まだだッ!」

           

           決定的な一撃を打ち破られた苛立ちが、悪態となって表れる。その右手には雷を帯びた爪を、左手には鋼の拳をそれぞれ顕現させ、黒き暴風の止んだ彼我の間合いを猛進する。この段になって武器を同時に顕現させる技量は称賛されて然るべきものだ。
           けれどそれも、正しく使われれば、の話。
           決着までのあと一歩こそ、冷静さをもって踏破しなければならない。糧とするべきは執念であり、自尊心のような不純物は致命に足る枷となる。

           

          「……焦りすぎだ、未熟者」

           

           ぽつりと、眇めるコダマが零した声も、夕羅には届かない。
           そして対するミズキは、頬に薄く微笑みを乗せて、隠した口元から言葉を漏らす。

           

          「今ですわ……!」

           

           走り込む夕羅は獣性すら思わせる低い姿勢でヤツハへと食らいつく。もはや火を見るより明らかとなった互いの敏捷さは、肉薄した後こそが駆け引きの場なのだと告げている。
           事実、瞬く間に距離を詰めた夕羅の爪は、電光石火の勢いでヤツハの腕をえぐった。

           

          「っ、ぅ……!」
          「おォッ……!」

           

           まろび出る結晶。雄叫びを上げてさらに一歩、表情の機微すら見て取れるほどの至近に至り、力を蓄えていた拳を次弾として繰り出す。
           しかし、打撃されたのはヤツハの肉体でも結晶でもなく、堅牢な護り。

           

          「ぐッ……!?」

           

           城壁を模した光の壁が、続く拳を受け止めていた。
           見れば、ヤツハを覆う兜が淡く輝いている。まるでそれは、庇護する主に対して、今こそが好機だと告げているようであった。
          その意を、無駄にすることはない。
           勝ちたい、と願ってしまったからには。

           

          「来てッ!」

           

           兜の声に従い、か細く吠えるヤツハ。それに応えるように、鏡の向こうから星空が怒涛の勢いで溢れ出す。
           振るわれる巨大な爪は、防護壁に勢いを全て殺されてしまった夕羅を容赦なく斬りつける。護りを固めるしかなくとも、集めた桜花結晶を根こそぎ刈り取られてしまえば、後のない無防備な状態を晒すしかない。

           

          「う、ぐぅぅぅ……!」

           

           そして鏡の怪物は、大口を開けてその最期を待っていた。
           見上げるほどに大きな、怪物の咢。
           その、落ちてくる厄災のような星空に、夕羅が抗うことはできなかった。

           

          「あぁぁぁぁぁ――」

           

           がぶり、と。
           恐怖ではなく、憤りの叫びと共に、彼女は呑み込まれていった。
           大顎の獰猛な歯の隙間から、砕けた結晶が風に乗って散っていく。
           夕羅に残されていた、最後の結晶が。

           

           

           

           


           漠然とした感覚だった。相手が全てを失ったという感覚が、勝利したという事実となってヤツハの胸に落ちていく。消えていく怪物たちが、一仕事を終えて夜空に帰っていくようだった。

           

          「私……」

           

           それを自分が成したのだと実感し始めると、遅れて湧き上がりつつある高揚感をどう扱っていいのか分からずにただ呆然とする。兜が消え去り、浴びた日差しに目をしばたかせる。
           そこに、

           

          「やっつはぁーーーーーん!」
          「くるるんさ――わっぷ」

           

           桜の下から走り出してきたクルルが、興奮を抑えきれないといった様子で飛びついてきた。ヤツハの両肩を力強く握りしめ、息がかかるような距離で満面の笑みを咲かせていた。

           

          「ばっちしだったですよ! こんなことならもっと早くに決闘してもらえばよかったってくらいですよぅ!」

           

           そして興奮は伝播する。
           ヤツハの中で溜まっていた感情が、感激となって噴き出した。

           

          「く、くるるんさん、私やれました……! 勝てましたよ……!」
          「ほんとにないすな仕事でしたぁ! あの鏡の様子に、星空のもんすたー! 傍からたっぷり見れて予想もいろいろ立ちましたよぅ。いやーぁ、瑞泉では検証の時間が無限に必要ですねぇ!」
          「見守っててくれてありがとうございました……! 私、途中で挫けそうで……」

           

           微妙に噛み合っていない感激のやり取りの中、緊張の糸が切れたようにヤツハの目尻に涙が浮かぶ。
           続けて彼女は、同じく決闘を見守ってくれたメガミたちへと顔を向ける。

           

