『桜降る代の神語り』第64話:瑞泉驟雨

2018.09.14 Friday

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     因果は巡り、その果てで天音揺波と瑞泉驟雨は向かい合う。
     もはや前置きはいらないだろう。
     その決戦を、今ここに語ろうじゃあないか。

     

     

     

     


    「よく来てくれた、天音揺波」

     

     端に笑いを乗せつつ、瑞泉はゆったりと立ち上がる。
     余裕をひけらかすような態度で待ち構えていた彼であったが、その装いはくつろぎとは程遠い。丁寧になめされた革の外套は彼の全身をすっぽりと覆っており、足袋を履いた足元と何も持たぬ手先、そして不敵に笑う首より他は、濃い飴色で塗りつぶされている。

     

     そんな瑞泉に、揺波は何も応じない。
     彼女の靴底が、一歩、敷居をまたぎ、畳を噛んだ。

     

    「遠路はるばる西から東へ、さぞかし大変だっただろう。それとも、我が城にたどり着く道のりのほうが険しかったかな? 息もつかせぬ侵攻の手立てには興味をそそられるが、まずは私の下までやってきたその意気を称えようじゃないか」

     

     いつの日かを繰り返すように、拍手の音が短く響く。
     そんな瑞泉に、揺波は何も答えない。
     彼女の瞳が、間断なく見渡していた空間全体から、瑞泉へと向けられる。

     

    「もちろん、退路へ振り返らなかった君の勇猛さもまた、称えるべきものだ。……なあ天音。君の切り札、あと何枚残っている?」

     

     せせら笑う彼は、つい先程階下で何が起きたのか、その目で見てきたようだった。
     そんな瑞泉に、揺波の奥歯がギリ、と軋む。
     彼女の手が、懐より取り出した神代枝を砕き、眼前に放った。

     

     天音揺波という存在が、戦いに向ける想いは単純だ。執着、歓喜、恐怖ーーそれら全ては、己が勝利することに紐付けられている。彼女にとって、戦いの相手とは勝ち負けとそこから生まれる想いを共有する同胞以外に大きな意味を持たなかった。
     だが、古鷹との望まぬ戦いを経て、自分の大切なものを目の前の男によって歪められた揺波は、ある感情を覚えていることに気づいた。

     

     殺意。
     勝敗を越え、喜怒哀楽も越え、生まれて初めての感情が、心の底からふつり、と湧いていた。神代枝の軌跡から引き出すように顕現させた斬華一閃は、限界を超えてむしろ凝縮された彼女の感情を代弁するかのように、鋭利な煌きを放っている。

     

    「ふっ……構わんよ。やろうじゃあないか。楽しい楽しい決闘を」
    「……っ!」

     

     桜もなければ、宣誓もない。
     偽りの決闘を終えた矢先に始まるのは、決闘でもなんでもない。
     一歩、踏み出したそれが、戦いの始まりを告げる合図だった。

     

     

     

     

     


     空間を切り裂くのは、鉛の塊だった。
     眼前にあてがった結晶の盾が、それを外側へと弾き、砕けた。

     

    「はッ!」

     

     次弾を撃つまでの一瞬の隙をついて、脚を前へと踊らせた揺波は、右の耳の傍を小さな何かが高速で駆け抜けていった感触を、その場に置き去りにした。
     瑞泉がまず構えたのは、ヒミカの情熱の炎で弾を撃ち出す銃だった。揺波にとってその炎は、燃え上がる城や里を想起させるものである。しかし今の彼女が考えるのは、久しぶりに見たその銃口に、身体がきちんと追いついているということだった。
     何より、今の揺波にはあのときになかったものがある。

     

    「行って!」

     

     指示するように左手で瑞泉を指し示すと、ざわめきをもって集まってきた桜の光の球たちが、一つの流れを作って敵へと殺到せんとする。目の前に厚い結晶の壁を作り、弾丸の雨の中で揺波も同時に間合いを詰める。
     龍ノ宮はあのとき、間合いを詰められきったと理解するや武器を持ち替えた。
     遠距離戦を挑んでくる相手を前に、揺波ができることは唯一つ。いかに少ない犠牲で己の得意な近接戦に持ち込ませるか、ということ。二柱がどちらも近距離が苦手ということは考えにくい以上、近接武器を持ち出させるのが初手の狙いだった。

     

    「おぉ、怖い」

     

     先に襲いかかった光の奔流を前に、瑞泉はその頭に角のついた兜を顕現させた。威力を減衰させられた桜の光たちは、無念とばかりに周囲の空間に溶けていく。
     銃と兜。その二つの力を確認した揺波は、守りの力ごと打ち砕かんとする気概で刀を握る手に力を込める。
     そして、至近距離で脅威が少ないことが露呈した相手の腹を切り払おうとした。
     だが、

     

    「な……!」

     

     瑞泉の身体が、後方へ浮いた。
     決して飛び退いたというわけではない。桜の光に頭を押さえつけられている以上、予備動作なしに躱すことなどありえないはずだった。ヒミカの力による爆風を利用したのかと一瞬疑うが、そのような音は聞こえない。

     

     視点を少しずらした揺波は、現象の理由を知る。
     瑞泉の背中から、猛禽を思わせるような翼が一対、生えていた。
     人間のものではない。けれど、ヒミカのものでも、ミズキのものでもない。
     三柱目の力に、揺波の身体が僅かに硬直する。
     さらに、

     

    「そうら」

     

     つい、と瑞泉が優雅な手付きで虚空を押しやった。
     それに連動するのは、逃げる瑞泉を追うべく意識を再び前に向けようとしていた揺波の全身であった。
     意図とは逆に、後ろへ跳んだのだ。

     

    「あっ……」

     

     刹那の間に得た感覚は、御することのできない浮遊感と、少しの脱力感。
     無防備ーーそんな言葉が彼女の脳裏をよぎった瞬間だ。
     仄暗い部屋のはずなのに、影が揺波を覆った。
     身の丈ほどもある巨大な鉄槌が、破壊の二文字となって側面から迫っていた。

     

     突然でこそあるが、再度の懐かしき光景に揺波の戦闘勘はすぐさま最適解をーーすなわち、力の奔流を吹き荒らすことによって、威力を低減させる策を呼び起こす。
     けれど、

     

    「ぇーー」

     

     でない。あの嵐が、出せない。
     それが、自らの内に流れる力が、先程の脱力によって滞っているためだと理解したときには、もう遅かった。

     

    「ぉ、ごぁ、ぁッ……!」

     

     暴力をまともにその身に受けた揺波が、畳の上を跳ねるように転がされる。せめて腕で頭への直撃を避けられたことだけが救いだったが、体内の結晶をかき集めてあてがってもなお身体の芯を揺さぶる衝撃に、一度、立ち上がり損ねた。
     なんとか瑞泉を正面に構え直すと、彼は鉄槌を虚空に還しているところであった。背中の翼も消えており、狐につままれたようですらある。

     

    「どうした?」
    「くっ……!」

     

     それでも揺波はもう一度前へと踏み出す。狙いをつけさせないように複雑に距離を詰めるその足捌きは、衝撃の余韻を全く感じさせない。
     間合いに入った揺波は、攻めを組み立てるための牽制として、踏み込みながらも次の流れを意識した斬撃を見舞う。
     対して瑞泉は、手にしていた銃で刀をそらす。そこまでは揺波の想定内であったが、問題なのは彼の手の軌跡から、黒い霧がもうもうと湧き出たことである。

     

    「……っ!」

     

     海玄が繰り出してきたあの不吉な霧だ。
     意表を突かれるものの、彼女にとってはただの目くらましでしかない。その向こう側に消えたとて、刃が防がれるわけでもないことは、先程の戦いでそれこそ嫌というほど思い知っている。
     瞬く間に視界を塞ぐ霧へ、揺波は下から右上へややすくい上げるように刀を振るう。ちょうどそれは瑞泉の下腹を捌くような高さであったが、海玄のときのような嫌な手応えは一切なかった。

     

     空振りという結果を理解する間もなく、黒い霧の中に、白んだ黄色の光が走った。
     バリ、バリ、と。
     まさにそれは雷雲。不吉さの果てに、大自然がもたらす破局が待っているような、そんな無慈悲な力の発露を感じさせる天蓋。
     そこから突き出された爪は、その天の力たる雷を纏い、揺波に迫った。

     

    「ぐ……」
    「ふははっ!」

     

     身を捩り、背中から倒れ込むようにして躱そうとするが、迅雷は揺波の左肩に三筋の痕と僅かな痺れを残す。
     本来ならここから、悪い体勢を立て直すべくわざと転んで跳ね起きる手もあった。だが、揺波にとって近接戦に持ち込むことは本望であり、そのための傷は厭わない。ここでは少しでも距離を詰めたままでいることが、彼女にとっての正解であった。
     ここを逃すことは、勝機を逃すことと同じーーその直感が、揺波に食いとどまらせるだけの力を発揮させる号令となる。

     

     背後に流れそうになった左足を杭を打つように踏ん張り、振り抜いた状態の右腕を、無理やり上段になるよう整える。左手を添えるだけの余裕はないが、勢いをつけるために無駄にする部位は一つもない。
     踏ん張ることで溜め込んだ力を飛びかかる力と変え、爪を繰り出した瑞泉を袈裟斬りにする。それが、現状可能な、最大の反撃であった。

     

    「ぅ、ぐ、あぁーー」

     

     だから、その力を解き放つために、揺波にそれ以外のことを対処する余裕など、ありはしなかった。いや、執念によって無理を通そうとしている中、余裕を残していたとしたら、全ての力を賭すという決断に偽りがあった、ということでもある。
     故に揺波は、結果を先に知ることになる。

     

    「ーーあ……?」

     

     左足の踏ん張りが、突如として効かなくなった。
     蓄えていた力は後ろへと抜け、勢いよく左足だけが持ち上がる。それにつられ、身体は逆に前へとーー瑞泉のいる側へと倒れ込む。

     

    「まったくーー」

     

     瑞泉の言葉と共に、揺波は脚を撫でる冷ややかな空気の存在を知った。
     そして、前へ傾ぐ視界は、彼女の足元だけが凍りついていることもまた、教えてくれた。
     爪の顕現を解いた彼が、その手に無骨な金属の拳を宿したことも。
     その鉄拳が、万全の踏み込みによって、振るわれることも。
     ……己が、無防備であることも。

     

    「愉快だ、なァッ!」
    「が、ぁ……!」

     

     顔面を襲った衝撃に、揺波の思考が一瞬飛んだ。
     殴り飛ばされた身体を止めようと、戻った思考は斬華一閃を突き立てることを選んだ。しかし、揺波が秘めた力ごと衝撃が吹き飛ばしてしまったかのように、ろくに入らない力では、畳の縁で止まった刀身に掴まり切ることができず、手を離してしまう。

     

    「あ……ぅぁ……」

     

     どうにか片膝で立ち上がり、斬華一閃を掴もうとする揺波であったが、その手は空を切る。見れば、斬華一閃の刀身は端から淡い光と消えていくところであった。
     神代枝の効果が切れた。
     ただ、揺波にとってそれそのものは、重要視するような出来事ではなかった。
     今の打撃により、揺波は結晶を全て失った。その事実の裏から囁いてくる敗北の存在に、瑞泉を睨む気力が無尽蔵に湧いてくるようだった。

     

    「は、はははっ! なんだその有様は。無敗のミコトが聞いて呆れるな」

     

     そんな彼女を見下ろしながら、嗤う瑞泉。
     と、鉄拳を含めた全ての武器の顕現を解いた彼だったが、左脇のあたりから着ていた外套の一部がはらり、とめくれ落ちた。

     

    「おっと……避け損ねたか」
    「それ、は……」

     

     わざとらしく肩をすくめる瑞泉とは対照的に、揺波が目を見開いたのは、彼のその外套の下にあるものを目にしたからであった。

     

    「気になるか? まあ、破れたままというのも不格好だからな」

     

     そう言って外套を脱ぎ捨てた瑞泉が纏っていたのは、奇怪な鎧であった。
     護りというにはあまりに隙間が多すぎるその鎧は、木を纏っている、と表現したほうが近いような代物で、身体の線に沿って幾本の木が蔦のように柔軟に張り付いて形を成している。
     そして最も目を引くのが、胴や袖、草摺にあたる部位に、いくつも埋め込まれた歯車である。当然のようにそれらは回転を続けているが、全体で揃っているということはなく、部位ごとに固有の時を刻んでいるようだった。

     

    「まさか……」

     

     揺波にとってその意匠は、今まで瑞泉が繰り出してきた理不尽な攻撃に、ある悪夢のような説明をもたらすのに十分なほど示唆的であった。
     揺波は、分かっていたはずだったのに、その理解でも不十分だったのである。
     これが、ただの戦いであるということを。
     この世を覆そうとしている者に、予断を持ってはならなかったのだと。

     

    「そうだ。これは君の想像通りのもので違いない」

     

     見せつけるように胸を開いてみせた瑞泉は、

     

    「知っての通り、複製装置はメガミの力を引き出すことのできる道具だ。君が使われたことがあるのは……<雫>に<滅>、それに<焔>といったところかな。ああ、架崎と浮雲を忘れていた。<空>に<雷>、それと<氷>もだな」
    「…………」
    「私は、それらの複製装置を扱うことができる。同時に、だ。正確には、それら『も』と言うべきだな。<護>、<巌>、<力>、<算>、<顎>、そして<忍>……計十二の複製装置を適切に連結し、内包したこの鎧があれば、私はその全ての力を使いこなすことができるのだよ」

     

     そして、彼は告げる。

     

    「これぞ名付けて、 神帯鎧 かみおびのよろい

     

     優越感に浸る瑞泉の言葉は、揺波にとって絶望の追認でしかなかった。一人を相手にするミコトにとって、想定外のメガミの技はそれだけで脅威である。それが十二柱分ともなれば、苦境は筆舌に尽くしがたい。
     その数のメガミが被害を受けているという現実は、揺波がここに立っている意味をさらに強めるものだ。けれど、どれほど背中を押されようとも、流れた涙の分だけ敵が強大になっている事実は変わらない。

     

     まだふらつく身体の回復を待つように、揺波は疑問を投げかける。

     

    「それも、クルルってメガミが、作った……ものなんですか」

     

     深く考えず、湧いた言葉をそのまま発しただけの問いに、瑞泉は失笑を漏らした。

     

    「この鎧はな。瑞泉の技術の粋を集め、クルルの閃きを分析し、そして私が最大限に活用できるように作り上げたものだ。メガミからの幸を待っているだけの我々ではない。侮ってもらっては困るな」
    「…………」

     

     てっきり、発明のメガミとやらが全ての謎の現象を生み出しているのだと思っていた揺波は、敵ながら瑞泉のことを評価せざるを得なかった。
     彼女には複製装置自体の使い勝手は分からない。けれど、特異な状況とはいえ最近ようやく二柱の力をそれなりに扱えるようになった経験から、複数のメガミの力を使いこなすことを容易いと断ずることはできない。
     彼もまた、天才であり、努力を重ねた達人ーーそう、認識を改める。

     

    「で……もう終わりか?」

     

     歩を進め、窓からの景色を眺める瑞泉の声は、せせら笑うそれだ。それに混じっていささかばかりの期待が込められているのを、揺波は感じ取っていた。
     待っていてくれるのであれば、それでいい。
     いくら下に見られようとも、息を整える時間には代えられない。
     結果こそが全てなのだから。

     

    「まだ……まだっ……!」

     

     回答と、次の神代枝が砕かれたのは同時だった。
     斬華一閃を手中に顕現し直し、屈んだ体勢から弾かれたように飛び出した。

     

    「そうこなくては!」

     

     愉悦を表す瑞泉が手を掲げる。それを合図として、彼の背後からいくつもの氷の礫が揺波へと吹き付け始めた。指先ほどの大きさからこぶし大のものまで、険しい北の吹雪よりもなお険しい道程が、彼女の前に広がった。
     小さいものであれば、当たろうが無視するだけだ。けれど、堪えるには大きすぎる氷塊には回避を強要され、思うように前へと進めない。

     

     さらに、胸元に迫った礫を、刀を小さく合わせて断ち切ろうとしたときである。
     礫がいきなり軌道を変え、揺波の腹部に突き刺さった。

     

    「う、ぐ……!?」
    「計算外という顔だな?」

     

     見れば、雹の届かない遠くに佇んでいた瑞泉は、その手に持った算盤を弾いていた。
     指が珠を弾くたび、氷の礫がぐにゃりと進路を変える。なまじ視認できる速度だからこそ追っていたそれらが揺り動かされ、回避と防御の狭間で脳が悲鳴を上げ始める。
     結局、眼前に斬華一閃を掲げ、意識を脅かす致命的な一打だけを防ごうとするも、計算を狂わせる珠算がある限り、状況を覆すための一手を計算することも難しい。

     

     そして、刀では防げない脚へと礫が迫ったときだ。
     無理やり前方への脱出を図ろうとした揺波は、視界の端できらめく何かを見咎めた。

     

    「ーーっと……!」
    「惜しい」

     

     差し込む月光を受け、足元で怪しく光るのは、極細の鋼線で編まれた迷宮。
     結晶の盾も構えずに勢いよく一歩を踏み出そうものなら、脚をずたずたに切り裂かれているところであった。味方を罠に巻き込んでは本末転倒だ、と忍の里で見せてもらっていなければ、気づかず術中にはまっていただろう。
     もちろん、回避を中断した揺波の脚を、前進する意志をくじくように硬い氷塊が打ち付ける。

     

    「い、っ……」

     

