『桜降る代の神語り』第59話:潜入

2018.07.13 Friday

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     闇昏千影たちの行動を語るには、時間を少し遡る必要がある。
     天音揺波たちが土石流に乗って順調に行程を消化している、まさにその最中。
     地震の余韻が未だに残る瑞泉の都を、闇昏千影たちは夜陰に紛れて侵攻していた。
     
     そう。彼女の大切な存在を、取り戻すためにね。

     

     

     


     港から蔵町を通り、西寄りに少しばかり北上すると、ぱったりと蔵がたち消える場所がある。用水路に囲まれたそこは人通りも少なく、木組みの塀にぐるりと囲まれた大屋敷だけが、尋ね人を拒むかのように月明かりの底で鎮座していた。
     千影は、夜空から逃れるように蔵の壁に背を預けながら、そんな屋敷をじっと見つめていた。あるいは彼女は、屋敷ではなく、その中にいるはずの誰かを壁越しに見つけ出そうとしているかのよう。瑞泉・クルルの研究所と目されるそここそが、彼女がこの地に来た大目的なのである。

     

     と、背後から聞こえてきたわざとらしい荒い息遣いに、彼女は張り詰めさせていた指の力を僅かに抜いた。

     

    「あぁ……居た居た……よかったぁー!」
    「遅いぞ」

     

     姿を現した楢橋へ、千影と共に警戒を緩めた藤峰が短く、声を抑えつつも叱咤する。地震によって商人たちが巣を突かれた蜂のように騒いでいたにも関わらず、不自然なまでに静かなここ蔵町の外れでは、楢橋の声はよく響いた。
     その意味を介した楢橋は、意図して声を潜めながらも、叱咤への反論を止めることはない。

     

    「そんなこと言ったってさー、もー! あんな厳つい連中の前に置いてくなんてありえなくない!? 場所知ってるオレっち見殺しにしちゃったら意味ないでしょー! 危ないから荷馬車も捨てなきゃいけなかったしさあ……おかげで疲れちゃったんだけど?」
    「見つかる危険を冒して時間稼ぎしてあげたんですから、感謝してくださいよ」
    「違うの! そうじゃなくて、むしろ今はこっちを労って!?」
    「だから無駄口を叩くな」

     

     再度の指摘に、楢橋は口を尖らせながら肩をすくめてみせる。
     そんな様子に呆れたように小さく息を吐いた藤峰は、背負っていた風呂敷包みの口を器用に片手で解き、腕の上で広げてみせた。
     その中に入っていたのは、真新しい三着の服だ。やや青の差した白地の上下であるが、黄色地の袖には半分になった歯車が、上下で噛み合うような模様の細かな刺繍が施されているのが目を引いた。

     

    「これで間違いないか?」
    「そう、ですね……。確かに奴らが――」
    「そうそうこれこれ! 一回着たしそりゃ覚えてるってー。流石銭金のおっさん、顔の広さだけはソンケーしちゃうね」
    「…………」

     

     楢橋に倣い、そのうちの一着を手に取る千影は、忌々しさを隠すことなくその瞳を澱ませる。
     二人から是を受け取った藤峰を皮切りに、示し合わせたように背中合わせとなって、その白装束に身を包み始める三人。今まで商人として振る舞ってきた千影たちは、袖に腕を通すことで研究員の身分を得ていくのである。

     

    「千影ちゃん、お着替えてつだおっ――」
    「刺しますよ」

     

     言葉とは裏腹に、振り向こうとした楢橋の顔のすぐ横を通って、一本の針が道に積まれたままになっていた空の木箱に浅く刺さる。その針の先が妖しく濡れていることに気づいた彼は、固まった笑顔のまま首を戻し、袴を履く作業に戻った。
     そんな楢橋だったが、ふと、

     

    「ねえ、そういえばなんで天井裏通らないの? 変装してるって言っても、入り方見つけるのにぶらぶらしてたら危ないっしょ。こそこそ上通ったほうが確実じゃない?」

     

     それは泥棒である彼にとっては、半分程度本気の疑問だった。金品へと一度たどり着けた経路というのは、カモがカモであり続ける限り有効だ。盗まれていることが分かったとて、精々置き場所を変えたり門番を叱るくらいで、根本となる天井裏への侵入経路を塞ぐ者はそうそういない。
     けれど、彼はそれなりに腕の立つ泥棒ではあるが、前科を延々数え上げられるくらいには縄をかけられている程度の泥棒でもある。
     彼が今、行動を共にしているのは、より深く陰に潜む者。そして、死に対する嗅覚を研ぎ澄ませた者である。

     

    「道筋は確実でも、安全性は確実ではありません。あなたたち、クルルに見つかったんですよね? 敵対してるメガミにですよ?」
    「いや、そうだけどさ。まあ、見つかったのオレっちじゃないけど」
    「千影なら、絶対に天井裏に罠を仕掛けます。向こうはこっちの狙いを分かってるんですから尚更です。一度使った道どころか、見つかった道を使うなんて自殺するようなものですよ……? 分かってるんですか……?」

     

     千影の嫌悪感は、楢橋にだけ向けられているわけではなかった。それはここまでの旅で初めて本格的に表現された感情であり、苦笑いで謝罪した彼をよそに、手袋で隠された右手の甲を撫でるにつれて、千影の中へと戻っていった。

     

    「よし、最後の確認だ」

     

     そして変装を終えた彼女は、藤峰の言葉をきっかけとするように、陰から月明かりに照らされた研究所を睥睨する。

     

    「これより我々は、瑞泉の研究所に潜入、楢橋の発見した隠し部屋への正規の入り口を探し出し、囚われているホロビ、氷雨細音両名を救出する。可能であれば二人を戦力とし、脱出。以降、天音本隊への支援へと移る。以上、質問は?」
    「早く……早く、行きましょう」
    「……ああ」

     

     研究員となった三人が、明るみに躍り出る。彼女たちが小橋を通って足を向けた先には、長く続く塀の切れ目、研究所の裏口がぽっかりと口を開けていた。
     守衛はいない。それに準じるであろう研究員は先程まで居たが、中から出てきた別の研究員たちに呼び戻されていたところを、先に到着した千影たちが確認していた。

     

     一歩、誰にも見咎められることなく、堂々と敷地へと踏み入れる。端に雑に放置された木材がうら寂しげだが、口を開ける玄関のその向こうに見えるのは、どたばた、と静寂とは程遠い忙しない人の駆け回る姿であった。

     

    「ホロビ……もうすぐですよ……」

     

     人知れず呟いた言葉は誰の耳にも留まることがなかったように、彼女たちの戦いは静かに、幕を開けた。

     

     

     

     


     迷宮、というほどではないが、いかんせん広い。見通しの立たない屋内というのは、それだけで強い方向感覚を求められる。天井からはある程度の数、行灯が吊り下げられているおかげで、暗闇でこそないものの、仄暗い屋敷は心理的にも歩きづらい場所である。
     しかし一方で、暗さというものは適切に扱えば味方となり、半端な備えはかえって自分に牙を剥く。

     

    「左」

     

     そう呟いた千影が視界の端に捉えていたのは、左手に伸びる廊下の先の四ツ辻に、うっすらと差し込んだ光だった。何者かが灯りを持って差し掛かったその兆候を察知し、三人は無用な接触を避けるべく、今いる広間から奥の廊下へと歩を速める。
     夜分にも関わらず、研究員たちの足音の数は千影が耳にしただけでも五人はいる。彼らは灯りを持って所内を巡っているらしく、もしかしたら商人たちのように備品設備の点検に追われていると思われた。千影としては、想定よりずっと少ない人数でいるうちに事を済ませたいところである。

     

     無論、研究員に化けているのは怪しまれないためであるが、千影や楢橋が服を覚えていたように、研究員の中に二人の顔を覚えている者がいないとも限らない。そんな者と出くわせば実力行使する他ないが、救出のための潜入で派手に行動する必要もない。
     何より、彼女たちには絶対に見つかってはならない相手がいるのだ。

     

    「逸れてる。右だね」
    「もう一本先だ。いるぞ」

     

     楢橋の頭の中の方向を頼りに進みつつ、忍二人が研究員を察知して誘導していく。三人の足音が限りなく小さいためか、一部屋挟んだ向こう側で床板が軋む音すらも、すぐ隣から聞こえてくるようであった。
     研究所は、作業を行うためと思しき広間がいくらかと、無数の小部屋がそれ以外を埋めるように乱立していた。文机の並んだ畳敷きの広間では、地震の影響か壁際で書架が何枚も背中を晒していて、所内での地震の被害の程度が伺える。

     

     と、

     

    「っ――! 痛ったぁ……!」
    「……!」

     

     左右を部屋に挟まれた廊下を行く中、楢橋が唐突に足を押さえてうめき始める。瞬時に藤峰が彼の口元を抑えにかかる。
     目で抗議する楢橋の視線を追うと、床に転がっていたのは行灯であった。頭上には、蔓のような紐が揺れており、地震によってちぎれ落ちたようだった。呆れたように灯りの消えたそれを拾い上げる千影はもちろん気づいていたが、夜目が十分利くのは忍二人だけなのだ。

     

     すぐさまこの場から離れようとする三人だが、悲鳴というものは押し殺していたとしてもよく通るものである。
     右手のふすまが、がらり、と開け放たれた。

     

    「ど、どうしました? 大丈夫ですか?」

     

     現れたのは、ひょろりと背の高い研究員だった。その部屋はどうも倉庫のようで、彼越しに中身を床にぶちまけたたくさんの木箱が転がっていた。
     研究員は目を眇めて千影の手元と足を押さえる楢橋を見比べて、得心がいったように頷くと、

     

    「あぁ、灯りも持たずに歩くからですよ。何転がってるか分からないんですから」
    「いやー、面目ない」
    「ガラス片でも踏んだら大事です。……しかし――」

     

     さらに彼は、三人の顔を順繰りに眺めて、首をひねった。
     そして、

     

    「今日の深夜の番は、原と近藤ではありませんでしたっけ……?」
    「…………」

     

     問を向けられた千影と藤峰の顔に、表情が張り付いた。
     だが、僅かに流れた沈黙を破ったのは、苦無の閃きでも、毒針の煌きでもない。
     二人の様子を見て取った楢橋が、にっこりと笑顔で研究員の肩を叩いた。

     

    「それが聞いてよー。瑞泉サマが臨時に増員せよとのお達しでさ、たまたま目についたオレたちに白羽の矢が立っちゃったわけ。地震で色々大変っしょー?」
    「増員か……それは助かりますけど、いくら大地震とはいえ瑞泉様が珍しいですね」
    「ほら、地震で物が倒れたりもそうだけど、大地が緩くなっちゃったりしてたら危険だから、って。万が一があっちゃ困るのはオレも分かる。分かるんだけど、それってオレも危ない目に遭うってことなんだよねえ」

     

     およよ、と嘘の涙を拭ってみせた楢橋。そんな彼に、研究員はふすまをさらに開けて三人を歓迎するが、

     

    「だったら、ひとまず部品の整理を手伝って欲し――」
    「おーーーっと!」
    「……!?」


    「ごめんねえ。オレらほら、まず指示もらうように言われてるから行かないと。どこらへんにいるか分かる?」

     

     手を合わせての謝罪と共に投げかけられた、曖昧でしかない質問に研究員は納得したようで、一瞬だけ左に目線をそらし、

     

    「なるほど。クルル様なら二号実験室で見かけましたよ。五条さんも資料室にいたはずです」
    「ありがとー探してみる! あとで手伝いに来るから!」

     

     そのまま、研究員の目線の通り、今まで来た道を引き返していく楢橋と忍二人。角を曲がるなり、周囲に他の研究員がいないことを確認すると、音を立てぬよう注意を払いながら、全力で先程の倉庫の前を迂回する。
     その間、じと、とした冷ややで湿った眼差しを千影は楢橋に向けつつも、持ってきてしまっていた行灯を、落下していた別の行灯の傍に置き捨てる。

     

    「なにさー! 自分のお尻は自分で拭いたでしょ!」
    「次は知りませんよ」
    「おい、前だ」

     

