『桜降る代の神語り』第69話:決戦

2018.11.09 Friday

0

    《前へ》      《目録へ》

     

     絶望の中、彼女は数々の希望を受け継ぎ、再び刃を構えた。
    人も、メガミも、この地を遍く混乱に陥れた騒動は、ついに決着の刻を迎える。


     英雄・天音揺波、最後の決闘。
     その全てを、カナヱは今ここに語ろう。

     

     

     


     穏やかな夜風が、無数の傷を撫でる。天の頂に手を伸ばした月が、戦乱を物語る瑞泉城の荒れた敷地を見下ろしている中、決戦の舞台は雄大なる翁玄桜の輝きによって照らしだされていた。
     その異様な桜に、初め揺波は息を呑んだ。巻き付くように奇妙な木製の輪と数多の歯車が取り付けられた歪な姿が、事件の中心なのだと理解したからだ。ただ、そんな侵食も今や一部の歯車がぎこちなく回るのみで、整然とした動きは感じられない。

     

     故に、その下で瑞泉と向かい合った揺波は、意識から装置のことを外していた。
     勝利のためには、不要だったからだ。

     

    「…………」

     

     瑞泉も、揺波自身も、そして成り行きを見守る者たちも、訪れた静寂に身を浸している。
     相対する二人を囲むよう、瑞泉の背後には彼らの兵たちが、揺波の背後にはジュリアを始めとした仲間たちが、それぞれ位置していた。お互い考えることは同じで、本人たちに相手方が危害を加えないよう、警戒心を顕にしている。

     

     両陣営、賭ける物はあまりに大きい。
     だが、その行方を決する闘いなればこそ、この地に生きる者として最後まで見守る必要がある。神事を尊重する心と、万が一があってはならないという懸念が拮抗し、結果として遺恨なき決着を待つ舞台が出来上がっていた。

     

     

    「天音揺波、我らがヲウカに決闘を」

     

     宣誓する揺波。
     すると、ザンカから受け継いだ長大な斬華一閃が、一度桜と散り、再び彼女の手に収束していく。
     脈動する力はそのままに、天音揺波の刃となった斬華一閃は、今まで揺波が顕現させていたものよりも一回り厚く長く、けれどしっくりと手に馴染む。刃の重みと柄を握る手に伝わる温かさが、適度な緊張感と安心感をもたらし、勝利への意志を後押ししてくれた。

     

    「瑞泉驟雨、我らがヲウカに決闘を」

     

     対する瑞泉の手に、得物はない。自然体に構える彼は、しかし足元にわだかまる影を引き連れているような不気味な雰囲気を纏っており、神帯鎧も脱ぎ去ったとて、不足はないのだと気配で示している。

     

     静かに両者の意志と覚悟は出揃った。
     一方は、己の欲する世界のために。
     一方は、己の愛する決闘のために。
     未来を勝ち取るための闘いが、幕を開ける。

     

     

     

     


     彼我に挟まれた空間が、緊張のあまりに重く、硬く、横たわっている。今から一歩を踏み出さなければならないのに、揺波は静かにその開いた間合いを見つめるのみ。両者の意志だけが、既に剣戟の音を響かせているようであった。
     相向かうだけで、決闘の舞台は威圧の底に沈む。
     もはや達人の域を超え、練り上げられていく闘いの空気は神域に近づいていた。

     

     意を決し、じり、と右足を差し出す。
     二歩目は、より早く。
     だが、

     

    「っ……!」

     

     瑞泉から放たれる圧が、さらに強められ、一瞬足を止めてしまった。彼を恐れたわけではないが、揺波の内に宿る力が怯えているかのようだ。
     彼にとってそれは行動の始まりを告げる合図だった。緩く上にかざした左手の上で、収まりのいい配置を探すように、かちゃりかちゃりと何かを弄び始めた。その力の源と対峙したことのある揺波は、その動きがよくない結果をもたらすことを理解する。
     しかし、積極的な至近を選んだ揺波を、迸る黒い影が襲った。

     

    「ぅ、ぐ……」
    「そこで見ていろ」

     

     右手を突き出した彼の表情に、慢心などない。
     軌道を読みきれず、思わず結晶のみならず刀までも盾にしてしまい、揺波は前進する意志を軽くくじかれた形となる。
     決闘の場において、彼女はウツロやクルルの力に対して圧倒的に経験が足りていない。無形の影を駆使する攻め手の早さはひと目見ただけで驚異であり、自身の戦い方を体現するまでの苦境を瞬時に悟る。

     

     だが、天音揺波は最強の男の攻めをかいくぐったミコトである。
     それに及ばぬ攻めを前に、どうして彼女が怯むことがあろうか。

     

    「ふッ!」

     

     切り替えるように息を切って、飛び出すように前へ。
     襲い来る漆黒の闇が彼女の勢いを殺そうともがくが、貪欲に至近を求める揺波を止めるには至らない。ただ傷を承知で突き進むのではなく、鉛玉の雨を切り抜けたときよりも余力を残して、彼女は瞬く間に彼我の間合いを詰めていく。
     そして、足を両断しようと地面の影から生み出された刃を、巧みな足捌きで回避した揺波は、

     

    「やあぁッ!」
    「くっ……!」

     

     気迫と共に振った刃が、瑞泉の胸を切り裂いた。吹き出した結晶の破片に、有効打を確信する。
     と、

     

    「あ――」

     

     踏み込んだ足に体重を乗せていた揺波の身体が、僅かにぐらり、と傾きかけた。物理的な反撃を受けたせいではなく、どうしてか、くらくらと渦を巻いた思考が、次の一手への動きをかき乱したのである。
     それでも刹那の混乱を打ち破り、横薙ぎに二の太刀を浴びせんとするものの、瑞泉の腹に吸い込まれていくはずだった切っ先が、彼我の間に現れた影に飲み込まれた。

     

    「ふっ」

     

     手応えはなく、相手は滑るように一歩間合いを離していく。
     まるでそうくることが予期されていたかのような、抜かりのない受けだった。乱された思考も、未知の力なのかと思うと、次の一手を繰り出すまでに対策を練らなければならない。

     

     だが、天音揺波は最硬の男の守りを打ち破ったミコトである。
     それに及ばぬ守りを前に、どうして彼女が躊躇うことがあろうか。

     

    「あ、がぁぁっ!」

     

     お返しとばかりに、揺波の全身を電撃が焦がす。
     揺波の攻めを受けてなお、瑞泉からは焦りも迷いも感じられなかった。彼の攻めも守りも、最高と評するにはいくらか物足りない。けれど、それすらも予定調和だとばかりに、瑞泉は淡々と手中の次の動きを進めていた。

     

    「ふぅー……」

     

     揺波の頭は、それこそが瑞泉の強さであるとはじき出す。
     彼が達人の域に確実に至っているであろうことは間違いない。しかし、龍ノ宮が攻めを、古鷹が守りを極めたミコトであるように、瑞泉が分かりやすい技を極めているわけではない。

     

     彼が極めたものは、決闘の盤上にはない。
     己自身をも駒とし、結果への道筋を淡々となぞるその冷徹なまでの戦略こそ瑞泉驟雨の武器。無駄が生じるはずの立ち回りを一切の無駄なく完遂する達人の動きすらも歯車とする様は、勝利を生み出す完璧な構造を体現しているかのようだった。
     個々の動きでは劣っても、龍ノ宮や古鷹を超える強敵に違いない――一合交えただけで、揺波にはそう思えてならなかった。

     

    「どうした?」
    「…………」

     

     問う瑞泉の声に嘲りの色はない。間髪入れずに迫るという予測が外れてしまったではないか、とでも言うようだった。
     ずっと同じ調子で戦い続けてしまえば、彼の勝利に組み込まれてしまう。ザンカと共にこの場に立っているような境地であってもなお、揺波は勝ちを確信することができず、再び肉薄するための力を脚に溜めるのみだった。

     

     と、そんな揺波の焦りを溶かすような、斬華一閃のものではない温かさが、彼女の手に広がった。

     

    「あ……」

     

     左手のぬくもりに、励まされている。
     どこか子供らしく手を引っ張って、わたしもいることを忘れないで下さい、と主張されているかのようで、決闘の最中だというのに、揺波の顔が仄かに緩んだ。

     

    「お願いッ!」
    「む……」

     

     ホノカの力をいざ振るう。桜色に棚引く旗を顕現させた揺波は、力を送り出すように瑞泉に向かって旗を振る。
     その勢いや、風を切る音すら聞こえるほど。
     しかし、

     

    「なんだ……?」

     

     旗の軌跡から飛び立った、手のひら大の桜の精の動きはいかにも弱々しい。ぺちり、と念を押して突き出された瑞泉の結晶に阻まれ、相打つように光と消え、そして揺波の元へ戻っていった。
     大仰さとは裏腹に、決定打とは程遠い一撃に瑞泉の眉がひそまる。しかし、揺波の瞳は失望で彩られたりはしておらず、ホノカへの信頼に強く輝いている。

     

    「なら」

     

     それを見てか、警戒心を強めた瑞泉は、影を引き連れるように動く。
     安全圏に逃れるように後方へ向かったのではなく、彼が志向したのは前だ。

     

    「な……!」

     

     一気に間合いを詰めてきた瑞泉に、慌てて揺波が斬華一閃を顕現し直す。彼は途中で影から作った大鎌を手に収めていたが、実際にそれを振るうことはなかった。左手は相変わらず絡繰を弄んでいるため、そもそも満足に振れるはずもない。
     刀を持つ相手に対して、遠距離戦が行える者が自ら接近するのは一見して異常。しかし大鎌の柄を盾にするように突き出して鍔迫り合いを仕掛けてきたことから、近すぎる間合いでは刀も盾にしかならないことを瑞泉は熟知しているようであった。

     

     前方への脱出を大胆に選べる者は、それだけで強者足り得る。
     巧妙な動きを絶やさない瑞泉を相手に、時間をいたずらに生み出すこの超接近戦を続けるわけにはいかなかった。
     ただ、やや状況は異なるものの、揺波はこれに近しい場面に遭遇したことがある。
     最強の守りすら一度は崩した手を、迷いなく選択する。

     

    「……!」

     

     体内に溜め込んだ気を、肉薄する瑞泉が悟るほどに膨張させる。相手を圧し、その守りを吹き散らす威風は、計算された立ち回りに楔となって打ち込まれるだろう。
     僅かに顔を顰める瑞泉を窺いながら、揺波はさらに次の一手を考える。
     しかし、やはり彼に焦りはなかった。

     

    「全ては欺瞞」

     

     

     そう呟くと、青白く輝く奇怪な紋様が彼の周囲に浮かぶ。
     限界を迎えた揺波の気が、それごと吹き飛ばさんと破裂の瞬間を迎える。
     だが、

     

    「え……」

     

     威風が、現れない。
     溜め込んでいた気がどこかに消えてしまったかのように、何も起きなかった。
     そして、対抗するだけの力を使われたのだと瞬時に切り替えようとした揺波は、眼前の瑞泉の姿が歪んでいることにも気づく。音からしてそんな動きはしていないはずなのに、前後に行ったり来たり、距離感がまるで掴めなくなっていた。

     

    「くっ……」
    「土産だ」
    「ぐ、ぅあぁっ、あがぁ……!」

     

     やむなく打ち払って引こうとした揺波めがけ、冷徹に追い打つような雷撃が迸る。しかも、先程とは違い、二度焼かれることとなった。
     それでも刀を降ろさないまま、しびれる身体をおして瑞泉を正眼に据える。彼の周囲に広がった紋様は、余韻も残さずに消え去っていた。役割を果たしたからか、時間に限りがあるのか、もう視界は元に戻っていた。

     

     攻めは看過できる水準まで抑えられ、防ぐことの叶わない不可避の雷撃で身を焼かれる。揺波の懸念通り、彼の勝利を生み出す頑強な仕組みに飲まれてしまっていた。
     彼の勝利に盛り上がりなど必要ない。このまま淡々と傷を広げ続け、淡々と倒し切るのだろう。

     

    「これ、から……!」

     

     決意を示すよう声に出し、歯を食いしばる。
     瑞泉流の決闘を打ち破るには、どこかで爆発を起こさなくてはならない。

     

     

     

     


     刀は引き斬ることによって鋭利さを発揮できる武器である。正確には、そう振るうように作られている。故に、想定された彼我の間合いを逸すれば、なまくらの斬撃を繰り出すことになってしまう。
     しかし一方で、刀とは刃だけからできているものではない。十分な質量と硬さを備えたそれは、ある種の鈍器とも言える。

     

    「たッ!」
    「おぉっ!」

     

     切り結ぶかと見せかけ、切っ先を地面に向けた揺波は、斬華一閃の柄頭を至近の瑞泉の顔めがけて繰り出した。
     阻まれることなく吸い込まれてった柄頭は、瑞泉がわざと結晶の盾をどかしたためである。衝撃の反動を利用しながら一歩、二歩と下がりつつ、正しい刀の間合いにて斬撃を放つ。

     

    「無駄だ」

     

     再び、影が切っ先を飲み込み、振り切った勢いを逃しきれない。しかも、その動きに連動するかのように、猛烈に歯車が回転する音が響いたかと思えば、瑞泉は己の脚も動かさずに離したばかりの間合いを再び詰めてくる。
     古鷹に攻撃をいなされ続けたときのような絶望感はない。だが、細々とした攻撃は甘んじて受け入れてもらっているが、瑞泉は一向に致命的な隙を見せない。勝負の行方を左右するような大技を、彼は明確に警戒していた。

     

    「あっ、ぐぅ……!」

     

     再三の電撃に膝が折れそうになる。
     天守閣での戦いのような、天より雷を呼び出すほどではないにしろ、瑞泉の手中より迸る雷撃の回数は異様なほどに多かった。この中では、気で圧する間隙もろくに見いだすことができない。
     序盤でついた差を、どうしても取り返せない。
     歯がゆさが広がる中、体勢を立て直す猶予を作ってもらうように、心の中でホノカのあの光を求める。左手付近から飛び出していった桜の精が、彼の視界を塞ぐように顔面めがけて体当たりを敢行する。

     

    「ふん……」

     

     やはりそれは容易く防がれてしまい、構え直すだけの時間を揺波にもたらしただけであった。
     けれど、その大きさ。
     光の姿のホノカと触れ合っていた揺波には、桜の精が先程よりも大きくなっていることに気づいた。

     

    「あ……」

     

     それを裏打ちするかのように、左手に生じたぬくもりが広がっていく。
     苦境を共にし、支えてくれる頼もしい想いが、揺波の焦りを溶かしていった。

     

    「任せて下さいっ!」

     

     と。
     今度は確かに、そう聞こえた。
     まごうことなきホノカの声が、揺波さらに奮い立たせる。
     信頼の果てに選んだのは、刀も届かぬ間合いへの全力後退であった。

     

    「うん?」

     

     油断は見せないものの、訝しげな瑞泉。構うことなく、降り積もった桜の塵を巻き上げながら、華麗な足運びで距離を離す。取り残された盾の結晶に惜しさを感じつつも、防げない攻撃を繰り出す相手を前に、防御を薄くしたところで問題ないと直感していた。
    接近して、打ち合うのでなければ。
     もはや熱いとすら言える左手は、高まる力を示してやまない。

     

    「行ってッ!」

     

     合図と共に、一気にその力を放出する。
     桜の光が精霊の形に収束し、反動すら感じるほどの勢いで瑞泉へ突撃する。その姿は先程よりもさらに一回り大きく、纏う光はなお力強い。

     

    「ぐおっ!」

     

     反射的に身体を傾けての回避を選んだ瑞泉だったが、桜の精はそれを許さない。自分の意志で喰らいつくように軌道を修正し、弱々しかったことが嘘のような強さで彼の腹を打ち据える。
     散って戻ってくる光は、戦局に一石を投じた誇りを胸に、凱旋するかのようだ。

