『桜降る代の神語り』第47話:世の趨勢

2018.01.19 Friday

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     敵の本拠地に単騎乗り込んで、敵将と相まみゆ……そう言うと聞こえはいいが、当の本人たる天音揺波の刀は収められたままだった。
     ただ平穏で静かな屋敷に、さしもの彼女も戸惑ったさ。一瞬、立場も忘れるほどにね。
     そしてそれは、招いた張本人と相対したところで、何ら変わることはなかった。
     いやむしろ――天音揺波はそこで、戸惑いを加速させることになる。敵将と認識していた古鷹京詞が示した、大きな選択肢によってね。

     

     

     


     都の大路を真っ直ぐ行くことしばし。突き当たった一帯には政所が立ち並び、さらに奥へ進むと、左右に果てなく続く白塗の塀と彫刻の施された大きな門が出迎えてくれる。そこから先は古鷹邸の敷地内だと仲小路に聞いた揺波は、実家との比較を早々に諦めた。
     門をくぐってまず目に入るのは、精緻に整えられた庭である。通された道以外は、基本的に玉砂利が敷き詰められているか、綺麗に刈り揃えられた芝が広がっているか――どちらにしても、立ち入るのが憚られるような完成された景色だ。葉も花もつけていない枯れ木にどうしてか目を引かれる揺波は、野山のそれとの違いを言葉にできず、呆然と眺めるのみであった。

     

    「あのような立派な門こそ構えられておりますが、この素晴らしい庭は、領民の方でしたら簡単に鑑賞できるのですよ。大社までとなると、そういうわけにはいきませんが」
    「大社? お屋敷に、社があるんですか?」
    「ええ。さらに奥へ参りますと、白金滝桜を戴く古鷹大社がございます。そちらには舞台が用意されていまして、我々叶世座も上がらせていただくことがあります。限られた方のみのご招待となりますが……当主殿とお近づきになられるようでしたら、機会もありましょう」

     

     古鷹の本邸は、そんな風流な庭園の一部であるかのように広がっていた。高さもなく、華美にすぎる装飾もなく、巨大な城のように一目見てあっと言わせられるような屋敷ではない。だが、庭園の優雅さを華をつける草木だとすれば、然と彼らの礎となる重厚な大地こそがこの古鷹邸である。龍ノ宮城を比較対象にしていた揺波は、佇まいの静謐さにただただ息を呑む。

     

    「では、こちらへ」

     

     そして揺波が案内されたのは、屋敷の中そのものではなかった。外れるように横へ横へと向かっていくと、こぢんまりとした離れが見えてくる。刀を持つようになる前の頃に、教養として教えられた記憶を辿れば、質素なその庵はきっと茶室であると揺波は少し困惑する。

     

    「あの、わたし……」
    「中で当主殿がお待ちです。ご不安なようでしたら、刀はお持ちのままでも構わないと」

     

     大丈夫だから、とでも言うような仲小路の微笑みに送られれば従うしかない。
     作法もへったくれもなく、刀を先に差し入れると、袂に身を隠すホノカをやや気遣いつつ、狭い戸口から中ににじり入る。
     適当に後手で戸を閉めれば、四畳半の庵に二人きり。
     花瓶の飾られた床の間の前には、初老の男が。

     

    「直に出迎えなかったこと、平にご容赦願いたい。――ようこそ、古鷹へ」

     

     落ち着いた色合いの着物に身を包んだ身体は、やや痩せぎすで頼りない。けれど、背中に筋の通ったような居住まいが、先程庭園で見たような、どうしてか目が離せない力強い枯木を感じさせる。そこにはもちろん、荒してはならないという忌避感もまた存在している。
     古鷹家当主・古鷹京詞。
     目下、瑞泉に次ぐであろう、敵の大将格。揺波にとっては、大家会合以来、二度目の邂逅となる。

     

    「お久し……ぶり、です」
    「まあ楽にしてくれ、形式張るつもりはない。武人として来た者に、いきなり作法を問うような真似はしないさ」

     

     言われた揺波は膝を折り、ぽっかり空いた畳の穴に収まる釜を挟んで、彼と相対する。敵意こそないが、その手に煌めくミコトの証が重圧をかけてくる。衰えもなく、以前の印象通り強者であることは間違いないようだった。
     不安げに壁に刀をたてかけた揺波に、古鷹が小さく苦笑する。

     

    「そう構えないでくれ……と言いたいところだが、そちらにしてみれば『どの口が』といったところなのだろうな」
    「あの……よかったんですか、刀」
    「いい。君をここに呼ぶ通行料のようなものだ。それに、この狭い茶室ではろくに振り回せんだろうしな。暴れてくれるなよ? 茶器のどれもが一点物だ」

     

     わざとらしく飄々と答える古鷹に、やはり揺波はやりにくいものを感じる。忍の里を襲った非道との差ということなのだろうが、それを出汁に煽っているわけではなさそうという直感が齟齬を生む。
     何か、認識が間違っている――そんな感覚に苛まれた揺波は、自分にとって明快に事を進めるべく、単刀直入に問うことにした。

     

    「どうして、忍の里を襲撃したんですか」
    「なるほど……どうして、ときたか。存外、落ち着いているようで助かる」
    「……っ! 死んだ人だっているんですよ!?」

     

     淡々と答える古鷹に反射的に食って掛かる揺波であったが、

     

    「確かにそれは事実だ。だが君の言う『何故』は、憤りだけから生まれたものではあるまい」
    「え……」
    「その言葉を受け止める義務が私にはある。だが、謗るためにはるばる来たわけではないだろう。君の目は、真に理由を欲している目だ。虚飾というわけではもちろんないのだろうが、君自身が最も知りたいことは別だろう」

     

     揺波はそれに、咄嗟に反論できなかった。思考の流れるままに手に取った問いは、自身でも主題ではないと考えていたからだ。
     彼女が問うべきは、どうして、ではなく、どうやって。

     

    「……襲ってきた仮面の人たちは皆、同じ篭手をつけてました。それを使ってか、ヒミカさんの炎を武器にしていました。ミコトじゃない人でも、です」
    「…………」
    「反対に、忍の人たちは満足にメガミの力を使えなくなったと言っていました。どっちもおかしいことですけど、一度に起こればもっとおかしい。あれは、なんですか? 一体、何が起きてるんですか?」
    「確かに、尋常ならざる現象だな」

     

     す、と差し出されたのは、一切れの羊羹の乗った漆塗りの小皿だ。菓子切と懐紙も添えられている。
     いきなりの菓子にどうしたものか迷う揺波の様子を見てか、古鷹は率先して半分ほどに分けて口に運んだ。それに倣った揺波は、上品な甘さが舌の上に広がるのを感じつつも、相手の調子になっていることに早くも微かな焦りを覚えていた。

     

    「これが天災の類でないことを思えば、きっと歴史の語り部が喜々として後世に語り継ぐことだろうよ。人の身に、このような所業を編纂する術があるとは思えんからな」
    「なら、古鷹さんはやっぱり訳を――」
    「おっと。その話に移る前に、君はまだ知らない、この場を用意した前提について明らかにしておくことにしよう。招いた理由も伝えなければ、話は先に進むまい」

     

     案内した仲小路は、ついぞ揺波にそれを話してはくれなかった。だから彼女は、この茶室に入るときも、そして明かされようとする今このときも、覚悟を持っておくことぐらいしかできはしない。
     特に態度を変えることもなく、古鷹は続ける。

     

    「二つ、理由はある。残念ながらその中に、君の問いに答える、というものはない。だが、君の存念は理解できる。故に、ここは交換というのはどうだろうか。私の知りたいことを教えてくれたら、君の知りたいことも教えよう」
    「お、オボロさんたちのことなら、お話できることは何もありませんよ!」

     

     狼狽えた揺波に口角を上げる古鷹。揺波は藤峰から、あまりこちら側の情報を出さないように、と道中忠告されていた。しかし、このあまりに露骨な反応を藤峰が見れば、先が思いやられるあまり、目を覆い天を仰ぐことだろう。

     

    「なに、それを問うつもりはない。そもそも、だ。私自身、君から無理に情報を聞き出して森を焼こうなどとは思っていない。もはや信じてもらうしかないが、私はこの件に積極的な立場にはない」

     

     どっと疲れたように言い捨てる彼もまた、露骨であった。それが本当であれば、彼に対する印象の齟齬も説明できようが、演技か否か、揺波には判断できる能力も材料もない。
     ただ、そんな揺波の複雑な思考も、次の一言で真っ白になった。

     

    「聞きたいのは、氷雨細音の動向についてだ」
    「……へ?」

     

     突拍子もない名前に、間の抜けた声が漏れてしまう。ただ、古鷹はそれをあげつらうことなく、至って真剣に事の次第を説明し始めた。

     

    「御冬の里で決闘を行う、というところまでは知っている。だが、そこへ赴いて以降、一切の連絡が取れんのだ」
    「は、はあ……それでわたしに?」
    「相手は君だったのだろう? 当事者に聴取するというのは道理に適っていると思うのだが。あやつはたまにぶらりと放浪することはあっても、こうも連絡のとれない事態になったことはなかった。雇い主としても、動向を掴み損ねているというのは問題だからな」

     

     眉尻を僅かに下げた古鷹の表情は、心配そのものだ。彼のことが、揺波はますます分からなくなる。
     とはいえ、気を張って隠す類の問いでないことは揺波の緊張を和らげる。加えて、当事者であったとしても、氷雨細音という好敵手の行方ははっきりとしないままだ。ここに至るまで、誰にもそのことを話す機会のなかった揺波にとっては、水を向けられたと言ってもよかった。

     

     そんな懸念も含め、揺波はあの決闘の顛末を古鷹に語って聞かせた。その後について追求されたらどうしよう、とやや不安に思っていた彼女であったが、古鷹の示した反応はその逆、納得であった。

     

    「ほう……よもや氷雨がな」
    「あ、あの……つまりどういうことなんですか?」
    「案ずる必要はなかろうよ。あやつは別天地でよくやっていることだろう」

     

     膝下に視線を落とした古鷹の顔が、ほんの僅かに綻んだ。納得を得られたのならいいか、と揺波もそこで引き下がる。健在であるのなら、また次もあるのだろう――そう、あの雪原で打ち合った時間を懐かしむ。
     と、間をとるように残りの羊羹を口に収めた古鷹は、今まで通りの起立する枯木のような顔つきに戻った。

     

    「では、感謝と共に私も義務を果たすとしよう。君が今追っている流れについてだ」

     

     揺波もまた、姿勢を正す。これこそが本題であり、真に彼に対する態度を決める局面である。

     

    「初めに断っておくと、我々とて事態の中心ではない。我々は、君たちよりも少し上流にいるというだけで、山の源泉から全てを眺めているわけではない」
    「仕方ないことだった、ってことですか」
    「人間は、滝を登れない。ミコトであっても、だ」

     

     順を追って話そう、と責める揺波を受け流す。

     

    「ミコトに出ている影響は、概ねそちらが把握している通りと考えてもらって構わない。古鷹に属するミコトや、氷雨のような雇いからも同様の症状が報告されている。ただし個人差は著しく、二柱とも同程度、という例は稀だった」
    「どっちも宿せなくなったミコトもいるんですか」
    「ああ。雇いの者だったんだが、泣いて国に帰ったよ。……だが、そんな者たちのおかげで分かったことがある。個人差は、ミコトにではなく、メガミに対しての修辞であることがな」

     

     大げさに頷いて見せる揺波は、もう知っていますと言わんばかりである。古鷹は特に咎めも言及もしなかったが、代わりに一つ、問いを差し向けた。

     

    「ところで君自身は、影響を受けたかね?」
    「え、あ……そういえば、結局なんともないままです。それも不思議で」
    「君は確か、ザンカを宿しているのだろう? 聞きしに勝る武神――風聞する限りでは、現在宿すのは君一人のはずだ」

     

     遠慮がちに頷く揺波。彼女はザンカに対して、他のミコトのような特別な感情を持っていない。だから特異なことだと指摘されたとしても、今ひとつ実感が湧いてこない。
     古鷹はその返答をじっくりと噛みしめるように、深く目をつぶる。

     

    「ああ、よかった。私も似たようなたちなのだが、君の希少性には敵わん」
    「それって……他に全然宿してる人のいないメガミだったら、影響を受けない、ってことですか?」
    「だと推測している。概ね、認めた者しか宿すことを許さないようなメガミについては、宿すにほぼ支障はない。影響を受けたミコトの情報を並べる限り、そのような法則性が浮かび上がったのだが、それはつまりミコトにではなく、メガミに問題が生じている可能性を大きく支持するものだ」

     

     導き方が逆にせよ、オボロたちとすり合わせた認識と相違ないことに安堵する揺波であったが、そこで決定的な事実に気がついた。
     原因を現象から推測している古鷹はつまり、