     灯りと足音の予兆を受けて、警告する藤峰はどこか嘆息混じりだ。緊張感を失うほどのことではないが、忍にしてみればやり方の大きく異なる者との隠密行動を強いられているのだから、やりづらさを覚えるのもむべなるかな。
     さらに研究員の目をかいくぐりながら、一行は研究所の奥へと突き進んでいく。

     

     

     

     


     コンコン、という小気味の良い木を叩く音が一つ。それと比べてやや重くくぐもった、しかし同様に木を叩く音が一つ。それぞれ前者が右に広がる壁からのものであり、後者は突き当りの壁である。左手の壁は、やや離れた位置でふすまが閉まっていることからも分かる通り、その向こう側に部屋の存在が確認されていた。

     

    「……合ってるみたいですね」
    「どんなもんよ」

     

     得意げに胸を張る楢橋を他所に、千影は僅かに口端を吊り上げた。
     順調に研究所の探索を続けていた一行は、楢橋の記憶と感覚通りに隠し部屋の手前まで辿り着くことに成功していた。見た目上は経路の一つも存在せず、他と何一つ変わらない壁に囲まれた空間であるが、ここに至るまでの部屋の配置が巧妙で、よほど空間の把握に長ける者でなければ見つけることはできないだろう。

     

    「見た目によらず頑丈そうだな。金属で補強してあるのか……」
    「そのようで。用心深くて嫌になります」
    「単純な回転扉の類ではないな。こういう場合は仕掛けがありそうだが――たとえば、隠された取っ手を引っ張るなり、扉自体を変形させて回転できるようにするなり。とはいえ、迂闊に触って罠でも仕込まれていたら堪らんな」

     

     侵入方法を検討する藤峰は、行灯以外ほとんど物のない背後の廊下を一瞥して、小さく嘆息した。
     千影も概ね彼の意見に同意しているようで、

     

    「床を傾けて、自重で勝手に動かす、なんて仕掛けもありましたね。で、ですが、罠は最後にはどうせ待ち受けているものなんですから、腹をくくるしかないんです。幸い、罠避けが1人いるので、一回くらいは間違えてもなんとかなりますよ」
    「ねえ、なんでオレっちのほう向いてそんなこと言うの? ねえってば!」

     

     生贄にされては敵わない、と楢橋は慌てて代案を出す。

     

    「ほ、ほら。普通の力じゃ無理かもしれないけど、今はアレがあるから、ドカンと一発でいけたりしないかな!?」
    「アレ……もしかして、神代枝のことですか」
    「そうそう。メガミの力、ここでも使えるんでしょ? 扉くらい、こう……景気よく吹き飛ばせないもんかな」

     

     身振りで何かがはじけ飛ぶ光景を伝える彼の言葉に、千影と藤峰が少しの間視線を交わしあった。その顔色は決して否定的なものではなかったが、さりとて賛同するわけでもない。
     ややあって、千影は自分の考えを再確認したように答え始める。

     

    「だめですね。これは救出任務なんですから」

     

     えぇ、と残念がる楢橋へ、さらに彼女は、

     

    「救出対象が十全な状態であれば、速攻をかけるという手はないわけではないです。ですけど、ホロビたちが動けない状態だったら、追手を撒くにも一苦労でしょう。安全は最後まで考慮するべきです」
    「うーん、まあ、それは確かに」

     

     開かない扉に手を当てる千影の憂いは、再会まで数間と迫ったところで晴らされることはない。彼女の終着点は、ホロビを救出し、共に生き延びるところにあるのだから。

     

     ……だが。
     それを見据える千影であってもなお、やはり意識を削がれていたのかもしれない。
     自分の心を埋めてくれる者を前にして、恐怖の極地から得られる感性は、ほんの少しだけ、鈍っていた。

     

    「それにですよ。神代枝を使うなら、メガミにはまず気づかれるものと考えるよう言われていたでしょう? クルルとは、可能な限り接触を避けます。メガミから逃げながら救出なんて、できっこないです」

     

     千影がそう、一呼吸置いた、そのときだった。
     この仄暗い屋内に似つかわしくない、脳天気な声が、背後から。

     

    「呼びましたぁ?」

     


    『……っ!?』

     

     一斉に、千影たちは振り返った。
     ぬっ、と。満足に足元まで照らしきれていない灯りの中、隣の部屋の入り口から、一つの頭が真横に突き出ていた。角と歯車を模った髪飾りは重力に逆らう中、青みがかった桃色の髪が、だらんと垂れている。
     それから、ひょっこりと廊下に現れたその女の姿に、千影は震えを押さえつけるので精一杯になっていた。そしてその恐れは、明らかに異質な雰囲気と相まって、直接至近で相まみえたことのない藤峰と楢橋に伝搬する。

     

     クルル。この動乱の主犯格の一柱にして、狂気の生み手。
     千影たちの中に、何故現れたか、を問う者は誰もいなかった。最悪の状況が、想定通りに顕現した、ただその結果に疑問する余裕はない。彼女たちが――特に強く千影が思うのは、何故強大なメガミの接近を察知できなかったのか、ということだった。

     

    「おんや、おっかしーですねえ。ありゃ、むしろおかしくない? おかしくないわけがないわけがないないないなーい、なので、やっぱりおかしい気がするんですよぅ」
    「な、何が……でしょうか」

     

     慌てて言葉を絞り出したのは藤峰だ。
     彼の返答に、ゆっくり一歩ずつ、大げさに頭をひねるように身体を左右に揺らしながら近づいてくるクルルは、

     

    「なんかですねー、みょーなですねー、気配がですねー……うーん、なんでそれを追いかけたら、同志の皆さんに行き着いたんでしょーか。はい! そこのアナタ、元気よくお答えください」
    「え、うぇ!? オレ!?」
    「ぶー、時間切れです。回答権はくるるんに移ります」
    「あ、あの……」
    「でも分かんないんですよねえ……」

     

     両手の人差し指をこめかみに当て、うんうん唸っている。それが演技ではなく、ましてや謀るような意図などないことは、皆で感じ取っていた。
     現れたクルルは何か目的こそあれど、三人を研究員だと思いこんでいるようだった。それは、最悪の出会いを果たした侵入者側にとって最大の幸運でもある。
     藤峰と楢橋は、最初にして最後のその幸運を活かすべく、口を開く。

     

    「く、クルル様。先程の地震の影響で、不安定になっているだけかもしれませんよ。先程から一帯の整理と見回りをしていますが、特にそれらしいものは何も」
    「そうですそうです! 何かあったらお知らせしますから。あー、第一実験室の被害なんですけど、さっきクルル様に確認してもらいたいって言ってましたよ?」
    「そですねー……確かめてみるのが、やっぱりイチバンですよねえ」

     

     明らかに上の空だったその返答に、それ以上言葉を弄することはできなかった。
     一歩、一歩とさらに近づき、楢橋を押しのけ、彼女がたどり着いたのは千影の眼前。迫られた千影は、じり、と限界まで距離を取ろうとするも、元よりここは行き止まりである。

     

    「ここから――」
    「……!」

     

     そして千影は、ようやくクルルの捜し物と、何故接近に気づかなかったのか、その答えを同時に得た。
     焦点が定まっているのかいないのか、あやふやなクルルの視線は、千影の懐に熱く注がれている。クルルが今、それにだけ注目し、興味の全てを注いでいる。
     ……以前、実験台にしたはずの千影を、全く認識することなく。
     当時受けた印象と威圧感は、クルルのおぞましいほどの好奇心に晒された状況で得たものであって、注目されていない現状では気にかかるものではなかったのである。

     

     ただ、クルルにとって不可解だっただろうこの状況が、加速度的に彼女の歪で強大な好奇心を広げ始めていた。たとえ直接好奇の的にされておらずとも、千影にはそれが痛いほど感じ取れてしまう。
     感じ取れてしまうからこそ、千影は耐えられなかった。
     たとえ千影の顔を覚えていなかったとしても、隠し持った滅灯毒に向けられるその好奇心が、ホロビとの繋がりを断った事実には変わりないのだから。

     

    「みょーな気配が、するんですよねぇ」
    「ぅぁ……!」

     

     クルルが、千影の懐に手を伸ばそうとした瞬間、反射的に千影の苦無が閃いた。
     伸ばされたその右手に、黒が突き刺さる。

     

    「うおっとぉ!」

     

     痛みによる悲鳴ではなく、驚きのそれ。
     全く予期していなかったという表情でのけぞったクルルは、そのまま尻もちをついてしまう。
     つい反撃してしまった後悔と、あっけなく攻撃が通った困惑が千影に満ちる。男二人もその感情に倣うように、倒れたメガミの動向を身構えながら見守っている。

     

     と、そんな倒れたクルルの傍の床に、先程まではなかったものが転がっていた。
     それは、幾何学的な模様が四方に描かれた、いわゆる寄木細工だった。手のひら大よりも一回りほど大きな立方体のそれは、転倒に驚いたように天を向いた面をいきなりぱっくりと開いた。
     そして、それに気づいたクルルが、『やってしまった』というように、

     

    「あっ」
    「……!?」

     

     一瞬にして、淡い桃色の煙が場を覆い尽くした。
     理解不能の煙幕に、ひとまず天井に張り付いて逃げようと考える千影だが、それが叶うことはなかった。脚に力を溜めようとした途端、桃色に染まっていく世界が眼前と中心にして渦を巻き始めたのである。
     身体ではなく、感覚と意識がその渦に吸い込まれていく中、強烈なめまいに襲われたように、自分が動いているのかどうなのかさえ不確かになっていく。味方の無事を訊ねることすらもできず、思わず目頭を抑えていることにすら自信が持てない始末。次第にその認識も、立ちくらみのような思考の空白へと消えていった。

     

    「う、うぅ……」

     

     やがてその症状も収まってくると、武器に手をかけるだけの余裕が生まれた。目の前で倒れているはずのクルルに向けて小刀を向ける。
     だが、

     

    「え……」

     

     狂気のメガミは、いなかった。
     それどころか、藤峰も、楢橋も。
     あの謎の煙もねじれていく世界も、嘘だったかのように元の仄暗い研究所の一室だけが、千影の前に広がっていた。

     

     そう、一室である。
     今までいたはずの隠し扉の前の廊下ではなく……薬品棚が乱立した部屋。それが、千影の現在位置だった。
     因果の果てに、彼女は1人、どことも知れぬ場所に放り出されたのだ。

     

    「ふぅー……ふぅーっ……」

     

     高鳴る胸、そして懐の滅灯毒の感覚は変わらない。荒くなっていく呼吸を抑える千影の拳が、強く握りしめられ、それでも震えを孕み始める。
     壁一枚だった距離は、不可解の前に大きく後退したのだった。

     

     

     

     


     いかに人間を騙せると言っても、メガミを騙すのは簡単なことじゃあない。
     優れた感覚、感性……それを出し抜くのは難しいことだけれど、クルルのやつは予想すらも軽く飛び越えてくるから尚更だ。
     そして闇昏千影は、そんな狂気が徘徊する本拠地で、これからあてどない行程を辿ることになる。
     彼女は果たして、救いの手を伸ばし続けることができるのかな?

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

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    『桜降る代の神語り』第58話:大乱戦、再び!

    2018.06.22 Friday

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       奇策を繰り出し、強襲の途上にある天音揺波たち。
       土石流はメガミにだって止められたものじゃない。それに、見てから対応したんじゃああまりにも遅すぎる。
       けれど彼女たちは土石流を輸送手段と扱った以上、策にも当然弱点はある。敵もまた強かなのだから、一切の動乱がないなんて、ありえはしないだろう?