          「ハツミさんも、ミズキさんも、本当にありがとうございました。最初は戸惑いましたけど、桜花決闘を通じて、この力と少しはきちんと向き合えたような気がします……!」
          「おめでとう。貴女がその力を、より正しく使えることを祈っていますわ」
          「い、いやー、すごいですねぇ! まさか勝っちゃうなんて……」

           

           微笑を浮かべ激励するミズキの横で、ハツミはぎこちない笑顔のまま一人慌てたように拍手する。

           

          「ここまで見越して代理戦争を提案してくださったなんて、ハツミさんは本当にすごいお方なんですね……! 感謝してもしたりません」
          「えっ!? あ、まあ――あは、あははっ! ヤツハのためになってよかったですよ!」
          「はいっ! この機会をくださったこと、ずっと忘れません!」

           

           目を泳がせるハツミをよそに、重ねての感謝は止まらない。
           だが、やがてハツミの視線が別の場所に向けられていることに気づいたヤツハは、はっ、と思い至ったようにクルルから離れた。
          勝者がいれば、敗者もまた存在する。

           

          「あんな素人みたいな動きで……でも、あの力をあんなに……」

           

           ぶつぶつと、起きた現実が信じられないといったような面持ちで夕羅は呟く。地べたにあぐらをかいて座り込んでおり、ヤツハが見た限りでは怪我はしていないようだった。
           ただ、蹲るようにして抱きかかえた左手を、右の手で強く握りしめているのは、悔しさからだろうか。

           

          「それに……ボクの力が……」
          「夕羅」

           

           そこへ、歩み寄ったコダマが彼女の名を呼んだ。
           弾かれたように顔を上げた夕羅を認めると、コダマは僅かばかり口角を上げながら言葉をもたらした。

           

          「良い戦いだった。修行の旅をしていると聞いたが、腕を上げたな」
          「いえ……」
          「しかし、己の道を急ぎ過ぎているようにも見える」
          「…………」

           

           目をそらす夕羅。
           コダマはそれに構うことなく、一呼吸置くと、

           

          「どうだ、一度稲鳴平野に戻り、己を見つめ直すのは」
          「それは――」

           

           思わず、といった様相で反論しかける夕羅だったが、奉ずるメガミの忠言に心当たりがあったのか、喉まで出かかった声を押し留めたようだった。
           そこに重ねるようにしてコダマは、

           

          「オレとしても、稲鳴に向かってほしいんだ。少し、気になることもあってな」
          「そう、ですか……分かりました」

           

           納得を見せた夕羅が立ち上がる。土埃を軽く払い、気持ちを切り替えるように自らの顔を数度叩いた。
           そのまま彼女はヤツハに向かい合う。決闘前の挑発的な態度は鳴りを潜めているが、気落ちしているかといえばそうではなく、真にヤツハと向き合う気持ちを固めたような面持ちだ。

           

          「今回は負けを認める。でも、次は負けない」
          「……はい」

           

           それにきちんと応じなければならないような気がして、ヤツハは背筋を伸ばした。
           それから夕羅は浅く頭を倒し、礼の形を作る。

           

          「その力にそこまで向き合ってるキミに、無礼を働いてしまった。申し訳ない」
          「…………」
          「だけど、それでも言わせて欲しい。むしろそこまで向き合ってるからこそ、その力には注意して欲しいんだ」

           

           余計な感情を排した純粋な忠告であることは、ヤツハにも理解できた。気を抜けば暴れまわるこの力の危険性も、実際に決闘を通じて手綱を握ったことで痛感している。
           こくり、と頷いたヤツハに、夕羅がほっと安堵を示す。
           二人の間にわだかまっていたものは、これにて一旦の決着を迎えた。
           と、

           

          「よし、終わったな!」

           

           手のひらに拳を打ち付け、落着を明示するのはコダマである。ただ、その声色は終わりを告げるものではなく、隠しきれない高揚はむしろこれから始まる何かに対しての期待を訴えているようだった。
           もちろん、彼女が望むものは唯一つ。

           

          「次はオレの番だ」
          「……貴女、本当に最近おかしいですわよ?」

           

           茶化すように呆れるミズキ。二度は言わないとばかりに桜にもたれかかって、参戦への拒否を態度で示す。
           故に、コダマの視線は一点に――ミズキの隣へと注がれる。
           本来ミズキの代わりに戦わんとしていた者へと。

           

          「さあ、構えろハツミ。ミコトが良い戦いを見せてくれたんだ、オレたちが応えないわけにもいかないだろう」
          「ぴぇっ!?」

           

           突然の指名にハツミが飛び上がる。代理戦争も終わって一件落着となったところで油断していたのか、よそへ押し付けたはずのお鉢を回されて冷や汗が溢れ出す。
           そんな彼女を追撃するように、きらきらと輝く尊敬の眼差しが。

