『神座桜縁起 後篇』最終話:桜降る代の英雄たち

2023.12.06 Wednesday

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     多くの戦場があった。多くの人々が戦っていた。
     桜降る代に要の如く点在する大桜、それらを巡る最も苛烈な攻防。
     押し寄せる怪物に比して小さく、それでいて巨大なメガミたちの奮戦を人々は記憶する。

     

     しかし同時に、彼らは目の当たりにすることとなる。
     悍ましき二人の姉妹の姿を。
     枯れゆく花々を。
     戦場、その全てで。

     

     

     

     

     


     各地へ繋がり合う縁の糸が、足りない。
     怪物の巨体をいなし続けていたユキヒの顔に、焦燥が色濃く浮かんでいく。鮮やかだった縁から彩りが欠けるその意味を、彼女は誰よりも理解し、故に理解に苦しんでいた。
     その動揺を、同じ戦場を駆けるライラが感じ取る。
     何か手を打つ必要がある――そう交わし合う前のことだった。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     夕焼けの空が、歪な星空に染まる。
     煙家に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちの決断は迅速で、残された力全てで以て迎え撃つ。
     元来の権能の残滓を簪に込めて、蠢く歪な大地へ死を呼び込んだ。
     荒ぶる稲妻が、広がりゆく星空を引き裂いた。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「……どちらの力も、悲しいだけです」

     

     イヌルがユキヒに語り掛ける。
     縁の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「そんなの信じても、いいことないわ」

     

     アクルがライラに語り掛ける。
     風雷の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った湯煙桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     ミズキが覚えた違和感は、すぐさま警戒に転化された。
     背に守る神座桜と己の結びつきが、弱まった。消去法かつ合理性で配置されたという自覚があるからこそ、大量の敵味方入り乱れる混沌とした戦場にあって、即座に気づけたのだろう。
     感づいた気配のないミソラは、悠々と鏡まで射抜いている。
     しかし、斥候を送る判断は、不要だった。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     薄暮の空が、歪な星空に染まる。
     瑞泉に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちの狙いは正確で、抱えていた余力を投じて迎え撃つ。
     兵の陣容を直ちに整え、奇怪な大地を槍衾の餌食とした。
     迷いなく放たれた矢が、空を覆い隠す星空を撃ち抜いた。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「……辛くないですか。そんなに抱えて」

     

     イヌルがミズキに語り掛ける。
     守護の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「自由で素敵ね。そのまま消えたら?」

     

     アクルがミソラに語り掛ける。
     空の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った翁玄桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     かつて最強と謳われた男を介した縁は、未だ力強かった。
     ハガネとヒミカにとって、その雄々しき桜を守らぬ道理はない。ユキヒの権能は、あくまでその後押しに過ぎなかったのである。
     しかし二柱の感覚は、その些細な力の消失を伝えていた。
     大物が来るという直感が、ここが次の決戦場だと告げていた。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     宵の空が、歪な星空に染まる。
     龍ノ宮に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちの威勢は強く、情念を激しく燃やして迎え撃つ。
     鉄槌が山のように膨らみ、腫瘍の如き大地を打ち砕いた。
     猛き紅蓮が数多の銃弾と化して、冷たい星空へ迸った。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「無理に、変わらなくても、いいんです」

     

     イヌルがハガネに語り掛ける。
     大地の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「あなたはもう、怖くなくなっちゃった」

     

     アクルがヒミカに語り掛ける。
     炎の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った希龍桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     最も噛み合わない二つの歯車は、だからこそ奮戦の礎となった。
     互いに守るとは程遠い、合わせられたヲウカとシンラの背中。譲れぬ相手よりも先に膝をつくわけにはいかず、抱いた意志を貫くためにも怪物を尽く退け続ける。
     故に、それを挫く存在の到来を見逃すことはなかった。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     夜の空が、歪な星空に染まる。
     蟹河に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちは同時に矛先を変え、信念のままに迎え撃つ。
     勾玉が生む光と影が、忌々しきに果てた大地を排斥する。
     この場の真理をも規定する言の葉が、天を蝕む星空を否定する。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「未練いっぱいの、根無し草だなんて」

     

     イヌルがヲウカに語り掛ける。
     亡き桜の化身が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「儚い妄想だわ。本当にかわいそう」

     

     アクルがシンラに語り掛ける。
     弁論の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った桐子桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     トコヨとオボロの演舞は、月が顔を出しても終わることを知らなかった。
     徒寄花の怪物との共演という、剣呑に過ぎる演舞。一糸乱れぬ彼女たちの動きは、たとえ観客が絶えようと幕を降ろさぬ覚悟を感じさせる。
     けれど、即興劇に波乱が起こることもまた、二柱は確信していた。
     新たな演者の登場を、演目に記されていたかのように受け入れる。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     夜半の空が、歪な星空に染まる。
     古鷹に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちは動揺一つ見せず、怜悧で優雅に迎え撃つ。
     吠えたける巨熊が、無数の鋼の糸に戒められた大地の成れ果てを打ち壊す。
     優美にして鋭利な扇が、影を落とす星空を穿つ。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「……お前だけは、許さない」

     

     イヌルがオボロに語り掛ける。
     生物学の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「はじめから、終わっているのね」

     

     アクルがトコヨに語り掛ける。
     永遠の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った白金滝桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     海は、実に雄弁だった。
     何処から伝播する悍ましい揺らぎを、サイネとハツミは嫌でも知る。怪物たちの動きも、潮風に乗った気配も、それらが生み出す旋律さえ、全てが先触れだった。
     抗えぬ到来が、苦渋を二柱に強いる。

     

     大地から、骸晶の蔦が隆起する。
     未明の空が、歪な星空に染まる。
     芦原に現れたる、二体の徒神。

     

     対し、メガミたちは迎えた時に即応し、不協和音を断つべく迎え撃つ。
     海中に続々と浮かぶ水球の破裂が、うねる水底を打ち据える。
     水晶の空中階段を駆け上り、乱れ咲く斬撃が星空の忌み子を切り裂く。
     しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。

     

    「優しすぎます。らしくないですよ」

     

     イヌルがハツミに語り掛ける。
     水の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。

     

    「果てしないだけで、終わってるじゃない。変わり者ね」

     

     アクルがサイネに語り掛ける。
     技巧の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。

     

     守りを失った水鏡桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。

     

     

     

     

     


     そして、風雪鳴り止まぬ北の果て。
     目も開けていられない猛吹雪の中、コルヌは冷徹な瞳を獰猛に睨ませていた。

     

     払暁に照らされる、二体の徒神。
     その身体には傷しかなく、凍てつき脆くなった身体が崩れ落ちる。
     それでもなお立ちはだかる敵に、コルヌは決死にて役目を果たさんとしていた。

     

    「そうか、貴様らが……貴様らは、即ち――」

     

     しかし、彼女の抵抗はそこまでだった。
     氷雪の象徴が、蔦に戒められる。
     北限の守護者が、瞬き一つで虚空に消える。

     

     守りを失った果桜が、骸晶の蔦に包まれる。
     桜降る代から、光が一つ、消えた。
     最後の大きな輝きが、夜明けと共に、消え去った。

     

    「ちょっと……ううん、思ったよりずっと、疲れちゃったわ」

     

     名の刻まれた石碑に、すとんと腰を落とすアクル。焼け爛れた首を動かしづらそうにしながら、頭上に広がる星空をぼんやりと見上げる。
     切り傷だらけの全身から、零れる黄緑の輝きが吹雪に攫われる。
     その隣で、枯れた果桜に背中を預けるイヌルもまた、健常な箇所を探すほうが困難な有様だった。うつらうつらと身体の調子を確かめる中、氷漬けになっていた左腕がぼとりと落ちて、光へ解けて消えていった。

     

     寄り添う二人は、互いに少しずつ体重を預け合う。
     遊び疲れた、年の離れた姉妹のように。

     

    「戻って、マヒルちゃんと、添い寝しましょう」

     

     ややあってから、重くなる一方の腰を上げる徒神たち。
     一人が蔦に包まれ、地に沈んでいく。
     一人が空へと落ち、天に溶けていく。

     

     そして、そこには誰もいなくなった。
     惨劇の夜は静かに終わり――花なき一日が、始まった。

     

     

     

     

     

     

     


     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     そこには、メガミも、徒神も、姿はなかった。
     戦いの残滓だけが、地に深い傷跡を残す。
     桜降る代の温かな輝きは消え、鈍く煌めく蔦から、黄緑の花が咲き乱れる。
     虚しさすら覚える時間を、青空だけが見守っていた。

     

     しかし、そこには音があった。
     足が土を噛む。
     刃が打ち鳴る。
     ここに静黙の時は未だ訪れず。
     ひとひらの桜が、舞った。

     

     

     

     

     


     降りしきる雪の中、熱気のままに吠えた。

     

    「己が役目を思い出せぇッ!」

     

     壮年の男の喝に、振るわれる刃が再び力を帯びる。
     北の果てより迫りくる怪物に立ち向かうは、北限の守り人たち。御冬の里の桜に集う敵を、慣れた雪深き戦場の利を活かして打ち砕く。

     

     信奉する冷厳なる守護者が予見した有事が、目の前に広がっている。顔を見せない彼女の安否は、もはや言うまでもない。
     けれど、守り人たちの心は折れていなかった。
     その身に刻まれた役割を全うするために、拠り所たる里の桜は守り通す。
     あれほどいた怪物たちの勢いは、気づけば軍とも呼べないほど弱まっていた。

     

     探索者たちが見据える先には、北限への道行きがあった。
     かつて英雄たちが辿った、挑戦そのものである道程。見据える次の旅路は、より深い意義を持つ。
     厳格なる守り人は、古き英雄の如く刃を携える。
     探求者は謎を求め、掲げた旗印と共に歩みゆく。

     

     

     

     

     


     手にした櫂から水流が噴き荒れる。

     

    「筋肉のない石塊如きに、負けるわけがなぁい!」

     

     漢たちの鍛え上げられた肉体と精神は、借り受けた権能を十全に機能させ、上陸して来た怪物たちを押し流していく。
     彼らに悲嘆する暇などありはしない。
     それはメガミの導きを信じ、己が意志として歩んできたから。

     

     肉体は、証の一つに過ぎない。
     けれど、連なる山脈の如きそれは、確固たる自負の現れでもあった。

     

     求道者たちの見据える先には、光消えた水底があった。
     だが、漢たちに止まる理由などあるだろうか。筋肉たちも、そうでない者たちも、信じるものが違ったとしても、今は心を一つに彼らは吠える。

     

    「フンッ、ハアッ、ソイヤッ!」

     

     

     

     

     


     仮面をつけた舞手が、都を縦横無尽に舞い踊る。

     

    「積み重ねたこの歴史、我らで絶やしてなるものか!」

     

     時間の染みた街並みを舞台に演じられるのは、怪物との苛烈なる戦い。二つ――否、異史を交えれば三つもの戦火に曝されてなお、古都は枯れゆく気配もなく優美に佇んでいる。
     これこそが、歴史の重み。その意味へ真摯に向き合い、不断の努力によって受け継がれてきた時の蓄積。

     

     後継者たちの見据える先には、暗転した舞台があった。
     そこに立つべく研鑽を続ける者も、そこに映し出される情景を愛する者も、そこに新しきを求めて模索する者たちも。
     誰もが焦がれるその舞台は、次の光を待ち侘びている。

     

     

     

     

     


     もはや宮司の姿は、桜花決闘の場にはなかった。

     

    「聖上のお膝元を汚させてなるものか!」

     

     桜の光と影の塵が、怪物をなぎ倒していく。狩衣姿のその身が、決闘を仕切るだけの存在ではないと躍動する。
     文人たちは知恵と言葉を紡ぎ、自ら行く先を照らしていく。
     もはやそれは、盲信ではない。かつて主神は愛を知り、天秤は調停を成し、そして知恵者たちが生まれ、己が足で歩み、選び抜く術を手に入れた。
     今という坩堝の中だからこそ、意志は強かに宿っていた。

     

     知恵者立ちの見つめる先には、権威潰えた本拠があった。
     けれどそこには、主義があって、愛があって、導きがあった。そして、これからの未来を定める新たな天秤と、そこに載せようとしているイシがある。
     次の一歩を踏み出すための戦いを、始めよう。

