『八葉鏡の徒桜』エピソード7−4:桜花137年の龍ノ宮家

2020.09.07 Monday

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     桜花137年。桜降る代に生きる私たちにとって、これは単なる年号を越えた意味を持つ。
     桜降る代において同じ時間にあたる年号は三盟4年。天音揺波たちの英雄譚からおおよそ三年の時が流れ、浅くはなかった大事変の傷も落ち着きを見せ、人々は新たな時代の到来に心を躍らせていた。
     即ち、桜花137年は桜降る代には存在しない年号であり、三柱の盟約が結ばれなかった証でもある。

     

     

     

     

     


     人の世はかくも目まぐるしく変わるものだ、とハガネは思う。
     日常的に顕現しているわけではない彼女にとって、人の営みを見る機会は数年単位で間が空くことが多い。再度訪れたときには、いつの間にか町が広くなっていたり、便利な道具が発明されていたり、挙げ句は海の向こうの人々と交流が始まっていたりする。

     

     彼女の象徴する大地そのものも、変化しないことはもちろんないけれど、巷のそれと比べれば随分とのんびりしている。森や山だけではお目にかかれないものが、ハガネの好奇心をくすぐってやまない。
     そして、時間を経れば人もまた変わる。
     戦のいの字もない平和な世であっても、だ。

     

    「うっわ、たっつーが大真面目に書き仕事してる……」
    「悪かったな」

     

     通された龍ノ宮城の一室に踏み入れれば、大量の書に囲まれた偉丈夫が、背中を丸めて筆を走らせていた。城の主である龍ノ宮一志だ。
     彼は現れたのがハガネであると認めると、いかにも仕方ないとばかりに筆を置いた。そのまま文机を横にどけ、使用人の運んできた茶をうまそうに味わう。彼に摘ままれると、茶請けの煎餅がとても小さく見える。
     龍ノ宮は一息ついてから、

     

    「三年ぶりか?」
    「そんなくらいかな。ユキねぇとライねぇが相変わらずダメって言うから」
    「お堅ぇこった。心配になるのも分かるけどよ」
    「心配ってどーゆーことさ……」

     

     じろり、とハガネが睨むと、彼は鼻で笑って受け流した。

     

    「まあ、おまえが今回ただ家出してきたわけじゃねえことは知ってるよ。収穫祭に呼ばれたんだろ?」
    「あれ、知ってたの?」
    「そりゃあ東部一帯の話ならすぐ耳に入るからな」

     

     実際ハガネは、豊穣を祝う祭に大地のメガミ様こそふさわしい、と請願された結果、桜の外に出かけることを許されている。保護者役のメガミたちも、こういった明確な理由を跳ね除けてまでハガネを留めはしない。
     ただ、久しぶりの顕現ではあるが、契機となったその祭にハガネは少し思うところがあった。

     

    「収穫祭なあ……呼ばれたのは嬉しいんだけど、今年から出し物の桜花決闘やめるらしくって、ちょっと残念なんだよね。前までは、あたしを宿してるミコトがやってて、たまに覗いてたんだけど……」
    「その代わりに、メガミ本人が来るってのも贅沢な気がするが」
    「呼んだ人、わりとダメ元のつもりだったみたい」

     

     ハガネ本人としては顕現の口実ができるので、人に頼られるのは悪い話ではない。そうでなくとも、人と触れ合いたいと彼女は思っている。それが無邪気な好奇心を原動力としていることが、保護者たちにとって悩みのタネなのだけれども。
     ハガネは出された煎餅を咥えてぱきりと割って、食べ進めながら、

     

    「桜花決闘、減る一方なんだよね? 少し寂しいなあ」
    「仕方ねえさ。それが世の中の流れってやつなんだからよ。おかげさまで、俺もしばらく筆しか握ってねえ始末だ。……まあ、最近はそもそも桜花拝がごたついてるもんで、宮司を呼ぶにも一手間かかるってのも大きいけどな」

     

     なにかあったのか――そう顔に書いて、ハガネは小首を傾げる。
     それに龍ノ宮は、大きくため息をついてから愚痴のように説明を続けた。

     

    「ちょいと、桜花拝の活きが良いのと、碩星楼の連中がバチバチやりあっててな。なんでも宮司どもが言うには、碩星楼の奴らがヲウカに仇為したんだとよ。もちろん、そんな世迷い言を碩星楼の本の虫どもが認めるわけもねえから、七面倒臭い政治の世界の戦争が始まっちまったわけだ」
    「ふうん……」
    「別に、昔々の戦国時代じゃあるまいし、斬り合いで人死が出てるわけじゃねえのが幸いなんだが……。その分、こう……スパッ! と解決できなくて、歯がゆくてたまらん」

     

     手刀の身振りを加える彼を前に、ハガネはあぐら座から脚を伸ばして座布団にかけ直す。畳に手をついて天井を仰いだその顔では、眉間にしわが寄っていた。

     

    「うーん……それ、ユキねぇが言ってたやつなのかなあ。騒ぎが起きてそうだから、行っちゃだめって。でも、ユキねぇも難しそうな顔してたし、今聞いてもやっぱりピンとこないや。あたしに分かるのは、それがなければもっとこっちで遊べたってことっ!」
    「ははっ、是非連中に聞かせてやりてえお言葉だな」

     

     そう言うと、龍ノ宮は立ち上がり、部屋の一角にあった書棚へと足を向けた。
     その途中、ハガネの頭をくしゃりと撫でてから、

     

    「まあ、そう気落ちすんな。祭の出し物がただ減るってわけじゃあねえ」
    「うー……」

     

     それから彼は書棚を漁りながら続ける。

     

    「古きに別れを告げるなら、新しきを取り入れるのが筋ってもんだろう? そうやってわくわくする世界ってのを作ってきゃあいいんだ。おまえが顔見せなかった三年の間でも、ここらは随分様変わりしたんだぜ? 大農園ができたの、知らねえだろ」
    「うん、初耳」
    「そいつをこの短期間で形にしたのがジュリア嬢でな。まだ会ったことなかったよな?」
    「あー、海の向こうから来た学者さんだっけ?」

     

     龍ノ宮は短く頷くと、やがて一枚の紙をハガネに寄越してきた。何かの装置を動かす人々の絵図が何点か載せられており、見出しでは『大洋より来たる絡繰に刮目せよ』と謳っていた。

     

    「ジュリア嬢を中心に随分尽力してもらって、収穫祭に併催する形でファラ・ファルード産の絡繰の展示会をやることになった。大農園で使われた農耕の絡繰とかもある」
    「へぇー、面白そう! あっ、『十俵楽々、牛要らず』だって。すごいなぁ」

     

     つらつらと読み進めていったハガネは、自分よりももっとこの話に興味のありそうなメガミのことをふと思い出した。

     

    「くるるんとか来そうだよね」
    「げ……爆発とか起こされたら堪ったもんじゃねえなあ。今からでも遅くねえ、お目付け役に驟雨のやつでも招待しとくか。どうせあいつも興味あるだろ」
    「去年までは瑞泉に居たんだっけ?」
    「ああ。飽きた、っつって出てったらしい」

     

     クルルらしい、とハガネは苦笑いする。

     

    「そんときから瑞泉のきな臭さも随分薄れたし、あいつも当主として落ち着いて来た。俺としちゃあ一安心したもんだ。今じゃあ、会合の度に酒を酌み交わす仲よ」
    「うへー、想像できない」

     

     わざとらしく嫌な顔をしてみせる。もしかしたら三年の時が龍ノ宮と同じく人を変えたのかもしれなかったけれど、過去の印象を拭うのはなかなか難しい。
     そうして談笑に興じていると、

     

    「おっとう、まだぁー?」

     

     許可もなしに、幼い声がいきなり会話に割り込んできた。
     襖を開け、部屋に入り込んできたのは、頬のぷくぷくとしたとても小さな女の子。座ったハガネと同じくらいの身の丈をした彼女は、とてとてと部屋の主の下へと歩み寄り、大男の袖を引いた。
     父と呼ばれた龍ノ宮は、呆れたように咎めようとするが、

     

    「希、おまえあのな――」
    「ええっ、もしかしてその子めぐめぐなの!?」

     

     驚くハガネの声に、幼子が目を丸くする。
     英雄・龍ノ宮一志の娘、龍ノ宮希。
     彼女は呆然とハガネを窺いながら、父親が手を付けていた煎餅の欠片を口へと運んだ。

     

     

     

     

     


    「ほんと、大きくなるの早いなあ。ちょっと見ない間にこれだもん」

     

     ハガネに同席を許された希は、父親のあぐらの上にすっぽりと収まっていた。龍ノ宮が大男であることもあって、親熊が子熊をあやしているようである。直後に駆け付けてきた乳母にも呆れられていたところを見ると、どうやら日常茶飯事であるらしい。

     

    「そりゃあ前見たのが乳飲んでるときだからなあ」
    「あたしの腕にすっぽり収まるぐらいちっちゃかったのに……このまま育ちすぎて、たっつーみたいにならない? 大丈夫?」
    「さてな。食い意地張ってるし、ありがてえことに育ちはいい。おまえの身の丈超すのはあっという間だろうよ」

     

     ぽんぽん、と彼の大きな手で希の頭を叩くと、その度に幼子特有のさらさらとした髪が揺れる。小さな口はもぐもぐと動いていた。
     やがて煎餅を飲み込んだ彼女は、手に持っていた小さな欠片とハガネを見比べてから、

     

    「たべる?」
    「わぁっ、いいのー? ありがとー!」
    「いいってことよー、あさめしまえだぜ」
    「……どこでそんな言い回し覚えたんだ」

     

     こめかみを押さえる龍ノ宮をよそに、差し出された煎餅をハガネは身を乗り出して口に収めた。その様子がどこかおかしかったのか、希は無邪気に笑っている。
     龍ノ宮はため息をついてから、希の顔を覗き込むようにしながら告げる。

     

    「希、おまえちゃんと誰と話してるか分かってるか?」
    「ううん」
    「……前にメガミ様の話はしたな? この方は、ハガネ様。大地のメガミ様だ」
    「……?」

     

     うまく記憶と結びつかないようで、きょとんとした顔になる。
     それに、ハガネは希の小さな手をとった。

     

    「あたし、ハガネだよ! ハ・ガ・ネ。めぐめぐがもっと小さかった頃に会ったことあるけど、流石に覚えてないよね」
    「はがね……はがねおねえ……?」
    「……!」

     

     希の口から出た呼び名に、息をつまらせた。
     ガツンと響いてきたそれに打ち震えるように、その言葉を繰り返す。

     

    「お、お姉……!?」
    「ごめんね、ハガねぇ。わすれちゃった」
    「っっ……!」

     

     もはや愛称で名を再度呼ばれたハガネが、感極まったように言葉を失った。謝ったはずなのにとても嬉しそうにしているハガネの様子に、希は小首を傾げていた。
     ハガネは握った希の手ごと、うきうきと手を上下に振りながら、

     

    「も、もっかい呼んで!」
    「ハガねぇ?」
    「もっかい!」
    「ハガねぇ! ハガねぇハガねぇハガねぇ!」
    「うぅーっ、めぐめぐーっ!」

     

     嬉しさのあまり、ハガネはひょいと希を持ち上げて自分へと寄りかからせる。ぷにぷにとほっぺたをいじると、希がくすぐったそうに笑う。
     その光景を、龍ノ宮は微笑みと共に眺めていた。その表情は、最強と謳われたミコトのものとも、世の柱となる大家の長のものとも違う。豪放磊落で知られる偉丈夫は今、まさしく一人の親としての顔を見せていた。

     

    「なあ、ハガネ。一ついいか」

     

     そんな彼が、改まって前置きする。
     それから至って同じ調子で続けられた言葉は、ハガネの思考に少なからず空白を生んだ。

     

    「もうじき……件の祭のあたりで、希はこの城から出ることになる」
    「え……」

     

     意外な内容に、声が漏れる。
     ただ、切り出した龍ノ宮からはさほど深刻そうな雰囲気を感じられなかった。それは、彼の口ぶりが悩んでいるといったふうではなく、既に考え抜かれた結論を告げているだけだからなのかもしれない。

     

    「なんで? 初めての子供だって前喜んでたじゃん」

     

     だからハガネは、純粋な疑問を返した。
     対し、龍ノ宮は困ったように頭をかきながら、

     

    「ありがてえことに龍ノ宮大連合なんてものもできて、龍ノ宮っつー名前はいよいよ世の中心になった。良いか悪いかで言えば、そりゃあ良い話だ。なにも俺の政を押し付ける気はねえが、みんなで腹割って話して仲良くするにも、結局ケツ持つ奴は要る。それだけのことだ」
    「…………」