     肩代わりされてなお襲ってくる鈍い痛みに、けれど揺波は乱された先を見出していた。
     割合あっさりと至近を許した先ほどまでとは打って変わって、今の瑞泉は近づくことすらも許さないような立ち回りを演じている。それを叶えるだけの豊富な攻撃手段には舌を巻くしかないが、その変化が揺波にとっての鍵だった。

     

     焦り。保身。
     からかって野良犬に手を出したら、噛まれてしまったような、そんな心変わり。
     怯えるほどではないのだろう。けれど、疎んではいる。
     危険を自ら招くことを思いとどまった彼の真意ーーそれは、その危険が命を脅かす、取り返しのつかない失敗の元であると認識したためだ。

     

     海玄同様、彼もまた、その身を守る桜花結晶を持たない。
     どれだけ多くのメガミの力を扱えたとしても、斬りつけられれば死が待っている。
     見た目よりも遥かに遠くなった彼我の間合いは、そのまま瑞泉の命の残量だ。

     

     近づいて、致命の一撃を浴びせるーーそれが唯一にして最短の解である。
     揺波の本能は、それ以外の一切を切り捨てることを、己に許した。

     

    「斬華六道・羅」

     

     それは、自分への号令のようなものだった。
     今まで氷の礫に耐えながら、鉄の糸をいかに越えようと画策していた揺波が、目の前に広がった困難を断ち切るように、虚空を両断した。張力を失った鋼線がゆらめき、力なく畳へ落ちるが、宙に渡った細い光がなくなることはない。
     だが、

     

    「斬華六道ーー餓」

     

     

     斬華一閃を正眼に構えた揺波は、そのままの姿勢で前へ飛び出した。
     残った鋼鉄の糸に己の脚を引き裂かれても、構うことなく。
     軌道を変えて横殴りに飛来した氷の礫に打撃されても、構うことなく。

     

     天音揺波の桜花決闘は、勝利への道筋があるのなら傷を負うことも躊躇わない、そんな執着を体現する戦いである。
     しかし、これはもはや、決闘に勝つための戦い方ではない。
     ただただ目の前の敵を斬ることだけに特化した揺波は、己の内で燃える意志を賭すために、保身のための計算すらも打ち捨てていた。
     勝利という結果ではなく、斬り伏せるという目的にこそ、全神経が注がれる。

     

    「む……」

     

     変化を捉えたのは瑞泉もまた同様だった。淡々と猛進の足音を刻む揺波の気迫に、思わず表情を歪める。
     彼は礫の弾幕では不十分と見て、背中に生やした翼で宙へ浮かぶ。さらに、周囲に水球と黒い霧が出現し、それでも足りないと見てか、両側面に角を生やした、護りの象徴たる桜色の兜までをも顕現させる。

     

     瑞泉の判断は、正しい。
     今の揺波は、どれほど妨げられようとも、止まることはない。

     

    「ああぁぁぁぁッ……!」

     すぐにやってくるであろう痛みを覚悟するように、雄叫びを上げながら揺波は躊躇することなく瑞泉の守護領域に飛び込んでいく。
     まず、文字通り冷や水を浴びせるように、水球が揺波に向かって弾けた。ただ、彼女を襲ったのは刺すような冷たさではない。じゅう、という音が身体のあちこちから生じ、結晶で負担しきれなかった皮膚がひりついた痛みを訴える。

     

     酸の飛沫を抜けた矢先、次は黒い霧が彼女の腕にまとわりつく。込めていた力が、霧散してしまうかのように端から気力ごと抜けていくようだ。
     一気に前へ跳躍することで振り切るが、瑞泉へ肉薄したにも関わらず、一拍、斬華一閃を振るう手が遅れる。
     羽ばたき、剣戟を避けた瑞泉は、ついでとばかりに今一度大きく翼を動かした。

     

    「ふんッ!」
    「……っ!」

     

     生み出された強烈な風が、獲物を捉えそこねた揺波を押し返そうとする。
     しかし、そこで踏みとどまった揺波は、跳躍と共に鋭い突きを瑞泉の顔めがけて繰り出した。

     

    「あァッ!」

     

     高低差を物ともしない神速の一撃に、体捌きを満足に行えなかった瑞泉は、高度を下げながら顎を引くことで、切っ先を兜のある頭へずらすことを選択した。硬い感触に弾かれた斬華一閃が、誰もいない天を向く。
     加えて瑞泉は首を捻り、角に斬華一閃の刀身を巻き込んで床へ叩き落とそうとする。
     けれど、突然揺波の得物は、光と散った。

     

    「……!」

     わざと還した顕現武器を見送る間もなく、無事着地した揺波。その間際、もう一度顕現させなおした彼女の目は、瑞泉をーー彼に浴びせる一太刀を、もう見据えていた。
     高度を落とした瑞泉に覆いかぶさるように、揺波は再び跳び上がる。
     繰り出すのは、いくつもの勝利を得てきたあの技。たとえこれが決闘ですらない、泥にまみれるような戦いであろうとも、切れ味に不安があろうはずもない。

     

    「つき、かげっーー」

     

     生まれて初めて、ただ斬るためだけに、刃は振り落とされた。

     

    「おとおぉぉぉぉしッッ!!」

     

     

     対し、

     

    「チッ……!」

     

     瑞泉の兜がさらに光を強め、彼を囲む光の城壁が即座に展開される。回避不能と判断した彼は、真っ向から防御することを選んだ。
     壁は、揺波の刀を受け止めた。
     一瞬の静寂の後、衝突の余波が四方八方に撒き散らされ、爆発したかのように部屋の調度や畳、天井が吹き飛んでいく。

     

    「ううぅぅぁぁぁッッッ!!!!}
    「ぐ、ぐぅ……!」

     

     爆心地での拮抗は続く。刃は、確実に壁に食い込んでいた。
     最初の衝撃の余波を耐えきった双方だったが、両手で叩き込むように刀を押し込む揺波のほうが、重さを威力に転じられる分有利だった。無論、己の力を、そしてメガミの力を燃やし尽くさんと刃に乗せた爆発力は、高さ程度に左右されるものではない。

     

     もはやそれは、斬るというよりも、力をぶつけると表現するべき一撃だった。
     真っ直ぐに放たれたそれが、瑞泉の守りをじり、じり、と粉砕していく。
     そして、ダメ押しとばかりに意気を込めた。

     

    「はぁぁぁ……ーーァァァッ!!」
    「な……!」

     

     光の城壁が、崩れ落ちた。
     威力の大半を減衰させられながら、守りを打ち砕いた斬華一閃のその向こうに、むき出しになった瑞泉の顔がある。

     

    「くそ……!」

     

     地に引かれるように吸い込まれていった刃は、咄嗟に出された瑞泉の左腕によって致命の一撃とはならなかった。篭手の部分に据え付けられていた歯車たちは、主の身を守るようにして破壊される。
     ただ、繰り出した月影落の威力はそこで全て使い果たしてしまった。腕を断ち切って胴に届かせる余力はもうなく、揺波の身体はあとは無防備に着地するのみとなった。

     

     そこを見逃す瑞泉ではない。
     すぐさま鉄拳を右手に顕現させた彼は、邪魔だとばかりに城壁の残骸を踏みしめ、揺波の腹部を目一杯の力で殴り上げる。

     

    「はァッ!」
    「ごっーー」

     

     打点をずらすこともろくに叶わなかった揺波は、自分の結晶が全て吹き飛んだことを悟った。衝撃に、打点から身体が浮き上がり、打ち払われた斬華一閃が消滅する。


     けれど、揺波の瞳から光が失われることは、やはりない。
     この好機に、彼女の意志が叩き潰されることは、ない。

     

     強靭な意志をもって、両の脚をしかと床に着けた揺波の手は、迷うことなく次の神代枝を砕いていた。
     懐から抜き払うように掴み取った斬華一閃を手に、

     

    「やあぁぁァァァッ!」

     

     全力の守りを打ち砕かれた瑞泉へ、斬りかかる。
     ……それで、終わるはずだった。

     

    「……!?」

     

     大上段に振り上げた手が、動かない。
     後ろから、腕に巻き付けられた縄のようなもので、引っ張られているような感触。

     

    「やれやれ……その執念、恐ろしいにも程がある」

     

     冷や汗を流す瑞泉が、その言葉と共に深く息をつく。
     揺波の手には、影の茨が巻き付いていた。
     この城に到着するなり、襲ってきたあのメガミの茨が、腕に、身体に、脚に、瑞泉への進撃を妨げるかのように、絡みつく。

     

    「ウツロに力を貸しておいてもらって助かったな。この鎧でもまだ足りないとは」
    「はな、してっ……!」
    「だが、それももう終わろう」

     

     す、と掲げられた瑞泉の右手が、天を指す。
     衝撃波によって崩壊していた天井を越え、その指先は、星空の中、次第に集まってきた黒い雲を示していた。

     

    「天雷よ」

     

     

     それは、天の怒りを示すように。
     それは、天の嘆きを示すように。
     雷鳴轟く暗雲から、数多の雷撃が揺波へと落とされた。

     

    「が、あぁ……」

     

     己の内側から何度も焼かれるような痛みと痺れに、結晶の絶対的な不足が脳裏をよぎる。神代枝を使ったばかりだろうと、このまま打たれ続けては、心の前に身体が焼ききれてしまう。
     必死の抵抗で後ろ手に茨を何本か断ち切る揺波。そしてすぐさま、神代枝を納めていた帯の中へと手を伸ばす。

     

    「ーーーー」

     

     絶句。
     さらなる守りを求めて伸ばした手が、あの感触を得ることはなかった。
     与えられた神代枝は、すでに使い果たしてしまっていた。

     

    「ははは、ははははッ! 万策尽きたか、天音揺波……!」

     

     その哄笑に見返す手段はない。
     頭上で轟く雷鳴が、彼女の終わりの刻を告げているようだった。

     

     

     

     

     


     急な制動によって速度を得た剣の鞭が、空間を食い破るように現れた影色の壁に吸い込まれていった。
     悠々と攻撃を無力化したウツロが大鎌を振るえば、威力がそのまま飛来する影の刃という形となって、サリヤへと襲いかかる。

     

    「く……ぅぁッ!」

     

     無理やり舵を切って、地を這う刃を紙一重で躱す。
     サリヤの息は荒い。蛇のような姿に変形したヴィーナ自身の兵装のみならず、自らも剣ととって傷を負わせようと試みていたものの、実態はこのような一方的な展開の中、辛うじて踏みとどまっているというのが現状だった。

     

     千鳥も佐伯も倒れ、ジュリアを下ろすという非常手段に出てもなお状況が好転する兆しは見えない。遠くから破壊を撒き散らすウツロに対して逃げ回り続けるのは至難の業で、背後に負傷者がいては行動はさらに制限される。

     

     あとはもう、サリヤの体力が尽きるのを待つばかり。
     さしものジュリアも、倒れる佐伯の傍で絶望に瞳を濁らせ始めた、そのときだった。

     

    「ここは私がーー」

     

     突如、風のように場を駆けた白と青で彩られた人影が、ウツロへと肉薄する。
     大鎌の柄に抑えられたその一薙ぎは、八相の構えから振り落とすような薙刀によるもの。

     

    「お相手、します……!」

     

     激突による衝撃が場に広がり、ギリギリとした膠着が生み出される。
     闖入者たるサイネに、緩慢な動きでウツロの視点が移された。

     

    「メガミ……? 面倒。でも……」

     

     形を持たない鎌の柄を、ウツロの小さな手が、さらに強く握りしめられる。

     

    「負けない……!」
    「望むところですッ!」

     

     注目を引きつけられたと悟ったサイネは、一撃を防いだ柄の上で刃を素早く滑らせ、刀身側を握っていたウツロの右手を離させる。そこから振り戻した刃を間断なく繰り出し、ウツロを攻撃の渦中に縛り付けた。
     と、突然の出来事に理解が追いついていないサリヤに、場違いに能天気な声が呼びかける。

     

    「サリヤさぁーん!」
    「ヘイタくん!? じゃあ……!」

     

     腕を抑えながら駆けつける楢橋に先行して、忍装束に戻った千影と藤峰が負傷者の運搬と手当にあたる。予定されていたメガミ救助班の面々が、援護として到着したのだ。
     主が気が気でなかったサリヤは、ウツロと激しくぶつかりあうサイネをよそに、ジュリアの下へとヴィーナを走らせる。疲れから、安堵なのか、制御しきれずに一同の集まった傍にある塀に機体の端を軽くぶつけてしまう。
     そんな彼女の様子を見て、千影が蓋のついた小さな竹筒をサリヤに投げて渡す。

     

    「飲んでください。気休め程度ですが」
    「あ、ありがとう……」
    「ほら、千鳥も。寝てたら巻き込まれて死にますよ」

     

     朦朧とした意識の千鳥の口へ、薬液を無理やり突っ込む。同じような有様になっていた佐伯は、千鳥よりは軽症のようで、増えた面々にきちんと焦点を合わせ、薄く微笑んでいた。
     そんな中、現れた希望にすがりついたのはジュリアだった。

     

    「カミシロノエは……カミシロノエは、アリマセンカ!?」

     

     結果を見守ることしかできなかった彼女は、ぼろぼろになった従者たちに心を痛めていた。その痛みが、状況を少しでも改善できる力を持つ、己の生み出した道具を求めて止まない。
     だが、言い寄られた藤峰は、首を横に振った。

     

    「エ……」
    「すまない、こちらもなくなった。ただ、メガミを一柱、救出に成功した。助力も快諾してくれた」

     

     藤峰の険しい視線は、奮戦するサイネへと移り、そして天守の頂へと注がれた。

     

    「どうにか時間を稼ぐしかない。天音の勝利を祈って……」
    「ソンナ……」

     

     か細い希望に顔を伏せるジュリア。メガミの助けが得られても、ウツロの強さを目の当たりにしてしまった彼女は、決して現状を楽観視できない。謳われし存在としてウツロを認識する藤峰たちであればなおさらである。
     ただ、首の皮は一枚だろうと繋がっている。彼らの勝利条件は、ウツロの打倒ではなく瑞泉驟雨の打倒なのだから。

     

     そのためには、捨て身の覚悟でウツロを止める必要も出てくるだろう。
     だが、

     

    「がッーー」

     

     そんな決意を挫くように、空色の矢が一本、藤峰の右の太腿に突き刺さった。
     被弾の衝撃に藤峰が倒れ、苦悶の表情を浮かべる。血管を著しく傷つけたのか、鮮やかな血が傷口からわらわらと溢れ出してくる。

     

    「あ、ぐぁ……!」
    「キャァァッ!」

     

     目の前で血を見たジュリアの悲鳴をよそに、武器を持つ者は臨戦態勢に移る。
     その中でも千影は、矢の特徴に忌々しげに舌打ちを一つ鳴らすと、油断なく苦無を構えながら上空を見上げた。

     

    「浮雲……!」
    「相変わらず不景気な面晒してるじゃない、闇昏」

     

     夜空に映える、空と桜を混ぜ合わせたような色合いの翼。矢を放った残身をゆるりと解きながら、その場で羽ばたく浮雲は千影を見つけて嘲笑う。
     その余裕は、決して高度の差だけから来るものではなかった。二人、三人、と同じ翼を生やした者たちが、空を駆けて浮雲に並び、手にした弓に空色の矢をつがえる。

     

    「うそ……。だって……!」

     

     呆然とするサリヤの目には、外側から風を纏って塀に乗り上げてきた男たちの姿が映っていた。
     増援。援軍。
     土石流によって兵力を分断したこの作戦は、その妨害を敵軍が乗り越えるまでの時間で決着を着けることが大前提であった。少数精鋭の侵攻は、隠密行動と小回りのよさに利点を置くが、多勢に無勢という状況だけは避けなければならなかった。

     

     だが、浮雲の率いてきた兵たちは、着実にその数を増やしている。大軍というほどではなく、足の速い限られた人員であることは予想できるが、それでも手負いでメガミの力もないサリヤたちを制圧するには十分と思われる数である。
     そして何より、一度決壊した堤防は、その亀裂から洪水を吐き出すもの。
     奇襲によって稼いだ優位は、もう失われ始めていたのだ。

     

    「ち、ちちちち千影ちゃん? お知り合いなんだったら、せめてオレっちだけでも見逃させてくれない……?」
    「…………」

     

     黙殺する千影の目がせわしなく動く。目的を果たしきれていない彼女に、この現実はあまりに酷だった。
     そして、

     

    「……!?」

     

     天が唐突に唸りを上げ始めたかと思うと、ガガッ、ガガッ、と稲光が轟音と共に千影たちの目を焼いた。
     天雷は、瑞泉城の頂に降り注いでいた。
     痛みに歪んでいた藤峰の顔が、なお蒼白なものと化す。

     

     月明かりに浮かぶ、浮雲の壮絶な笑みが、声に出さずとも彼我の関係を物語っていた。
     絶体絶命にして、唯一の希望も光に焼かれた。
     誰もが言葉を失い、降りた沈黙に、遠く、メガミ同士の剣戟の音だけが慰みのように響いていた。

     

     

     

     

     


     しかし、このような絶望の中で、密かに笑みを湛えていた人物がいた。
     哄笑を響かせる瑞泉でも、獰猛に笑う浮雲でもない。
     この場において、その笑みに気づいた者はおそらくいなかっただろう。

     

     そして、彼だけが、その声を聞いていた。

     

    「機は熟しました。今がその時」

     

     最初に反応したのは、人の理を超えた二柱。次いで千影と浮雲が反応し、後の者は彼女らの動向を追うようにそちらへ目を向けた。


     その刹那ーー

     

     轟、と。
     世界が壊れるような音が、全員の身体を震わせた。

     

     

     

     

     


     命を取り合うような泥臭い戦いに、反則も何もあったものじゃあない。
     無敗で知られる天音揺波も、十二の力の前にはこうして膝を折った。
     瑞泉驟雨は決して大言壮語を吐いていたわけではなかったということさ。
     こうして彼女らは敗れ、物語は絶望で終わった。

     ――と、締めくくるのはまだ早いようだね。戦場に響いた轟音は、果たして……?