     

     

     

     

     


     その城下町での戦いは、激烈であり動的であった。

     

    「こんなんで諦める奴、いねぇよなァ!?」

     

     ミコトたちが宿すメガミも混沌として、怪物たちへと猛然と立ち向かう。
     その顔は笑ってすらいて、果たし合いでありながら荒々しい祭の如し。
     祭を捧げるのは、敬愛するメガミたちに、遺志を残した英雄に、そしてそれを継ぐ彼ら自身にだ。

     

     開拓者たちの見つめる先は、朽ちた龍たちの墓場があった。
     しかし、屍を越えていく彼らがいるならば、龍の意志は何度でも蘇る。どんな絶望の大地でも踏み越えて、命を芽生えさせてきた自負があるのだから。
     降り注ぐ絶望は、彼らにとって、絶望ではない。

     

     

     

     

     


     その城下町での戦いは、熾烈であり静的であった。

     

    「倉庫街から逸らせ、まずは明日を生きるぞ!」

     

     ミコトたちが宿すメガミも混沌として、怪物たちへと巧妙に立ち向かう。
     その瞳はぎらついて、昏い破滅は慮外だと言わんばかりだ。
     滾る意志を示すのは、敬愛するメガミたちに、野心を託した英雄に、そして野心を保ち続ける彼ら自身に。

     

     先駆者たちの見つめる先は、野望重なる城塞があった。
     野望とは悪であろうか。彼らはそうは思わない。
     敗北があり、犠牲があるのなら、それを罪として贖わねばならないだろう。しかしその可能性は、歩みを止める理由にはなりはしない。
     湧き上がる絶望は、彼らにとって、絶望ではない。

     

     

     

     

     


     広大なる平原を、嵐の如く人々は駆ける。

     

    「我ら信じるものは違えど、今ここに想いは一つ!」

     

     戦場には、風雷吹き荒びし戦士たちがいた。優雅に空舞う射手たちがいて、堅牢なる鎧兜纏いし兵がおり、そして赤き刃携えた執行者たちが駆け巡る。
     混沌とした意志は、互いに隣人を巻き込み、戦意の波濤が大地を揺らす。
     指揮する者がおらずとも、怪物らの狙いは明白。南西地方の各所に生じた大きなうねりは、敵を容易く呑み込み、打ち砕いていった。

     

     同盟者たちの見つめる先には、湯気漂う縁の収束点があった。
     重なる意志にてひた進み、戦いを越えた先で、きっと皆は笑い合う。人にとっても、獣にとっても、温泉とはそういう場所だろう。
     だから、一人たりとも足を止めることはない。
     温かなその場所も、自分たちの生きる道も、全てを取り戻すために。

     

     

     

     

     


     人々は進む。
     この何処かにきっと、共に歩んでいく『あなた』がいるのだろうか。
     それは祝福だ。
     『あなた』がいなければ、この地は潰えるのだから。

     

     進んでいこう。
     最後の命運を果たすために。

     

     あるいは――――

     

     

     

     

     


     広漠なる光の大樹が、やはりそこには広がっていた。
     周囲に満ち満ちる骸晶の蔦に衰えはなく、星の数ほどもあったはずの歴史が、尽く朽ち果てている。枝葉が腐り落ちた森が成れ果てた泥地のようで、途絶えた命を否応なく思わせる、胸が締め付けられるような光景だった。

     

     そこに一本だけ屹立していた、桜降る代を示す太枝。
     遍く歴史を呑み込もうとする蔦に、例外はない。今こうしている間にも蝕まれている実情を映すように、その枝にも容赦なく纏わりついていた。
     この終焉を見せつけるために、後悔や不甲斐なさや自罰といった感情が、逃されたヤツハをこの場所まで引きずってきた。

     

     しかし、どういう訳か、想定よりも蔦の侵食が遅い。
     自分たちは、敗北したはずなのに。
     倒木の如く、喰らい尽くされる運命にあるはずだったのに。
     ヤツハの瞳に、一条の光が差し込める。

     

     ――あぁ、そっか……。

     

     

     前に手をかざし、受け継いだ力――叶慧鏡が顕現する。込めた権能が、果てしなき可能性の大樹の地平線を押し広げていく。
     ヤツハが見つめる先には、光があった。
     桜降る代の枝から、細く伸びる光の道。遥かなるこの空間を進み、数多の歴史の残骸と蔦の合間をひっそりと縫うように、遥か遠くへと結ばれた光。
     カナヱが再び己を犠牲にして結んだ、弱々しい道。
     彼方の枝に続く道。

     

     命運。それは即ち、今ここで自分だけができること。
     それは誰にもあって、だから誰もが英雄で。
     そして今なら、分かる気がした。
     最後の命運を受け継ぐのは、この自分ではなくて――

     

     ――どうかっ……!

     

     鏡を彼方に向け、ヤツハの持つ全ての力を解放する。
     鏡面から放たれた光が、か細い道に重なった。糸と糸を紡ぎ合わせるが如く、螺旋を描いて新たな道を為す。
     強かに結び直された余波か、道の周囲の蔦が軽くなびいた。

     

     直後、沿路の蔦が綺麗な断面を晒し、折れた。
     まるで、花道を汚す不届きな雑草を刈り取ったかのように。
     螺旋の光の中を、微かな白い影がよぎった気がした。

     

     そして、その煌めきを寿ぐかのように彼方の枝が瞬いた。輝きが、繋がりをさらに補強するように光の道へと染み渡る。
     何者にも曲げられない意志こそが、希望を紡ぐ。
     天地に絶望蔓延る中、それは、あまりに眩しかった。

     

     

     

     

     


     そして、桜降る代のとある場所。特筆すべき点のない、凡庸な光景。
     そこには、メガミも、徒神も、姿はない。
     戦いの傷跡残す大地に骸晶の蔦が這い、黄緑の花を咲かせている。
     しかし、ひとひらの花弁を追って、見やるとそこには桜があった。

     

     

     なんてことのない、神座桜。
     大きくも小さくもない。
     凛々しくも儚くもない。
     けれど、満開だ。
     周囲を蔦が這っているのに、満開だった。

     

     その満開の桜の傍に腰掛ける人影が、一つあった。
     『あなた』だ。

     『あなた』は何処からの声を聞き、不思議と立ち上がった。

     

     


     …………。

     

     聞こえてる? あー! 聞こえてるの!?
     あなたは誰!? あーしは藤峰古妙! もしもーし!

     

     …………。

     

     おい、ほんとに通じてんのか? お前の勘違いじゃねえの?

     

     …………。

     

     うっさい、幣爾さんは黙ってて。
     これたぶん行けてるっしょ、もしもーし!

     

     …………。

     

     さっきの急激な反応を見るに、可能性は高い……。
     でも、こちら――一方通行なのかも――。
     数値――乱高下し――る。古――早く。

     

     …………。

     

     そっか。なら、聞――て!

     

     …………。

     

     あーしたち――じゃ――分からなかった……。
     だから、力を貸して。

     

     朧文書を、解明して……!

     

     

     

     

     

     

     

     


     自然の天窓から、穏やかな陽光が差し込んでいた。陰陽本殿では今、本来その陽射に煌めくはずの無明桜が、あの日からずっと光を失ったままだった。
     堕ちた聖域を彩るのは、温度のない不気味な七色。
     蔦に纏われ変わり果てた桜の根本は、けれど穏やかだった。

     

     

     そこで眠るのは、災禍を運んだかの姉妹。
     傷だらけの身体を慰め合うように、大中小と並んで身を寄せ合い、午睡に身を委ねたかのように小さな寝息を立てている。中央の寝顔は、左右から半ば枕代わりにされていても、むしろ幸せそうであり、なのに涙を細く流し続けていた。
     吐息に合わせ、深い傷跡から黄緑の光が零れ出す。
     その光は雫となり、地に落ちて、やがて一輪の花となって彩りに加わる。

     

     冷たい黄緑色をした、小さな花畑。
     そこは、誰もいないかのように、ただ静かだった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    『神座桜縁起 後篇』第11話:イニル――――

    2023.12.05 Tuesday

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       翅を失ったユリナが、石床を砕き、着地した。

       

      「っはッ……!」

       

       己の精魂を絞り出すような息と共に、刃を構え直す。
       彼方の枝からの連戦ともあって、彼女の疲労は想像を絶する。しかし、英雄として、武神として、得物を下げることは許さなかったようだった。
       そう、手応えはあった。けれど、未知の相手との決着がどこにあるのか、誰も知らない。
       ヤツハも、メグミも、アキナも、決定打を浴びた相手の様子を固唾を呑んで見守っている。

       

       イニルの身体は、水中で揺蕩うように仰向けに浮かんでいた。
       胴に刻まれた一本の傷跡は癒える気配すらなく、彫像に走った亀裂の如く周囲の肉体が罅割れている。全身が小さく痙攣するたび、その傷跡からは黄緑と青白の混じったか細い光が、鼓動に合わせて出血するように漏れ出していた。
       ほうほうの体で彼女の傍に戻った結晶も、何をするでもなく浮かぶばかりで、むしろ主の負傷を反映するかのように軋んだ音を立てていた。

       

       打倒と勝利を思わせる様相。一方で、まだ身体は朽ちていないとも言える。
       止めを刺すべきか否か。
       ユリナが翅を失ったとて、イニルの身体は少しずつ落ちてきている。着陸を待てないのであれば、まだ飛べるヤツハの手を借りてもいい。

       

      「…………」

       

       けれど、迷いなく斬華一閃を構え直したにもかかわらず、ユリナは逡巡を見せた。それが決して情けの類ではないことは、他のメガミの目からも明らかだった。
       新手の途絶え始めた怪物の進軍を背景に、メガミたちが肩で息をする音が小さく響く。しかし、誰も明確な答えを出すことはなかった。
       それは、未だ判然としないイニルの本質が故か。
       時間に追われるように、ユリナが柄を握り直し、満身創痍のイニルを再び見据える。

       

       けれど、ユリナが踏み出したときだった。
       背に守っていた無明桜から光が迸る。
       幹の中から飛び出してきたのは、高速回転する車輪を一つだけ脚につけた、大きなやじろべえじみた木偶人形だ。

       

      「ごっきげっんよぉーう!」
      「きゃあああああ!」

       

       人形は着地の衝撃で軸が折れ、肩に捕まっていた二つの人影が放り出される。
       一つは満足そうに息を荒げるクルル。そしてもう一つは、涙目を浮かべるレンリである。両者とも嵐にでも巻き込まれたように服や髪が乱れており、常識外れの強行軍をこなしてきたのだと窺える。

       

       人形は勢い余って怪物の戦列にまで突っ込み、大暴れして怪物の残党を引き付け始める。
       クルルは絡繰銃を構えつつ、きょろきょろと辺りを見回しながら、

       

      「北限はどーにかなりそだったんで、爆速れすきゅーに来たのですが……もしや、一歩遅かった感じですかぁ?」

       

       銃口が、ぼろぼろのイニルを指す。クルルはそこで、ほっと安堵の息を漏らした。
       突然の増援に呆気にとられていたメグミが、警戒を取り戻しながらも、疲れた笑みで返す。

       

      「まだ分からないけど、ちょうど、いいのが入ったとこだよ」
      「ほー……とするとあれが、眠る脅威ってことですか」

       

       普段通りの好奇心を滲ませ始めるクルル。
       それに、地表間近まで降りたヤツハが、

       

      「はい……間違い、ありません。可能性の大樹で会った、そのままです」
      「いっちばん反応のおっきなここが、大正解だったわけですな。怪物も残ってますし、くるるんも追いかけてきて正解でした」
      「助かります。こちらも、被害が……」

       

       目を伏せかけたヤツハは、頭を振ってイニルを再度注視する。
       北限の戦線に目処がついた以上、後は首魁を撃滅し、残敵を掃討するだけ。イニルに関係なく無尽蔵に湧き出してくるならいざしらず、クルルの知らせはヤツハたちに決着の時を確信させるのに十分だった。

       

       故に、メガミたちは気力を振り絞り、幕引きへの決意を固める。
       ……ただ、ひと柱を除いて。

       

      「おい、腰抜かしとる場合ちゃう、ぞ……?」

       

       懐疑的なアキナの声が、尻すぼみに消えていく。
       彼女の視線が捉えるのは、レンリ。
       立ち上がろうとして、片膝を立てたまま、固まったように動かない。