    「当然、それは俺一人でできることじゃねえ。柱に据えたのは龍ノ宮家だ。あくまで俺は今、腕っぷしが強えお殿様でしかないし、その腕っぷしだけじゃうまくいかねえってことも嫌というほど分かってる。だから、流れに逆らわず、古いやり方とお別れしようとしてるのさ」

     

     前回顕現したとき、そのような話を聞いたとハガネは思い出していた。決闘で勝ち取るのではなく、足並みをそろえて助け合う――そんな要点だけで理解していたけれど、自らを宿すミコトにそう説明されて、寂しく思えたことを覚えている。

     

    「本当なら、龍ノ宮家がこれからも続いて、この世の頭を張っていけるのがいい。俺一代だけで安定するとも思えねえしな」

     

     だが、と彼は継いだ。
     その眼差しは、希に向けられている。

     

    「俺はなあ、希の生き方や自由を縛りたくはねえんだ」
    「後を継がせたくないってこと?」
    「継ぐ継がないは俺の決めることじゃねえ。希が、そうしたいのなら継げばいい。けどよ、最初からこいつを、やれお姫様だやれ跡取りだなんて立場に置いたら、道を狭める上に面倒事が降ってくるのが目に見えてる。……後はまあ、どうしても手元に置いてちゃ甘やかしちまうからな」

     

     今ハガネの前にいるのは、子煩悩な一人の父親でしかなかった。見上げるほどの図体を丸めて、照れ隠しに鼻の頭を掻く姿が、この地の頂点に立つ人間であるなどと誰が信じられようか。
     見咎めるような龍ノ宮の咳払いで、ハガネは思わず頬が緩んでいたのを自覚した。
     気を取り直した彼は続けて、

     

    「そのためにずっと、希の存在は隠してきた。子ができたこともだ」
    「あー、じゃあめぐめぐのお披露目してないんだ。前来たときに、大きくなってからいきなり挨拶させて驚かせたいから、そのときまで黙っててって言ったの、まさかこれのこと……?」

     

     ただ、記憶の端に引っかかっていた約束を口にするが、龍ノ宮は否定を返す。

     

    「ヒミカと一緒に、でけえ腹初めて見たときの話だろう? まだ揺れてた頃だな。表に出すなら派手にするつもりだったから、別に方便だったわけじゃねえぞ」
    「うん、ヒミカっち以外には話してないよ」
    「あいつも約束は守るやつだ。ありがてえことではある」

     

     しかし、龍ノ宮はつと目を伏せた。

     

    「だが、流石にもう限界だ。自分で言っといて何やってんだって話だが、俺の我儘もあってこれまでこの城で一緒に暮らしてきた。みんなを信じてるが、やっぱり人の口に戸は立てられねえ。それに希も、お転婆に育ちやがったもんだから、そのうち外に飛び出すかもしれねえ」
    「お部屋でずっとお人形遊びするような子じゃないだろうしねえ」
    「だからそろそろしゃんとしてよ、身分を隠して俺の手から放すことにした。赤東の信用できる連中に、ただの一人の娘として預けるつもりだ」

     

     英雄の子ではなく。
     時代を担う大家の子ではなく。
     最強のミコトの血を受け継いだ子ではなく。
     語る龍ノ宮が、どうしてか、ハガネには小さく見えていた。

     

    「んなもんだから、俺が希のためにしてやれることはなくなっちまう。あっという間の子離れってわけだ。……だからよぉ、ハガネ」

     

     そこで一息入れた龍ノ宮は、両の拳を畳に落とした。
     そして、男の頭が下げられる。

     

    「もしよかったら、そいつを知ってる一柱のメガミとして、いざって時には支えてやっちゃあくれねえか」
    「…………」

     

     彼の願いが、ハガネの胸を突く。一瞬、その表情は固まっていた。
     視線を胸元に落とすと、それに感づいたらしい希が、胸に寄りかかりながらハガネのことを仰ぎ見てきた。

     

    「へへっ、にらめっこ?」

     

     何の話か全く理解していないのか、目の合ったハガネに笑いかけてくる。その無邪気な顔に、英傑たる未来を見出すことはできない。小さな手の甲から頭を覗かせる桜花結晶も、ミコトとして生を享けた以上の意味を本来示さない。
     そんな原石のような存在を少し力を入れて抱きしめると、困惑が希の顔に浮かんだ。ハガネはそれに応えることなく、真剣な眼差しを龍ノ宮へと向ける。

     

     別に、この原石を剣へと鍛えろと頼まれたわけではない。
     彼はただ、自ら光を放つまでの手助けをして欲しいと言っただけだ。
     原料の持つ本来の可能性に耳を傾け、そうありたいと願う形へと導く。
     それはもしかしたら……、自らの在り方にも似ているのかもしれないと、ぼんやり思い描いていた。

     

     けれど、彼女が心に決めた理由なんて、そんな大げさなものではなかったのかもしれない。
     誰しも頼られて嬉しくないわけがないのだから。
     友から。
     そして、この小さくて可愛らしい原石から。

     

    「うん……いいよ。大地のメガミの名にかけて、あたしが見守る」

     

     

     その答えを聞き、龍ノ宮が安堵したように感謝の言葉を絞り出した。
     不器用に掠れたその声は、部屋に小さく響いて消えていった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     にっへへへ……なんかこう、改めて昔ばなしみたく話されたら、なんともこっぱずかしいなぁ……。
     うん。これがあたしとハガねぇのはじまり。
     それからあたしは瀧河希になって、ハガねぇにはほんとにお世話になったんだ。
     あたしがこうしていられるのも、ハガねぇや皆のおかげ。

     

     ……ぁ、だからだから、船の上でユキヒさん……? と話したときも、ハガねぇの話だとどーにもかみ合わないんだよね〜。
     あーでもでも? 祭で一緒に酔い潰れたとき、ユキノさんに怒られてたのは今思えばそんな感じだったのかな〜? いやー、あたし的にはお酒じゃあ仕方ないってノリでいきたかったんだけどねー。だってお酒だよ?
     ……ぅえ? いやいや、あたしがちゃんとした歳になってからの話だよ。それにハガねぇはメガミだから。

     

     あはは、脱線しちゃったね。えーと、ハガねぇの話だよね。
     んんっと、それからそうだなー。むむーん……

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     あっと、そうだそうだ。
     あたしのこの唐棹。金具とかは全部ハガねぇが作ってくれたんだよ。
     うぇへへ。あの時のハガねぇは格好良かったですぞ?

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    『八葉鏡の徒桜』エピソード7−3:桜花133年の陰陽本殿

    2020.08.28 Friday

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       桜花133年。かの英雄譚が繰り広げられた、桜降る代を迎える前の時代。
       私たちの知る歴史では、前年から続いた天音揺波による快進撃が、当時没落していた天音家を一年足らずで大家の座にまで押し上げようとしていた。これは、かの英雄・龍ノ宮一志により招かれた大家会合を間近に控え、揺波が運命の時を迎えようとしていた頃のことである。

       

       

       

       

       


       茫洋たる時の海を、私の意識はただただ揺蕩っていた。
       始まりは夢の中で目が覚めたかのように曖昧で、いつそれを迎えたのかすら判然としない。時間の感覚はふやけてしまったように不確かで、もはや気の遠くなるほど昔から過ごし続けているよう。けれどその実、さしたる時間は流れていないのだと、理解もまたしていた。

       

       遥か天上に穿たれた、空を切り抜く大穴。
       時に明るく温かい光が降り注ぎ、時に暗く冷たい光が差し込める、その変化だけが時の流れを確かに物語っていた。自分にとってどれだけの時間が流れていようとも、空の明滅は先頃に三十を数えたばかりだった。
       私にとってその天窓こそが、世界が私を置き去りにして動いている証だった。初めの頃は変わりやすい空模様を気晴らしに眺めて、それが恨めしく思え、今では虚しく感じられるようになった。

       

       時が流れようとも、私は目覚めたこの場所から一寸たりとも動けない。
       まるで私は、この小さな石の揺り籠に横たえられた赤子のようだった。
       誰にも気づかれることなく、気づいてもらうために泣き声を上げることもできず、誰かの下に辿り着くために自ら手足を動かすこともできない。時折この揺り籠で羽を休める小鳥に、どこかへ連れて行ってもらうことすらできやしない。

       

       そもそも、誰かに連れ立ってもらおうとしたところで、私は自分の名前すら告げることができなかっただろう。
       決してそれは、言葉を交わせないからではない。
       自分が何者か、分からない。
       自分をなんと呼ぶべきかも分からない。
       ごっそりと、自分を形作る大切なものが抜け落ちてしまっている感覚が、いつまで経っても拭えない。

       

       そして、私がどうしてここにいるのか、それすらも分からない。
       天に向かって伸びた巨木の体内にいるような、薄暗い場所。苔むした壁面は、私がこうして揺蕩った時間が矮小に思えるほど、ここが長い年月を経ているのだと教えてくれる。
       ただ、漂う厳粛さは、自然の温もりを全く思わせない。
       ここは酷く冷たく、恐ろしい――言いしれぬ感覚がいつまでも囁き、考えることしか許されていない私を苛み続けた。どこまでもこんな場所が広がっているのだとしたら、ずっとこのままでいたほうがいいのではないか、とすら思えた。

       

       数少ない救いの一つは、意外なことに、冷え切ったように聳える花も葉もない枯れた大樹であった。
       その威容に見守られているといったことではなく、その樹がどこか私を受け入れているように思えていたのだ。何故そう感じられるのか、欠けてしまったであろう自分の一部に答えを求めたけれど、返事はなかった。

       

       手を伸ばすことのできない私には、大樹の膝で眠ることも叶わない。
       だから、私にできたのは、目覚めからずっと私をあやし続けてくれたこの小さな石の揺り籠の中で、僅かな温もりを支えに時を過ごすことだけだった。

       

       変化に憧れながら、外界という変化に怯える。
       そうしてさらに、空の明滅を二十、三十と数え、回数も次第に曖昧になっていった。
       それでも、誰も来ることはなかった。
       掻き抱いた温もりが、孤独に削られていく。

       

       

       

       

       


       そんなある日のことだった。
       ざり、ざり、と二足で土を噛む音が、遠くから響いてきた。この空間の地面に空いた、横穴の暗い奥からだった。
       やがてその主はこの空間に出てきたようで、足音が少し鮮明になる。明らかに意思を持って歩む足音だった。それも、二組。

       

       私が最初に覚えたのは、歓喜だった。小動物が稀に顔を覗かせるくらいしか動の気配のなかったこの冷たい場所に、人がやってきたのだ。その高揚感は、目覚めてからもっとも強く私の心を揺り動かした。
       けれど、刹那の後、本能が身震いをした。
       瞬く間に私から歓喜を奪い去ったのは、恐怖――否、危機感と呼ぶべきものだった。
       身を潜めろと、本能が叫んでいた。
       ここからどこか温かい別の場所へ連れて行ってくれるなどという、磨り減った想いを捨てろと必死に訴えていた。

       

       無論、身を隠そうにも私には身体がなく、潜める息もない。どうすればいいのか迷い、私自身という存在を思いつくままに小さく抑えることで、代わりとした。
       やがて足音は大きくなり、この空間の中心、すなわち私のいるほうへと向かってきた。
       そして聞こえてきたのは、人間の男の声だ。

       

      「ようやく着いたか……。いやはや、一時はどうなることかと思ったが、無事に役目は果たせそうだ」

       

       彼の安堵に、二人目の男が訊ねる。

       

      「旅程は特に何事もなく消化したかと思いますが、何か懸念でもおありでしたか?」
      「ん? ああ、天音の件だよ。動向如何によっては、この調査も延期しなければならないところだったんだが、存外あのままあっさり消えてくれたからな。おかげで、晴れて予定通り来れたわけだ」
      「おや、そういえば見る陰もなくなったとは聞き及んでいましたが」

       

       それに答える男は嘆息混じりだ。

       

      「最盛期など、シンラ様が直々に動かれることも視野に入れていたほどだというのに……北で敗北を喫してからは、見ているこちらが居たたまれなくなる有様だったよ」
      「元々、無謀な拡大戦略でしたからね」
      「天音の娘も、敗北以来人が変わったように精彩を欠いていたらしい。だから、やつらは時間を戻したように奉土を失っていったよ。そして先日届いたのは、屋台骨だったその娘が行方知れずになってくれたという吉報だ」

       

       ふふ、と秘めた喜びが漏れる。
       片割れがそれに追従するように、

       

      「天音家も晴れて断絶というわけですか。佐伯殿も枕を高くして眠れたのでは?」
      「随分と頭を悩ませてくれたからな。最後にもうひと暴れされるかと危惧していたが、杞憂に済んで本当によかった。まったく、調査一つとっても調整は楽じゃないんだ。今回も、最悪私一人で来る羽目になっていたかもしれなかったところだよ」

       

       こつ、こつ、と彼らの足音が硬質なものになっていく。石の揺り籠がある広い石床へと足を踏み入れたようだった。

       