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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    『桜降る代の神語り』第63話:影の中枢へ

    2018.09.07 Friday

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       闇昏千影らのひとつの戦いが終わった以上、もうひとつの戦場へと舞台が移るのは必然だ。
       しかし、先程垣間見せた危機……そこから物語を紡いでも難解に過ぎるというものだろうね。

       

       ここはひとつ、時を遡るとしよう。
      闇昏千影らが研究所へと潜入してからおよそ一刻ーー天音揺波らが瑞泉城へと到着したそのときから始めるとしようか。

       


       空に、怪鳥が舞っていた。
       立派な双翼を生やしたヴィーナは、揺波たち五人を乗せて夜の空に威容を示していた。とはいえ、人気の少ない河の方角から飛んできたこともそうだが、非常識極まりない謎の飛翔物相手に地上が騒がしくなるということはなかった。
      だが、誰もが見間違いで済ませようとした怪鳥は、瑞泉城の敷地へと突き刺さるような姿勢で、地面に引きつけられつつあった。

       

      「みんな備えてッ!」

       

       大気を裂く音に負けじと声を張り上げるサリヤに、ぎゅっと抱きつくジュリア。後部の臨時座席に残りの三人がしがみついている状況だが、地面への進入角度の深さは軟着陸とは程遠い。
      もはや激突待ったなしの状況で、真っ先に飛び降りたのは揺波だった。そこに顔を青くした千鳥と佐伯が続き、各々土に塗れながらも大地に立つ。
       そして僅かに遅れ、ガンッ! とヴィーナの車輪が地面に打ち付けられた。

       

      「……っ!」

       

       着地の衝撃は、間に合わせでしつらえた後部座席を破壊し、勢い余って地面に着いた翼の先端をばらばらにしてしまう。しかし、乗っていたサリヤとジュリアが投げ出されることもなければ、ヴィーナ本体はサリヤの求めに応じて、きぃと叫びながら車輪の回転を必死に押し留めており、あっという間に速度を減じさせていた。

       

      「大丈夫だった!?」

       

       瞬く間に体勢を立て直したヴィーナを駆り、生身で降りた三人の下へと近寄る。ジュリアは衝撃に頭を揺らされたようで、サリヤの背中でややぐったりとしていた。ガシャリ、ガシャリ、と軋みを上げながら、翼が元の位置に格納されていく。
      最も土汚れの少ない千鳥が、冷や汗をかきながら、

       

      「あの、なんというか、もうちょっと優しい感じに着陸とか、できたら嬉しかったなーなんて……」
      「ごめんなさいね。ここまでの運用をしたのは初めてだったから……」
      「あ、いや……! みんな無傷みたいだし、それだけで十分ですよ! こうして、予定通り城に乗り込めたわけだし」

       

       そう言う千鳥が見上げるは、敵の居城であった。
       一行が降り立ったのは、城へと続く門の前の広場であった。塀に囲まれているという圧迫感こそあるが、人間を百人単位で並べられそうなほど広い空間だ。今は衛兵の類の姿は見えず、降り立った五人だけである。

       

      「すぐに誰かが駆けつけてくるでしょう。急がないと」
      「ですね。目の前に降りられてよかっーー」

       

       佐伯の言葉に同意する揺波であったが、突然その言葉を自ら遮った。
       そして佩いた刀に手をかけると、

       

      「……! 避けてッ!」

       

       

       短い警句を発し、遮二無二その場から離れようと駆け出した。他の者も、揺波に従って即座に散開する。急発進したヴィーナの唸り声だけが、一行から上がった悲鳴のようだった。
       揺波が感づいた現象は、足元から発露していた。地面に落ちた夜闇から溢れ出した影色の茨が、生ある者を中に引きずり込もうとするように揺波たちに追いすがっていたのである。

       

      「な、なんだこれ……!?」

       

       塀の上に退避した千鳥は、それでも延々追ってきた茨がようやく諦めた様子を見て、不本意にも荒げた息を整える。
      結果として、茨に飲まれた者はいなかった。走って振り切ることができる程度には、この空間が広かったのも幸いだっただろう。斬っても手応えのないそれに、揺波もひたすら距離を取る他なかった。

       

       と、唐突に湧いた敵意ある現象に喘ぐ中、佐伯の口からこぼれ落ちたそれは、絶望であった。

       

      「最悪だ……」

       

       彼の視線の先にあるもの。
       それは、影だった。
       薄く開いた大きな門から、身を滑り込ませるようにして姿を晒していたのは、人の形をした影に灰をかぶせたような少女。その特徴はもとより、夜闇の中にあってなお、門の篝火に淡く照らされてもなお、目を離すことができないほど重くのしかかる圧は、彼女の正体を皆に悟らせる。

       

       ウツロ。瑞泉に与する、強大なメガミ。
       作戦中最も恐るべき障壁が、今ここで現れたという事実に、揺波たちは息を呑んでいた。

       

      「うそ、だろ……だって……」

       

       呆然とする千鳥。ウツロという大きな脅威に対しては、オボロが何かしら対処の手配を進めているはずだった。だが、札がまだ切られていないのか、それとも無駄だったのか、判然としない中でなおさら後ずさる足を止めることはできない。そしてそれは、サリヤの乗るヴィーナもまた同様だった。
       初めてメガミの威圧感に晒されたサリヤは、背中の主をウツロから隠すよう、咄嗟に向きを変えながら後退させた。自然と佐伯に並ぶ形となったが、彼は小さく震える指先で眼鏡の位置を直していた。

       

       存在するだけで気圧されるというのに、とつ、とつ、と歩いて向かってくるウツロの姿は悪夢でしかない。不幸なのは、これが現実の出来事ということ。一同は恐れから、それぞれ得物を構える。


       あとはただ、蹂躙の開始を待つばかりーーそう、誰もが覚悟していた。
       たった一人を除いては。

       

      「天音……!?」

       

       驚愕する千鳥の視線の先で、揺波は彼とは逆に、一歩を踏み出していた。
       千鳥が声を上げた理由はそれだけではない。
       揺波の刀は地面を向き、戦いに挑む気迫は欠片も見当たらなかったのだ。

       

      「ウツロさん、ですよね」

       

       静かで、およそ敵に対するものとは程遠い、語りかけるような声色。その誰何に、ウツロは立ち止まり、ややあってから僅かに首を縦に振った。
       以前とは違い、少しでも反応があったことにほっとした揺波は、

       

      「あのときは、結局答えてくれませんでしたね」
      「…………」
      「どうして、こんなことに手を貸しているんですか?」

       

       古鷹の舞台での邂逅。そのときに投げかけた疑問を、もう一度繰り返す。

       

      「そんなこと訊いてる場合じゃーー」

       

       やきもきしていた千鳥が一見無駄な揺波の行いを止めようとするが、それに佐伯が静止の手を向ける。揺波はそんな彼らに目礼する。
       その様子も、ウツロはただ黙って眺めるだけだった。
       揺波はさらに、言葉を重ねる。

       

      「ウツロさんが瑞泉に手を貸す理由だけが、どうしても分かりませんでした。酷いことを喜んでやっているようには見えない。でも、嫌々従ってるようにも見えない……ぽわぽわちゃんも、わたしも、ウツロさんが悪いメガミだとは感じられないんです」

       

       自らの内に宿る幼きメガミと意志を共にするように、緩く握った左手を胸に当てる。
       そして、真っ直ぐな問いを、彼女へ向ける。

       

      「ウツロさんは……何が、したいんですか?」

       

       それが、揺波がウツロを知るための道の途中、何故、を考えた果ての行き止まりにあった疑問だった。
       じっ、とウツロは変わることなく無感情なまま、揺波を見返していた。
       はっきりと。己に向いたその意志を、揺波の瞳の中に見出すように。

       

       ただ、それも長くは続かない。
       揺波から目をそらしたウツロは、そのまま目を伏せてしまった。初めて揺波が目にした、もっともらしいウツロの意志であったが、なんと声をかけたらいいものか迷ってしまう。
       と、

       

      「……ない」
      「え……?」

       

       闇に溶け込んでしまいそうな小さな声を、揺波の耳が捉えそこねた。
       ウツロは目線を落としたまま、今度はもう少しはっきりと、言葉を作った。

       

      「私は、ないの。何も、ない。空虚。私がしたいことは……何もない」
      「何もない、って……」

       

       予想外の答えに詰まる揺波。
       しかし、「でも」と続けたウツロは、前掛けの端を甘く握りながら、

       

      「負けたらだめ。それだけは、感じる」

       

       相手や具体性に欠けた物言いに、揺波は戸惑いながらも問いを重ねていく。

       

      「負けたら、って……何に、どうして……?」
      「分からない。でも、私が言ってるの」

       

       何故だろうか。ウツロの示す自身は、どこか自分とは違う誰かを指しているように聞こえた。

       

      「負けるのは嫌。負けるのは怖い。もう……私がなくなるのは、嫌……!」

       

       

       ぎゅっと、その手が握りしめられる。それは、今までの彼女の態度からは想像できないほどに強い、感情の発露と言って相違なかった。
       万人を恐れさせる側の存在が、恐れを抱いている。その事実は成り行きを見守っていた佐伯からして感覚を裏切られたようで、眉をひそめて疑いの視線をウツロへと注いでいた。

       

       一方で、揺波が作ったのは、笑みだった。
       分かりあえるものが見つかったという、安堵の笑みだ。

       

      「負けたくない……分かります。わたしも負けるのは嫌です。今までずーっと、決闘で負けてきませんでした。これからもずーっと、勝ち続けたい……負けたときのことなんて考えられないくらい、わたしも負けたくなんてないです。一緒ですね」

       

       共通項を頼りに、対話を続けていく。ウツロへの理解の先には、手と手を取り合う未来だってありえる。現状の悲惨さを憂う気持ちはもとより、ホノカと交わしあったウツロへの印象は、瑞泉に与しないよう説得できる可能性を無視できるようなものではなかった。
       だが、

       

      「……話しすぎた」

       

       緩く頭を振ったウツロは、拒絶を形と成した。
       飲み込まれそうな敵意と共に、彼女の手に影の大鎌が現れたのだ。

       

      「だから、ここでも負けられない。……消えて」
      「……わたしだって、負けませーー」
      「馬鹿か天音! 貴様が張り合ってどうする!」

       

       今度こそ、佐伯が揺波を止めに入った。勝ち負けが示す結末を想うまでもなく、付け加えられた物騒な台詞は武器を構え直す理由としては十分すぎた。
       経緯も理由もどうあれ、目の前のメガミは敵。
       結局、その現実は変わらなかったのだ。
       そして何より、ここはまだ大命を遂げるための道中なのである。

       

      「そ、そうだよ! ここで天音が消耗しちゃうのは流石にまずいだろ! 瑞泉のために温存させないと……」
      「で、でも……」

       

       千鳥の意見は、ウツロ相手に足止めを買って出ることを意味している。
       逡巡する揺波であったが、サリヤたちも千鳥に追随するように、

       

      「ユリナちゃん、ここは私たちに任せて!」
      「先行ってクダサイ! ダイジョブです!」

       

       計画通り、最も高い戦力を誇る揺波を大将の下へ送るべく、戦闘能力を持たないジュリアでさえも、重圧に負けないようウツロに敵意を向ける。
       揺波の逡巡は、大局に向け直された意志に飲まれ、消えていった。

       

      「はいっ……!」

       

       ウツロから大きく距離を取るように、門へと駆け出す揺波。幾ばくかの名残惜しさを覆い隠すように、警戒心を最大にまで高める。それを援護すべく千鳥たちは身構えた。
       けれど、千鳥の構えた苦無が、宙を裂くことはなかった。
       ウツロは、動かなかったのだ。

       

      「え……」

       

       不思議に思いながらも、無傷で門の向こうへと消えていく揺波。
       それを背に見送ってか、ウツロは残る四人に向き直る。

       

      「アマネユリナは、いい。でも、あなたたちは、通せない」

       

       門を遮るように立ち位置を変えた彼女は、その体躯とは対照的に、圧倒的な存在感を持つ門番と化した。

       

      「忍、覚悟は決めたか?」
      「なーに、これでも子供の扱いは慣れてるんだ、任せてくださいよ」

       

       煽る佐伯も、軽口を叩く千鳥も、謳われしメガミを前にして口は全く笑っていない。
       それはサリヤも同様だったが、ジュリアだけは心なしか口端が歪んでいた。

       

      「サリヤ、出し惜しみムヨウです!」
      「はい……! ――I AM THE SERPENT, I CURSE YOU...」

       

       サリヤの操作に応じるように、光を孕むヴィーナ。先程までのように翼を生やすのではない。光に包まれているのはヴィーナの前半分と後部座席である。
       うつ伏せになった人間が膝立ちになるかのように、前輪が軸を折り曲げるように中心にまで移動し、代わりにサリヤたちの座席が鎌首をもたげるかのように持ち上げられる。そして後部座席は、爬虫類を思わせる尻尾のように伸ばされていく。

       

      「TRANSFORM FORM:NAGA!!」

       

       宣言と同時、突き出た操縦席の前面が、双眸のように赤く光る。

       

      「…………」

       

       しかし、それでもウツロは動じることはなかった。
       戦力にして、一柱対三人。
       どれだけ武装を揃えようとも、その対比が意味するものは、無謀。

       

      「ん……」

       

       ウツロの手にした鎌が、希望を刈り取る形となって、四人に向けられる。

       

       

       

       

       


       抜刀したまま城内を進む揺波だったが、その刀が振るわれることはなかった。
       人が、いないのだ。

       

      「こっちかな……」

       

       気配がないわけではない。けれど、敵陣に突入した段階になって、行く手を阻む者が一向に現れないというのは不気味ですらあった。来たこともない大きな城ということもあり、差し込める月明かりといくらかの行灯だけという薄暗さも相まって、抱えていたはずの強い意志が端から少しずつ削れていくようだ。
       上階にいると目される瑞泉は、襲撃を冷静に受け止めている節があるように揺波には思えた。ウツロが通してくれたこともそうだが、どうにも誘われているようでならないのである。

       

       揺波を招き入れる理由ははっきりとしている。揺波が宿すホノカーー瑞泉曰く、ヲウカの力を手に入れるためだ。彼が古鷹の亡骸を前に語った内容は、未だ揺波の中で消化しきれていないものの、彼の究極の目的のために必要とされていることだけは理解している。
       万全の状態で瑞泉と会敵できれば最上だ。けれど、たとえそれが叶ったとしても、だからこそ一筋縄ではいかないような気がするのである。

       そんな不安を抱きながら、階段を一つ上りきったときである。

       

      「ようこそ、天音の娘」
      「……!」

       

       いきなりかけられた声に、咄嗟に刀を向ける。
       その先ーー大人が二人、並んで両腕を広げてもなお余裕がありそうな廊下に、枯木のような老人がぽつんと佇んでいた。薄闇ということもあって、どきりとしてしまう光景である。
       紋付袴姿の彼に、揺波は見覚えがあった。ただ、大家会合で見たことがある、というところまでしか思い出せず、次第に眉をひそめていく。
       そんな彼女の様子に、かか、と笑った老人は、

       

      「まともに覚えとらなんだか。ーー儂は瑞泉海玄。息子の驟雨が世話になっとる」
      「あ、はい……天音揺波です」

       

       一応名乗り返す揺波は、少しばかりやりづらさを覚えていた。
       海玄は、確かに彼女の行く手を阻むように立ちはだかっている。けれど、今にも飛びかかってきそうな気迫は感じられない。しかし一方で、それをただ、老人だから、の一言で済ませられない剣呑な空気だけが、揺波に刀を構えさせている。

       

      「あの……通してもらえたりは……しませんか?」

       

       ウツロの例もあり、期待がなかったかというと嘘になる。
       ただ、海玄はその問いをまるっきり無視し、

       

      「儂はな。これでもメガミ様は敬うべき存在だと思うとる」
      「え……」
      「なんだその意外そうな顔は。まあ、言いたいことは分かる。驟雨のやつがやっていることは、罰当たりも甚だしい。メガミ様に害をなすなぞ遺憾の極みよ。よもや儂がそれに加担する日が来るとは思わなんだ」

       

       だが、と海玄はほくそ笑んだ。

       

      「儂は敬虔なメガミ様の信徒である前に、一人の父親だ。息子が野望を成り遂げようとしている姿を、どうして夢見ずにいられようか!」
      「な……!」

       

       絶句する揺波。その価値観の差は、嗤う海玄との間で明白だった。

       

      「そ、そんなことでみんなを……!」
      「そんなこと? おぉ、おぉ、よりにもよって天音の者に謗られるとは。近年稀に見る野心家だった天音がなあ」
      「わ、わたしは、別に……」

       

       否定する揺波に、海玄は口端を吊り上げる。

       

      「何も揺波、お前さんのことを言ってるわけじゃあない。今は父親の話をしているんだ。……そう、時忠殿だ。ある意味、あやつも儂と同じだったと思わないか? 野心はあった、だがそれ以上に……揺波、お前さんの才能に夢を見ていたんだよ、あれは」
      「違う……お父様を、あなたたちなんかと一緒にしないでっ!」
      「くかかかっ!」

       

       挑発だということは理解できていた。けれど、海玄の言葉に真意しか含まれていないこともまた、理解できてしまっていた。
       もはや言葉を交わすことは無意味だった。ウツロにはまだ希望があったが、海玄は違う。あまりに違う方向を向いている以上ーーいや、自身というものを横に置いてなお、瑞泉驟雨が目指す先を見ようとしている以上、戦いは避けられそうにない。