           

          「わぁ、ハツミさんのお力を見られるんですね……!」
          「うぐっ」

           

           無垢で純粋な上に、決闘の後で向学心まで帯びたヤツハの期待が、あまりに眩しかった。
           断るための大義名分もないどころか、ヤツハのためという大義名分まで得てしまう。
           前門のコダマに、後門のヤツハ。
           もはや、退路はなかった。

           

          「ぅ……うぇええぇ……」

           

           必死に表情を取り繕う陰で、漏らしたか細い呻きは誰の耳に入ることもない。
           待ち遠しく鋼の拳が打ち鳴らされる音が、古戦場に響き渡っていた。

           

           

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          『八葉鏡の徒桜』エピソード1−5:山城ではじめての〇〇(前篇)

          2019.08.16 Friday

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             こつ、こつ。歩を進めるたび、靴底が心地よい音を鳴らす。どんなに踏み固められた土の道であろうとも真似できない、綺麗に敷かれた石畳ならではの足音だ。

             

            「なんだか少し、楽しくなってしまいますね」

             

             そう微笑むヤツハは、前を行くクルルを追いながらも、時折思いついたように歩幅を変えて音色を奏でる。

             

            「こんなに綺麗な道に足跡をつけてしまって、申し訳ない気持ちにもなりますけど」

            「あははっ、そんな誰も気にしませんって。山城じゃこんな道いくらでもあるんですから、記念に堪能しちゃっていいんですよ」

             

             杞憂を笑い飛ばしてわざとらしく足踏みするハツミに、ヤツハはくすくすと笑った。

             

             鞍橋を出立してから二日後。古鷹、鞍橋と南下を続ける一行が立ち寄ったのは、残る西部三都が一つ、山城である。
             石の街として有名な山城は、近隣の山々から取れる優れた石材資源を活かした独特の街並みで知られている。ヤツハたちの歩む石畳然り、屋敷を囲む塀や、その屋敷そのものが石を積み重ねて築き上げられていたりと、石が文字通り人々の暮らしの礎になっている。無論、それらの石材も丁寧に切り出し、磨き上げ、一定の法則に従って組んだものであり、風情は異なりながらも美しい景観を成している。

             

             

             彼女たちは今、そんな山城の都の中心街を通り抜け、さらに南下を続けていた。ここまで来ると石造りの建物もちらほらと数を増やしていき、中にはあくせくと荷運びに勤しむ者たちが吸い込まれていく商会の蔵と思しきものまであった。
             通りすがりに、その蔵の入り口に飾られた鳥の石像がヤツハの目に留まる。

             

            「あれ……あの形、古鷹の街でも見た気がします」

             

             それにハツミは少し頭を悩ませながら、

             

            「あー、たぶん古鷹と懇意な商人なんじゃないですかね。これまで通ってきた街って、鞍橋を中心にして売り買いの流れが作られてるんですよ。だから古鷹の文化もこっちに入ってきてるし、山城の石細工も向こうに流れてってるわけです」
            「もしかして、ちょっと街の造りが似ているなあ、と思ってたんですが、それもですか?」
            「だと思います。ちょっと前……って言っても百年くらい前ですけど、古鷹がああいう街にしたのを取り入れてるんじゃないですかね」

             

             知らされた歴史にヤツハは感心の声を漏らす。街と街の関係を念頭に置いてみれば、木造りの家々が立ち並ぶ閑静なこの一帯は古鷹で見た景観にとてもよく似ていた。違うのは石畳や家屋の土台がしっかりと石組みされていることなどで、双方の文化の融合を思わせる。
             今は火の灯っていない石灯籠の曲線の美しさに惹かれながら、ヤツハは相変わらず街並みにさほど興味のなさそうなクルルへと問いかける。

             

            「また古鷹のときみたいに、街の外れに向かってるみたいですけど、今回はどちらに行かれるんですか?」
            「お城ですよぉ。それはもうびっぐなやつです。ほら、あっちに見えるのがそーですね」

             

             彼女の指差した先では、遠くに聳えているであろう白と黒が混ざりあった巨影の頭が、家の屋根から突き出ていた。
             ヤツハはそれに、好奇心を声色に滲ませながら、

             

            「あれも建物、なんでしょうか。石でできている……?」
            「土台は石だったと思いますねえ。とっても高い石の壁があったはずですよぉ。そのお城には、山城に縁のふかーいメガミが住んでるわけなんですぅ」

            「メガミ……! その方も、ハツミさんのように立派な方なんでしょうか」

             

             ちら、とヤツハの視線がハツミに向けられるが、当のハツミは街並みに見とれて聞いていなかったとばかりに振り向いて、小首を傾げた。
             答えるクルルは少々得意げに鼻を鳴らして、