       

       

       


       月明かりに煌めく水面が、瞬く間に土に濁っていく。

       

      「だいぶ揺れなくなってきましたね。最初のうちは何回か手着いちゃいましたけど」
      「なんつー平衡感覚してんだよあんたは。どれだけ岩にぶつかったか分かんないぞ……それ言ったら、操縦者さんもよっぽどだけどさ」

       

       呆れたように言う千鳥は、揺波の実感が告げるものの意味を考えていた。
       一行が土石流と共に筏で川を下り始めてから暫し。馬もかくやという速さでの猛進を阻むものはなく、低く響くような唸りを上げて着実に目的地へと迫っていた。
       不揃いの岩石がまま混在する土石流の中に安寧はない。それでも揺れが抑えられているのは、ひとえにサリヤがこの短時間で操舵に慣れてきたことと、少しずつ河幅が広がりを見せており、流れが分散しているからである。とはいえ、今もジュリアなどは支えに掴まっていないといけない程度には悪路であることには違いなかった。

       

       急襲を目的としている以上、勢いが削がれるのは問題である。けれど、問題が問題とならないよう、彼らは事前の準備と予測をしてきている。
       夜闇の中、目を眇めて先を確認していた佐伯が声を張り上げた。

       

      「翁玄桜がだいぶ見えてきました! 森もとうに抜けましたし、上陸地点まであと僅かでしょう!」
      「そ、それはいい知らせね! 流石にそろそろ疲れてきちゃった……っと!」

       

       サリヤがヴィーナの首を右に向けると、連動するように筏の進路も右に少しだけ逸れていく。そうして直撃を避けた巨石に濁流は次々とぶつかり、水よりも石塊の飛び散る飛沫が少なからず船上に乗り上げる。

       

      「後少しご辛抱ください。……それより、ここで一度計画の最終確認を行っておきませんか。上陸後にそんな悠長はことはしていられませんし」
      「そうデスネ。サーキ、お願いできますか?」
      「お任せを。――二人もこっちに集まってくれ!」

       

       濁流の轟音にかき消されぬよう張り上げられた呼び声に、揺波と千鳥の顔が引き締まる。真剣な佐伯の眼差しが、その時が迫っていると二人に意識させる。
       ヴィーナのすぐ後ろに小さく集ったのを確認し、佐伯は何度目かも分からないその確認を繰り返した。

       

      「瑞泉城に攻め込む我々の役目は二つ。第一に、陽動。既に瑞泉に先乗りしている闇昏千影班は、もう研究所に潜入しているだろう頃合いでしょうが、彼女らが救出作戦が完了するまで敵の目をこちらに惹きつけます」
      「この土石流の勢いなら、まだまだ橋を壊して余りあるな!」
      「ああ、これもハガネ様のおかげだな。西の兵が合流するまでにはケリをつけたい」

       

       各大家に対して複製装置で増強した武力で優位に立つ瑞泉の兵は、叶世座より質は高くないと予想されているにしろ厄介な問題であった。神代枝があっても多勢に無勢、制限がある揺波たちは増援による消耗戦を何より避けなければならなかった。
       それに対し、土石流での進攻は『兵力の分断』という解決をももたらす。ただ橋を落とすだけとは違い、濁流がある以上無理に渡河するわけにもいかない。永遠に流れ続けるわけではないにしろ、電光石火の戦においてはそれで十分であった。

       

      「そして第二に強襲。大目的はもちろん、敵大将――」
      「瑞泉、驟雨」

       

       その名をゆっくりと噛みしめるように、揺波はつぶやく。ともすれば濁流に音が飲み込まれてもおかしくないはずなのに、その場の誰もが、彼女が発した敵の名を耳にし、深く頷いた。彼女はこそ、この計画の最も大きな要なのだという信が、皆から集まった視線に載せられている。
       と、佐伯が確認を続けようとしたときだ。

       

      「雑兵は相手にせず、まっすぐ本丸へ向かう。理想的には人数差を作った上で瑞泉驟雨へ挑みたいが、敵戦力の――」
      「しっ……!」

       

       突然手をかざして割って入った千鳥が、口元に人差し指を当てる。
       一人だけ警戒を顕にした彼に、他の者は若干反応に困っていた。なにせ一同は今、土石流の上の筏という実質密室同然の場所にいるのであって、時折跳ねてくる大岩のほうがよっぽど恐ろしいのだ。

       

      「アノ、チドリサン……?」
      「静かに……! 寒気、感じないか? 俺だけってんなら、姉さんのおかげかな?」

       

       そっと懐の苦無に手をかけながら、

       

      「まあ……何より、この面子だよな」
      「面子……?」
      「この面子でいるの、すっげえ既視感が湧いてきて涙が出てきそうなんだよなぁ。俺もできることなら道中無事に過ごしたかったわけだけど――」

       

       皆、千鳥の嘆きに呼応するように、各々得物に手をかけた瞬間だ。
       最初に動いたのは、佐伯だった。

       

      「……っ!」

       

       千鳥の警告に助けられてなお、それは半ば勘のようなものだった。
       外周を警戒しようと振り返った最中、視界の端で僅かに輝いたものを切り落とすように、爪を取り付けた右手を反射的に閃かせる。
       ちょうど佐伯の頭上で弾かれたそれは、矢だった。
       さらに彼は、もう一つ視界の中に異物を発見する。

       

      「天音ッ!」
      「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」

       

       天から降ってきた矢と共に、雄叫びを上げる男が両手の爪を叩き込むように、筏へと降下してきていた。
       咄嗟に鞘ごと刀を掲げた揺波が、高度を味方につけた男の一撃を受け止める。

       

      「う、くぅ――ぁッ!」
      「ぬぅ……!」

       

       そのまま叩き落とすように振り払われた男は、不安定な足場を物ともせずに綺麗に着地し、筏の後方へと間合いを離した。己の肉体を月明かりの下で誇示するよう、毅然と構えるその重心はまったく揺らぐことはない。
       強襲してきた男・架崎宗明を前に構える千鳥であったが、さらにもう一人、文字通り架崎の背後に現れた敵の姿を見て、思わずため息をついた。

       

      「ほらな? この面子でこの感じ、こうなると思ったんだよなあ」
      「そいつぁこっちの台詞だよ。嫌な感じがして来てみれば、あの変な馬にもっと奇天烈なおまけを引っさげて来るとはね」

       

       晴れた空に桜色を溶かし込んだような色合いの翼を羽ばたかせながら、浮雲耶宵は肩をすくめてみせた。
       あの陰陽本殿での戦いから時を経て、両者は再びにらみ合う。お互い謎の多かった当時とは異なり、今この場にいる全ての人間は、互いの目的をはっきりと理解していた。故に、無駄な疑問が出ることもなく、敵対の視線は幾重にも交差する。

       

      「今度は負けんぞ。驟雨様のために、この場で貴様らの策を打ち砕いてくれる!」
      「天音、佐伯さん、行くぞッ!」

       

       架崎の声を受けた千鳥が、取り出した神代枝を砕く。夜闇に舞い上がった桜の光によって、三人のミコトがそれぞれ力を手にする。
       闇昏千鳥は、暗がりに溶け込むような深い朱色の傘を。
       佐伯識典は、論壇という戦場を進む支えとなる巻物を。
       そして天音揺波は、決闘を愛する者との絆を示す刀を。

       

       

      「わたしたちも、押し通らせてもらいますッ!」

       

       最後の闘いの、最初の闘いが、始まる。

       

       

       

       


       突きに対する受けはいくつか存在する。素早く伸びてくる一撃は、一方で点しか攻撃することはできない。少しでも軌道を逸らされたり、狙われた一点を体捌きで僅かでも動かせば、受け手が傷を負うことはない。

       

      「ふんッ!」

       

       架崎が突き出してきた右の爪に対し、反射的に揺波が採ったのは体捌きによる回避であった。半身になりながら向かって左側に踏み込み、切り捨てるように複製装置が取り付けられた架崎の右腕へ刃を振り落とすつもりだった。
       けれど、

       

      「ぅあっ……!」

       

       飛び込むように踏み出した左足が、床の丸太と丸太の間につま先をとられてしまい、それ以上踏ん張ることができなくなってしまう。つんのめった体勢を立て直すように右足が足場を求めるが、その間にも相手は追撃の準備を整えている。
       間合いを離すように振った間に合わせの一刀は、しかし腰が入りきっていないために架崎の左の爪で逸らされる。さらに沈むように踏み込んだ彼に、完全に懐に入られた形となってしまった。
       そこへ、不思議とよく通る佐伯の声が投げかけられる。

       

      「『天音がそんな下手を打つだろうか?』」
      「くっ……面倒な!」

       

       架崎は揺波へ爪を振り上げることなく、何かを恐れたように一歩間合いを離した。渋々といった表情から、苦々しいそれへと変わっていく中、今度こそ体勢を戻した揺波の切り払いを避けるように、さらに距離を離していった。

       

       敷き詰められた丸太という特殊な環境は、さしもの揺波も対応しきれていないのが現状だった。ただでさえ揺れる筏の上では、刃先のぶれを気にする以前に満足に振るうことすらできない。
       しかし対する架崎は、元々凍った地面の上での戦いを得意とするミコトである。濁流の上では流石に不安が残るのか、筏を凍らせてこそいないものの、不安定な足場での立ち回りは一枚上手であった。

       

      「ありがとうございます、佐伯さん!」
      「援護してやるから、こっちには通すなよ!」

       

       応える佐伯は、ヴィーナをかばうようにして書を広げていた。そこには、邪魔にならないように縮こまるジュリアと、操舵を続けるサリヤの姿がある。荒れる船上になおさら気が抜けなくなったサリヤは、彼らの戦いを振り返って確認する余裕もない。

       

      「ほうら、架崎とばっかり遊んでていいのかい!?」

       

       無論、航行不能が揺波側の敗北条件であることは浮雲たちも理解していた。そして分かりやすく船頭に座すサリヤへ、真正面から浮雲は弓を引く。足場の不安定さから唯一解放されている彼女にとって、筏は的でしかなかった。
       短い間隔で飛来するのは空色の矢。視認性だけが救いであるそれは、一呼吸もしないうちに頭蓋をえぐる凶弾に他ならない。
       だが、辛うじてそれを全て撃ち落としていたのは、千鳥の苦無であった。

       

      「サリヤさんもっと頭下げて!」
      「でも、前が……!」
      「いっそ目隠しでもするってぇのかい?」

       

       嘲笑う浮雲。防御で手一杯の千鳥は、浮雲と違って飛び道具の数に限りがある。いずれは顕現させた傘で叩き落としていく他なく、狭い筏の上でそのような曲芸がいつまで続くか分かったものではない。何より、上陸の機会を逃すこともまた、千鳥たちの敗北条件なのである。
       と、そこで千鳥は、ヴィーナの後部座席へと飛び乗った。

       

      「佐伯さん、頼む!」
      「仕方ないな……!」

       

       毒づきながらも、佐伯は夜空を舞う浮雲へと焦点を合わせた。
       そして、彼女を指差して、

       

      「そこの小僧の持ち玉だって底があるんだ。何射もしておいて、貴様だけがこの世の理を覆せる訳もない!」
      「なにを――」
      「『矢は射ればなくなる! 当然のことだ!』」

       

       そうはっきりと言い切った瞬間だ。
       浮雲が指の間に挟んでいた空色の矢が、はらりはらりと解けていくように宙に溶けていった。

       

      「そんな理屈が通ってたまるかい!」
      「言っただろ! 押し通るってな!」

       

       咄嗟に腰の矢筒にある実物の矢に手を伸ばした浮雲めがけ、千鳥は閉じた傘を全力で振り抜いた。すると、傘は柄が途中から切り離され、宙にいる浮雲へ一直線に襲いかかった。月光に鈍く光るのは、柄の中に仕込まれた長い鎖である。

       

      「ちぃっ……!」

       

       左腕で身をかばうものの、傘の打撃は見た目以上に重い。衝撃を抑えきれなかったのか、速度も高度を下げていく浮雲であったが、土石流から飛び上がった石塊をすんでのところで躱して再加速、後方から筏を追う形となる。

       

      「千鳥さん、後ろで相手しましょう!」
      「応!」
      「させぬわ!」

       

       揺波と鍔迫り合いを演じていた架崎が、千鳥へ思いっきり息を吹きかけた。その吐息は、風を切る筏の上であっても空気を刺し通すかのように細く、しかも零下のように白い。瞬く間に千鳥の足元に突き刺さったそれは、ヴィーナの後部座席ごと彼の左のつま先を氷漬けにしてしまった。
       飛び降りようとしていた千鳥は堪らず姿勢を崩し、すぐ下にいたジュリアに飛び込みかけるが、その前に佐伯の腕に支えられる。