     

    「じ、じゃあ古鷹さんは、その何かに、ただ巻き込まれてる側だってことですか!? 仕掛けた側じゃなくて!?」
    「そんなに意外か?」
    「だって……」

     

     愕然とする揺波。分かりやすく繋がっている古鷹に解答を求めたのに、当の本人が完全な被害者側では得るものも得られない。よしんば影響を受けていても、対策しているか、因果くらいは理解しているものだとばかり思い込んでいたのである。
     揺波には、彼への認識のずれの一端がようやく見えた。一対一の決闘ならば相対する者は皆明確な敵であり、殺し合いなら皆明確に切り捨てる相手であるが、己よりも上流に位置する者が皆明確な敵というわけではないのだ。

     

     瑞泉との繋がりを持って、忍の里を襲ったのは間違いない。
     けれど、瑞泉側であるのに、ミコトを襲う現象については仔細を知らされていない。
     つまり、単純な力関係さえ分かってしまえば、自然と行き着く一つの可能性。

     

    「襲撃は、瑞泉がやれ、と……?」
    「…………」

     

     否定はなかった。肯定は、無表情のその奥にしまわれている。
     古鷹は問いかけに直接答える代わりに、極めて客観的な事実を述べる。

     

    「瑞泉は、この現象を掌握しているという。それを交渉の札として、多くの地域に政治的圧力をかけている。民のほとんどは知らないことだろう。裏側から、瑞泉は全てを掌握しようとしている」
    「いくら、なんでも……他の大家とかは……」
    「ここもその一つなのだがな。時に、君はあの絡繰をもう知っているだろう? 桜の下でなくとも、宿しておらずとも、あまつさえミコトでなくとも、メガミの力を使えるあの絡繰を」

     

     それが、と言いかけた揺波は、零すように古鷹が口にした言葉に遮られた。

     

    「悲しいかな、あれは武力だ。直接的な圧力となる、武力だ。忍以外にも、それは例外なく差し向けられる。いや、差し向けられた、と言い直そうか」
    「……!」
    「伝え聞くに、クルルというメガミが作ったものらしいが、まさかメガミの創造物が人々の争いを助長させることになるとは、ヲウカ様も頭を痛めるやもしれんな」

     

     それは、愚痴以外の何物でもなかった。もう、揺波には感情を燃やす以外、彼を糾弾する燃料は残っていなかった。
     辛うじて揺波が拾えたのは、クルルという名前だけ。細音との決闘で埋没することとなっていた記憶を辿れば、また一つの現実の形が見えてくる。

     

    「細音さんが、わたしと決闘する前に、クルルに会った、と言っていました。怪しい装置の実験台にされて、細音さんが宿していたメガミの力が奪われたようだ、とも。それって、絡繰の篭手と無関係じゃあ……ないですよね」
    「メガミの力への干渉か……ああ、ああ! それならば、なるほどそうだろう。尤もらしく筋が通る。だが……歴史に残る偉業とて、鏃とされれば血に塗れるだけだろうに」

     

     深いため息に乗って、憤りが彼から吐き出されていくようだ。
     これ以上何を訊けばいいのか、揺波には分からなくなっていた。決め込んだ覚悟への見返りが得られるものだと信じていた彼女には、瑞泉がより大きな脅威であると再認識できただけのこの会談は、足踏みとしか思えなかった。いや、いっそ里の犠牲を思えば、矛先を惑わされただけ後退ですらあるのかもしれなかった。
     彼の言うとおり、古鷹は立派な大家だ。その古鷹ですら、瑞泉の力に歯噛みしているのが現状だった。

     

     茶室に降りる沈黙が、痛々しかった。
     耐えかねたように、古鷹は釜から湯を汲んで、茶を立て始めた。持ち出した茶器のあれこれに言葉を尽くすこともなく、ただ黙々と茶筅が抹茶をくすぐる。
     と、彼が手を止め、再びの静寂が訪れたときだ。

     

    「そういえば、二つ目がまだだったな」
    「……?」

     

     差し出す茶は新緑のような鮮やかなもの。揺波はうろ覚えの知識で受け取り、さらりとしたそれを口に含む。刺すような苦味ではなく、色合いのように爽やかさが印象に残る苦さであったが、なお揺波の顔は渋い。
     素直に茶碗を置いて礼をした揺波を見て、古鷹が持ちかけたのは、ある提案だった。

     

    「天音。私の下で、決闘代行をする気はないか」

     

     口の中に残る苦味すらも忘れるほど、それは揺波の意識の外からやってきた。
     言葉を失くしている様に、補足が必要か、と古鷹はさらに続ける。

     

    「知っての通り、氷雨は既に私の下を離れた。年も考えれば、あやつほど実力のあるミコトは稀有だ。他にも雇いの者はいるにはいるが、粒ぞろいとまではいかない。その点、君はあの氷雨と互角に渡り合い、以前には岩切以北の桜を総嘗めする勢いだった」
    「………」
    「辛いことを思い返させるようで恐縮だが、もはや天音家は用をなしていない。なれば、名実共に優秀な君を放っておくのはもったいないとは言えないかな」

     

     彼の言葉は、理にかなっている。正直、揺波からしてみれば、願ったり叶ったりの提案だ。決闘を礎として生きていく身に、それ以上の処遇は到底思いつかない。
     しかし、揺波には首を縦に振れないだけの感情が、まだ残されている。

     

    「わたしは、あなたを許したわけではありません……! 忍の里に恩義がある以上、そこに手を出したあなたに加わるなんて……申し訳が……」
    「尤もだ。開口一番にそのことを問うただけの隔意、むしろ忘れられては困る。私は、責められるだけのことをした。私が、やったのだ。その事実に変わりはない」

     

     だが、と結ぶ古鷹の表情は、細音のことを話題にしたときと同じそれ。

     

    「もはや世の趨勢は瑞泉に傾きつつある。諍いを忘れたこの地は、水の染み入る紙が如し。その手の速さは、実際に見てもらったほうが分かりやすいだろう」

     

     

     そう言うと古鷹は、袂から一枚の丸めた紙を取り出した。畳の上に広げると、それが地図であることが分かる。蟹河で細音にもらったものよりも、もう少し海岸線がはっきりしていた。そして何より異なっているのが、大地が色分けられていること。
     細音に教えられた地理を紐解けば、大地の中央あたりが天音家のあった岩切であり、そのまま南下すると咲ヶ原、瑞泉と続く。龍ノ宮は岩切の南東、咲ヶ原の東であり、そこから海に至る赤南・赤東を含め、以降は全て龍ノ宮領地である。
     ……その、はずだった。

     

    「わかるか? この南に広がる一帯は、現在全て瑞泉支配下にある」
    「龍ノ宮さんの……領地は……」

     

     僅かに首を振る古鷹に、揺波は返す言葉もない。
     元々、南端に位置するほど小さな領地を持つ瑞泉は、いまや南の海岸線を独占する勢いで勢力を伸ばしていた。
     加えてだ。湾を囲む土地に位置するのが瑞泉領、と覚えていた揺波は、さらにその西にまで支配が及んでいるのを見て取った。その半島には煙家が、その北隣には菰珠が――二つの大家が、存在しているはずだった。

     

    「ここ、もしかして……」
    「直接的な、圧力だ」

     

     それ以上の説明は不要だった。
     奸計によって自分の家が滅んだことを、否が応でも終わりと刻み込まれていた揺波は、その終わりから更なる終わりへ向かって加速度的に事態が進行しているのだと、視覚に訴えられることでようやく実感を得た。
     これが、ミコトとメガミの仕組まれた不調に端を発しているというのなら。
     未来予想図は、あまりにも、黒い。

     

    「理解してもらえたようで何よりだ。多くを聞かせた甲斐があった」
    「本当に、起きてることなんですか……」
    「間違いなく事実だ。だからこそ、受け入れがたいと知っていても、君の利のために雇用を提案している。恩義は理解するが、恩義のためだけに君が忍と命運を共にする必要はない」

     

     袂に地図を戻した古鷹は、重い空気を纏っている。今まで表に出すまいと努めていたものが、限界を迎えたかのように溢れ出したかのようだ。
     気苦労の絶えない領主と呼べば、まだ愛嬌も湧くだろう。
     実際は、激流と化した世情の中、憤怒の顔で起立し続ける当主こそが、古鷹京詞という男であった。

     

    「家長もミコトも不在となれば、天音もすぐにこの流れに呑まれるだろう。そこに残った大切な人々もだ。死んでは、誰も守れない。我々ならば、新世代の覇王にもほど近く、うまく立ち回れることだろう。だから……今は、私に協力はしてくれないだろうか」

     

     深々と、美しさすら感じる礼をされたところで、揺波は困惑を増すばかりだった。
     揺波には、事態の解決を図るだけの道理があり、オボロたちへの恩義という感情もある。だが古鷹もまた道理と感情を与えてくれた。何より、オボロと同じ命運という言葉が、揺波をいっそう惑わせる。そのせめぎあいは、想定通りに事が運んだ次の一手を繰り出そうと考える自分と、背を流れる冷や汗に一歩引こうとする自分が、決闘中にいがみ合うようなものである。

     

     そうやって迷っていると、顔を上げた古鷹は儚げに笑みを零した。催促の意はなく、得心がいったように揺波の気持ちを推し量っていた彼は、大きく手を叩き鳴らした。外からは、仲小路の存在を主張する声が短く届く。

     

    「急いで答えを出す類の話ではない。――部屋を用意させよう。当分の間、落ち着いて考えなさい。君が満足の行く答えを見つけるまで、好きなだけ居るといい」
    「ありがとう……ございます。あの……お茶、すみませんでした。お作法もろくに覚えてなくて……」
    「いいんだ。礼儀作法は、敬意を示すもの。礼の心があれば、後からついてくる。この状況下では、むしろ口すらつけてくれんと覚悟していたんだがな。作法を学びたいのなら、なんなら茶道の講師でもつけるかね?」

     

     曖昧に笑って応じる揺波が戸を開けるなり、古鷹の態度から重苦しい空気が消えていった。外にそれを晒さないその気丈さを称えるべきなのか、己だけに明かしてくれたことを喜ぶべきなのか、揺波には判断しかねた。
     最後に、と古鷹は付け加える。

     

    「これだけは覚えておいてほしい。誰にでも、守るべきものがある。この都は、そういったもので満たされているという自負もある。そして、守るべきものを持つ者は、守らねばならないときを必ず迎える。今度日を改めて、君に私の大切なものを見せるとしよう」

     

     それっきり、彼は何も言わなくなった。ずっと目を閉じて、茶室に生えた一本の枯木になったように、思想の海へと旅立っていったようだった。
     戸口からにじり出た揺波は、手にした刀が随分と頼りなく感じられた。
     これでは、激流に静かに抗い続ける枯木にすら、傷一つつけられないのではないかと。

     

     

     


     天音揺波は、それまでも確かに歴史に名を連ねる者だった。
     けれど、彼女は家という規模を越えて、更なる歴史の岐路にはっきりと立たされることになった。
     英雄は、現実を知る。快刀乱麻を断つ彼女ですらも刃先を震わせるほどの現実を。
     現実を知った彼女は、これから先、どう向き合っていくのだろうか。

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME  地図作成、設定:夏野トキユキ

     

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    『桜降る代の神語り』第46話:歴史と文化の都

    2018.01.12 Friday

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       闇昏姉弟の物語はひとまず、希望を残す形で決着を見た。
       一方瑞泉領内では、小さな力が物語を動かし始めた。
       姉弟と並べるには幾分も見劣りする者たちだけど、それでも彼らの活躍もまた英雄譚には欠かせないのだから、面白いものだね。

       

       さてさて、脇道ばかりでは物語も盛り上がらない。そろそろ我らが主役、天音揺波の物語へと戻るとしよう。
       忍の里が、古鷹の配下に襲撃されてからというもの、彼女はどうしていたのだろうか。

       

       

       


       揺波にとってその都の第一印象は、整然としている、というものだった。

       

      「すごい……」

       

       近づくほどに明らかになっていった全容に驚いていた彼女は、門を抜けた先に本当に規則正しく家々が立ち並んでいることに改めて感嘆の声を漏らした。霞んで見えるほどの果てまで伸びる大通りの端で、初めて見る都をただ呆然と眺めている。
       龍ノ宮城下は、雑多な活気や情熱に溢れる大きな街であった。会合前の僅かな時間ではありこそすれ、揺波はその熱気に感銘を受けていたのである。しかし、今目の前に広がる、格子状に整えられた街並みはそれとはまるで別物。道行く人々からも漂う上品さに、どこか洗練されたものを揺波は感じていた。

       

      「おい、ぼさっとするな」
      「ご、ごめんなさい」

       