             

            「ふふふん、やつはんならそこに食いつくと思いましたよぉ。くるるんには分かりませんけど、人気者みたいですねぇ。ですよね、はつみん」
            「ええ。ここの人達に尊敬されてるって聞きますし」
            「そうなんですか……! お会いしてみたいですが、会えるのでしょうか……」

             

             呟くヤツハ。だが、その懸念をクルルはあっけらかんと笑い飛ばした。

             

            「知りませんけど、会いに行っちゃえばいいんですよぉ」
            「え、ええっ? 大丈夫なんですか……?」

             

             自分を導く船頭が全くの無策であると知れば、いくら彼女との旅に慣れてきたヤツハとて困惑するというものだ。
             急に不安になってきたヤツハを、四つ辻の犬の石像が静かに見守っていた。

             

             

             

             


             短い少女の嘆息が、部屋に溶けていった。かき上げた薄い黄蘗の長髪が指先からこぼれ落ちる。

             

            「大体の話は分かりましたわ」

             

             部屋の最奥の上段の間で脇息にもたれかかる彼女は、その背格好こそ人形遊びでもして遊んでいるのが似合いそうな可憐なものである。だが、者共の前で座するその重厚な風格は、敵の軍勢を前にしても毅然と振る舞う一国の主にすら相応しい。装いの各所にあしらわれた鎧を思わせる意匠が、彼女が断じて護られるだけの姫君ではないと訴えかけてくる。

             

             山城の都の外れに構えられた、壮大な城塞。その天守の頂にヤツハ一行は足を踏み入れることを許されていた。配下の者を全員外に追いやったあたり、城主の対応としては普通ならば破格にも程があるだろう。

             

            「色々苦労してるようですし、わたくしでよければお話しますわ」
            「おぉ、さっすがみずきん! 話の分かる同志を持てて、くるるんはなんと幸せ者なんでしょう!」

             

             部屋の主の言葉に安堵の空気が流れる中、一人、クルルだけが違った調子で彼女なりの感謝を表現する。
             その様子に少女はもの言いたげな目で睨みつけると、

             

            「冗談でもよくそんなことが言えますわね。あの時の恨み、忘れたわけではありませんわよ」

             

             低い声で威圧されたクルルだが、何も分かっていないような笑みを浮かべて首を傾げる。
             随分とわざとらしい態度にそれ以上追求するつもりはないのか、少女は自ら咳払いを一つしてから、膝を折るヤツハへと向き直る。
             そして、

             

            「改めまして……わたくしはミズキ。この山城の地を護る、守護と祖霊を象徴するメガミですの。よろしくお願いしますわ」

             

             少女――ミズキは、薄く笑みを浮かべながらメガミとしての名乗りを上げた。
             顕現した彼女の居城を訪れていたヤツハたちは、クルルの存在に多少嫌な顔をされながらも謁見が叶い、ここに至るまでの経緯を説明して今に至る。メガミ同士である以上、ミズキは話を聞く前にヤツハのことに気づいたため、ミコトだという虚飾は完全に取り払っている。

             

             ミズキは言葉遣いこそやや高飛車だが、決して不遜な態度で臨んでいるわけではないことはヤツハにもすぐに理解できた。それでも、人々に尊敬される素晴らしいメガミだという認識が彼女を畏まらせたままでいさせる。

             

            「ヤツハ、と申します。くるるんさんたちに紹介して頂いた通り、メガミ……らしいんですけど、記憶もなければ権能も分からずで……。なので今は、くるるんさんに協力するミコトとして旅をしています」
            「まあ! こいつの相手は大変でしょうけど、頑張りなさいませ」

             

             自己紹介を返されたミズキは、呆れたように鼻で笑いながら顎で当の相手を指す。
             続けて彼女は、さらに皮肉を込めて、

             

            「それにしても、こいつに人助けをするような甲斐性があったなんて、夢にも思いませんでしたの」
            「やつはんは、くるるんの実験に喜んで協力してくれますしぃ。こんなことは初めてですぅ!」

             

             だが、意図を解していないどころか、さらに上を越えていくような返しに、ミズキとハツミのため息が重なった。
             と、そこでミズキと目が合ったハツミは、機が巡ってきたと軽く頭を下げる。

             

            「なんか急にすいません。押しかけた形になっちゃって」

             

             それが社交辞令だけのものではない理由も、ミズキの耳には入っている。クルルの突然の来訪に、対応にあたった兵が混乱して騒ぎになりかけたのである。クルルはそれでも構うことなく敷地に入ろうとしていたので、あと一歩連絡が遅ければ本当の騒ぎになっていたかもしれない。
             ミズキは緩く頭を振ってから、淡白に答える。