       

      「おい、貴様……!」
      「わ、悪かったってば!」
      「アノ、サーキ……チョット」
      「――忍はあの肉達磨でも相手にしてろ……!」

       

       佐伯は自分の足元でジュリアが手招きしていることに気づくと、ぞんざいに千鳥を筏の後方に放り捨てた。まさかそこまでされるとは思っていなかった千鳥は、左足が解き放たれる瞬間も見極めきれず、支えにしていた柱に背中からぶつかった。

       

      「痛ってえ! もうちょっとなんとかならなかったのかよ!」
      「え……しかし計画では筏ごと……いや、やむを得ませんか」
      「聞いてねえし!」

       

       抗議の声は、ジュリアに耳を貸していた佐伯には届いていない。しかし千鳥は、二人の密談が現状を打破する足がかりになることを期待して、それ以上の追求はせずに戦列に復帰し、揺波と並んで架崎に相対する。
       ……そう、彼を含めた五人は、この状況に小さくない焦りを感じていた。
       不利を背負いつつも、人数差などの有利を活かして互角には持ち込めている。
       だが、時間は、揺波たちに決して味方をしない。
       敵に追われながらの奇襲など、意味がない。

       

      「行きま――っ!」

       

       その焦りが、注意力の欠如を生む。加わった千鳥と共に攻めに出ようとした揺波の、その右の一歩が、千鳥同様に凍って丸太に張り付いていたのである。
       それを横目に、協調が崩れたのは承知で千鳥が単身飛び込むも、繰り出す小刀は踏み込みの浅さ故に容易に受け止められる。それを陽動とし、足払いを仕掛けるも、相殺するような蹴りが置かれている。覚悟ができている分、そこから体勢を取り戻すのは架崎のほうが早く、千鳥は転がるようにして架崎の間合いから逃れる。

       

      「はは、はははッ! 自分の用意した策に溺れて、満足に打ち合いもできんとは!」
      「くそ……」
      「恥を晒し続けんよう、早々に葬ってくれよう、反逆者たちよッ!」

       

       両の爪が打ち鳴らされる。先程の吐息とは逆に、上気した肌から湯気が立ち上っていた。
       そんな彼を愉快そうに嗜めるのは、猛々しい羽ばたきで筏に追いついてきた浮雲であった。

       

      「おいおい架崎。そんな興奮なさんなって」
      「あぁ? 何故だッ!」
      「まーた見えてないんだから……。いいかい!? 連中は、おまえさんをさっさと倒しちまいたくてたまらないご様子だよ。あたしたちには早々に退場してもらいたい理由があるってことさね。だったら、いつまでも遊んでやるのが仕事じゃあないのかい!?」

       

       それを聞き、すっ、と冷徹な表情を取り戻した架崎は、それでも抑えきれない優越感に口端を歪めた。
       意図を読まれ、それでも行くしかないと再び踏み出す揺波と千鳥。その様子を見ていた佐伯は、浮雲を注視しながらも頭を回し続けていた。ジュリアから提示された策を脳裏に描こうとしているようだが、眉間には皺が深く刻まれている。

       

      「やるなら……そうですね。次に曲がった後でしょう。際どいところですが……」
      「ダイジョーブ……サリヤなら、やれます……!」

       

       信頼に満ちたジュリアの笑み。この土壇場で見せられたその表情に、佐伯は小さなため息と共に悪戯めいた笑みを浮かべた。
       それを見るなり、ジュリアは大きく息を吸い込み、

       

      「予定変更デス! T−3、行きマス!!」

       

       濁流と乱戦に負けないよう、声を張り上げた。
       すぐさまヴィーナの下へ引っ込んだ彼女の発した謎の言葉に、反応は三分された。
       揺波たちは驚きをやや見せながら、ヴィーナへにじり寄るように少しずつ身を寄せていく。まるでヴィーナを守るような陣形にも見えるが、その間も得物は架崎たちに向けられたままであり、戦意にも衰えは見られない。

       

      「まだ何か仕掛けが残ってるっていうのかい……!」
      「だったら、その前に叩き潰すまでだ!!」

       

       強く警戒し、もう一回り距離を取る浮雲とは対照的に、それを最後の抵抗と捉えた架崎は、あっけなく興奮のたがを再び外していた。

       

      「同じくライラを宿す奴がいたな!? ならばこの技で始末してやろう!」

       

       架崎が右腕の複製装置を操作すると、一瞬の停止を挟んでから回転が再開される。乱れる河の音にかき消されているが、耳をすませば、その歯車の旋律の周期が僅かに変わったことが分かるだろう。
       そして、バチ、バチ、と。
       架崎の爪が、雷を纏っていく。
       架崎の爪が、風を巻き起こしていく。

       

      「死ねえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

       

       丸太を蹴り、大自然の破壊力を手に猛然と迫る。その威力があれば、誰かに致命傷を負わせることも、あるいは筏そのものの破壊もできよう。
       ……だからこそ、架崎はその選択をしてしまった。
       策を真正面から打ち砕けるだけの力があったからこそ、それを選択してしまった。

       

       最前で正対する揺波が、体内で練り上げた気を、嵐と成す。

       

      「はあぁぁぁぁッッ!!」
      「う、ぐぁ……」

       

       筏の後部へ吹き付ける暴力的な気流が、爪を振りかぶった架崎に直撃する。今まで巧みに乗りこなしていた彼は、その圧力に耐えきれず一歩、後ろにやった足を、図らずも丸太と丸太の間に突き入れてしまい、身体を支えきれなくなって膝を着いてしまう。

       

       それが、合図となった。
       今まで皆を導いてきた漕手が、高らかに宣言する。

       

      「Now or never……! GO……!!」

       

       サリヤの言葉と共に、皆一斉に顕現武器を宙に還す。そしてヴィーナへと群がるように、さらに横に拡張された木製の後部座席にしがみついた。
       サリヤの背中に抱きつくようにして乗り込んでいたジュリアが、

       

      「今こそトッテオキ、見せてあげまショウ!! BlackBox……、OPEN!!」

       

       


      「I AM THE SKY. I DEFY YOU. TRANSFORM...」

       

       呼応するサリヤの指が、ヴィーナの一部を深く押し込んだ。

       

      「FORM:GARUDA!!」

       

       変化は、孵化のようですらあった。
       ヴィーナの胴体から光が溢れ出したかと思えば、胴体と前輪を結ぶ横っ腹の部品が、前輪を軸に外へと展開していく。生じた光から広げられるその部品は、もう一弾さらに展開し、ヴィーナの全長に勝るとも劣らない黒く大きな翼と化した。大地を駆る鉄の馬が、空駆ける鉄の鷲へと瞬く間に変貌したのである。
       それだけではない。変形と同時、ヴィーナの後部は爆発したかのように、圧縮された炎を吐き出した。筏に組み込むための機構を破壊しながら、その推進力でもって、巨体を飛び上がらせる。

       

       鷲が、夜空に両翼を広げた。
       五人を乗せて、弾丸のように宙を突き進む。

       

      「は……?」

       

       開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろう。今まで空を制していたはずの浮雲は、変形の光が収束したおかげで夜陰に紛れ始めたヴィーナの姿をただ、ぽかんとしながら目で追い続けていた。
       と、そんな一手に考えも吹き飛ばされていた架崎を、加速度的に増していく揺れが襲う。

       

      「う、うおぉッ!」

       

       ぐらぐらと、今までにはない揺れに足を取られる中、なんとか立ち上がろうとしていた彼だったが、ヴィーナが発進した今、自分は一人、筏に取り残されたのだとようやく気づいた。
       けれど時すでに遅し。操舵手を失った筏は、濁流に取り残された岩石に正面から乗り上げてしまい、機構も破壊されて脆弱になった船首から真っ二つに割れてしまう。

       

      「架崎ッ!」
      「うきぐ――」

       

       浮雲が伸ばした救いの手を、彼が取ることはなかった。うねり上がった波に下半身を飲み込まれ、大自然の暴虐に晒された架崎は、悲鳴を上げる暇もなく、夜闇の底、土石流の中へと消えていった。
       僅かに飛んで後を追った浮雲だったが、全てを等しく押し流してしまう力の前には無力である。歯噛みして一旦諦めると、揺波たちが飛んでいった方角を眺めた。

       

       その方向には、もう目前に迫っていた瑞泉城と巨大な神座桜の姿がある。城へ引き込むような河の分岐が見られるが、船着き場を始めとして川縁の何もかもが押し流された後であった。城へと土石流が向かわなかったことだけが幸運だろうか。
       そんな光景を尻目に、獲物を見つけた猛禽のように滑空して行くヴィーナは、それ自体が目を疑いたくなるような現実ではあっても、そのまま城まで到達するであろうことは容易に想像できた。

       

      「しゃあないねえ……。だが、負けが決まったわけじゃない、か」

       

       舌打ちを一つ、奇天烈に奇天烈を重ねた策で出し抜かれた浮雲は、近くにあった樹に留まりながら、居城にいる主人に思いを馳せていた。

       

       

       


       奇策というのは、考えの外側からやってくるから奇怪な策になる。戦場から離脱したこの一手はまさしく常識の外からやってくる策といっていいだろう。
       無事刺客を退け、予定外ながら瑞泉城に向かうことができた天音揺波たち。だけど彼女らの役割は強襲だけではない。さっきも言っていたね? 陽動だ、と。


       さあ、視点を再び移し換えよう。行動を開始した闇昏千影たちを見てみようじゃあないか。

       

       

      語り:カナヱ
      『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
      作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

       

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      『桜降る代の神語り』第57話:激震の時

      2018.06.08 Friday

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         いくら口が回ると言っても、それだけで万事うまくいくわけでもない。
         哀れにも矢面に立たされた楢橋平太は、けれど他の二人から目をそらす案山子としては適任だったのかもしれない。
         闇昏千影たちにとって大切だったのは、夜を静かに迎えること。
         そう――決戦の開始を知らせた、あの瞬間をね。

         

         

         


         ずっと一人だった御者台。
         けれど、今は隣を埋めてくれる者がいる。

         

        「そうかそうか。疑っていたわけではないが、弔慰満ちる古鷹の民が賢明な判断をしてくれたようで安心した。肩を並べられないのは残念ではあるが、再び足並みを揃える日が来ることもあるだろう」
        「そ、そっすね……」

         

         それが上半身裸の厳つい筋肉男でなければどれほどよかったか――楢橋は曖昧に頷いておきながら、己の不運を呪った。
         持ち込んだ荷を買い叩かれそうになったところを架崎に助けてもらった彼であるが、何故かこうして肩を並べて世間話に興じている。本来は搬入と会計処理に遠藤たちが手間取っている間の僅かな時間潰しで済むはずだったのだが、つい先程代金を受け取ってからも架崎は離れようとしなかった。

         

         実際のところ、楢橋はその理由の検討がついていた。けれど、その一つである『主人たちを待っている』という身から出た錆じみた嘘はともかくとして、もう一方の理由はもはや彼にはどうしようもないものであった。

         

        「しかし、古鷹の酒とあれば道中でもよく売れるだろうに。商人たちからはよく聞くんだ、南に下るまでの間に、忍が荷をくすねてしまう、とな」
        「随分と手癖の悪い連中がいたものですね。まあ、お馬さんと重い想いを分かち合うのは遠慮願いたいですから」
        「だから近年は商船を多用し始めていたわけだが……民草に混じって買い付ける暇もないほど、最近の忍は忙しいと見える。あるいは――」

         

         わざとらしく眉を上げて、架崎は問う。

         

        「帰る家をなくして、酒に浸っているのかと思っていたのだがな。そんな忍の姿は見なかったか?」

         

         ……商人とは、物だけではなく情報も扱う人種である。物流から政治的な動向を察知しなければ、その変化の波に乗らなければならないか判断することもできない。それができない者は、荒波に揉まれて大損するのだ。
         つまり架崎は、楢橋という商人から世間話ついでに情報を聞き出そうとしていたのである。古鷹から、といううってつけな条件に加え、口利きした礼代わりに南西部の情勢を聞き出そうとしていたのである。