       そんな揺波を見かねてか、帯のあたりを肘で小突くのは藤峰。彼、は忍装束ではなく小奇麗にまとめた町人に扮していた。揺波の刀も預かっており、さながら彼女の案内役、ないしはお目付け役といったところであった。
       揺波の気の緩みは、一触即発にして戦いもやむなし、とある程度覚悟していたものが、緊張感の欠片もない街の様子に感化されたせいでもあった。

       

      「まあ、名前の上では大家とはいえ、田舎育ちのお前では仕方ないか」
      「藤峰さんだって、忍の里で育ったんじゃないんですか」
      「見てきたものが違う、という話だ。龍ノ宮、瑞泉も大家として名高く、相応の規模を誇る。……だが、ここはそれだけではない。何よりも文化と歴史を重んじ、守り、育む。この地において最も華のある都――」

       

       芝居がかった口ぶりの藤峰に張り付いた笑みは、彼の緊張を物語っているようだった。

       

      「古鷹へようこそ、お嬢様」

       

       

       

       


       叶世座の襲撃があったその夕方、二人が敵地である古鷹へ足を踏み入れる三日前。
       後処理に奔走していた忍たちは、軽い休息の後、今後についての検討を行うべく議場に集っていた。不在である千鳥を除き、揺波が知っている顔は皆揃っていたが、忍の数は心なしか前よりも減っているようだった。
       日は落ちかけ、客人を考慮してか多めに配された行灯と、揺波の膝下で大人しくしているホノカだけが灯りとなった場の前には、隻腕のメガミがいる。

       

      「現状に対する結論からいこう。我々は現時点を以って、第二級戦時防衛態勢に突入する」

       

       

       オボロから告げられた言葉に、忍たちが表情を引き締める。その不穏さに、畳を掴むように握りしめられるハガネの小さな手を、震えを受け止めるようにサリヤが包み込んでいた。その反対側ではジュリアもまた、同じように不安を共有していた。
       一同の様子を見て取れるオボロは、それでも顔を崩さなかった。

       

      「皆の奮戦はあったが、現実として里は半壊した。里に通じる者への防備を疎かにしていたツケが回ってきたのかもしれん。古鷹山群こそ要塞だが、この里はそうではない。よって、現刻より里を一時的に放棄、残った物資と共に隠れ家へ散開する」
      「配置はどうしましょう」
      「拙者が既に考えてある。班によって実力に偏りを感じるだろうが、それはあてがった隠れ家の危険度に依存していると認識してもらって構わない。まさか山狩りまではすまいと思うが、戦時とはそういうものだ。覚悟は持っておいてくれ」

       

       それから、集った忍たちに適宜指示を出していくオボロであったが、右手だけで必要な数を数え終わるや、集団の前に位置するジュリアとサリヤに注目した。

       

      「お二方は……」
      「できれば、まだご厄介になろうかと考えているのですが……狙われた身ですし、ここで孤立してしまうのもどうかと。しかし――」
      「案ずるな。サリヤ殿ならともかく、ジュリア殿にまで厳しく危険な生活を強いるわけにもいかないだろう。お二方には拙者に同行していただき、引き続き協力をお願いしたい。それなりに整っている拙者の研究拠点の一つだ、さほど不自由はすまいよ」
      「アリガト、ございます……イチバンの選択だと思いマス」

       

       同意するように頷き、頭を下げるサリヤ。
       次いで、オボロの視点はハガネを通り過ぎ、揺波へ定められた。

       

      「そして揺波。お主は――」
      「オボロさん……と?」

       

       窺うように訊ねる揺波は、口にしたその問が否定されるのだろうということは薄々分かっていた。
       けれど、オボロのからの答えは、なお予想外のものだった。

       

      「お主は、天音へ……実家へ戻れ」
      「……!」

       

       思いがけない提案に、言葉を失う揺波。彼女の脳裏には焼けた生家の姿が過ぎっていたが、思考までもが焼かれたわけではない。
       てっきり、助力を請われるものだと揺波は考えていた。戦盤への駒の並べ方は知らなくとも、自分という実力者を盤外に置く不利を悟るのは容易い。だから、そういった理にかなった選択をするものだと予想していた揺波は、少し裏切られた気分になったのである。
       そんな彼女を気遣うように、ホノカは揺波の頬に寄り添うのを見たオボロは、

       

      「勘違いするな。何もお主らを評価していないわけではない。事実、先程の襲撃は、お主抜きでは致命的なまでの深手を負わされたかもしれん」
      「じゃあ、どうして……」
      「天音揺波は、忍の里に属しているわけではない。故に、これ以上巻き込み、後戻りのできない道を歩ませるわけにはいかない。その先に袋小路が待っていたとしても、そこに立って命運尽きるを待てなどと、言えるわけがない」
      「でも、ならジュリアさんたちは……!」

       

       ちら、と当人たちを見やる揺波だったが、サリヤが優しく首を横に振るのみ。
       オボロはそれに、

       

      「お二方は、生き残るために拙者たちと歩むことを良しとした。それが、現状における最善手だからだ」
      「…………」
      「自分が選んだ道の果てで得た後悔ならば飲み下せる。だが、他人に強いた道で他人が得てしまった後悔は、飲み込むにはあまりに大きく、重い。――これは拙者たちの問題だ。揺波があえて苦を背負う必要はない。お互いのためにも、後悔のない道を選ぶべきだ。家は焼かれたとて、全てを失ったわけではあるまい?」

       

       思い当たる節に、揺波に返す言葉はなかった。焼け跡で会った女中の高野が、彼女の頭の中で心配そうな顔を見せていた。

       

      「それに、だ。さっきも報告にあったが、備蓄の関係もあって、正直なところホノカの助けは拙者としては戦力に数えられん。再現性も不明だし、確認する余裕もないしな」
      「あの……ぽわぽわちゃん怒ってるみたいですけど……」
      「拙者としては、と言っただろう。大事なのは、向こうはこの事情を知らないことだ。張り子の虎を掲げておく分には、本物の虎の牙は必要ない。いずれ露呈するだろうが、後手に回っている今はそれでも十分。お主ら既に、拙者たちの大きな守りとなってくれているのだ」

       

       ホノカはホノカで一応納得したらしく、しぶしぶといった様子で正座する揺波の脚の間に収まった。それを優しく包み込むように両手をかざす揺波の目は、しかし真っ直ぐホノカの淡い光に注がれていた。
       そして、長く続いた重い沈黙の後、

       

      「……でも、やっぱりうちには帰れません」

       

       突然顔を上げた揺波の反論に、オボロは口を開こうとするが、揺波はそれに先んじて言葉を紡いだ。

       

      「オボロさんの言うことも分かります。なら、わたしはやりたいと思ったことを、そのために必要なんじゃないかと思うことをやります」
      「ほう?」
      「わたしは、オボロさんやハガネさん……それに、たくさんのミコトを襲ってるこの現象について、調べたいと思っています。わたしは、桜花決闘のために生きたい。そのために、できることをしたい。メガミの力を宿せなくなるミコトが増えたら、決闘どころじゃなくなりますから……だから、この現象を、調べて、止めたい」

       

       なので、と継いで放たれた宣言は、一同に衝撃をもたらした。

       

      「わたしは、古鷹の都に行こうと思います」
      「えっ……!」

       

       最も大きな驚きの声を上げたのは、隣にいたハガネであった。無論、今の今まで何が行われていたのかよく理解している忍たちも動揺は隠せない。この場で唯一表情を変えずにいられたのは、オボロだけだった。
       ハガネは理解が追いつかないといった表情で、

       

      「ど、どうして? 敵さんのど真ん中じゃないの? それに、あたしたちに悪さしたのって、瑞泉ってやつらじゃなかったっけ……?」
      「拙者としてもその心は気になる。言ってみろ」

       

       促された揺波の面差しは、硬く、そして鋭い。

       

      「瑞泉は……それはもちろん、直接手の内を探ることができたら何よりなんですけど、近づくこともしないほうがいいくらいには、危険すぎると思います。どんな敵がどれだけいるかも分からない……あまりにも、情報がなさすぎます。忍の皆さんも、帰ってこないみたいですし」
      「ふむ。程度の差こそあれど、そこは共有されていた懸念だな。では何故古鷹に?」
      「あの変な篭手のおかげで、古鷹が関係していることは分かってますから。そこが中心じゃなくても、少しでも原因に近づけるように、と。危ないのは確かですけど、古鷹はまだ、あの仮面って相手が分かってますし、そいつらならわたしに及びません。だから、遠く、下手をすれば逃げ場もなくなる瑞泉に飛び込むよりは、まだ勝算はあると思ってます」

       

       語る言葉は端々に明瞭さに欠きながらも、射抜くような視線はずっとオボロに注がれたままであった。それを射抜き返すオボロもまた、見定めるように意識を外さない。
       と、

       

      「ふっ……」
      「……?」

       

       小さく笑ったオボロは、「おい、藤峰」と呼びかける。オボロに倣って彼のほうを見れば、苦虫を噛み潰してさらに飲み込むことに耐えているような顔で、揺波のことを睨んでいるところだった。
       オボロはその様に苦笑いを零しながら、揺波に向き直った。

       

      「いやなに、そもそも古鷹の調査は予定されていたことだ。担当は藤峰。まるで古鷹への案内役が降って湧いたようであろう?」
      「しかしオボロ様、危険すぎます。あちらの情勢をこれから調べようというときに、私一人ならともかく、天音のお守りまでは……」
      「何も隅々まで案内しろとは言っておらん。厳戒態勢なら諦めさせても良い。ただ、古鷹のことだ、おそらく都は凪いでいるだろう。入りさえすればあとは都に放り出して、お主は好きに調査すればよい。そこから先は、揺波の道だ」

       

       観念したように、御意、とだけ唱えた藤峰は、全てを諦めたように深く息を吐いた。その後に見える顔は、毅然とした忍のそれだった。
       話がまとまったことにほっとする揺波は、再び向けられたオボロの視線が、いくらか柔らかいものであることに安堵を覚える。行為そのものは戦場に送り出す類の非道なものかもしれなくとも、己の選択が尊重されたことに勝るものではなかった。

       

      「事と次第によっては、修羅場をくぐり抜けることになるだろう。それでもお主は行くか?」
      「はい。それが、わたしの選んだ道ですから」
      「よろしい。分かたれた道の先で、再び会えることを期待するとしよう。そのときには……そうだな、何か分かったことがあったら、ついでに拙者に教えてもらえれば有り難い。――それと、これは餞別だ。まあ、使ってやってくれ」

       

       オボロが投げて寄越したのは、一本の神代枝だった。数時間前の再現のようで複雑な気持ちになる揺波であったが、現状で贈ってくれることの意味を噛み締めて袂にしまう。
       話に決着はついた。揺波は早くもまだ見ぬ古鷹の都へ思い馳せていたのだが、揺波の処遇が決定しても、場はまだ終わっていなかった。

       

      「じ、じゃああたしも行きたい!」

       

       いきなり手を挙げて宣言したハガネに、傍の揺波は面食らってしまう。
       もちろん、僅かばかり眉間に皺を寄せたオボロの答えは即却下であった。

       

      「だめだ。揺波はいざとなれば自衛が叶うが、お主はまだ人間の大人と力比べしてもどうか、という程度だろう」
      「だって……だって、あたしだって何かしたいもん! 敵は、やっつけられないけどさ……」
      「ふむ。だが、揺波への同行は流石に危険すぎる」
      「そんなの、行ってみないと分かんないじゃん! どうせここにいたって、できることなんにもないんだか――わっ」

       

       勢い余って前のめりになっていたハガネを遮ったのは、彼女の肩を優しく包み込む腕だった。隣で成り行きを見守っていたサリヤが、今にもオボロに食いつきそうな彼女の背中を抱きとめていた。
       突然のことに文句を飲み込んでしまったハガネの耳に、慈しむようなサリヤの諭す声が、穏やかに届く。

       

      「落ち着いて。焦る気持ちはよーく分かる。でも、そんなときだから、一呼吸置いて? 今はまだ、そのときじゃないだけ。きっと、ハガネちゃんにしかできないこと、あると思うわ。その前に無理して、いざってときに悔しい思いをするのは嫌でしょう?」
      「う、うん……でも……」
      「だいじょうぶ。今は、ユリナちゃんや、私たちの番なだけ。だから、応援していて? ハガネちゃんの番が来たら、私たちも応援するから」

       

       ゆったりと染み込むようなサリヤの説得に、ハガネの力も収められていく。
       ただ、その様子に安心したサリヤは、自分の足を何度も叩かれていることに気づく。振り返ってみれば、それは小刻みに首を横に振るジュリアの姿が。
       そこで初めて、サリヤは自分が今誰を相手にしているか改めて認識したようで、慌ててハガネの背中から退く。

       