     

    「チッ……」

     

     ふらついた身体を立て直し、瑞泉がこの決闘で初めて苛立ちを顕にした。
     だが、

     

    「ふっ、ふはっ……ふははっ……!」

     

     煩わしさすらも飲み込む大きな感情が、獰猛さを帯びていく笑みに現れる。
     乱れた髪をかきあげる彼の瞳は、暗闇に潜む獣よりもなお妖しく光っていた。待ちわびた獲物を前に、狂気すら滲んでいるようだ。

     

    「そうだ、それだ……あんな弱々しいものではない……! その純然たる力こそ、謳われしヲウカの力!」

     

     彼には今、自分も他人もない。揺波にさえも焦点は合っていない。
     あまりにも大きすぎる野心に突き動かされる獣こそ、瑞泉驟雨。成就のために求めていた力を前に、今までずっと理性で蓋をしていた動力源が暴れだしている。

     

    「それを私に寄越せ、天音揺波ァ!」

     

     感情の赴くままに叫ぶ瑞泉が、二条の電撃を放つ。再び懐に潜りこもうと前進する姿は、理性にどうにか操られてさえいなければ、妄執に取り憑かれたようにしか見えなかっただろう。

     

    「っ……! お、ことわりですッ!」

     

     意志と反して雷に怯む身体を無理やり起こし、迫る瑞泉を見据える。
     彼女の体内に残された結晶は少ない。時を刻むように淡々と襲い来る雷撃は、瑞泉という機構が健在である限り、揺波の敗北の瞬間をも告げることだろう。
     けれど、すなわちそれは、敗北の刻を見定めることができるということ。
     今だからこそ、決死の執念を見せるとき。逃すことのできない機を掴み取るため、意志を燃やし、斬華一閃を強く握りしめる。

     

    「それにこの子は――」

     

     腰だめに構えた刃の腹に、桜の光を纏わせた手を添えて。
     稲妻に散らされた全身の力を総動員し、相手を討ち果たす底力を捻り出す。

     

    「ぽわぽわちゃんですッ!!」

     

     

     放たれる居合は、揺波の意志のように強く、鋭く、敗北をもたらす全てを両断する力となる。
     その勝利への執念の結晶を前に、瑞泉は、

     

    「知ったことかぁぁぁぁぁ!」

     

     さらに前へ、持てる結晶を全て動員し、強固な盾を構えて踏み込んだ。桜花結晶の輝きは、無慈悲にも揺波の意志を受け止めて、一拍遅れて生じた剣風で吹き飛ばされていく。
     全力で刃を抜き払った揺波は次なる行動に移りきれず、計算と覚悟の上で飛び込んでいった瑞泉は、ほんの僅かに生じた余裕によって影の波動を迸らせる。

     

    「っあ……!」

     

     なおも体勢を崩された揺波を前に、瑞泉が口を歪めて嗤った。手にした絡繰は、この先を暗示するかのように、ぴり、ぴり、と閃光を瞬かせている。
     その手を払うことすら、もう揺波にはできない。
     傾いでいく視界の中、残酷なまでに猶予を奪われたことだけを理解する。

     

    「これで終われよ、天音ッ! 今度こそォ!」

     

     もたらされる終焉に対して、守りは意味を成さない。満足な攻め手も見つからない。己にできることがどんどん脳裏から消え去っていく喪失感の果てでは、彼女が求めるものとは対極の概念が手招きしていた。
     でも、と揺波は自ら執念の炎を吹き消すことはしない。

     

     己が打てる手がなかったとしても。
     己に成せない勝利だったとしても。
     だからこそ、共に戦う相棒を最後まで信じ抜く。
     刃として振るったザンカの力でも届かなかったとしても、その左手に高まる力は信頼と、そして希望に満ちている。

     

    「お願い……ぽわぽわちゃん!」

     

     祈りというよりも、それは託すと呼ぶべき叫びだった。
     瞬間、舞台が桜の光に包まれた。

     

     

    「……!」

     

     手のひらに乗るような、可愛らしい姿形は過去のもの。
     光によって象られたのは、もはや人の形であった。身体を得たホノカに近いような、あるいは別の存在のような、桜の力が形を持っているということだけがはっきりと分かるその姿。

     

     現れたそれは、揺波を執念を受け継ぐように、瑞泉へと立ち向かう。
     負けないためではなく、勝つために。
     意志の宿った力が、最後の一手となって、解き放たれる。

     

    「な、あ……」

     

     自分が求めたものへ手をかけていた瑞泉に、これを受けるための手段はなかった。彼の守りは、既に欲望に喰われた後だった。

     唖然とし、言葉を失った彼は、迫る光の奔流に己の破滅を照らし出される。
     勝利を導く歯車はもう、動かない。

     

    「ちくしょぉぉぉぉぉぉっ!」

     

     獣のような慟哭が、桜の下に響き渡る。
     それも、光の中に飲み込まれた後には、塗りつぶされたかのように静まった。
     それが終わりの合図だった。
     決闘は、ここに決着を迎えた。

     

     

     

     


     敗北による動揺も、勝利の余韻も、観客からは湧いてこなかった。

     

    「なぜ、だ……」

     

     誰もがただ、膝をついて呆然と虚空を見上げる瑞泉の様子を窺っていた。あれだけ漂わせていた支配者の風格は消え去り、この敗北によって一瞬で全て失ったようにみすぼらしく見える。
     だが、彼の中で燃えていた野心は、燻るような惨めさであっても、未だ原動力のままであり続けたようだった。

     

    「貴様ら、何をしている……」
    「は……?」

     

     生気を失った目で、控えていた兵を見やる瑞泉。
     彼は理解を示されなかったことに激怒し、口から泡を飛ばして兵たちを怒鳴りつける。

     

    「天音揺波を捕らえろッ! 力を使い果たした今が好機、そんなことも分からないのか貴様らはッ!」

     

     無様だった。
     大家の長として君臨し、世を統べると謳った者の姿では決してなかった。
     しかし、手段を選んでこなかったからこそ、今日の結果があることもまた事実。彼の残った理性がはじき出した醜い正論は、どんなに無様であろうとも揺波たちが警戒しないわけにはいかなかった。

     

     咄嗟に、千鳥と佐伯が揺波へと並び、ジュリアを背中に隠す位置をとる。楢橋でさえも、彼らの後ろで複製装置を使えるよう構え、抵抗の意思を見せていた。
     泥沼の戦いが幕を開けるのか。そう悲観し、揺波が斬華一閃を握り直す。
     けれども、

     

    「おい……何故だ、何故動かない」
    「…………」
    「どうした、私の命令が聞けないのかッ!」

     

     悲鳴に近づいていく声を浴びせられたところで、瑞泉の兵が動くことはなかった。
     自軍の総大将が桜花決闘で破れたという事実は、兵の中にいるミコトの心を折るのに十分であった。直接襲うことも、重ねるように桜花決闘を挑むことも、選択肢から消えていたのである。
     そしてその諦観は、複製装置だけを持つ兵の恐れをさらに煽る。揺波の手にした斬華一閃の斬撃に身を晒すなど、到底できるはずもなかった。

     

     何より、ここでの抵抗は桜花決闘の定めに反する。
     実力差を理解してしまったという以前に、禁忌に近しい何かが、兵たちが武器を掲げることをよしとしなかったのである。

     

    「どう、して……」

     

     怒りで生じた力が、瑞泉から抜けていった。言葉を失い、兵たちもいたたまれないように沈黙を守り、意志が消えたようだった。
    それを見て、千鳥は手にした苦無を懐にしまった。

     

    「終わったな」

     

     揺波に笑いかけ、揺波もまた疲労をおしてはにかんだ。
     弛緩した空気が流れかけ、揺波たちは勝利を手にしたという事実が染み渡ってくる感覚を覚えていた。
     と、そんな彼らの耳に、砂利を踏む足音が割り込んだ。
     一瞬にして戻った緊張感の中、彼らの視線の先にあったのは、小さな影だった。

     

     ウツロ。
     揺波たちを苦しめたメガミが、ここに来て現れたのだ。

     

    「ソンナ……」

     

     絶句するジュリアに賛同するように、顔を歪めて身構える佐伯と千鳥。
     ウツロはまさしく満身創痍を体現したような姿で、その衣服のあちこちが避けていた。ふらふらと歩いてくる彼女の一部からは、砂のように細かくなった桜の光が宙に溢れている。
     しかし、メガミが立っているというそれだけで、状況がひっくり返る。
     僅かに残った力とて、人々を屠るには十分なはずなのだから。

     

    「ウツロ、ウツロッ!」

     

     地に手をつき、すがりつくような声で瑞泉は彼女の名を呼んだ。
     ただ、この場で一人だけ、ウツロのことを新手だと認識しなかったものがいた。

     

    「おい天音、何やって――」
    「もう、やめてくれませんか」

     

     揺波は、おぼつかない足取りのウツロを、瑞泉からかばうように立つ。這いつくばって懇願する瑞泉に対して抱いた憤りをぶつけるように、彼を威圧する。
     瑞泉には、彼女の行いが理解できなかった。敵どころか、最も恐ろしい存在に無防備な背中を向けるその神経が、分からなかった。ただ、自分の理屈を超えていく彼女に反抗する気力を失い、呆然とするだけだ。
     ざり、ざり、と近づいてくるウツロに、揺波は敵意のなさを伝えるように、優しく呼びかける。

     

    「ウツロさん」

     

     けれど、その先を続けることはできなかった。
     間近で見たウツロの様子は、死に体であることを除いても、なお異常であった。

     

    「え……」

     

     空虚だった瞳に、色がついている。
     その色は、恐怖――ここになって、彼女の心が塗りつぶされ、瑞泉にも揺波にも反応していないことを悟る。
     ウツロは、間違いなく何かを見ていた。
     ここにはない、誰にも分からない、何かを。

     

    「負け、たの……?」

     

     ぽつり、自問する。
     揺波の脇を、素通りしていった。

     

    「嫌……負けるのは、嫌……」

     

     戦慄く口で、怯えを訴える。
     小さく手にすがりついた瑞泉を、道に飛び出た枝であるかのように無視していった。

     

    「もう、何もない中で――」

     

     ふらふらと、ただ導かれるように。
     彼女の足取りは、翁玄桜の根元へ収束する。そこにはただ、ジュリアたちが破壊した神渉装置の残骸が静かに鎮座しているだけだった。

     

     だけの、はずだった。
     終わりを迎えた、はずだった。

     

    「ずっと一人なのは……嫌っ!!」

     

     

     激昂に賛同するように、動かないはずの神渉装置が悲鳴を上げる。
     ガタガタと、無理を通すように。
     絞り上げた命脈が、再び顕現する悪夢を想起させる。

     

    「な、なんでだよ……どうしてだよ……」

     

     後ずさる千鳥が、小石につまずき、尻もちをついた。
     誰の目にも分かる、神渉装置の再稼働。それを何より否定したがっていたのは、装置を破壊した張本人であるジュリアである。

     

    「アリエナイ……もう、動くハズありませんッ!」
    「で、でも、どう見ても――」
    「アリエナイんです! 動くことも、あのパーツが、ああやって動くことも!」

     

     目の前の光景を受け入れられないジュリアをよそに、翁玄桜の上部に取り付けられた巨大な歯車たちが崩れ始める。ズゥン、と巨大な質量が地を揺らし、これが紛れもなく現実であることを突きつけた。
     そして、壊れた歯車を追って桜の根元に目をやった者は、根元に落ちた影がだんだんと澱んでいく様を見てしまう。

     

     そして、闇は広がる。
     桜に最も近いウツロを飲み込むように。

     

    「ウツロさん……ウツロさんッ!」
    「ウツロ……頼む……! 私の、世界を……! ウツロォッ!」

     

     揺波は説得するように、瑞泉は懇願するように、それぞれ叫ぶ。
     だが、その声は彼女には届かない。

     

    「いやーっ! ぎゃーっ! 死ぬーっ! オレっち何も悪いことしてなーい!」
    「う、うわあぁぁぁ! 逃げろーッ!」

     

     溢れ出した恐怖に、悲嘆に暮れ、逃げ惑う。
     だが、その声も彼女には届かない。

     

    「ドウシテ、ですか……なんで……!」

     

     ジュリアの困惑も、届かない。
     彼女にとって、それは雑音でしかなかったのだから。

     そして影が、ウツロへと至る。

     

    「あ、ああぁぁぁぁぁぁ――」

     

     絶叫は、途絶えた。
     瞬間、広がっていた影は一度翁玄桜の根元へと戻り、そして破裂したかのように急速に広がった。

     

     揺波たちを、飲み込むように。
     否――この地を、飲み込むように。

     

    「は……?」

     

     しゃら、しゃらと、結晶の擦れ合う音が、洪水のように響き渡った。
     理解を越えた事象に、誰もが絶句する。

     翁玄桜が、散り始めていた。

     

     

     


     この日、大地から光が消えた。
     月明かりだけに照らされるこの地は、あまりにも暗かった。
     人間も、ミコトも、メガミも、影に飲まれた世界で、ただ悟る。
     終焉の訪れを。

     

     

     


     天音家が残した数少ない桜。在りし日を思い出させるその桜を前に、一人の女中は膝をつく。

     

    「あぁ……あぁ……っ!」

     

     無慈悲に散りゆく様を前に、彼女は嘆き、主の姿を反芻した。
     天音揺波が初めての決闘で勝利した、あの日のことを。

     

     

     

     


     遠く旧龍ノ宮城敷地内に毅然と立っていた桜が、風にその花びらを舞わせている。

     

    「おーおー、なんかえらいことになってんな」

     

     この地に顕現したメガミは、言葉とは裏腹に、真剣な眼差しでその光景を目に焼き付けた。
     そして紅の閃光と共に、彼女は何処かへ飛び去っていった。

     

     

     

     


     御冬の里からさらに北進した果てにある、極寒の大地。

     

    「ふむ……」

     

     吹雪に押し流されていく桜の結晶に、女は険しい顔を作っていた。
     散った結晶の輝きが失われていく中、雪の灯りすらも頼りにならない闇へ、彼女は歩きだしていった。

     

     

     

     


     仄暗い古鷹山群で光となっていた桜が、力を失ったように枯れ枝を見せつつあった。

     

    「オボロ様……一体何が……」

     

     任務を果たし、帰還した楠坂は、震える手で忍の里の桜に触れる。
     温かみなど微塵も感じない終の気配に、彼は決戦の地へと目を向けるしかなかった。

     

     

     

     


     古鷹邸。白金滝桜があった大舞台は今、影の底に落ちていた。

     

    「我々に、どうしろというのだ……」

     

     人智を超えた現象に、指示を出さなければならない叶世座座長・仲小路も、立ち尽くす他ない。
     舞台の向こう側に見えるただの細枝が、栄華の果てのようであった。

     

     

     

     


     揺波たちを見送る立場であった者共も、不吉を極めたような現象に呆然としていた。瑞泉領までほど近い平原にぽつんと生えた神座桜はもう、一切の無駄なく禿げ上がっていた。

     

    「オ、オボロ様……儂だけは、儂だけは助けてください……!」
    「お、おおおおいずりーぞおっさん! 俺様のほうが助かるんだ!」

     

     大の男たちにすがりつかれるも、オボロはその異様な光景に目を奪われていた。
     畏怖を隠しきれない彼女の頭の中では、一つの可能性が踊っている。けれど、それが正しかったとて、最悪の発現でしかない。考えることをやめそうになるくらい、あまりにも絶望的な可能性だった。

     

    「は、はは……」

     

     オボロの指先で、結晶たちが塵となり、空気に解けていった。

     

     

     

     