       

       その目が、震えている。
       見間違ってはならないと見開かれ、けれど目に映る光景が信じがたい。その板挟みで悲鳴を上げる眼球が、震えている。
       震えが伝わった手足に、これから勝利を掴み取ろうとする勇ましさはない。
       それはきっと恐怖であり、本能が恐怖から必死に目を逸らしている姿だった。
       それが、徒寄花打倒を真に願った者の姿であるはずがなかった。

       

       レンリの異様な態度に、メガミ全員に緊張が走る。
       誰かが、息を吸った。レンリに問いかける言葉の、前触れだった。
       しかし、声になるよりも前に、レンリは呟いた。

       

      「ち、違う……」

       

       皆の視線が、零させた言葉だった。
       しかし、仔細を問う色がその眼差しに混じった瞬間、レンリの感情は爆発した。
       悲壮が、絶叫を生む。

       

      「こいつじゃないっ! 戦国で見た眠る脅威は、こいつじゃないんですよッ!」
      「――――」

       

       

       時が、止まった。
       驚愕すら、誰の顔にも浮かばなかった。
       歴戦の猛者が揃い踏むこの戦場で、一人たりとも、反応できなかった。レンリの悲鳴の意味を、汲み取り切ることができていなかった。

       

       頭が理解を拒絶する。
       これまでの道のりが足元ごと崩れ去る、その信じがたさ。
       けれど、反論したくとも、反論できるはずもない。
       レンリは、眠る脅威の危機を最初に唱えたメガミなのだから。
       そこに嘘はないと、誰もが分かってしまったのだから。

       

       唯一、事前に対峙したヤツハの証言は、しかし誰も疑うはずがない。
       この惨状が、脅威の証。あの犠牲が、脅威の印。
       ならば、これは。
       これは、絶望であって、絶望でないのだとしたら――

       

      「だ、め……」
      「……!?」

       

       反論は、空からだった。
       静かに降下していたイニルが、歯を食いしばって顔を傾け、レンリを睨みつける。
       ユリナの刻んだ傷跡は、見た目以上に深いようだった。
       それでも、イニルは気力を振り絞ってでも否定を唱える。

       

      「思い、出すな……起こそうと、するなぁ……!」

       

       必死で黄緑の輝きを集め、手のひらに収束させる。しかし、槍を生み出す余力はないのか、か細い骸晶の蔦が一本、力なく垂れ下がるだけ。地上も間近であり、後は大地に横たわって消える光景すら目に浮かぶようだ。
       もはや脅威ではない。そうとしか見えない有様なのに、悪寒が駆け巡る。

       

       捨て身の覚悟を吠えるような、涙を噛みしめるような、激情が渦巻いているだろうに、その核は敗北による屈辱といった単純な感情では決してない。
       戦いの最中で見せた、傲慢ですらある悲壮と同じ。
       レンリが、開けてはならないその感情の箱を、ついには開け放ってしまったのだ。

       

      「そのため、に……あたし、だけで、こいつらを――」
      「斬ります!」

       

       戦意を耳にして、ユリナが踏み切った。
       誤解の余地の一切ない、止めを刺す宣言。結論がどうあれ、生かしておくべきではないという極めて現実的な判断だった。

       

       だが、その判断も無意味に終わる。
       石床を踏みしめたユリナの足が、沈んだ。
       地面が、蔦へと解ける。

       

      「なっ……!?」

       

       革靴から這い上がった、無数の骸晶の蔦。棘を持ち茨と化した絶望の触腕が、ユリナを既に戒めていた。
       足元から湧き出した蔦の拘束は、まるで元から脆い糸で編まれていた地面を踏み抜き、罠にかかったような有様だ。だが、ユリナの驚愕が示す通り、そんな生易しいものではなかった。
       か細い気配にもかかわらず、ユリナは正しく反応し、備えていた。
       にもかかわらず、刀で振り払おうとした直前にはもう、彼女は必然の如く戒められた状態だった。

       

       速さという領域で捉えることも困難な、不可避の攻撃。
       武神の直感すら掻い潜るそれは、ヤツハ以外のメガミを捕らえ、地の底に引きずり込もうとしていた。

       

      「出ずっぱり……です……」

       

       大地が、蔦となりて渦を巻く。陰陽の要として打ち込まれた、黒い石柱も構うことなく巻き込んで、冷えた七色の茨へと解けていく。
       茨はやがて隆起し、人の背丈ほどの塊になったかと思えば、表面が徐々に剥がれていく。

       

       骸晶の中から現れていくのは、女の形だった。
       儚げに瞳を閉じて、茨の揺りかごで眠り続けているような、長躯の女。イニルに似た意匠の衣をゆったりと靡かせ、玉虫色の長髪は果てなく伸びて地面で蠢く蔦へと続く。
       外気に曝される豊かな肉体を、窮屈そうに両腕で抱く。
       けれどその声は、どこか無垢で、間延びしたもの。

       

      「あなたたちの、英雄譚は、そろそろ……終わり」

       

       

       そして全身が露わになったとき、瞼が眠たげに薄く開かれる。
       底なしに澱む、その瞳。
       見つめているだけで吸い込まれ、意識が塗りつぶされてしまいそうだった。目としての機能が本当にあるか疑わしく、曇りきった黄色い硝子球が眼窩に嵌っていると言われたほうが、まだ納得できそうな悍ましさである。

       

       茨に苛まれるレンリが、恐れに打ち震える。
       次第に荒くなる呼吸を噛み殺し、彼女は嫌悪を吐き出した。

       

      「眠る、脅威っ……!」

       

       悲鳴じみた叫びが告げる、最悪の訪れ。
       メガミたちは全ての嘆きを呑み込んで、眠る脅威たる女を睨みつける。しかし、敵対心だけを表に出せた者は皆無であり、悍ましき存在を前にした嫌悪感を誰も隠しきれていない。それに疑問を持つメガミもおれど改めることは叶わず、嫌悪こそが必然であると眠る脅威には定められているかのようだった。

       

       その絶対なる嫌悪には、一人だけ例外がいた。
       ついに地に横たわったイニルが、軋む首を動かして、割れる身体をもよじって、現れた女を目に入れる。
       悔しげであり、なのに愛おしく、相反する望みでぐしゃぐしゃになった感情。
       嫌悪や恐怖とは程遠い情念に突き動かされ、喉の奥から溢れる吐息が唇を揺らす。
       イニル・マヒル――マヒルが、掠れる声を漏らした。

       

      「イヌル、姉……さま……」

       

       今にも涙を浮かべてもおかしくない、望外の再会を受け入れた光景だった。同時にそれは、辛酸を嘗めさせられた相手と同格以上の敵が合流したという、破滅の邂逅を見せつけられたのと同義だった。

       恐ろしい事実にメガミたちが声を失う中、マヒルが弱々しくも、はっと空へ目を向ける。
       眠る脅威――イヌルは、その言外の気づきに眠たげに答えるが、

       

      「ん……イヌルが、起こされました。きっと――」
      「うおぉぉりゃああぁぁぁぁっ!」

       

       遮ったのは、クルルの気合だった。
       陰陽本殿が、大きく揺れる。膨大な力が瞬間的に発露され、彼女を戒めていた硬いはずの茨が、みしみしと音を立てて罅割れていく。

       クルルの背に広がるのは、巨大な絡繰の翼。
       桜の光を激しく迸らせ、地面に輝きが叩きつけられるほどになったところで、茨を引き千切ってクルルが勢いを余らせたように高々と宙に舞った。他のメガミにはまるで動じなかった蔦が、飴細工のように粉々に砕け散る。


      「あぁ、あなたは……そういう」

       

       イヌルが気怠そうに嘆息する中、クルルが左手を右の二の腕から先に這わせ、みるみる内に右腕が装置に包まれる。
       脱出したクルルが見据えるは、眠る脅威・イヌル。

       

      「あるてましーんっ!」

       

       右腕の装置から力が溢れ出し、身の丈を遥かに超える膨大な光の刃が顕現する。
       宙を蹴り、決死の表情でクルルが吶喊する。

       

      「おめが……ぶれーどぉ!!」

       

       しかし、その背中を、星の瞬きが照らす。
       夕焼け色がはっきりと差し込め始めた本殿が、不気味なほどに美しい星空に覆われる。マヒルが発現させたものではない、天窓を越えた先にある本当の空が、時間を飛ばしたかのように夜空に置き換わっていた。

       

       突然の夜陰に、急停止するクルル。きょとんとした横顔が、巨大な光刃と、望まぬ夜桜となった無明桜の明かりに照らされる。
       狙われた側のイヌルは、微睡む瞼をもう幾許か開き、星空を眺める。
       瞳が期待に染めたマヒルが、すぐにその期待そのものを悔やむように、涙した。

       

      「くすくす……」

       

       闇の中に響く、悪戯めいた幼い少女の声。
       クルルがその出処を探る中、声はクルルへと問いかける。

       

      「そんなに頑張って、何を見てるの?」

       

       クルルが眉を顰めた、その瞬間だった。
       その手から、輝きが消える。
       イヌルを断つための光刃が、力の供給に失敗したように掻き消えた。
       生み出していた絡繰は、既に、無言。

       

       代わりに、くすくす、と。
       憐れむ声の主は、天窓でくり抜かれた星空を背景に揺蕩っていた。
       遠目でも分かるほどに小さな、四尺を超えたばかりかという童女。玉虫色の長い髪がふわふわ揺れるのも相まって、小柄な体躯は綿が風に弄ばれているよう。けれどその眼差しは元気や爛漫といった言葉とは程遠く、達観し尽くしてしまったように冷めていた。

       

      「ほら、やっぱり上手くいかなかったじゃない」
      「っ……!」

       

       

       クルルの顔に、戦慄が這い上がった。そこから眼差しがみるみるうちに険を帯び、ふっと浮かぶ戸惑いすら呑み込まれていく。
      まさしくそれは、敵視。それも、怒りや憎しみからくるもの。
       滅灯毒から死の恐怖を知り、大切な仲間から友情を知ってなお、着想の輩では在り続けたメガミが見せた、おそらく初めての感情。研究を邪魔する者にだって向けたことはなかった、どうしようもなく湧き上がるような敵愾心。

       

       自分でも感情を御しきれていないのか、クルルの口は反駁を形にできない。
       その間に童女は、振り回されているクルルをさらに翻弄するように、くるりふわりと宙をその場で巡りながら語りかける。

       

      「くすくす……そうね。でもあなたは、それそのものじゃない」

       

       回転をやめた彼女が、余った勢いにゆったりと流される。
       膝を折り、胸の前で両手の同じ指先同士を合わせた童女は、指の隙間から果てしなく遠い何かと、その先にあるクルルの姿を見つめる。

       

      「わたしだってそう。そんな、こわぁいお顔に意味はないわ。だから――」

       

       その顔が、悪戯めいて、されど儚く微笑む。
       そして彼女は、自身の視線からクルルの姿を隠すように、両の手のひらを一度合わせ、そこには何もなかったと示すように開いてみせた。

       

      「はい、消えた」

       

       クルルの姿が、そこにはなかった。
       初めから存在していなかったかのように、大きな絡繰の翼ごと、クルルの顕現体がそこから綺麗に消え去っていた。

       

       しばし遅れて、メガミたちが夢でも見たかのように辺りを見渡す。
       身震いと共に。

       

      「くるるん、さん……?」

       

       ヤツハの呼びかけに、答えはなかった。
       クルルの姿は、どこにもなかった。
       少女の言葉通り、クルルは『消えて』いた。
       悲鳴一つ……痕跡一つ、残すことなく。
       薄ら気味悪い少女の笑いがなければ、何かが起きたことすら忘れてしまいそうなほどに。

       

      「くるるんさんっ!? くるるんさんっ! くるるんさぁんっ!」
      「分かってるはずなのに、どうしてかしら?」

       

       悲痛に叫ぶヤツハに、少女がさぞ不思議そうに問いかけ、返答を待たずに勝手に得心したようにまた笑った。
       誰も、理解ができていなかった。
       否、遡ればマヒルの力にすら、理解が及ばぬままに皆戦っていた。
       そして今、何が起きたかすらも理解に苦しむ現象を前に、誰もが絶句する。

       