             

            「構いませんわ。正直なところ、少し怪しいのは確かですけど――」

             

             その言葉の狭間で、鋭い眼光がヤツハを射抜いた。

             しかしそれも一瞬で、特に言及することなく、

             

            「それでも、こいつの観察眼と、あなたの善性は信頼できますもの。本当に記憶を失った……そう、わたくしは信じますわ」
            「あ、あははー! そ、それはよかった……!」

             

             人々の尊敬されるメガミ同士、信頼で結ばれているのだと、ヤツハは言葉に出さず熱い想いが湧き上がってくるのを感じる。どことなくハツミの返答が棒読みである理由には、ついぞヤツハは思い至らなかった。

             

            「さて――聞きたいことがあるということでしたけど、わたくしについて何を聞きたいとおっしゃりますの?」

             

             区切りをつけてから、ミズキは手を差し出す仕草をヤツハに向けた。
             対し、ヤツハは芦原で抱いたものそのままを、繰り返すように口にする。

             

            「私は、メガミとは何なのかということすら覚えていませんから――ミズキさんはこの山城でどういった存在なのか、その上で、ミズキさんがメガミとしてどうあるのか……それを教えてもらいたいんです」
            「ふむ、なるほど」

             

             ミズキは視線を彷徨わせて考えを巡らせていたようだったが、元々答えを用意してあったかのような速さで再びヤツハに意識を戻す。

             

            「まあ……そういうことでしたら、昔話を語るのが一番ですわね」
            「ここの人たちを救ったお話とかでしょうか」
            「概ねそんなところですの。わたくしがまだ人間だった頃に、この山城を護るために戦ったお話ですわ」
            「えっ……!?」

             

             驚きの声が思ったよりも響いてしまい、注目を集めてしまったのを知るや、ヤツハに冷静さが少しずつ戻ってくる。
            今まで誰からも聞かされていなかった事実に、それでも疑問が口をついて出る。

             

            「め、メガミって、人間からなるものなんですか……?」
            「そですよぉ。かなーりれあな現象ですけど、二十年前に四人もメガミ成りしちゃったんで、今の人間にとっては稀によくあることかもですねぇ」

             

             ミズキはそれに顔を顰めると、

             

            「よくあっては堪りませんの。あれはあんな大騒動だったから起きたことでしょうに」
            「そうすると、ミズキさんもその二十年前の一人ということですか?」
            「いえいえ。その折にはこいつに迷惑かけられただけですわ。わたくしがメガミの座へと至ったのは今からざっと九十年ほど昔のことになりますの」

             

             さらに彼女は、語りの枕とするように補足を続けた。

             

            「人がメガミになるには、何かを極めることが条件と目されていますの。それは武勇であったり、メガミとの深い絆、中には悪逆的な行いも含まれます。誰の基準でどなた様がどうやっているのかは分かっておりませんけど、わたくしのきっかけを一言で言うのなら、英雄的な行いを為した、となりますの」
            「英雄……」

             

             ヤツハから漏れた音に、ミズキは満足そうに頷いた。
             そして、永き時を辿るようにじっくりと目を閉じ、その小さな口は朗々と争いの歴史を紡ぎ始めた。

             

             

             

             


             狭間の時代を経て、活気ある平和を手にした桜降る代ではあるが、その昔にまさしく戦乱の世と呼ぶべき時代を経験していた。その多くは約百五十年前の桜花暦の始まりと共に、ゆっくりと矛を収めていったものの、依然として諍いの残る地域は存在していた。

             

            「それがこの山城と、隣の菰珠ですの。桜と土地を巡って、延々争ってまして」

             

             それは桜花の時代が始まっておよそ五十年以上経っても依然として続いていた。はるか昔についた火を、誰も消すことができないまま関係は悪化の一途を辿っていたのである。
             きっかけは数百年前、山城の民が当時その地に住んでいた稲鳴平野の部族を、文明の差で追い立てていったことに端を発する。その恨みは何世代も受け継がれ、菰珠という名を名乗ってからも絶えることはなかったのだ。

             

             菰珠の源流は、厳しい環境の稲鳴平野で自然と共に生きる遊牧民である。今でこそ大家となった菰珠ではあるが、百年以上前の彼らは今よりもずっと獰猛で、家と呼ぶべきか部族と呼ぶべきか、非常に難しい存在であった。それには、先の怨恨から山城の地へと繰り返していた侵略行為も当然起因となっている。
             その頃は、ちょうど桜花決闘がはっきりとした決着の場として全土に広まった時勢であったため、もちろん解決案として俎上に載せられた。
             だが、

             