         

         弁が立ち、のらりくらりとかわすことに関しては優秀な楢橋であっても、架崎の肉体と複製装置が織りなす威圧感の前では、失言をしないことに集中するので精一杯。無駄に消えていく時間は嵩み、陽も朱色から藍色を帯びて久しい頃合いになっていた。
         楢橋は、自分を置いていった忍二人を努めて意識から外しながら、

         

        「い、いやー、どうでしょうかねえー……。旦那様方はともかく、あっしのようなぺーぺーの出る幕ではございませんで。そりゃあ商人の端くれですから忍の方々とあれこれ云々などなどございますのは存じてますが」
        「その主人たちは懇意だと?」
        「そうじゃございませんよ。もっとお偉い方の話で」
        「ふむ……そうか。それもそうだな」

         

         残念そうに引き下がる架崎だが、視線に未練が残っていた。
         そろそろ限界を感じていた楢橋は、下手を打つ前に離脱したほうがいいかと話を打ち切る覚悟を決める。

         

        「ならこういう話は聞かないか? 炎に焼かれたあの天音の生き残――」
        「っかーッ!!」
        「……!?」

         

         突然額を抑えながら叫んだ楢橋は、御者台から下りてぺこぺこと架崎に頭を下げる。

         

        「す、すいやせん。そういえば宿に行くよう言われてたの思い出しまして。大目玉食らっちまう! ……えっと、天音がなんでしたっけ?」
        「いや……すまない。随分と引き止めてしまったな」
        「いえいえ。今後共よろしくおねがいしますね!」

         

         渋々立ち上がった架崎は、ずっと待ちくたびれていたように鼻を鳴らした馬の背を撫で、その場から立ち去ろうとした。
         だが、そこへ、

         

        「あ、架崎ぃ!」
        「……っ!」

         

         芯の通った女の一喝が、通りに響いた。明らかにこちらへ向けられたその声と、反応した筋肉男によって、楢橋は手綱を拾う体勢のまま凍りついた。

         

        「あんたこんなところで何油売ってんだい!」
        「いや、油を売っていたわけでは。浮雲こそ先に戻っていたのでは」
        「だからあんたを呼びに戻ってきたんじゃないか。あんたみたいな筋肉ダルマでも、居ないと進まない話だってあるさね」

         

         傷んだ髪を乱雑に後ろでまとめたその女・浮雲は、少しばかり低い背を物ともせずに架崎を叱咤する。狩人然とした格好ではあるが、その気性はこの辺りに溢れている海の男たちとも似通ったものがある。
         つかつかと歩み寄ってきた浮雲は、そこでようやく架崎と馬の陰に隠れた楢橋の姿を認めた。

         

        「……なんだ、本当に油でも売ってたのかい」
        「いや、年若く、わざわざ古鷹から来てくれたものを、騙されそうになっていたところを俺が取り持っただけだ。栗谷君と言う」
        「へえ……」

         

         手綱を掴み上げた楢橋は、ぎこちないながらもなんとか浮雲に笑顔を見せる。その腕の複製装置に汗を垂らしながら。
         浮雲は出発しようとする楢橋を邪魔するように、御者台に座った彼の前に片足を入れた。そして、ぐいと顔を近づけた彼女は、

         

        「あんた、どこのもんだい?」
        「ぜ、銭金です……下っ端でございますが……」
        「ほう、そうかいそうかい」

         

         その圧力に耐えかねて、僅かに目をそらしたときだった。
         浮雲は、楢橋の顎を掴んで無理やり自分へと顔を向けさせる。

         

        「……!」
        「商人らしい良い面構えじゃないか。こういう、一見人畜無害そうな顔してる奴が一番食えないんだ。……そう、食えないんだよ。なあ?」
        「ひゃ……ひゃい……」
        「おい浮雲……」

         

         じっくりと至近距離で観察され、遮二無二逃げ出したくなる楢橋だが、敵を前に敵地で逃げ出すことの愚かさを理解しているだけに、動くに動けない。疑われているというより、ただカマをかけられている段階で無理をすれば、逃げる背中を刺されても文句は言えないだろう。
         筋肉男を嘆いていたら、それよりも強烈な狩人の女に絡まれた。そんな嵐をただただ過ぎ去っていくことを祈るしかない楢橋は、できる限りの笑顔を保ち続けるしかない。

         

         と、そんなときだ。
         ひゅん、と風を切る音がしたかと思うと、すぐ傍を通りがかった二頭立ての荷馬車の荷台が、突然姿勢を崩して荷の樽をぶちまけた。

         

        「ああ、クソッ! 車輪が逝っちまいやがった!」

         

         響く御者の嘆きの中、楢橋たちのいる商館前に向かって転がっていく樽。大量に積まれていたそれらは、あるものは壊れて中身の魚を撒き散らし、あるものは鈍器となって彼らに襲いかかる。

         

        「チッ……」

         

         長旅を共にした馬を心配する楢橋であったが、しかしそこは鬱陶しそうにしながらも架崎と浮雲がてきぱきと樽をいなしていったため、結局のところ荷台に二つほどぶつかった程度で収まった。
         悪態をつきながらも荷を回収していく御者を尻目に、けれど架崎と浮雲は壊れたその荷馬車を注視していた。

         

        「はぁん……」

         

         半ば納得したように声を上げる浮雲。その瞳には、どちらも一本だけ鋭利な断面を晒して折れている、二つの車輪の軸が映っていた。
         彼女からは背になっていたが、荷台を破壊したのは鋼鉄製の糸である。細さと強靭さによって刃物と化したそれは忍の武器の一つ。本来は罠に用いるものであるが、精密かつ高速に投擲された糸は、宙を裂く刃に等しい。

         

        「じ、じゃあ、ありがとうございましたー!」

         

         好機と見た楢橋も馬を走らせ、架崎はそれを目で追っていた。
         じり、と二人の脚に力が籠もる。荷台を壊した犯人の不在を悟った二人にとって、不自然な現象で最も利益を得た楢橋は重要参考人に他ならない。
         しかし、二人が実際に楢橋を追うことはなかった。
         そんなことよりも身も心も揺り動かされる事態が起きたからだ。

         

        「っ……!」

         

         ぐらり、と。
         足元が不確かになるような、そんな揺れが浮雲を襲った。
         地震だ。
         それも、家屋が軋みを上げるほどの、大きな地震である。

         

        「ゆ、揺れだー! 荷を守れーっ!」
        「うおぉぉぉハガネ様がお遊びなさってるぞぉぉぉ!」
        「船攫われないように気をつけろォー!」

         

         揺れは二度か三度、大きなものが来て、その後しばらく控えめの揺れが長らく続き、そして収まった。
         蔵町だけあって各所で商人が点検に大わらわになり、宵の口ともあって惜しげもなく灯りを使う蔵が、その口から淡い光を吐き出し始めた。平時とはまた別の活気が生まれるその中で、崩した荷を戻したばかりの御者が、再び崩れた樽の前で泣いていた。

         

        「珍しいな」
        「ああ、だね」

         

         架崎の感想に相槌を打つ浮雲は、顔に不快感をにじませていた。
         彼女の視線は、訝しるように一点に注がれていた。

         

        「けど、どうにもきな臭いねえ」

         

         揺れが収まったにも関わらず、ずっと、小さく不規則に揺れ続けている、他の商館の脇に吊るして干されていた魚たちを。

         

         

         

         


         時は遡り、大地が揺れるその少し前。岩だらけの山肌を晒す御蕾山が、赤みの差し始めた日差しに照らされている頃。
         山の中腹もとうに越えた場所に、二つの人影があった。夜が迫る中、上へ上へと足を止めないその二人は揺波と千鳥だ。サリヤたちから遅れること一週間、合流を目指す揺波たちはその最終行程に差し掛かっていた。

         

        「サリヤさんたち、順調だといいなあ」

         

         先を行く揺波がひとりごちる。あってないような登山道を走破するその速さは、山登りというには急ぎすぎているようであったが、火照った身体が山の涼やかな空気で冷やされる心地よさを満喫しているようでもあった。
         それに追従する千鳥は、

         

        「俺たちが無事に着いたんだ、あっちもきっと万全の体制で待っててくれてるさ」
        「でも実質サリヤさん一人なんですよね……? 大丈夫かな」
        「まあ……そこはほら、あっちのすごい技術でなんとかするんじゃ?」

         

         もう幾度となく交わした会話を、これで最後とばかりに繰り返す。
         それからもうしばらく登っていくと、山の頂上まであと二合かそこらという位置ある、開けた場所に出た。下を見るのが恐ろしいくらいの崖の上からは、大きな河の流れる平野が一望でき、夕日に焼かれる都の姿がその先に見て取れた。

         

        「ユリナちゃん!」

         

         そんな景色を前に立ち止まった揺波の名を呼んだのは、サリヤであった。

         

        「よかった、ちゃんとここまで来れたのね!」
        「はい! サリヤさんも大丈夫だったみたいでよかったです!」
        「そうね、ちょうどいい助っ人も来てくれたことだしね」

         

         助っ人という言葉に首を傾げる千鳥は、直後、自分に向かってくる助っ人を見て露骨に顔をしかめた。

         

        「うげ……なんで佐伯さんが」
        「何か不満でもあるか? そっちは、天音を届ける任務を果たせるほどにはガキの使いから卒業できたようだな」
        「最初からガキの使いじゃねえよ!」

         

         にらみ合う両者に苦笑いするサリヤは、

         

        「準備は順調よ。ハガネちゃんもなんとかいけそうだって」
        「そうですか。で、あれが――」

         

         揺波の視線が示す物を見て取ったサリヤは、頷くと共に揺波たちをそれの下へと案内する。作業中だったジュリアが揺波たちに気づき、拳から親指だけを上げて笑ってみせた。

         

        「ちょうどよかったデス! あとモーチョット!」
        「九割方完成してるわ。あとは最後にあちこちしっかり固定するだけ」
        「すごい……」

         

         揺波の感嘆が向けられたもの。それは、大きな筏であった。
         複数の丸太の足場に支えられたその筏は、下手な家よりもなお広い面積を有しており、この場にいる五人を乗せてもまだ余裕がある。帆がない代わりに、揺波の顔くらいまでの高さがある四本の柱が立てられており、結ばれた頑丈そうな紐が船上に垂れていた。緩く三角を描く前面には、何かを阻む盾のような板が取り付けられている。

         

         ここまでであればそこまで大きく目を引くようなものではないが、特徴的なのはその船首に据えられたサリヤの愛機・ヴィーナである。丸太から切り出された複数の歯車が、車体を飲む込むようにして複雑に絡み合い、ヴィーナの力を伝えるように船体へ組み込まれていた。その様子は、筏を何か未知の乗り物へと変貌させているかのようであった。

         

        「いざ目の前にすると、なんというかこう……本当にやるんだな、って気持ちになりますね」
        「正気か、って思ってたけど、これ見たらなおさら正気を疑うよ、俺は……」

         

         引きつった笑いを見せる千鳥は、もちろん計画の全容を知っており、サリヤたちの作るこの筏が要の一つであると理解しているし、納得もしている。けれど、絵空事のようであった計画が形になったことに驚く揺波とは違い、これから行われることを想像させられて彼はげんなりしていた。
         と、登場した二人を佐伯が急かす。

         

        「もう猶予はない。ぼさっとしてないで手伝え。お前たちにもできる、この縄で丸太と丸太を力いっぱい縛るだけの簡単な作業だ」
        「それならなんとかやれそうです!」
        「天音……おまえ……」
        「千鳥さん?」
        「いや、なんでもない」

         

         縄紐をどっさりと受け取った二人は、指示された通りに筏の土台となる丸太を固定していく。元々既に縛って固定してあるようだが、さらにきつく強固に、丸太同士は密になり、三列で組まれた厚い土台がさらに頑丈さを得ていく。
         その過程で隙間から筏の内側を覗いた揺波は、思ってもみなかった有様になっていることに感心の声を上げる。

         