      「みんな……がんばり屋さん。忘れて、眠れば、いいのに」

       

       うつらうつらとしたイヌルの様子とは裏腹に、ぱきぱきぱき、とメガミたちを戒める茨がさらに力強く繁茂する。
       指一つろくに動かせない状態でも、諦める者はいなかった。

       けれども、ユリナの威風に揺らがなかった。
       メグミの新緑の蔦に動じなかった。
       アキナは戒めの配置の書き換えられず、レンリが思いつく限りの権能を引き出してなお、逃れることはできなかった。

       それどころか、茨は彼女たちの内側からもじわじわと湧き出している。始めから棘が食い込んだ状態で現れる戒めに、あらゆる努力が水泡に帰す。

       

      「くっ……!」

       

       唯一自由なヤツハが、反撃を覚悟で身体から怪物を呼び出す。
       無数に現れる、怪物の手。敵の全てを毟り取る、悪魔の顕現。四人を同時に救い出し、かつ傷を負わせない中での限られた選択肢だった。
       だが、

       

      「なん、でっ……!?」

       

       大山を押しているかのように、悪魔の手は無力だった。
       妨害すら、されなかった。
       星空で編まれた手に纏わりつかれただけの拘束が、どんどん沈んでいく。
       やがて、顔も見えないほどに埋まっていき、

       

      「ヤツハ、さん……に、げ――」

       

       か細いユリナの声を最後に、四柱のメガミは地に呑み込まれた。ずるずると地面を這う蔦が蓋をして、後には何事もなかったかのような元の石床が現れた。


       残されたのは、ヤツハただ一人。
       その瞳の奥にはまだ、敵に抗う意志が辛うじて火の形を保っていた。けれど、目の前で繰り広げられた惨劇に、身体は動くことをよしとしない。戦いの達人が残した言葉が、勇気と無謀の違いを嫌でも思い知らせる。

       

       幼い姿の徒神が降りてきて、ヤツハの前に絶望の化身が並ぶ。
       無論、視線が注がれる先はヤツハ。気づけば、倒しきれなかった怪物たちが、徒神らの指示を待つように、静かに無明桜を包囲していた。
       もう、桜を守ることは叶わない。
       後はただ、ヤツハの処遇が決まるのを待つだけ。
       絶望的な、決着。

       

       けれど、幼い徒神が何かに感づいて、怪物の包囲の外へ目をやった。
       その視線と交錯するように、怪物の合間を縫って赤い影が飛来する。
       向かう先は、ヤツハ。

       

      「かはッ……!?」

       

       胸を、背中から長大な刃が貫いた。
       血色の刀身の持ち主は、ただ一柱のみ。それは桜へと接ぐ刃――名を神居剣。
       たじろいだヤツハが背後を見ると、戦場の片隅に、桜飛沫を立ち上らせる人の形があった。
       胸から上だけになったカムヰが、声を振り絞る。

       

      「……どうか、最後の……めい、うん、を……」

       

       果たしてそれは、実際には残滓のような囁きでしかなく、誰に届いたかも分からない。
       力を使い果たしたカムヰの顕現体が、霧散する。
       しかし、それとほぼ同時、ヤツハの姿が桜の光に包まれた。

       

      「ぁ――」

       

       そのまま、彼女の姿は光となって収束し、虚空に消えた。残り香のような輝きだけがそこに漂うだけで、顕現体が破壊されたわけではないようだった。
       神座桜の前から、メガミが全員、消えた。
       しん、と静まり返った陰陽本殿が、静謐とは異なる無音を響かせる。

       

       宙に浮かぶ幼い徒神は、長身のイヌルと目線を合わせるように高度を下げ、言外に語り合うように見つめ合う。
       そこに、マヒルの震える声が割り込む。

       

      「イヌル、姉さま……。アクル……」

       

       果てしなく揺れ動く感情が、そのまま声を揺らしていた。倒れたままの顔を、か細い涙が伝っていく。
       呼ばれた二人の徒神は、先程までの非道などなかったかのように、優しい笑みを向けた。

       

      「マヒルちゃん、お疲れさま。今は休んで、傷を癒やして……」
      「小姉さまは、そのお顔が一番可愛いわ。ずうっと、そうしていてもいいのよ?」

       

       温かい……やり取りだけ切り取れば、ただ仲のいい姉妹でしかない、そんな光景。
       けれど、メガミたちを一蹴した徒神たちは、間違いなく侵攻の途上にいた。

       

       無明桜へ、彼女たちの手が翳される。
       地より湧き出た骸晶の蔦が、その巨体を覆っていく。忌まわしき宿木が、その輝きを喰らい尽くしていく。
       無数に咲き誇っていた桜花結晶の尽くが、光を失う。塵に還ることすら許されず、落ちた抜け殻の結晶が滝のような音を立てて落ちていく。

       

       無明桜の灯が、再び消える。
       その名に等しき光景が、二十余年越しに再現される。
       否、大いなる影が作り出した闇よりも、この枯れ姿の意味は重い。
       ここに、絶望的な侵攻の旗が、打ち立てられたのだから。

       

      「あり、がとう……ごめん、なさい……」

       

       少女は――イニル・マヒルは告げた。
       連なる者への感謝と、呼び覚ましてしまった後悔を。

       

      「気にしないで。さあ、いきましょ、大姉さま」

       

       童女は――イニル・アクルは告げた。
       向けられた想いへの慰謝と、引き継いだ願いへの共演を。

       

      「うん、ちょっと頑張ります」

       

       女は――イニル・イヌルは告げた。
       駆逐への無垢なる肯定と、暴虐への無邪気なる奮起を。

       

       アクルの姿が掻き消える。
       上天の星々に溶けゆくように。
       イヌルの姿が沈みゆく。
       大地の蔦に呑まれるように。

       

       そして、寝転んだマヒルの口端に、複雑な笑みが乗る。
       最愛の背中二つを見送って。
       最愛であるが故の苦渋を噛み締めて。


       今日この日、目覚めた脅威は三つの人の形をしていた。
       最古の徒神・イニルノルニル。
       絶望の体現たる三姉妹。

       

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      『神座桜縁起 後篇』第10話:最古の徒神

      2023.12.03 Sunday

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         身の丈よりも長い槍が振るわれ、徒神の少女の前にて輝くは三つの結晶。
         徒寄花たるを思わせる透き通った黄緑に煌めくそれらは、すらりと起伏の少ない均一的な造りをしている。一抱えほどの大きさといい、複雑な結晶構造を持つ形に富んだ桜花結晶とは対比的であった。

         

         攻撃に用いるという、その用途もまた対比的。
         少女の槍が、結晶の一つを穂先で突いた。

         

        「スナハイド・ドウズレド」

         

         結晶が、脆さを露呈するように縦に砕ける。ずらりと現れた結晶の針が、カムヰめがけて散弾の如く降り注ぐ。
         少女は残りの結晶を翼のように広げ、針の雨に紛れて猛然と肉薄を目論む。
         対し、カムヰは防御の構えを取った。

         

        「カタシロ」

         

         彼女の前に、赤い霧で編まれた人の姿がいくつも立ちはだかる。槍の初撃を受け止めた紅の刃の残滓が変化した身代わりで、避け難き針の弾幕からカムヰを守らんとする。
         だが、先頭の身代わりが針を受け止めんとして、一瞬のうちに掻き消えた。
         例外はない。針に込められた力のせいか、まるで雲を散らすかのように、どの身代わりも盾としての責務を果たさぬままに脅威を通してしまう。
         下唇を噛んだカムヰが回避に動き、纏った剣に構えさせる。

         

        「無駄よ」

         

         逆落としで迫り来る少女は、一本の針を蹴って僅かに軌道修正し、カムヰを真っ直ぐ貫かんと槍に抱きつくように構えている。
         カムヰがそこで選択したのは、少女の真下での迎撃だった。もはや間合いに入られることは受け入れ、針を追い越す勢いで迫る相手の速度を逆手に取り、針からの回避と後の先をまだ狙いやすい位置取りを優先していた。

         

         大剣四振りを総動員した、剣の盾。
         頭上で組まれたそれの意図はあまりに分かりやすく、だからこそカムヰの圧倒的な力を知る者からすれば驚きを禁じえない光景だろう。身代わりが無力に過ぎたことで、最強のメガミは油断なく警戒していたのである。

         

         受け止めて、反動で動けない相手を、ゆっくりと斬る。それだけの単純な狙い。
         力で編んだ身代わりならいざしらず、メガミの象徴武器は破壊する手段を探すほうが難しい理外の業物。この紅の剣こそが数少ない可能性ですらある。それを四本、貫ける武器などどこにもありはしない。
         ……その、はずだった。
         否、それを確かめる機会すら、生まれなかった。

         

        「だから――」

         

         槍の刃が、黄緑に輝いた瞬間だった。
         四振りの大剣に、くまなく罅が入る。
         そして槍の切っ先が触れた端から、硝子細工のように容易く砕けていく。
         当然、主を守る役目は、果たせない。

         

        「無駄だって」
        「かっ――」

         

         刃が、カムヰのみぞおちに突き刺さる。大した抵抗もなく、背中側へと突き抜ける。
         顕現体の腹部が、あまりにも脆く崩れ去った。手応えを失って、徒神の少女が半ばカムヰに体当たりする形になってしまったほどだった。

         

         呆気のない痛撃。
         受けたカムヰ本人すら、貫かれた事実を今更瞳を動かして確かめようとしているほどに、それは冗談じみていた。
         戦況を横目で窺っていたホノカとウツロも、思わず絶句する。

         

        「おっと」

         

         桜の精と影の波が押し寄せ、少女はカムヰの身体を蹴ってその場を離脱する。
         しかし、それきり彼女を追い立てるものは一つとして戦場に現れなかった。

         

        「カムヰ、さんっ……」

         

         無明桜を守護するホノカの顔は、ウツロと共に苦渋に満ちていた。徒神の撃破に力を振り向けようにも、押し寄せる怪物たちは待ってはくれない。今の交錯でこの徒神が生半可な相手ではないことが分かった以上、片手間の攻撃では不足に過ぎ、幾度も続けようものなら怪物たちに隙を曝すことになる。

         

         桜を折られれば、地の利も失う。だから二柱は、祈りながら役割に戻るしかない。
         ふわりと宙に留まった、神座桜の剣の奮起を。
         瞳の光翳るカムヰの唇から、声が零れる。

         

        「……コト、ワリ……」

         

         

         解放された権能が、周囲に満ちる桜の光をかき集め、彼女の失われた肉体を瞬く間に修復していく。
         桜の摂理の執行者が失われることはあってはならない。
         故に、未だ機能に欠落はないと示すべく、四振りの血色の大剣が顕現する。そのうち二本が混ざり合い、メガミをも殺すあの螺旋の刃がカムヰの眼前にて織り上げられた。

         

         残る二振りの刃も掲げ、再び迫る少女へ向けて自ら飛び上がる。
         何よりも強靭なはずの、執行者の刃と共に。桜に仇を為す存在を討滅するために、不朽たらんと在り続ける剣と共に。
         揺らがず、弛まず、ただ摂理を体現する機能美すら、カムヰの姿にはあった。
         だが、

         

        「そんなもの、どこにあるの?」

         

         槍と真っ向からぶつかった螺旋の刃が、砕けた。
         体現せんとするその摂理など、脆く信じがたいものだと告げるかのように。

         

         本来のカムヰであれば、そこですかさず二の矢たる二振りの剣を少女に打ち込んでいたはずだった。絶大なる威力にて圧倒する腹積もりだったとしても、本来螺旋の刃を打ち込む隙を作るためにあった二振りの剣は、即応できるように少女に切っ先を向けていた。
         動揺は、するはずはない。カムヰとは、摂理の機構なのだから。
         ただ目の前の事実だけを受け止めて動く、からくり人形じみた処刑人――それが、カムヰというメガミのはずだった。

         

         それなのに、その瞳は、揺れていた。
         間合いの中で嘲るように微笑む、徒神の目の前で。
         おそらくそれは、カムヰが初めて露わにした――否、抱いた感情。
         それを一時の泡沫で終わらせないよう、少女は問いを重ねる。

         

        「あなた、自分が誰なのか分かってるの?」

         

         本来ならば聞き流すはずの、敵の戯言。
         カムヰの揺れる瞳は、無明桜の周囲を飛び交う姿を探していた。答えるべき名を呼んだ、ホノカの姿を。

         