      「その調査ですが、これから何をお手伝いすればよいので?」

       

       付き添いらしい男の問いに、ああ、ともう一方が応じる。

       

      「君は不審な変化がないか、辺りに気を配ってくれているだけで構わない」
      「はあ」
      「目的としてはヲウカの捜索だよ。シンラ様曰く、生存している可能性は捨てきれないらしくてな。こうして全土を調べ回っているわけなんだが、奴が身を隠すとすれば、最も縁の深いここ――陰陽本殿が有力なのではないかと、私が遣わされたわけだ」

       

       恐怖のままに目を逸らし続けていたかったけれど、むしろ恐れのあまりに私の視界は彼らを捉えていた。どちらも知性を滲ませる風貌であるが、主体である男の眼差しは特に、隠されたものを容赦なく暴き出すように鋭い。
       これから彼らが何をするのかは分からなかった。けれど、見つかった場合に良い未来が待っているような気はしない。私の内側に感じるか細い力ですらも遮二無二抑え込んで、懸命に存在を潜める。

       

       ただ、男たちは私の努力をあざ笑うように、やがて私の宿る石の揺り籠の前で立ち止まった。
       男は懐から取り出した巻物を広げ、息を整える。巻物の見た目はさして特別さを感じるものではないのに、伝わってくる気配は奇妙としか言い表せない。
       そして彼は、不思議と響く声で、それを唱えた。

       

      「『ヲウカよ、顕れよ』」

       

       ぞくり、と。
       どこにもないはずの私の身体が、彼の声に震え上がった。
       巻物のように、その言葉もまた奇妙な力を孕んでいる。その力が、私に働きかけている。否、言葉面は希うものであっても、これは干渉とでも言うべき強引さだった。

       

       だが、ヲウカというその名前を、私は知らなかった。
       けれど、私にはまた、自分の名前というものに覚えがなかった。
       もしかしたらこれが自分のことである可能性は捨てきれない。微睡むように淡々と過ぎていく時間の中、何度もその答えに手を伸ばそうとした私にとっては、天啓のように降ってきた手がかりとも言える。

       

       しかし、剣呑な男の言葉を肯定することはできない。そうしてはならないと、本能がまたしても叫んでいる。
       ここで名乗り出ようものなら、奇妙な力の宿る彼の言葉に引き寄せられてしまい、私が私でなくなってしまうような気さえした。だから私は、違う、違う、と縮まりながら必死に否定を続け、願いに抗い続けた。

       

      「……ふむ、どうだ?」

       

       どれだけの間、そうして耐えてきただろうか。私が応えずにいると、彼らは目を皿のようにして周囲を延々と調べ始めた。もちろん、言葉の引力はずっと生まれたままだ。
       やがて、しゅるしゅる、と巻物が巻かれていく音で、私は石の揺り籠の内側にひたすら向けていた意識を、男たちへと戻した。奇妙な力が、収められていく。

       

      「やはり変化は」
      「……そうか。あてが外れたのか、それともシンラ様の杞憂なのか。いずれにせよ、ヲウカはここにはいないと考えてよさそうだな」

       

       結論を得てからというもの、彼らは後ろ髪引かれることなく、手早くもと来た道へと戻っていく。天窓から射し込んでくる光の具合からして、実際にはあっという間の滞在だったのだろう。

       

      「ところで、桜も枯れているのによくあんなに力を使えましたね」
      「ふふふ……、それも当然! 何故ならこの書は、畏れ多くもシンラ様が直々に力を込めてくださったのだ! 本来ならば我々の手で探し出さねばならないというのに、あの御方はなんと慈悲深い……お前にはまだまだ早いだろうが、お力を下賜していただける日を夢見てよく励むんだぞ!」
      「あー……。はい、がんばります……」

       

       目的を果たした男たちの会話が、遠ざかっていく。
       気配も消え失せた頃、私は深く深呼吸をするように心を落ち着けた。

       

       しん、とこの冷たい場所に静寂が戻ってくる。
       また、私は独りになった。

       

       

       

       

       


       それからまた、空の明滅を何十と繰り返した。けれど、誰もここを訪れることはなかった。
       もう見飽きた空の顔だけが日常における数少ない変化だったが、その飽きにももう慣れ始めていた。私に許されているのは、ぼんやりと空を眺めることだけなのだから。

       

       その日も私は、ただ空を眺めていた。珍しく、雲一つない眩い空だった。
       視界を彷徨わせていると、ちょうど天窓の縁から顔を出し始めた太陽とふと目が合った。切り抜かれた空が、照り返す鏡のように輝く。
       目を焼く光に眩む中、意識は不思議と見覚えのない像を結んでいた。

       

       私の宿るこの石に、刀を佩いた一人の少女が腰掛けていた。ぼやけた周囲には、他にも男女の姿があるように思える。
       その空想の中で、私はその少女の左手へと移り宿った。

       

       

       見に覚えのない光景を、私はどこか憧憬と共に眺めていた。
       けれど、ふと意識を瞬かせた刹那の間に、その幻視は掻き消えてしまった。後に残されたのは、清々しいほどに晴れた空……元の空模様だけだった。これが擦れ始めた自分の空想に過ぎないと思ったら、胸の奥からも自嘲しか湧いてこなかった。
       そうしてまた、私は一人現実に取り残されていた。

       

       

       

       

       

       空の明滅は、さらに無情に繰り返されていく。
       百が過ぎ、二百を経て、三百を超えた。
       それでも、人が来たのはあの男たちで最後だった。
       誰も、来なかった。

       

       しかし、その繰り返しの中で、私は私の存在が徐々に大きくなっていくのを感じていた。
       最初のうちは糸のように細く、何一つ成せないような力だったが、今となっては多少は自信の源になってくれていた。ここに至っても未だ、その力が一体なんなのか、うまく言葉にすることはできなかったけれど。

       

       だが、力とは実現の礎である。
       だから私は、願いをもって、力を籠めた。

       

      「……っと」

       

       するとそこには、一人の少女が、石柱を支えにして立っていた。
       石の揺り籠から抜け出して、私は自ら作り上げた身体に身をやつしていた。
       未だ名を持たぬ、私の姿。
       ここではないどこかへ行くための身体。

       

       

       外が恐ろしいという思いは変わらない。
       けれど、誰も来ないまま、ここに在り続けることのほうが、私にはよっぽど恐ろしくてたまらなかった。時間の流れに独りでどんどん磨り減っていってしまったら、最後にはどうなってしまうのか、想像することも嫌だった。

       

       だから私は、小さな手を握りしめて外へと歩き出した。
       ひとり目覚めた、冷たい場所に別れを告げて。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       一目見たとき、あれは糞婆ではなく、むしろ小娘……ホノカに近しい存在だと私は判断しました。

       ホノカと違ってそれらしい役割をきちんと与えられたようで、表面上は随分と上手く取り繕っていますが、他ならぬ私が分からないはずがありません。あの糞婆にどれほど辛酸を舐めさせられてきたか……思い出すだけでも腸が煮えくり返るほどですとも。

       

       面倒で不快な存在であることは確かです。しかし他方で、この地に忌々しくも根付いた腐れ木を焼き払う好機になるかもしれません。この娘の到来が何を引き起こすのか。今は慎重に見定めるべきでしょうね。

       

       寧ろ危惧すべきは正しく彼女らの本題でしょう。あの小娘……内面はともかく、装いは正しく――いいえ、影の力すらも感じる在り様は、隠し記されていたかつての本質そのものだと類推できます。
       私が見たこともないほどに旧い、最古のメガミたちの時代……その頃のヲウカだと。

       

       

       

       

       

       

       


       ……目覚めたときからあの姿ではないでしょう。影は影として在るのだから。
       ならば彼女がここに至るまでに……、
       はてさて……何があったというのでしょうかね。

       

       

       

       

       

       

       

       

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      『八葉鏡の徒桜』エピソード7−2:三盟19年の大家会合

      2020.08.21 Friday

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         三盟19年。これは今、私たちが生きている時間。この現代の桜降る代。
         ユリナがその英雄譚の果てにホノカ、ウツロと盟約を結び、新たな桜花決闘を生み出した証たる年号――三盟を掲げ、数多の神座桜が鮮やかに輝く時代。桜降る代という新たな時代の到来に伴い、かつて桜花136年が三盟3年と定め直されてから16年もの月日が流れた。

         

         

         

         

         目前に広がる瀧口の港は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
         過去に類を見ない超大型船の予定外の来航は、昼下がりの穏やかな時間を海の男たちから奪い去った。水深に余裕のある桟橋から、多くの船が大慌てで別の岸へと移動していく。まだ蔵に収められていなかった荷が、港内の人間総出で運ばれていった。

         

         

         やがて、どうにか着港の叶った巨大船から、長い舷梯が下ろされる。
         多くの視線を集めながら、まず降りてきたのは四人の人影だった。

         

        「急ぎではあったけど……迷惑かけちゃったみたいね」

         

         先頭を行くサリヤが、まだ慌ただしい港を見渡しながら呟く。彼女の後ろではユキヒが、その呟きへ短く同意する。
         さらにはそこから、佐伯、ジュリアと続き、一行は船上からファラ・ファルードの民に見守られながら、久方ぶりの桜降る代の大地を踏むこととなった。
         そんな彼女たちを桟橋の上で出迎えたのは、全身汗まみれとなった恰幅のいい老人。

         

        「ごめんなさいね、銭金さん。驚かせちゃったみたいで」
        「い、いえいえ! こちらこそ、受け入れにお時間を頂戴したようで、長旅でお疲れのところ誠に申し訳ありません……!」

         

         軽く詫びたユキヒに、 銭金舐蔵 ぜにかねなめぞう は隙あらば手ぬぐいで汗を拭いながら、なんとか商人としての顔を作っていた。肥えた老体に鞭打って駆け付けてきたようで、ついた杖と脚が時折疲労に震えていた。
         彼はその苦労を笑顔の裏に隠しながら、

         

        「しかし、シンラ様からはもうしばらくあちらにご滞在なされると伺っていたものですから、驚かなかったと言えば嘘になるかもしれません。それに、まさかこのような豪勢な船でお戻りになられるとは……」

         

         それに、サリヤが苦笑いをしながら理由を告げる。

         

        「これは、その……急いで戻るって言ったら用意されて……。全面的に協力してもらえたのは嬉しいんですけど、乗客が乗客だ、って大ごとになってしまいました。皇帝陛下のお口添えまであったので、無下にするわけにもいかず……」
        「メガミ様をお送りするわけですからな、張り切るのも仕方のないことかと」
        「この大きさで、帰りは半月もかからなかったんですから、有り難い話ではあります」

         

         本来の銭金であれば、それを叶える造船技術を讃え、談笑を商売の糧とすることだろう。
         だが、彼は何かを待つように相槌を打つのみだ。
         機を見たユキヒが、彼に応えるように本題へと入る。

         

        「そうなのよ、向こうで大変なことが起こったものだから、早く帰ってこられてよかったわ。……それで、銭金さんにはお願いがあるんだけど」
        「な、なんなりと」

         

         帰り路を国の力を使ってまで急いだ事情と、その上での願いとはどれほどの規模のものか。
         笑顔を強張らせた銭金へ、ユキヒは困ったようにそれを告げた。

         

        「皆で話し合いをしたくて……臨時の大家会合を開いてもらえないかしら?」

         

         

         

         


         ふと騒ぎを耳にして少女が視線を下にやると、出迎えと思しき老人が腰を抜かしたように杖に縋っていた。彼女の位置からではユキヒたちの陰に隠れて詳しい様子は窺えなかったが、二柱ものメガミに介抱されているところを見て、老人から意識を外した。
         船の甲板では、先に降りた四人が一通り話をつけるのを待っている船員たちの他、彼らから少し離れた位置の船縁で、三人の女が眼前に広がる景色を眺めていた。

         

         生き生きとした人々は精力的に港を駆け回り、その活気を示すように立派な街が内陸へ向かって続いていく。そして街の一角で活力を象徴するかのような咲き誇るのは、瀧口の大桜。この街の神座桜は、入港する船を導くように鮮やかに輝いていた。
         高い甲板からは、さらに遠く、咲ヶ原が山々に囲まれているその様子まで見通せる。よく晴れた清々しい空の下、桜の見守る雄大な大地が地平の彼方まで広がっていた。

         

        「聞いてはいましたが、驚きました……」

         

         少女の隣で、黒髪の女が感慨深く言葉を漏らす。白く染まった一房の髪が、潮風に揺れて優しく頬を撫でていた。
         それに、彼女のさらに向こうで長い金槌を杖代わりにする少女が、

         

        「うん……。でも……、あたしはちょっと、懐かしいな」

         