      「え、あ、ご、ごめんなさい! 私ったら、ハガネちゃん、なんて気安く……メガミ様になんてことを……」
      「ううん、いいの。わがまま言ってごめん」

       

       ハガネはそれを気にすることなく、むしろサリヤに背中からもたれかかった。思わず胸のあたりで抱きとめてしまったサリヤは、天を仰いだハガネの悔しそうな顔に、もう何も言うことはなかった。
       そんな様子のハガネに、けれどオボロは不敵な笑みを浮かべていた。
       オボロは言う。

       

      「納得してもらって何よりだが、そんなハガネに朗報がある」
      「え?」
      「何も危険なだけで同行を止めたわけではない。揺波とは別の道を行って欲しいからだ。お主には、今お主にしかできないことを頼みたいのだ」

       

       告げるオボロの瞳は、ハガネを通してもっと未来を、現状を変えるための一手が成就した先を映しているかのようだった。

       

       

       

       


      「藤峰さん……これは一大事です」
      「……なんだ」
      「うぐいすと、うさぎですよ……?」
      「だからどうした」
      「どっちもお団子なんですよ!? こんなに綺麗なの、やっぱりわたし選べません……!」

       

       

       皿に乗った菓子をきらきらとした目で眺める揺波に、藤峰は盛大にため息で返した。
       当初、古鷹へ進行していた二人は相応の覚悟を持っていたのだが、現実ではこうして茶屋の軒先から街並みをのんびり眺める余裕すらある。藤峰としては罠の可能性を捨てきれていなかったが、日常の空気に染まった揺波は単なる観光客そのものだった。
       都の人間と外の人間の区別は容易だ。住人は皆、どこか余裕があった。午後一番の賑わいを見せる往来では、余所者が忙しなく脚や目を動かす様はかなり浮いて見える。商売人ですらゆったりと徒歩なのだから、身体に流れている時間が元から異なっているかのようだ。

       

       余裕さだけなら既に溶け込んでいる揺波は、悩んだ挙句に、白い兎を模った団子を未練のないようにぱくりと口に入れた。その美しさが見た目だけでないことは、舌が教えてくれる。そんな彼女を他所に、ホノカは皿の上に収まって、菓子の真似をして遊んでいるようだった。

       

      「はぅ……このお団子は罪の味がします……」
      「あのなあ……。昨日までの張り詰めていたおまえはどこへ行ったんだ」

       

       一応従者の役ということで、藤峰は縁台の脇で腕を組んで立ったままだ。無論、美味しい菓子に対する羨望など一欠片もない。いっそ、木の根でもかじっているかのようだ。

       

      「俺はお前のお守りとしてあてがわれたじゃあないんだぞ」
      「いいですよ? 案内してもらったので、わたしはもう大丈夫です。――あっ、こらぽわぽわちゃん! お行儀悪いですよ! ……そういえば、お品書きに桜色のふわふわした丸いお菓子もあったような」
      「説得力皆無だな。戦場で峰打ちを貫く、なんて芸当をやってのけたとは到底思えん。まったく、まるで別人ではないか」
      「だって、これから相手を知りに行くのに、相手のこと考えてても仕方ないと思うんですよ。――ん! うぐいすさんは、うぐいす餡でしたぁ」

       

       何度目かも分からない藤峰の嘆息。彼としては、確かに揺波を無事届けた時点で任務は終わっており、預かった刀を置いて立ち去る権利はある。だが、敵地のど真ん中だという意識が、いまいち危機感に欠ける彼女から離れる決断を妨げていた。
       実際のところ、戦のいの字も感じられない、日常でしかない様子の都は、当事者の藤峰にしてみれば不気味ですらあった。そんな不安を胸の内側から鷲掴みにしてくるような謀略が、水面下で繰り広げられているのかと考えると気が気でなかった。

       

       義理は果たしたと、意を決し調査に向かおうか。
       そう、藤峰が揺波に持ちかけようとしたときだ。

       

      「……天音」

       

       急に落とされた声の調子に、瞼の裏で甘味を堪能していた揺波も何事かと目を開く。
       三人だ。揺波の前に、身なりの整った三人の男が立っていた。真ん中の初老の男に、壮年の二人が付き従っている形だ。音もなく、けれどあまりにも自然に、人通りからぬっと抜け出してきたかのような現れ方であった。
       対して揺波は、焦るでもなく、動くでもなく、ただ男たちの出方を伺っていた。彼らに殺気がないことは、揺波も藤峰も分かっている。けれど一つだけ、揺波が知らない事実があることを、苦無の位置を意識する藤峰は理解していた。

       

      「どうも、初めまして。天音揺波さん、でよろしかったですかな」

       

       中央の男は、柔らかい物腰でそう訊ねる。線の細さが目につくが、押したとしても折れずにしなやかな手応えを返されるような雰囲気を纏っていた。

       

      「そう、ですけど……」
      「おお、それはよかった。……失礼、私は仲小路と申します。不肖の身ながら、叶世座の座長を務めさせていただいております」
      「……!」

       

       その肩書に、揺波は弾かれたように藤峰に視線をやった。歯噛みする彼の険しい表情は、問うよりも早く答えとなる。
       ただ、一気に身を引き締めた揺波を見て取った仲小路座長は、苦笑いと共に断りを入れる。

       

      「お二人がお考えになられていることはよく分かります。ですが、この場に諍いは不要。我々が重んじる文化も歴史も、どこかしら血が滲んでいるものでしょう。しかしだからこそ、この古鷹に血はふさわしくないのです」
      「なに、を……!」
      「前に一度、お会いしましたかな。藤峰さん……でしたでしょうか。こちらとしては、あなた方に用はありません。今、我々は何もするつもりもありません」

       

       強調するように繰り返された宣言は、傍観者たれ、という手向け。素性が割れており、先手を打たれた以上、藤峰はその場へ釘付けとなる。
       そして、

       

      「天音揺波さん。私は、古鷹家当主・古鷹京嗣の命により、あなたをお迎えに上がりました」
      「え……お迎え、って」
      「はい。屋敷へご招待しろと仰せつかっております。もちろん、当主殿もそこでお待ちです。……さて、いかがですかな?」

       

       にこりと悪意のない笑顔を作る仲小路。
       突然降って湧いたような提案に、揺波は視線を手元に落として噛み砕こうと試みていた。長いこと考え続けていても、仲小路が催促することもない。
       そこでふと、揺波は横目で藤峰を見ながら、

       

      「わたしとしては……行き、たいと、思います……?」

       

       半端な回答に、仲小路たちも藤峰に答えを求める。それがどうにも、敵からの誘いの場面というには棘がなさすぎて、可笑しくなった彼は店の壁に寄りかかりながら小さく口を歪めた。

       

      「構わないさ。むしろ行ってやれ」
      「で、でも……」
      「だからさっきも言っただろう。俺はお前のお守りではない。まあ、こっちのほうは心配するな。こうして俺に意見を求める辺り、お前に何かできるとは思えんからな。だったらまだ、お前のやりたいようにしたほうがましだ。元々、そのために来たのだろう?」

       

       馬鹿にしているような、背中を押しているような、そんな彼の言葉に、揺波はどんな顔をしていいか分からなかったようで、ただ小さく頭を下げた。
       刀を放って返すなり、店の脇の裏路地に向かって去っていく藤峰を見送ることなく、揺波はしっかりと仲小路を見据えた。

       

      「よろしくお願いします」
      「はい、ではご案内します」

       

       それがどんなものであれ、自分が定めた道に更なる一歩を刻むよすがであるならば。
       仲小路の後に従う揺波は、彼の背中のその向こう……果てまで伸びる大路のその先に待つ男の姿を、じっと見据えていた。

       

       

       


       こうして天音揺波の物語は、新たな舞台へと進むことになった。
       長い歴史と伝統故に、文化が育まれる都・古鷹。
       そこで彼女が出会う者は、敵か、味方か、はたまた。

       

      語り:カナヱ
      『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
      作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

       

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      『桜降る代の神語り』閑話:ある愚者の脱走

      2018.01.05 Friday

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         俺様の名前は 山岸山雄 やまぎしやまお 。故郷じゃ力自慢で知られたミコトだ。

         ガキの頃から村一番だった俺様は、当時の無敵っぷりから最強を目指して鍛えてた。そいつが認められてコダマ様を宿せたときはまあ、ガキながらに嬉しかったぜ。
         だが流石に俺様も街に出て、本物ってやつを見ちまったもんだから、最強なんてもう夢物語でしかない。龍ノ宮一志。ありゃあ化物だ。……ま、それもあってハガネ様を宿したんだけどな。俺様の戦い方とも合ってたし、自分でもうまくやったと思う。

         

         そんなわけで分をわきまえた俺様だが、それでも流石は俺様、そんじょそこいらのやつには負けねえし、俺様についてきてくれる奴らもいる。このまま面白おかしくやっていけりゃあいいんじゃねえか――そう思ってたわけだ。
         風向きが変わったのは、龍ノ宮のヤローが死んでからだ。あいつが死んで、あいつのことがお気に入りだったヒミカ様が大暴れなさって、火事場泥――もとい、片付けを手伝ってやろうと城下に入ってから、俺様はずっと不運続きだ。

         

         まずは、適当に物色してたところを変な女とガキにボコボコにされたことか。決闘でもねえのに滅法強いもんだから、子分共の前で恥をかかされた。
         そんでやけ酒してたら、五条のクソ野郎に協力を持ちかけられた。俺様の強さが分かるいいやつだと思ったんだが、呼び出された場所で、ばち、っつう変な音を聞いたかと思えば気絶させられちまった。起きたら外れの牢屋に放り込まれてて、五条の舐め腐った面を拝む羽目になったわけだ。

         

         あのクソ野郎のクソなところは、決闘だっていうのに卑怯な手使ってきやがったところにもある。お認めいただいてねえってのに、ハガネ様の力を使いやがったんだ。同じ使い手同士ならともかく、敬意もねえクソ野郎のしたり顔は今思い返しても腹が立つ。
         無効試合もいいところだが、その決闘に負けちまった俺様は別の場所まで運ばれて、また牢屋にぶち込まれてた。んで、一度だけ牢の外に連れ出されたわけだが……その時、俺様があいつらにやられたことは忘れもしねえ。

         

         俺様が連れて行かれた部屋には、他にもミコトがいた。ぱっと見て最低でも五人はいたはずだ。そいつらは、見たこともない気味の悪い物を取り付けられて、台の上に枷付きで寝かされてた。それが何なのかは分からねえが、とにかく見てるだけで嫌な気分になったんだ。
         当然、俺様も同じように寝かせられてそれをつけられたんだが……つけたばかりは、なんともなかった。それが手足につけられてる、ってことが不愉快だったが、少なくともそのときまでは、まだ普通だった。

         

         だが、急にだ。五条の仲間の合図も特になかった。
         俺様の中に、強烈な力が流れた。あまりに強烈だったもんだから、それが一瞬だったのか、一分だったのか、よく覚えてない。問題はその後だったんだから、気にしてる余裕もなかったんだよ。
         俺様からおかしな力がなくなったかと思ったら、俺様の力が、どっか行っちまった。
         力、っつーと伝わらないかもしれないが、力は力だ。腕力でもないし、活力も違う。何か、俺様の強さを支えてる大切な力が、ごっそり抜け落ちちまった感覚に襲われたんだ。あんときばかりは、俺様と言えどぞっとして、言葉も出なかったぜ。

         

         それから用済みとばかりに牢屋に叩き返されて、今に至るわけだが――

         

        「あん?」

         

         板張りの床に寝そべっていた俺様は、牢の外に人の気配がないことに気づいた。俺様の牢は並びの端らしく、変な篭手をつけた見張りが近くに詰めているはずだった。起き上がって格子の隙間から窺っても姿は見えないし、やつらが奥の方に行った覚えもない。
         これはひょっとしたら、当分大人しくしてやってたと思ったら、監視の必要もないと舐められたんじゃないだろうか。

         

        「いい度胸してんじゃねえか」

         

         俺様を閉じ込めるのは、ただの木の格子。それも、俺様のような怪力の前には随分と弱っちいそれだ。この程度なんともできないと思われていては名折れである。
         いい加減鬱憤も溜まっていた俺様は、全体重を乗せて格子に体当りした。

         

        「ふんッ!」

         

         枠ごとぶち抜くつもりであったが、なよなよしい木の格子は案の定俺様の力に耐えきれず、ばきり、と威勢のいい音をたててその土手っ腹に穴を開けた。適当に蹴り抜いてやれば、それでもう脱出路のできあがりだ。
         こんなことならもっと早く逃げておけばよかった、と外に出た俺様は、やはりいつもの位置に見張りがいないことを確かめる。
         さあ、あとはここからずらかるだけだ。そう意気込む俺様だったが、

         

        「あれ……どこ行きゃいいんだ……?」

         