       

       しっかりと、切っ先を海玄へと向ける。いかに枯れた身体であろうとも、若手のミコトをなぎ倒す老齢のミコトなんて珍しくもないのだから、見た目で油断することはできなかった。
       けれど、海玄はその構えに待ったをかけた。

       

      「奥の手、あるんだろう? 使っておいたほうが懸命だと思うが」

       

       そう言うと海玄は、羽織を脱ぎ捨てる。
       その下に現れたのは、両腕に取り付けられた複製装置であった。骨ばった腕のせいで、まるで歯車が回るたびに活力が吸い上げられていっているような錯覚に陥る。

       

      「こいつはな、複製装置<雫>と<滅>ーー儂が宿していたメガミ様の力を引き出してくれる」
      「自分の……メガミを……」
      「そうだ。故に、その力の使い方は熟知しておる。くれぐれも、古鷹の芸人風情とは比べてくれるなよ」

       

       そして、と継いだ彼は、

       

      「双方がメガミの力を借りれば、それはもう桜花決闘に違いあるまいて。仕合いたいのだろう、お前さんは。その望みを叶えてやろうというのだ。もちろん、勝てば道を譲ってやろう。メガミの力も使わぬ小娘に、できるとは思えんがの。くくく」
      「っ……」

       

       歯噛みする揺波に、実質的に選択権はなかった。複製装置を使う相手に、メガミの力抜きで戦うのはあまりに厳しい。むしろ、戦闘中にどうやって使うか、という駆け引きの手間を省いてくれただけ、有情とも言える。……神代枝が、貴重な物資であることを除けば、だが。
       全てを分かった上で、彼は使用を強いている。
       そんな、自分の預かり知らぬところで整えられた舞台で行う決闘に、揺波は既視感を覚えてしまっていた。

       

      「ザンカ……ぽわぽわちゃん……お願い」

       

       言われた通り、神代枝を砕く。普段遣いの刀を納め、手に握り込むのは斬華一閃。その肉厚の刀身を掲げ、この決戦の地で唱えるはずのなかった誓いを口にする。

       

      「天音揺波。我らがヲウカに決闘を」
      「瑞泉海玄。我らがヲウカに決闘を」

       

       神座桜があるはずもない暗い城内で、異例の桜花決闘が幕を開ける。

       

       

       

       

       


       先に動きを見せたのは、海玄であった。一方で、彼の足は止まったままである。

       

      「…………」

       

       静かに様子を伺う揺波の視線の先では、一抱えほどもありそうな水球、そして不吉な予感を禁じ得ない黒い霧が、海玄の周囲を固めるように宙に揺蕩っていた。
       一歩、また一歩。じりじりと距離を詰める。
       水球は三つに増え、黒い霧も範囲を少しずつ拡大しつつある。そんな中、単身飛び込むのは蛮勇というものだ。
       故に、

       

      「む……」

       

       揺波は斬華一閃を手放し、虚空を掴んで振り抜かんとする。光と消えた刀の代わりに彼女の手に収まっていたのは、薄暗い廊下を照らすように淡く輝く桜色の旗だ。

       

      「やッ!」

       

       振るわれた旗は、その軌跡から煌く流れを生み出した。その輝きの一粒一粒は桜花結晶そのものである。
       勢いよく送り出された桜吹雪は、主の手の届かない間合いで泰然と構える海玄へと迫り、守りの一つであった水球がその身代わりとなって弾けた。
       ただ、それを攻撃の皮切りとしたところで、海玄の次の動きに虚を突かれる。

       

      「ふん……!」
      「……!」

       

       海玄は、顔をしかめながらも前へ踏み出したのだ。
       距離を保ちながらの戦いを志向するとばかり考えていた揺波は、さらに警戒心を高めながらも同じく前進を選んだ。

       

      「ほぅれ」

       

       その僅かな動揺を押し広げようと、海玄が浮かべていた一つの水球を源にして、鉄砲水が猛々しく揺波へと襲いかかる。
       揺波の勘は、足を止めてはならないと叫んでいた。後ろへと回避するのではなく、選択したのは防御だ。手首で旗を小さく振り落とし、生じた軌跡の光によって水流を防ぐことで進路を保つことで、さらに一歩二歩と間合いを詰めていく。
       得手とする距離に入った揺波の手に、再び斬華一閃が握られた。

       

      「や、ぁアッ!」

       

       浅く飛び込むような踏み込みと共に、鼻先をかすめるような斬撃が放たれる。近距離戦での先手をまず取りに行くような、流れの礎となる牽制じみた一撃だ。
       これに海玄は一歩足を引き、その身を黒い霧の中に隠すように躱した。近くで見る霧は意外なほどに濃く、手応えがないことだけが、有効打にならなかったという事実を教えてくれた。

       

       それでも、刃の届く範囲を脱されたわけではないことは、隠しきれていない足元が保証していた。
       だからこそ揺波は、霧の危険性を承知で、二の太刀を浴びせにかかった。
       不吉さを薙ぎ払うような、一閃ーー

       

      「はッ……!」
      「ぬ、ぅ……!」

       

       命中した。
       手応えは、間違いなく海玄を捉えていた。
       このまま何もさせずに押し切る……そう、意思を固めたほどには、気持ちがいいくらいの快打であった。

       

       だが……次の手を繰り出そうとする揺波の視界に、異物が映った。
       ばしゃり、と。床を濡らす水の音だけであれば、海玄の操る水のせいだと無視することもできただろう。
       その場で踏ん張る海玄の足元に、撒き散らされたソレ。

       

      「ぇ……」

       

       赤。
       この満足に明かりのない廊下でも分かる、鮮やかな赤。
       本来、桜花決闘では目にすることがない、赤。
       気づかなければ、そのまま連撃も成せていただろう。
       気づいてしまったからこそ、一刀を振り切ったところで、揺波は固まってしまった。

       

       それが、海玄の血であることに。
       相手には、身体を護る桜花結晶が、ないということに。
       この戦いはーー誓いが空虚になるほどの、偽りの桜花決闘だということに。

       

      「ひ、ひっ……」

       

       ぬるり、と。
       額に脂汗を浮かべた老骨が、黒い霧の中から姿を現した。生身の脇腹が受け止めた刃を頼りにするように、傷がさらに深くなることも構わず、揺波の懐へと潜り込む。
       いつの間にか、その手には立派な簪が一つ。
       まるで、その一歩を踏み出させた歪な執念が宿るように、黒い霧をまとった簪の切っ先が、揺波の胸を指し示す。
       老人に、嗤う骸骨が重なって見えたような気がした。

       

      滅灯揺灯 ほろびのゆらりび

       

       

       迷いのない一突きが、揺波の心臓を貫いた。

       

      「あ……がッ……!」
      「くく……くひひ……ひひぁ……!」

       

       今まで受けたことのない衝撃と激痛に、頭が真っ白になる。脂肪も、肉も、骨も、本来それを守るはずの部位の悉くを無視し、心臓への一撃という死への誘いを成就させた海玄は、叩き込んだ死を示すかのように不吉に嗤う。
       ただ、彼が返り血を浴びているということはなかった。
       人間としての守りを全て突破されようとも、揺波は今、少なくとも彼女自身は、桜花決闘の場に相応しい力を携えている。体内の桜花結晶が、死に至る刺突を肩代わりしたために、揺波の肉体は無傷のままであった。

       

       死を想起させられた彼女は、自身の状況を理解して、さらに冷や汗を流した。
       あと一つ。それが、体内に残った結晶の数だった。
       二度目など、当然許されるはずがない。

       

      「は……あぁッ!」
      「がッ……」

       

       簪を押し込み続けようとする海玄を、打ち払うように刀を引いた。死を運んだ老人には、もうそれに抗うだけの力は残されていなかった。

       

      「……!」

       

       上段に構えようとしていたことに気づいて、揺波はその手を止めた。
       たたらを踏んだ海玄は立っていることもままならず、膝から崩れ落ち、そして倒れ伏した。飛び散った血が、彼の粘つくような感情を代弁するように、揺波の脚に着いた。
       顔を狂喜に歪ませたまま、海玄は床に命を吐き出すだけの物と化した。

       

       下ろした斬華一閃の先から、ぽた、ぽた、と先程まで彼の中で巡っていた血が滴り落ちる。
       整えられた舞台は、その既視感通りに再演を終えた。まるで演者の亡霊が、ゆめ忘れるなと彼女に悲惨な結末を見せつけているかのようだった。彼がそんな人間ではないとは分かっていても、血溜まりに倒れる姿に幻視するなというほうが無理だった。

       

       手の震えに、刃先に溜まる血が小さく波を打つ。
       ぎゅっと、揺波は胸を押さえた。

       

       

       

       


       上へ、上へ。
       それが本当に正解かも分からないのに、ただひたすら上を目指した。
       障壁はもはやなく、これが奇襲の効果だとすれば作戦の妙に喜ぶべきだが、不自然なまでに人気のない城に、捨て身の狂気に晒されたということもあって、揺波は奇妙さに息苦しさをやや感じていた。
       引き込まれている。後戻りも許されないよう、手を、脚を、見えない手が掴んでは奥に連れ込もうとする。そんな不気味な不可視の意志に後押しされながらの行軍に、不安を覚えないというのも無理な話であった。
      けれど、引きずり込まれきったその先で、不安は無用なものとなる。

       

       階段を上った揺波は、開け放たれたふすまの向こうに、この階唯一にして最大の部屋を認めた。
       他に廊下の類は見受けられず、最上階に違いない。ただ、現れた部屋は、地上から見上げるほどの高さにあるというにはあまりに広い。畳敷きのそこは、決闘をするにもなお余裕のある、無駄な空間を作っている。

       

       特筆すべきは明るさだ。火を用いた灯りは一切ないというのに、この夜の最中にあって、夜明けを思わせるほどに視界は明瞭だった。仄かに桜色めいた光に目を移せば、城と肩を並べる巨大な神座桜の結晶たちが、一方の壁一面に大きく誂えられた、雲のような曲線形の窓の向こうに覗いていた。他方から差し込める月明かりが、誰も居ない廻縁を照らしている。

       

       そして、その最奥。
       逃げも隠れもせず、彼はそこにいた。
       戦場にふさわしくない堂々たる態度が、しかし揺波には妙な納得感をもたらす。

       

      「ようこそ」

       

       瑞泉驟雨。
       打倒すべき元凶。
       脇息にもたれかかり、余裕ある笑みを浮かべた彼は、ただ一言、現れた揺波を歓迎した。

       

       

       

       


       ウツロを仲間に任せ、瑞泉海玄を打破し、ついに天音揺波は瑞泉驟雨と相対することになった。
       そう、まずは作戦は成功といってよいだろう。こうして、英雄は敵将と向き合うこととなったのだからね。

       ただし、天音揺波はもはやただ一人。そして、この状況を望んだのが天音揺波たちの方だけとは、限らない。

       さあさあ、いよいよ今こそが真価が問われる大一番だ!
       この戦いの趨勢を決める、一大決戦に括目あれ。

       

      語り:カナヱ
      『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
      作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

       

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      『桜降る代の神語り』第62話:サイネ新生

      2018.08.17 Friday

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         動乱の末、氷雨細音を救出した闇昏千影たち。
         しかもそれだけじゃあない。目覚めた彼女はまさしく異様。その力は要注意とされていた赤面の男ーー五条綴を圧倒するほどだった。闇昏千影一行にとっては、それはある意味最高の誤算だっただろうね。


         そしてそれが計算外だったのは彼女らだけじゃあない。相対する彼女にとっても、同じだったのさ。

         


         メガミとは、人よりも格の高い存在ーー彼女たちの持つ強大な力を、この地の人々は見て、聞いて、触れて、あるいはその身に受け、あるいはその身に宿し、畏敬すべき存在としてメガミを認識する。
         どれだけそのメガミが友好的であろうとも、人々の心の底にその認識が広がっている以上、メガミと対等たろうと振る舞うには限界がある。

         

        「おー……。ーーおぉ……?」
        「…………」

         

         しかし細音は、突き破った隠し扉を挟んで、興味津々といった視線を向けてくるクルルに対して毅然と向かい合っていた。

         


         クルルが千影の持つ滅灯毒に向けていた興味は完全に失せたようで、粘つくような、身体の内側まで観察していそうな泥のような好奇心は、真っ直ぐ細音に注がれている。人差し指をぽかんと開けた口に当てながらという姿であっても、その粘度は以前細音が浴びせられたものよりもなお高い。

         

         間で挟まれている千影が、興味の対象から外れたことに喜んでいられない程度には、クルルの不気味な威圧感は沈黙と共に場に広がっている。
         だが、千影が小刀を握るので精一杯だった本当の理由は、反対側からーーつまり細音から、僅かにでも触れたら断ち切られそうな、そんな薄氷のような刃を思わせる異様な気配が漏れ広がっているからであった。

         

        「うむー……むー、やっぱりホントみたいですねえ。流石にこれを見間違えるほど、くるるんあいは節穴ではありません」

         

         クルルは、「ぱちぱちぱち」と口に出しながら手を叩くと、

         

        「おめでとーございます、にゅーふれんず。あなたはーーくるるんもこれ知りませんけどーーこの世で何番目かに誕生したメガミみたいなんで、とりあえずお名前訊いといてもいいですかね?」
        「め、メガミ……!?」

         

         驚愕し、細音へと振り向く千影。けれど、細音は眉を僅かにひそめながら、端的に己の名を返すのみであった。
         メガミは新たに生まれるものということは人々に知られているものの、その過程は謎に包まれている。しかし、もっともらしく伝承されている数少ない過程に、メガミ成りーーミコトがメガミに成るというものがある。子供でも知っているそれは、昔話の中に盛り込まれるほどの題材であり、常識として刷り込まれているものだ。

         

         けれど、あくまで昔話は昔話。人間だったメガミ本人も実在していこそすれ、実現を目指す者の語り口は夢物語を紡ぐそれと変わらない。何よりその条件も、ヲウカ様に認められるような大業を成す、という具体性に欠けたものしか語られることはない。
         だからこそ、見知るミコトがメガミであると、メガミたるクルルから告げられたことによる衝撃は大きい。

         

         それでも千影が否定の声を挙げられなかったのは、細音の気配に息を呑んだ事実があったからだ。
         ここにいるのは千影の知るミコト・氷雨細音ではなく、メガミ・サイネであるという現実が、千影の中にじわじわと浸透していった。

         

        「さいね、さいね……さいねん、さいねーん……。うん、ばっちりー! ですよ」
        「そうですか……」
        「とゆわけでですね。くるるんとしては、ちょろーっと……いや、がっつりー? メガミ成りした身体がどうなってるのか、調べるのに協力して欲しいのですよ」

         

         目を閉じるサイネに対して、クルルは、えっへっへー、とわざとらしく手を揉みながら、

         

        「もちろん、さいねんじゃないとダメな理由はありますよ? メガミ成りって言いましたけど……たぶんあなた、まだ座には着いてないですよね。神渉装置でふぃっしんしちゃったおかげなんですけど、きっと影響は出てると思うんです」
        「…………」
        「ただ顕現体を調べたいなら、それこそこのくるるんぼでーを使えばいいです。けど、不完全なメガミなんて初めてさんですからね。その差から、顕現体にはどんな感じに本質が詰まってるのか、分かることがあるはずなんですよぅ。だから……ね? くるるん一生のお・ね・が・い、ですから……!」

         

         両手を合わせ、顔の前でくねくねとくねらせながら懇願するクルル。その姿に覚えた気味の悪さの源泉は、他人のことを好奇心を満たす部品としてしか見ていなかったようなメガミが、対等の相手に願い出ているというその光景そのものだった。
         左右に首を振って反応を伺うクルルだったが、そこに小さくサイネが口を開く。

         

        「……ですか」
        「うい? 今なんと?」
        「馬鹿ですか、と訊いたんですッ!」

         

         光を映さない瞳は怒りを湛え、まごうことなくクルルに向けられていた。バキ、と木板の折れた音は、怒声だけでは表しきれない感情が、薙刀の石突に込められて床を破壊した音であった。
         彼女は薙刀の切っ先で、床に転がっている五条を指し示すと、

         

        「そこの男との決闘で私を実験台にしてくれたというのに、一体どの口でもう一度実験台になれと頼めるのですか!? 冗談にしても限度というものがありますよ……!」
        「冗談……? くるるんはいつだって本気も本気ですよ……?」
        「それが、なおさらたちが悪いというのが分からないのですか? 名前も知らないミコトたちを散々いいように使ってきた、あなたのその『本気』とやら……理解に苦しみます」

         

         あっけらかんと返されたサイネは、刃をクルルに向け直す。クルルはどうしてここまで反発されているのか理解に苦しんでいるようで、頬に指を当てながら首をひねっていた。
         今にも踏み切りそうなサイネの勢いに、千影は同じく構えることしかできない。サイネの存在によって生存率は上がったものの、生身の彼女にとってはメガミ同士の衝突などという爆心地に居続けることそのものが看過できない危機である。さりとてその威圧感に口を挟むこともできず、胸の内でひたすら保身の道を探り続けていた。

         

         刺すような敵意が、サイネから一方的に放たれる。
         一触即発の状況の中、入れ違うように隠し部屋に逃げ込もう……そう、千影が腹を決めたときだった。

         

         木板の割れる音が、今度は天井から響いた。

         

        「間に合ったか!?」

         