     そして、往時の華美を忘れたかのように散った翁玄桜。結晶の最後の一片に至るまで無に還っていった今、枝が徒に夜空を覆い隠すのみ。色あせ、命を失ったような様子は、まるであの遺構に佇む花無き桜の再現のよう。
     揺波たちに、この現象が全土で起きていることなど知る由もない。
     だが、一本が失われただけでも這い上がってくる夜闇は、それだけで前代未聞の事態が起きたと認識させるには十分であった。

     

     その下で、影は、佇んでいた。
     ウツロを依代とするように集った影が成す人の姿。

     

     

    「…………」

     

     ただ虚空を見つめるソレの容姿は、一見すればウツロが人のように成長したものに近い。齢にして、3か4を加えたあたりだろうか。
     背中に生えた影色の四枚翅がより大きくなっていることも、衣服に刻みつけられた渦を巻いたような紋様も、ともすれば装いを変えただけだと逃避できるかもしれない。

     

     けれど、彼女から溢れ出す圧倒的な力は、元のウツロよりも、他のどんなメガミよりも強大だった。この場の誰もが、彼女は決定的に変わってしまったのだ、と理解せざるを得ないほどに。
     あるいは、これこそが本当のウツロなのかもしれない。
     謳われし存在が真なる姿で降臨した――そんな可能性が、皆の脳裏をよぎる。

     

     終焉をもたらしたその影は、焦点の合っていない瞳で世界を見渡す。揺波も、瑞泉も、誰であっても平等に、風景の一部であるかのように見ていた。

     

    「ぁ……」

     

     揺波は、動けなかった。いや、揺波のみならず、皆一様に動くことができなかった。
     各々、これが畏怖によるものなのか、それとも恐怖なのか、あるいは絶望なのか、判じることはできない。彼らに分かるのは、それらの感情の坩堝と化したここにおいて、あの影だけは自由であるということだけだった。

     

     そして影は背中の翅を羽ばたかせ、なにかに導かれるように飛び立っていった。
     真の闇に落ちた、世界へ。









     このようにして、英雄たちは勝利した。
     氷雨細音はまだ人に近く、それでも人から外れた存在として英雄たちを助け、いよいよ完全に座へと至った。
     闇昏千影は縁を辿り、絆を紡ぎ、そして仲間と共に友を助けた。彼女もまたその果てに、メガミの座へと至ることになったね。
     サリヤ・ソルアリア・ラーナークは自らが仕える者のため奮迅し、その末に彼女も至った。しかし、あのような異常な侵入になるとはカナヱですら予想はできなかったよ。
     そして、天音揺波は力を受け継いだ。師であり、最後の刹那だけは並び立つ戦友だった彼女から、桜花決闘を愛する友として、ね。瑞泉驟雨との最後の決闘は、見事だったと評するほかないだろう。

     四人の英雄は決意を貫き、巨悪を打ち破った。


     だが、まだ物語は終わらない。
     終焉の影は目覚め、この地全てを揺るがす最後の戦いが始まる。

     さあ、物語を最後の段階へ――桜降る代へと進めよう。
























     ひとつだけ、カナヱの助言も聞いてもらおうかな。
     君のことだから、心躍らせているんだろう?



     

     

     

     

     






     異相の技のことは、カナヱも聞き及んでいるよ。
     君はカナヱと共に神話を辿り、この時の彼女へと至った。
     まさかとは思うけれど、宿そうなどとは考えていないよね?

     図星かい? まあ、止めても無駄なのだろうね。
     だが、終焉の影は君の想像を超えて危うい存在だ。



     ならばせめて、死を越えて、塵すらも残らぬ――

     無への恐怖を知っておくことだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    語り:カナヱ
    『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
    作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

     

    《前へ》      《目録へ》

    『桜降る代の神語り』第四章

    2018.11.08 Thursday

    0

       

      第54話:口火

      第55話:佐伯識典

      第56話:熱意と冷酷の都

      第57話:激震の時

      第58話:大乱戦、再び!

      第59話:潜入

      第60話:狂気の坩堝

      第61話:メガミマンVSメカゴジョー

      第62話:サイネ新生

      第63話:影の中枢へ

      第64話:瑞泉驟雨

      閑話:ある最後の閑話

      第65話:絶望を砕く災禍

      第66話:闇昏千影

      第67話:サリヤ・ソルアリア・ラーナーク

      第68話:斬華一閃

      第69話:決戦

       

      《前章へ》     《目録へ》

       

      『桜降る代の神語り』第68話:斬華一閃

      2018.11.02 Friday

      0

        《前へ》      《目録へ》      《次へ》

         

         ひとつの英雄譚が幕引きを迎えても、この物語の舞台は一つじゃあない。
         最後の英雄・天音揺波。そして、狂える武神・ザンカ。
         二人が刃を振るうそれぞれの舞台もまた、結末に向けて収束していく。

         

         さあ、剣戟高鳴る二人の行く道を、今こそここに語ろう。

         

         

         

         


         晴れの夜空の下、瑞泉城の一画は霧で澱んでいた。水霧などではないことは、薄墨を垂らしたような灰色で地表を塗りたくっていることからも分かる。
         それは、尋常ではない量の桜花結晶が、砕けに砕け、空気に混じった光景だった。どうにか形を残している結晶も、積もることを許されずに舞い上がっている。宵闇の底にあって、そこは命の行き着く先であるかのように色を失っていた。

         

         ウツロとザンカは、その死地にて未だ打ち合っていた。
         荒げた息も、あちこち穴の空いた地面も、死闘を物語る要素ではあるものの、人間には血の赤が見えなければ、凄惨という印象は受けないかもしれない。
         だが、メガミ同士の戦いとはすなわち、桜の力によって維持される顕現体の破壊を意味する。
         この場に漂った塵全てが、彼女らが失った血肉に他ならないのだ。

         

        「はぁ……あぁッ!」

         

         突進して切り込んで来るザンカに対し、ウツロは影の大鎌を真正面から地面に突き立てる。その切っ先はザンカを捉えることはなかったが、突き立った刃を支点として、ザンカを跳び越すように己の身体を宙に打ち上げた。
         眼下に見るザンカを狙うよう、ウツロは手をかざす。漂っていた塵が、ザンカの周囲で色を濃くしていく。
         しかし、たった数秒といえど、時間をかけて絡め取るだけの猶予は存在しない。
         壮絶な衝撃の踏み込みによって勢いを殺したザンカが、己の頭上を越えようとしていたウツロへ急反転して飛びかかった。

         

        「……!」
        「ァウガァッ!!」

         

         猛烈なザンカの切り上げに、咄嗟に大鎌を再形成して振り下ろす。
         刀から発したとは思えない鈍い音と共に、二柱が宙で静止する。ただ、ウツロはそこで一時的に大鎌を塵に還し、ザンカが勢い余って空を切り裂こうとする中、崩した体勢を整えるべく着地する。
         そこにきっと、油断はなかったのだろう。
         反転し、無防備になったザンカを切り裂こうと構えたウツロは、

         

        「ぎ、ぃっ……!?」

         

         左腕を深くえぐった大質量に、思わず一歩たじろいだ。
         ウツロのすぐ隣に、ザンカの投げつけた刀が突き立っていた。不利な体勢を憂うのではなく、ザンカは追撃の一手を選んでいた。それどころか、彼女はウツロの隙に乗じて、無手のまま再び飛び込もうと駆け込んでいさえする。
         痛みを堪えるウツロが、今度こそ無防備になったザンカめがけて影の刃を地面に走らせる。避けようともしない進撃に両脚から大量の結晶が溢れ出すものの、蒸発した理性はただ前を目指すのみ。

         

         果たして、再び刀を手にしたザンカの間合いからウツロは脱し得なかった。
         影で編んだ壁を肉厚の刃が両断し、叩きつけた地面から凄まじい風が迸る。

         

        「うぐ……!」

         

         全力でその場から飛び退くウツロ。そんな彼女の目に、ザンカから遠ざかる膨大な塵が映る。
         すかさず、次の一歩の代わりに地面に落ちた影へウツロは飛び込み、一拍経って現れた彼女は、背中に生やした二対の闇色の翅を大きく羽ばたかせ、一気に人の手の届かない上空へと舞い上がる。
         本来ならば、弓でもなければ手のだしようもない安全圏。
         しかし、謳われし者たちの戦いにおいて、その程度の彼我の距離で安心を得ることはできない。

         

        「……っ」

         

         眼下に置いているはずなのに、ザンカから立ち上る気配にちりちりと焼かれる錯覚がウツロを襲った。
         これまでのザンカも、恨みを練り上げ、怒りを纏い、己の理性すら既に刀の錆にしてしまったような、常人では御し得ない気配を振りまいていた。だが、ウツロを見上げるザンカは今、狂人の慟哭すら内に秘し、これまでの狂気すら生ぬるいと告げるように、恐ろしくおぞましい気配を高めていた。

         

        「斬華六道――獄」

         

         声は、ないはずだった。
         けれど、そう宣言されたと感じ取ったウツロは、爆発的に膨れ上がったザンカの圧気に飲み込まれてしまう前に、決意していた力を先に放った。

         

        灰滅 ヴィミラニエ ――!」

         

         桜花結晶は、塵に。
         力ある者は、世界に積もる灰と共に。
         存在の根幹を奪い去るウツロの権能が、ザンカをザンカ足らしめているものを塵と散らせる。ただ手をかざしただけで、ザンカの全身からとめどなく色を失った結晶がこぼれ始めた。
         だが、

         

        「……!?」

         

         ザンカの気迫は潰えない。
         ただ真っ直ぐ、今から切り捨てる者を見定めるように刃を構え、脚に溜めていた力を解き放たんとしていた。
         ウツロにとって、直接塵化してなお止まらないというのは予想外だった。ただ、それでも致命に足る一撃である確信はあったため、ザンカの次の一撃を捌きえすれば問題ないはずだった。受けきれる自信がなくとも、躱せばそれで終わりのはずだった。

         

         ザンカの構えた刃の切っ先が、微妙にズレていることに気づくまでは。
         存在を賭して相手を屠る一撃であることは間違いない。
         けれど、ウツロは激戦の中で失念していたのだ。
         門番として、怨嗟振りまくザンカの侵入を阻止していたことを。

         

        「はっ……!」

         

         背後には、瑞泉城が静かにそびえていた。
         ザンカの一撃は立ちはだかるメガミを殺すためのものではなく、それすら超え、怨敵のいる瑞泉城そのものを破壊するためのものであった。
         故にウツロは、回避を選択することはできなかった。

         

        「オ……アァ……ッ――」

         

         臨界を越え、ザンカの禍々しい気配が赤黒い波動となって彼女から発される。
         直後、ザンカは消えた。僅かして、彼女の立っていた地面がクモの巣状にひび割れ、陥没した。

         砲弾のように飛び出したザンカは、ただの障壁であるウツロめがけて、一直線に突撃する。

         

        終末 カニェッツ ――」

         

         その一声で、瞬く間に城を覆うような巨大な影の壁が展開される。真正面から受け切るのではなく、左手に力を逃がすように傾けて。
         激突は、一瞬だった。

         

        「う、ぐぁっ……!」

         

         壁で吸収しきれなかった衝撃は、主たるウツロへと伝わる。弾かれたように吹き飛ばされた彼女は、その小さな身体を何度も地面を跳ね、門の前に転がされた。影の壁の残骸は、不甲斐なさを詫びるように空気に溶けて消えていった。

         

        「ウ、アゥ……」

         

         足をもつれさせながら降り立ったザンカに、先程までのおぞましい気配はない。威力こそ完全に殺されたが、邪魔者であるウツロは、意識こそあるものの立ち上がることさえできない。それを理解したのか、ザンカは荒い息を乱暴に吐き出した。
         そして、狂えるメガミは守り手のいなくなった門を越え、城内へと駆け出した。
         後にはただ、土のついたメガミだけが横たわっていた。

         

         

         

         


         時は遡り、天より降り注いだ雷が揺波を焼いた天守閣。
         持てる力、そして与えられた力を使い果たした彼女からは、身体に残っていた数少ない結晶が塵となってこぼれ出ている。視界の端を流れるその輝きに、丸腰となった揺波は思わず歯噛みする。

         

        「くくく……どうだ、敗北の味は?」

         

         嘲笑う瑞泉の頭上では、立ち込めていた暗雲が、雷鳴の余韻を残して散ろうとしていた。それを決着の余裕と捉える程度には、揺波の闘志は燃え尽きてはいなかったが、どんな手であっても抗えないだろう、という現実もまた見えていた。
         武器にできるものも、部屋の入り口に転がった普段遣いの刀くらいしかない。けれど桜の助けを失った今、メガミの力をふんだんに使う瑞泉相手に、それがどれほどの助けになるというのだろうか。

         

        「ま、だ……」
        「諦めが悪いのはいいことだ。だが……ふふ、私としても舞台を血に染める真似はしたくなくてね」
        「っ……!」

         

         愉悦に口を吊り上げる瑞泉を前に、何も言い返せない。
         勝敗は、決してしまったのか。
         揺波の理性が、残酷な答えに手を伸ばそうとした、そのときだ。

         

         轟、と。
         凄まじい衝撃が足元を揺らした。
         城の外で起きた、常識の埒外にある『何か』が、大地に楔を打ち込んだかのようだった。

         

        「なんだッ!?」

         

         動揺した瑞泉が、一瞬、窓の外に目をやった。
         揺波にとって、それだけで十分だった。
         彼に生じた隙をついて、全力で踵を返す。現実から導き出した戦略的撤退という結論を体現するべく、疲労に満ちた身体に鞭を打つ。

         契機となった破壊は、ここに来た味方の誰もが成し得るはずがない規模のものだ。けれど一方で、瑞泉の反応は揺波の不思議な感覚を後押ししていた。
         轟音の正体が、どうしてか分かったような気がする。
         根拠のないその予想は、敗北の絶望の中で小さな希望となって、未来への道筋を暖かく囁いてくれたようだった。

         

        「……チッ!」

         

         一拍遅れて逃走に気づいた瑞泉が、舌打ちと共に現した銃の引き金を引く。けれど脚を狙ったそれは床を抉るのみで、下へ続く階段に飛び込んだ揺波の足を止めるには至らない。

         

        「絶対に逃すなッ!」

         

         響く怒声を背後にした揺波は、辛うじて拾えた自前の刀を鞘ごと前に構えながら、先程辿ってきた廊下を戻らんとする。
         しかし、もう一つ下った先で、瑞泉の命に応えるように人影が現れ始めた。
         今まで不気味なまでに人のいなかった城内が、やはり不吉な幻であったかのように、逃亡を阻止するべく瑞泉の兵が続々と姿を見せたのである。

         

        「どい、てッ!」
        「がっ……!」

         

         さらなる階下への道を塞ぐように立ちはだかった兵を、刀の峰で殴打する。振り払われた棍をすんでのところで躱しての一撃は、相手を打ち払って廊下から追い出せたものの、瑞泉との戦いによる損耗のためか、威力の低下が著しい。
         と、僅かに足を止めた揺波を、冷ややかな空気が撫でた。

         

        「あぶ――」

         

         瞬時に今倒したばかりの兵に飛び乗ると、廊下の床が揺波のいた場所に氷が押し寄せるように凍りついた。
         ちら、と背後を窺えば、複製装置を装備した兵が追手に混ざっていた。常人であればどうにかまだ相手する余地があるものの、燃え上がる忍の里を思い出せば、メガミの力で武装した複数の相手と戦う愚は犯せない。

         

         階段への最短距離にも装置持ちの配置を確認すれば、正面突破を回避するのは自然なことだった。
         狭められていく人の網を食いちぎるように、一般の兵を薙ぎ倒して別の経路へ逃げ込むことを揺波は選ぶ。
         そこへ、瑞泉が叱咤する声が響く。

         

        「何故階段を固めなかった!」

         

         確実に同じ階にいると、揺波には理解できた。彼に追いつかれれば、抗いようのない敗北が待っている。

         