         しんみりと漂わせた郷愁に、小さく頬を緩ませる。
         二人の言葉に、少女はあえて答えるでもなかった。聞かされた話を一度は呑み込んだつもりではあったけれど、こうして目の当たりにしてみると、夢でも見ているのかと思いたくなってしまう。

         

        「これが……、桜降る代」

         

         改めて、教えられた現実を胸中で噛み砕く。それが、彼女に他の二人とは決定的に違う視座を与えていた。
         少女がぼんやりと眺める先では、神座桜が当然のごとく鮮やかに咲きこぼれている。
         船縁に腕を預けた彼女は、湧き上がる複雑な感情を整理するようにひとりごちた。

         

        「あたしが、いない世界……か」

         

         

         

         

         


         龍ノ宮城。かつての英雄・ 龍ノ宮一志 たつのみやいっし が東部の荒野を開拓し、その成功の末に一代にて築き上げた居城である。二十年前、 天音揺波 あまねゆりな たちの英雄譚において重要な舞台となったが、その際に彼の命と共に失われていた。

         しかし現在、焼け跡だった場所では、往時の姿とまではいかずとも、立派な城が龍ノ宮の人々を見守っている。かの豪傑の遺志を継がんとする者たちや、彼の考えに共感していた大家たちによる旧龍ノ宮連合によって復元、管理され、会合の場などで利用されている。

         

         

         そして今、まさにその会合のため、大広間には数多くの人々が集っていた。
         急場ということ以上に、参列者が特殊に過ぎることから、席次すらろくに決められていない。各家、団体、それぞれ繋がりのある者たちでまとまって座しているのみで、皆一様に最前へ設けられた主席が埋まるのを待っている。左手に広がる庭など、もう誰も見ていなかった。
         その最後列では、末席を汚していると言わんばかりに震える男が一人。

         

        「き、きき聞いてない……聞いてねえよ旦那ぁ……」

         

         恐る恐る前列を指差しながら、隣の小太りの老人を非難するのは 楢橋平太 ならはしへいた だ。彼の前には紙と筆が用意されているが、硯に揺蕩った墨が彼の心境を表すように波紋を生んでいた。
         老人――銭金はか細い抗議を揉み潰すように、

         

        「ふん、これほどの一大事だから連れてきたんだ。きちんと書き取り、お前が感じた危機感も記しておくんだぞ」
        「オレにも心構えというものがですね……」
        「前もって教えたら、どうせ逃げ出してただろうが」

         

         縮こまっている楢橋を小声でどやしていると、銭金の隣に中老の女が案内されてきた。身に纏う着物こそ正装のそれだが、痛んだ髪が肩に散らばる様が覆い隠した粗暴さを思わせる。急いでいたのか、僅かに熱気が伝わってくる。

         

        「隣、失礼するさね」
        「なんだ、貴様か。もう始まる時間だぞ」
        「瑞泉から大慌てで飛んできたんだ。早馬なんて久しぶりだったから足腰痛くて敵わないんだ、お手柔らかに頼むよ」

         

         飄々と返すのは 浮雲耶宵 うきくもやよい 。かつて覇を唱えんとしていた瑞泉家の重臣として辣腕を振るっていた彼女は、主君の失した今もなお瑞泉の政局の一翼を担っている。
         手で顔を扇ぐ浮雲は、会場を見渡して驚きを顔に浮かべる。

         

        「……壮観だねえ。龍ノ宮、瀧口あたりの連合に、前の方に陣取ってるのは……蟹河や天音あたりの桜花拝連中かい。碩星楼からも佐伯のやつがいるし、でかいとこが勢揃いで随分と景気が良いこった。場所柄、間に合うところは全員来てるんじゃない?」
        「流石に西と北の連中は無理だろうからな。古鷹の姫さんなんて、延々馬に乗せるわけにもいかんしな」
        「そうさねえ。そんでもって――」

         

         一息置き、浮雲は意を決したように視線をさらに奥へと向ける。
         臨時の大家会合。全ての家が集うまで待つべきと主張する人間はどこにもいない。
         既に参列している彼女たちの姿を見て、異を唱えられる者がいるはずもないのだ。

         

         開会を待つのは、五柱ものメガミ。
         シンラという、この地の知性を象徴する者。
         ハガネという、この大地を象徴する者。
         そして、ユリナ、ホノカ、ウツロという、今や桜花決闘をも象徴する者。

         

         

        「はは……壮観を通り越して絶景さね」

         

         軽口を叩く浮雲の頬は引きつっている。
         五柱のメガミが一つの場に参列するという状況は、ただそれだけで一大事に他ならない。
         さらには、浮雲も、銭金も楢橋も、過去にメガミが集った大事件の当事者として、一様に悪寒を感じざるを得なかった。
         浮雲がその状況にようやく至ったのを見て、銭金はせせら笑う。

         

        「これで、あの方々ですら『集められた側』なのだからな」
        「冗談きついよ、まったく。ま、議題が本当ならさもありなんといったところさね……」

         

         事前に伝えられているのは、『桜降る代の外より三柱のメガミ来たる』という趣旨のみ。
         それだけでも、この地に根ざした桜と共にあるメガミという常識を揺さぶるものではあるが、それを当のメガミ本人が俎上に上げているのだ。それだけでは終わらないと、参列者たちは確かな予感を胸にここへ集っている。

         

         そうしているうちに、城の手の者によって障子戸が閉められ、大広間に浅く広がっていた人の声が途絶えていった。
         この地を揺るがす会合が、始まる――

         

         

         

         

         


         す、と廊下側の襖が開かれた。
         開会の刻を示すように現れたのは、二柱のメガミ、ユキヒとサリヤ。今回の会合の発起人である。大家側にこの異例の大家会合を取り切れる者はおらず、議長としてユキヒがこの場に立つとの知らせは人間・メガミ問わず多くの者を驚かせた。
         自然体のままに座すユリナもそのうちの一人であった。議長には適任でこそあるが、どちらかといえば仲を取り持つように問題を解決する側の存在が、表に立ってまで問題を運んできたのだ。機も相まって、知らせに二つ返事で龍ノ宮に向かったことは記憶に新しい。

         

         ユキヒは奥に設けられた席に向かう中、この大広間に集った面々を見渡していた。ただ、途中からその眼差しに、困惑の色が微かに滲む。
         前列にいたハガネは、そんなユキヒに向かって「はいはーい」と手を挙げた。

         

        「ヒミカっち、『後でかいつまんで聞かせてくれ』だって」
        「そう、ありがとうね」

         

         礼を述べるユキヒはしかし、微笑みを僅かに陰らせているようだった。首を傾げるハガネだったが、そのままユキヒが膝を折ったのを見て、居住まいを正す。
         そしてユキヒは一息ついてから、開会を告げた。

         

        「急なお話にもかかわらず、本日はお集まりいただきありがとうございます。本会の議長を務めさせていただきます、ユキヒでございます」

         

         その声色は、普段のたおやかなものではなく、メガミとしての威厳に満ちたものだ。参列した人間たちが改めて姿勢を正すだけではなく、ユリナを始めとしたメガミたちもまた表情を引き締めた。
         続けてユキヒは、

         

        「大家会合の名前をお借りしているのに、全大家の集合を待たずに始めるというのも些か心苦しくはありますが、今回はいち早く皆さんのお耳に入れたいことがございます。ここにお見えになっていない方々にも、今日の出来事を是非お伝えいただけると助かります」
        「…………」
        「一方で、本日の主題は同時に我々の常識を揺るがすものでもあります。故にまずは、この桜降る代を牽引する皆さんにお力添えいただきたいと考えました。ここから広く人々に伝えて良いものかどうか、本日の結果を踏まえた上で、どうかご配慮のほどお願いします」

         

         無用な混乱は避けて欲しいと、いちメガミが予め釘を刺す前置きに、参加者の中から息を呑む音が聞こえるようだった。
        皆がそれを理解したと見たか、ユキヒは間を設けてから言葉を継いだ。

         

        「さて、それでは早速本題に入りたいと思います。私たちは先日まで、遠い海の果ての地ファラ・ファルードに滞在をしていました。元はと言えば、枯れかけた桜しかないような彼の地において、神座桜が立派に咲き始めた異常現象が渡航の契機だったのですが……」

         

         その土産話を期待していたホノカも、今はユリナの隣で真剣な顔をして耳を傾けている。
         ただ、ここまでであれば、共に席につくシンラからも聞いていた内容だ。
         ユキヒはその胸中を読んだかのように、先を続けた。

         

        「今からご紹介したいのは、メガミの居なかった彼の地において、その異常な桜より現れた三柱のメガミです」

         

         どうぞ、と。
         一度閉ざされていた襖が再度開き、ユキヒに促された三柱が議場へと姿を現した。

         

         山吹色の着物を腕につっかけるように着崩した栗毛のメガミ。
         萌え出づる草花に袖を通したような装いのメガミ。
         そして、巨大な腕輪を備え、白と桜、さらに濃い灰の衣装を纏った黒髪のメガミ。
         ただ彼女たちが現れた……それだけで、場には瞬く間に混乱が生まれた。

         

        「え、えぇーっ!?」

         

         まず反射的に声を上げたのはハガネであった。彼女は、先頭で入ってきた栗毛のメガミ――ハガネが人間のように一つ歳を重ねる間に、いやに大人びて見えるようになってしまったような見た目の少女に向かって、指を指しながら議場の静謐さを破った。
         次にユリナの意識に入ったのは、隣で口を開けたまま、言葉を失って少し青ざめているホノカである。彼女の視線は最後に入ってきた黒髪のメガミを捉えており、それはウツロもまた同様だった。微かにひそめられた眉が、警戒の証であるとユリナは気づく。

         

         さらにハガネの声を皮切りとして、ざわめきは人間の参列者たちにも伝播していく。
         ちらり、と背後を窺えば、全員がありありと驚きを顔に浮かべていた。ただ、その中でも最も強く、そして毛色の異なる反応を見せているのは、ユリナたちとほぼ同じ列に陣取っていた桜花拝宮司連合の面々であった。

         

        「よ、よもや……本当に……?」
        「今までずっと、彼の地にお隠れなさっていたのかもしれんぞ……!」

         

         彼らはホノカとは逆に、三柱目のメガミを目の当たりにしてから、高揚とでも言うべき情動を露わにしていた。始めは小声で勝手な憶測を隣同士で語っていたが、時を経るごとにつれて彼らの声がざわめきをさらに大きなものとしていく。

         

         その驚愕のさざなみに打たれている当のメガミたちもまた、集った面々を目の当たりにして動揺しているようだ。
         中でも特に、中央に立つ新緑の少女の感情は、容易く見て取れるほどに揺れていた。こみ上げてくる想いに瞳はせわしなく、わなわなと震える口元は、溢れ出しそうになっている感情を辛うじて喉元で留めているのだと示していた。

         

         この場で驚いていないのは、事前に顔を合わせているはずのユキヒとサリヤだけ。
         しかし、この大広間があっという間に動揺で満たされてしまい、ユキヒはどう先へ進めてよいものか切り出しかねているようだった。
         そこへ、

         

        「『お静かになさい……!』」
        「――――」

         

         不思議とよく通る声が、騒々しさをぴしゃりと抑え込んだ。自分がいきなり口をつぐんだことを、後になって気づく者すらいる。
         明確に権能を乗せた、力の籠もった声を発したのはシンラだ。取り戻した静寂に、彼女に対してユキヒは小さく頭を下げる。
         ユキヒは、三柱に腰を落ちるけるよう促してから、

         

        「人によって驚かれる点は様々かとは思いますが、質問を含めて、どうか今しばらく胸の内に納めておいてください。混乱はごもっともですから、これから少しずつ解きほぐしていこうと思います」

         

         そして議長は、会を前へと進める。
         事の重大さに気づき始めた人々の背中を、後押しするように。

         

        「まずは、彼女たちから一人ずつお話をいただきます。ご静聴ください」

         

         

         

         

         


        「じゃ、あたしから手短に済ませるよ。二人ほど込み入ってないし」

         

         そう言って手を軽く挙げたのは、ユリナたちから向かって一番左に座る少女だ。
         彼女はまず、己の名を名乗った。

         

        「あたしはハガネ。大地を象徴するメガミ」
        「……!」

         

         間違いなく、それは少女から発せられた言葉だった。
         シンラの影響がまだ残っているのか、聴衆から声が上がることはない。それはユリナのよく知るハガネも同様だったが、彼女からはもう、少女が現れたときの驚きは感じられない。
         ハガネと名乗った少女は、こちら側のハガネに少しの間、目を向けながら、

         

        「一言で言うと、そこにいるあたしとは、違う歴史を辿ったあたし、ってところかな。あたしたち三人とも、その違う歴史が流れてる別の世界からやってきたんだ」
        「…………」
        「あたしたちの居た向こう側の世界からこっちの世界には、ここにいる二人の権能と鏡の力を合わせてやって来たわけだけど……あー、難しいよね。今はそうだなあ、橋を繋げて隣町に来れた、とでも思っておいて。後で分かるからさ」