            「だめだったんですか?」
            「ご存じないかもしれませんが、菰珠の連中は個の力に秀でてまして。一対一の戦いは、こちらのほうが不利でしたの」

             

             故に山城は、直接戦わないという選択をした。人々は菰珠との境界に防壁を築き、彼らを避けることにしたのだ。
             いかに菰珠の民が野生の力を尊ぶ強者揃いであっても、対面を拒絶されては決闘どころではない。決着を避ける山城に菰珠はさらに怒り、侵略は苛烈を極め、争いは破局を免れ得ぬほどに深まり続けていった。

             

             ミズキは――いや、山城水津城は、そんな争乱の渦中に山城家当主の娘として生を享けた。情勢は幼い彼女に自由であることを許さなかったが、周囲が求めるよりも鍛錬を重ね、そしてそれ以上に学んでいった。
             自身が一騎当千の強者になるのではなく、人々と共に侵略者から土地を護る術を。
             個々は敵方より劣る兵を、軍として効果的に用いる技を。
             猛る相手を受け止め、いなすだけの守りの策を。

             

            「ここは、山城を護るための要所でしてね。来る戦いに備えて、この城を築かせたんですの」

             

             そして、その時は来た。
             燻る火種は燃え上がり、菰珠の民は山城への大規模な侵略に打って出たのである。蹂躙か、決闘か、いずれにしても山城にとっては破滅を避け得ない選択肢を、掲げた拳と共に突きつけてきたのだ。

             

             戦の指揮に対する才覚を発揮していた水津城は、火蓋が切って落とされたその時にこそ、前線となったこの城にて兵を動かし続けた。学んだ技を最大限に活かし、必要な犠牲を受け入れ、そしてこのために拵えた城を十全に使い、ついには一人たりとも菰珠の民を通さなかったのである。
             結局、その大侵攻は水津城による軍の戦いによって退けられた。その頃から、彼女を称え、あるいは畏怖を込めて、城塞姫と呼ばれるようになる。

             

             その武勇は広がりを見せ、当時の楽師が物語る定番とまでなっていた。
             そして大侵攻で負った傷も癒えぬうち、一柱のメガミが水津城の下へと訪れることになる。城の下から大地が割れるほどの大声で水津城を呼び出したそのメガミは、水津城の軍と己一人が相対する、変則的なメガミへの『挑戦』を提案した。

             

            「流石にわたくしも、あのときは肝が冷えましたわ。そのメガミというのが――」

             

             と、ミズキがここまで話したところだった。

             

            「なんだ、オレの話か?」
            「……!?」

             

             ヤツハたちの背後から、いきなり誰のものでもない声がかかる。びくりと肩を震わせたヤツハとハツミは、足を崩しながら闖入者へと振り向いた。
             引き締まった肉体を晒す女が、断りもなくこの城主の間に足を踏み入れる。一歩一歩歩くたび、焼けた肌の下では隠しきれない筋肉がその存在を主張してやまない。襟足から絞るようにして一本に結われた髪が、腰まで伸びて左右に揺れていた。

             

             何事か、とヤツハはミズキを見やるが、部屋の主は焦ることもなく、むしろ呆れを顕にしていた。
             断たれていた言葉を、ミズキは継ぐ。

             

            「それで、このメガミ・コダマと戦うことになったんですの」
            「やっぱりあのときの話か」

             

             ですの、とおざなりに肯定を返すミズキ。
             ヤツハは再び、現れたコダマを視界に収める。己が座っているためか、ひどく背の高い印象を受けるが、実体以上に大きく見えるのは、一度注視してしまえば目が離せない存在感によるものだ。まるで見えない力に引っ張られているようだ、とヤツハは思う。

             

            「コダマ、さん……?」

             

             また新たなメガミに出会えた多少の現実感のなさに、確かめるようにしてその名を呼ぶ。
             それにコダマは短く頷くと、

             

            「ああ。オレはコダマ、力を象徴するメガミだ」

             

             そう簡潔に名乗った彼女は、腹の底から響かせる低い声で、途中になってしまったミズキの語りを勝手に引き継ぎ始める。

             

            「『挑戦』は成った。だが、ミズキが軍略を尽くし、人を活かし、その護りの技でオレを打ち破った。オレの力を受け切られたのは、あれが初めてだった。それも、人間に、だ」
            「あの戦いに勝利した刹那、わたくしの意識は途切れ――気づいたときには、メガミの座に至っていましたの」

             

             言葉を添えるミズキに、ふ、とコダマは不敵に笑う。
             ミズキはそれから、

             

            「山城に破れたコダマは、自分を崇める菰珠の民に負けを認めさせましたの。永きに亘って続いた争いは、この戦いの勝利と、わたくしというメガミの誕生によって幕を下ろしましたわ――ですが」