         例の変なことをされた部屋へ向かう道以外、全く知らないことに気づいた。クソほど広い屋敷であることは間違いないのだが、庭も拝んだこともなければ玄関なんて論外である。気絶させられたまま運ばれたせいだ。
         牢のある一帯から抜けるには、少なくとも左手の突き当りを右に行けばいいことはわかっている。だが、その先に出入り口がある保証はもちろんない。それ以前に、例の部屋への道だって怪しいものだ。
         これはひょっとして、見張りを締め上げて吐かせたほうが早かったかもしれない。

         

        「くそぅ、腹も減ったしよ……――ん?」

         

         苛立ち紛れに格子のなれ果てを踏み潰した俺様の耳に、どたどたと忙しない足音が届いた。それは明らかに、牢のあるこちら側に向かってきており、心なしか殺気立ってすらいる。
         色々追われる立場であった俺様には分かる。こいつは咎めようとする連中だ。どうも派手にやりすぎてしまったらしい。
         しかし、だ。こういうときにどうすればいいか、そいつは簡単だ。

         

        「おい貴様! 何を――」
        「しゃらくせぇ!」

         

         通路に顔を出した三人の野郎どもに向かって、迷わず突進を選んだ。
         こういうどうしようもないときは、真っ直ぐ突っ込んでぶっ飛ばす! どうせ逃げ切れなかったとしても、気に入らねえ連中をぶっ飛ばせば儲けものだ。
         そもそも、どう見ても文官じみたシケた面は最初から気に食わなかったんだ。

         

        「と、止まれ!」
        「っせぇ馬鹿! 俺様が止められるかよ!」

         

         応じて前に出てきたのは二人。俺様に比べたらもやしもいいところだが、動き自体はド素人というわけではなかった。
         両腕いっぱい広げてやや余裕があるか、という通路ということもあって、どうせ当たるだろうと繰り出した右の拳は受け流されてしまった。体勢を崩した傍から、もう一人の野郎が俺様の左胸を押し込んだ。倒すつもりだ。

         

        「――っそァッ!」
        「な……!」

         

         ならば道連れと、左手で強引に野郎の腕を掴むと、半回転しながら倒れ込むと同時に後ろへ放り投げる。顔面を打つことになったが、やつは何の覚悟もなく宙に投げられたのだから、痛みはあっちほうが大きいはずだ。
         しかし、もう一人の相手には一矢報いることができていない。うつ伏せに倒れてしまった俺様を押さえつけようと体重をかけてくる。

         

        「大人しくしろ!」
        「く、っそ……この……!」

         

         必死に振り払おうとするが、極められてるわけではないものの、いい具合に抑えられてしまって身動きが取れない。しかもこいつ、見た目よりも重い。良いもん食いやがって!
         こいつは暴れるだけ暴れてなんとか振りほどくしかないのだが、

         

        「大丈夫か!? 早く縄を……!」
        「あ、ああ……」
        「とりあえず牢に繋いでおけ!」

         

         投げ飛ばしたほうがなんとか立ち上がり、ふらつきながらも懐から縄を取り出した。

         

        「てめぇら……は、離しやが――ごっ」
        「黙れ! 手間かけさせやがって……!」
        「やりやがったなてめぇッ!」

         

         俺様を大人しくさせるためだろうか、頭を殴りつけたようだが、威力はそれほどでもなかった。いいようにやられたということが我慢ならなかった。
         そうやってもがいているうちに、腕に縄がかけられていく。一端は、今さっき俺様が壊したばかりの格子だ。次は足、最後に両手だろう。両手はまずい。本当に何もできなくなる。

         

         万事休すか。
         そう、思われたときだった。

         

        「あがっ……!?」

         

         ふと、ばちぃ、という音と共に、俺様の背中にあった圧が消えていった。まるで、背中に乗った野郎が俺様を抑えるのを諦めたようで、その少し後に、俺様の頭に向かって倒れてきた。

         

        「お、おま――」
        「複製装置<雷>ってね。――あっ、ごめんごめーん、間違えちゃったみたーい」

         

         駆けつけてきた最後の一人だろうか。他意しかない棒読みに、縄を構えていた野郎が信じられないといった顔でそいつのことを見ていた。
         なんだか分からないが、仲間割れしたのならそれで結構。

         

        「っしゃああああああッ!」
        「わ、やめ――」
        「ふんッ!」

         

         勢いよく立ち上がったことで、俺様の背中で寝ていた野郎が前へと滑り落ちる。そいつを受け止めたら良いのか迷っている間に、身動きのとれなくなった野郎に、とびきりの拳をくれてやった。ありゃあ当分起きないだろう。
         一応死んでないか確認した俺様は、それから問題のもう一人に目を移す。

         

        「何なんだお前。俺様を助けに来るとは殊勝な心がけだが」
        「だーれがあんたみたいなのをわざわざ。ねえちょっと、オレだよオレ。気づかないの? オレっちですよー!」

         

         格好は見張りの連中と相変わりない。腕の変な篭手も一緒だ。だが、その嘘つきを絵に描いたような顔だけは妙に見覚えがあった。
         龍ノ宮のお膝元を賑わす小悪党と言えば、こいつの名前はまず挙がる。

         

        「あ、ああーっ! 楢橋、てめぇなんで!?」
        「しっ! それはこっちの台詞だけど、まずは離れよう」

         

         何もかも分からないことだらけの俺様だったが、先導していくスリの平太こと楢橋平太の表情が、面倒くさいことになったと訴えていることだけは間違いなかった。

         

         

         

         


        「なあ、逃げるんじゃねえのかよ」

         

         どうしたらいいか迷っていた俺様にとって、楢橋の登場は好都合だった。だからこうして、狭い屋根裏を何故か進むことになっても文句の一つも言わなかったのだが、暗がりということもあいまって、先に不安を覚えないほうが無理だった。
         そんな俺様の問いに楢橋は、

         

        「あのさあ、わざわざ山ちゃん助けに来るほどオレも暇じゃないの。他に目的があるの。まあ、それもおっさんから頼み事なんだけどさ。それとも何? こっちのおっさんは、感極まってオレっちに金返してくれるって? ありがたいねえ」
        「借りてんのはてめぇだろうがよ」
        「そうだっけか。……ま、こっそり調べ物しにきたんだよ。お前はそのついで。お荷物。おわかり?」

         

         狭いとは言ったが、屋根裏は大屋敷という見込みに違わず、俺様の巨体が通れるくらいには余裕がある。踏み抜いたらどうしようと当初は心配していたが、随分と造りもしっかりしているようで、軋む音すらろくに立たない。
         と、特に何もなさそうな空間で、楢橋は立ち止まった。もちろん下の様子は伺えない。

         

        「この辺かな」
        「何があるってんだ」
        「この施設の造り、普通にしてたら分かんないけど、あるはずの部屋がないんだよね。いわゆる隠し部屋ってやつ? 中を見て回った感じ、この下がそう」
        「はぁー、やるなあお前。流石は御用達の彫り師ができるだけある。もう盗みは四十犯超えたのか? 食い逃げが百五十の、脱走が十を回ってたのは知ってるんだが」
        「今度の入墨刑はおでこだからな、って脅されたから、あんまり捕まらないようにしてるんだよね」

         

         舌を小さくぺろりと出しておどけた楢橋は、腕に取り付けた篭手を何やらいじっているようだった。歯車が組み合わさった形をしている、おもちゃのような代物だ。

         

        「どうするつもりだ。隠し部屋の場所が分かったところで、ここから入るわけにもいかねえだろ」
        「そうだねー。結局正規の入り口は分かんなかったし。だ・け・ど。そこで登場するのがこいつ、複製装置<雫>なのだー」

         

         そういえば、襲ってきた連中を裏切ったときも、そんなような名前を言っていた気がする。
         楢橋は足元の天井板の具合をあちこち確かめて、都合のよさそうな箇所を探っているようだった。

         

        「こいつは、なんでか知らないけど、どこでもメガミの力を使えるのさ。それも、オレっちみたく、ミコトじゃないやつでも。すごいっしょ? すごくない?」
        「まあすげえけど、別におまえが作ったもんじゃねえだろうがよ」
        「まあねー。ちょっとお宝探ししてたら見つけちゃってね。拝借してきたってわけ」

         

         篭手をつけていない左で、黙るように指を立ててきたので、大人しくそれに従う。
         楢橋は、右手の人差し指で天井板を緩く指し示した。すると、かたり、かたり、と篭手の歯車が小さな音と共に動き、奴の指先に変化が訪れた。
         液体だ。まるで腕から伝ってきたように、やつの人差し指に液体が集まっていた。指先で溜まることになるそれも、次第に限界が訪れ、水滴となって落ちていく。一滴目を皮切りに、二滴三滴と後を追っていった。

         

         驚いたのは、その水滴を受けた天井板に穴が空いたことだった。じゅう、という微かな音と共に、目に見えて板が食われていき、やがて天井裏がにわかに明るくなった。下と繋がったのだ。だが、光はどうしてか青白く、気分までは晴れてくれない。
         楢橋はそんなことお構いなしに、今空いたばかりのおはじき大の穴を通して下を観察し始めたようだった。
         早く終わらせて酒と飯が欲しい……そう思って、こいつを待っていたときだ。

         

        「……っ!?」

         

         いきなり、楢橋の身体がびくりと震えた。口元に当てた手が、どうにかその驚きを押し殺しているようだった。
         楢橋がこんな反応を見せるなんて、よっぽどのことに違いない。流石の俺様も、それが何なのか興味を引かれた。目がくらむほどの金銀財宝だったら俺様とこいつで山分けだ。

         

         驚きが抜けきっていない楢橋をどかし、小さな穴から下の様子を窺った。
         だが――

         

        「な、なんであの女が……!」

         

         驚愕の声を最小限に押しとどめられたのは、我ながらよくやったと思う。
         眼下には、二つのものがあった。
         筒のようで、前の部分は硝子だろうか――透明になった不思議な容器が二つ、寝かせられた状態で並んでいた。
         その一方には、吸い込まれるように深い色をした、溢れるほどに髪の長いの不気味な女が、げっそりとした様子で寝かされていた。着ているものを白に染めたらそのまま出棺できるんじゃあないか、と思ってしまうのは、死にかけていることもそうだが、その女から説明できない不吉さを感じるからだった。

         

         そして、もう一つ。
         不気味な女の隣の容器には、違う女が眠っていた。
         一糸まとわぬ姿で、陽の光を知らずに育ったような白い肌を晒しているその女。
         整った顔立ち。色の抜けた髪。
         それを、俺様は知っている。いや、刻みつけられている。

         

         焼けた小屋で、ガキと一緒に俺様の邪魔をした薙刀使いの女。
         俺様をコケにしてくれたその女が、確かに、いた。

         

        「どういうことだ……!」

         

         訳が分からず、この部屋がなんなのか視線を彷徨わせる。空いた穴は小さいが、楢橋が選んだおかげか板は薄い。這いつくばって視点を変えれば、いくらか違った光景も得られた。
         そこで俺様は、寝かされている二人を眺めている別の人物の姿を見つけることができた。
         二人だ。一方は、背の高い妙ちきりんな格好をした女か、とあたりをつけたときだった。

         

        「ひ……」

         

         目が、合った。
         妙な女と目が合った瞬間、どっと全身から脂汗が吹き出した。冷や汗かも分からない。鳥肌が、縦横無尽に駆け回っている。
         それは本当にごく僅かな時間だったが、俺という人間の全てを、内側からばらして観察されているような、頭が拒否したくてたまらない嫌悪感を叩き込まれた。俺が上に居て、あいつが下にいるのに、むしろ俺のほうが見下されてると錯覚すらした。

         

        「逃げるぞ……!」
        「あ、おい……!」

         

         こんな感覚は、最強・龍ノ宮一志を見たときにもなかったものだ。
         恐ろしい――最強よりもなお恐ろしいものが、この下に居る。相対するなんて思ってもいけないような、そんな化物がそこにいる。
         俺には、楢橋をひっつかんでとにかくこの場から離れることしかできなかった。
         ここから無事逃げ出せたら、村に帰ろう――そう、胸に誓いながら。

         

         

         

         

         


         じっと、彼女は表情が欠落した顔で、天井の一点を見つめていた。

         

        「……どうされました?」

         

         容器に横たわる二人の傍で、男は彼女におずおずと訊ねた。奇行に対する困惑は大いにあるが、彼の声の震えは恐れを基底としたものだ。
         彼女は――クルルは、それから視線を動かしていったが、

         

        「なーんでもないですぅ。つまんなそーなので」
        「はあ? はあ……」
        「そんなことどぅーだっていいんですから、どぅーだったのか教えてくださいよん☆」

         