        「千鳥さん、これこれ。どうやって作ったんでしょう。というより、どうなってるのかさっぱりです」
        「うわ、前のほうすごいことになってるな。……あー、あそこが動くようになってるのはまだ分かるけど、そこから先は俺もさっぱりだ」
        「えっ……あっ、ほんとだ! 一緒に動いてます! ……どうして?」
        「これ、二段目に絡繰詰め込んでるのか……にしても分からん……」

         

         理解の及ばない機構の理解を試みては、返り討ちにあって知恵熱を出す揺波。日も落ちてきた中、暗がりになった内部を凝視しようとするが、忍の利を活かして夜目を利かす千鳥であっても遠く理解が及ばない。
         そんな彼女たちへ、ヴィーナの足回りをいじっていたジュリアは得意げに、

         

        「フフン……今回はイロイロ制限ある中、ワタシもがんばりマシタよ! 耐久と安全が必要でしたノデ、イマイチなところ結構ありますが、機関はヴィーナスペシャルエディションでお届けデス!」
        「鋼鉄のヴィーナと木造機関の組み合わせには私も驚かされました……それに応えられる加工法にも。ジュリアさんたちの技術には学んでばかりです」
        「思いつきですし、大したコトないデスよー。ねえ、ミコトのミナサン!」

         

         えへへー、とこすった鼻を墨色に染めるジュリア。その姿にサリヤは仕方ないといったようで、あちこち煤と土と木くずまみれになっていたジュリアにはもはや世話を焼くことを諦めていたようだった。

         

        「いえいえ! あなたがたのご協力があれば、きっとこの地は正しく進歩を加速させていくものだと確信しております……! その際にはこの佐伯、全力を尽くさせていただきますので――」
        「喋ってないで縄とってくれよ、佐伯さん?」
        「…………」

         

         言葉を遮られた佐伯が、沈黙と共に千鳥へ縄を乱暴に投げて渡した。
         そして丸太との格闘に戻った佐伯が、ぶっきらぼうに言い放つ。

         

        「もうすぐ日没だ、急ぐぞ」

         

         くすくすというサリヤの抑えた笑い声を耳にしながら、揺波は受け取った縄を丸太にくくりつけていく。
         そんな彼女たち五人の手元を、宵の色が覆い始めていた。

         

         

         

         

         


         一人の少女が、大地に身を委ねるように寝そべっていた。
         一見するとただ眠っているようだが、彼女を中心として渦巻く力、そしてそれ故の強大な存在感は人の身には余りある。

         

        「ふぅー……」

         

         その名はハガネ。大地を象徴するメガミである。
         サリヤたちが準備を整えている間、ハガネもまた一人、準備を進めていた。そして今日それは終わり、黙して夜を待っていた。
         溜め込まれた力は、少し気を抜いただけで取り逃がしてしまいそう。大地を間近で感じる以前に、今のハガネにはそれ以外のことをする余裕はない。全てを機が熟すその瞬間に捧げていた。

         

         爽やかな山の晴れを見送り、燃えるような朱い夕日に別れを告げた。
         日没。
         その夜の始まりが、合図だった。

         

        「よし、やるぞッ!!」

         

         気合を入れ直すような発声と同時、この数日間溜めていた力を解放する。
         その向き先は、大地。
         大地の力が、御蕾山という突き出た大地、さらにはこの一帯に注がれていく。

         

        「う、っとと……」

         

         堰を切ったように流れ出していく膨大な力に制御が乱れそうになるも、なんとか持ち直して最後の撃鉄を起こし終える。
         ちら、とその目線が、山の上へと向けられた。

         

        「あたしはここまでだけど……ユリりん、サリねえ、ジュリにゃん……絶対勝ってね……!」

         

         夜闇の中、白い歯を覗かせて、ハガネが作ったのは小さな笑顔だった。
         そして大きく一つ、深呼吸し、

         

        「いっくよーーー! 大山をッ、穿つッッ!」

         

         

         その瞬間、大地が、山が、鳴動した。

         

         

         

         


         立っていられないほどの揺れが襲い、サリヤはヴィーナの舵を握る手にいっそうの力を込めた。

         

        「みんな、掴まって!」
        「うわわわわわわ! 流石にやばいってこれ!」
        「ヒャー! どのくらいのエネルギーなんでショウ!?」

         

         筏に乗り込んでいた一行は、反射的に突き立てた丸太に飛びついた。ガタガタ、と足場からふるい落とされるように筏は移動を始め、千鳥が思わず自分の命綱を確かめた。
         揺れはさらに大きくなり、山を底から斧で叩き割ろうとしているような衝撃が何度も突き上げてくる。

         

         と、サリヤはその揺れが一瞬収まったのを感じた。
         代わりにやってくるのは、浮遊感だ。

         

        「サリヤさん! 崩れ始めました!」
        「オッケー!」

         

         応じる言葉と同時に麓に大量の土砂の流れが生まれ、遅れてサリヤたちのいる場所もつられたように山の斜面だった痕跡を滑り落ちていく。山の内側から溢れ出た水と共に、その流れは土色の滝となって麓の森へと殴りつけるように注いでいた。
         サリヤが持ち手をひねりながらヴィーナの頭を持ち上げると、それに応じて筏が首をもたげた。すると、滝に沿って垂直落下しようかという寸前で、筏は滑空するかのように滝から離れていく。

         

        「ああああああああっ、落ち、落ちるううぅぅぁあああああああ!!!」
        「あぁっ! ら、ライラ様っ、シンラ様、どうか、お守りをぉぉ……!」
        「舌噛まないでねッ!」

         

         悲痛な悲鳴を上げる千鳥と、眼鏡を抑えて小刻みに震える佐伯へとサリヤが忠告したその直後、森を強引に流れていく濁流の上に、筏が盛大な飛沫を上げて着地する。高度から考えれば真っ二つになっていないことが不思議なくらいだが、乗員共々筏は無事であった。成果を誇示するように、ヴィーナを取り巻く歯車が忙しく回っている。
         筏はそのまま、大きく、速く、そして力強くなっていく土砂の川に運ばれ、一気に裾野を突き進む。森を抜けたところには海まで続く長柄河が流れており、穏やかだったはずのその河も、文字通り顔色を変えて荒れ狂っていた。

         

         土石流。
         大地の力によって生じた奔流に乗って、五人を乗せた筏は進軍を開始する。

         

        「波に乗るのは好きだけど……まさかこんな形で活かされるなんてね」

         

         独り言は、河に合流してさらに勢いを増した土石流の轟音にかき消される。
         舵代わりのヴィーナをしっかりと操りながら、暴力的な波に飲まれないよう確かに船首を南へ向ける。
         その先で夜陰に紛れる、最終決戦の地・瑞泉へと。

         

        「さあ、行くわよ!」

         

         

         


         この策を知ったときには、正直カナヱも驚いたさ。見様によっては、馬鹿じゃないかとすら思うようなものだからね。。
         しかしこれはハガネの存在によって可能となり、その利点は無視できない。まさに奇策にして上策だったんだ。
         これくらい危険で突飛なことを実行に移せるのもまた、英雄の素質なのかもしれないね。

         

         さて、強襲を敢行した天音揺波一行だけれど、瑞泉領までは少なくない距離がある。
         常識はずれの奇策だからといって、一筋縄ではいかないのが瑞泉だ。さあ、返す一手はどうなるか、ご括目と行こうか。

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

         

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        『桜降る代の神語り』第56話:熱意と冷酷の都

        2018.05.25 Friday

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           さて、サリヤ・ソルアリア・ラーナークら一行は、こうして新たな仲間を加え、計画を進めることとなる。
           彼女たちの一手は気になるところだろうけれど、ここは時間軸に従って、別の視点で物を語るとしよう。

           サリヤ一行が御蕾山に到着してからおおよそ一週間後。
           言葉巧みに検問を潜り抜け、一台の荷馬車が都へと辿り着いていた。

           そう……火照るような熱い意欲と向上心、そして身震いするような冷酷さを併せ持つ都・瑞泉へ――

           


          「ねえ千影ちゃん」
          「…………」
          「ねえってば」
          「…………」
          「やっと着いたんだし、ここらで美味しいものを――」
          「舌切りますよ?」

           

           

           荷台から届いた温度のない返答に、雑踏の中、馬を引いていた楢橋は人目も憚らずに嘘泣きをしてみせるのだった。

           北の山々から流れる豊かな水を湛えた長柄河と、それが流れ込む大柄湾。この地の中央は南端に広がる八郷にあって、千影一行が辿り着いたこの帝都・瑞泉は、水辺に寄り添うようにして漫然と構えられていた。
           大家当主のお膝元とあって、人々は活気に満ちている。建物すらもそれに倣っているようで、大通りと思しき場所であってもすぐさま商家が待ち構えている。振り返れば、瑞泉城と翁玄桜が聳えているというのに、そこに至る道はまるで木々に隠されているかのように判然としなかった。

           

           今が戦時であると認識しているのが、ともすれば自分たちだけなのではないか。千影たちがそう考えてしまっても無理はないほど、町並みは日常、もしかしたら平時以上の活力を湛えていた。

           

          「えー、だってあれ気になるじゃん! 『南海しびれ汁』だよ? さっきからいい匂いして、オレっちお腹空いてきてさー。汁なのに『飯の友』なんだよ? どんな食べ物か気にならないの?」
          「気になりませんね。妙な物を口にしようとする、その己の立場を弁えない浅はかさは気になりますが」

           

           ちら、と指された飯屋を千影が観察すると、一見して具の多い味噌汁をおかずに、客が汗を流しながら米を食らっている様が見て取れた。ただ、味噌とは明らかに異なる刺激の強い香りに、彼女は警戒心を高めずにはいられなかったようだった。

           

          「なんか辛辣ぅ……」
          「毒を盛られたらどうするんですか? あなたは敵地の飯を食べると?」
          「ちぇー。知らない食い物もあるって聞いてたから、せめてそれだけでもって思ってたのに。なんとか言ってやってくださいよ、旦那ぁー」

           

           話を振った相手は、荷台で仏頂面を作っていた藤峰である。
           彼は被っていた笠を少しだけ持ち上げて、楢橋に視線を合わせてやると、

           

          「そんなに毒味役をしたいのなら、勝手にするといい」
          「ひどい! ここまで旅してきた仲なのに、オレっち泣いちゃう……!」
          「我々の立場からすれば、興味をそそられないほうが不自然だろう。新しいものというのは、それだけで利だからな」

           

           藤峰は、二人にわざと見せるように己の服の胸元を掴んだ。彼らの表向きの顔は今、あくまで銭金商會の下請け商人である。それは、潜入工作員としての顔を隠すために、きちんと被り続けていなければならないものだ。
           当てつけのように諭された千影は、どんよりとした顔で二人から顔をそらした。
           それに苦笑いする楢橋であったが、所狭しと棚に絡繰を並べた商店を流し見ながら、ふと、

           

          「でもさー、目新しいものいっぱいあって飽きなさそうなのはいいんだけど……」
          「なんだ」
          「いやね? もーっとこの町全体がそういう感じなのかと思ったら、全然そうじゃなくて、あれー? って感じするんだよね。別に中ほど元気なのはいいんだけど、それにしても差激しすぎじゃないかな」

           

           通りを右に曲がると、三人を潮風が撫でる。昼下がりの雑踏では、目指す港から引き上げたらしい荷を満載した荷馬車が、大声で人を散らしながら城のほうへと駆けていく。
           目で先を促した藤峰に、楢橋は所感を告げてみせる。

           

          「河渡ってくる前は、田んぼも畑もいっぱいあって、わりとのどかーって感じだったけど、もうここらへんまで来たら、のどかなんじゃなくて置き去りって言う方が合ってる気がして。前来たときは西側しか見てなかったからびっくりびっくり」
          「港があるほうが栄えるのは当然だろう」
          「それにしてもなー。西側に押し付けてる気がするんだよねえ。ほら、瑞泉サマの敵は今西側にいるでしょ? こっちの活気見たら、面倒なこと任せて好きなことやってるように見えちゃってさ。いざとなったら橋落とせばだいたいなんとかなるもんね」

           