             

             嘆息し、伺うように言葉を切ったミズキ。もちろん、それを受けるのはコダマだ。

             

            「そう、メガミになったからには、オレとオマエの戦いは続けられる。……例えば今、この時もな」

             

             拳を突き出し、獰猛に笑う彼女の矛先は、間違いなくミズキに向けられている。けれどヤツハは、熱にあてられたような錯覚を得て、息を呑んでいた。
             一触即発か、と冷や汗を流すヤツハであったが、対するミズキは余裕そうに苦笑いを浮かべている。
             しかし、その余裕もまた、自らが上にいるのだと確信する者の態度だ。

             

            「そう、そんなわけで、悪質な好敵手ができてしまったわけですわ」

             

             迷惑がるその口ぶりとは裏腹に、意思を宿した瞳は満更でもないと告げていた。

             

             

             

             


             この場で戦いが始まろうと、ヤツハ自身に止める術はない。そもそも動機からして止めるべきかも分からない。クルルは昔話の途中から船を漕いだままだし、どちらを止めるべきか悩んでいるのか、険しい顔つきで両者を見比べるハツミだけが唯一の頼りだった。

             

             張り詰めた空気の中、相対するミズキとコダマ。
             じり、とコダマの足が畳を噛み、ミズキの顔が悠然と笑みを深める。

             

            「で、コダマ。あなたのお誘いですが――」

             

             口火を切ったのは、ミズキだった。
             しかし彼女は、いきなりすとんと肩の力を抜いて、醸し出していた覇気を引っ込めた。
             真に告げたのは、辞退の意であった。

             

            「今日はお断りしますわ」
            「……何故だ」

             

             特に怒る様子もなく、コダマが心底不思議そうに問う。どんな形であれ争いが起こらなかったことに安堵しているのか、ハツミが温かい笑みを静かに浮かべていた。
             ミズキはそう訊ねられること自体が疑問だというように、

             

            「あなた、つい三日前も同じ調子で来たではありませんか。最近は異常ですわよ。わたくしはあなたほど戦いに狂ってはおりませんの」
            「そう、か……そうだったな」

             

             事実を突きつけられて、困惑したようにコダマは頭を掻く。漲っていた闘志も鞘に収められていき、幾ばくか息がしやすくなったとヤツハは人心地つく。

             

            「どうにも最近、気が高ぶって仕方ないんだ」
            「自覚しているのでしたら改めてくださいませ。わたくしはまだしも、お客人の前ですし」
            「それは悪かった」

             

             軽く頭を下げるコダマ。
             それに乗じ、ミズキはヤツハたちへと意識を向け直した。

             

            「話が反れてしまってごめんなさい。彼女はコダマ、お聞かせした通り昔は敵同士でしたけど、今はこうしてちょくちょく顔を出しに来る間柄ですの。まあ、そのほとんどが戦いをふっかけに来てるわけなのですけれど」
            「コダマだ。オマエは?」

             

             紹介を受けて改めて名乗るコダマに、ヤツハも名乗り返して簡潔に今までの経緯を説明した。その際のコダマは、先程の闘気が嘘のようにただ静かに耳を傾けるだけで、是も非も示さずにヤツハの境遇を受け入れたようだった。
             それからコダマは腕を組み、うーんと唸り始める。

             

            「ミズキとやり合えないのは残念だが……」

             

             意識の先は、ヤツハたち三柱だ。表面上は引き下がったようでも、まだ闘志がくすぶっているらしい。
             ヤツハは自己紹介の過程で権能のことを聞いていたため、すぐに品定めの対象から外れる。クルルに至ってはほぼ素通りだった。
             そして残るは、

             

            「……ん」

             

             コダマとハツミの目が合った。その様を目撃してしまったヤツハは、内心、偉大なメガミであるハツミが戦うとすごいのだろうか、などと遠慮がちに考えていた。
             ただ、当のハツミは焦りも顕に、正座をしたまま器用に後じさった。

             

            「はわわわっ……!?」
            「そうか、ハツミか……」

             

             そのつぶやきを拾ってハツミがミズキを見やるが、むしろ納得したように感心を浮かべていた。
             けれど、やはりハツミは無駄な争いを好まないようだ。見せてしまった動揺を収めていきながら、双方を見据えて言葉を紡いでいく。事実、彼女が自らの権能をむやみに戦いに使いたがらないのは知られた話であり、この場のメガミたちも捉えていた。その裏で冷や汗をかきながら、ただ単純に痛い目に遭いたくないと考えていると気づいたものはいなかった。

             