         天井から千影の隣に落ちてくるのは、クルルによって分断されていた藤峰だった。
         彼は着地する前に、握っていた神代枝を宙に放る。桜色の輝きが優しく千影と藤峰を包み込み、込められていた力は二人にメガミの権能を貸し与える礎となった。
         文字通り降って湧いた助けに、千影は急ぎユキノの傘を顕現させる。一方で藤峰は常用している苦無を構えるのみ。彼が宿すミズキからは力を得られず、僅かに引き出せるオボロの力を体術の助けにするだけで精一杯だった。

         

        「うーん……?」

         

         しかし、ここに人数差は生まれた。
         クルル一柱に対し、サイネ、千影、藤峰。ミコト二人は時間に限りがあるとはいえ、いかにメガミであっても障害と数えざるを得ない。それどころか、サイネという主力が居る以上、撃破も絵空事ではなくなった。あの千影の中ですら、だ。

         

         数の利を理解したサイネがじり、じり、と距離を詰め、壊れた隠し扉の手前までにじり寄ってくる。
         ただ……そんな三人に敵視されるクルルが、臨戦態勢になることはなかった。

         

        「……めんどーですぅ」

         

         唇を尖らせてそう呟くと、くるりと踵を返した。そのまま、相対していた空気を無視するかのようにとぼとぼと廊下を戻っていこうとする。その手のひらの上には、まるで手慰みのようになんらかの装置が組み上がりつつあった。
         一瞬、あっけにとられた三人だが、

         

        「待ちなさいッ!」
        「えぇー……」

         

         目にも留まらぬ速さで飛び出したサイネの薙刀が、嫌そうな顔で振り返るクルルを捉えた。その刃はクルルの背中を浅く裂き、返す刀で脚を断ち切ろうとするが、現れた部品の山に弾かれる。
         渋々といった様子でさらに間合いを離そうとするクルルには、千影と藤峰が放つ苦無が襲いかかる。一本は避けられたものの、もう一本は肩口に深々と突き刺さった。それを見て、千影は藤峰と目を合わせて頷き、前に出るべく脚に力を溜める。

         

        「氷雨、右手のものを……!」
        「はいっ!」

         

         行方を阻むがらくたを振り払うサイネへ、千影の指示が飛ぶ。サイネの耳にとってはがらくたと同じかもしれなくとも、クルルの手で組み上がりつつあるその寄木細工の小箱は、このような事態に陥る元凶たる転移の絡繰に他ならない。
         木と木が重なり合っていく音を頼りに、サイネは八相の構えからクルルの右腕を両断せんと刃を振り下ろす。
         だが、

         

        「……っ!?」

         

         刃は、クルルの存在する空間に侵入することを阻まれたかのように弾き返された。なにもないはずだった宙空では、六角形を敷き詰めた薄い緑の光の壁が、全うした役割を示すかのように存在を主張していた。
         絡繰をはたき落とした次の一太刀で首を狙おうとしていたサイネも、予想外の防御に体勢を崩してしまう。

         

         その間に完成した小箱が、クルルを包むように淡桃の煙を吐き出していく。周囲の空間が明らかにぐにゃりと歪んでいくのが、皮肉にもクルルの用意したであろう光の防壁ではっきりと見て取れる。

         

        「下がってくださいッ!」
        「ふー……ではまた来週〜」

         

         そんな適当な別れの言葉を残し、クルルは歪みの向こうへ消えていく。ある瞬間からその気配もぱったりとなくなり、やがて煙が晴れた廊下に彼女の姿を見つけることはできなかった。

         

         しん、と静寂を取り戻した廊下で、サイネはクルルのいた場所に薙刀を振り落とした。
         刃は、主を助け出した寄木細工の小箱を、真っ二つに断ち切っていた。
         狂気は去ったのだ。取り逃がした、という形で。

         

         

         

         


        「お、終わったー?」

         

         ぴりぴりとした空気が霧散していくその頃合いを見計らってか、隠し部屋の奥から楢橋が顔を出す。左腕を抑えながら脂汗を滲ませており、流血の度合いからしても傷が浅くはないことがありありと分かる。
         そんな彼の登場に、戦闘の余韻を全て吹き飛ばされた者がいる。

         

        「ほっ、ホロビ! ホロビはどこですかッ……!」
        「いたたたたた痛い痛い! 千影ちゃんやめて揺さぶらないで、目に入らないかもしんないけどめっちゃ怪我してるから!」
        「居たんでしょう!? 氷雨の隣に、ほろび……ホロビはっ……!」
        「ま、待って、落ち着いて……!」

         

         全ての障害を乗り越えたその反動のせいか、取り乱す千影。
         しかし、彼女は次の楢橋の一言で凍りついた。

         

        「ここにはいなかった……いなかったんだってば!」
        「え……」

         

         そんな、という言葉を作ろうとして、失敗した。楢橋の肩を掴んでいた手が、脱力したように離される。
         ちら、と幽鬼のように視線を隠し部屋の奥へと向ける千影だが、一歩を踏み出そうとしたところで、藤峰に肩に手を置かれてやんわりと止められた。
         彼は徒労感を追い出すように一つ、息を吐いてから、

         

        「こいつの言っていることはおそらく正しい。捨てられていた書の中に、ホロビ移送の指示書を見つけた。先日までここに捕らえられていたことは間違いないが……一足遅かったな。いや、言っても詮無いことか」
        「そう……ですか。ホロビは、どこに……」
        「瑞泉城内の研究施設だ。いくつかあるようだが、中でも桜に近い所だそうだ。研究員に吐かせた」
        「ふひ……ひひ……」

         

         俯いて笑う千影に、楢橋もどう声をかけたらいいものか分からない。
         だから彼から藤峰に投げかけられた疑問は、場を取り繕うものに他ならなかった。

         

        「と、ところでさ。細音サンは助けられたんだし、この研究所どうするの? ……えーと、ほら。あのヤバそうなメガミはどっか行っちゃったんでしょ? 動きやすくはなったと思うし、貰い物するにはちょうどよさそうだけど……」

         

         だが、それとなく奪取の提案をする楢橋に答えたのは、暗い笑みを浮かべた千影本人だった。

         

        「そんな暇、ありませんよ」
        「え……? あ、いや……」

         

         彼女の目が光を失っているということはなかった。

         

        「何度も言いましたよね? 千影は、ホロビを助けにここまで来たんです。それより優先されるものはありませんし、ホロビがここにいないのならまた探しに行くだけです。行き先も分かってるんですから」
        「そう、だけどさ……」

         

         予想外にしっかりとした返答に、楢橋は言葉に詰まる。
         千影はさらに、

         

        「一石二鳥じゃないですか。どうせ城では今頃天音や千鳥たちが戦ってるんです。最初から援護に向かう計画だったんですから、ついでにホロビへの道をこじ開ける手伝いもしてもらいましょう。ただ、さっさと援護に行かないと、それも叶わず全滅もありえますが」
        「あちらの戦況次第だが、早々にホロビ救出に人員を割く手もないわけではないな。メガミという戦力の追加という魅力は、やはり無視できるものではない」

         

         そう語る藤峰の目は、少し離れた位置で薙刀の感触を確かめていたサイネに向けられている。
         サイネはその気配を感じ取ったのか、

         

        「……どうもまだ面映いですね。これまでになく力が漲るこの感覚には、わりと納得しているのですが、理解はいまいち追いついていませんし……。目が覚めたらメガミになってるだなんて言われても、この通り普段と変わりない姿なものですから」
        「戸惑われている中、さらにこちらの都合に巻き込むようで大変申し訳ありません。ですが、何卒お力添えいただけないでしょうか」

         

         歩み寄るサイネへ、藤峰の頭が下げられる。
         そんな彼を援護するかのように、壁にもたれかかった楢橋が言葉を継ぐ。

         

        「細音サン、頼むよぉ。色々やばいみたいでさ。この平太クンの手も借りなきゃならないくらい、大変な戦いになってんのよー」
        「まあ……そうでしょうね。クルルと敵対しているくらいですから、大事の渦中であることは分かります。知らない間に事態は悪い方向に進んでいたようですね」
        「だからオレからもお願い……細音サンがいれば百人力だから……!」

         

         右手で力なく手刀を掲げたところで、サイネが形を捉えることはない。
         そして、

         

        「氷雨……い、いえ、サイネとお呼びしたほうがいいでしょうか」

         

         装備を再確認しながら、千影は極力サイネと目を合わせないようにそう切り出した。
         怯えはある。過去、危害を加えた相手が、強大なメガミとなって再び現れた以上、千影の生存本能はずっとくすぐられていた。出した言葉が相手を刺激しないか、気が気でないことは否定のしようもなかった。
         けれど、次の千影の言葉だけは、震えることなく真っ直ぐサイネに届く。

         

        「手を貸してください。ホロビを、助けるために」

         

         燃えるような意思ではない。昏い決意の底から、千影は目指す場所への最短経路に手を伸ばす。
         それから、僅かな沈黙があった。ただ、

         

        「ふふっ」
        「……なにか?」

         

         静寂をサイネの小さな笑いが破る。
         すみません、とサイネは謝罪を前置いてから、

         

        「あのときと同じ声なのに、雰囲気が別人みたいで……随分と変わられましたね」
        「そ、その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。もう別存在じゃないですか」
        「ですね」

         

         零した苦笑いが、承諾の証だった。
         ほっとする千影は、次の瞬間には顔が引き締められている。瑞泉城という本拠地に移送された以上、ホロビへの道はこれが最後にして最大の困難である。現状の最善手を打てたところで、死地に赴かなければならない事実には変わらないのだ。

         

        「急ぎましょう。天音もいるのでしょう?」
        「はい。詳しい話は失礼ながら道中にて」

         

         藤峰の先導によって、四人はその場を後にした。
         メガミも加え、同じ方向を向いた彼女たちは、一路、最終決戦の地・瑞泉城へと走った。

         

         

         

         


         こうして、ホロビこそ発見できなかったものの、サイネを救出した闇昏千影たち。
         やはり作戦は順調。英雄たちの勝利は近い。


         ……そう思うかい? ああ、カナヱもここまでならそう思うよ。

         だが、君は忘れていないかい?


         敵はあまりにも強大で、そしてその本命は、未だ姿すら現していないということを。
         闇昏千影らが研究所を後にしたその時、同時刻ーー

         

         

         

         

         


        「はぁ……は、あぁっ……」

         

         そびえ立つ城、そして奥で咲き誇る神座桜。二つの威容に見下されながら、ヴィーナを駆るサリヤは、水気を失った荒い息に、喉を張り付かせていた。
         走行時は半ば抱きつくように乗る本来のヴィーナだが、今のサリヤの視界は高い。それは彼女が背を伸ばしているからではなく、ヴィーナの首元に操舵席が移動しているためだ。鎌首をもたげた蛇のように変形した黒い車体は、その両目にあたる部分を定期的に怪しく光らせている。

         

         しかし、だ。威圧的な姿となったヴィーナとは対照的に、騎手であるサリヤは歯を食いしばって姿勢を保つのが精一杯の、弱々しい有様だった。傷つき、体力は奪われ、もはや意地と意志だけが彼女を支えているようである。

         

        「サ、リヤぁ……」

         

         名を呼ぶジュリアの声が震える。従者への信頼までもが、怯えに削り取られているようだ。
         それでも、へたり込むジュリアはサリヤへ希望を抱き続ける他ない。
         倒れ伏して小さく呻くだけとなった千鳥。
         塀に背中から叩きつけられ、ぐったりとしている佐伯。
         この場で意志を燃やし続けることができているのは、サリヤただ一人だけだった。

         

        「…………」

         

         そんな彼女が相対するのは、たった一つの寡黙な影。灰色の髪の少女の形をしたその影は、同じく影を寄せ集めたような大きな不定形の鎌を携え、城内へ通じる最後の門の前で、たった一人、無感動に立っていた。

         

         否、たった一人、ではない。
         一柱。

         


         塵と化し、灰に帰した結晶を身に纏うそのメガミ・ウツロは、己の作り出した惨状の中でただ一柱、静かにサリヤの動きを待っていた。

         

         しかしーーウツロの目には、三人目であるサリヤ、そして怯える四人目のジュリアまでしか映っていない。
         天音揺波の姿は、どこにもなかった。

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

         

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        『桜降る代の神語り』第61話:メガミマンVSメカゴジョー

        2018.08.03 Friday

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           仮面と仮面。さらには、程度の差こそあれど、悪党と悪党。
           あの衝突が、英雄譚にしては異質すぎる相対だったことは間違いない。
           けれど、多くの人々が彼をほら吹きだと笑っても、カナヱはそれが語られるべき大切な出来事だと知っている。

           

           華々しい英雄譚の陰で繰り広げられた、即席の英雄の戦いを君に聞かせようじゃないか。さあ、愛の戦士、メガミマンの生き様にご括目だ。

           

           

           


          「おわっ……っと、っとぉ! 危ないってば!」

           

           物が乱雑に散らばった床に気をつけながら、メガミマン、もとい楢橋は身体をくねって攻撃を回避していく。
           彼に向かって繰り出されているのは突きだ。それも、赤面の男が作り出した桜色の光で編まれた兜の立派な一本角によるものである。頭突きと言えば聞こえは悪いが、見た目以上に軽い身のこなしから繰り出されるそれは、楢橋にただ回避を強いていた。
           顔を覚えられてはならないという泥棒の本能から仮面を外せずにいる彼は、慣れない覆面の視界の中、奇怪な仮面から必死に逃げ回っていた。

           

          「大人しくッ! しろッ! 曲者めッ……!」
          「いやだねっ!」

           

           振り回される角の先が腕を掠めていく。その力強さに楢橋はひやりとしつつも、足元にあったガラクタを相手に向かって蹴り飛ばす。まともに追いつかれたら刺し殺される以上、足を鈍らせるのは分かりやすい対抗策の一つだ。
           しかし、僅かな隙をついて距離をとった楢橋は、あくまでそれが比較的マシな選択肢でしかないこともまた理解していた。

           

           足を打ったガラクタを忌々しげにどける赤面の男は、ガラクタの山を挟んだ向こう側にいる楢橋へ右手を向ける。
           飛び出た炎が、軌跡を辿るように楢橋の背中に食らいつく。

           

          「ぅわっちちちち!」
          「こっちはひと思いには死ねんぞ? ネズミ一匹のせいで、研究成果を焼き尽くすわけにはいかないからな」
          「だから、死なないって――あっづ!」

           

           今度は足を炙られ、飛び上がるようにしてひたすら彼我の距離を求めた。
           赤面の男の言う通り、この部屋の損傷を避けたいのか、角による攻撃よりも炎による攻撃のほうが随分と殺意が薄かった。忍の里を焼き払ったというには、あまりにも火勢は弱い。それが楢橋の数少ない幸運の一つであった。

           

           けれど、それは好機の礎というにはあまりに心もとない。それこそ、じわじわと焼かれて逃げ切れなくなる結末は目に見えていた。
           何故なら両者には、その程度の加減では埋まらない根本的な差があったからだ。

           

          「まったく、ちょろちょろちょろちょろと……」

           

           立ち止まり、顔と面の境を掻く赤面の男。
           油断なくその様子を伺っていた楢橋は、歯車で出来た仮面の歯の向こうに、男が嗤うのを見た。

           

          「ふん……ミコトですらないくせに」
          「……!」
          「気づかないとでも? ここまで入り込んでくるなんて手練れの忍かと思ったが、まさか逃げ回るだけが能の、ただの人間だったとはなあ。どこから制服を手に入れたのかは知らないが、コソドロを少しでも警戒した私が馬鹿みたいだ」

           

           ははは、と光る手の甲を晒しながら響かせる嘲笑はあまりにわざとらしく、仮面越しに楢橋に染み込んでいく。

           

           神座桜のない場において、ミコトと人間の違いは絶対的なものではない。超人的な力や技を発揮できないミコトは、あくまで常人の枠に留まる存在である。
           だが、多くのミコトは先天的に優れた身体能力を有している。それは概ね人間が鍛えれば超えられる程度のものではあるが、逆に言えば鍛えていない人間とは根本的に差が生まれているということでもある。
           何より――天音揺波たちの襲撃の可能性を認識していたらしい赤面の男にとっては、神代枝という切り札を無視してもよいというさらなる安堵に繋がるのだ。

           

           ぐ、と楢橋の拳が握りしめられる。
           楢橋もまた、仮面の口の向こうで、不器用に口を歪ませていた。

           

          「へぇー……よく見てるじゃん。でもさー、それ女の子にはあんまりやんないほうがいいよ? じろじろ手見てたら『きもちわるーい!』って怒られちゃったことあるし」
          「コソドロで、軟派者か。はは、残念だったなあ! クズらしい惨めな人生を送っていたんだろう? せめてミコトに生まれていれば、多少はマシだったろうものを!」
          「そうかよッ!!」

           

           吠えると同時、前へ突き出された楢橋の手から、吹き出したものがあった。
           水だ。
           左腕につけていた複製装置<雫>によって、猛烈な水流が赤面の男に向かって宙を走った。

           

          「む……!」

           

           今まで袖の下に隠れていたためか、思いもよらぬ反撃に虚を突かれた様子の赤面であったが、染み付いた動きは身体が勝手に繰り出すものである。装着していた桜の兜をお辞儀をするように差し出せば、放たれた水流は霧と散っていった。
           伏せていた切り札を出してしまった以上、楢橋に攻撃の手を緩めることは許されていない。ミコトのように与えられた力で敵をなぎ倒すことができない彼には、手持ちの武器を最大限活かし、そして頼る他ないのだ。

           

           両の手を互いに掴んだ楢橋は、掌底に空いた隙間を相手へ向ける。すると、先程よりも細く、勢いのある水流がそこから短い間隔で飛び出し、矢のようになって赤面に迫った。
           水の矢の半数は相手に当たる軌道を描いていたが、赤面はむしろ自分に当たらない矢に感心したようだった。