        「奴はもう力を失った、複数でかかれ! 絶対に殺すなよ!」

         

         けれど同時に、間近で飛ばされる指揮は、さらなる組織的な追跡の呼び声となる。ここが敵の本拠地である以上、地の利は完全に向こうにあり、繕った投網に絡め取られるのは時間の問題であった。
         なんとしてでも城から脱出しなければならない。この中で勝ち筋を見出すことはもはや不可能であり、希望を外に求めるための逃げ道を、今は辿らねばならなかった。

         

        「大丈夫……」

         

         か細い可能性を通す自分を鼓舞するように。
         順路を捨て、事前に千影に教えられていた隠し通路へ揺波は駆け出した。

         

         

         

         


         静かだろうが、騒がしかろうが、関係がなかった。

         

        「ィ……ンア、ァ……」

         

         がらがら、がらがら、と長大な刀を引きずるザンカは、物々しい雰囲気に包まれた城内へ、ふらふらと何かに導かれるように足を踏み入れた。
         彼女はただ、求めるものに忠実だっただけだ。狂気の論理に後押しされただけで。
         故に、厳戒態勢の敷かれた城内に立ち入るザンカは、中の事情など当然関知しているはずも考慮することもなかった。
         けれど、相手である瑞泉の兵は違う。

         

        「お、おい! と、とと止まれ!」
        「ア……ァ?」

         

         幽鬼のような、明らかに人ではない闖入者にも、兵は槍を向けざるを得ない。
         今まで姿を隠していた彼らには、表で繰り広げられていた超常の戦いの委細を知る由もない。けれど、度重なる異常な戦闘音は、一階にいた彼らを陰で怯えさせるには十分だった。
         それでも、義務が彼らの背中を押す。尖兵となった槍使いから離れ、二人の弓兵は既に震える手で矢を番えていた。複製装置という強力な兵装を身に着けている者も、例外なくザンカの気配に呑まれていたが、逃げ出すことはできなかった。

         

        「あっ、ああっ……! 止まれよぉぉっ!」

         

         恐怖が限界に達した槍兵が、無様な動きで槍を振るう。
         だが、本来なら刀を寄せ付けない槍相手であろうと、斬華一閃は容易くその刀身を届かせる。

         

        「ぎぁ――」

         

         悲鳴すらもかき消すように、雑に振り抜かれた刀の腹に打撃された兵は、近くの柱に打ち付けられ、ぐったりと倒れ伏した。
         歪な方向に斃れた首は、破滅への引き金となる。

         

        「うわあぁぁぁぁぁっ!!」

         

         恐怖の限界を迎えた弓兵が、歩みを止めないザンカに向けて矢を放った。
         錯乱状態での射撃がまともに当たるはずもなく、右肩を掠めようとした矢をザンカは小さく身体を傾けて回避する。それで相手を障害と捉えたのか、踏み込みのために床がみしりと鳴った。

         

         そこへ、複製装置を装備した一人の兵が、悲鳴を抑えながら小刀を構えザンカに肉薄した。恐れは、忍ぶための力にぎりぎりのところで押さえつけられていた。義務を果たした先に待ち受ける結末は、常人が受け入れられるものでは到底ない。
         ただ、彼がぞんざいに斬り捨てられるということはなかった。
         彼の小刀は、ザンカの左脇腹にそのまま吸い込まれていったのだ。

         

        「へぁ!?」
        「ァグ……」

         

         素っ頓狂な声が、凄絶な戦闘の始まりを予感させた場に響く。
         刺した彼自身も、他の兵たちも、意外さのあまり言葉を失い、恐る恐るザンカの様子を窺った。
         そのザンカも、その傷が意外なものだというように、兵を振り払おうともせずにぼうっと立ち尽くしていた。

         

         彼女の意識は、一瞬だけ、その間隙にあってまっさらになっていた。
         ……そしてその瞬間、誰も気づかない中、彼女に紡がれた不可視の糸が、ほんの僅かな間だけ、淡く輝いた。
         刀をきつく握りしめるその手に、そっと、手を重ねられたような。
         自分が本当に見るべきものへ導いてくれるような、そんな温かさが、荒れ狂っていたザンカの精神に染み渡っていった。

         

        「あ……」

         

         怒りを忘れたように、ゆっくりと一度、ザンカは瞬く。
         意識の戻った瞳が、痛みを追うように、小刀を突き込む兵を捉えようとしていた。

         

        「こ、こいつは手負いだッ! やれるッ!」
        「行けるぞ! 間合いに入らせるな!」

         

         兵たちにもまた思考が戻る。どれだけ恐ろしい相手であろうとも、刺突一つ避けられないような半死半生の状態であれば活路は生まれる。集団の利を活かせば、辛うじて手に負える水準の相手であると理解したのだ。
         しかもこれは、人智を超えたメガミを討ち取るという大業の好機が、目の前に転がってきたということでもある。

         

         希望と野心は、彼らの恐怖を上回ろうとしていた。
         一つ一つでは羽虫のようであっても、束となれば明確な壁となる。

         

        「おい、逃げたぞ!」
        「撃て! 撃て!」

         

         突然、がむしゃらに突き進もうとしていた姿勢を変え、ザンカは背を向けて城内の別方向へと駆け出した。小刀を刺した兵は気力を失ったようにへたりこんでいたが、他の者は現れた好機を逃すまいと、態度と一変させて攻撃の手を休めない。
         そのまま兵に構うことなく右へ左へと進んだザンカは、後ろを顧みることなく、二階へと続く階段を駆け上がった。
         迷うことなく、上を目指して。

         

         

         

         


        「おい、いたか!?」
        「いいや。だがこの階にはいるはずだ」

         

         床を蹴る音が、明後日の方向に去っていく。胸を大きく上下させる揺波は、それを曲がり角の向こうまで響かせないよう、袖で強く口を抑えていた。
         寄りかかった壁には、つぅ、と赤い線が床まで伸びていた。結晶の守りを失った彼女へ無数に刻まれた細かい傷が、じくじくと堪えきれないように吐き出した血は、致命傷を物語るほどではないにせよ、困窮を示すには十分であった。

         

        「ふぅーっ……」

         

         一息のうちにできるだけ長く移動できるよう、深呼吸一つしてから駆け出す。
         隠し通路の存在は、揺波が追手を翻弄するに足る要素であった。交戦を避けることで体力を少しでも温存し、それでいて階下へ進む助けとなる。稼いだ距離と時間は、孤立していた揺波だけでは決して生み出せないものであった。

         

         しかし、ここが敵の本拠地であるという事実は非常に重くのしかかった。揺波が利用することが意外だっただけであって、隠し通路の存在を城の主である瑞泉本人が知らないわけがない。
         地上まで身を隠しながら、という甘い願望は、通路の出口に陣取っていた兵から受けた痛みによって打ち砕かれた。人員こそ対応に割かせることはできたが、自由に飛び込める安全圏を奪われた揺波には、城内をひたすら逃げ回る以外に道は残されていなかった。

         

         ただ、彼女の瞳はこの状況に置かれても、まだ光を失っていない。
         轟音と共に感じた繋がりを、揺波も、そして相手も、お互いに手繰り寄せている感覚が、揺波の支えとなっていた。自分たちを繋ぐ見えない糸を通じて伝わってくる、希望と暖かさがなければ、自身の足取りすらも信じることができなかっただろう。
         けれど一方で、伝わってくる暖かさが、時を追うごとに失われていくような気がしてならなかった。手をかざしていた希望の灯りが小さくなっていくともなれば、不安を焦燥で炙ったような、叫び出したい感情が湧き上がってくるのは当然のことだった。

         

        「いたぞーッ!」」
        「……っ、ぐっ……!」

         

         叫びとほぼ同時、揺波の腿を二本の矢が掠めていった。後方で二人の弓兵が構えているのを見て、嘆く暇もなく速度を上げる。時折不確かになる足つきで左右に身体を揺らすその姿は、見ているほうが不安になる必死さを滲ませていた。
         このやり取りも、何度繰り返しただろうか。その度に削られていく命は、揺波本人のものである。
         希望に手を伸ばして斃れないよう、歯を食いしばって射手の死角に入るべく、横合いに伸びている通路を目指した。

         

        「はぁっ……は、あぁっ……!」

         

         その先には、誰かの気配がある。逃げ込んだ先でも危機は続くだろう。
         それでも他に退路のない揺波は飛び込むしかない。これは決闘ではないのだ。至近という目的のために矢衾に甘んじる余裕なんてあるわけがない。

         

         だから、決断を翻すことなく揺波は逃げ込んだ。
         その先には、人の形があった。

         

        「あ……」

         

         けれど、突然の邂逅に、声が漏れた。刃を構えようとした手が、止まる。
         相手に、害意も、敵意も、ありはしなかった。長大な刀を握りしめるその手は、戦意だけははっきりと示していた。そしてそれは揺波もまた同様で、戦舞台において油断することはなくとも、目の前の相手に敵対する必要がないことを、すぐに悟った。
         お互いこの邂逅を、唐突には思っても、意外だと捉えることはなかった。
         縁を辿った末の出来事であれば、それは当然の帰結なのだから。

         

         出会ったのは、一人と一柱。
         天音揺波とザンカは、兵たちの怒号も遠く、じっと互いに視線を交わしていた。

         

        「…………」

         

         悲惨なほどに傷ついた見てくれであろうとも、誰何の声が出るはずもない。
         その代わり、一歩、また一歩と、ゆっくり間合いを詰めるようにお互いの距離を縮めていく。それは、揺波の刀にとってはちょうどよく、ザンカの長大な刀にとってはかなり近い、そんな間合いまで続いていった。

         

         やがて、二人の足が止まる。
         揺波は僅かにザンカを見上げ、
         ザンカは僅かに揺波を見下ろし、
         歓喜も、悲哀も、憐憫も、慈愛も……どのような感情をも表さず、ただ自然体のままに二人は見つめ合う。

         

         そして、二人は互いに前へと踏み込んだ。
         手にした刀を、相手へと振るう――

         

        「やあぁぁッ!」
        「はッ……!」

         

         しかし、閃光のような斬撃は、揺波も、ザンカも、喰らうことはなかった。

         

        「あ、が……はっ……」

         

         ザンカの一撃は、揺波の背後で爪を振るおうとしていた兵を斬り伏せ、

         

        「ごっ――」

         

         揺波の一撃は、ザンカの背後で小刀を突き出そうとしていた兵を叩き伏せる。

         

         残身を解いた二人が再び向かい合うと、そこには微笑みが咲いていた。再会を祝すようであり、阿吽の呼吸で同じ解答を示したことを可笑しく笑うようでもあった。

         

        「ふふ……」

         

         つかの間の沈黙が訪れる。それを、気迫の叫びを聞きつけた瑞泉の兵たちの足音が乱していくものの、彼らはもう一歩、二人のいる廊下の中へ踏み込んでいくことができなかった。

         

        「揺波」

         

         静かに。けれど、思い溢れるように。
         ザンカの声が、揺波を呼ぶ。

         

        「我は狂乱の渦に呑まれようとも、契を違えることなく、何時でもそなたの闘いを見ていたぞ」
        「はい」
        「欣然と刃を振るうことが能わぬ世情をよくぞ生き抜いた」
        「……はい」
        「為虎傅翼と斯様な高みに至る様、麗句など相応しくもあらず、幾万言費やしたとて賛美を成し得ること能わぬ。誉れ高き永久の申し子と舞い踊る一戦は――揺波……?」

         

         くすりと笑っていた揺波に呼びかければ、懐かしむように微笑みを浮かべた。

         

        「ザンカの言うことって、相変わらず難しいな、って」
        「あぁ……すまない」
        「大丈夫ですよ。何が言いたいのか、なんとなくでも伝わってくる気がします」

         

         そんな曖昧な肯定に、ザンカも自嘲するように口端に笑みを乗せ、頭を振った。とめどなく溢れ出してくる揺波への言葉をまとられるはずもないと、素直なミコトを見て諦めたようであった。
         だから、薄く、柔和な笑みに乗せて、ザンカはただ一言、こう問うた。

         

        「桜花決闘は好きか」

         

         と。

         それを受けた揺波は、僅かに曇った視界が晴れたような感覚を覚えた。
         答えは、決まっていた。

         

        「はいっ!」

         

         ザンカは、満足そうに目を細め、じっくりと頷いた。
         だが、その顔から溢れたのは、涙でも、笑みでもない。

         

        「ザンカ、それ……」

         

         気づいた揺波が、声の調子を落として訊ねる。
         さらさらと、ザンカの身体から桜の塵が落ちていた。顔だけではなく、手も足も、着ているものでさえも、巻き戻すことなどできないというように、淡々と失われ初めていた。

         

         じっと、揺波を見つめ返すことで、ザンカは問いの答えとする。そこに悲しみの色はないが、諦観が彼女の中に横たわっていなければ、そのような答えにはならなかっただろう。
         揺波はそれ以上、口に出して追求することはなかった。ザンカが受け入れたように、揺波もまた、現実とザンカの想いを受け入れた。見えないよう、少しだけ唇を噛んで。

         交わし合う視線の最後にザンカは、

         

        「これを」

         

         己の愛刀・斬華一閃を揺波へと差し出した。
         やや戸惑いながらも、揺波は自分の刀を納め、人の身には大きすぎるきらいのあるそれを受け止めるべく、両の手を差し出した。
         それを見たザンカは、安堵に身を委ねるように、ゆっくりとまぶたを落とす。

         

        「なれの愛する桜花決闘のために、受け継いで、欲しい……」

         

         言い終わる前に、刀の柄をしっかりと、揺波の手に託した。そして、揺波は一刹那の後、確かにそれを受け取るように、ぎゅっと握りしめる。
         その瞬間、ザンカの身体は弾けたように桜の光へと解けた。
         それは舞い上がるでもなく、降り積もるでもなく、抱きしめるかのように揺波へと降り注いだ。

         

        「はい……」

         

         

         噛みしめるような応えを、聞き届ける者はもういなかった。
         薄暗さを取り戻した廊下で、揺波はぽつんと取り残されたように立ち尽くしていた。
         彼女の瞳からは、気づかぬままに涙が一滴、こぼれ落ちていた。

         

         

         

         


         追い詰めた形を作ったにも関わらず、瑞泉の兵は全くそんな気がしていなかった。
         斬華一閃を手に、感傷に浸る揺波を逃すまいとする包囲網は、けれど一定の距離から先を詰めることはなかった。しないのではなく、できないというほうが正しい。厳しく敵視されているわけでも、刃を向けられているわけでもないのに、醸し出される威圧感に誰もが二の足を踏んでいた。

         

        「まったく……どこまでも手こずらせてくれる」

         

         と、苛立ちを顕にした瑞泉が、兵の壁を割って現れる。
         彼はいくつも歯車を埋め込んだ神帯鎧を未だその身に纏ったままであったが、その手には一つも武器は顕現していなかった。それどころか、それぞれが時を刻んでいたはずの歯車が、精彩を欠いたように歪な間隔で蠢いているようだった。

         揺波は瑞泉へゆるりと斬華一閃を向ける。不思議と力が湧いてくるようだったが、襲いかかってくる様子のない瑞泉に、本気で警戒をしているわけではなかった。
         彼はその刀を忌々しそうに見やると、

         

        「決着をつけねばならない。君もそう思うだろう? 戦いはまだ終わってない」
        「…………」
        「勘違いするなよ。何も、ここで続きをやろうって腹じゃあない。つまらん犠牲が増えるのは本意ではないからな、君の望むように一対一は守ってやるさ」

         

         それに同意したのは、囲んでいた兵たちだった。彼らは瑞泉以上に、揺波が構える斬華一閃の意味を知っている。
         けれど、揺波には話の展開がいまいち読めなかった。神帯鎧の圧倒的な優位性を活かした戦いにおいて、揺波は遅れを取り続けた。今ならばまだ、という想いはあるが、神代枝を使い果たした事実は絶対的なものである。