         

         最後の例えがなければ、ユリナは早くも理解を放棄してしまうところだった。聞き手は皆難しい顔をしている者ばかりで、あまり納得の空気が漂っているとは言い難い。こんな荒唐無稽な話が始まるからと、ユキヒは質問を諌めたのかもしれない。
         しかし、彼女の言葉からはっきりしたことは確かにある。
         少なくとも、メガミにとっては。

         

        「やっぱり、あたしなんだ」

         

         

         こちら側のハガネが、得心がいったように口にする。
         それに向こう側の世界のハガネは、こくりと頷いて見つめ返した。

         

        「その姿、ちょっと懐かしいなあ」
        「あたしはちょっとむずかゆいんだけど……なんだか、変な姿見でも見てる気分」
        「あはは、根っこは同じだからね」

         

         言葉を交わす二柱の姿は、まるで年の近い姉と妹のようだった。けれど、向こう側のハガネは優しく相手を見ているようでいて、声に出さない複雑な想いが時折瞳をよぎっていた。
         メガミにとって顕現体とは、あくまで仮初めの身体でしかない。そこから滲み出るメガミ本来の気配は偽れるものではないが、ユリナも肌身でこの二柱があまりに似通っていると感得していた。いわんやハガネ本人にしてみれば、だ。

         

         もちろん他人がそれを否定できるわけもなく、多くの説明を欠いた自己紹介が戯言ではないのだと、二柱の様子に聴衆は納得を強いられていた。
         向こう側のハガネは、これを『込み入っていない』と言った。
         ならば後二柱の事情とは、とユリナが不安に思ったところで、そのハガネが議長の代わりに次へと促した。

         

        「えっと、次どっち?」
        「では、私が」

         

         名乗りを上げたのは、白と桜色を基調とした衣で装った黒髪のメガミ。
         彼女は短く嘆息するように息を整えると、

         

        「私はヲウカ、向こう側の世界において主神を務めておりました」
        「おぉ……!」

         

         その名が声になった途端、抑えきれずに漏れた歓声が右手側から上がった。思わずユリナが眉をひそめる。
         ヲウカは彼らへと少しばかり淡く微笑みかけて窘めてから、

         

        「こちら側へ来た目的については、後ほど詳しくお話します。ハガネの言う通り、皆さんにとってはとても理解し難い話でしょうから、順を追うことにしましょう」
        「…………」
        「一通り、こちらの事情を説明した後で、改めて考えていただいて構わないのですが……最終的には、私たち三人をこの……桜降る代、に受け入れていただくことが、今の私の望みです」

         

         

         彼女はそこで言葉を切り、目を伏せた。しおらしいとまではいかないものの、その姿からは憂いが滲んでいる。
         そんなヲウカに、聴衆の一部からは喜色を隠しきれない声が投げかけられる。

         

        「ヲウカ様!」
        「顔をお上げください……!」
        「再びお導きいただく日が……」

         

         桜花拝宮司連合の面々だけが、まるで自分たちのほうが救いを得たとばかりに彼女を求めていた。彼らは皆、蟹河に本籍を置く宮司たちであり、この場への参加が間に合った宮司連合の大多数を占めている。
         やがて、彼らの中心に位置する、顔にひときわ皺の刻まれた老齢の男が言い放つ。

         

        「勿論ですとも!」

         

         代表格である彼に、周りの宮司たちが発言を譲る。
         今にも立ち上がらんばかりの彼は、衆目を集めていることを歯牙にもかけずに、

         

        「もしやと思っておりましたが、やはりヲウカ様であらせられましたか……! 我々が貴方様を受け入れぬ理由がどこにあるでしょう。これでこの地の未来は保証されたも同然!」
        「ああ、そう言っていただけるのですね」
        「しかし、なんと高貴な佇まいであらせられるか……これこそ、本物にしか持ち得ぬ美しさですな」

         

         びくり、と隣でホノカの肩が小さく震えた。ユリナは露骨に顔をしかめ、ウツロも同様に嫌味を垂れた男に非難の目を向けた。
         ホノカがヲウカの転生した存在であることに対しては、主神ヲウカの信奉者たちであった桜花拝宮司連合の中でも未だに態度が分かれている。中にはこうして、ホノカ自身を認めない者たちもおり、ユリナたちが顔を合わせるたびに諍いが起きる。

         

         普段であれば、決着のつかない口論がこれから始まるところだ。
         しかし、ユリナが口火を切る前に、芯のある老女の声がそれを遮った。

         

        「正村殿、仮にもそのヲウカ様の御前ですよ。言葉は選びなさいな」
        「……失礼した」

         

         天音に根ざす宮司として同席していた 高野君江 たかのきみえ が、ユリナたちに代わって男を諌めた。鼻を鳴らして居住まいを正した彼の態度にまだ憤慨は収まっていなかったが、高野の鋭い眼光によってユリナたちもまた釘を刺される。

         

         視線を戻す最中、二つ隣に座っているシンラの姿が目に入ってぎょっとする。彼女がヲウカを蛇蝎のごとく嫌っていたことを思い出したのだ。
         けれど、シンラはいつもの内面の読めない淡い笑みを湛えているだけで、敵愾心が湧き出しているなどということはなかった。それがこの場をこれ以上乱さないためなのか、あるいは他に思うところがあるのか、ユリナには判然としないまでも、杞憂に内心胸をなでおろす。

         

        「で、では、最後に」
        「……うん」

         

         途切れてしまった空気に、ユキヒは慌てて会を進行させる。
         残るは、真ん中に座った新緑の少女。
         荒唐無稽でこそあるが、ハガネも、ヲウカも、何者であるかはまだ理解が容易だった。どちらもよく知っているメガミなのだし、感覚はそれを否定しない。

         

         だが、最後の彼女だけは、ユリナの知るどのメガミともうまく符号しなかった。
         その答えが、語られ始める。

         

        「あたしはメグミ。象徴してるのは植物と開拓、かな」

         

         知らない名前に、一同は続きを待つ。

         

        「あはは、ごめんねー。かな、なんてさ。元々人間で、向こう側の世界でメガミになってそんな経ってるわけじゃないから」
        「…………」
        「今日は、みんなにあたしたちのことを、向こう側のことを、知って、もらい――もらい、たくて……っ……」

         

         どこか飄々としていそうだった彼女の口から、声が途切れる。
         押し留めていた感情が溢れたように、彼女の瞳から涙が流れ始めていた。
         すかさずユキヒが声をかけるが、

         

        「メグミさん……? 無理は――」
        「ご、ごめん……ちょっと……」

         

         手は助け舟を断るように制止を示している。
         ぐしぐし、と乱暴に袖で涙を拭うが、一度切ってしまった堰は戻らない。
         メグミは少し泣き声になりながら、

         

        「ここにいるみんなからすると、絶対訳わかんないと思うんだけど……ごめん、これだけは言わせて」

         

         そう前置きすると、彼女は聴衆の一角に熱い視線を注いだ。
         そこに座していたのは、旧龍ノ宮連合に類する者たち。その中でもとりわけ、赤東方面を治める大家の面々である。
         困惑する彼らに、メグミはくしゃりと歪めた笑顔でこう告げた。

         

        「じっちゃん……みんな……また会えて、よかったっ……!」

         

         心の底から再会を喜び、安堵した者の顔だった。メガミという肩書を忘れてしまうくらい、それはただの一人の少女が離れ離れになっていた家族に見せるような、そんな様子だった。今にも飛び出して、輪の中に飛び込んでいきそうである。
         一方、急に再会を祝された赤東の者たちは、一体誰のことを指しているのだと仲間内で見合っていた。メグミの言う通り混乱した挙げ句、もちろん誰も彼女のことを知らなかったためか、一様に首をひねっていた。

         

         このような大事な会合で妄言を吐いたとなれば、当然のようにいい扱いはされない。無視して話を進めてもらえればいいほうだろう。
         ただ、赤東の面々は、一方的に伸ばされた彼女の手を、恐る恐るだが掴もうとした。

         

        「いったいあんたは……?」
        「お祀りしてるメガミ様でもねえし、めぐみなんて子聞いたことねえが……どこん家の子だったんだ?」

         

         真摯な感情に邪険にするわけにもいかなかったのか、優しく問いかけた。
         メグミはそれにほっとしたようで、気持ちを切り替えるように頬を叩く。目端に残った涙を、身なりからすると逞しい指先がすくった。
         深呼吸一つしてから、彼女は問いに答える。

         

        「あたしの人間だった頃の名前は、 瀧河希 たきがわめぐみ 。でも、それは訳あって名乗ってた通名なんだ」

         

         そして、真名が告げられる。

         

        「あたしの本名は 龍ノ宮希 たつのみやめぐみ 。龍ノ宮一志の、実の娘だよ」
        「……!?」

         

         驚愕のあまり、誰もが絶句する。
         その男の名がここで出てくるなどと、誰が想像していようか。
         あまつさえ、彼の遺志を継いだ旧龍ノ宮連合の者たちがいる前で。
         ……あまつさえ、彼の首を断ち切った者のいる前で。

         

        「龍ノ宮さんの……」

         

         ぽつり、と次に作られた声は、ユリナの呟きだった。
         それを耳にしたか、メグミはユリナへと顔を向けた。メグミがどこまでこちらの事情を知っているか、推し量ることはできなかったが、少なくともその眼差しに敵意はなかった。

         

         彼女の正体に心当たりがあるはずもない。
         ユリナはここに来てようやく、ハガネが言っていた『違う歴史』という言葉の意味を実感し始めていた。
         英雄譚の中で没したはずの男の娘だというのなら。
         跡取りすらいなかった男の実の娘だというのなら。
         メグミは、命運を受け入れたように、その事実を告げる。

         

        「うん……だから、ここにあたしはいない」
        「…………」

         

         それにどう返していいのか、ユリナには分からなかった。
         ありそうにもない言葉を探しているうちに、メグミは皆へと向き直る。
         彼女が辿った歴史を、今こそ詳らかにするために。

         

        「ここにいるみんなに知ってほしい。向こう側で、何があったのか」

         

         

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        『八葉鏡の徒桜』エピソード7−1:序

        2020.08.07 Friday

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           ぱちり、ぱちり。
           扇を一段だけ開き、また閉じる。そんな乾いた音が、トコヨの手元から生まれている。彼女のその仕草が、考え込みすぎて自分の世界に没頭しないようにするためのものであると、天詞は浅からぬ付き合いで知っていた。

           

           あるいはそれは、語ろうとしている何かを直視しすぎないようにするためかもしれない。
           僅かに目を伏せて言葉を選んでいるその姿は、悲壮な体験を客観的に見ようと、記憶の扉を慎重に開こうとしているようだ。

           

          「何から話したものかしらね……。随分と入り組んだ話だし、あたしと細音が視たものも大分違いそうよね」

           

           稽古ではずばずばと的確に問題点を指摘してくるトコヨらしくない物言いだった。それが、彼女が未だ核心を得ていないのか、それとも結論から述べることが憚られているのか、判断のつかない天詞には息を呑んで待つことしかできない。
           トコヨは隣のサイネに視線を送り、

           

          「どう? 何か、分かりやすい『違い』でもあるといいのだけど」

           

           チカゲもミズキも、言外にかわされた内容を理解できていないようで、サイネの反応を黙して待つ。
           ただ、彼女の反応は、糸を解しきれていないといった様子のトコヨとはまた異なっていた。

           

          「はい……私からお話するべきでしょう」

           

           自分だけがそれを知っており、いよいよそれを語るべき時が来た――重く口を開いたサイネは、確信と共にこの出番を待ち望んでいたようだった。けれど、彼女ほどの武人とあろう者が言葉を繰るためだけに息を整える様は、肩の荷を下ろすだけでは済まない何かがこれから告げられるのだと強く予感させる。

           

           光を映さないサイネの瞳が、その何かを捉えるように揺れる。心なしか昔日を懐かしんでいるように天詞には見えたけれど、すぐに曇って隠れてしまった。

           

          「この地と向こう側が大きく道を違えたのは、おそらく二十年前……あの決闘からでしょうから――」

           

           懐旧を噛み潰すように、サイネは語り始める。
           それは、彼女が未だ人間であった頃、この地におけるかつての英雄譚の幕開け。
           天音揺波と氷雨細音の、最初の決闘であった。

           

           

           

           

           

           


           一歩、ないしは二歩分の距離。それが、刀と薙刀の間合いの差である。
           手を伸ばせばすぐに縮まるであろうその距離は、この銀世界に現れた、刃ひしめき合う決闘の舞台においては絶対的なものとなる。

           

          「はッ!」

           