           

          「ほう!」

           

           彼は立てた右腕を前に出すことで、守護の力を前面に広げた。即座に組み上がった桜色の城壁が、水の矢を悉く弾いていく。背後にあった本棚や大型の絡繰に当たるはずだった矢も、同様に砕け散っていった。
           その様子を見て取った楢橋は、今の射角を放棄するように位置取りを変えながら、合図をするように二本指を下に振り下ろす。矢に気を取られている間に、赤面の頭上に特大の水球を移動させていたのだ。
           だが、

           

          「悪くない」
          「な……!」

           

           赤面が左手で弾ける何かを表現した瞬間、その水球の中から火炎が溢れ出し、弾け飛んでしまった。
           ぽたぽた、と蒸発しそこねた水が床に撒き散らされ、赤面の男に降り注ぐはずだった大質量の水の檻の無残な最期に楢橋は歯噛みする。
           そんな彼の下へ、城壁を解いた赤面の男は静かに駆け出していく。

           

          「いかに誰でもメガミの力を扱えると言っても、複製装置はそれを可能にするだけで使いこなせるかはまた別の話だ。その使いよう……今すぐにでも機巧兵団に入れるぞ。私が保証してやろう」

           

           さらに速度を上げて迫る男に水流を叩きつけようとするも、向けた腕から軌道を読まれて回避される。
           さらに一歩、踏み込むことで距離を詰めた赤面は、

           

          「まあ――あくまで、一兵卒としてだがな!」

           

           言い放つなり、入り込んだ懐から楢橋の腹を抉ろうと、兜の角を突き出した。
           打つ手のない楢橋は、少しでも受け流そうと決死の覚悟で後方へ飛び退る。しかし、そこで躱したはずの角が、一呼吸置く前に再び迫っていた。
           赤面の男が背後に向けた手のひらから、爆発が生じていた。

           

          「……!?」

           

           脚によらない推力で繰り出された二段目の刺突に、今度こそ楢橋は回避の失敗を悟った。宙に浮いた彼の正中線を見事に狙った攻撃は、身をひねったところでどうあがいても当たる軌道だった。
           彼が差し出したのは、左腕。
           二の腕に突き刺さった角は骨に直撃し、嫌な音が響く。力の入らなくなった腕は緩衝材に成り下がったが、それでも赤面の突進の衝撃は殺しきれない。

           

          「あッ――ぐぁッ……!」

           

           吹き飛ばされた楢橋は、二度、三度と跳ね、散らばったガラクタをさらに無秩序な状態にしつつ、細音が安置されている柩に背中からぶつかって止まった。

           

          「ぁ……ぁ、ぁ……」
          「ネズミ退治もそろそろ終わりか」

           

           頭を揺らす衝撃に思考が曖昧になりかけたが、左腕から発せられる痛みが味方する。しかし、左腕以外はわりと動く、と把握したまではいいが、ただでさえ追いつかれていたのにこれから赤面の攻撃を捌ける自信はとんと湧いてこなかった。
           複製装置<雫>もつけた腕が動かなくてはろくに扱えない。それ以外に、彼が持つ武器はない以上、詰みがそこに待っていた。

           

           苛立たしげに面との境を掻く赤面の男が、一歩、また一歩と近づき、それは次第に追撃を成すために加速していく。
           何か、と動く右手を彷徨わせる楢橋。この期に及んで外れなかった笑う髭男の面に運命を感じずにはいられなかったが、あとはもう投げつけてひるませるくらいしか彼には考えつかなかった。
           と、そんな彼の手が、『何か』に触れた。

           

          「死ねええぇぇぇぇッ!」

           

           叫びを上げ、角を向けて走り込んでくる赤面。どれほど不格好な突進であろうとも、今の楢橋には避ける手段はない。
           そう――避ける手段は。

           

           最後の踏み込みを為した赤面の男の眼前。
           そこに、一抱えほどもありそうな、大きな八面体の水晶が突然現れた。

           

           

          「は――」

           

           止められない勢いのまま、突進の矛先は阻むように出現したその水晶へと吸い込まれていく。
           だが、その水晶は砕けることなく、赤面の刺突を受け止めた。生じるはずの激突音すらもじんわりと吸収していくようで、一瞬、宙で静止した赤面と相まって、時が止まったかのようだった。
           さらに、世界の再開は、赤面の動きによって告げられる。

           

          「う、うおっ!?」

           

           赤面の男が、強い衝撃を受けて弾き飛ばされた。まるで、受け止めた衝撃を、水晶がそのまま反射したかのように。
           そのままふわりと楢橋の前に浮いた水晶を、赤面はその面の向こうから不快そうな眼差しで睨み、視線はその奥、楢橋本人へと向けられる。
           楢橋は、手にしたソレを右腕にはめながら、柩に体重を預けるようにして立ち上がっていた。

           

          「ふ、ふふーん、複製装置<晶>って……とこ、かな?」

           にやり、と面の奥で笑った楢橋は、この部屋に持ち込んでいたもう一つの複製装置を、赤面の男に突きつけたのだった。

           

           

           

           


           柩を開けるために楢橋が行った試行錯誤は多岐にわたる。繋がっている線を辿った先を調べたり、欠落していそうな部品がないか探したり、ガラクタの山をひっくり返したり……全ては結局無駄だったわけだが、一つだけ、無駄に意味がありそうなハズレがあった。

           

          「これは……ひょっとすると、細音サンに、助けられた……とかなのかなー?」

           

           血の滴る左腕をだらんと垂らす楢橋の周りには、たった今赤面の男の攻撃を跳ね返したものと同じ水晶が、計五つ、守りの陣を敷くように浮かんでいた。
           楢橋が惜しいと感じていたハズレ……それは、細音の柩の側面に、複製装置がちょうど収まる口が開いていたことだった。彼はそこに、先程くすねたばかりの複製装置<巌>を差し込んでみたのだが、結局うんともすんとも言わなかったことに肩を落としてそのままになっていたのだ。

           

           赤面の男との遭遇前に再装着できなかったこと、戦闘中にその余裕がなかったことは不運であったが、最終的に運良く手中に収めることができたのは、彼の悪運の強さを称える他ない。

           

          「うーん……よく分かんないけど、これはきっと……オレっちの想いが、細音サンに通じたんだよ、ネ? はは、嬉しいなあ……愛、感じちゃうよ」
          「ちっ……馬鹿馬鹿しい。だから何だと言うんだ。お前が死ぬまでの時間が延びただけじゃないか!」

           

           悪態をつく赤面が再度踏み切る。楢橋はちらりと背後を振り返ってから、戦場を柩の周りから移すように横へ駆け出した。
           深手を負った彼の動きは鈍い。水晶という防御手段が手に入ったのは幸いだが、使い方がろくに分からないままでそれに頼り切りになるわけにもいかない。なんとなく、動かせているような気になっているだけでは状況は好転しない。

           

           そんな状況を強調するように、色味を増した兜の角が、水晶の一つを穿った。
           身を固くしていた赤面の男が弾き飛ばされることはなく、水晶は楢橋の身代わりになって無残に散った。

           

          「ははッ! どうした、あと四つだぞ!?」
          「くっ……!」

           

           砕けて落ちていく水晶を相手に蹴りつけるも、その程度では小揺るぎもしない。そうした無駄な反撃で崩した体勢を立て直すために、もう一つ水晶が犠牲になる。

           

          「最初の、やってくれても、いいじゃん……」
          「まぐれがそう何度も続くか!」
          「愛だもん!」

           

           痛みを紛らわせるように叫んだ楢橋だったが、ふと、自分の声がやけに響いたことに気づいた。まるで洞窟の中で声を出したときのような、そんな反響が耳につく。物が溢れかえっているこの部屋では、今までなかった現象だった。
           そこで彼は、三つになった水晶の盾を全て自分の前面に集めようと念じた。応じる動きは決して機敏なものとは言えず、お互いぶつかってしまう始末であったが、彼が求めたのはむしろその結果であった。

           

          「はっは、今にも割れそうな音だな!」
          「ならどうぞっ!」

           

           楢橋は水晶のうちの一つを、赤面の顔に向かって思い切りぶつける。流石にまるごととあっては衝撃があったらしく、赤面は若干ひるんだ。その隙に柩を飛び越えた楢橋は、敵とその柩を挟んで対面することになる。
           無論、すぐに後を追おうとした赤面の男だが、それに楢橋は、左腕の痛みを努めて隠しながら、

           

          「あんたさー、なんか拍子抜けだよねえ」
          「……なんだと?」

           

           赤面の男の足が、止まった。
           仮面の下で口端を歪める楢橋は、右だけで肩をすくめてみせる。

           

          「いやね? 赤い変なお面を被ったやつには気をつけろ、って言われてたからさー。忍のみんなを焼き尽くした外道、っていうもんだから、もーっと怖くて強い人かと思ってたんだよねえ」
          「…………」
          「見つかったときも、正直ダメかと思ってたんだけど……でも、オレっち一人ろくに始末できないのに、それホントかなー? って思い始めてきたんだよね。ミコトですらないオレっち一人に、そんな奴が手間取るかなあって」
          「……ほう」

           

           そっと、左腕の傷を抑えながら、彼は言う。

           

          「必死に頭ぶんぶん振って、猪じゃないんだからさー。そんなんじゃ牡丹鍋にされちゃうよ? ……そろそろ、お仕事片付けた忍たちが、ここに来る頃だしね」

           

           得意げに。けれど、脂汗を滲ませながら。
           それは、苦し紛れについた嘘のようであるが、そういった体の挑発でもあった。援軍の到着という情報の真偽を赤面の男が確かめる余裕はない。彼にとって、楢橋の言葉から導き出される結論は、真偽問わずたった一つである。
           弱者相手に手間取っていることは、確かに真実なのだから。

           

          「……望み通り、忍同様焼き殺してやるッ!」

           

           轟、と赤面の男の手の上で、火球が燃え盛った。
           そして、太陽のような灼熱の塊が、楢橋を灰にせんと放たれる。

           

          「待ってまし、た……ッ!」

           

           部屋の損害も顧みない一撃に楢橋があてがったのは、折れていた左腕だった。右手で無理やり前に向けると、手の先から大瀑布が溢れかえった。ひっくり返りそうになる勢いに足で堪えながら、迫る火球を押し返すように全力で水を放出する。
           それがメガミの力によるものだろうと、膨大な熱量に膨大な水流をあてがえば、生じる結果は自ずと決まってくる。柩の直上で衝突した相反する二つは、互いを削り合うように勢いを減じ、そして消えた。

           

           後に残ったのは、白だ。
           隠し部屋は、水蒸気で満たされた。
           一瞬で広がった濃密な水蒸気の向こうに、彼我の姿が隠される。

           

          「あっ、クソ……前が……!」

           

           眼前の敵を見失う焦りは尋常なものではない。さらに、局所的な高温多湿という特異な環境に放り込まれたことで増していく不快感が、それを炙るように加速させていく。赤面の男が慌てて桜の城壁を展開し始めたのも無理はない。
           狙うのは、その瞬間だった。

           

          「喰らえーーッ!!!」

           

           気合を込めた一撃を、楢橋は繰り出そうとする。
           あえて、その気合を声に乗せて。

           

          「馬鹿め……!」

           

           視界が頼りにならない現状、咄嗟に声の方向へ反応した赤面の男は、正しい。見えない敵が漏らした自分の位置に向かって、迎撃の炎を放ったのもまた、正しいだろう。遅れる決着への焦燥の中、好機に食いつかないわけにはいかないからだ。
           けれどそれは、失敗に他ならなかった。あるいは、もう少し耳をそばだてていれば違っていたかもしれない。

           

           白い視界の中を行く炎は、確かに獲物を捉えた。
           焼き尽くしたそれは、バタン! と中身の詰まった書架が倒れたような音で、息絶えたことを主張した。
           ……明らかに、肉の音ではなかった。

           

          「あーあ、いっけないんだぁ。瑞泉サマに言ってやろーっと」
          「あっ、ああっ……!」

           

           空間を奔った炎を皮切りに、徐々に水蒸気が晴れていく。赤面の男は、その中に決してあってはならない光景を認めて絶句した。
           細音が収められている柩から延びていた複数の線……その先に繋がっていた大きな箱状の絡繰が、木造部分が炭と化した無残な姿を晒して倒れ伏していた。
           そして狙われたはずの楢橋は、声の源とは全く別の場所で健在であった。

           

          「な、ななななん……」
          「わざとさ、別の場所に……物音立てて、誘導するの、コソドロの常套手段なんだ。悪いね」

           

           楢橋が目の前に浮かべた水晶を叩くと、コンコン、と柩の絡繰の向こうから響いてくる。そこには、無事だったあと一つの水晶が浮かんでいた。音に干渉する水晶を組み合わせることによって、音源の位置を誤魔化したのである。
           受け入れがたい現実に動揺しきりの赤面は、自分の失敗を素直に飲み込むことを放棄したのか、えらを掻きむしりながら、

           

          「き、貴様……貴様ァ、よくも……!」
          「いや、あんたがやったんじゃん。オレっち悪くないもんね」
          「あああぁぁぁぁっ、絶対許さん!!」

           

           激昂した彼は、兜の角をさらに逞しくさせながら、柩の向こう側で口笛を吹く楢橋へ突進の姿勢を見せる。
           けれど、赤面の男が柩を飛び越えようと、踏み切ろうとした瞬間だ。

           

           ガンッ! と柩が中からの衝撃に大きく揺れた。
           突然のことに赤面の男は驚きに身体を震わせて、狼狽えながら柩から距離を取る。

           

          「…………」

           

           赤面の男の息を呑む音は、しかし異音によってかき消された。
           柩の頭のほうから、多くの回転する何かが急加速したような低い唸り声が聞こえ始めていた。さらには、うっすら黒い煙が立ち上ったり、焼けた装置とを繋げていた幾本もの線が、扱っていた力に耐えかねたように柩から千切れ飛んだり、明白に異常を訴えている。

           

           そして、パリィン! と。
           甲高い音を立て、柩の天板の硝子が、勢いよく割れた。

           

          「ひっ……」

           

           破砕に一度目をつぶったその間に、柩の中から天を指すものが一本。
           それは、寒気を覚えるほど美しい、極寒の海底から汲み上げてきたような色合いの刀身を持つ薙刀であった。

           

           彼女の瞳は、光を映さない。
           彼女の耳は、敵の鼓動を聞き逃さない。
           彼女の全ては、ただ技を極めんがためにある。

           

           氷雨細音。
           技巧を追い求める少女は、今、縛めから解き放たれ、立ち上がった。

           

           

          「よかった……ちゃんとオレっちの愛が通じてたんーーぐはぁッ!」

           

           後退る赤面の男とは対照的に、彼女の下へ駆け寄った楢橋は、仮面ごと顔面に裏拳を叩きつけられる。容赦のない一撃に耐えきれず、今まで彼の顔を守り続けた仮面は割れてしまった。

           

          「あーっ! め、メガミマンが……! メガミマンがーっ! 助けてあげたのにいくらなんでもそれはないんじゃない!? オレめっちゃ怪我してるんですけど!?」
          「すいません、先程から不愉快な声が聞こえていましたので」
          「……しかも、いつの間にか服着てるし」
          「何か言いましたか?」
          「な、なんでもないですよー……」

           

           しかし、と柩より一歩、踏み出す足の向く先は、赤面の男。人の身が放つには余りある細音の圧が、この場に存在する唯一のミコトに降りかかる。

           

          「き、貴様は……本当、だったのか……」
          「それよりも、打倒すべき相手がいるようですね」

           

           楢橋のものよりも規律をもって周囲に水晶を浮かべた細音が、感覚を確かめるように薙刀を振り回し、カタカタ震える赤面の男へ切っ先を突きつける。
           この場の力関係が入れ替わったことは、明白であった。

           

           

           

           

           


           す、す、と板はよどみなく動く。何度も繰り返されたであろうそれは扉の癖のようになっており、隠し部屋への扉の鍵開けを試みる千影の観察眼と推測を裏付けてくれる。

           

          「ひひ……」

           

           手順そのものは多い。けれど、それは単なる嫌がらせでしかない。上に、右に、扉の切れ目をずらしていくにつれて、解除方法の正しさはどんどん担保されていく。これが時間稼ぎ用の誤答だった場合の心配は、彼女の中でもうほとんど消えかかっていた。
           と、扉の板全体が、カタリと、支えがとれたように動いた。
           鍵となる寄木細工の仕掛けが解除されたのだ。

           

          「……!」

           

           そのまま右に引くと、ややガタつくものの、戸袋に収まっていってくれそうな手応えが返ってくる。
           にや、と千影の口端が吊り上がる。
           けれど、扉を開け放ってしまうべく、力を込めたときだ。

           

          「っ……!」

           

           

           ぞくり、と走った悪寒に、手は懐へと舞い戻る。
           そして振り向きざま、手中で砕いた試験管を背後へ放り投げる。入っていた痺れ粉が、薄暗い廊下に撒き散らされた。

           

          「あたーっ!」
          「ぃひぁ……!」

           

           聞き覚えのあるふざけた悲鳴に、全身総毛立つ。
           いつの間にか背後まで迫っていたクルルは、割れた試験管が鼻っ面にあたったことだけを嘆きながら、漂う毒を意に介さず距離を詰めてくる。
           千影にとって、クルルとの三度目の邂逅はあってはならないことだった。もはや手元に神代枝はなく、生身で抵抗しきれないことは証明済みだ。今度こそ、本当の死が手を伸ばしてきているのである。

           