         

         でも、今の彼からはそんな有利な立場にある者の驕りはなかった。
         揺波がそれを訝しんでいると、神帯鎧の右の篭手に手をかけた。

         

        「これが気になるようだな。なら、これでいいか?」
        「な……!」

         

         あろうことか、瑞泉は篭手を外し、兵に投げて寄越したのである。
         自ら有利を手放すだけの驕りは、やはり見受けられない。巧妙に隠しているのであればともかく、揺波には彼の意図が理解しきれなかった。
         瑞泉はそんな彼女に仮初めの答えを与えるように、

         

        「言っただろう。犠牲は出したくないと。その刀から伝わってくる力を、私は計りかねている。そんなものを振り回して暴れられては、どれほどの被害が出るか分からない。ここの主として看過できないほどにはな」
        「でも……」
        「だからこそ、一騎打ちの舞台に上がってもらおうとしているんだ。分かったかな?」

         

         まだ納得しきっていない様子の揺波に、彼は大きく鼻を鳴らす。
         意志を高め、挑戦そのものであるその言葉を投げつけるために。

         

        「重ねて言おう。戦いは、まだ終わっていない」
        「…………」
        「君の好きな桜花決闘で決着をつけようじゃあないか」
        「……!」

         

         もたらされた提案に、まず兵たちがどよめいた。
         そして揺波は、受け止めた言葉に泥土のような怒りや殺意が湧いてこないことを自覚した。
         ただ勝敗を決する場に、その感情が似合わないことを、彼女は知っている。
         故に、天音揺波は応える。

         

        「望むところです」

         

         勝利への決意を込めて。

         

         


         縁の糸は、全て収束していく。
         英雄とは、そういう人物を指すのかもしれない。

         これにて数多の糸はひとつになり、大いなる道が彼女の前に広がった。分かたれた道も、途切れた道も、この終わりに向けて伸びていた。
         その先に待つのは、天音揺波と瑞泉驟雨の最終決戦。
         長い長い英雄譚の幕引きは、もうすぐそこまで迫っている。

         

        語り:カナヱ
        『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
        作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

         

        《前へ》      《目録へ》      《次へ》

         

        『桜降る代の神語り』第67話:サリヤ・ソルアリア・ラーナーク

        2018.10.19 Friday

        0

          《前へ》      《目録へ》      《次へ》

           

           手繰り寄せた絆の果て、怨敵たるクルルを討ち取った闇昏千影。
           彼女の奮起が称賛に値しようが、目的は何も首級を挙げることじゃあない。
           寄り道を終え、己の生きる道へ共に帰る――そんな終着点に向けて、あと一歩が残っている。
           しかし、それが暗澹たるものである現実に、闇昏千影は直面することになる。

           

           ……でも、彼女には今、仲間がいる。
           誰かはこう言うだろう。出会いは必然なのだと。
           中でも、サリヤ・ソルアリア・ラーナークが、ジュリア・ヴェラシヤ・クラーヴォが、共に戦いを決意しなければ、この歴史が紡がれることはなかった。
           ミコトでも、メガミでもない、この地とは異なる存在によって、あんな結末を迎えられるようになるなんて、カナヱも想像だにしなかったさ。

           

           さあ、英雄譚の一つの終わりを、語るとしよう。
           撚り合わされる縁の糸は、君の生きるこの桜降る代まで繋がっている。

           

           

           

           


           巨人が沈黙し、クルルも消えた翁玄桜の下は、神渉装置の駆動音が未だ響いているにも関わらず、静寂を取り戻したようだった。

           

          「ツギに、この管を切断デス」
          「これで合ってますか?」

           

           慎重に確認を重ねたサイネは、ジュリアの指示通りに木でできた細長い管を断ち切る。中から特に何か出てくるということもなかったが、ほんの少しだけ、温かさが漂ってきたのをサイネは手先で感じた。

           

          「それから……コレですね。この歯車の、ここ! ここから右だけ、壊してクダサイ」
          「これですよね……?」
          「そうで――イヤ、ここからコウなって、コウ……コウ……コウ、と行って、そこからどうして上マデ伝わってるか、イマイチなんですが、たぶんコレで合ってるとは思うので、ウーン……アッ、だ、ダイジョブです!」
          「ええと、やりますよ?」

           

           後ろ髪引かれるように考えを切り上げたジュリアに困りながらも、再びサイネが刃を閃かせた。

           

           どうにかクルルを撃破した一行は、それでも止まらない神渉装置の停止、解体を試みていた。製作者本人は、千影の一撃によって白目を剥いたまま桜となって消えてしまったので、ジュリアがどうにか構造を紐解きながら指示を出している。
           ただ、実務が可能な者は限られており、死闘を繰り広げた千影とサリヤは、翁玄桜の伸びた根に背中を預けて休息をとっている。疲労が限界を迎えそうになっていたこともそうだが、二人は装置を的確に破壊する手段に乏しかったのである。

           

           サイネはぎりぎり余力を残した一人であり、ジュリアと共に高い根囲いの上で、主力となって解体作業に勤しんでいる。とはいえ、歯車に向かって繰り出す斬撃は精彩を欠いており、クルルに負わされた傷が見た目以上に深いことを物語っていた。
           と、機構の破壊によって装置全体が軋みを上げる中、根元から千鳥の声がかかる。

           

          「準備できましたよー!」
          「アリガトです! こっちも、あと一箇所だと思いマス!」

           

           眼下で彼が仕掛けの紐をまとめているところを見て、満足そうにジュリアは頷く。
           それから高所での作業を終えた彼女がサイネと共に降りれば、千鳥に仕掛けを手伝わされていた楢橋が、緊張が解けたあまりに口から魂を吐き出しそうな様相で工具箱にもたれかかっていた。

           

          「ジュリアさん……オレっち、頑張りました……自爆こわい……」
          「おつかれサマです! 皆さん、巻き込まれないようにシッカリ離れてますね? ……おや? サーキは、姿ありませんね?」

           

           彼女の疑問には、千鳥が眉をひそめながら答える。

           

          「あいつなら、やることがあるって邸内に戻りましたよ。まったく、こんなときに……」
          「オゥ、そうですか。でも、サーキにできることあまりありませんし、サーキにはサーキの考えがあるのでショウ」
          「まあ、そうですけどね」

           

           煮え切らない態度をしまうように、肩をすくめた千鳥は、手にした紐の束をそっと地面に置き、懐から火打ち石と黒い綿のような火口を取り出した。撚り合わされた紐の先はそれぞれ装置の土台の柱に繋がっており、導火線の役割を果たす。
           千鳥たちはサイネのように自身の手で装置を破壊することはできないが、知恵と工夫によって目的を果たすことは可能だった。

           

          「いきますよー!」

           

           改めて安全圏に退避したことを確認してから、彼は打った石で油を含ませた紐に点火する。
           そして、火が柱に到達するなり、ボンッ、ボンッ、と大きな音を立てて次々と爆発が生まれた。楢橋と仕込んだ爆薬は、この場の物全てを吹き飛ばしたわけではない。柱が手前側に折れるように調整し、根囲いに寄生したような装置の基幹部分を、幹から剥がそうと試みたのである。

           

          「うわあ……間違えて発火させてたら、今頃オレっち粉々じゃんかよ……」
          「火元がないんだから大丈夫だって言っただろ」

           

           ギ、ギギ……と大質量の柱が爆破によって抉られ、自重を支えられなくなったのか、ひとかたまりの絡繰群もろとも地面に部品をぶちまけられる。荒っぽいようだが、致命的と思われる箇所はジュリアの推定を元にサイネが破壊してあるため、いっそ潔く破壊されていく。
           立ち上った土煙が晴れていくにつれ、装置の変化は明確に現れた。
           自儘に時を刻んでいた、幹に取り付けられた一対の大歯車が、動くのをやめたのである。

           

          「ヤリマシタ! 予想通り、ここが受信システムだったようデス! これがなくなるダケでも、そのうちエネルギーが足りなくなって、構造を維持できなくなるハズです! 三択を外さなくて安心シマシタ!」
          「なんか最後さらっとすごいこと言いませんでした? ――って、姉さん!?」

           

           破壊された装置の箇所に向かって駆け出し、ふらり、と力を失ったように、膝をつく千影。慌てて近寄った千鳥は、姉の焦点が不安定ながらも一点に向けられているであろうことに気づく。
           貸そうとした肩を、力なく押し戻した千影は、

           

          「い、いいから、早く……早く、ホロビをっ……!」

           

           急かすその言葉に、場が色めき立つ。
           一角を破壊された装置のその向こう――幹との間に、絡繰に囲まれ、根と根の間で抱きかかえられているように、一つの棺のようなものが斜めに寝かされていた。
           誰も、それが彼女の目的のものであることに、異を唱えなかった。

           

           ただ、駆け寄った千鳥とジュリアが、その丸みを帯びた棺の中身をはっきりと見ることは叶わなかった。前面が硝子張りになっていることは理解できるものの、その硝子は内側から黒く煤けたように汚れていた。うっすら、人の形があることだけが分かる。

           

          「オォ……これが、ウワサの受信端末……。どうやってエネルギーを閉じ込めることができたのか、気になりマス……」
          「す、すいません! とりあえず今は、取り外すの優先でお願いします!」
          「オット、ソウデスネ」

           

           千鳥の要請もあって、目を奪われていたジュリアが周囲の絡繰との接合を確認し始めた。
           ややあって、合流したサイネと楢橋の助力もあり、装置に取り込まれていた棺は完全に切り離された形となる。地面に横たえてしまえば、これから最後の別れが待っているような、そんな不吉さすら思わせる。
           気力だけで存在を保っているような千影が、その棺の前にたどり着いたのは、ちょうどそんなときだった。

           

          「ほろび……ほろびっ……!」

           

           黒ずんた硝子のその向こうに、尋ね人がいるのだと確信したように、千影は棺にすがりつく。まだ開いていない棺をどうにかする余力もなく、うわ言のように名前を呼びながら、愛おしさと悲痛さが入り混じったように棺の肌を撫でる。

           

          「細音サン、結局窓破って出てきたから分かんないけど、色々調べてたから開け方の当たりはついてるよ。ほら、こことか、あそことか……」
          「ナルホド……だったら、コッチが怪しいかもしれません」

           

           実物を知っている楢橋の所感をジュリアが答え合わせするように、棺の構造を確かめていく。
           やがて、パチ、と留め具が外れるような音と共に、千影の目の前で蓋が僅かに持ち上がった。
           残った力で、放り捨てるように棺を開く。

           

          「っ……!」

           

           横たわっていたのは、故人を想起させるほどにやつれた女だった。
           吸い込まれるような深い黒をした、棺から溢れんばかりの長い髪だけを身体に纏い、下手に手を伸ばしてしまえば死出の旅に連れて行かれてしまいそうな、そんな不吉な気配を感じさせてやまない。

           

           彼女こそは、千影と共に在ったメガミにして、死を象徴するメガミ、ホロビ。
           再会を待ち望んできた千影の瞳から、涙がつぅ、と頬を伝った。

           

           しかし、

           

          「ほろ、び……?」

           

           こわごわと、その頬に手を伸ばした千影に、歓喜は色づかなかった。今まで溜め込まれていたあらゆる感情が、目の前の光景によって足場を外されたように崩壊していくようだった。
           ホロビは、静かに棺の中で眠っていた。
           息をしているかも分からないほどに、彼女は動かなかった。

           

          「ねえ、ホロビ、千影です。千影が、助けに来たんです。聞いてますよね……? 聞こえてないなんて、言わないですよね? それとも、千影のせいでこうなったこと、怒ってるんですか……? なんとか、言って、くださいよ……ホロビ……」

           

           それでも、ホロビが応えることはなかった。
           千影の呼びかけだけが、桜の下で虚しく響く。
           遠くに行ってしまったかのように、千影の求めたホロビは、目覚めない。

           

           

           

           


           気まずさの中で己を動かすのは、義務感である。

           

          「エット……まだ解体は終わってないですから、ハヤク進めましょうか」
          「そう、ですね」

           

           ジュリアの言葉にサイネが同意する。だが、ホロビの手を握りしめて額にこすりつける千影が、魂が抜けたようにとつとつと語りかける声は、サイネの心を翳らせたままである。沈痛な空気に飲まれて、すぐに気持ちを切り替えられるわけもなかった。
           けれど、無理にでもそんな空気を打ち破る変化は、唐突にもたらされる。

           

           上空から降ってきた何かが、一同の付近に着弾した。
           すわ新手かと緊張が走るが、先程ウツロ相手に暴れていた存在と比べれば、争いを思わせるような気配はなかった。
          小さな雷が弾ける音が、徐々に消えていく。

           

          「もう、むり……」

           

           言葉と同時、どさり、と倒れ込んだのはメガミ・ライラである。意識を完全に失ったのか、顔を地面に打ち付けてもうめき声一つ漏らさなかった。
           千鳥たちにとってライラは面識のないメガミであったが、彼女に連れられていたもう一柱は、とても馴染みの深いメガミである。

           

          「ゆ、ユキノさん……!?」
          「こんばんは、千鳥君。それに……千影ちゃんも」

           

           ライラの頭を撫でたユキノは、翁玄桜の下に集まる一同と、周囲の破壊の痕跡を眺めながら、重苦しい雰囲気で挨拶を口にした。彼女の手の中でライラが桜と消え、労う指先が風に溶ける塵を受け止める。。
           突然の出来事に、千鳥の頭はこれをオボロが寄越した増援と解釈した。用意していなかった言葉をかき集めながら、瑞泉城突入から装置の解体に至るまでのあらましをユキノを説明した。
           だが、「そう」とそっけなく相槌を打ったユキノは、視線をホロビの眠る棺で止める。

           

          「それで、これはどうしたの?」
          「そ、それは……前も言ってたホロビ、なんだけど……神渉装置に直接繋がれて、力を奪われてたみたいでさ。装置から外したところまではよかったんだけど、全然反応なくて……」

           

           その説明を聞きながら、ユキノは千鳥の前を通って棺へと向かう。
           から、ころ、と鳴る下駄に、千影が億劫そうに顔を上げる。彼女はここでようやくユキノたちに気がついたようで、自分が宿すメガミの登場に、徐々に瞳が光を取り戻していった。

           

          「ユキノっ! ほ、ホロビが……ほろびがぁっ!」
          「ちょっとごめんなさいね」

           

           すがりついてきたその手を、自身の手でくるむようにやんわりと引き剥がすと、膝を折って、沈黙を続けるホロビへと手を伸ばす。
           額へ、頬へ、そして胸へ、何かを確かめるかのように動かされるその手に淀みはない。まるで、こうすることを最初から覚悟して来たかのようであった。
           やがてユキノはホロビから手を離すと、屈んだままこう切り出した。

           

          「私たちも……メガミも、自分自身について理解できてるわけじゃないんだけど……」

           

           そんな前置きに、皆が息を呑む。
           そして告げられた結論は、特に千影にとって、あまりにも劇物のようであった。

           

          「ホロビは今、死にかけてる。身体だけじゃなく、存在そのものの死が、迫ってるみたいなの」
          「……!」

           

           想像が、言葉で裏打ちされる。事実への拒絶反応で、千影の肩が震えた。
           説明を求めたのは、サイネである。

           

          「存在の死、とは……?」
          「メガミって、人みたいに死ぬことは滅多にないの。この身体――顕現体が壊れても、ユキノというメガミが二度と目覚めなくなったり、消滅しちゃったりするわけじゃあない。私たちが元々いる場所に帰るだけなのね」
          「では、ホロビがそうならないのは何故でしょう……?」
          「意識が失われているから、帰るに帰れなくなってるんじゃないかしら」

           

           ユキノは続けて、

           