        「…………カ……ムヰ……」

        「ふーん、やっぱりね」

         

         わなわなと、カムヰの小さな手が震える。何かに縋りたがっているようなその震えは、彼女には決して似合わないものだった。
         恐怖。それも、徒神という敵に対するものではなく、今まで盤石だった足場が急に崩れ始めてしまったような、胸の内が焦げ付くような恐れ。

         

         少女は冷笑と共に三度問う。
         恐れを、燃え広がらせんと。

         

        「楽でいたいんでしょ、ねえ?」
        「あ……あぁぁっ!」

         

         カムヰが叫びを絞り上げ、残った剣が振り回される。
         しかしそこに、鋭さも重みもない。
         これまでのカムヰとは似ても似つかない、闇雲な斬撃だった。

         

        「ふふっ。どうせ『私はカムヰ』とすら、言えないんでしょう?」
        「ちが……ぅうぅっ……!」

         

         煽り立てる敵に、カムヰは言葉でも武力でも反論できない。無駄に手振りする小さな体躯も相まって、危機に瀕した子供が必死に暴れているかのよう。
         心の不在を疑うほどに正確無比にして絶対的だった剣技は、そこにはない。
         当然、児戯に堕ちた剣が、敵を傷つけることもない。

        「カムヰさん!? カムヰさんっ!」
        「な、何が……」

         

         あり得るはずのない恐慌に身を委ねる味方の姿に、ホノカとウツロはあてられたかのように混乱に惑う。
         徒神の少女はふわふわと後退しながら、なおもカムヰへ問う。

         

        「それが何なのか、分かってないんでしょ? あたしみたいにさ」

         

         儚く揺らめき、そのまま弾けて消えてしまいそうな意志の発露だった。心地よい風の吹く草原に寝転んでいつのまにか口から零れていたときのような、場違いな調子だった。
         カナヱに追撃を加えたときの、断固たる意志とは対極。
         けれど、定まらぬ感情が惑うがままに表に出た結果に、翻意などあるはずもなかった。

         

         少女の持つ長槍が、黄緑の輝きを全身に纏い、切っ先を起点に激しく渦巻いた。
         目を剥くカムヰの前で、二本の剣が交差する。
         守ったところで意味はないと、分かっているはずなのに。

         

        「だったら……眠ってなさい」

         

         少女が反転し、鎧袖一触とばかりに剣を砕き進む。
         突き出された一撃が、再現の如くカムヰの顕現体に突き刺さる。

         

        「――スピエル・ウレエル」

         

         そして結果は変わることなく、その腹に風穴が空き、桜飛沫が広がった。
         力なく、カムヰが陰陽本殿の中を落ちていく。貫いた長槍が、有り余る力の輝きを嘲笑うかのように散らす。
         絶対にして最強――そうであるはずのメガミが、ただ無力に、墜ちていった。

         

         

         

         

         


         衝撃と畏怖は、尋常なものではなかった。
         異史にて朽ち果てるまで敵を屠り続けたという神座桜の剣が、たったの一太刀すら浴びせることなく敗北した光景に、今度こそホノカとウツロの手が止まった。

         

        「なんでっ……どうしてこんなことをするんですかっ!?」

         

         上ずった声でホノカが叫ぶ。ぎょろり、と少女の瞳に射抜かれても、同じ高度で対峙する姿勢は解かない。しかし、旗は矛先を向けるだけで、今すぐ飛び出す気配はなかった。
         怪物と少女は同じ徒寄花の理不尽な脅威である一方、少女には曲がりなりにも話が通じるだけの理性が見える。無論、時間を稼ぐという打算もホノカにはあっただろうが、衝動に突き動かされた彼女がまず選んだのは対話だった。
         意図を汲んだウツロの影が、一層激しく躍る。一時的に怪物との戦線を離脱する相方のため、過酷な時間稼ぎへ身を投じるのに躊躇はなかった。

         

         徒神の少女は槍を振るい、その場に漂う桜の塵を払う。
         互いの間合いは、機動力を加味すれば一呼吸の内。カムヰを退けた以上、再びその槍を振るえばホノカも容易に貫くことだろう。

         

         ただ、少女は手から凶器をぶら下げたまま、宙に揺蕩うのみ。
         揺らめく瞳は次の標的を喰らうのに躊躇しているように見えるが、振りまく敵意に衰えは一切ない。善悪の葛藤に苛まれている様子でもなく、桜やメガミを滅ぼす意志だけは固く抱かれているよう。だからこそ、未だ惑い続けるようなその瞳が異様さを際立たせる。
         それでも、相手の注意を引き続けるべく、ホノカは言い募る。

         

        「せっかくこの歴史の徒寄花とは和解できたのにっ! 一緒にみんなの幸せの形を探し始めたところで、一方的に踏みにじって……目の前で幸せを摘み取られていくのがどれだけ苦しいことか、あなたは分かっているんですかっ!?」
        「…………」
        「たくさんの歴史が失われて、誰もその悲しみを聞くことはなくて……メグミさんたちと出会わなければ、私にはその無念を知ることもできなかったんですっ! 誰かの生きた道をなかったことにするなんて、そんな酷いこと許されていいはずがないっ!」

         

         一縷の望みは脳裏をよぎっているだろう。時間稼ぎという目的も忘れてはいまい。けれど、ホノカの叫びは悲痛で、これまで抱いていた憤りをぶつけているようだった。
         もちろん、この程度で相手は動じなかった。本当に聞いているのかも分からない態度で訴えを浴びる徒神に、ホノカは一度息を呑んだ。

         

         感情は原動力であって刃ではない。それで不用意に殴りつければ、自分が傷つくだけで終わることもある。桜花決闘という、律された手段すら通じない相手なのだから。
         だからホノカは、言葉を選んで放った。
         彼我の狭間に横たわる、根源的な疑問を。

         

        「あなたは、何がしたいんですかっ!? あなたは、一体誰なんですかっ!?」

         

         人は、ミコトは、メガミは、誰も知らない。
         自分たちが蝕まれるその理由を。
         徒寄花と呼ぶソレがなんであるかを。
         知ってどうこうできる問題ではないかもしれない。結局は、理不尽な対立を続けなければならないかもしれない。

         

         それでも、納得はできずとも、理解を人々は求める。
         脅威の何たるかを。
         問いを突きつけるホノカは、この大地と共にあり、あるいは遍く歴史に咲いていた神座桜の意志を代弁するかのようだった。

         

        「んー……」

         

         訴えかけられた少女は、針と散った結晶を再び傍らに浮かべ、少し気怠げな表情を浮かべた。どういう反応を返すべきか、その髪色と同じく玉虫色の態度だった。
         じりじりと時間が過ぎる中、やがて少女は僅かにホノカへ顔を向けた。
         そして、答えを口にする。

         

        「あたしは……イニル・マヒル」

         

         聞き慣れない響きを持つ名前が、ホノカの耳をまさぐった。
         イニルは微かに目を伏せ、快活な声質に似合わない、儚い揺らぎに満ちた声で呟く。

         

        「桜なんて、ないほうがいいわ……。要らないものが見えてしまうもの」

         

         いきなり分かり合うことすら拒絶する発言に、ホノカが思わず反発するが、

         

        「そんなこと――」
        「あなたたちは、そういう存在でしょ。だから……」

         

         聞く必要などないと切って捨てたイニルが、槍を弄ぶ手を止めた。
         周囲をひと薙ぎし、中段に構えたその矛先は真っ直ぐホノカへ。
         けれど、声に滲んだ憐憫は、何処とも知れぬ誰かに向けられた。

         

        「あたしが、せめて幸せにしてあげるの」
        「っ……!」

         

         ただの邪魔――果たしてメガミが、そのような目で見られたことがあっただろうか。
         詳らかにしない何かを、イニルは間違いなく抱えている。けれど、今代の桜の化身たるホノカですら、それを語らせるには至らない。
         時間は稼げても、敵の意図は未だ霧の中。
         水面に漂う葉のように揺らめくのは表面ばかりで、イニルは決定事項とばかりに絶望を押し付けてくる。

         

         歯噛みするホノカが旗を一振りし、桜の精を呼び寄せる。せめてもの抵抗の姿勢だったが、隠しきれない恐れが瞳に滲んでいる。
        しかし、悲壮な決意を固めつつあった彼女の意識に、ウツロの悲鳴が割り込む。

         

        「ホノカっ、これ以上はぁっ……!」
        「はっ――」

         

         怪物の包囲網が、二回りほど狭まっている。前列を転倒させて即席の防波堤を作ることで遅延させているものの、それももう崩壊が間近に迫っている。鉄砲水のように押し寄せてこようものなら、際どい均衡が一気に傾くことだろう。
         時間はもう稼げない。カムヰが立ち上がる気配もない。
         そして、ホノカが状況の把握に意識を割かれたその瞬間、視界の端に黄緑の輝きが映る。

         

        「しまっ――」

         

         イニルが結晶の翼開き、瞬く間に間合いを駆ける。
         メガミを沈める槍が、無慈悲に迫る。
         ホノカは思わず旗の柄を盾にしようとして、先程までの惨劇を思い起こしたのか、守りの手が中途半端に止まった。
         槍の輝きが増し、カムヰを仕留めたときと同じ様相を呈する。

         

         だが、しかし、輝きはもう一つあった。
         眼下の無明桜。何かが内側から押し寄せるかのように、幹が眩い光を放つ。
         気配が、大桜の中で膨らんだ。

         

        「ちっ……」

         

         舌打ちしたイニルが、直下へ振り払う。
         切り捨てられたのは、大きな植物の種。ある歴史から受け継がれた、豊かな想いの結晶。
         それでも叩きつけた槍は、ホノカに届かない。
         盾となったのは、肉厚の刀身。この歴史を育んだ、想い交わす儀の標。

         

        「わたしが、守りますッ!」
        「ふーん……別に、いいわ」

         

         

         揺れる瞳と真っ直ぐな瞳が交錯する。
         英雄は今、凱旋した。

         

         

         

         

         


        「ユリナさんっ!」

         

         ホノカが急いで距離を取り、打ち合って自然と落ちていくユリナの傍についた。無明桜の全くしならない枝先が、ユリナの足を受け止める。
         彼女はどうやら撃ち出された種に乗って強引に飛んできたらしく、その革靴は僅かに煤けている。しかし、その無茶苦茶ながらに敵の企図を挫く横顔は、かつての英雄譚を想起させてやまない。
         そして、眼下で激しく炸裂し始めた音が、もう一人の援軍の本領発揮を告げる。

         

        「はぁっ、はぁっ……メグミ……!」

         

         ウツロが身体を預ける無明桜、その周囲に咲き狂う草花の弾幕が、腹の底を震わせる。
         その繚乱ぶりは崩壊寸前だった防衛線をじりじりと押し戻し始め、どうにか均衡に手を伸ばす。地面に舞い落ちた桜花結晶を糧に無明桜を守る姿は、寄花とは正反対の自然の摂理を体現するかのようで、かつてメグミが身を投じた戦線をも想起させる。

         

        「もっとゆっくり、仮初めの勝利に浸っていてもよかったのに」

         

         距離を取られたイニルが、相対するユリナへ横目で見下ろす。やや不愉快そうではあるが、それ以上にこれまでとは違う感情のようなものが瞳に見え隠れする。
         ユリナは斬華一閃を正眼に構え、

         

        「……あなたの差金だったんですか?」
        「だったらどうする、のッ!」

         

         宙を泳いで虚空を蹴り、イニルが枝上のユリナめがけて飛来する。
         イニルが放つは、変わらぬ敵意と、そして黄緑の輝き。
         穂先から纏ったその致命の光を見て、ホノカがとっさに叫ぶ。

         

        「刀で受けたら壊されますっ!」

         

         しかし、その警告が耳に届く頃にはもう、両者の間合いは目前。
         機を見て飛びかかろうとしていたユリナは、脚の力を辛うじて留められたものの、回避を選択肢に加えるには遅すぎる。
        残された、逸らすという賭けに出るべく、峰に手が添えられる。

         

         槍の刃が斬華一閃の腹に触れた瞬間、恐るべき象徴武器の崩壊は確かに起きた。
         だが、

         

        「「……!?」」

         