           懐へ入ろうとする揺波の動きに、薙刀が振り下ろされる。
           予めそこに置いてあったかのように放たれた斬撃に、揺波の前進は拒絶される。思わず足踏みをしてしまい、そこを狙う次の一撃を察知して、一歩だけ下がる。
           少しだけ、揺波の眉がひそめられる。

           

           盲目であることが嘘のように、迎撃は的確であった。
           美しく迷いのない太刀筋は、揺波が今まで相手にしてきたどの相手のものよりも正確だ。打ち合うことすら必要なく、たった一度振り下ろされた刃を見ただけで、この戦いが今まで通りにいかないだろうと彼女の直感が告げていた。

           

          「てやァッ!」
          「……っ!」

           

           追撃として大きく横薙ぎに振るわれた薙刀を、辛うじて刀で受け止める。
           だが、揺波のやるべきことは変わらない。
           ただ勝つために、前に出るのみだ。

           

          「ふッ!」

           

           合わせた刀に力を込め、薙刀の軌道を無理やり明後日の方向へと逸らす。そうして僅かに空いた隙間へ揺波が身を躍らせ、小さく刀を振り上げる。
           細音もそれは想定の範囲内だったようで、急速に引き戻された刃が揺波の肩を捉えた。
           そこにあるのは、揺波を護る結晶たちだ。

           

          「おぉッ!」

           

           砕け散る盾を見送って、細音の胴を斬りつける。
           しかし、細音もまた同じミコト。桜花結晶は等しく彼女たちの力となる。
           揺波の刃は、自分がまたそうしたように、細音の結晶を砕くだけに終わった。
           後手となった彼女に訪れるのは、隙だ。

           

          「やッ、はぁッ!」
          「ぐ……」

           

           下がりながら、それでいて鋭い細音の連撃が、打ち合わせようとした刀を尽く避け、揺波の身体から結晶の成れの果てを吐き出させていく。その精緻さは、一太刀ごとに彼女が集中力を高めていっているようでもある。
           細音が捉えたものは全て断ち切られる、不可視の領域。
           立ち入れば、なます切りにされた上で追い出される、細音の支配圏。

           

           初陣で相手にした偉丈夫のミコトのように、後の先を得意とする者は何度か相手にしたことがあった。けれど、彼らの最も大きな圧力は腕力だ。障害を乗り越えた先に、暴力が待っている――そんな戦法を前にして、揺波は一度その身で攻撃を受けた上で、さらに前に出る解決を図っていた。

           

           細音の圧力は、技だ。
           一度受けきってしまえば、撹乱する揺波を捉えきれない腕力だけのミコトとは違い、受けられてもなお臨機応変に斬撃を繰り出してくる細音が相手では、払う犠牲が多くなりすぎる。
           細音自身もまた、それを理解した上で、後の先を戦術の中核に据えているはずだった。
           だからこそ、

           

          「……!?」

           

           それでもなお飛び込んでいく揺波に、細音の顔に動揺の色が浮かぶ。
           揺波は斬撃の雨に怯むことなく、その身体から護りを吹き散らしながら、噛み付くように刀を振り下ろした。

           

          「あぁッ!」
          「っ……」

           

           一閃された胸元から溢れる桜吹雪は、揺波の払った代償に比べたら小さなものだ。
           そのまま揺波は、細音が力の入らない至近で振るった薙刀と鍔迫り合いを演じながら、ぐいぐいと彼女を押していく。
           一瞬、互いの息遣いだけが場に響く。

           揺波が睨め上げる細音の瞳は、やはり揺波を映すことはない。けれど、意思は確かに交差しているのだと、微かに歪んだ口端が示していた。

           

          「ぐぅっ……!」
          「……!」

           

           膠着状態を破ったのは揺波だ。薙刀を払い除け、大上段に刀を振り上げる。
           しかし、刀が振るえる位置というのは、薙刀を振り落とせる位置ということでもある。短く持ったそれを盾に使っても構わない。揺波が望んで組み合ったにもかかわらず、離れるときには一方的に不利であった。

           

           細音が選んだのは、護りの少なくなってきた揺波の頭に刃を叩き込むこと。
           一拍にも満たない間に下された両者の決断。
           分は、揺波にあった。

           

          「な……!」

           

           彼女は刀を振り上げたまま、一寸足らずの距離で細音の刃をやり過ごした。
           相打ちする覚悟などではなく、細音がきちんと隙に合わせて打ち込んでくれると信じ、即座に攻撃に移らなかったのである。

           

          「やあぁッ!」

           

           肩口からの、大胆な袈裟斬り。盾を取り戻さずにいた細音がまともにそれを受ける。
           続いての二撃目は、引き戻した薙刀の柄で防がれてしまうものの、さらに手首を返しての細かな一刀が相手の腕を傷つけた。

           

          「ぐぅ……!」

           

           たまらず薙ぎ払ってきた細音に、揺波もこれ以上の連撃は不可能と判断したのか、刀を盾としながら細音が後退していく様を見送っていた。
           一気呵成に勝負を決めてしまうには、結晶が心許ない。猛烈な攻めは、猛烈な返しを相手にしては慎重にならざるを得ない。必要経費を支払って傷を与えてきたのだとしても、勝負を決めるために経費を払って先に結晶が尽きてしまったら元も子もない。

           

           しかし、それでいて細音には依然近寄り難い。揺波の間合いに再び入るまで、同じような打ち合いが行われたとしたら、敗北するのは揺波であった。
           このままでは、勝つことができない。
           自分の存在意義を、果たせない。

           

          「さあ……どうしますか?」

           

           純粋に、揺波の出方が楽しみといったように、細音は問う。
           それに揺波は、細音を見据えたまま、深く息を吐く。迷いが、白い吐息となって銀世界に消えていくようだ。

           

           その直後だ。
           揺波は、前に一歩踏み出すと同時、空いた右手を袖に突っ込んだ。
           目の見えない細音にその様子は判然としないようで、次の行動にもまた、疑念を呈するのみだ。

           

          「何を――」

           

           

           ほんの一瞬、揺波はその姿勢のままで固まっていた。否、一瞬と語るのも憚られるほど濃密な彼女たちの時間の中で、細音は確かにそのように感じていた。袖に差し込んだ右手を出すのを僅かに躊躇したような、刹那の交錯が命運を分かつ決闘においては無駄でしかない動きだった。
           無論、明確な隙が生まれれば、後の先を志向する者であっても前を踏む。
           小細工を弄する気配を孕んでいたのであればなおさらだった。

           

          「おぉッ……!」
          「ぁ――」

           

           揺波の迷いを断じるように、薙刀の刃が迫る。
           自らの愚行を悟った揺波は、猛くも落ち着いていた今までとは裏腹に、焦りを顔に滲ませて今度こそ袖から右手を解き放つ。

           

           ぱらぱら、と。
           雪と混じり合った地面に、指先大ほどの黒くて丸い何かがこぼれ落ちる。
           揺波の手から解き放たれたそれは、メガミの力を借りたものでもなんでもない。故にそれは、もしも先んじて放たれていたのであれば、細音は一切身構えることができなかっただろう。

           

           癇癪玉。
           聴覚を鋭敏とする者にとって毒となる、大きな音を生み出す小道具。
           この奥の手があったからこそ、決闘前の揺波は相手が耳聡い盲人であると知って幸運に感謝しさえした。
           だが、およそ刀と薙刀の真剣勝負には似つかわしくない搦め手は、あと一寸の命を断ち割るべく振り落とされていた刃には、もはや無意味であった。

           

          「っ、うッ……!」

           

           盾とする結晶もなく、慌てて刀を起こすものの、細音の刃はそれを予想していたかのようにするりと身体へ吸い込まれていく。
           そして、これを皮切りとして生み出されるのは、抗いようのない刃の嵐。
           癇癪玉が掻き消すはずだった猛威の中で、苦し紛れに突き出した刀は、空を切った。

           

           ぱぁん! と。
           そこでようやく、求めていた破裂音が響いた。突然のことに立会人たちもどよめくが、全て天音の使用人である彼らの声は、舞台に生まれていた光景によって消えていった。

           

          「あ……あぁ……」

           

           幼い身体が、膝から崩れ落ちる。取り落した刀が、細音の足元で転がった。
           とどめの一撃のために踏み込んでいた細音は、足の裏で爆ぜた癇癪玉の音に顔を歪めていたが、瞼を閉じたまま、睨みつけるように揺波のことを見下ろした。

           

          「見損ないました……!」

           

           侮蔑の言葉を吐き捨てて、細音は息を整える間もなく桜鈴を回収、そのまま背中に怒りを漲らせながら足早に去っていってしまった。
           己の存在意義を果たせなかった少女を、ただ一人、決闘の舞台に残して。
           この日、天音揺波は初めて敗者となった。

           

           

           

           

           


           その『事の起こり』を語り終え、サイネは沈痛な面持ちで湯呑に手を伸ばした。
           聞き手たちが呑み込むための時間が、静かに過ぎていく。突飛な内容に、誰もが少なからず眉間にしわを寄せていた。
           その中で、まず声を作ったのはチカゲだった。

           

          「あ、あの、念の為ですけど……それは――あなたが言うところの『この地の歴史』では、ユリナが勝利した決闘、ですよね? 癇癪玉で、あなたを翻弄して」

           

           英雄譚における彼女たちの初戦というのは、両者の因縁の起こりであると共に、勝利のためならば手段を選ばない当時の天音揺波の気質にも言及する逸話として登場する。天詞ももちろん知っており、それは他の聞き手たちも同様のようだった。
           チカゲの確認に、サイネは「はい」と短く認めてから、

           

          「この姿になってから私は、この地と向こう側……二つの歴史についての記憶を持つようになりました」
          「…………」
          「……あのとき、天音がほんの僅かに逡巡したのか、それとも私が、ほんの僅かに見切るのが早かったのか……こうして思い返し、二つの記憶を比べてみても判然としません。それだけ、あの決闘は紙一重でした」

           

           そして、とサイネは一呼吸置いた。

           

          「この決闘が、最後の決闘でした。それから天音家は衰退し、表舞台から姿を消します」

           

           誰もが知る事実とは違うのに、まるで実際に見てきたかのような物言いだった。
           いや、と天詞は胸中で打ち消す。
           サイネは本当に、『視た』のだ。
           そしてもしもその光景の中で、英雄譚の幕を開けるはずの幼き戦神が、早々に膝をついたというのなら。

           

          「つまり、細音の考える向こう側っていうのは――」

           

           一同を代弁するかのように、トコヨが続く。
           この場で生じた認識の差異こそが、彼女の言っていた『違い』。
           それを端的に示すべく、サイネは言葉を結んだ。

           

          「はい。向こう側は、天音揺波の敗れた――いいえ、天音揺波の……いない世界です」

           

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          『八葉鏡の徒桜』エピソード6−7:そして彼女は家へと還る

          2020.07.30 Thursday

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             吹き込める強い風の音が、背後で化け物の嘶きのように不気味に響く。外の明るさが満足に届かない洞窟の奥へと進んでいることもあって、袋小路へと追い立てられているような錯覚に陥ってしまう。ただ、その程度の不安でヤツハが足取りを重くすることはない。

             

            「…………」

             

             黙々と、まだ節々に違和感の残る身体を引きずって、凍える洞窟をヤツハは進む。
             コルヌとの桜花決闘に勝利したヤツハたちは、休息もそこそこに目的地への歩みを再開していた。どこを見ても白一色の風景では入り口を見つけるのに一苦労かと思われたが、クルルの記録は正しくかの場所へと導いてくれた。

             

             ヤツハとしては、もしかしたら決闘後にもコルヌとひと悶着あるのでは、と少なからず心配をしていたが、それは杞憂だった。自身がさらに費やす言葉を持たなかったように、コルヌもまた黙って一行に背を向け、吹雪の中へと消えていった。
             ただ、それが敗者としての潔さから来るものかと言われれば、それは違うのだとヤツハは考えていた。決着のあのとき、己の意思を認めてくれたであろうコルヌもまた、それ以上語る言葉を持たなかったに違いなかった。

             

            「コルヌさん……」

             

             結局、この帰り路では面と向かって呼ぶことのなかった名を、口の中で唱える。
             コルヌという存在は、ヤツハと桜降る代の間での不和の象徴であった。右も左も分からない状態で向けられた敵意は、どれほどこの地を知っても、どれほど他人に良くされても、解消されることのないしこりとして残り続けていた。

             

             けれど、道を譲ってくれたあの背中を思い出すと、この極寒の中でも少しだけ心が温かくなる。それが人肌でじわりと雪が溶けていくように、今はそのしこりが消えていくように感じていた。
             自分がメガミでないのだとしても、この地に居てもいいように思えてくる。
             瑞泉で事実を突きつけられてからこちら、どこか心の片隅に居座っていた、この地へのよそよそしさにどうにか別れを告げられそうだった。

             

            「…………」

             