          「ホロビは、この装置で顕現体を引きずり出されて、メガミの力の大半を『本質』から切り離された状態にある。本質っていうのは、そのメガミ自身の根幹を成してるものを私がそう呼んでいるのね」
          「本質……」
          「それだけでも本質の維持がままならなくなるのに、顕現体に残った力も底をついたら存在全てが消えてしまう……。例えるなら、これは餓死……それも、食べ物に手を伸ばすだけの意識もない、死に絶え、朽ち果てるのを待つだけの段階に入ってるわ」

           

           残酷な宣告に、理解に努めようとする千鳥の心が沈黙を選んだ。他の者も、自分たちの手の届かない厳しい話に、地面に視線を落とすのみだった。
           ただ、千影だけは違っていた。
           半ばぶっきらぼうに、震えた声でユキノに問う。

           

          「何を言っているか、分かりません……。じゃあ、ホロビがどうしたら助かるのか、教えてくださいよっ……!」

           

           同じメガミならば、という期待の反動が、棺の縁を握りしめる力となる。諦めたくない意志と、それを否定された絶望感が彼女の中でせめぎ合っていた。
           ユキノは、不安げに答える。

           

          「たぶん……だけど、方法はある」

           

           あやふやであることに気後れしているような彼女に、先を促すような千影の視線が刺さる。

           

          「自力が無理なら、私たちがやればいい。この顕現体を本質に戻して、力を取り戻させてあげれば……」
          「だから、どうやってッ!」
          「連れていきましょう。扉を開いて、『私たちのいる場所』へ」

           

           ……ユキノ以外の誰もが、彼女の言わんとしていることを理解し、けれど納得できなかった。
           メガミがおわすのは神座桜である。だが、メガミたちがその中でどう過ごしているかなんて誰も見たことがないし、メガミもあまり語ろうとしない。桜という境界は、人とメガミの居る場所を、認識の上でも明確に分ける象徴であった。

           

           ユキノはこう言ったのだ。
           境界を越えて、メガミのおわす座に行くのだ、と。
           そしてなにより、彼女の言いようは、ユキノ自身がそれを行うのではなく、この場にいる皆に提案しているようだった。

           

          「私たちは、望めばそこに行ける。でも、ホロビはこの状態だし、私がそうやって連れ帰ることもできない。だから、扉を開いて、ここにある顕現体を、あっちに残った本質に直接引き合わせるの」
          「そ、そんな簡単に言うけど……」
          「そうね。ミコトだったとしても、普通人間ができるようなことじゃあないわ。私もおんなじ」

           

           千鳥の疑念を汲んだユキノは、言い終わるかどうかというところで、積み上げられた神渉装置の残骸に目を移した。

           

          「でも、ここは今、クルルの絡繰のせいで、場の繋がり――縁が乱れてる。何もないところからじゃ無理だったとしても、これを利用すれば、どうにか『あの場所』への扉が開けるかもしれない」

           

           それは、希望の言葉だっただろう。しかし、雲をつかむような話に、千影はまだ心が澱んだままであった。
           が、ユキノの話から具体的な方向性を見いだせた者が一人。

           

          「ハイッ! ソレなら、試せそうな方法がアリマス!」
          「えっ!? い、いくらジュリアさんでもそれは……」
          「ゼッタイいけます! この容器に繋がってた部分は、まだハカイしてません! もっとコアなシステムだと思うので、そこにエネルギーをとってもたくさん送れば――ソウデス、サリヤ! ヴィーナを持ってきてクダサイ!」

           

           興奮しながら、早口で己の考えを唱えたジュリアが、居ても立ってもいられないというように、棺の収まっていた根元の装置をせかせかと調べ始める。
           ぽかん、と置いていかれたようになった千鳥たちをよそに、少し離れて休んでいたサリヤが、主の命通りにヴィーナを押してやってくる。全身から疲労が溢れ出しているようであったが、その口元は苦笑いに歪んでいた。

           

          「ジュリア様……随分と壮大な話が聞こえてきましたけど、本当に大丈夫ですか?」

           

           その問いに、ジュリアは試しに歯車を回す手を止めた。
           顔だけでぎこちなく振り返りながら、

           

          「タブン……40パーセントくらい……?」
          「そんなことだと思いました。こういうときのジュリア様の『絶対』は、成功を信じていたいときですからね」
          「ウゥ……時間がナイなら、感覚でやるしかありませんカラ……」

           

           ただ、そう言うサリヤが、ジュリアを制止するということはない。ジュリアもまた、小言をもらったところで手を止めることはなく、ヴィーナを装置に組み込むよう絡繰を再構成していく。サリヤはまたそれに跨がり、さも操縦するのが当然だと言わんばかりに、車輪と連動する歯車の動きを確かめている。
           お互いの信頼の下に進む作業に、失意に飲まれていた場が、手の届く希望に仄かに照らされ始めたようだった。
           それに微笑みを浮かべたユキノは、

           

          「絡繰については、このお二人に任せるとして……千影ちゃんと、そこの……薙刀のあなた?」
          「サイネと申しますが……」
          「まあ! 素敵なお名前ね! ……あなたたちには、扉を開けるための後押しの役割を担ってもらおうと思うの。こちらとあちらと結ぶ縁が強ければ、それだけ開きやすくなるわ」

           

           呼ばれた千影は、思い当たるものを取り出す。
           滅灯毒の入った紫の小瓶。ユキノに出会った際、ホロビが消えたことを訴えた千影は、縁を示す品としてそれを見せたのだった。
           ユキノはその解答に深く頷く。

           

          「千影ちゃんが持ってるそれは、きっとホロビの本質と引き合うと思うの。だって、権能をそのまま抽出したものだもの」
          「ホロビの、死が……」
          「そしてサイネさん。あなたはまだ座についてない、成りたてのメガミよね? 本来、今頃あっちにいるべきあなたには、あの場所と引き合う縁が見えるの。もちろん、一人だったら、メガミとして望んで行ったほうが確実でしょうけれど……」

           

           その提案に、サイネは僅かに即答を迷った。ただ、へたりこんだままの千影に顔を向け、微笑んだことが答えの代わりとなった。

           

          「なん、で……」

           

           千影には、それが理解ができなかった。

           

          「サイネ、も……サリヤ、さんも……ホロビのために、協力して、くれるっていうんですか……?」

           

           ユキノは、人間には想像もつかなかった可能性を提示した。ましてや、彼女は自分たちでも完全に理解しているわけではない、とすら前置いた。
           千影にとって、理解が及ばない場所へ踏み出すことは、死に近づくことと同義だ。
           故に、危険を顧みずに力を貸してくれると、行動で、笑顔で、示してくれた二人のことを、彼女は理解することができなかった。

           

           けれど、恐る恐る反応を窺うように問いかけた千影に、二人は力強く応じる。
           申し訳なく思うことなんてなにもないのだ、とでも諭すように。

           

          「あなたの求めに応じて、私はここにいるのです。乗りかかった船、最後までお付き合いしましょう」
          「お姉ちゃんが、必ずホロビさんに会わせてあげるわ! だから大丈夫!」

           

           視界を滲ませた千影が、感謝を述べることはなかった。
           彼女はただ、ホロビの手を包み込むようにして祈る。
           自分にできることは、絆を強く信じることだけなのだから。

           

           

           

           


          「うぅ……細音サンもサリヤサンも行っちゃうー! オレっちも行くー!」
          「邪魔になるからやめろっつの!」

           

           千鳥に首根っこを掴まれながら、桜の根元から遠ざかっていく楢橋を見送り、ジュリアが最後の部品をヴィーナに取り付ける。瑞泉城に突入した際のように大所帯を支える機体は、発進を待ちわびているように低く唸りを上げている。
           ぐったりと力ないホロビを抱えるのは、操舵席に座るサリヤだ。その後ろにしがみつくかのように連なっているのは、千影、サイネ、ユキノである。

           

          「オーケーデス! いつでも行けます!」

           

           その合図を出したところで、ジュリアが千鳥たちのように退避しないことは、サリヤには分かりきっていた。これから常識を覆すような現象が起きるというのに、ジュリアが間近で観察したがらないはずがなかった。
           だから、諦めたようにため息をついたサリヤは、蹴りつけることでヴィーナを焚きつける。
           このために、残りの造花結晶を全て食らった乗騎が、興奮を示すように白い息を胴から吐き出した。

           

          「行くわよっ!」

           

           彼女の手によって、操縦桿が一気に前へ、回される。ヴィーナの低い嘶きが甲高い叫びに代わり、車輪に連結された絡繰が泡を食ったように動き出す。
           変化は、誰の想像よりも早く訪れた。

           

          「……!」

           

           ヴィーナの目の前の空間に、翁玄桜の結晶のものではない、桜色の光が見え始めたのである。
           その兆しに、さらに加速が叩き込まれる。少しでも気を抜いて減速したら、もう二度とその先を見ることはできないのではないか、という恐れから、暴れそうになるヴィーナを御して前へ前へと力を込める。

           

          「Go Ahead――!!」

           

           ならばいっそ装置を食い破って、加速の果てに光へ飛び込めよ、と。
           光はサリヤの気迫に応えるように、どんどん強く、そして大きく広がっていく。
           千影はそれを、手にした滅灯毒の小瓶をぎゅっと握りしめながら、しっかりと見据えていた。目の前で横たわるホロビも、絆の象徴たる滅灯毒も、それだけでは足りない。前で、その先で、待っている彼女をこそ、千影は求めているのだから。
           と、膨張した光が空間の一点から溢れ始め、ヴィーナを包む風のように流れ始める。

           

          「あ……」

           

           そんな光に撫でられた千影に、身体が浮かび上がるような感覚が芽生えた。
           そして、サリヤの身体を掴むその腕が、彼女の目に朧げに映る。もう泣き止んだはずなのに、と自分の身体が薄れていく光景に疑問を覚えるものの、それよりも奇妙な感覚に全身を支配された。

           

           身体に何かが染み込んでくる。
           じわじわと感覚だけが巡るそれは毒なのだと、なぜか千影には思えてならなかった。しかし、蝕まれた害もなければ、恐れもまたなかった。むしろそうあることが自分にとって当たり前であるかのように、毒は自然に染み入ってくる。
           それが、闇昏千影の感じた最後の感覚だった。
           まるで光に溶け込んでしまったかのように、忽然と姿が消えてしまったのだ。

           

          「えっ……!」

           

           サイネは、掴まっていた千影がいなくなったことに驚きの声を上げる。
           慌てて後ろのユキノへ、

           

          「あの、千影が――」
          「心配ないわ、ふふっ」

           

           けれど、ユキノは驚いている様子もなく、むしろ少し嬉しそうに、サイネの言葉を遮った。それがなんだかサイネには、不思議な納得感を与えてくれた。
           自分はそれを知っているような気持ちがじんわりと湧いてきたサイネは、この正念場にあって千影が消えてしまったことが、ユキノが想うように喜ばしいことのような気がして、静かに顔を綻ばせた。

           

           ただ、そんな事態を、サリヤは全く感知していなかった。
           光のさらにその先へ集中させていた意識は、己の身体を掴んでいた腕が消えたことも疑問に思う余地を持たない。
           前へ、ただ前へ。
           光の向こう側へ。

           

          「扉を……開けるわ。Open The Gate!!」

           

           

           

           光がひときわ輝き、大樹の根元は桜一色で塗りつぶされた。
           それが晴れたとき、そこにはもう誰もいなかった。
           人も、メガミも、乗騎でさえも。

           

           それでも、その光景を目撃した者たちが、彼女たちの旅路を祈る心は幻ではない。
           月夜に輝く翁玄桜の下、襤褸の外套が、風に舞った。

           

           

           

           


           英雄は生まれ、英雄として戦い、英雄に相応しい座にたどり着く。
           カナヱが語ってきた英雄譚は、そんな人間の偉業の始まりと終わりを示すものだ。
           氷雨細音。闇昏千影。サリヤ・ソルアリア・ラーナーク。
           三人の英雄は人としての終わりを迎え、彼女たちの英雄譚はここに幕を下ろす。


           光に消えた彼女たちがどうなったか……この桜降る代を生きる君であれば、もちろん分かるだろう?

           

           残されたのは、最後の英雄の物語のみ。

           

           

           

           

           

           そしてもうひとつ、カナヱは今こそ語ろう。

           表の歴史では語られぬ、ある二柱の終わりと、一柱のはじまりを。

           

           

           

           


           桜色の光の中を、歩く。
           白い枝を伝い、進んでいく。
           彼女の足取りに迷いはない。
           かつ、かつ。こつ、こつ。
           下駄を鳴らし、動かない友の身体を抱えながら、彼女はそこを目指していく。

           

           たどり着いた枝の先は、やや黒ずんだ色合いをしていて、節ばった手のひらを上に向けているような、そんな場所だった。
          そこに、光の輝きが、緩く球を描いていた。
           輝きはかなり鈍っていて、淡い光に満たされたこの空間にあっては、いっそ世界のほうが眩しいほどであった。

           

          「おまたせ」

           

           彼女は、手にしていた友の身体を、その光に焼べるように差し出した。すると、身体は徐々に光と混じり合い、ついには溶け込んだように消えてしまった。

           

          「ねえ……あの子、随分と泣いていたわ。あなたが見たら、さめざめ泣いちゃうくらいにはね。昔のあなただったら、また悲しませた、って自分の殻に閉じこもっちゃうかもしれない。一途に過ぎるのも、大変よね」

           

           懐かしむような。それを、今に見出そうとしているような。
           彼女は、ここに想いの結実を願っていた。

           

          「でも、あの子の涙を本当に拭ってあげられるのも、あなただけなのよ。どんな歪んでても、他の人が望むような、強い縁が結ばれてることには変わりないもの。……だから、お願い。返事して」

           

           しん、と。
           彼女の声が散っていき、応じる声も、そして気配も、ありはしなかった。
           鈍い光の輪郭が揺らめいて、火が消える前の最後のあがきを思わせる。ただ、そこには誰の意志も含まれてはおらず、むしろ残滓のような意志まで燃やし尽くしている最中のようであった。

           

           彼女はしばらく様子を窺っていたが、小さなため息一つ。
           ゆるゆると頭を振った彼女は、困窮を示すように頬に手を添えて、罪悪感を吐き出すように呟く。

           

          「できれば、これで目覚めてくれたらよかったんだけど……。これだけじゃ無理でした、なんてチカゲちゃんや千鳥君に言えないわ」

           

           と、彼女はそこで何かに気づいたように、自分の手をまじまじと見つめた。
           鈍い光と、己の身体を見比べる。

           

           そして、大きく深呼吸一つ、意を決したようにその光を見据える。

           

          「あなたの心は、私が受け入れる。縁を結び、心を繋ぐ、わたしならできるわ」

           

           これだけでは足りないのなら。
           足りている者を頼ればよい。
           彼女にとって、それが自分自身だったというだけのこと。
           その先で何が起きるのかを含めて、全て受け入れるための決意だった。

           

          「だって……こんな不器用ないい子が、報われないなんて、ダメでしょ?」

           

           その言葉は、他ならぬ自分に向けているようで。
           微笑みを浮かべた彼女は、目の前に浮かんだ死にかけの光に近づいた。

           己の胸を空けるように両の手を開き、抱くように光へ触れる。

           

           そして、二つの姿が光に包まれた。夜の雪路を照らす、小さな灯籠の明かりのような、そんな静かで優しい光だった。
          やがて光が消え、二つの姿もまた、消え去った。
           ユキノとホロビ……その名が示すものは、もう、どこにもなかった。

           

           

           

          語り:カナヱ
          『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
          作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

           

          《前へ》      《目録へ》      《次へ》

          『桜降る代の神語り』第66話:闇昏千影

          2018.10.13 Saturday

          0

            《前へ》      《目録へ》      《次へ》

             