            「そ、それじゃあ意味が、な、なくないですか? コダマはミズキとの戦いを望んで、ここまで来たんでしょう?」
            「その通りだが……決断したミズキは梃子でも動かんからな」
            「いやいや……――えーと……あ! そ、そうです。本人が戦わなくても、メガミの力の比べ合いだったらやりようがありますよ。代理戦争なんて……どうでしょう?」

             

             まだコダマはしっくり来ていないのか、首を傾げる。
             その様子にハツミは、浮かんだ考えを妙案だと信じているのか、どこか熱を持って説明を続ける。言いようによっては、必死そうに、と形容すべきなのかもしれないが。

             

            「自分たちを宿しているミコト同士を戦わせるっていうのも、たまにはいいと思いません? ここからならちょうどお隣同士で、山城も菰珠も、腕の立つミコトを連れてこれるんじゃあないですかね?」

             

             ぱちり、と。そこまで聞いたところで、コダマは目を大きく瞬かせた。そしてにやりと笑い、抑えられていた戦意が漏れ始める。

             

            「なるほどな……気に入った。決闘は菰珠の望むところだ。幸い、あてもいる」
            「そ、それはよかった……で、ミズキは……?」

             

             いつの間にか間を取り持つ立場に収められてしまったハツミが伺うと、ミズキは唇に指をあてて考えているところだった。それもややあってから、何か面白いことを思いついたように不敵な笑みを浮かべ始める。

             

            「わたくしとしても、折よく心当たりがありますの」

             

             悪戯めいているようで、その眼光は鋭い。送り出すのが一人であろうとも采配とは軍師の本領であり、コダマとは正反対の、受け身の闘志とでも言うような気配が立ち上る。
             ミズキの視線はコダマ、ハツミと移り、それはやがて第三者として成り行きを見守ろうとしていたヤツハで止まる。
             そして、どきり、とするヤツハをよそに、差し出されたミズキの手が采配を告げた。

             

            「わたくしの代理として……この『旅のミコト』ヤツハを指名しますわ」
            「えっ――ええっ……!?」

             

             全く予想だにしていなかった言葉の意味を一拍遅れて理解したヤツハは、その荒唐無稽さに目を点にした。コダマもまた予想外だったようだが、説明を待つまでもなく口角を上げて期待を示す様は、ひとえにミズキへの信頼からであろう。ひっそりと驚愕のまま凍りついているハツミとは対照的だった。

             

            「わ、私、桜花決闘をしたことなんてありませんよ……ミコトというのもあくまで方便ですし、ミズキさんのお力を使えるわけでもないですから……」
            「だからこそ、ですの。この決闘の間だけ、わたくしの力を貸して差し上げましてよ」
            「貸す、って……」

             

             さも当然のように言われたところで、まだヤツハは腑に落ちてこない。
             そんな彼女を見て、ミズキは一寸笑みを消し、真剣な面持ちとなる。そして、さらに面食らった形となったヤツハをじっと見つめた。

             

            「これはあなたには必要な経験だと思いますのよ。この地を知るためにも、メガミがなんたるかを知るためにも、桜花決闘は避けては通れませんわ。……無論、わたくしの興味本位という側面は否定しませんけれど」
            「そう、言われましても……」

             

             その説明であれば理解もできるし納得もできる。けれどヤツハが困惑を眼差しを畳に落とすのは、未知の経験への足踏みと、一人で舞台に立たなければならない心細さからだった。
             だが、そんな彼女を知らない場所へと連れて行く存在が、一人いる。

             

            「なぁーいすあいでぁ!」
            「あ、起きた」

             

             もはや頭が畳につきそうになっていたクルルが、突如うたた寝からがばりと飛び起きた。
             彼女は傍に置いていた背嚢へ手と頭を突っ込むと、荷を掘り進めながら興奮のままに叫びを上げる。

             

            「なんで思いつかなかったんでしょう! 桜花決闘として宣誓すれば、ミコトの立場としてやつはんが自身のちからを引っ張り出せるかもしれないじゃないですか! ないすあいであですよぉ、みずきん!」
            「……ですってよ、ヤツハ」

             

             意外な助け舟が来たとミズキは半ば呆れる。
             自分の背中を押す二人を交互に見つめて、ヤツハは彼女たちの意図が本当に自分に向けられているのだと悟る。何も知らないヤツハを、面白いからと戦いの場に放り出す者たちではないとは分かっていたものの、一歩を踏み出すためには必要なことだった。

             

             そしてその一歩は、一瞬の逡巡の後、頷きとなって現れる。
             前へ。自分が自分のためにできる好機へ。

             

            「分かりました。やらせてください」

             

             

             袖の中で握りしめた拳に、じとり、汗が滲んだ。

             

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