             ところどころ氷が這っている以外、洞窟はなんの変哲もない景色を晒していた。目覚めたときは地面が道標になっているかのように線状に凍っていたが、今は守護者の足跡はどこにもない。流石に足元が不確かになってきたのか、クルルが絡繰の明かりを取り出した。
             この頃にはもう、遥か後ろで叫ぶ吹雪の声はか細い囁きほどになっていた。時折、凍った地面を踏みしめる音のほうがよく響くほどだった。

             

             明かりが仄かに照らす洞窟の中は、ヤツハの記憶のそれよりも随分と広く感じられる。頼りない明かりしかなかったこともそうだが、風景に目を向ける余裕があまりなかったのだろう。天井のつららが、人の介在のなさを物語るように肥え太っている。

             発ったときには見えなかったものが、帰り着いた今、はっきりと見えている。この先に待っているだろうアレもまた、今度は答えをもたらしてくれるかもしれない。そんな真実へ近づいている高揚感が、ヤツハの歩みを止めさせない。

             

             きっとそれは、ヤツハだけのものではなかった。
             隣を歩くハツミも、そして何よりもクルルですら、終着点を目前に控え、何も語ることはなかった。最後には静謐さすら感じられる沈黙が残り、急いでいるようにも聞こえる三組の足音だけが、洞窟に広がっていた。
             やがて、前からやんわりと吹き返してきた空気が、肌を撫でた。
             感じた空間の広がりに、クルルが明かりを前へと掲げる。

             

            「あっ……」

             

             そこでヤツハを待っていたものを見て、彼女は声を上げた。
             洞窟の最奥に設けられた、不自然に切り取られたような空間。今までのありのままだった道とは違い、一歩足を踏み入れるだけで、寝転んだとしても痛くないほど地面が平らに整えられているのだと分かる。

             

             そして、その石床から這い出すように隆起するもの。
             遠目からは、長い年月を経た樹の根に見える何かが、部屋の突き当りから外を望むかのように腕を伸ばしていた。照らし出された表皮に植物の生々しさは薄く、その硬質さは石のそれを思わせる。

             

             さらに、当時と変わらず、目を引くソレ。
             樹の根に絡みついているのは、まるで色とりどりの鉱石の板を貼り合わせて繋げたような、奇妙な結晶質の蔦。クルルの明かりが小さく揺れるたびに、その光を受けて赤から青、緑や黄色といった色に輝きが変化する。神秘的と表現するにも異様に過ぎる、自然物であることを認めがたい見目であった。

             

            「そっか……」

             

             小さな納得が、口からこぼれた。
             桜降る代を巡った今のヤツハには分かる。地面より突き出したその樹の根は、かつて神座桜であったものの一部なのだろう。もはや見た目にも温もりはなく、あのとき周囲に散らばっていた桜花結晶と思われる小さな欠片も残っていない。枯れた大樹は、凍てつく大地の礎としてここで静かに眠り続けていたのだ。

             

             そんな樹の根本で、ヤツハは目覚めた。
             そして今、真実を求めて帰ってきた。
             私は誰なのか――あのときは名前以外に何も答えられなかった疑問に、今度こそ、はっきりと解答を与えるために。

             

            「ここです。ここが、私の知る最初の場所です」

             

             目的地に辿り着いたと、同行者に告げる。声の反響も収まって再び訪れた沈黙の中、ハツミの驚きの声が口に出さずとも伝わってくるようだった。

             

            「おぉ……」

             

             クルルが感嘆を漏らしながら、部屋の入り口の脇に明かりを置く。彼女たちには十全に照らされた空間には、やはり樹の根と蔦以外には何もなく、訪れた者は否応なしにソレと向き合うことを求められてしまう。
             けれど、ヤツハにはそれが、かえって決意が鈍らなくて済んだと思える。

             

            「これがウワサの……ではではやつはん」
            「……はい」

             

             きらきらと輝くクルルの瞳に、はにかんで応える。
             けれど、一歩前へ出たところで、ハツミの切なげな声が袖を引く。

             

            「あ……」

             

             ヤツハへと伸ばそうとした手を、途中で留めていた。事ここに至って、自分でも抑えきれなかったとでも言うような沈痛な面持ちで、その手を反対の手が捕まえていた。
             その顔を突っつけば、不安が中から飛び出してきそうなほど、ハツミはヤツハへの心配を露わにしていた。その瞳には小さく期待も宿っていたものの、クルルと比べたら水面に映る月光のようにおぼろげであった。

             

             ハツミはこの場に相応しくない自らの不手際をごまかすように、苦笑いをして今度こそヤツハを送り出す。こくり、とヤツハはそれに、自信の宿った笑みを浮かべて応える。
             とつ、とつ、と湿った足音と共に、部屋の奥へ。
             ヤツハの身体が明かりを遮っても、奇妙な蔦は、影の中でその独特な輝きを放ち続けている。

             

            「……ただいま」

             

             膝を折り、根の這った地面を指先が撫でる。
             間違えることはない。まさにこの場所で、ヤツハは目覚めを迎えた。あらゆる感触が、帰り路の終わりを告げていた。
             何もかもを失くしていた自分が、今度はここで、それを取り戻す。

             

             そのためにどうすればいいかは、もう分かっている。
             瑞泉でできなかったことを、もう一度。皆の前で――

             

            「…………」

             

             そっと、歪に輝く蔦へと手を伸ばす。
             どういった感覚かは、前にハツミに教わったものを参考に。
             けれど、何故だろう。ヤツハはそれを、もっと前に知っていたような気もしていた。

             

             そして、指先が蔦へと触れようかというそのときだ。
             小さくて、青白い光が、洞窟の中に生まれた。

             

             

            「……!」

             

             その冷めた光は、指先を中心として徐々に広がり、ヤツハを包み込むまでとなる。
             極大に至った輝きに、背後から耐えかねたようなうめきが聞こえる。けれどそれも、曖昧になった感覚の波に押し流されてしまう。

             

             自分が、この光に還元されていく。
             けれどもそれが、当たり前のようでもある。
             初めてなのに、どこかその感覚がすとんと胸に降りてくる。
             きっとこれが、あるべき場所へと帰るということ――

             

             

             

             


             光が消えたとき、どさり、とハツミが膝から崩れ落ちた。
             あの夜空から産み落とされたような人の形は、跡形もなく消え去っていた。

             

             ここにはもう、ヤツハはいなかった。
             神座桜に還った――のではない。
             二柱の視線の先で、ヤツハが還っていった奇妙な蔦が、異質に輝き続けていた。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             


             ……………………、
             …………………………………………、
             …………………………………………………………。

             

             ……そうだね。彼女はこうして、還りついたのだろう。
             これで彼女の旅は終わり。すべてが納まるべきところへ納まり、彼女は暖かく迎え入れられる。そうであれば……、そうなるのであればカナヱもそれが望ましいと思うよ。

             

             ……………………、カナヱは、わからない。
             彼女が……ヤツハがこれからどうなるのか。彼女が何者なのか。カナヱは、知らないんだ……。
             カナヱは…………、

             

             …………いや、すまない。

             

             こうして彼女の旅を見届けた今、カナヱたちにやり残したものはないはずさ。
             ふたつの舞台へ、目を遣ろう。
             先の幕引きで伝えた通りだ。一方は彼女らの円舞から僅かに数日後。手の中に輝く欠片の物語。もう一方は……、東の海の物語から数か月後にして、先の舞台よりは過去の話。海を越えた先での、一大事。

             

             行こう。カナヱたちは、ただ見届けるだけなのだから――

             

             

             

             

             

             

             

             


             古鷹という街は、その来歴からして、顕現したメガミをしばしば見かける都である。特に近年では、前当主が凶刃に斃れた折、メガミ自身が幼かった現当主に代わって政に関与していたほどだ。

             


             その現当主たる古鷹天詞は、二柱のメガミに直々に教育を施されていたほどであり、メガミと対面するのも慣れていたはずだった。

             

            「…………」

             

             だが、と表情には出さずに、久方ぶりの畏れを呑み下す。
             古鷹の屋敷、その奥まった場所に位置する広間では、空気が静かに張り詰めていた。火急の事態ではなく、喧騒も対立もない。それでも、平時とは明白に異なる気配が屋敷を包んでおり、その近寄りがたい緊迫感はあえて人払いをする必要すらなかったかと思わせるほどである。

             

             その空気を生み出している原因は、いっそ壮大とも言える光景が物語っている。
             この部屋には今、四柱ものメガミがおわしている。
             それも、観光やら言伝やら、ひいてはただ顔を出しに来たとか、そういった安穏とした理由ではなく、確かな目的の下に集っている。それがどれほど心臓に悪いことか理解しているつもりだったため、隠居間近の仲小路は同席させなかったが、天詞が何度認識を改めたか分からない。

             

             何より、己が世話になったメガミの変容を目の当たりにしてしまえば、彼女たちが具体的にどのような意思を抱いているかなんて二の次である。
             そこには、以前よりも桜色の淡く、ところどころ霜の降りたような装いに身を包むトコヨの姿があった。口元にあてた扇も青ざめたような色合いに染まっており、今から幽鬼でも演ずるのかといった風情であった。

             

             さらに目線だけ動かしてあたりを見渡すと、同じく新たな装いのサイネ、こちらは変わりないチカゲと見える。
             そして――

             

            「ここに皆を集めたということは、事情を説明していただけると期待しておりますの」

             

             四柱目のメガミとしてここに座す、ミズキが端を発した。
             先における稲鳴での一件からこちら、古鷹に留まっていた彼女は、トコヨとサイネの変化を改めて間近で眺め、衝撃を禁じ得ていないようだった。

             

            「だって、その姿は……」
            「ええ、話すわ」

             

             ゆっくりと、トコヨが扇を閉じる。
             彼女の声色に差した恐れの色が、天詞の心を捉える。まるで、来る舞台の山場を想起させるかのように。

             

            「あたしと細音に――そして、向こう側に何があったのかを」

             

             

             

             

             

             


             遠く東の海の果て。異邦の地、ファラ・ファルードの一角は、騒然とした空気に包まれていた。
             詰めかけた民衆を、鎧兜を纏った騎士たちが押し留めている。けれどここに集ったのは暴徒というわけではなく、怒号や暴力の類もほとんど存在しない。貪欲に情報を集めようとしている記者たちですら、騎士たちが示した警戒線に必要以上に近づくこともしない。

             

             野次馬たる彼らの中で飛び交うのは、根拠のない推測や絵空事。
             曰く、八ツ空の神が降臨する前兆である。
             曰く、これこそが彼の地より与えられた真なる恩寵である。
             曰く、人には過ぎた力がついにこの国を滅ぼす。
             興奮や不安を煽るような内容ではあったが、それでも破滅的な混乱が訪れる様子はない。それらが憶測であると理解しているというより、無駄に騒ぎ立てれば決定的な何かが起きてしまうと直感しているようだった。

             

             そんな人だかりの生まれた郊外に、あたかもここが桜降る代であるかのようにコールブロッサム――否、神座桜が堂々とそびえ立つ。
             以前は家屋と肩を並べるほど成長したことが問題になった、その桜。
             今やその姿は、見上げれば首を痛めるほどに、より巨大なものとなっていた。

             

            『皆をもっと下げたほうがいいかしら』

             

             桜を囲む群衆の一部に、そこだけ人が避けたようにぽっかりと空隙が生まれている。サリヤはそこで乗騎ヴィーナに腰掛けながら、この国の言葉でひとりごちた。傍ではジュリアと佐伯も同様に、この異常な光景への思案を続けている。

             

             問題が起きたのは今日の早朝のこと。彼女たちが今注視している桜が、薄く発光を始めたとの知らせが一同を騒然とさせた。

             最初に現場から報告を受けた下級貴族は、当初昨晩の酒が残った連中の見間違いだと思ったという。ただ、彼が仕えるのは、コールブロッサムの管理を担うクラーヴォ家である。使命に従って急行した彼は結局、幹まで光る桜を目の当たりにして大慌てで使いを出し、各所の知るところとなる。

             

             サリヤたちが駆け付けた頃には、騒ぎを聞きつけた人々が既に集まり始めていた。幸運だったのは、ファラ・ファルードの民には理由なくコールブロッサムに触れないという意識が根付いていたことだ。コールブロッサムは貴族の管理下にあり、万一が起きては処罰の対象となる。それゆえ、退避させるのも容易であった。
             それから数時間に亘り、こうして観察を続けている。桜が放つ光は収まるどころか徐々に強まっており、昼下がりを迎えた今、陽光をおしてなお眩さを感じるほどである。

             

            『長丁場も覚悟しなければならないことを考えると、早々にお帰り願ったほうがいいかもしれないな』

             

             そう答えながら、佐伯は臨時に供させた工場の樽椅子に腰掛け直す。彼らのすぐ後ろでは、やって来たはいいもののできることがない貴族たちが、固唾を呑んで見守っている。工場を臨時の基地にする案もあったが、万が一を考えて既に閉鎖した後だった。