             探究者という生き物は、自分の興味あるもの以外眼中にないやつらがほとんどだ。
             けれどそれは、興味に没頭できる環境にいることが前提で、それが侵されたとき、探究者としての死を迎えるか、探究者たるべく剣を取るか、選択することになる。
             英雄たちは奪還のため、クルルという着想の体現者に絡繰の剣を抜かせた。

             

             求めるものと守るもの。歪に交錯する信念は、火花となって交錯し――

             今ここに、彼女たちの決戦が始まった。

             

             

             


             何かする前に止めなくてはならない。それが、クルルに対する千影とサイネの共通見解であった。

             

            「ちっ……!」

             

             桜の根元で絡繰を組み立て始めたクルルへ、千影は毒づきながら遮二無二前進する。サイネは右へ、千影は左へ、それぞれ展開しながら、絡繰の完成を妨害できる間合いまでの至近を己に求めていた。
             だが、クルルも黙ってそれを見ているわけではない。

             

            「お邪魔虫には、ぱーになってもらいます」

             

             組み立てていたうちの一つが、銃のような形を木で組み上げる。クルルの手中に収まったそれは、銃身が円筒ではなく角ばっていて、側面にはぴかぴかと薄桃色に光る直線的な意匠が成されていた。
             彼女はそれをおもむろにサイネに向けると、引き金を引いた。銃声はなく、代わりに桃色の光条がサイネへと一瞬で到達する。
             外傷はない。光を浴びただけなのだから当然だ。けれど、

             

            「え、ぁ、っと……」

             

             突然、サイネがたたらを踏んだ。転びそうになったところを薙刀を杖代わりにしてなんとかとどまる。
             めくらである以上、現象を把握していないだろうサイネへ、千影が短く叫ぶ。

             

            「変な光を当ててきました!」
            「あ、あたまが、かき回されたみたいで……」

             

             人為的に与えられた混乱を追い払うように頭を振り、接近を再開する。
             先行することとなった千影は、謎の光を放つ銃の射線から身体を外しつつ、毒針を投射する。

             

            「おぅふ……!」

             

             人間であれば反射的に避けるであろう脳天への一投を、クルルは避ける気も防ぐ気もなく、素直に額で受け止めた。思わず銃を取り落としてしまい、針から垂れた毒液が眉間をつー、と伝う。
             しかし、それでもクルルは嗤っていた。

             

            「くらくらしますぅ……でも、これもいい感じですぅ!」

             

             攻撃を嘲笑うのではなく、純粋に攻撃を受けたその結果を、彼女は興味深く受け入れていた。

             

            「はッ!」

             

             そこに合わせられるのは、肉薄するサイネの断ち落としだ。柄を長く持って、重力と遠心力も乗せた一太刀は、クルルの左胸から右脚にかけてを削ぎ落とし、傷口から桜色の飛沫を舞わせる。
             さらに、返す刀で腹を両断するように薙ぎ払おうと、体重をさらに前へとサイネは押し出した。
             だが、

             

            「いただきまぁす」
            「……!」

             

             突如として、クルルの背後で翼が広がった。
             それは浮雲たちが使うミソラの力によるものではない。複数の歯車を組み合わせた骨組みに、歯車模様の風呂敷を皮とした、絡繰の翼だ。元々クルルが腰の後ろに携えていたものが展開したようで、翼の全長は彼女が両腕を広げたよりもなお長いだろう。

             ただ、二撃目をもう放ってしまっていたサイネを待っていたのは、羽ばたくことによる回避ではなかった。
            振り抜く途中で、喪失感に見舞われる。
             自分が守りとしていた桜花結晶が、相手へと吸い寄せられていってしまう感覚が、サイネを襲う。

             

            「くっ……!」
            「どもども」

             

             クルルの身代わりとなって砕ける結晶。そんな軽すぎる手応えにサイネは歯噛みしつつ、あっさりと振り抜いて威力を持て余してしまった得物をどうにか宥めようと踏ん張りを利かせる。

             しかし、それだけの猶予だろうが、クルルにとっては十分だった。
             彼女は両手共に組み上げた同じ絡繰を、にわかにサイネ、そして畳み掛けようと飛び込んできた千影に向けた。
             バリ、と閃光と同時、大気が裂けた。

             

            「あ、がぁ……っ!?」
            「ぐぁ……!」

             

             雷撃が二人を焼く。身構えることができた分だけ、千影は素早く数歩下がった。傷は結晶が肩代わりしてくれたとしても、手足のしびれまでは防ぎきれない。追撃よりも、クルルが下がっていくことを許容しても、一呼吸置くことを千影は選んだ。

             一方で、遅れて薙刀を構え直すサイネにその選択肢は許されない。相手の奇想天外な手のきっかけが見えない分、いっそう己のやり方を貫き通さなければならないというのは、クルルを宿していたであろう五条との戦いで身にしみている。

             

            「嫌ですね……」

             

             背後を見やりながら、ぽつりと千影は呟く。
             その言葉は、目の前のメガミに向けられたものではない。クルルのために揃えた戦力を分散せざるを得なかった、その元凶たる浮雲たちに苛ついていた。

             

             こんな速度が命の展開にも関わらず、最速の戦力たるサリヤをクルルへあてがうことはできていない。否、そうしたくともできない状況下にあった、というほうが正しい。彼女の強みは速さだけではなく、集団への対応能力の高さも挙げられるのだから。
             追いついてきた兵は、クルルへの加勢ではなく、屋敷へ向かっていたジュリアたち怪我人を狙ったのである。一部を割いてくるとは予想されていたが、千影たちを見向きもしないのは想定外にも程があり、サリヤをその対応へ回さざるを得なかったのだ。

             

            「お願いしますよ」

             

             戦場に閃く白銀は未だ健在である
             それだけ確認した千影は、再び奪還への一歩を刻んだ。

             

             

             

             


             サリヤの避けがたい剣閃は、鞭のような刀身とヴィーナの急制動によって生まれる。しなりながら蛇のように食らいつく刃が、目を疑うような予測困難の動きで敵を切り刻むのである。速度と合わせ、その広く読みづらい間合いが人数差を覆す武器であった。
             けれど、今のサリヤが扱う剣は、手にした一本だけではない。
             飛来する兵たちの主戦場である宙は今、ヴィーナから伸びた幾本もの剣の鞭によって切り刻まれていた。

             

            「行かせない!」

             

             三輪へと変化した機体を急停止させ、勢いをそのまま手中の剣に込める。有翼の兵に向けて一直線に飛びかかるが、すんでのところで回避される。構えられた弓は、空色の矢をつがえられていた。
             それを見たサリヤは、左手と脚の操作でヴィーナにその場で車輪を急回転することを命じる。得られた回転はヴィーナの各部から伸びた剣の鞭に躍動を与え、サリヤの舵さばきによって指向性を与えられる。
             予想外の二の矢を受けて、兵の血が夜空に咲いた。

             

            「ぐあっ!」
            「まだまだ、いけるわよっ!」

             

             威嚇するように吠えるサリヤの横を、打ち損じた矢が抜けていった。余裕を持って避けられない程度には、その威勢は絞り尽くされたものであった。
             敵の狙いを読み違えたことで、本来メガミの力を使える状態の千影やサイネと共に相手にするはずだった兵を、こうして全員サリヤが抱えることになった負担は大きい。主人たちを狙う兵の数をどうにか減らそうと奮闘するも、体力には限界がある。

             

            「次……!」

             

             砂利をヴィーナで巻き上げながら、残りの兵を五と見定める。いつ相手の気が変わって、先に千影たちにも手を出されるか分からない状況では、その数字はやはりサリヤ一人で支えるにはあまりに多すぎる。
             ちら、と屋敷の廊下を窺うや、立ち位置をやや下げた。重傷者がいる中では退避すらもおぼつかない有様で、唯一無傷であるジュリアが楢橋と共に藤峰に肩を貸しているところであった。千鳥が流れ弾を撃ち落としていなければ、とうに全員射抜かれていただろう。

             

             と、そんなときだ。
             ヴィーナの嘶きに紛れるように、どたどたと廊下を駆ける音が響く。

             

            「みなさん、早くこちらへ!」
            「さ、サーキ!」

             

             息を切らして廊下の向こうから現れた佐伯が、ジュリアたちを急かすように手招きする。
             味方が増えたことに安堵する中、千鳥は、

             

            「おいあんた、今までどこ行ってたんだよ!」
            「いいから急げ、ここじゃいい的だ! 逃げ込むぞ!」

             

             怒りを無視し、ジュリアと交代して庭からでは容易に様子も伺えない屋内を目指す佐伯。正論でしかないそれに千鳥は言葉を飲み込み、最大限の警戒でもって殿を買って出た。
             そして佐伯は、サリヤに対して声を張り上げる。

             

            「一人ずつならこちらでなんとかします! サリヤさんはあちらの援護を!」
            「オーケー、ありがとう!」

             

             彼の復帰により、天秤の傾きが緩くなった。残る相手が全員、閉所を不得手とする、翼を生やした射手であることも大きい。きちんと立ち回れるのであれば、囲まれる心配はかなり減る。
             ヴィーナが、威圧するように低く鳴いた。
             千影とサイネへ加勢するために、サリヤは前を向く。

             

            「チッ……! 先にあの黒焦げ女から殺るよ、囲め囲め!」

             

             浮雲の命令により、桜の下に向かって発進したサリヤを、四人の兵が四方から取り囲もうと展開する。ヴィーナの速度についていこうとしたのか、精度を気にせず雨あられと空色の矢が降り注ぐ。
             だが、サリヤとヴィーナだからこそ為せる変則的な機動は、面で制圧するほどの数がいない相手にとっては、手の中からすり抜けていくようであっただろう。背後に気を回さなくてよくなった分、その走りはいっそうキレを増している。

             

             行く手に待ち受ける兵の一人が、狙いあぐねて集中を回しすぎたのか、翼の動きが鈍る。無論、その隙を見逃さず、サリヤは剣を持つ手に力を込めた。

             

            「はぁッ!」

             

             急制動から繰り出される斬撃が、咄嗟に避けた兵の脚を掠めただけに終わる。
             次いで、急旋回するヴィーナから繰り出される刃が、背後から追ってきていた兵を捉えた。自らの速度も相まって、まるで挙動の定まらない剣を回避することができず、刃のついていない平らな面で打撃され、撃ち落とされる。

             

             脚が止まれば狙われるのはサリヤも同様だ。ヴィーナの初速はいかにその不利を少なくしていようと、無ではない。
             視界に光る空の色に反応し、サリヤは思いっきり腰を落とす。

             

            「っ……!」

             

             浮雲の精密な援護射撃が、サリヤの左肩を掠めた。鏃がある程度肉を削いだようで、褐色の肌に赤い直線が刻まれる。
             痛みに耐えながら速度を纏い、それでも初速を稼ぐまでの僅かな間に避けきれなかった分の矢は、どうにか手甲で弾く。
             当たりを確信していた兵の一人へ、主人を害した怒りをぶつけるように、ヴィーナの刃が閃いた。

             

            「あ、あぁぁぁっ!」

             

             思わず腕で顔を守ってしまった彼は、絡繰の故障に伴って翼を奪われ、落下する。サリヤにそれを見送る必要も余裕もなく、今度は手にした剣で矢を払い落としながら、砂利から土へ変わった地面を疾駆する。

             

             ……しかし、だ。サリヤは一つ、勘違いしていることがあった。
             浮雲たちが真っ先にジュリアたちを狙ったのは、そうするだけの積極的な理由があったからではなく、他方を狙えないだけの理由があったからだ。

             

            「うるさいですねぇ」
            「……!」

             

             思っていたよりも近くから聞こえた、苛立たしげなメガミに声に、サリヤは肩を震わせる。それは、宙にいた浮雲の兵たちもまた、同様だった。
             撹乱しながらヴィーナを駆ってたサリヤは、空を行く相手ということもあって、目まぐるしく移り変わる戦場を把握しきれていなかった。可能な限り相手の戦力を減らしながら、最終的には千影とサイネに合流する、という目的だけを抱えていた。

             

             クルルは今、サイネの振り下ろした薙刀と、千影の放つ苦無を、妖しく光る壁によって防いでいた。二人の攻撃はそれだけでは捌ききれるものではなく、防護壁の届かない位置から的確に傷をつけられている。
             けれど、クルルの苛立ちは千影とサイネに向けられていなかった。
             じろり、とその瞳が、宙空を――サリヤを追っていた、浮雲たちへ向いた。

             

            「集中できないんで……静かにしてもらえますか?」

             

             感情の起伏の少ない言葉が、普段の彼女の言動と相まって、息を呑むような威圧感を生む。
             その直後だった。
             浮雲を始め、空にいた者たちの複製装置が、音もなく弾け飛んだように、一瞬で分解された。大小様々な部品が、水の中を揺蕩っているかのようにふわふわと浮かぶ。

             

            「でも――」
            「そ、総員、着陸ッ!」

             

             その意味を察した浮雲が、悲鳴じみた命令と共に、自らもまた急降下を始める。
             だが、一つ数える間に、彼女たちの翼が消えた。
             複製装置によってもたらされていたミソラの力が、装置の分解によって霧散した。
             後に待っているのは、仮初の翼をもがれた人間が、ただ地面に引かれて落ちるという至極当然な帰結だ。

             

            「ぉぐっ……!」

             

             咄嗟の警告が功を奏したのか、浮雲たちが地面の染みになることはなかった。受け身をとってもなお衝撃に息が詰まる高度ではあったが、苦しむ程度で済んでいる。人によっては骨も折れているかもしれない。少なくとも、精度を求められる射撃は彼らにはもうできそうになかった。
             そんな突然の同士討ちに困惑するサリヤの前から、分解された部品が飛び立った。
             他ならぬ、クルルの下へと。

             

            「歯車ちゃんたちを連れてきてくれたことには、感謝しますぅ」

             

             千影も、サイネも、無意識にたじろいでいた。
             集まる部品は複製装置の残骸のみならず、神座桜の周辺に散らばっていた一見ゴミにも見える物体から何まで、使えるものはなんだって使うという有様であった。それらはクルルの目の前に集まり、下からどんどん組み上げ、時にはクルル自身が生み出した部品とも組合わさり、体積を増やしていく。

             

             数多の歯車の集積の果て、生まれた形は、人であり、山であった。
             背後にそびえる翁玄桜も相まって、大きさの感覚が破壊される。真っ直ぐに伸ばされた両腕が、桜の輝きを受けて大きな影を地面に落としていた。足はなく、極太の丸太によって支えられた上半身は、まるで案山子のようであった。

             

            「な、に……これ……」
            「かもーんっ! びっぐ、ごーれむ……あるてましーん、もーどっ!」

             

             向かい合った千影の呟きが、組み上がった巨大絡繰の駆動音にかき消される。
            見上げるほどの巨体が、その双眸に妖しい光を湛えた。

             

             

             

             


             質量は、それだけで暴力になる。ただしそれは、その大質量を動かし得たら、と但し書きがつく。
             ならば、山のような巨体が拳を振るうという動作は、正しく暴力であろう。
             巨人の胴体が回転し、右の巨腕が前方で絶句していた千影を襲う。

             

            「ぁ――」
            「危ないッ!」

             

             回避の遅れた千影を、サイネが薙刀の柄で殴りつけるように弾き飛ばす。サリヤが間一髪、自力で逃れると、殴打の軌道には結晶をまとめて構えたサイネの姿だけが残ることになる。

             

            「く、うぅッ――ぅあッ!」

             

             薙刀の柄も合わせ、巨大な拳を受け流す。圧倒的な暴力に砕け散った結晶たちが、風圧によって吹き散らされる。
             しかしサイネにとって、盾の喪失は攻撃への転換を意味する。己の技を曇らせる結晶を捨てた彼女は、むしろ予備動作の聞こえやすい巨人へ、躊躇なく刃を振るう。

             