         ただ、罅が走っただけ。カムヰの剣のように、容易に砕け散ることはない。
         刹那の交錯の中で、動揺は互いの顔に現れた。けれど、理外の結果が起きなければ、今そこだけは武技が物を言う世界に成り代わる。

         

        「っえぁッ!」

         

         骸晶の槍が、鋼の刃に弾かれる。逸らされることを計算して力を加えていたイニルは、予想外に残った抵抗を貫ききれず、そのまますれ違って飛び上がっていった。
         初めて、イニルの攻めが失敗に終わった。
         微かに唇を噛むイニルの瞳から、冷たい視線がユリナへ注がれる。

         

         ユリナは罅の入った得物を観察しつつ、空を舞う敵への恨めしさを僅かに滲ませる。
         ただ、彼女の目はすぐに驚いたように見開かれる。
         その焦点は頭上のイニルではなく、さらにその先。
         陰陽本殿の天窓に、ここからでも大きな影が映し出される。

         

         天高く舞うは、黒鉄の怪鳥。
         そして、戦場を映し出す大鏡とその主が、徒神めがけて飛び降りる。
         桜降る代の敵を引き裂く、怪物の巨腕と共に。

         

        「っ……!」

         

         掲げられた槍の柄が、凶悪な鉤爪をどうにか受け止める。
         ギリ、ギャリ、と鉱石が擦れ合うような不快な音が響き、上を取ったヤツハが鏡を通じて怪物に力を注ぎ込む。顕現している星空色の怪腕だけでも主の何倍も大きく、もはや黒い大岩が宙に浮かんでいるかのようですらある。

         

         再びの邂逅の中、互いの視線を交わし合う。
         イニルの視線は重みに歪むことはなく、そこに語りかけるような色味が混ざる。

         

        「あなたも……あたしと――」
        「今は、違いますっ!」

         

         意気を乗せて拒絶するヤツハ。イニルの眉間に皺が寄る。
         イニルの結晶の翼の周りがちらちらと輝くと、彼女はその場に留まったまま、細腕に似合わぬ力押しで徐々に鉤爪を押し返す。そのままじりじりとつけた角度を利用して、ついにはイニルは怪物とヤツハを投げ飛ばした。

         

         間髪入れずに大きな結晶が槍で砕かれ、針の雨が降り注ぐ。
         怪物を退避させたヤツハは、桜花結晶を寄せ集めて盾にするが、直撃するはずだった結晶の針はそのまま彼女がいた位置を素通りしていく。
         落ち行くヤツハの姿が、横に人ひとり分、ズレている。
         ヤツハに回避すら許さないはずの大量の針も、そのどれもが無意味な軌道で飛来し、無明桜への流れ弾すら無駄に地面に突き刺さる。

         

        「行ったれ、ヤツハぁ!」


         地上で算盤を弾くアキナの声が、その背中を押す。
         ヤツハはぱきり、ぱきりと黄緑の結晶の花を全身に咲かせ、その背に戴いた星空の翼を暴力的に羽ばたかせた。

         

         イニルへ急速に距離を詰めるヤツハの胸元が、大きくひび割れる。
         滲み出る星空は瞬く間に広がり、彼我の間合いをまるごと喰らう巨大な大口が敵へと噛み付いた。

         

        「あっ――」

         

         輝きが、尾を引く。その色は、ヤツハと同じ黄緑色。徒神たる証。
         膝から下に食いつかれたイニルが、結晶の飛沫を散らしながら、空中での姿勢を取り戻そうともがく。地中に獲物を引きずり込むような喰らい方をした大口によって、地面に叩きつけられる軌道を描いている。

         

         眼下に広がるメグミの花園に顔を顰め、上空へ舞い戻るべくイニルが行く先を見上げる。
         しかし、彼女めがけ飛来する一本の針。
         結晶ではなく鉄で拵えられた、背筋の凍る気配を漂わせる凶器。
         ヤツハに紛れて降下していたチカゲが、怪物の下顎を蹴りつけて、二の矢を指に番えながらイニルへ追いすがる。

         

        「っ……!」
        「効きますよねぇ?」

         

         イニルは背中を下に落下するまま、槍で一本目を振り払う。その反動も使い、直線的に迫ってくるチカゲの軌道から身体を逸らす。
         そのまま急上昇を狙うイニルに対し、肉薄を諦めたチカゲは、滅灯毒を込めた複数の針を勢いよく投射していた。敵の四方に放たれた針は、体勢を変えられて虚空を貫いたものの、なだらかな上昇軌道に入ることをイニルに許さない。

         

         チカゲは深追いせず鋼糸を結んだ苦無を外周側へ投げると、怪物らの対処で周回するヴィーナに回収されていく。
         攻め手は次の者へ――イニルがその意図を理解したときにはもう、強引な上昇のために落下の勢いを受け止め始めたところだった。
         その頭を抑えるように、振り下ろされるは武神の刃。

         

        「おおぉぉぉぉッ!」

         

         枝から飛び降りたユリナの手には、傷ひとつない斬華一閃。巨大な無明桜の上からまともに地面に落ちればただでは済まないだろうが、彼女の目には恐れひとつありはしない。
         急制動の衝撃をその身に受けるイニルに、軸をずらしての回避は望めないだろう。
         イニルの顔が、堪えきれない感情にありありと歪む。

         

        「うぅぅッ!」

         

         彼女が翼にしていた結晶の一つが、制動に耐えられなかったように、その背から下に零れ落ちた。そして足元を苦々しく槍を薙ぐと、穂先が打ち据え、結晶は砕け散る。
         しかし、繰り出されたのは針の雨ではなかった。
         世界が、不気味に脈打った。

         

        「なっ――」

         

         今まで見えていた光景が、全て蔦でできていたように蠢く。その幻視は、歪に曲がりくねっては元の景色とズレた位置に重ね映しになる。
         イニルの姿は、冒涜的ですらあるその幻視の中にだけ存在した。一瞬のうちに幻視が鳴りを潜めれば、元居た位置には確かにいない。ただ惑わせるだけではなく、幻視を介して瞬時に移動した彼女は、とうにズレた位置を飛んでいた。
         故に、ユリナの一撃は空振りに終わる。地面の花々が、果敢に追撃した彼女を受け止めようと待ち構えている。

         

        「こんな奴らにっ……大丈夫、まだ大丈夫だから、お願い……!」

         

         イニルから、祈りが漏れ出した。今の対応が苦肉であると思わせる、彼女だけが想起する代償への恐れだった。
         それは、あれほど揺蕩う泡沫のような七色の態度をしていた彼女が、この戦場で最も強く発露させた感情かもしれなかった。それほどに代償は高くつくのか、胸の内に聳える堰を傷つけられたかのようだった。

         

         だがそれは、決して劣勢を悟った悲壮に伴う情動ではない。
         最も似つかわしいとすれば、憤り。それも自他共に向いた、不甲斐なさを添えるもの。
         増していく敵意は、彼女が未だこの場を制するつもりである証だ。

         

         ならば、とメガミたちは数の利を活かす。
         態勢を立て直そうとしたイニルの行く手に、影で編まれた茨が張り巡らされる。
         方向転換を強いられ一瞬だけ減速したその身を、桜色の光条が焼いた。

         

        「っ……!」
        「わたしだってっ!」

         

         相手との距離は保ちつつ、桜の精を振り向けるホノカ。ウツロと共に背の翅をはためかせ、無明桜を背にしてイニルへと得物を向ける。
         イニルの視線が当初狙ったようにホノカを捉え、進路が傾いていく。だが、すぐに気が変わったように、後ろ髪引かれながらひたすら上を目指していく。

         

         イニルを諦めさせた要因が、空を駆け上げる。
         その姿は、紛うことなき今代の武神・ユリナ。
         天翔ける術を持たないはずだった彼女は、その背に桜と影の織りなす四枚の翅を広げ、イニルと同じ戦場を目指し飛び立っていた。

         

         そしてユリナの姿は、桜の周囲に生まれた戦場の空白に浮かび上がる。背後や眼下でひしめき合っていた怪物の姿は、今や散る花弁にすら触れられぬほどに遠い。
         ホノカとウツロに代わり、大群を相手取るのはメグミとサリヤ、そしてチカゲ。広域を満遍なく守護する植物と、突出部を即座に叩く機動戦を叶えるヴィーナ、その機動力で広範囲に散布した毒によって、こちらは数の圧倒的不利を抜群の安定感で覆し続けていた。

         

         防衛態勢が整った今、他の矛先が全てイニルに向かう。
         追い立てるように切り込んでいくのは、ユリナとヤツハ。
         敵に、戦況を整理させる暇は与えない。

         

        「あぁっ、く……ぅああぁぁぁぁッ……!」

         

         引き絞られた悲鳴が、上へ逃げるイニルの喉から漏れ出した。
         悲痛な絶叫を噛み殺した彼女はくるりと下へ向き直り、刹那迷ってから苦しげに振るった槍が、残る結晶を叩き割る。

         

         その瞬間、闇と星明かりが包み込む。
         メガミたちの頭上に、不吉なる星空が広がった。
         山の天窓から見通せる空が夜を迎えたのではない。七合目から先が、果てしなき茫洋なる星の海の向こう側に呑み込まれている。それは可能性の大樹を待ち受けるあの星空を思わせ、メガミたちが勝利する未来に立ち込める暗雲であるかのよう。

         

         暗澹たる景色は三つ数える間に掻き消え、これも幻視であると分かる。
         だが、一変したメガミたちの表情は、幻などではない。
         響き渡ったサリヤとチカゲの悲鳴もまた、現実だった。

         

        「どうした、のよッ……!?」
        「な、何が……!」

         

         鋼の翼で戦場を駆け巡っていた彼女の愛機が、ふらふらと軌道を乱す。振り落とされたのか、チカゲが機体の端に片手でぶら下がっていた。
         機体の後ろ半分が、ばらばらに分解されている。
         積荷を次々落としていく荷馬車のように体積を減らすヴィーナは、重量の均衡が崩れたことで今にも怪物たちの戦列へ突っ込んでしまいそうだ。必死に制御しようとサリヤが試みるが、彼女自身が振り落とされていないのが奇跡的な暴れ方だった。

         

         当然、防衛線への遊撃は叶わない。
         そしてそれを、誰も補えない。
         草木は枯れて間引かれ、毒は霧散する。桜の精は萎れ、這おうとした影は掻き消える。

         

        「ご破算やと!?」


         算盤玉すら、全て零に戻さねばならない有様。
         何かが狂っている。何かが抜け落ちている。
         白昼夢の如く現れた星空の幻視に、メガミたちは傾いた流れを断ち切られていた。

         

         そこに例外はない。
         違えた計算で最も危機に陥るのは、敵の矛先に最も近い者。
         狙いを絞らせないように連携して飛んでいたユリナとヤツハが、互いに軌道を読み違えたのか、驚いた顔で接触する。

         

        「あ、っ……!」
        「ごめんなさいっ!」

         

         もみ合って一つ塊となり、垂直に回転しながら徐々に減速していく。共に細かな飛行に慣れていないせいもあるだろうが、揺らいでいるユリナの翅が容易な復帰を許していない。
         二人めがけ、破滅の槍が襲いかかる。
         カムヰを貫いた同じ逆落としでも、イニルの形相は、必死極まりなかった。

         

        「消えろぉぉぉぉぉッ!」

         

         余裕は、どこにもない。あるいは、最初から余裕などなかったのかもしれない。
         切りたくなかった手札を切らされて、桜の滅亡に近づくための戦果へ、代償に相応しいだけ手を伸ばそうとしている。変貌からは、そうとしか見いだせなかった。
         ユリナとヤツハをまとめて切り裂かんと、輝き纏う長槍が薙ぎ払われる。

         

        「嵐よッ……!」

         

         ユリナから放たれた威風が、反動で彼女をヤツハごと地上に向けて弾き飛ばした。
         切っ先が、虚空を断つ。
         空振りに終わったイニルに隙は生まれる。だが、がむしゃらだったためか、かなりの下方まで後退したユリナたちに反撃の余地はない。

         

         その様子に、イニルが残身をさらに捻り、投擲の構えを見せる。
         渦巻く黄緑の煌めきが、殺意の高まりを訴える。

         

        「ちょろちょろ邪魔なのよッ!」

         