             

            『少なくとも、彼らを守るのに身動きが取れなくなるのは避けたいところだ』
            『そうね……みんなとなると私にも荷が重いわ。どれくらい想定するかにもよりそうだけど、付近一帯からの避難もそろそろ考え始めたほうが――』

             

             サリヤはそこで、背後でひときわ大きくなった喧騒に言葉を切った。
             振り返ると、一点を境に人の波が外側へと広がっているようだった。まるで言われるがまま考えなしに何かを避けているようで、生まれた歪みで群衆が押し倒されないか心配になる。
             しかし、窮屈さへの憤りだけではなく、歓声が混ざっていることにサリヤは気づいた。

             

            『道をお開けください! 我々に、神との対話をお許しください!』
            『彼の地の神がお通りになられます!』

             

             張り上げられた声が、ついには人の壁を割った。
             現れた僧衣の集団は、この国に八ツ空の神々の教えを広めるフェラムの司祭たち。その先頭に立つのは、帽子からはみ出した禿頭を輝かせる最高司祭テルメレオその人である。

             

             さらに、生まれた人の道の向こうで、馬車から降りた女の姿を見てサリヤは安堵した。裾を摘んで駆け寄ってくる彼女へ、人々が熱心に祈りを捧げている。簪で留められた後ろ髪からは、結いが甘いのかはらはらと肩にこぼれ落ちていた。
             現れたユキヒが、道を作ってくれていたテルメレオに追いつくと、

             

            『すみません猊下、わざわざ送っていただいて』
            『い、いえいえ。彼の地とこの国の友好のためには喜んで。それに、これはファラ・ファルードとしても一大事となるやもしれない事態なのですから』

             

             汗を拭いながら答える彼は、呼びかけてくる民衆に会釈をかわす。
             熱心な記者たちは重鎮の登場を受けてここぞとばかりに質問を浴びせてくるが、騎士たちにさらに後ろへと追いやられていった。そろそろ何かしらの発表をしないと無謀な行動に出られかねない、とサリヤはため息をつく。
             幸い、輪の中に入ってきたユキヒは、今この国に居る中で最も桜に詳しい存在のはずだった。判断のための役者がようやく揃った形となる。

             

            「ああ、サリヤ。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
            「とんでもない! こんなに早く捕まるとは思ってなかったわ。来てくれてありがとう!」

             

             得られた心強さに感謝するように、サリヤはユキヒを抱き留める。
             遅参したユキヒへ軽い情報共有を行ったが、その場でずばりと原因を言い当ててくれるということはなかった。
             その代わり、彼女の足はふらりと桜へと近づいていく。
             空白地帯へ現れた人影に、民衆が一瞬沈黙を生み、また喧々諤々と音を作っていく。

             

            「この光、まるで私たちが……」

             

             その呟きが、付き添ったサリヤの耳を掠める。
             そして輝ける大樹の傍まで辿り着いたユキヒが、一呼吸の後、目を見開いて桜を注視する。サリヤはそこに確かな力の脈動を感じ、縁を辿る権能によってユキヒは今、この神座桜の異常を彼女なりに紐解こうとしているのだと理解した。

             

             果たして、ユキヒが何かを視て取るまでに、そう時間はかからなかった。
            ただ、その結果がもたらしたのは、困惑と混乱であった。

             

            「なに……この、縁……?」

             

             ユキヒの口から、動揺が漏れる。桜が発光している以上に不可解なものが、彼女の目に映し出されているようで、焦りと共に黙考を始める。

             

            「ユキヒ……?」

             

             不穏な態度に思わずサリヤは名を呼ぶが、返答はない。
             やがてユキヒははっとしたように周囲を見渡し、次いでサリヤへ、さらに観察と待機をしているジュリアたち貴族へと目を向けた。
             そして、切迫した様子でユキヒは訴える。

             

            『周りの人たちを、もっと遠ざけて!』
            『……!?』
            『何かが……縁を辿って、ここに近づいてきてる!』

             

             彼女の警告が何を意味するのか、真に理解できた人間は稀であった。だが、人々の上に立つ存在として、意図を呑み込んだ貴族の動きは早かった。
             最初に反応したのは、以前サリヤ解放の一助となった、この国の法の一端を担うアルトリッド卿であった。控えさせていた騎士を急ぎ避難誘導へと向かわせたところで、テルメレオもまた連れの司祭と共に動き出す。さらに遅れて、手持ち無沙汰にしていた他の貴族たちも弾かれたように臨時の詰め所から飛び出していった。

             

             サリヤは先んじてジュリアの下へと戻り、ヴィーナを嘶かせて警戒態勢に入っている。その背後で佐伯も自前の鉄爪に手を伸ばしているが、彼もまたユキヒの言わんとすることを介した者の一人だ。歯噛みしながら、己をジュリアの盾としていた。
             不幸なことに、喧騒に紛れたために危険を察知した民衆は少数派であった。貴族たちの動きにざわめきの方向性は確かに変わっていったが、背中を押す危機感が全く足りていない。

             

            「どういうこと……」

             

             桜の前に残されたユキヒが、渋面のままに零した。
             彼女が今、目の当たりにしている縁は、何処からかこの神座桜へと結ばれたもの。だが、ユキヒでもってしても、その縁がどういったものであるか、良し悪しからして全く分かっていなかった。あまりの不可解さに、もう一人の自分と頭の中で議論を交わしていたほどだった。

             

             ただ、正体不明の縁であっても、その結びつきは視えてしまう。何にも染まっていない白い糸ですらなく、あることだけが分かる透明な縁の糸が、か細く伸びている。
             その糸は最初、神座桜から先には繋がっていないものだと彼女は思っていた。
             だが、

             

            「っ……!?」

             

             伸びた糸の先を視て、ユキヒは驚愕する。
             その先が結びついていたのは、紛れもなく自分――ユキヒ自身であった。
             縁を手繰られる手応えが増していく。
             何者かが、彼女を足がかりに急速にこちらへ――

             

            「急いでっ!」

             

             それに気づいて叫んだのと、臨界はほぼ同時だった。
             神座桜の放つ光が、陽光を塗りつぶすほど強烈に放たれる。
             眩さが、その場に居た者全ての目を焼いた。

             

             

             

             

             


             コールブロッサムの採集場には、目を刺す光にやられた人々のうめき声が広がっていた。慌てて逃げようとしたためか、民衆の一角がばたばたと倒れており、怪我人も出ていそうだった。
             けれど、貴族たちや騎士たち、果てはメガミでさえも。
             無事な者は誰もが皆、言葉を失ったように、その一点に目を奪われていた。

             

            「…………」

             

             光は絶頂を越え、残光を煌かせるのみとなった神座桜――その根本には、今までなかったはずの人影が三つ。そのどれもが、この国の民、否、桜降る代の民を含めた人間とは明らかに異なる装いに身を包んだ、女のものであった。

             

             

             三人の中心にいるのは、新緑を思わせる色合いの装いに身を包んだ少女。彼女は安堵したように息をついて、地面についた棒状のもの――唐棹と思しき道具に体重を預けていた。唐棹はそれ自体が生きていると示すかのように、ぴょこんと葉が生えている。柳のように垂れ下がった彼女の長いもみあげが、異邦の風になびいていた。

             

             右隣で伸びをしているのは、肌にぴったりと張り付くような黒の肌着も露わにした少女。快活さを醸し出す彼女だが、十代も半ば過ぎと見受けられる年頃としては、顔立ちに残る幼さは僅かなものだ。腰に提げた荷からは、金槌や火箸といった鍛冶に用いる道具が飛び出しており、左腕に袖を通しただけの着物がその荷に引っかかって揺れていた。

             

             そして最後の一人は、背後の宙に白と黒の勾玉を従えた黒髪の女。四肢にはまるで拘束具であるかのように立派な腕輪と足輪を嵌めており、表面には衣服と同様に曲線的な古めかしい文様が刻まれている。その中で唯一、人に理解できる五対の桜の花弁の意匠が、神座桜との関係性を示しているようである。

             

            「え……」

             

             彼女たちの出現を最も近くで目の当たりにしたユキヒは、混乱の最高潮にあった。
             けれど、一歩、二歩、と縋るように寄ろうとした彼女は、この場で最も、確かな驚愕に身を焼いていた。

             

             自分の良く知るメガミが、ここに現れた。
             ユキヒが間違えるはずはない。なのに、普段とは雰囲気から何まで異なっている。
             思わず、彼女はそのメガミに呼びかけていた。

             

            「ハガネ、ちゃん……?」

             

             そのメガミは、いきなり名を呼ばれたことに驚いたように肩を震わせた。
             そして彼女もまた、ユキヒに目をやり、同じように言葉を返す。それは、手繰った縁の糸の正体を推し量るかのようだった。

             

            「ユキ……ねぇ……?」

             

             鍛冶道具を携えた栗毛の少女と、互いに困惑をかわしあう。
             知っているはずの相手なのに、違う。違うはずの相手なのに、知っている。
             そんな己の記憶や感覚とのずれから生まれた違和感が、二柱に次の言葉を失わせていた。

             

            「あのー?」

             

             そんな中、中心に立っていた新緑の少女が小さく手を挙げる。
             様子を窺いに出てきたサリヤと、どちらに問えばいいのか迷うようにひょこひょこと首を動かすと、

             

            「ここ、ファラ・ファルードで合ってます……?」
            「え、ええ……そうだけど」

             

             少女に合わせて桜降る代の言葉で答えたサリヤも、密かに混乱を強める。
             ユキヒと顔を見合わせたサリヤは、答えた代わりというように、半信半疑ながらも問いを差し向けた。

             

            「この桜は、あなたがやったの?」

             

             以前シンラが言っていたように、メガミであっても桜を急成長させるなんてことはそうそう叶わない。いくら近年の桜の活性化に原因を求めるのも限界だとはいえ、実行可能な存在からして居るかどうかも分からないのだ。
             故に、この現象が危険を孕んでいたのか、心当たりを問うだけのつもりであった。
             もしも彼女たちがメガミであるならば、神座桜から現れることそれ自体については、この地で前例がないことを除けば当たり前のことなのだから。

             

            「う、うおわっ!?」

             

             指されて振り返った少女は、後ろで聳えていた桜の威容に跳び上がるほど驚いた。杖にしていた唐棹を盾にするように隠れて、先端の棒をのれんのように持ち上げて恐る恐るその光景を眺めている。
             その態度は、桜の巨大さそのものに驚愕しているというよりは、自分のしでかしたことが思ったより大ごとになっていたといったほうが、似つかわしかった。

             

             ややあって、周囲の困惑に気づいた少女は、気を取り直すように咳払いを一つ。
             姿勢を正した彼女は、成果を前にほんのり気取った様子を見せる。

             

            「うん。この桜はね――」

             

             少女は、サリヤの目をまっすぐ見て、投げられた疑問へと答える。
             だが、少女の言葉は、ただ肯定するだけでは終わらなかった。

             

             そこで告げられるのは、共犯の名。
             サリヤたちメガミにとって、その名は重い意味を持つ。
             そして同時に――その名の持ち主は、失われていたはずだった。

             

            「こちらのヲウカ様と……あたしの権能によるもの、だよ」

             

             少女に指された黒髪の女が、サリヤたちの驚愕など素知らぬように、ただ静かに佇んでいた。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             


             ……彼女は…… 瀧河希 たきがわめぐみ は、受け継いだ。
             その想いを。決して失わぬように。
             困った子だけど、だから私も救われたのでしょう。

             

             

             

             

             

             

             

             


             願わくは、その掌の温もりが、どうか零れてしまわぬように。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             降りた夜の帳は、神座桜の異変の収束を物語る。あれほど眩かった光は、地平の彼方へ沈んでいってしまったかのように、今は寡黙な樹皮を晒すのみとなっている。
             現場となった採集場は引き続き閉鎖されており、騎士たちもとうに撤収していた。常駐している警備兵も、昼間の騒動で心身共に疲れ果てたのか、一息つくのに座った木箱の上で、こっくりこっくり船を漕いでいる。

             

             だから、こんな深夜に、優しく輝く神座桜を見る者は誰もいなかった。
             だから……それを目撃した者は、誰もいなかった。
             沈黙していた樹皮の一部が、淡く桜色の光に包まれる。
             そして、

             

             ずず……、と。

             この世界をまさぐるように、桜から現れたのは手だった。
             病的なまでに白い、ほっそりとした女の手。
             月と桜の光に照らされて、透き通るようなその肌は幽鬼のように幻想めいていた。

             

             その手が、がしり、と光に還っていない樹皮を掴む。
             それはまるで、忌むべき場所から這い出す亡者のようで、見咎めるべき生者は、ここには誰もいなかった。

             

             

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