            「たぁッ!」
            「はっはっは。たくさーん遊んであげてくださーいな」

             

             巨人の後ろへ下がったクルルは、自慢げに笑う。サイネの斬撃は、去っていく巨人の右手首に傷をつけたが、巨体からすればかすり傷に過ぎない。メガミの威力でその程度である以上、千影とサリヤは観察を続けるしかない。
             と、巨人に回転打撃を続けさせるクルルの視線が、そんなサリヤを射止めた。
             正確には、彼女の乗っているものを。

             

            「おほーっ! さっきがっしゃんがっしゃんしてた乗り物じゃあないですか! よく戻ってきてくれました! くるるんにそれ、貸して触らせて見せてくださいよぅ!」
            「誰があなたなんかに!」
            「そんな意地悪しないでー」

             

             ではまあ、と拒絶されたクルルが、顔の横で人差し指を立てる。

             

            「ごーれむが壊しちゃう前に、ここはひとつ、このすーぱー兵器で眠っててもらいましょう! かおすすとーむ、ぽちっとな!」

             

             言い終わる直前、巨人の双眸の光が、一瞬引っ込められた。
             そして声を上げる間もなく、放たれたまだら模様の光条がサリヤを直撃した。

             

            「うっ、あぁ……」
            「サリヤさん!」

             

             サイネを襲った光線同様、やはり外傷はない。だが、サリヤは機上でふらふらと身体を揺らし、耐えきれないというように手で抑えた。重心がまるで定まっておらず、思考の焦点もまた定まっていないように、視線を彷徨わせている。
             無論、そんな状態で操作できるほど、ヴィーナは優しくない。搭乗者の混乱は増幅されて動きに反映される。左右に倒れそうになったり、急制動で身体が投げ出されそうになったり……唯一の救いは、ヴィーナを暴れさせながらもどうにか後退できたことであった。

             

             狂乱したヴィーナの嘶きが、桜の下に痛々しく響く。
             光景を目の当たりにせずとも、サイネが異常を察知して余りあるほどには。

             

            「一体何をしたんですかッ!」
            「ふむふむ、これでのーぷろぶれんです」

             

             問いには答えず、満足そうにクルルは頷く。
             だが、その笑みが凍りついた。
             投げつけられた三本の針から、胸を締め付けられるような破滅の気配が漂っていた。

             

            「っは……!」

             

             忘れていた呼吸を取り戻し、とんと味わったことのない感情に戸惑いながらも、強いられたように咄嗟に首を横に倒した。
             とす、とす、と。
             首筋に一本、左肩に一本、いっそ間の抜けた音をたてて、投げつけられた針はクルルの身体に突き立った。ぬらり、とたっぷり塗られた毒液が傷口から滴り落ちる。だが、この負傷はクルルにとって特筆すべきものではなかった。

             

             彼女の額めがけて飛んでいた、最後の一本。
             何もしなければ刺さっていたそれは、クルルが初めて選んだ回避によって、彼女の背後で、背後でしゃりん、と音を鳴らして地面に落ちた。

             

            「…………」

             

             クルルが無言で瞳だけを動かしたのは、毒によって身体が麻痺したわけではない。
            緊張。そして安堵。
             どうしてもそれだけは避けなければならない、という強迫観念に屈し、けれど従ったことで命拾いしたという事実が彼女に染み渡っていた。クルルは回避を選んだのではなく、回避を選ばされていた。最後の一本には、メガミに致命を確信させるだけの破滅が込められていた。

             

             クルルの視線の先には、同じく無言で、じろりと睨む千影の姿がある。
             破滅の残り香を、その手に纏わせて。

             

            「そうですかぁ……!」

             

             冷や汗を流しながら、恐れを塗りつぶすように、狂気の笑みを浮かべる。
             す、とクルルの右手が緩く掲げられた。

             

            「完全態神渉装置……滅灯禍辻」

             

             今まで時を刻むように駆動していた翁玄桜の装置が、ガコッ、ガコッ、と動きを速めていく。
             すると、クルルの背後から、澱んだ薄墨のような、不吉な未来を予感させてやまない霧が撒き散らされた。

             

            「これは……」

             

             巨人に対抗していたサイネは、気配の変化に警戒し、距離を取る。
             けれど千影は、逆に一歩前へ踏み出した。
             その霧の正体を、知っていたから。
             千影は、煮詰められた殺意を込めて、問いを放つ。

             

            「ホロビは、どこですか」

             

             応じるクルルは、親指で背後を指した。
             すなわち、メガミの力を奪う、神渉装置を。
             隠し立てすることなく。

             

            「ここですよ」

             

             黒い霧に包まれた舞台が、終着点であると、クルルは示していた。

             

             

             

             


             全ては自分の安寧のため、そして安寧の大部分を占める大切な彼女を救うため。
             瑞泉驟雨は、千影のせいだと言った。実際、そのとおりだった。千影は、己の選択が大切な人を苦しめる結果を生んだことを後悔もした。

             

             しかし、彼女が後悔に埋もれることはない。
             彼女の悲嘆も、彼女の怒りも、どんな激情もよき未来の枷になると理解していた。振り返ることはあっても、慚愧に囚われることは無意味なのだと、澱んだその瞳で前だけを見ることができていた。

             

             彼女は忍――目的を合理的に果たす者である。
             故に、千影は宣言する。
             怨嗟の叫びを上げることもなく、ただ意志だけを一点に込めて。

             

            「返してもらいます」

             

             言葉と同時、千影は地を蹴った。サイネもまたそれに追随する。駆け出しながら構えられた得物が空を切るのに合わせ、場に満ちた黒い霧が緩慢に流れていく。
             二人にとって、絡繰巨人はただ消耗を強いられるだけの壁でしかない。本来であれば無視してクルルを直接狙いたいところである。本人も本人で、見えない防護壁を展開して守りを固めたりと、接近が叶っても一筋縄ではいかない。

             

             ただ、強い意志で飛び出したにも関わらず、彼女たちの足取りは重い。
             それは、疲労のためではない。地面に澱む黒い霧を脚がかき分けるたびに、どんどん気力が奪われていくようだった。
             何かする前に止める、というこの戦いにおける目標など、到底叶えられない。
             巨人に対抗するよりも前に、クルルが手にした絡繰を二人へ向けた。

             

            「うぐ、ぐぅぁあぁぁっ……!」

             

             雷撃に喘ぐ千影から、受けた熱量を示すかのようにか細く湯気が立ち上る。砕けた桜花結晶が、足元の霧の中へ消えていった。
             それでも千影たちは足を止めない。奪われる以上の気力を振り絞るように、焼かれた身体を押してひたすらにクルルとの距離を詰めようとする。

             

            「いいですよぅ! さあ、決着を付けましょう! そしてここからわくわくどきどきのー……」

             

             立ち向かう二人を前に、クルルは力を溜めるように身体を縮め、

             

            「科学の灯が、灯るのでぇす!」

             

             回転させるように手を揺らしながら、大きく腕を広げた。そしてその左腕を、サイネへと向ける。
             反応したのは巨人だ。クルルの所作を真似するように、左腕を震わせる。打撃同様に胴の回転が始まり、拳が振り下ろされるか、と思うものの、それだけではない。手刀を形作った手首から先が甲高い音を立ててさらに高速回転し、槍のように鋭利な刺突を形成した。

             

             しかし、拳を受け流すだけでも精一杯であったサイネだが、それに怯むことはなかった。
             防ぎはしない。避けもしない。
             むしろ、重量にものを言わせての単純な打撃よりも、小細工を弄した攻撃のほうが、彼女にとっては反撃の好機に他ならない。精緻を極めた技巧を通して見れば、威力のために工夫された攻撃は、常人には手の出せない多くの隙を孕んでいる。

             

             その隙をつくことも、サイネにならば可能だった。
             不可解で暴力的な一撃に、息をもつかせぬ連撃が叩き込まれる。

             

            「私もッ、借りを……返させて、もらいますッ!」

             

             そこに腕力は必要なかった。高速で動くものには、的確に刃を当てるだけでよい。言うは易しを実現するサイネの技は、彼女の聞き取った巨人の手の僅かな軋みに全て吸い込まれていった。
             見事に稼働に必要だった部品を断ち切られ、万物を貫くように回転していた巨人の左手が、己の持っていた力を御しきれずに自壊する。指は千切れ、手首から吹き飛んで千影の脇を掠めていった。

             

             重量の釣り合いがとれないのか、衝撃も相まってのけぞる巨人。両目を明滅させながら、左腕の代わりに後ろに回っていた右腕をどうにか千影に叩き込もうともがいている。
             今ならば、クルルに手が届く。
             千影もサイネも、狙うは本体だった。暴風のような回転攻撃が止まっている今、またとない好機であった。これを逃して新たな絡繰を組み立てられては、数々の雷撃を見舞われた二人に抗するだけの力はもう残らない。

             

            「うああぁぁっっ!!」

             

             足を前へ。己を鼓舞するように、声を発しながら。
             手にした針の切っ先が、クルルへと向けられる。
             今までは巨人の腕に阻まれて立ち入れなかった間合いへ、二人が踏み込んだ。目と鼻の先で、クルルが笑っていた。

             

             ……そう、笑っていた。
             頭の中で組み立てた流れが、目の前で再現されていることに喜んでいるように。

             

            「おめが……ぶれーどぉ!」

             

             

             ゾンッ! と光が大地に突き立った。
             サイネたちの阻止が間に合わないはずだった巨人の右手から、限界まで凝縮されたような光の奔流が放たれ、刃と化した。その威力に、あれだけ重く澱んでいた黒い霧が余波だけで吹き飛ばされる。
             右手は拳を作ることを諦め、生み出した光刃で間合いの中に潜り込んでいた二人を薙ぎ払おうと、手を傾けた。

             

            「ぁ……」

             

             その一瞬の出来事の中で、千影に光刃をかわすことは不可能だった。刃の幅は人の背丈よりもなお広い。それを巨人は、ほんの僅かに手をひねるだけで届かせることができる。
             もちろん、刃をくぐってクルルへと迫ることもまた、できなかった。
             手の届くところまでたどり着いたはずなのに、光刃で分かたれた距離は、決定的な破局を示すかのように遠かった。

             

            「ふふ……」

             

             けれど、そんな状況で、薄く笑みを浮かべる者がいた。
             千影には、少しだけ先行していたサイネが、自分に向かって小さく頷いたような気がした。
             自身に生じた想いを、おかしく思っているような。
             向けた者に望みを託すような。
             全てを切り裂く刃を前にした表情にしては、あまりに不吉で、あまりに示唆的で、あまりに希望に満ちていた。

             

            「っ……!」

             

             その意味を理解して、それを言葉で確かめる余裕がないことが、千影には恨めしかった。その選択は、千影にとっては最も理解のできない行いなのだから。
             だが、活路がそこにしかないことも分かっているからこそ、千影は足を止めない。
             他人の自己犠牲に成り立つ生を信じることが、彼女が今歩まねばならない生きる道なのだから。

             

             刃を合わせられる寸前、サイネは自らの周囲に水晶を浮かべた。
             そして、自分ら光刃に飛び込むように跳び上がり、己の身体ごと光刃を受け止めた。

             

            「――――」

             

             

             その刹那、全ての音が消えた。
             一瞬、時が止まったようだった。
             その間隙へ滑り込むように、千影は跳んだサイネの下をくぐり抜けた。彼我を絶対的に分けていた光刃の境界は、サイネに受け止められていたそのごく一部だけが、綻んでいた。
             直後、砕けた水晶、こぼれ出た結晶、それらの粒子が、音のない世界であっという間に空へ散っていく。

             

            「ぁ……ぐ……」

             

             そして音が戻り始めたとき、苦痛を訴える呻きは、クルルから見て光刃より手前から起き上がった。
             満身創痍の闇昏千影がそこにいた。
             サイネが引き受けてくれたとはいえ、光刃を紙一重でくぐり抜けた千影は、余波を至近で受けてさらにぼろ布のようになっていた。元々襤褸であった外套は引きちぎれ、一部を巻きつけるように右手に握られるのみ。

             

             それでも、彼女の意志が潰えることはない。
             整えてくれた道を踏破したその先に、長い旅路の終わりが待っている。
             澱んでいても、歪んでいても、まっすぐとクルルを――そしてその背後にいるはずの彼女を見据えていた。

             

            「ほろ、びをぉぉっっ……!!」

             

             光刃を振り回される前に、最後の気力を振り絞ってクルルへ肉薄する。
             その手に、苦無はない。
             その手に、小刀はない。
             彼女を取り戻すための最後の一撃。それは、彼女を奪った者に対して相応しい、千影と彼女だけの一撃だった。

             

             千影の右手に巻き付いていた外套のボロ布がひらめき、毒針の姿が露わになる。
             毒を芯にまで仕込むことのできるその毒針には今、紫色をした小瓶が据え付けられていた。
             ホロビの力を――死を象徴するメガミの力を濃縮した毒が。
             その権能が、一点に、クルルに、向けられる。

             

            「ひ……!」

             

             ……このとき、クルルは初めて、真に恐怖を覚えた。
             思考すら絶対的な闇で塗りつぶす、抗いようのない死という終わりに、彼女は己が持てるあらゆる絡繰を作動させようと試みた。その中には、回る歯車の力によってクルルを後ろへ運ぶというものもあり、特にその機構にすがっていた。
             絡繰は、彼女の想い通り、動作した。
             けれど結果として、クルルは足を引っ張られたように、背中から転倒する。

             

            「あっ、がぁ……なんで……」

             

             

             見れば、クルルの右脚には、銀に光る鞭のようなものが巻き付いていた。
             辿ったその先で、回転の余韻に耐えきれなかったように片膝をつくサリヤ。混乱によってヴィーナを降りた彼女が、最後の力を振り絞って、自らの力で放った剣が、クルルの逃走を妨げていた。柄に込める力をどうにか絶やさず、憔悴した顔ながらサリヤが歯を見せて笑う。

             

             原因が分かったところで、クルルにはもう為す術はない。
             目線を戻した彼女を待ち受けているのは、致死の一撃を携えた千影。
             飛びかかるその姿は、クルルにとって破滅の象徴となって、魂に刻まれる。

             

            「かえしてぇッ!!」
            「ひああぁぁぁぁぁっっッ!!」

             

             

             千影とホロビの絆が、クルルを貫いた。
             メガミの絶叫が、決着を告げる鐘となって、桜の下で響き渡った。





             こうして、闇昏千影の最後の戦いは、鮮烈なる決着を迎えた。死を恐れ、仲間からも逃げ、孤独と共依存の泥濘へと溺れつづけた彼女が、まさかこのような意思を示すとはカナヱとしても驚きだよ。

             はじまりが共依存であっても、絆は絆。闇昏千影とホロビの間で育まれた絆は決して淀み、歪んだものだけじゃあなかった。

             絆は崩れかけた心を辛うじて護り、そのわずかな時間が弟との縁を紡いだ。救いを得た彼女は敵を見定め、戦う意思を得た。決意ゆえに仲間は彼女の力となり、強大な敵へと立ち向かう勇気になった。

             そして仲間と勇気は最後には、彼女に勝利をもたらした!
             深い絶望の中から、希望の道を見出した彼女にどうか喝采を!


             

             

             

             

             

             





             そして、今この時だ。

             

             





             君が神話を辿るならば。あるいは彼女の異なる強みを探すならば。
             この時の彼女のあり方は、なかなかに興味深いと言えるんじゃないかな?
             怯え、恐れ、それゆえに生きる道を見出す暗殺者のあり方を、今だけは捨てて……、

             恐れを勇気に変えて進む、英雄として――

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            語り:カナヱ
            『桜降代之戦絵巻 第五巻』より
            作:五十嵐月夜  原案:BakaFire  挿絵:TOKIAME

             

            《前へ》      《目録へ》      《次へ》