         槍は、剛弓の一射が如く放たれた。
         その方向は、前。打ち下ろすような、前。
         ユリナたちのいる真下ではなく。
         敵の相手は、メガミなのだから。

         

        「……! しまっ――」

         

         失態を悔いるサリヤの声が、破砕の重奏に埋もれていく。離脱する寸前だったチカゲが、間に合わず吹き飛ばされる。
         姿勢制御に苦慮していたヴィーナごと、サリヤの腹部が貫かれた。ただ衝撃を浴びただけではない、元々の素材が脆かったかのように、機体は無数の小さな金属塊に分かたれ、すぐに桜の光に還り始める。

         

         防衛線に沿って飛んでいたために、吹き飛ばされる先は敵軍の只中。
         流れ弾で容赦なく数体の怪物が抉られていようと、手負いにとって死地であることには変わりない。
         だが、それ以前に、サリヤの様相は希望を否定する。
         形を保てなくなった顕現体が、解れ、花と散る。

         

        「サリヤさ――ぁがッ……!」

         

         悲鳴は、連鎖する。宙に投げ出されたチカゲが、壁に縫い留められる。
         瞬く間に放たれたイニルの二投目は、チカゲの胸の中心を正確に狙っていた。実際に貫かれた右胸が、あと一瞬足りなかった回避を物語る。
         着弾の衝撃で四肢が跳ね、ぼろぼろと顕現体が崩れ去るにつれて、怪物の群れの向こう側に落ちて見えなくなる。瞳に光がなかったのは、頭を打ち付けて気絶したか、あるいは。

         

         望まぬ応手を使わせた一方、代償は二柱。それも一瞬のうち。
         集ったメガミたちは、イニルを追い詰めるに足る戦力を持っていたかもしれない。けれど、一撃必殺の力を持つ相手を追い込むとはどういうことか、誰も正しく理解できていなかったのかもしれなかった。

         

        「だめっ!」

         

         三度の投擲に入ろうとしたイニルの前に、ヤツハがその身を躍らせた。
         己も一撃で貫かれることへの恐怖は、欠片もない。同じ徒神だからという安易な希望も、露ほどもない。
         ヤツハの瞳に映る意志は、磨かれた魂そのもの。彼女にとっての自我と決意が、この地の全てを守る気高き盾として立ちはだからせ、折れぬ矛として突きつけさせた。

         

         彼女が定めた、討つべき敵へ。
         英雄と同じ眼差しに乗せて。

         

        「傷つけさせません、絶対に!」
        「気に入らない……気に入らないのよ、その目……!」

         

         パキパキと、イニルの握力が結晶質の槍の柄を削る。
         彼女の憤怒は、悍ましい殺意に還元される。しかし一方で、これほどの大立ち回りをしておきながら、ヤツハの眼差しに押さえつけられているかのように苦しげだった。
         例えばそれは、揺蕩う水を掴むことは叶わずとも、凍りついた端から掬い上げられ、少しずつ目減りしていくような有様だ。析出し始めた感情が、勢いを道連れに彼女から零れ落ちているのかもしれなかった。

         

         カムヰという処刑人ですらまるで引き出せなかった、その激情。不倶戴天の如く睨み返すイニルに、恐れという感情は似合わない。
         だが、内心はどうあれ、イニルは一時的に動きを止めた。
         その姿が、桜と影の螺旋に呑み込まれる。

         

        「巡れ……!」「巡れっ……!」
        『永久の狭間にっ!』

         

         相反する力が渦を成し、無限の塵化と無限の再生を繰り返す。神座桜の根幹を担う権能の尋常ならざる均衡は、脱出不可能の檻を作り出し、巻き込まれた万物は形を留めることはない。
         しかし、盟約の象徴たる両翼が、その翅をもがれた。
         結晶の針が、ホノカとウツロを深々貫いた。

         

        「邪魔……するなァッ!」

         

         イニルが全周を薙ぎ払うと、地上から立ち上っていた竜巻めいた陰陽の檻が、呆気なく霧散した。
         落下する小さな二つの顕現体が、苛烈な斬撃を浴びる。
         二人で一つの桜の象徴が、還っていく。
         敵を戒めることすら叶わずに。
         けれど、

         

        「勇者の……杖よぉッ!」

         

         

         消えかけていた渦が、既のところで息を吹き返す。黄金色をそこに混ぜ、再びイニルめがけ立ち上っていく。
         メグミの手にした杖に、一帯の草花が手を貸している。
         大地の力全てを、彼女を介して届けるように。

         

        「なに……?」

         

         呟くイニルの足元で、渦が、二つに分かたれた。
         枝分かれした陰陽の檻は逆巻いて、仇敵を捉えんと迫る。怪物たちに向けねばならない力までを、この一瞬だけでも注ぎ込んだ、全霊の継承。
         その意志を無駄にせんと、振るわれた槍が、弾かれる。

         

        「……!?」

         

         イニルの足元で重なり合った渦は、ただ衝撃に一度揺らいだだけで、折れぬ心のように彼女を未だ呑み込まんとする。
         離脱までの決断は、早かった。
         けれどそれ以上に、ヤツハの行動は早かった。
         巨影が、降り注ぐ。

         

        「逃しません!」
        「お、おま――ぁがぁぁッ……!?」

         

         怪物の拳が、イニルを上から押さえつける。桜と影の螺旋に脚を食らいつかれたイニルが、理解が及ばないという表情で苦悶の声を漏らした。
         受け止める槍が悲鳴のように黄緑の輝きを強めても、星空の拳が砕けることはない。
         決死の抵抗として、結晶の針が暴れ狂う。

         

        「させへん、けどっ……!」

         

         メグミを、ヤツハを狙う大量の針が再び狙いを過つ。しかし、アキナが算盤玉を弾く指先には、普段の痛快にして明瞭な動きは見えない。
         草花の吐く種が、鏡から零れた手が、すり抜けた結晶の針から主を守る。
         いつまでもは続かない。それでも今、敵の放埒は止められた。
         ならば、

         

        「今ですっ!」

         

         最後の希望が、戦場を昇る。
         武神・ユリナ。かつて英雄と呼ばれた、桜降る代を愛すメガミ。
         担い手の消えた翅が輝きを失い、みるみる萎れていく中、それでもその黒い長髪が荒れ狂うほどに速度を纏う。

         

         その手に構えるは、名刀・斬華一閃。
         滅亡を希う力の前にも決して砕けなかったその刃は今、こみ上げる力の発露を訴えるかの如く、輝きに脈打っている。
         真髄を絞り出し、絶望に立ち向かうユリナそのものと混ざり合うように。

         

         その刃の持ち主が有していたのだから、必然、彼女に継がれているのだ。
         刃の本質――意志の伝う見えざる刃。
         少しずつ形を変え、在り方を変え、今やそれはメガミ・ユリナの本質であった。

         

         まるでそれは、幾重にも鉄を折り合わせ、打ち鍛える刀そのもの。
         かつて英雄としての意志を宿し、メガミとして想いを重ね、未来を追って敵に挑む彼女に相応しいその顕現。
         ユリナは手に馴染ませるように一振りし、襲い来る結晶の針が退けられた。

         

        「退きな……さいよぉっ! あたしはっ……あたしはぁっ……!」

         

         悲痛に叫ぶイニルの眼下で、ユリナの刃が輝きを孕む。
         ユリナの在り方を示すように、力強く。満開の、桜色。
         刃の本質が、斬華一閃に溶け合う形で顕現した。
         その光たるや、古妙が徒寄花を討ち取った際と同じ煌めき。

         

         即ち、今だけはメガミ・ユリナではなく――

         

        「おおぉぉぉぉぉぉっ!」

         

         天へと落ちる流星の如く、希望の光が空を駆ける。
         絶望の星空を、切り開かんがために。

         

        「さかさ……つきかげ……おとぉぉぉぉぉぉし!!!」

         

         

         振り上げられた刃が、イニルを捉えた。
         左腰から右脇にかけての逆袈裟。陰陽の渦を避け、ヤツハの怪物も傷つけない、針の穴を通すような斬撃。

         

         黄緑の血潮が、遅れて溢れ出す。それすら覆い隠す、青白い輝きが破裂する。
         ユリナの一太刀が、その存在を斬り裂いた。

         

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        『神座桜縁起 後篇』第9話:徒寄戦線

        2023.11.30 Thursday

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           号令に蜂起したかのように、歴史を蝕む蔦が一斉に蠢いた。
           桜降る代という逞しい枝の傍流であった朽ちかけの歴史が、みるみるうちに崩れていく。骸晶の蔦が息の根を止めるかのように巻き付き、そして何もなかったかのようにまだ形を保っている枝へと食指を伸ばす。

           

           ――そんな……!

           

           目の前で、歴史があっけなく失われた。
           未来が閉ざされた程度ではない。一つの系譜が完全な消滅を迎えてしまったのだ。

           

           少女の宣言を皮切りに激変した事態に、ヤツハを悍ましさが襲う。
           これまでの腐海のような、不穏さを覚える侵食ではない。
           徒寄花が、これまで紡がれてきた歴史を圧倒しようとしている。
           まさしくそれは、侵略に他ならなかった。それも、相手を根絶やしにするまで止まらない、絶滅のための侵略だった。

           

           残された歴史を、余さず喰う。
           全ての可能性を摘み取るかのように。
           無論、彼方の枝は元より、桜降る代とそこに至る歴史も例外ではない。
           ヤツハの足元にまで、絶望の蔦が迫っている。

           

           ――っ……!

           

           湧き上がる戦慄を噛み殺し、ヤツハは力強く少女を睨む。
           少女は、繰り広げられる非道を見下ろして、笑みを浮かべていた。そこには今までの語り口を思わせる儚さを滲ませているものの、彼女の顔立ちは造形だけ見れば快活さを感じさせるそれだ。あらゆる印象が揺らぐ、掴みどころのない相手だった。

           

           その態度に、ヤツハの眉根を寄せる。
           鏡との繋がりを確認したヤツハだったが、行動に移す前に制止がかかった。

           

           ――少し……待ちたまえよ。
           ――か、カナヱさん!? 大丈夫で――

           

           慌てて確認して、ヤツハは絶句した。カナヱの腹部にかけての左半身が、腕を巻き込んで崩れ落ちていた。
           まさしく風穴が空いたと言うべき容態は、顕現体にとって致命傷に等しかった。削れた断面からは大量の桜飛沫が散っており、今なおぼろぼろと端から崩れ落ちている。不意打ちとはいえ、少女の一撃はあまりに重すぎる爪痕を刻んでいた。

           

           しかし、カナヱの制止はヤツハだけ向けられたものではなかった。カナヱの眼差しは、どちらかと言えば少女に対している。
           強がりかどうか、不敵な笑みと共にカナヱは言った。

           

           ――ここで顕現体が傷つくのって、こんな感覚なんだね……。もう分かったから、また直接来れないか今度ヤツハと試しておくよ。この顕現体、作るのもそんな簡単じゃあないんだ。
           ――私がもっと、上手に鏡を使えていれば……。
           ――ヤツハが気に病む必要はないさ。なあ、そこの君。

           

           水を向けられた少女。その瞳がカナヱを注視する回数は如実に増え、あらかさまに眉を顰めていた。
           ヤツハに対するよりも色濃い、カナヱへの悪意。相手が既に満身創痍であろうとも、臓腑を鷲掴みにしてくるような不快なその悪意を、少女が収めることはない。
           しかし、対するカナヱの態度は悠然そのもの。死に体なことなどもう気にも留めていないと言わんばかりに、枝を離れふわふわと浮かんでいる。

           

           その視線だけを、研ぎ澄ませて。
           飄々と受け流すでもなく、真正面から受け止めるばかりか、少女の瞳の裏に隠された悪意の根源に立ち入らんとするように。
           それがなお気に入らないのか、少女が槍を握る手に力を込める。
           それでもなお、カナヱは踏み入るのをやめなかった。

           

           ――ヤツハのことを見て、予感を覚えてはいたけれど……。

           

           ついに現実となってしまった――そう痛ましい表情で、カナヱは言った。

           

           ――やはり、君と徒寄花は同じものだった。旧き預言者たちが悲しむよ。可能性の影、その再来というわけだ。
           ――ッッ……!