           弾かれたように開けた扉に食いついた千影は、あらん限りの力を込めて扉を引いた。元から袋小路である以上、逃げるためには先に進むしかない。だが、焦りのせいか、はたまた仕掛けが中途半端に残っているのか、古い家のふすまのようにガタガタと何度も引っかかり、退路は素直に開かない。
           その間にもクルルは、完成済みの電撃装置を手に、一歩ずつ迫ってくる。

           

          「やぁっ! い、いやです、こないでェッ! やだ、やだぁッ!」
          「聞き分けの悪い子はメッですよーん」

           

           苦し紛れに投げる苦無も毒針も、クルルの動きを妨げるには至らない。無意味だと分かっていても、爆発的に膨れ上がった恐怖心では抵抗せずにはいられない。
           扉はまだ開ききらない。いや、それどころか、千影はその扉の向こうにもう一枚、金属質の扉が控えているのを見てしまっていた。それが本当にただの戸であればいいが、もしさらに仕掛けがあったときのことを考えると、彼女はどうにかなってしまいそうだった。

           

           ただ、狂うための時間も、千影には与えられなかった。
           クルルの指が、装置の突起を押そうと構えられた。
           妨害しようと放った苦無は回避され、代わりにクルルの脇腹へ突き刺さる。

           

          「あっ、ああっ……!」

           

           一枚目の戸を開ききり、現れた二枚目の戸の取っ手に手をかける。
           その瞬間、

           

          「ーー!」

           

           バガン! という大きな破壊音と共に、いきなり戸の上半分が吹き飛んだ。室内から押し出されてきた何かは、ギリギリ千影の頭上を掠めて廊下へと転がされていく。
           うめき声が小さく響く中、千影はクルルの足元で止まったそれが、今の自分と同じ服装であり、さらに自分の知っている男であることに気づいた。ただ、赤い仮面をつけている彼の折れた腕の断面には、肉や骨に混じって歯車が詰まっているようで、その冒涜的な有様は人間と呼ぶにはやや憚られた。

           

          「おやーん? ごじょーんが吹っ飛ばされてきました……あ?」

           

           不可解な出来事に首をひねるクルル。けれどそのメガミは、千影のさらに向こう、手下を痛めつけたであろう下手人の姿を目の当たりにして、口を開いたまま固まった。
           彼女の視線、その先。
           千影もまたそれを追えば、扉の向こうで毅然と薙刀を構える少女が一人。

           

          「ひ、さめ……?」

           

           そこには、千影が思わず息を呑んでしまうほどに存在感を放つ細音が、クルルと対峙するように光のない瞳を向けていた。

           

           

           

           


           こうして、愛の戦士……もとい、楢橋平太の活躍によって、氷雨細音は再び舞台に上がることを許された。
           決して表舞台に上がらない小悪党。全てを知るカナヱだからこそ、こんな陰の立役者も語れるというものさ。

           

           さあ、こうして改めて英雄は四人、決戦の地に立ち並んだ。
           計画は概ね予定通り。
           だけど、彼女たちにとっての本番はあくまでこれからさ。
           この先の戦いはこれまで以上に強敵揃い。彼女らが如何にして立ち向かうか。ご期待あれ。

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

           

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          『桜降る代の神語り』第60話:狂気の坩堝

          2018.07.20 Friday

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             誰でも脅威の不在は願うものだろう。生きている限り、人は安心を求めるものだ。闇昏千影は最悪なことに、そんな大いなる脅威――それも、狂気そのものと出くわしてしまった。

             

             一度離れられたことは、状況としては幸運だろうね。しかし、心のうちにおいてはどうかな。居るか居ないか分からなくても関係ない。いやむしろ、分からないからこそ恐ろしいんだ。脅威も、狂気も、そこにいるかもしれないからこそ恐ろしいんだからね。

             

             

             


             最初私は、叫びたい衝動を抑えるのに必死だった。

             

            「はぁーっ……」

             

             一つ、最後に大きく息を吐いて、荒れる感情をなんとか胸の内に留めることに成功する。それでも、ホロビとの再会を邪魔された怒りは、私を取り囲んでいる薬品棚をいつ拳の形で襲うか分からなかった。
             何も、まさにその瞬間に来ることはないのに。
             あのメガミの言動から察するに、滅灯毒から発されるホロビの気配に惹かれてきたようだ。少しくらいは覚悟していたが、かといってどこかに置いてくるなんてできない。ホロビ自身の気配と混ざればあるいは、と思っていたけれど、無駄だったようだ。

             

             ひとりぼっち。その感覚に、少し身震いした。ホロビを奪われ彷徨っていたあのときに似ているようで、もっと相応しい出来事があるような気もする。
             クルルの道具の効果は、理屈こそ不明なものの結果は歴然。床板を叩いて符丁を送ってみても、藤峰は反応しなかった。受け取る余裕がないのか、受け取れるほど近くにはいないのか……おそらく後者だろう。
             幸いだったのは、周辺に人の動きがなさそう、ということ。クルルが私を捕まえるのに、研究員たちを動員しないとも限らなかったが、至って静かなままである。

             

            (だから、まだ、千影にはやれます)

             

             クルルのあの様子では、私と離れ離れになったのは誤算のはずに違いない。ヤツが私を見失っているうちに、一人だろうとホロビを助け出すのだ。
             もちろん、他二人との合流なんて待てるわけもない。より広域の符丁には口笛などを使うが、それですら発見される手がかりになりかねない。半ば偶然でやり過ごせたが、もう一度クルルに見つかることはそのまま死を意味する。それだけは、断じて避けなければならない。絶対にだ。

             

             屋敷のどこぞとも知れない場所に移動させられたのは、ある意味運が良かったかもしれなかった。どちらにせよ、隠し部屋への扉をどう開けるのか、調べる必要があったのだから、押し通って引き返すよりも被害は少なく済んだはずである。
             あの場所まで戻りながら、手がかりを手に入れる。言うは易く行うは難し、と言ったところではあるものの、これは絶対にやり遂げなければいけない任務だ。ここで引き下がったら、より厳重な場所にホロビが移される可能性だってあるのだから。

             

             そうと行動方針を決めた私は、念を入れて周辺の音を再び探ってから、慎重に廊下へ身を躍らせる。ただ薬が置いてあるだけの場所にもう用はなかった。
             研究所は、ついさっき死線を潜り抜けたのが嘘のように静寂に沈んでいた。無音が耳に痛いのは夜間の潜入任務では普通だが、それにしても度を越している。かなり外れのほうにいるのだろうか。落ち着かせたはずの心臓の音が耳障りで仕方ない。
             と、一つ向こうの曲がり角で、灯りがゆら、と。

             

            「…………」

             

             じっ、と。押し黙って、止めた抜き足に力を込めて構える。
             だが、誰かが現れる気配はない。足音もないことを確認して、再び歩を進める。
             クルルは研究員たちとは違い、灯りを持っていなかった。だから、注視すべきは増す明るさではなく落ちる影。今回は行灯の炎がただ揺らめいただけのようだったが、いつそれがあのメガミがやってきた証になるとも限らない。

             

             ふすまに耳を当て、中に誰もいないことを確認してから、指二本分ほど開ける。そして、らしいものがなければ次へ。
             各部屋を吟味する時間もない今、私が探しているのは私室だ。それも調度が整っているものが望ましい。地道な潜入であれば迂闊な覚書をゴミから探してもいいが、秘密を握っているような立場ある者の身の回りから調べるのが最も手っ取り早い。

             

             ひと部屋、またひと部屋と覗き、僅かながら埋められていく地図からの推測も交えながら、努めて冷静に探索を急ぐ。
             そして調べた数が十を超えた頃、突き当りに設けられたふすまに珍しく鍵がついていることに気づいた。ふすまの縁と柱に用意した取っ掛かりを両方またぐように錠がかけられている。見上げれば、欄間には歯車を並べた模様の彫刻が成されていた。

             

             漂ってくる当たりの匂いに、私は取り出した二本の針をすぐさま鍵穴に差し込んだ。その錠は一応の警戒のつもりなのか特別なものではなく、あっさり外れてしまう。罠の可能性を考えてしまうほどだが、私には部屋の主に心当たりがあった。
             私室というより広間のほうが似つかわしい畳敷きの部屋に侵入した私は、爪の先ほどの隙間だけ残してふすまを閉じた。書き物机の上の硯には墨汁がまだ揺蕩っており、束にして積んでいたであろう資料の山が、その脇で見事に崩壊していた。

             

             座布団の横で空になっている金色の茶碗を見て、ここがクルルの手下である五条の部屋だと確信した。短い付き合いだったが、クルルの前では迂闊に出せない見栄っ張りを、こういった趣味の悪い調度品で発散していたことは知っていた。
             彼の立場の高さを思い出しながら、散らばった資料の中から目についた書を手にとった。綴じ方が雑だったのか、解けて中を私に向けて晒していた。少しだけ見えた紙面には、人体らしき図が載っている。

             

            (実験の記録でしょうか……)

             

             それは、ミコトを捕まえてあれこれ試しているのなら、という妥当な推測だった。
             だが、実際に内容を目にした私は硬直した。

             

            「う……」

             

             そして、その内容が冗談や空想の類ではなく、事実を淡々と記録しているのだと理解して、背筋を舐め上げられているような気分になった。
             結論から言えば、それらは神渉装置、ひいてはメガミの力を引き出す研究に関する実験の記録であり、ミコトに対する実験の記録でもあった。
             これによれば、過去にはミコトの肉体そのものに着目して様々な実験を行ったようだった。切り落としたり、継ぎ接ぎしたり、特に手への執着を見せていたそれは、無感情に成果がないことを報告していた。

             

             別の一冊もまた同じようなものだった。そこには、装置に人間を繋ぐのみならず、人の身体の部位を絡繰で置き換える実験の記録が綴られていた。手足や臓腑を置き換えるのだから、当然失われた命にも言及されている。あくまで、淡々と。
             さらに読み進めていくと、途中から字が少々汚くなり始めた。人間の頭部の挿絵に悪寒が走るが、そこに添えられた生々しい文章が、被験者自ら筆を執ったものだと気づいて身の毛がよだつ。五条綴という被験者の名前を見たところで、狂気が染み込んでくるような錯覚に陥った私は、その書を投げ捨てた。

             

            (オボロ様の実験動物のほうが、まだ可愛く見えますね……)

             

             気分を害しただけで収穫のなかった資料を捨て置き、部屋の探索へ戻る。
             壁際では転倒を免れた書架が大量の書物を床に吐き出していたが、似たような実験記録かもしれないことを考えると後回しにしたかった。
             と、彷徨わせていた視線は、倒れていた棚に注がれた。下敷きになっている大量のがらくたの中に、いくつか彩りが生まれていたのだ。

             

            「また……」

             

             それは寄木細工の小箱たちであった。秘密箱である可能性も浮かんで気にはなるものの、クルルの落とした謎の絡繰との相関を嫌でも考えてしまう。何が起きるか分からない以上、なるべく近寄りたくなかった。
             だが、転がっていた小箱の近くに、紙で緩く包まれた小箱を見つけた私は、流石に見逃すことができずに、手袋をしっかり嵌めてから拾い上げた。小箱自体はやはり秘密箱だったようで、分かりやすい口がどこにも見当たらなかった。
             手がかりになったのは、その包んでいた紙のほうである。

             

            (『新東南地下階段用。人員選抜……了。指揮・浅田。着工は――』……)

             

             さらにその覚書は、日取りと費用の話が続いていた。筆跡からするに五条のものだ。
             この小箱がどこかの場所を示している……それを理解した私は口を歪めた。これだけ分かれば十分だった。
             これが、鍵だ。もっと言えば、扉そのものだ。連中はこの研究所に仕込んだ隠し部屋を、秘密箱に見立てて設計しているのだ。

             

            (どれがあの部屋のものかは分かりませんが、関係ありません……!)

             

             いっそのこと、全て解いて全て覚えてしまえばいいのだ。そうでなくとも、秘密箱の解法は手がつけられないほど選択肢が多いわけではない。一通りの解き方を知っていれば、あとは試行と観察が鍵となる。この程度は子どもの頃から仕込まれていたものだし、覚えてしまうのも可能である。

             

             だから、そう。あとはあの場所に戻るだけ。
             その、はずだった。

             

            「ごじょぉーーーーーーんっ!!」
            「……!?」

             

             あまりに緊張感に欠けたその叫び声に思わず振り返った私は、いきなり差し込んできた明かりを背負った、女にしては大きな人影を認めてしまった。
             私が侵入してきたほうとは、反対側のふすまを開け放ったその女は、私の姿を認めると首を傾げ、しかし得心がいったように頷いた。
             ふざけたように敬礼する姿が、場違いにもほどがあった。

             

            「同志ナニガシ、ハッケンであります!」

             

             クルルが一歩、私へ踏み出したのを見て、私は一目散にその場から逃げ出すことを選んだ。

             

            「ひぁ……!」
            「あっ、あれぇー? 鬼ごっこの時間じゃありませんよーぅ」

             

             出会ったら死。顕現体のメガミとはそれだけの爆弾であり、この地上で最も敵に回してはいけない存在である。決まりのない殺し合いにおいて、そもそも力を借りる側が、貸す側に敵う道理などない。万が一の綱渡り自体が、命をすり減らすのだ。
             この期に及んでクルルはまだ私のことを研究員だと認識しているようだった。けれど、手下のミコトも実験台にするような輩では、それだけでは命は保証できない。

             

             迅速にクルルとは逆の廊下に駆け込むが、追う足音はゆったりとしたままだ。
             けれど、

             

            「しょうがないですねー。えいや☆」

             

             その一声の後、ガコン、という音と共に、私の行く手を大きな物体が遮った。
             いきなり天井からぶら下がるようにして落ちてきたそれは、樹で円を模った上で、中心軸から木製の鳥の羽根のようなものが三枚取り付けられていた。
             意表を突かれ、咄嗟に距離を取った私を他所に、その三枚の羽根がぐるぐると回り始める。それは一呼吸置く暇もなく、目で追うことができないほどに加速し、結果として廊下を猛烈な嵐が吹き荒れた。

             

            「あっ……や、あぁ……ッ!」

             

             経験したことのない強風に耐えきれず、咄嗟に柱を掴んだ手も離してしまい、廊下を無様に転がされた挙げ句、広間まで引きずり戻された。
             慌てて起き上がり、風の弱い位置で体勢を立て直す。退路は風起こしの絡繰で塞がれた一つを除き、残り二箇所。クルルが入ってきた場所か、さらにその奥か。どちらもクルルの側であり、絶望的なまでに遠い。

             

             さらに、苦無をこれ見よがしに構えたところで、クルルの歩みは止まらない。ただひたすら、懐の滅灯毒に意識を注いでいる。
             それがホロビとの関係を邪な目で見られているようで、我慢ならなかった。だから私は、クルルを大きく迂回するような軌道で駆け出しながら、苦無をヤツの脳天目掛けて放った。

             

            「おぅっ……!?」

             

             クルルは避けようともせず、額に直撃した苦無の衝撃で頭を仰け反らせている。

             

            (そ、そんな程度で終わるはずありません……!)

             

             できればそうであって欲しいと願いつつ、退路へ向かってひた走る私だったが、そこへまたしても場違いな声が。

             

            「くるるーん☆ ひらめきましたっ!」

             

             

             仰け反らせていた頭を勢いよく戻したクルルは、血も出さずに額に苦無が刺さったまま、笑顔を作っていた。もちろん、その笑顔は私に向けられている。

             

            「ひぅ……!」
            「簡単なことでした! 活きが良くて困ってるなら、活きを悪くすればいいじゃありませんか!」
            「なに、を……」

             

             私の抗議も聞かず、ヤツは手のひらを上に向けると、なにもない場所から数々の木片が現れた。そしてひとりでに組み上がっていくそれに恐れを覚えた私は、妨害するようにヤツの右手めがけて毒針を放つ。

             

            「およ」

             

             またしても、クルルは避ける素振りすら見せなかった。針先に塗った、身体を弛緩させる毒が瞬く間に巡り、だらん、と腕が垂れ下がる。
             しかし、だ。
             それでも絡繰は、小箱の形となって元の位置で着実に組み上がっていた。

             

            「は――」

             

             阻止ができなければ、無慈悲に攻撃が繰り出されるのは道理だった。
             使えない腕の代わりに、宙に留まる小箱へクルルは顎を振り落とす。

             

            「ぽちっとな」
            「ぇ、ぁ……」

             

             突然、全身から力の抜けた私は、走り続けることができずに膝をついた。意識はひたすら逃走を叫んでいるのに、そのために必要な大切な何かが失われてしまったようだった。
             なんとか力の入らない脚を交互に出し、少しでもこの場から逃れようとする。行方を眩ませようと背後に放った毒煙幕も、名残のような風にゆるゆると押し流されてしまって意味を成さない。

             

            (こ、こんな意味の分からない存在、相手にするほうがどうかしています……! 逃げます……逃げるんです……! 千影の、脚ッ……うご、いてッ……!)