           そうつらつら述べた彼に対し、千影は鼻で笑った。

           

          「あ、あなたはつまり、こちら側の人たちがあちら側の人たちを犠牲にしていることに、怒ってるんですか」
          「怒っては、ないけどさ。犠牲って言うと大げさだし」
          「いいじゃないですか。千影は別に悪いことだとは思いませんよ。この辺りは前からこんな感じですし、今に始まったことでもありません。海路の利益はもちろん、舶来品なんて実際に手にできるのはほんの一握りなんですから」

           

           彼女は取り出したおしろいで目元のクマを隠しながら、

           

          「自分の目的のために他人を切り捨てる必要があるのなら、当然切り捨てるでしょう。他人を気にかけながら望みを実現できるほど、現実は甘くないんです」
          「それは、まあ……」
          「俺も同感だな」

           

           楢橋が反論できずにいる間に、藤峰も同意を示す。
           だが、と藤峰は続けた。

           

          「その考えを全土に広められては敵わん。そうなったとき、切り捨てられているのは俺たちなんだからな」

           

           笠を外した藤峰は、顔を自分で叩くと、次の瞬間には凝り固まっていた表情筋が溶けたような笑みを浮かべていた。それが彼らがこの都で忍ぶために必要なことだからである。
           応えるように口端に笑みを乗せた楢橋は、人混みをかき分けるように声を張り上げた。

           

           

           


           瑞泉の港は、湾内の幸が集まる漁港でもあるが、それ以上に交易拠点として名高い。南方の中心に広がる咲ヶ原は商団が通過するには危険が伴うため、大量の物資は海路を通ってここ大柄港に集められ、同じく船に揺られて各地に運ばれていく。
           必然、物流の心臓部である大柄港からは蔵町が広がる。船乗りたちは船旅を無事終えられた感謝を歌を通じて海のメガミ・ハツミに捧げながら、荷揚げで汗を流している。小僧たちは検品に追われ、荷馬車がひっきりなしに行き交っていた。支配下に置いた領地からの接収品もあるのか、いっそ殺気立った活気に満ちている。

           

          「おやおや。これは古鷹から、はるばるご苦労さまです」

           

           そんな中、千影たちは運んできた荷を引き渡すべく、港の一角にある長柄商会を訪れていた。ひょろひょろとした商人の遠藤が、渡された証文と、商館の前につけられた馬車の荷とを眼鏡越しに検分している。
           取引を任されているのは楢橋であり、少し離れた位置から藤峰がそれを見守る形となっている。千影はといえば、不審に見えない範囲で立地の把握に努めているようで、荷台に背中を預けながらしきりと目を動かしていた。
           と、小僧に荷を検めるよう指示した遠藤は、検分の対象を楢橋に定めた。

           

          「栗谷さん……でしたかな」
          「は、はい!」

           

           名乗った偽名を確認されて、楢橋が初々しさを装いつつも答える。

           

          「こちらに来られたのは初めてで?」
          「そ、そうですね。今まで狭い世界しか見てこなかった若輩者でございます、ええ」
          「なるほど。瑞泉は魅力ある町です。古鷹にはない刺激は、きっとあなたを良い商人として成長させてくれるでしょう」
          「勉強させていただきます」

           

           はにかむ楢橋であったが、遠藤の次の言葉に笑顔を凍りつかせた。

           

          「ですが、私も同じ商人ですから……この取引をお受けするわけにはいきませんねえ」
          「え……っと、それは……」

           

           とても残念そうに言い放った遠藤に、なんとか苦笑いを浮かべながら説明を求める楢橋。
           それに遠藤は、

           

          「こちらは全て古鷹家の名義でお持ちいただいたものでしょう? 古鷹の酒はとても好評なので、我々としても贔屓にさせていただいておりまして、お持ちいただいてとてもありがたいのですが……」
          「なにか問題が……?」
          「それがですねえ。その古鷹が売り手、というのが少々問題でして……あくまでこちらの取引は、古鷹ご当主殿の名義で結んでいただくという前提の下、特別便宜を図っていたものなのですよ。そのご当主殿にご不幸があったとなれば、このお約束の存続も……難しいものがありますでしょう?」

           

           困ったような笑みを貼り付けた遠藤に、楢橋は内心歯噛みしていた。
           楢橋たちにとってこの取引というのは、あくまで瑞泉潜入にあたっての口実でしかない。銭金の伝手で手に入れた身分を、雑に捨てるわけにもいかないため、正式な取引をきちんと行おうというだけのことだ。
           本来は取引は早々に終え、身軽になったところで今後に向けた調査を行う予定であった。時間の猶予が十二分にあるわけでもないため、明らかないちゃもんに時間を消費するわけにもいかないのである。

           

          「さすが瑞泉の商人様、お耳が早い。ですが、あっしとしてもこの樽全部飲み干すわけにもいかないんですよ。溢れた酒を飲んでるだけで金が湧いてくれば話は早かったんですけどね?」
          「そうなればどれだけいいことか! ですが、そんな楽な商売あってたまるか、とアキナ様にも怒られてしまいそうです」

           

           遠藤は袂から小さなそろばんを取り出すと、

           

          「わざわざお越しいただいたのに、そのままお引取り願うのは流石に偲びありませんから、こちらとしても勉強させていただきたいところ。こちらは、当商会の古鷹氏に対する弔慰だとお考えいただいて……こんなところでどうでしょうか」
          「んな……!」

           

           弾き出された数字は、実に元の値の半額以下である。明らかに足元を見た、交渉と呼ぶのも憚られる提示に、楢橋は思わず声を張り上げてしまう。

           

          「いくらなんでもそれはないでしょう!?」
          「そうですか……では、こちらはお返ししたほうがよろしいでしょうか」

           

           にやにやと悪意を漏らす遠藤から証文を差し出される。元々の貧乏性が彼に叫ばせたのだが、ちら、と振り返れば藤峰が小さく首を振っていることからも、これ以上食い下がることは本題から外れてしまう。
           千影も澱んだ視線を楢橋に注いでおり、ここは遠藤の言いなりになる他ないように思えた。
           と、そこへ、

           

          「何の騒ぎだ」

           

           低く響く、男の声が割って入る。
           声の主に気づいた遠藤が、慌てたように商会の中から現れたその男に頭を下げた。厳しい顔つきの男は、古傷の浮いた上半身を曝け出しており、商人でも船乗りでもなく、この場に似つかわしくない武闘家と呼ぶに相応しかった。けれど、右腕に取り付けられた歯車の意匠の篭手が、なお異彩を放っている。

           

          「こ、これは架崎様。いえ、些細な条件の不一致があっただけですので、架崎様のお手を煩わせるようなことは……」
          「いいから話してみろ」

           

           有無を言わせず、醸し出される威圧感と共に、男・架崎宗明は二人を睥睨する。
           その対象は、遠藤と楢橋。
           架崎の声がした瞬間、千影は傍を通った荷馬車に紛れ、商会と隣にあった蔵の間の細い路地に身を潜めていたのである。後を追った藤峰も同様に姿を消したため、取り残された楢橋は、それに気づいた段階で膨大な冷や汗を流していた。

           

           証文を確かめ、遠藤の言い分を聞いた架崎は、力強くその証文を遠藤に握らせた。

           

          「勘違いしてもらっては困る。我々は世を統べるべく動いてこそいるが、圧政を敷くつもりは毛頭ない。分かるか? 民がいてこその国だ。歪な力関係は、歪な構造を生みやすい。お前は今、優位な立場を使って搾取を行おうとしたんだぞ」
          「そ、そのようなことは……」
          「この証文、確かに古鷹京詞の名で結ばれているが、代理人として天詞殿が指名されているじゃあないか。ご息女は息災であらせられるはずだが、それを知らぬお前たちではあるまい。それとも、証文を読むお前の目が曇っていただけかな?」

           

           何も反論できない遠藤に、本来であれば騙された悔しさを楢橋は噛みしめるところであるが、努めて架崎の複製装置から視線を外すので精一杯であった。

           

          「覇権を握る瑞泉の商人であれば、それに甘えるのではなく、相応しい振る舞いをするんだ。足元を見るなど言語道断。驟雨様による平定が行われた先、お前も正しい世界を形作っていくその一人なんだからな」

           

           がっしりと、遠藤の肩を掴む架崎。真っ直ぐな期待を込めたその手を、遠藤は振り払うことはできなかった。
           ……そして、そんなやり取りを路地で聞く千影の瞳は、いっそう澱んでいた。

           

          「あ、あいつ……何もこんなところにいなくたっていいじゃないですか。なんでそんなに千影を困らせたいんですか」

           

           右の親指の爪を噛む千影に、隣の藤峰が訊ねる。

           

          「奴は?」
          「架崎宗明。瑞泉の側近の一人ですよ。腕は立ちますけど、あ、頭が筋肉と瑞泉のことでいっぱいな、いけ好かないやつです」
          「それはまた大物を引いたな。今、事を起こすわけにもいかないし、なんとも迷惑な時に来てくれたものだ」

           

           ええ、と答える千影は、衝動を抑えるように、右手を左手で包み込むように握りしめる。

           

          「本当に、迷惑です。今回も……」

           

           ゆらり、と怨嗟の炎を瞳の中で燃やして。

           

           

           


           敵地への潜入なんて、何があるか分かったものじゃあない。闇昏千影たちは本懐を遂げる前に、こうして敵将と遭遇することになってしまったというわけだ。
           相手はかつて天音揺波たちを追い詰めた、あの架崎宗明。彼に正体が見抜かれるようなことがあっては、当然ながら台本は崩れてしまうだろうね。
           さてさて。計画が胎動する中、闇昏千影たちはこれをどう切り抜けたものかな?

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

           

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          『桜降る代の神語り』第55話:佐伯識典

          2018.05.11 Friday

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             直感というのは、大方のところは経験則だ。たとえ本人が意識していなかったとしてもね。
             カナヱはその権能ゆえに、だいたいのことを知っている。だから、だいたいのことは先が分かる。しかし経験の豊富さとはまた別の技術として、その経験を鋭く引き出せるかどうかというのも重要だ。
             
             ハガネがカナヱと同じくらい物を知っているとは言わない。
             しかし、彼女はささやかな出来事から経験を引き出す力に長けている。
             
             彼女は最低限知っていて、そしてそれ故に気づいたのさ。
             その態度が、平気な顔をして嘘をつく“アイツ”にとても似ていたということにね。

             

             


             一石を投じる。それによって生まれる波紋は、明白な騒ぎを励起するとは限らない。

             

            「…………」

             

             ハガネが発した糾弾によって、場は再び沈黙に支配されていた。微笑みのまま口を開かない佐伯に対し、サリヤは武器を求める手を宙空に彷徨わせたままであった。態度を決めきれず、板挟みになった彼女は、ひりついていく空気に心を締め付けられていく。
             あわあわと佐伯とハガネを見比べているジュリアはもちろん、後ろのハガネも守らなければならない。そのためにはいち早く飛び出して佐伯を行動不能にするのが最適解であるが、理屈を超越したハガネの言葉にサリヤは踏み切ることができずにいた。そして当のハガネは、ただただサリヤか佐伯が応じるのを待ち続けている。

             

             と、

             

            「……そんな怖い顔をなさらないでください」

             

             最初に答えたのは、肩をすくめた佐伯であった。
             彼は両手を緩く掲げ、大仰にジュリアから一歩距離を取ると、そのまま不格好に会釈する。

             

            「お初にお目にかかります、ハガネ様。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
            「いいよ、べつに」
            「……おやおや、これは随分と嫌われてしまったようで」

             

             しかし、と会釈でずれた眼鏡を直す佐伯は、笑みをさらに柔和なものにした。

             

            「皆さんにお話していないことは確かにありましょう。けれど、それで嘘つき呼ばわりされるというのは、いかに私といえど心が痛んでしまいます」
            「隠し事なんて、騙してるのとおんなじじゃん」
            「では……それを詳らかにすれば、私を信用していただけると?」
            「それは……」

             

             訝しがりながらも、言葉に詰まるハガネ。そのうちジュリアもそろりとサリヤの傍に寄り、不安そうに胸元で両手を揉んでいた。

             