         ぱっと表情に明るさを取り戻した彼女は、彼に先を促しながら、容器に入った全裸の女をとても楽しそうに見やっていた。それは、与えられたおもちゃが思っていたよりも素敵な贈り物
        だったことに、気づいた子供のそれだった。

         

        「入力系、出力系共に異常はありませんでした。他メガミに関しても、想定通りの影響だけが観測されています」
        「んでんでー? この子から試したのはー?」
        「はい……それが、確かに抽出は可能なようなのですが、いまいち出力が安定してない上に、僅かながら他メガミと思しき力の痕跡も認められまして。まるで、ミコトから直接吸い上げているかのようだ、と」
        「ふっふーん……面白いですねぇ」

         

         容器の中は外界と隔絶されている。クルルがべったりとその顔を透明な側面に押し付けて、中身を観察しようとしても、その吐息が中の人物にかかることはない。

         

        「まさかこの天才くるるんの想定外の事態が起きるとは、神渉装置、我が子ながらもうこのワタシを越えてきよるのなあ。何事も試してみないと分かりませんねえ。いやーはや、これこそが醍醐味ってやつですよ? 今日はそれだけ覚えて帰りましょー」
        「で、ではやはりこれは……」
        「そですねー。副産物、っていうか、なーんか引っ張ってきちゃったんでしょうねえ。たぶん……たーぶんなんですけど、この子、メガミでもあるし、人間でもあると思うんですよぅ。半メガミ、的な。丁重に扱ってあげてくださいねー」

         

         淡々としているようだが、クルルの鼻息は荒い。彼女にとって権能である発想や創造の大半は、頭の中で組み立てたものを現実でも組み立てて証明することで淡々と消化される。自分の発想の先を行く創造は、新たな発想と創造の礎であり、垂涎ものなのである。

         

        「さあ、どう調べたもんですかねー……」

         

         だから彼女は、淡々と己の頭の中で、実験と実験とをせめぎ合わせていた。
         この奇妙な存在の、謎を探るために。
         

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第四巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire

         

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        『桜降る代の神語り』第45話:闇昏千鳥

        2017.12.22 Friday

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           偶然にも、山の中で不思議な女を助けた闇昏千鳥だったが、なお偶然にも、二人の目的地は同じく山を抜けた最寄りの村だった。
           奇縁というにも奇特な出会いだけれど、彼に気にする余裕はなかったらしい。
           僅かとはいえ、村へ向かう道すがら、ろくに話せなかったくらいには緊張していたのだからね。
           ……まあ、そこは青少年の心情を汲み取ってやっておくれよ。
           そういうわけで夕刻より少し前、村へ辿り着いた二人は、旅程の労をねぎらうように食事処へ向かうことにしたようだね。

           

           


           女が名乗った名は、雪、というものだった。

           

          「占いで身を立てながら、あちこちを見て回っているの」

           

           雑煮に残った最後の蕎麦がきを満足そうに味わってから、雪はそう切り出した。
           この同道はどちらかと言えば雪が言い出したことである。故に、というわけでもないが、会話の糸口を掴み損ねていた千鳥は、へたった畳の上であぐらを組み直しつつ、向かい合った雪にほっとしたような顔を見せた。

           

          「へえ、占いですか。生業にしてる人なんて初めてですよ。何を占えるんです?」
          「そうねぇ。やっぱり一番得意なのは……失せ物探し、かしら」
          「失せ物……」

           

           呟きながら茶に手を伸ばす千鳥の焦点は、少しばかり遠くに合わせられているかのよう。
           そこへ、くすりと笑った雪は、

           

          「あなたも何か、探しものがあるんじゃない?」
          「えっ! あっ、いや……」
          「その若さで、自分の身一つで旅してるんですものね。なかなかできることじゃないわ。風来坊もたまにはいるけど、そうじゃなかったら、何か強い目的がなければ続けられないもの。たとえば……そう、大切な使命があるとか!」
          「ち、違いますよ。単なる身内の話ですから……」

           

           湯呑みで隠された千鳥の口元は、差し障りのない説明を求めて幾度も空回りしていた。実際は姉探しの千鳥の旅だが、忍の身であることには変わりない。名目上は世情調査の最中であるため、迂闊に立場に繋がる情報を漏らすわけにはいかないのだ。
           とはいえ、千鳥は敵勢力に有利にならない立ち回りを一通り学んだだけで、こうして害意なく接してくる、しかも見てくれのいい女を躱す術の持ち合わせはないのだが。

           

          「そう? ぱぱーって私のこと助けたあれ、すごかったじゃない。家仕えの優秀なミコトなのかな? そんな子が一人旅なんて、何かあるんじゃないかな? ……ってね」
          「あれくらいはまあ……落ちこぼれの俺でもできたんですから、誰でもできますよ」
          「うそぉ。ひょっとして、代々仕えてるミコトの一家とか、そういうことかしら。ああ、でもそういうお家なら、尚更一人で出てくるって……」

           

           わざとらしく頬に手を添え、小首を傾げる雪。
           千鳥は思わず、

           

          「だから、任務とかそういうのとは違うんですって。俺が、わがまま言って出てきただけですから」
          「ふうん……皆は協力してくれなかったの?」
          「いえ……そもそも、姉さんは大人数嫌いますから」
          「たくさんで旅するの、楽しいけど疲れちゃう人もいるものね。弟でも嫌なんて、千鳥君のお姉さんは恥ずかしがり屋さんなのね」
          「ん……? 姉さんは今探し――あっ」

           

           単純なひっかけに嵌ったことに気づいて声を上げるももう遅い。雪につられるように、千鳥も苦笑いした。
           ごまかすように漬物をつまんだ千鳥に、雪は優しく問いかける。

           

          「お姉さん……見つかったら、どうしたい?」

           

           今度の笑みは、千鳥には判断しかねた。けれど、今まで姉の存在を忘れよう、忘れさせようとしていた里の者たちとは違い、そこには呆れも怒りも嘲りもなかった。

           

          「そう、ですね。俺を見てもらいたい、ですかね」
          「見てもらいたい?」

           

           はい、と応じた千鳥は、雪と目を合わせない。さらにその向こうの、誰かに焦点を合わせている。

           

          「姉さんは、すごい人です。実力があって、誇れるような能力があって。昔の俺じゃ、到底敵いませんでした。もしかしたら今も、まだまだ姉さんのほうが強いままかもしれません」
          「…………」
          「でも、少なくとも、姉さんが知ってる俺よりは強くなりました。幸運に恵まれて、ではありますけど、機会を得て、修行して、強くなりました。もう、頼りない弟じゃあない。それを、見てもらいたい。それで、見返したい」

           

           足に載せた握りこぶしが、力を帯びる。

           

          「じゃあ、打倒お姉さん、ってところ?」
          「違います」

           

           雪の言葉に、千鳥ははっきりと否定を返した。

           

          「今、きっとどこかで苦しんでる姉さんに、こんなに強くなったんだから、少しくらいは頼ってくれ、って言ってやりたいんです。そのためには……姉さんに勝つのは手っ取り早いとは思いますけど、必ずしも要ることじゃあない」
          「見返すことも、手段なのね」
          「はい。あのおっかない目を、真っ直ぐに見返してやりますよ。笑って、手を差し伸べてね。だから……俺は、姉さんに会いに行くんです」

           

           俯く千鳥に、不安の色はない。その答えは、長い間霞の中を探し回っていた立場での希望からではなく、浮かび立つ影に手を伸ばす確信から生まれたものだった。
           彼女がどんな境遇に置かれているかは分からない。
           けれど、やることは変わらない。
           何が待ち受けていたとしても、跳ね除けるだけの力があるならば。毅然と答えた彼の言霊には、それだけの覚悟と自信と――そして、慈愛が宿っていた。

           

          「……よかった」
          「え?」

           

           そう雪がひとりごちるなり、髪をまとめていた簪を引き抜いた。はらり、と流れ落ちる長い黒髪を気にも留めず、空いた二人の膳を横にどけた。

           

          「そんなこと聞かされたら、私もお手伝いしてあげたくなっちゃったわ。お姉さん想いの千鳥君が、無事お姉さんに会えるかどうか、占ってあげましょう」
          「そんな! いいですよ、別に――ああ、いや、雪さんの占いを信じてないわけじゃあないんですけど、お代とか……」
          「私がしてあげたいと思うからするのよ。こういうご縁は大切だもの。私を助けてくれたお礼代わり、ってことで。ね?」

           

           そこまで言われると、千鳥としては断る理由はなかった。
           雪の指示で、畳の上に右手を開いて置いた彼は、彼女の前で切っ先を畳に突き立てた簪に目を奪われた。雪の人差し指一本だけで支えられているそれは、華のある飾りが目を引く上等なものであったが、その程度では説明のつかない引力が、千鳥の意識を吸い寄せる。

           

           

          「惹かれ合いましょう……繋がりましょう……まみえましょう……」

           

           じっ、と視線が華の奥に収束したときだ。
           自分はどこかでこの簪を見たことがあるのではないか……そんな錯覚が千鳥に湧き上がったと同時、その簪は支えを失って倒れ、千鳥の右手に当たるかどうかという位置に転がった。
           はっと我に返った千鳥が顔を上げると、にこにことした雪が、

           

          「よかったわねえ。あなたたちの縁はちゃんと繋がってるわ。しかも、近いうちに強く交わるでしょう」
          「で、ですけど、ここのところずっといたちごっこが続いてて……」

           

           一瞬だが超然とした占いの様子とは打って変わって、元の空気に戻ったその落差に順応しきれない千鳥。簡単に受け入れられない楽観的な結果は、これまでに辿ってきた足跡が否応無しに否定してくる。
           雪は、ただの物となった簪を帯に刺すと、苦笑いを零した。

           

          「そうねえ、今までずっと探してきたんですものね。だったら、ご加護を授かるのはどうかしら。この近くには、縁を象徴するメガミのお社があるの。きっといい出会いを用意してくださるわ」
          「なる、ほど……うーん」
          「ほら、私が失せ物探し得意なのも」
          「あぁ……それは――そう、ですね。行ってみるのも、いいかもしれないですね」
          「でしょう!」

           

           両手を合わせ、喜んだ雪は、身を乗り出して千鳥の手を掴んだ。思わぬ動きに顔を赤らめた千鳥へ、やや声の調子を落とした雪が、目を合わせて念を押すように言う。

           

          「いい? 縁っていうのは、途切れたようでも繋がってるものだけど、途切れないと思っていてもぷっつり切れてしまうものよ。こうして見えない糸を手繰り寄せてここまで来れたんだから、あと一息、頑張ってね」
          「は、はい……」

           

           よし、と千鳥の手を軽く一叩きすると、雪はいそいそと下駄を履いて座敷から降りた。

           

          「じゃあね。お姉さんにはきっと会えるわ」

           

           そう告げるなり、千鳥が呼び止める間もなく、夕日に燃える町並みに消えていった。
           残された千鳥は、手に残った感触に強く染み付いた、彼女の忠告と根拠のない励ましを反芻していた。

           

          「縁、か……」

           

           握られた彼の手は、拳となるではなく、宙の先にある何かを掴んでいた。

           

           

           

           


           里を出てから何度もやってきたことを、義務であるかのようにこなす。山を越えてすぐにある以上、それはただの確認でしかなかったが、この村にも千影の足跡はあった。
           問題は、そこから先をどう辿るか、であった。

           

          「…………」

           

           落ち葉まみれになった森の細い道を黙々と行く。頭上は開けており、明らかに人の手が入っている道だったが、それは過去のことらしい。人通りが一定以上あれば、道はある程度勝手に綺麗になるものだが、伸びた雑草が人気のなさを物語っている。
           果たしてこれが本当に社に繋がる道なのか、千鳥は懐疑的であった。けれど、自然と前に出る足は、それを手懐けているようにさくさく動く。

           

           雪と別れた翌日、調査を済ませた千鳥は、いくつか生じた可能性に頭を悩ませることになった。素直にここからさらに北に向かうか、それとも東寄りに向かうか、ここはちょうどその分岐となる地域であった。
           都合が悪かったのは、大きな街道を間近に控えたところで、彼女はそんな場所に痕跡を残すわけがないということ。更なる地道な調査が求められた中、千鳥の脳裏に第三の選択肢が現れたのは自然な成り行きだった。

           

           無論、忍の調査手法としては下の下でしかない。けれど、何も千鳥は投げやりになったわけではなかった。雪の言葉の端々から受け取った確信めいたものが、力ある予感となって彼を後押ししたのである。
           きっとそれが、縁なのだろう。そう、千鳥は納得していた。

           

          「ふぅ……」

           

           そして、うら寂しい森の中にぽっかりと空いた場所に、彼は目的のものを認めた。
           ちょっと駆け回るにしても手狭な空間には、今まで通ってきた道と同じく落ち葉が敷き詰められている。そこから生える、枯れ木色の物体は二つ。一つは、忍であれば一息で登れてしまいそうな、小さな神座桜。そしてもう一つは、神錆びたと言うべきか、素直に朽ちたと言うべきか判断に迷う、小ぢんまりとした古い社。