             

             ゆっくりと距離を詰めてくるクルルは、先に自由になった左手の人差し指をぐりぐりとこめかみに押し当てながら、困惑の表情を浮かべている。当然のようにそのままになっている額の苦無や右手の毒針が、非現実めいた光景を生み出していた。

             

            「うーん、どうしてそんなに逃げるんでしょうか。くるるん、分かりません。ただ、ちょろーっと持ち物が気になるだけなんですから、ちょろーっと調べさせてもらったり、ちょろーっと脱いでもらったりしたいだけなんですってばぁ」
            「い、いや、です、よ……!」
            「むーぅ、しょうがないですねー。だったら一人で勝手に調べるからいいですっ! ぷんぷん!」

             

             ……正直なところ、ここまではまだ、クルルから敵意すら感じなかった。
             クルルの暴力は、台所に入り込んでしまった幼児が、玩具と同じ感覚で包丁を振り回しているような、そんな殺気の欠けたものだった。仕掛けが分からないということもそうだけれど、その殺気のなさは逆に攻撃の察知を困難にしている。それでいて、包丁の切れ味を理解しているのだからタチが悪い。

             

             けれど、そのお気楽そうな宣言が、きっかけだった。
             今まではただ、手段はともかくとして、興味の対象を引き寄せたいだけだった。
             今まではただ、私は滅灯毒に付随するおまけであった。
             それが、変わった。
             私を、明確な排除の対象とした、敵意に。

             

            「びりびりしても知りませんよー!」

             

             クルルの左手の上で組み上がっていくもの――それは、龍ノ宮領でミコトを攫っていた際、五条の使っていたあの雷を生み出す装置だった。
             ……確実に意識を奪うその絡繰を見て、私の恐怖は臨界を迎えた。

             

            「うぅぅぅぁぁぁぁぁあああ!!!」

             

             宙に投げた試験管の一本を、苦無で切り上げる。
             中に収められているのは毒ではない。薄闇の中、淡い桜の光を放つ一本の棒――この戦場においてミコトをミコトたらしめる、我々の力の源。
             私に与えられた最初で最後の神代枝が砕かれ、光と散った。

             

            「なんですと!?」
            「千影の――」

             

             クルルによって奪われた活力を埋めるように、桜の力がみなぎってくる。
             この手に現すのは、私たちを守るための番傘。

             

            「邪魔しないでくださいッ!!」

             

             ユキノに改造させた仕込み傘を振り回せば、桜の光に煌めく長い鎖をその柄から吐き出し、飛び道具となってクルルを強かに打ち付ける。
             けれど、それとクルルが装置を組み上げたのは、同時だった。
             装置が発する光は、目で追うよりも速く、私へ襲いかかった。

             

            「う、ぎょぉー!」
            「い、ぎぁ……っ……!」

             

             ふざけた悲鳴を上げて右に吹き飛んでいくクルルに対し、私の右半身は中から瞬時に焼かれたような痛みに感覚が曖昧になっていた。悪寒に従って寸前で手を離していたおかげでまだマシだったのかもしれない。雷が高い木に導かれるように、傘を伝った攻撃が手袋などお構いなしに私を貫いたのだ。
             ただ、得られた結晶の盾を私の手の前に配していたにも関わらず、それを無視して肉を穿ってきたことに狂いそうになる。このメガミは、私が今まで培ってきた生存のための経験則の悉くを嘲笑っているかのようだった。

             

             崩れそうになる膝をなんとか持ち直し、取り落とした傘を拾う隙も惜しんで手中に再顕現させる。たった一撃で満足に振るえなくなった傘は、もう盾として使うことしか考えていなかった。
             撤退だ。全力を注ぎ込んでの撤退だ。
             貴重な神代枝を使わされたからには――だからこそ、何が何でも逃げ延びる。ミコトとして全力を振るえようとも、英雄なんてくすぐったい響きの肩書を与えられようとも、メガミと戦うなんて自殺行為を図るつもりはない。そんな蛮勇は天音のほうがお似合いだ。

             

            「み、かずらっ……!」

             

             私の呼集に応じ、起き上がろうとしているクルルの周りの畳から、早回しをしたかのように数多の蔓――オボロ様の使役する壬蔓が生えてくる。そしてクルルを樹に見立てたように、その四肢に巻き付いていった。
             雁字搦めにされ、首も締められているヤツだが、その表情はぞっとするほどの笑顔だった。
             間違いなく、私自身にそれは向けられていた。

             

            「それ……噂の、いんすたんさくらぱぅわーに……間違いありません! どうやったんですか!? 圧縮の方法とか、知りたいです! っていうか自分で調べますし、くるるんにそれくださいよぅ! 意地悪しないでぇ!」
            「とび……かげッ!」

             

             無視して別の名を呼べば、宙空に光が結実し一体の大きな猛禽が姿を現す。
             無事だった左腕を掲げると、鳶影は私の手袋をがっしりと掴み取る。そのまま持ち上げ、クルルの開けた入り口から廊下へ飛び込んだ。その先では再びあの風起こし装置が天井から現れようとするが、鳶影の加速によって間一髪くぐり抜ける。
             右手で引っ掛けるようにして持ち続けていた傘の顕現を解き、後ろで回り始めた装置目掛けて一本の青い毒の入った試験管を放り投げた。直接攻撃は効かないが、風に乗った幻覚成分なら時間稼ぎくらいにはなるだろう。

             

             私は研究員たちに見つかる危険も顧みず、背後で喚き続ける狂ったメガミから逃げるのを鳶影に任せ、回復に努めた。
             私は、また死なずにいられたのだ。
             それがとても嬉しくて――とても、胸をざわつかせた。

             

             

             

             


             足音が増えたように聞こえたのは、気の所為でしかなかった。
             けれど、その帰結を私は受け入れ切れずにいた。

             

            「あぁ……う、ぅぅ……」

             

             神代枝の効果が終わり、鳶影が去った今、私は音を気にしながら移動する、元の動きに戻っていた。
             あれだけ派手にクルルがやったというのに、研究所が広すぎるせいか、日常茶飯事なのか、五条の部屋へ向かった忙しない足音は三人ひとまとまりのものだけだった。そんな幸運を噛み締めながら、私は隠し部屋の探索を続けていた。

             

             神代枝によって窮地を脱し、受けた痛みも鳶影の助けでだいぶ和らいでいた。
             けれど、身体は休まろうとも、心はむしろ削られていく一方。
             無理はない。私は、思い出してしまったのだ。
             あの日、同じように一人潰走することになった、陰陽本殿でのあの惨劇を。

             

            「あ、あぁぁ……またなんて、いやです。いや、ぁ……」

             

             音を拾えるから、という言い訳をしながら、壁に身体を預けるように進んでいく。
             今まで引っかかりを覚えていたのは、強大なメガミの脅威に曝される、という状況そのものだった。藤峰、楢橋とはぐれ、味方の姿が見えないことも同様だ。
             飲み込めていたようで、喉元につかえていた。
             それが、脳裏をよぎる血の海という形となって幻出し、私を蝕み始めていたのだ。

             

             耳できちんと足音を捉えているはずなのに、ありもしない別の足音が迫ってくるような気がしてならない。
             曲がり角を照らす行灯は揺らめいていないのに、そこに気配を感じてならない。
             あまつさえ、自分の身体によって生じた影が、追手のものに見えてならない。

             

             千鳥が迎えに来てくれるまで、私の心をずっと掴んで離さなかったものが、この局面で再び鎌首をもたげていた。里への誤解が解けたところで、ホロビを求めるに至ったあの事件を忘れられるはずがなかったのである。
             思えば、この想起は遅かれ早かれ為されていただろう。
             ホロビたちを助け出した次は、天音本隊への助力をする手はずになっている。そこに待ち受けるとされているのは、あのウツロだ。オボロ様は別の手を打っていると言っていたけれど、今はもう信じたくとも誰も信じられない。

             

            「ふーっ……! ふぅぅっ……!」

             

             また荒れ始めた息を、手で口元を覆って収めようとする。
             ……何を考えても、血みどろの結末に辿り着いてしまう。けれど、この頭を疎み、考えを断ち切ろうとする余地があることだけが幸いだった。

             

            (ホロビを……今は、ホロビのことだけを……)

             

             呪文のように唱え、荒れているなりになんとか任務へと考えを向ける。
             そうやって人気のない廊下を進んでいると、途中で左に折れるその先から、次第に他人の息遣いが聞こえてきた。動き回っている様子はなく、一箇所に留まっているようだった。
             ちら、と覗き見れば、暗がりの果てまでずっと牢の続く一角であった。

             

            (楢橋が、知り合いを牢から助けたと……)

             

             そんな情報を思い出した私は、衛兵の類がいないことを確認してから、牢の通りに入る。
             一つ目の牢には、誰も入っていなかった。
             二つ目の牢は、そもそも開いていた。
             そして三つ目の牢に差し掛かる、その直前だった。

             

            「だせッ! だせよォッ!」
            「っ……!?」

             

             ダン! と格子に掴みかかる音と共に、いきなり浴びせられた怒声に飛び退る。けれど、その男の声に含まれる怒りと怯えが、彼の境遇と心理をそのままを示していた。
             もう一度周囲を伺ってから、私は三つ目の牢を遠巻きに眺めた。
             予想通り、格子を掴むやつれた男の手の甲からは結晶が突き出ていた。捕らえられ実験台にされているらしいミコトに違いない。
             そのミコトは、私の姿を目の当たりにして、さらに吠え立てる。

             

            「ああぁぁぁぁッ! やめろ、これ以上俺を繋ぐんじゃない! 殺す、生きて出たらおまえら絶対に殺してやるからなッ! おまえらが奪ったヒミカ様の火で、全員焼き殺してやる……!」
            「…………」

             

             そんな届かない殺意を向けられて、今の私は研究員の姿であることを思い出した。
             ここが研究所内のどの位置にあたるのか、少しでも参考になる話を引き出そうと思ったのだが、彼を宥めて私の立場を理解してもらうその時間がもったいない。それに、今の大声で誰かが駆けつけてくるかもしれない。助け出すなんてもってのほかだ。

             

            「い、生きていれば、また会いましょう」
            「おい、なんだと!? 待て、出せっつってんだろッ!」

             

             今の私に他人を慮ってやれる余裕はない。八つ当たりのような別れの言葉を告げ、踵を返した私に投げつけられる罵声を聞き流し、足早にその場から遠ざかる。
             何も得られなかった寄り道のようだったが、ほんの少しだけ冷静になれた気がした。荒れている他人を見て自分を顧みることができれば、まだやれる。また静かな廊下に戻った私は、何度だってホロビへ至る道を探すのだ。

             

             ……それから私は、もうしばらく彷徨っていたが、途中で見覚えのある道に差し掛かった。楢橋が下手を打った、あの廊下だ。
             ようやく、頭の中で地図が繋がった。

             

            「ふひ……ひひ」

             

             思わず笑みが溢れる。あとはただ、記憶通りに辿っていくだけだった。
             室内で作業中の研究員がいたところで関係ない。正解の道を見つけ出した私の身体は、先程の戦闘が嘘のように軽かった。抜き足はよりいっそう無音で、私はひたすら無味乾燥な廊下を駆け抜けた。

             

             ……時間にして、どれほど経っただろうか。
             長い長い迂回の末、私はようやく隠し部屋の前まで戻ってきた。行灯以外何も置かれていない、うら寂しい廊下の最奥で、その扉はずっと待っていたように変わらぬ姿で私を出迎えてくれた。

             駆け寄った私は、自分の推測が当たっていたことに口が緩むのを抑えられなかった。この廊下の壁に一箇所だけ、凝視すると切れ目のようなものが伺える場所があった。何度か仕掛けを解いているうちに、切り口同士が擦れて目立ってしまっているのだ。
             よく、隅々まで観察し終えた私は、切れ目と擦れている箇所から、頭の中でいくつかあたりをつけていく。

             

            「あと少し……ホロビ……」

             

             予想した手順を試しながら、言い聞かせるように小さく口に出す。
             と、

             

            「……!」

             

             ずず、と。
             扉の真ん中より左、私の手と同じくらいの幅の板が、床を突き抜けて下にずれた。
             秘密箱の仕掛けの、その一手目が解かれたのだ。

             

             私は暗い興奮を抑えるのに精一杯だった。
             残されたホロビへの道は、あと何歩で終わるのだろう、と。

             

             

             

             

             


             拝借してきた行灯の灯りが、上から降り注ぐ光と混じり合う。

             

            「ぷはーっ!」

             

             黴臭い床下から逃れるように、外した床板から顔を出した楢橋が大きく新鮮な空気を取り込んだ。
             クルルとの遭遇後、千影同様に研究所の何処かへ飛ばされていた彼だが、そこは偶然にも過去侵入した際に通った道だった。隠し部屋との位置関係も把握しており、はぐれた二人を探しながらでもあっという間に付近まで戻ってこられたのである。

             

             ただ、千影の忠告を覚えていた楢橋は、先にたどり着いたから、と天井裏を使って隠し部屋に侵入することはしなかった。そのかわり、上がだめなら下から、と床下からの侵入を図ったのである。
             土にまみれた彼の腕には、これ見よがしに複製装置が取り付けられている。戻りがけに失敬したそれは大地の力を宿したものであり、複雑な研究所の土台を物ともせず、穴を掘っての侵入を大いに助けた。

             

            「ぺっ、ぺっ! うー、口に入った」

             

             彼が立つその部屋は、到るところに火の灯った行灯が配されており、彼が暗闇に惑うようなことはなかった。
             部屋そのものは大きいのだろう。けれど広さを感じさせないのは、物が雑多に置かれているためだ。書架はもちろん、瓶がぎっしりと収められた棚が並んでいたり、がらくたの山があちこちで積み上がっていたり、いまいち配置に秩序を感じられない。
             ただ、そんな部屋の中央にも、特別手をかけているとひと目で分かる品が安置されていた。

             

            「これこれ、これだよー」

             

             前面が硝子張りになった、筒のように丸みのある大きな容器。それが、何処かに繋がる何本もの太い線に繋がれていた。その隣には、似たような大きなのものが存在していただろう空白が残されている。
             彼がそれを見るのは、これで二度目だった。間近で見るそれは、中身も相まって柩のようだと不謹慎なことを考えてしまう。
             そして、この中で彼女が眠っているのを見るのも、二度目だった。

             

            「おっひさー、細音サン。……って、聞こえてないか」

             

             あのときから変わらず、一糸まとわぬ姿で寝かせられていたのは、救出対象の一人である氷雨細音その人だ。軽く表面を拳で叩いたところで返答はなかったが、小さく上下する胸が生を主張していた。
             まずはここから出そう。そう思い立つ楢橋だが、硝子の部分はいくら押したり引っ張ったりしたところで動く様子がなかった。泥棒とは違い、収められた箱を壊して中身が無事であるとも限らず、硝子面の破壊は避けたいところである。

             

            「なんだろなー、やっぱり絡繰仕掛けにでもなってるのかなー」

             

             額を拭いながら、袖の下でつけっぱなしだった、元々持っていたほうの複製装置を窮屈そうに外す。力技は通用しないと予想する彼は、柩の側面や太い線との繋ぎ目、さらには床までも念入りに調べて回る。

             

            「これは――これかっ? ……だめかあ」

             

             しかし、それらしい突起や穴、装飾はいくらあっても、柩の留め具が外れるとか、ひとりでに開き始めるとか、そういった結果が現れることはなかった。
             進展を得られないと悟った彼の目が留まったのは、そこここに積み上がったがらくたたちである。足りない部品が紛れ込んでいれば上々、苦肉の策でこじ開けるにしても道具が欲しいのは事実だった。

             

             そうやって、どっしりと腰を落ち着けて、使いみちが分からなかったり玩具にしか見えない物たちと格闘することしばらく。
             大量の歯車で目が回りそうになっていた彼とは別の声が、隠し部屋に生まれる。

             

            「おい、誰だ」
            「……っ!」

             

             びくり、肩を震わせ、手を止める楢橋。
             背後から投げかけられた誰何に、慎重に僅かだけ振り返る。
             今の楢橋と似た研究員らしき装いとは別に、目を引きつけられる猿のような形の赤い面をつけている。
             要注意人物とした挙げられていた、里を襲った赤面の男だ。

             

            「何故ここにいる。全員、表の片付けに回したはずだろう。怠け者はクルル様付きに回してやるからな」
            「…………」
            「答えろ。名前は? 所属は? それとも――答えられない理由でも、あるのか?」
            「っ……」

             

             息が詰まり、背中を冷や汗が流れる。
             楢橋にとって、追い詰められる状況というのはそう珍しいものではない。今回は命にかかわると頭では理解していても、度々お縄についている彼は、幼稚な策であってもごまかして逃げよう、という染み付いた思考に基づいて、手を動かしていた。
             一歩一歩、距離を詰めてくる赤面に焦りを覚えた楢橋は、先程までがらくたを漁っていたその手に、こつん、と当たった物に、惹きつけられた。

             

             彼の直感は、それを選択した。
             あとは、口八丁の時間である。

             

            「東で少女が泣いていたらこれを助け――」
            「……?」

             

             す、と無言のまま、背を向けて楢橋は腰を上げる。

             

            「西で淑女が嘆いていたらこれを助け――」
            「おい」
            「たとえ地の果て天の果て、その手は女の涙を拭うため、今日も人知れず夜を駆ける」

             

             立ち上がった楢橋が、拾ったそれを――歯を見せて笑う髭男の面を被った。
             そして、赤面の男へと振り返る。

             

            「愛の戦士・メガミマン、ここに参上!」

             

             ……何故だろうか。物音もあまり響かないはずのこの部屋の中で、楢橋の耳には、虚しく響き渡る己の名乗りが染み込んでいった。
             気まずい空気が両者の間に流れる。が、そういった沈黙に耐えられないのは他ならぬ楢橋自身であった。

             

            「……みたいな感じで、どうっすかね?」
            「なるほど、死にたいようだな」

             

             赤面の男の手の上では、馬鹿にされた怒りを示すかのように炎が燃え盛っていた。

             

             

             

             


             闇昏千影が何度手を伸ばそうとも、脅威は二度、三度と立ち塞がる。
             遠いあと一歩。彼女は果たしてこの狂気から逃れ、悲願を達せられるのだろうか。


             しかしその裏では、狂言めいた対峙が成立していたわけだ。どうにも馬鹿げているようだが意外にも笑えない。これもまた、欠かせぬ決戦の一つであるわけだからね。
             そう、次はこの仮面たちの衝突を語ることにしようじゃないか。

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

             

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