            「サーキ……」
            「ご心配なさらずとも、私がジュリアさんたちを助けに来たというのは誓って真実です。しかし、ここに至るまでの過程が不透明なのも確かでしょう。私の本当の顔を教えるところから、順を追ってご説明しましょう」
            「本当の顔……?」
            「ええ。――ところで皆さんは、シンラ様というメガミについてご存知でしょうか」

             

             投げかけられたその名前に、サリヤはどう答えたものか迷う。なにせそのメガミに関しては、佐伯から聞いたことがほぼ全てだったからだ。
             では同じメガミであれば、と背後へ視線を落としたサリヤは、ハガネの眉間に皺が寄っていることに気づいた。高まった警戒心を裏付けるように、裾を引っ張るハガネの手が力を増している。
             佐伯はそんなハガネの態度に少しばかり眉尻を下げて、

             

            「シンラ様……彼のお方は、知を第一とし、この世に適切な治政を広めんとする素晴らしき存在です。力だけが全てを決めるのではなく、知ある我々は議論を尽くすことで調和のとれた世界を作り上げられるのだと、シンラ様は日々我々の道標となってくださっています」
            「我々……?」
            「そう、我々です。シンラ様率いる我々、賢人集団・碩星楼。以前私は学者だと名乗りましたが、それはあくまで表の碩星楼の構成員としての顔。実際はシンラ様の走狗として、理想の政のために微力を尽くさせていただいているのですよ」

             

             語る彼は、そこで何かに気づいたように「あぁ」と感嘆すると、申し訳なさそうに僅かに目を伏せた。

             

            「捉えようによっては、これはひょっとしたら私の『嘘』になるのかもしれません」
            「えっ……」

             

             いきなり前言を翻すような発言をする佐伯に、サリヤがついていけずにいると、

             

            「『オボロ様たちとの繋がりがある』と私は言いましたが……正確には、私個人とではなく、オボロ様とシンラ様の間に関係が持たれているのです。こちらに駆けつけたのも、シンラ様を介して情報を頂いたからなのですから。大変、失礼致しました」

             

             謝罪の言葉を述べた佐伯は、深々と頭を下げる。
             面食らったサリヤがハガネの様子を窺うと、猜疑の目を向けたままだった。けれどハガネはどう問い詰めたらいいものか分からないようで、あやふやに言葉を選んで差し向ける。

             

            「色々、変なことが起きてるけど……これって、おまえがシンラねえと何か悪いことしたってことじゃないの?」
            「ハガネちゃん、それは……」
            「いえ、いいのですサリヤさん。味方の味方が本当に自分の味方か――それを不安に思う気持ちは、とても原始的な感情です。私にはそれを払うだけの努力をする義務があります。すなわち――我々が瑞泉に与していないと説明する義務が」

             

             ゆっくりと顔を上げる佐伯の顔には、憂慮が浮かんでいる。その感情が偽りのものであるとはサリヤには到底思えなかった。
             佐伯は罪を認めるかのようにとつとつと言葉を作る。

             

            「碩星楼は、一時期瑞泉と協力関係を結んでいたこともありました。平定へ向かいつつあったこの地をさらに円滑に動かすべく、多くの大家との関係を持っていた我々ですが――まさか知性ある政治の最先鋒でもあった瑞泉が、これほどまでの蛮行に出るとは思わなかったのです」
            「…………」
            「今の瑞泉は、偉大なメガミ様方を害する愚かな行為に及んでいます。ハガネ様もお分かりでしょう? ライラ様のお力が遠いものとなってしまった私はもちろん、シンラ様も一メガミとしてこの事態を憂いておられるのです。彼らは――瑞泉は、やりすぎてしまったのですよ」

             

             彼らを支える大地にその告解が染み渡り、いたたまれない沈黙が下りる。
             疑惑の渦中にある佐伯といえど、憂うその想いを切って捨てることなどできはしない。もはや最大の敵であることが揺るがない瑞泉の非道を、ハガネたちは身をもって経験している。同じ想いがあるからこそ、彼女たちはここに来て、そして目の前の男と出会ったのである。
             と、そこまで述べたところで、佐伯は改まって真剣な表情をジュリアとサリヤに向けた。

             

            「ですが……! ――あ、いや……しかし……」
            「……?」

             

             けれど、何か告げようとして、彼は言い淀む。
             これまではっきりと説明を続けてきた彼らしくない態度に、二人は小さな驚きと共に彼の言葉を待つ。煮え切らないようでもあるが、良かれと思っているのに、それが失礼になるようにも思えて尻込みしているようでもあった。
             やがて佐伯は、自分の考えを信じたように再び目に力を込めると、

             

            「異邦のお二方よ。問わせていただきたい。――あなた方が、闘う必要はあるのか、と」
            「……!?」

             

             訊ねられた二人も、そしてハガネも、その意外な問いには言葉に詰まった。
             無論、それは彼女たちがこの場に至るまでに既に終えた問答である。瑞泉の蛮行に曝された二人には、彼女たちなりの理由があるからこそ、ハガネと共に瑞泉攻略に参加したのだ。
             ただ、それをここで改めて……しかも、自らを援軍と称する佐伯が、話の流れを乱暴に変えてまで問うてきた――その事実が、彼女たちに口をつぐませる。
             何より、佐伯のその問いには、責める意思ではなく、嘆きの色がついていた。

             

            「……いきなりこんなことを言い出して申し訳ない。ですが先程も言った通り、お二人のことはずっと気がかりだったのです。だってそうでしょう? あなた方は、あくまでこの地の動乱に巻き込まれただけ。これ以上自らを危険にさらす必要がどこにあるのでしょう」
            「そ、それは……このまま逃げ場をなくすよりも、打って出ないと――」
            「それです……! それこそが、誤解の元なのです……!」

             

             サリヤの反論を断ち切った佐伯は、彼女に向かって手を差し出した。
             どうかこの手をとってください、と。

             

            「我々碩星楼は、お二人のために安全な場所を提供しましょう」
            「エッ……!」

             

             意を決したように、佐伯は二人に事実を突きつける。

             

            「突き詰めてしまえば、今のお二人に必要なものは安全でしょう。闘うのも、安全な環境を自ら手に入れるため。ならばその安全が保証されれば、お二人が戦場に赴く理由はありますまい」
            「…………」
            「碩星楼は知識の蔵でもあります。海の外の知識や技術は、我々にとっても大変価値あるものです。それこそ、こちらからご招待し、悪鬼から手を尽くして守るほどには。これは碩星楼の総意と思っていただいて構いません」

             

             そして、

             

            「お求めとあらば、故郷への帰り道だろうと我々はご用意いたしましょう。――どうですか、ジュリアさん、サリヤさん。我々を、戦火をしのぐ傘として使ってはみませんか」

             

             とても柔らかで、揺らがぬ自信を支えにした提案だった。
             だからこそ、ジュリアも、サリヤも、揺らがされていた。その提案は、選択肢の限られた二人にとって、正しく検討に値するだけのものだったからである。

             

             目を泳がせるジュリアは、惹かれていることを隠しきれていない。その瞳の色は好奇心であり、ちらちらとバツの悪さが顔を覗かせている。
             そんな主を険しい顔で見つめているサリヤは、その表情の裏に打算を働かせる己を隠していた。彼女にとって、全てに優先されるのはジュリアの守護である。主を守れる可能性が高いほうを選択するのは当然のことだった。
             だが、サリヤは意思を口にしなかった。主の意向を待つこともそうだが、湧いてくるわだかまりが考えを声に出すことを良しとしなかった。

             

             と、サリヤは自分の手を強く引っ張る力を感じた。
             ハガネだ。
             小さなメガミは、佐伯へと僅かばかりの敵意を向けて、サリヤを決して離さないというように手を抱き寄せていた。
             そして二人の黙考を打ち破るかのように、反発の声を上げる。
             だが、

             

            「あんなやつの言うこ――」
            「……とまあ」

             

             ハガネの勢いを削いだのは、肩をすくめて両手を上げ、降参の意を示した佐伯の姿。
             彼は仕方がないと言わんばかりの苦笑いを浮かべながら、梯子を外されて黙らざるを得なくなったハガネに対し、こう続けた。

             

            「こうしてハガネ様も好ましく思われないでしょうし、ここまでいらしたジュリアさんとサリヤさんの決意を蔑ろにするつもりもありません。無理やり従わせるなど、それこそ瑞泉と同じになってしまいますからね」
            「じゃあ何が言いたいの? はっきりしてよ」
            「戦に赴くのは、満足行く解決策が見つからなかった場合に限るべきなのですから、確認は必要でしょう?」

             

             むすっとハガネが口を結んだところで、佐伯は頭を下げる。今度は謝罪ではなく、申し入れとして。

             

            「お二人の決意があるからこそ、せめてお手伝いをさせていただきたいのです。私としても、お二人を心から案じているのですから」

             

             サリヤとジュリアは、困ったように顔を見合わせるしかなかった。
             手を掴む力を逃したハガネに、この場の結論をサリヤは見る。利益を諦め、意思を尊重されたのだから、もはや彼を受け入れざるを得なかった。

             

            「サーキ、また、ヨロシクです」
            「おお、ありがとうございます……!」

             

             安堵を孕んだ佐伯の感謝を聞くサリヤは、それでもハガネが未だ、飲み込んだ警戒心が胸につかえたように苦い顔をしているのを見て、そっと頭を撫でてやることしかできなかった。

             

             

             

             

             


             つー……、と。
             地面を転がっていく巻物は、だらしなく舌を伸ばし続けているようであった。
             その紙面に、パタタッ、と。

             

            「あ、あ、ああぁぁぁぁぁぁぁッ!?」

             

             巻物に降り注いだのは、飛沫であった。
             冗談のように軽快な音を立て、紙を濡らした液体の色は赤。

             

            「あっ、ああっ……! あ、あし……脚が、あぁ……なんで!? なんでぇぁぁぁぁッ!?」

             

             その血飛沫もまた、空間を満たす男の悲鳴に塗りつぶされ、澱んだ沼のように地面に広がるのみとなる。
             男は必死だった。己から生まれた血溜まりでもがき、ろくに動かなくなってしまった脚を引きずるようにして、腕だけで逃げるように這っていた。
             が、生存の未来を掴むべく突き出した腕は、虚空を掴む。
             二度と何も掴むことのできない、ただの物となって、彼の右腕は転がっていった。

             

            「ぁ……ぁが……ぁ」

             

             あまりの痛みに頭が真っ白になったのか、痛みを訴えることすらままならない。
             ……そんな彼の様子を、全身黒の忍装束に身を包んだ榊原が、緊張を漲らせながら距離を置いて眺めていた。
             少し粘度のある液体の上を歩いているような、そんな軽いようで生々しい音に顔をしかめた榊原は、この場に居ない誰かに向かって問いかける。

             

            「本当に、よかったのですか……」

             

             僅かに声を震わせた彼は、この惨状を作り出したソレの一挙手一投足から、目を離すことはできなかった。

             

             

             

             

             


            「何を言い出すかとヒヤヒヤしましたが……」

             

             現実のようでいて、その実夢の中にたゆたっているような、そんな柔らかい色彩に包まれた空間。そこで一人、シンラは微笑んでいた。

             

            「まあ、私が認めた者ですからね。流石、と言うべきか、当然、と言うべきか……」

             

             誰も居ない場所でただ、彼女は言葉を作っていく。
             今までの過程を、確かめるように。

             

            「ここまでは筋書き通り、ね」

             

             これからの道程を、思い浮かべるように。

             

             

             


             英雄に仲間は欠かせない。百人力の英雄も、千の軍には敵いっこない。だからこそ本来、佐伯識典の協力は歓迎されるべきだろう。しかしそこには幾ばくかの波風が立ち、しこりを残す結果となった。
             
             はてさて、ハガネの直感が間違っていたのか、佐伯識典がうまく煙に巻いただけなのか。
             それはこれから、彼が何を成すのかが教えてくれるだろう。
             だからひとまず今は、新たな仲間を歓迎しておこうじゃないか。

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

             

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