           

           社の前に立った千鳥は、格子戸の向こうに、そこだけ色を塗ったように鮮やかな朱の番傘が開いた状態で置かれていることに気づいた。その傘に守られるように、男子と女子を模した人形がちょこんと立っている。

           

          「……なるほど」

           

           確かに、ここは雪の言うとおり、縁のメガミの社に違いなかった。
           神座桜もある。社がある。御神体と思しきものもある。
           けれど、そのどれもが、千鳥にとっては後付けの理由にしかならなかった。

           

           彼を納得させた何よりの要素は、どろりと膿んだような気配。
           背後から現れたそれは、あまりにも唐突でありながら、ここにあるのが自然だと彼は不思議と受け入れていた。
           その気配は、どんなに濃くなっていたところで根幹は変わっていない。驚きはしたものの、人となりをよく知る彼にとっては、そうなっていてもおかしくなかった、と身構えていた可能性が実現しただけである。だから、振り返らずとも、それがそうなのだと、分かった。


           心中、名も知らぬメガミに感謝してから、告げる。

           

          「会いたかったよ、姉さん」

           

           触れるだけで窒息してしまいそうな殺気を纏った少女が、そこにはいた。

           

           

           


           闇昏千影。毒を得手とする忍であり、ミコト。そして、闇昏千鳥の、実の姉。
           数年越しの再会は、ひどく静かで、困惑にまみれ、けれど殺伐としていた。ただ一つ確かなのは、歓喜の涙などこの場には到底似合わないということだ。

           

          「なん、で……!」

           

           この開けた境内の入り口で、千影は一人で目まぐるしく血相を変えていた。一方の足は今すぐ逃げようと来た道を向いているし、もう一方の足は一刻も早く千鳥に襲いかかろうと力を溜めている。左手など、既に小刀を抜いている始末である。
           外套越しに何かを守るように握りしめた右手以外、千影のあべこべな感情は出口を見失っているような有様であった。
           けれど千鳥は、そんな姉を見て、一言、

           

          「よかった……」

           

           全身傷だらけでも、この世全てを敵視しているような澱んだ目つきであっても、死んだと言われ続けてきた大事な人が、こうして生きている。確信が事実に成った安堵が、彼の口からこぼれ落ちたのだった。

           

          「そんなになって……なあ、帰ろう? 姉さん。ずっと心配してたんだよ?」
          「ど、どの口がそれを……」
          「どの口が、って……里の皆もしんぱ――」
          「ふざけないでぇッ! どこ!? いるんでしょう!?」

           

           引き絞るよう悲鳴は、それが怒声と分かっていてもなお狂気を感じさせてやまない。
           千影の殺気は、千鳥だけに向けられたものではない。葉の落ちた細い樹だらけで、隠れられる場所もろくにないというのに、警戒心を存在しない伏兵に向けている。

           

          「いないよ。俺一人で来た」
          「嘘言わないでください。……ああ、囮を買って出るなんて、随分立派になったんですねそういうことだったんですね。それとも、それくらいしか能がないってことなんでしょうかきっとそうに違いないです。里の連中に自分から利用されるなんて、愚かで可哀想な千鳥……」
          「どうしてそんなに皆のことが信じられないんだよ! 何があったんだよ!」

           

           その力の篭った声に、びくり、と千影は肩を震わせる。それは、千鳥にそこまで強く反論されるなど露ほども思っていなかったというような、意外からくるものだった。
           ただ、

           

          「大変なことに巻き込まれても、里の皆で助け合う。それが一番合理的だから。……昔、あんなに俺のことうすのろっつった癖に、忘れたのかよ!」
          「じゃあ――」

           

           すっ、と。千影から、表情が消えた。
           あまりに多くの感情が渦巻いた結果、何を表現すべきか制御できなくなった故の、無表情。
           その声もまた、色がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

           

          「声が聞こえないんですよ。なんとかしてくださいよ」
          「声?」
          「声……声ですよ。ホロビ……なんで、どうして、私に語りかけてくれないんですか。なんで、ホロビはどこにもいないんですか。いつでも、千影のことを見ていてくれたホロビが……ホロビがッ! いない、んです! 千影の……千影のホロビがっ、あっ、あぁ……!」

           

           湖底から汚泥と共に吹き上がってくるように、次第に悲嘆の色が戻ってくる。自分から口にしたというのに、そのことを思い出すだけで発狂しているようだった。何かを握る右手にさらに力が入る。

           

          「里の、連中なんかに……できることはありません。何か手があったとしても、ホロビに触れさせたくありません。きっと、千影が邪魔だから、ホロビからなんとかしようと考えてるに違いないんです。そうなんでしょう? そうなんですよね?」
          「ホロビ……って、あの死のメガミのことか? 姉さんのもう一柱が……」
          「そうですよ。あれぇ、おかしいですね。なんで千影のことを消しにきたおまえが、そのことを知らないんですか。いつもおまえたちは千影のことを見ていたでしょう。だから、この好機に事を起こしたんですよね分かりますよ、見逃せませんよね……」

           

           千鳥は思わず否定しようとして、できなかった。ここまでの会話で、生来の思い込みの激しさなどでは到底説明のできない、鬱屈に鬱屈を重ねて猜疑の泥まみれとなった彼女の荒廃は明らかである。それを覆せるだけの言葉は、すぐには出てこなかった。
           しかし、迷っている彼の様子に、千影は息を漏らすように笑うと、

           

          「知らないのも、無理はないかもしれません。千影はですね……利用されたんですよ、あの任務でね」
          「あの任務で……利用?」
          「どう処理されたのか知りませんけど、特秘でしたからね。あのとき、千影たちに求められていたのは、忍としての能力じゃなくて、命そのものだったんですよ。ふひ……ひひ、まさに今、千影の囮として使い潰されようとしてる、おまえのようですね」

           

           煽る彼女の笑い声を聞きながら、千鳥はあやふやながらも一本線が通った感覚に襲われた。
           千影を含む隊は、ある任務で命を落とした。それが、千鳥を含め里の皆が認識している事実である。
           彼は、姉の言うことを鵜呑みにして、彼女が怯える陰謀を信じた……わけではなかった。その陰謀が彼女をここまで追い詰めたのかと思うと千鳥は胸が傷んだが、逆に陰謀が幻であると信じられる根拠が、彼の今までの調査に散らばっているように思えたのだ。

           

          「違う、違うんだ姉さん。落ち着いて聞いてくれ」
          「な、何を言っても無駄ですよ。おまえは、敵の手の者なんですから」
          「いやだからそうじゃなくて……その、任務のことだ。姉さんたちが、咲ヶ原に向かったことまでは分かってる。当時の補給担当が教えてくれたんだ。……ひょっとして、陰陽本殿に行かなかったか?」
          「…………」

           

           沈黙は、肯定を示していた。その代わり、じとりと粘りつくような嫌悪の視線が、千鳥へと注がれる。

           

          「姉さんがさ。生きてる、って俺はずっと信じてたんだけど、最近陰陽本殿に行くことがあって……そこで、見つけたんだ」
          「それは……」

           

           急に懐を探り始めた千鳥に警戒を強める千影だが、彼が摘んで掲げてみせたそれを、訝しげに見つめた。常人では観察できるはずもない距離であるが、お互い忍である。手のひらに収まる程度のそれが、硝子の破片であることは彼女も理解できた。

           

          「……千影以外にも使ってる人はいますよ」
          「姉さんの、ってことは否定しないんだな」
          「…………」
          「俺が陰陽本殿に遣わされたのは、そこで何かが起きたかもしれないからだ。実際、大変なことが起きてた。姉さんの手がかりと一緒に、メガミの封印が解かれた痕があった。おあつらえ向きに、里のお偉い方はそれを聞いて、ある任務で起きた犠牲を思い出してた。……ああ、いくら俺でも、これくらいは考えつくさ」

           

           列挙していくうちに、千鳥の中で線が明確さを帯びていく。自分と姉を裂いた事象が、現在の自分にまで繋がっているのだと悟っていく。
           しかし、だ。彼は、そう育てられたが故に、どこまでも忍であった。
           毒々しい妄想よりも、根拠のある仮説のほうが支持し得るという根底の考え方は、変わらなかった。
           だから、彼には、その根拠を披露することしか、できなかった。

           

          「今、そのメガミへの対応で里は大わらわだよ。だとしたら、姉さんたちを嵌めて得するのは俺たちじゃなくて、他の――」
          「くくっ……ふ、ふふ……」
          「……?」

           

           下を向いた千影の顔は伺えない。我慢しきれずに出た押し殺した笑いが、千鳥の言葉を遮った。
           と、そこで千影の左手が閃いた。

           

          「――――」

           

           冗談のように軽い音は、千鳥の背後にある社の格子戸に、苦無が刺さったことを告げた。
           千鳥は、動かなかった。小さく歯噛みして、迷いなく当てる気のない一投を、甘んじて見送っていた。どれほど心身共に傷ついたところで、致命的に状況を変えてしまう選択肢は選ばないあたりが、やはり千影は彼の知る強い姉であった。
           ただ、彼女を真っ直ぐ見返した千鳥は思い馳せていた。彼一人であることは、そろそろ肌で感じている頃のはずなのに、嘘つきの千鳥を殺して逃げない理由を。

           

          「それで?」

           

           その一言は、繋がった糸を括り付ける頼りを失ったことを、否応なく示していた。
           千鳥の失敗は、説得も交渉も議論も、この場において無意味なものであるということを、差し込めた光明の中で見失っていたことだった。

           

          「姉さんを……助けられる、かもしれないんだよ……」
          「どうやって?」

           

           答えなんて期待していない、突き放した問が千鳥の胸に刺さる。
           もはや、どんな言葉も彼女には届かない。その無力さに、爪が食い込むほど拳が握り込まれた。姉を追うために鍛えたところで、その背中に触れることすら許されないのであれば、全ては無意味となってしまう。そんな失意が、千鳥にふつふつと湧き上がってくる。
           この想いが、拳の中で潰えることなく届けば、どれだけよかったのか。

           

           ふと、そこで千鳥の頬に、何かが当たった。
           はらはらと落ちていく、少しばかり硬質なそれは、社の脇に遠慮がちに生えた小さな神座桜の花びら、桜花結晶であった。
           それは実際の感触と違い、諭すように彼の頬に添えられた、温かい手のようだった。

           

          「……?」

           

           突然、右の拳を突き出した千鳥に、千影は困惑する。
           ……そして、続いて発された提案にも。

           

          「姉さんに、決闘を申し込む」

           

           拒絶で固く閉ざされようとしていた千影の口が、困惑を通り越して、呆気にとられたようにぽかんと開いた。見開かれた目は、目の前の弟の正気を疑うそれだった。
           けれど、手の甲を見せつけられた千影は、急に表情を引き締める。彼女の知る闇昏千鳥は、ミコトとして生まれてくることができなかった哀れな弟であり、手に宿る結晶を持つ一人の忍ではなかったのだから。

           

          「俺……死にかけたところを助けられて、ミコトになったんだ。それから、オボロ様とずっと修行して、一人で大切な任務も任されるようになって、色んな人とも出会って……落ちこぼれのときからは、何歩か、進めたと思うんだ」
          「覚束ない足取りで、ですかね」
          「はは、違いない。まだまだ未熟だよ。でも、未熟なりに成長もしてる。――姉さん、俺は、ずっとあんたのことを見返してやりたかったんだ。同じ忍で、今はミコト同士、同じ舞台に立ててる。見返すよ、きっと。俺は……そのために、姉さんに会いに来た」

           

           言葉の端々に頼りなさの滲み出すその宣言は、今の千鳥の精一杯。それでも、己の本来の目的を果たすためには、飾り立てたところで意味がないとも分かっていた。
           対する千影の反応は、苦笑だった。

           

          「お姉ちゃんも随分と舐められたものですね……」

           

           彼女から発される殺気は、随分と丸くなっていた。何より、きっちりと千鳥だけに向けられていた。いかに忍としての彼の説得が信じられなくとも、弟の真剣さと、伝わってくる力量を評価してしまう程度には、千影はまだ彼の姉だった。
           事あるごとに挑んできた生意気な弟が、時を越えて再び挑んできたならば、面倒であってもまたお灸をすえてやらなければならない。
           一歩。桜の影響下に入るように、千影が踏み出した。

           

          「ひひ……ホロビが助けてくれなくても、千影の技は活きてますよ? 勝てるなんて思ってませんよね思ってるわけないですよね」
          「姉さんの凄さは知ってる。だけど、勝ってみせる」

           

           構える両者の意思を認めたように、ざわり、と神座桜が揺れた。
           千影にとってこの決闘は、余計な傷を負うことなく、追手を振り払うために最適な手段。
           千鳥にとってこの決闘は、余計な傷を負わせることなく、納得させるために最適な手段。
           忍らしい理論武装は済んでいた。その奥で燃える数年越しの闘志は、純粋に腕を競う武芸者のようであり、ただ姉弟喧嘩のようでもあった。

           

          「闇昏千鳥、我らがヲウカに決闘を」
          「闇昏千影、我らがヲウカに決闘を」

           

           誰一人として観客の居ない勝負が、静かで強烈な踏み込みとともに、幕を開けた。

           

           

           

           


           目を閉じて、両手で耳を覆っていた女は、伝わってきたその始まりに、微笑みを作った。

           

          「これで、縁は途切れず、そして希望も……きっと、繋がった」

           

           


           この決闘の結末を語るなんてのは、野暮だからよしておくことにしよう。
           一つ言えるのは、これによって闇昏姉弟の物語は無為な絶望に終わらなかったということ。
           か細い縁が縒り合わせた縁のメガミの導きのおかげで、僅かな希望は繋がったんだ。
           ……そう、この再会だけでは、幸福な結末を誰も保証してくれやしない。
           彼らにとっての真の戦いはここから始まる。その活躍に、ご期待いただこう。

           

           さあ、再会を祝したところで、時間を戻すとしよう。
           瑞泉驟雨の計画が花開いた後……影のように広がりゆく支配に、天音揺波たちが抗う時へと。

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

           

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          『桜降る代の神語り』第44話:縁途切れず

          2017.12.08 Friday

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             ところで、君は分かるかな? 血を分かつ者同士は、どこか通じ合っているなんてことを。
             カナヱはいまいち実感が沸かないのだけど、人々の歴史はちゃんとそれを示している。
             闇昏千鳥が得た予感は、もしかしたらそんな繋がりからもたらされたのかもしれない。
             すなわち――彼の姉である闇昏千影が、今危険な状態にあるのだと。
             故に、彼はオボロの許しの下、里を離れていたというわけさ。

             

             しかし、一人の人間が同じく一人の人間を探すには、この地はあまりに広すぎる。
             闇昏千鳥は諜報員としての忍の知識を用いて情報を集めていたが、結果は芳しくなかった。
             これから少しばかり、そんな彼の旅路を追うことにしよう。

             

             

             


            「おおい兄ちゃん、あの女と知り合いなんかい!? あんまりおっかねえもんだから酒落として割っちまったでねえか、どうしてくれんだ!」
            「あー、あー! すみません、とりあえず離してください……!」

             

             白昼の路地裏、禿面の男の言いがかりをつけられた千鳥は、苦笑いを浮かべる。僅かに酔っていた男に寄りかかられるように胸元を掴まれていた。
             強引に引き剥がすこともできたが、千鳥はわざとらしく相手の手に手を合わせ、やんわりと押し返す。男はまだ聞き分けがあったようで、渋々それに応じようとしていたが、そこでふと何か気づいたように動きを止めた。
             彼の手のひらに押し付けられたものの感触は、冷たく、丸く、硬かった。

             

            「ほら……ね? その人のこと聞かせてくれたら、それで飲み直してくださいよ」
            「へっへっへ……なんだよ、よくわかんねえけどいいやつだなおまえ!」

             

             笑みを浮かべた男はそそくさと袂に硬貨を落とし込む。しかし、語り始めた男の顔は、対価があってもなお嫌そうだった。

             

            「でもよぅ、思い出すだけで鳥肌が立つってもんだ。不気味でしかたねえんだもの。全身ぼろぼろだし、血はこびりついてるし。あんまりにもひどいんで、馬にでも蹴飛ばされたのかと思ったんだけど、んなわけあるめえってのが、あのドブ底みたいな目よ」
            「直接話した人はいます?」
            「ばっ――あんな死人みてえな女、誰も怖がって近づきゃしねえよ! 本当はオレだってまだ怖えんだよ、裏通り使うのは」

             

             言葉を続けていくうちに、実際に鳥肌が立ったようで、大げさではなく男は身震いしていた。それが、決して酒の席で不吉な噂を語ったときのような態度に収まらないことを、千鳥は実感していた。

             

            「な、なあ……やっぱりもういいか? なんだか祟られちまう気がしてきた……」
            「じゃあ最後に、その女の人がどこに行ったかわかりますか?」

             

             そう問うと、男は路地の奥を顎で指して、

             

            「そこ、左に抜けるとぼろの空き家があるんだが、そこに入ったのを見たっきりだ。えーと、三日前だな。あとは知らねえ! じゃあな!」
            「あっ……」

             

             表通りに駆け出していく男の足取りは、酔いが醒めたかのようにしっかりとしていた。よほど恐ろしかったのだろう。
            諦めたようにため息をついた千鳥は、情報を整理しながらその空き家へと足を向けた。

             古鷹山群でのすれ違いを起因として始まった、姉・千影の追跡調査。あの現場には誰もが認められる証拠はなく、確かな証言も得られず、勘違いであってもおかしくはなかったが、既に掴んでいる情報だけでも、予感を裏付ける結果をもたらしている。
            足がかりとなったのは、あの現場周辺から見つかった足跡であった。途中に生活の痕跡を残しながらも森の外に続いていたそれを辿り、今度は人々の証言を頼って追っていった。

             

             幸いにして、千鳥の記憶の中の千影の姿を頼ることなく、不審な女という情報だけですぐ目撃者に行き当たった。襤褸の外套と、やけに上半身が厚い忍装束は昔から変わらないようで、以降はその外見情報も合わせ、町の日陰者を中心に聞き込みをした。
             結果、彼女は怪我をした身で北寄りに移動していることまで判明している。彼女を知る千鳥としては、里から離れるように真東に向かうか、忍の手の薄い北に向かうか、どちらかだろうと踏んでいたので、裏付けされた形となる。

             

             ただ――

             

            「……まあ、だよな」

             

             空き家を覗いた千鳥は、もぬけの殻になっていることを確認した。気配から分かってはいたことだが、姉ならば一処にいるはずもないだろう、という確信が彼に納得感を与えていた。

             足取りを追い続けてはいるものの、未だ千影本人には出会えずじまいである。かなり酷い怪我をしているのは明らかなのに、足を止める様子がない。ただ、野垂れ死んでしまうのではないか、という危惧を千鳥は抱かなかった。むしろこのほうが、姉らしい、とすら考えている。
             しかし、理屈の上ではいくらも納得できる材料が揃い始めている中で、待望の再会に向けて胸を躍らせる余裕を千鳥は持てないままでいた。

             

             一言で言えば、異常。
             目撃者の多くは、風体や怪我よりもなお、彼女の纏う空気の異常さを印象づけられていた。
             千影が常より鬱々とした人間であったことは弟である千鳥はよく覚えている。けれど、証言からできあがっていく彼女の形は、鬱屈を煮詰めたような負の感情の塊のようで、それがずっと彼の不安を掻き立てているのだった。

             

            「次は……そうか、山を越えないとか……」

             

             歯がゆい進展に頭を掻きながら、支度を整えるべく空き家を後にする。
             それでも彼の視線は、どこかにいる姉の背中へ、しっかりと注がれていた。

             

             

             

             


             山道は、森の中で生まれ育つ忍にとってよほど険しくなければ障害のうちに数えられない。獣すら通らない道なき道を駆ける彼らの中で道は、人が通ることを考えられているか否かでしか測られないのである。

             

            「今日中に抜けられるかな……」

             

             よく晴れた山道を苦もなく行く千鳥。登り始めたときには強引に斜面を駆け上がって時間の短縮を図っていたが、今は荷車の轍も見受けられる、行商人も使っていると思しき道に出ていた。ちょうど開けた場所で、山のこぶとこぶの狭間に位置しているようだった。
             土地勘がそうあるわけではない千鳥はこれを幸いと、太陽の位置を確認しながら、頭の中の地図に情報を書き入れている。

             

             もう昼の頃合いとあって、小休止を挟もうかと思案していた千鳥であったが、それを後押しするように水の流れる音が彼の耳をくすぐった。走り通した後に川で顔を洗う気持ちよさは格別である。肩に掛けた荷の中の飯を食うならそこしかないと言えた。
             そうやって期待に胸を躍らせていると、彼の視界に断絶した道と橋が――正確には、その支柱が、彼の視界に映った。

             だが、

             

            「だっ……だれかー!」
            「……!」

             

             この山間に不釣り合いな女の声が聞こえてきたのは、まさしくその橋のあたりからだった。
             慌てて駆け寄った千鳥は、足を止めざるを得なかった。
             否、そもそも、

             

            「橋が……!」

             

             谷間に渡されていた吊橋だったものは、途中でちぎれたように両岸の崖にべったりと張り付いていた。山肌に走った幅二丈はあるかという亀裂を目で遥か下に追っていけば、ところどころ水面から岩が顔を出す川の流れがあった。
             無論、落ちたらひとたまりもない。
             そしてそれは当然、対岸で垂れる橋の残骸にぶら下がる、青い着物の長い黒髪の女にも当てはまる。

             

            「大丈夫ですか!?」
            「あ、えっと……あんまり、大丈夫じゃあ、ないかもー!」

             

             女の助けを求める声はいまいち緊迫感に欠けており、こんな状況であっても、顔も未だ見えない彼女が普段からおっとりとしているのだと伝わってくる。ただ、混乱して暴れるのが一番危険なので、その点判断は冷静なのではないか、と千鳥は考える。

             

            「今助けます!」

             

             状況をすぐさま整理した千鳥は、荷を対岸まで放り投げると、やや助走をつけ、真っ直ぐ崖に向かって駆け込んだ。そして、ためらうことなく踏み切り、跳んだ。忍にとって、もちろん彼にとっても、この程度の距離は道具を用いるまでもない。
             無事着地した彼は、荷の中から鉤付きの縄を取り出し、手頃な樹と己を手早く結んだ。それを頼りに、橋の落ちた崖に乗り出す。

             

            「引き上げます、捕まってください!」

             

             半ば崖の側面に立つ格好となった千鳥は、覗いたとき以上に迫力のある谷に息を呑み、縄を握る左手にいっそう力を込めた。
             幸運なことに、女の捕まっている橋の残骸は、千鳥が来たほうよりも短かった。伸ばした手は、女の繊細な右手を掴んだ。

             

            「ゆっくり行きましょう! ……いいですよ、その調子!」
            「はぁ……ふぅ……」
            「最後、一気に行きますよ! せーのっ!」

             

             崖の上に、己の身体ごと女を引っ張り上げた千鳥は、倒れ込んできた身体の重みに、無事救出したという実感を得た。忍の任務は班で行うことも多く、これよりなお厳しい条件での訓練もあったため、そういったものも含め修行の成果が出たことに安堵したのである。

             

            「あぁ、よかった……」
            「いたた……」
            「怪我はありま――」

             

             ただ、彼女の様子に伺おうとした千鳥の言葉は、それどころではない重大な事実によって妨げられた。
             仰向けになった千鳥の上には、体重の全てを預けてくる女の身体がある。女は千鳥に覆いかぶさるような格好となっており、その顔は千鳥の胸板を枕にしており、何より、千鳥の腹部には柔らかい感触のものが二つ、押し付けられていた。
             彼のあらゆる思考が吹き飛び、ちょうど目鼻の先にあった彼女の簪の造形を目で追うことしかできなくなっていた。

             

            「まさか、橋まで落ちるなんてねぇ……」

             

             顔を上げた女と、目が合った。
             柔和な雰囲気を纏った彼女が、悪戯めいて小さく笑った。
             そこが千鳥の限界だった。

             

            「わぁぁぁぁっ! ごめ、ごめんなさいぃぃ!」
            「……?」

             

             顔を真っ赤にし、女の下から這い出た千鳥が、そのまま腕だけ使って猛然と後ずさりする。その様子がおかしかったのか、伏せたままの女はさらにくすくすと、口元に手を当てて笑っていた。
             女の身なりも仕草も、こんな山の中にいるのが不自然なほどに整っている。立派な屋敷の玄関で、指をついて出迎えてくれるような、そんな佇まい。そして、命の危機から脱したばかりとは思えない超然とした態度が、千鳥に一瞬、今起きたことすら忘れさせていた。

             

            「面白い子ね、ふふ」

             

             暴れた髪をまとめた女は、穏やかに千鳥へ笑いかけた。

             

             


             こうして、闇昏千鳥は一人の女と出会うことになった。
             君のことだから気づいたかもしれないけれど、もちろん彼女は普通じゃあない。

             彼女が何者で、そして何を想うのか。闇昏千鳥は、闇昏千影は、どこへ至るのか。
             出会いから導かれる一つの結末にご期待あれ。

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第三巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME

             

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