           

           ギリ、と空間の曖昧さを突き破って、少女の歯が軋む。
           カナヱは構わずに続ける。

           

           ――姿や人格を持っていたとはね。最古の徒神……いや、むしろ取り入れたのかな?
           ――やめ、ろ……。
           ――それだけ本気というわけだ。かつては茫洋なる星空として、未来に――
           ――やめろって言ってるのよッ!

           激昂した少女が、空いた左手の指先を跳ね上げた。
           直後、カナヱが二つに分かたれた。下で繁茂していた骸晶の蔦が織られ、槍となってカナヱの腰を貫き、初撃のようにバラバラに崩壊させていた。
           顕現体が、限界の上をさらに超えた。

           

           ――カナヱさんッ!?

           

           反射的に名を叫ぶ中で、ヤツハが覚えたのは動揺だった。
           残ったカナヱの顔には『ここまでされるとは』と言いたげな小さな驚きが浮かんでいる。何かしらの確執に触れたつもりではいたのだろうが、彼女にとってすら相手は計り知れないという証拠だった。

           

           けれどそれ以上に、両断されたカナヱに苦痛も怒りも悔しさもなく、仕方なさげに宙を舞っていた。もう消える定めだったとはいえ、せめて一矢報ようといった様子もなかった。
           どこか、この結果を受け入れている。
           自分から動かないメガミとはいえ、首魁らしき敵への態度ではない。それなのに、相手に敵わぬ諦めの類も全く感じられないものだから、ヤツハは混乱しかけていた。

           

           そんな内心を見透かしたように、カナヱが微笑みかけてくる。
           凄まじい桜飛沫に包まれた彼女は、

           

           ――大丈夫。カナヱはただ、退場を求められただけさ。
           ――で、でもっ!
           ――そうだね。せめて最後に……道を創るよ。

           

           急速に光へとほつれていくカナヱの身体。それら輝きが、ヤツハの傍にある大鏡へと集っていく。
           カナヱが砕け、還るほどに、鏡は輝きに満たされていく。
           その鏡から、やがて二条の光が伸びた。

           

           一つは、遠く彼方へ。
           徒寄花打倒を成し遂げた歴史の彼方へ、言葉通りに道となるように。
           そして、この光景を見聞きし、感じる意識が一瞬眩む。
           もう一つは、『こちら』側へと伸びてきた。

           

           ――あぁ……。

           

           やがて得心したように、ヤツハが息をつく。その頃にはもう、カナヱの姿はこの空間から消え去っていた。
           後に残されたのは二条の道とヤツハ、そして敵意滲む少女。

           

           少女はカナヱの撃破に特に満足するでもなく、憮然とした様子だった。ぶら下げた槍の穂先を、落ち着かなげに足で弄んでいる。

           それから彼女は、余分な苛立たしさを吐き捨てるように、

           

           ――別に……いいわ。

           

           そう言い残すと、揺らめく不気味な虹の光となって、制止する間もなく消えてしまった。
           一人になったヤツハの耳に、パキパキ、という不吉な音が輪唱する。脅威の化身が去ったとて、桜降る代を取り囲まんとする蔦はなおも蠢いていた。

           

           歓喜から一転、真の脅威が運んできた絶望。
           あの少女を眠る脅威の顕現と呼ばずしてなんと呼ぶ。

           

           カナヱの意図然り、ここで折れるヤツハではなかったが、すぐには行動に移せない程度には敵が強大であったのも確かだ。邂逅と別れは、その重みからすると僅かな時間で、ヤツハには少なからず整理が必要だった。
           だが、その余裕すら相手は用意してくれなかった。

           

          『や、やつはんやつはん! 聞こえてたら、急いで戻ってきてくださぁい!』

           

           ――わっ! くるるんさ、ん……。

           

           鏡から突然、慌てた様子の友の声がして、ヤツハは湧き上がった予感に表情を硬くした。桜降る代側の装置と鏡を介した、一方通行の緊急連絡だ。
           ヤツハは彼方との繋がりを再確認すると、鏡の見た目を二回りほど大きくして、光で白んだ鏡面に駆け込んだ。広漠で明るい領域から桜降る代の徒寄花の世界に戻ってくると、その狭く広大な星空の中で、徒神に変質したクルルが落ち着きのない様子で待っていた。
           久しぶりのはっきりした身体の感覚に喘ぎながら合流すると、

           

          「ど、どうし――」
          「とにかく出ますよ!」

           

           説明もなしに手を引かれ、出てきた鏡と反対側に開いた青白い光の扉へ共に飛び込む。
           帰り着いたのは、ユリナたちを見送ったいつもの北限の洞窟。所狭しと絡繰が立ち並ぶところもヤツハの記憶と同じで、刺すような寒さがいっそ懐かしくさえあった。
           けれど、ヤツハをまず出迎えたのは、あの日にはなかった警戒を喚起させる甲高い鐘の音。歴史渡りで問題が起きたときのために、各地の桜の異常を知らせるものだ。
           そしてジュリアは、その警告を無視してヤツハに急いで駆け寄った。

           

          「や、ヤツハサン! タタ大変デス、外で、コルヌサマが!」
          「……! ここに居てください!」

           

           予感は、的中した。苦虫を噛み潰したようなクルルが、その口を開く必要はなかった。
           洞窟を抜けた二人の前に広がっていたのは、悪夢だった。

           

           銀世界を我が物顔で闊歩する、徒寄花の怪物たち。
           出来損ないの人の形をした星空色の木偶の坊が、武具を形だけ曖昧に取り込んだ四肢を調子を確かめるように振り回し、得物を向けるべき獲物を探し彷徨い歩く。
           いつもは強烈な吹雪も彼らに気圧されたように遠慮がちなこともあって、その体躯は白銀に墨汁を落としたように嫌でも目についた。

           

           何より、今なお増え続けるその数たるや、数えるのも馬鹿らしい。
           原因は明白。雪煙に覆われた陽光の下、ぽつぽつと空に浮かぶ大鏡が星の海を吐き出し、淡々と怪物を産み落としていた。
          そのどれもが今顕現させた自身の鏡とは異なると、ヤツハの感覚が告げている。
           この歴史の徒寄花がカナヱから奪ったように、元は全てカナヱのものだったのだろう。星の数ほどある異史において、カナヱたちから簒奪した可能性を見通す鏡が、侵攻の門として再び悪用されているのだ。

           

          「やっと来よったかッ!」

           

           コルヌがかち上げた右脚が、眼前の甲殻に覆われた怪物を縦に引き裂いた。振り下ろす勢いでその場で旋回し、蹴り飛ばした雪が氷の刃と化して周辺の敵を貫いていく。
           凍てつく風で数体の足止めを図ったコルヌは、遅参した二人を刹那睨める。
           だが、凍りついた怪物の陰から、彼女の背めがけ別の怪物が四体飛び出した。

           

          「危ないっ!」

           

           ヤツハは鏡像を生み出して瞬時に移動し、大鏡より喚び出した巨腕が怪物たちをまとめて薙ぎ払う。圧殺せんと迫っていた彼らは、凍りついた仲間もろとも深い雪に埋没する。
           悪意に満ちた星の海に抗する、ヤツハの星の海。
           かつて怪物の証であったそれを行使する表情に、もはや惑いはない。
           並び立つそんなヤツハを見て、コルヌの口元が微かに緩んだ。

           

          「さて、鏡によるこの攻勢……『始まった』と見てよいのだな?」
          「間違いないかと。カナヱさんが敵にやられました」
          「かかっ! 隠居しすぎて遅れを取りおったか。ならば我らは、一層奮闘せねばなるまいて。なあ!」

           

           にやり、と獰猛に笑いかけてきたコルヌへ、ヤツハも力強く笑みを浮かべる。
           如何に視界が悪いとは言え、人気のない大雪原では戦いの震源地は隠せるものではない。方々で生まれた怪物が、手近な敵の気配に惹かれて軍団の影を雪煙に映し出す。

           

           徒寄花の怪物の主な狙いは神座桜。ヤツハたちに気づいていない怪物が何割か、果桜のあるさらに北を目指そうとしていることからもそれは確かだ。
           もしも怪物が果桜を討ち取れば、彼らは次の標的を探し求めるだろう。この大群が南下を始めれば、必然として人の営みは尽く蹂躙される。その連鎖が終わった先には、荒涼とした大地がただ残るばかり。

           

           ヤツハの脳裏に、可能性の大樹の出来事が蘇る。
           戦いは、ただ目の前の神座桜を守るためだけではない。
           桜降る代という歴史を巡る戦が、幕を切って落とされたのだ。

           

          「おおっとぉ、くるるんを忘れてもらっちゃあ困りますよぉ!」

           

           声と共に、ヤツハたちの背後から数条の光線が打ち出され、立ち込める雪煙と共に怪物たちを撃ち抜いた。
           射手たるクルルは洞窟の前に陣取り、周囲に大量の絡繰を展開している。その道もまた守らねばならない、希望への道だった。
           短銃を持った手を振り、クルルは軽快に笑う。

           

          「じゅりあんには近づかせないんで、ぱぱっとやっちゃってください!」
          「ハッ、言われずとも!」

           

           号令を受け、ヤツハとコルヌが権能を解き放つ。
           極寒の地に、花々が咲き乱れる。

           

           

           

           

           


           この時、遍く大地に星の影は落ちていた。
           北限のみならず、大鏡は各地の大きな神座桜を中心として、侵攻の扉を開いていた。

           

           広がる重い曇天の下、怪物が群がる神座桜の輝きはいやに眩く見える。かの終焉の影に呑まれたあの日よりも、目の前で蝕まれようとしている分、各地では悲惨な光景が繰り広げられていた。
           人間も、ミコトも、メガミも、現れた脅威を前にただ悟る。
           敗北の先に未来はない、と。

           

           

           

           


           薙刀の刃が、星空の体躯を水面ごと切り裂いた。

           

          「はッ!」

           

           海上をミズスマシの如く泳いでいた怪物が、腕を一本切り落とされて浮力の均衡を崩す。
           サイネは、死なば諸共と突進してくるそれに対し、神速の二連撃を追撃として叩き込む。残る前腕を一本、背を覆う亀のような骸晶の甲殻の継ぎ目を一箇所、的確に断ち切るや否や、大きく跳躍して怪物の頭上を飛び越した。

           

           顕現させた水晶を足場とすることで、サイネはまるでトビウオの如く水上を縦横無尽に飛び跳ねる。
           跳躍の勢いを乗せて、空を行く鳥じみた怪物を両断。さらに一抱えほどもある衝音晶を生み出すと、足場として使った直後に破砕する。破片に何重にも共鳴して生まれた振動は海を波立たせ、浴びせられた怪物たちはもがいて動きを止めた。

           

           その隙を狙い、海中から押し寄せた強烈な水流が、怪物を沖へと押し流す。
           そして沖に散在する水球が敵の接近を感知して爆ぜ、硬質な外殻ごと肉体を砕いては吹き飛ばす。

           

          「ふぃー、キリがありませんね」

           

           浮かぶサイネの足元に、人の形が顔を出した。ハツミである。
           徒神の姿に変じるハツミは、じわじわと岸や海原から押し寄せてくる怪物たちを眺め、水球を次々と周囲へ流していく。
           手を動かす間、ハツミは訊ねた。

           

          「北は大丈夫なんです?」
          「ええ。コルヌ様たちも、信頼できる皆もいますから。……クルルは、少し信頼しがたいですが」
          「あはは……」

           

           苦笑いするハツミ。
           サイネは、それに、と続けて、

           

          「今為すべきは、皆が帰る場所を守りきること。だからこそ、私は私にできることをただ為すだけです」

           

           薙刀を構え直し、威圧するように侵略者たちへ切っ先を向ける。
           ハツミはその姿を見て、拳を握り込んだ。

           

          「……そう、ですね。あたしももう一度、七つの標を。それを……正しき命運にするために!」

           

           差し出された石突に、ハツミがその拳を合わせる。再び二手に分かれた両者は、芦原の海で怪物たちを翻弄する。
           彼女たちの舞い踊るその水底には、水鏡桜が滔々と煌めいている。

           

           

           

           

           


           大樹を杭にしたような巨大な槍が、トコヨの鼻先一寸を掠めていく。
           質量に任せた刺突を優美にいなされ、体勢を崩した怪物を、閉じた扇の尖端が受け止める。それは加速で膨らんだ自らの重量を一点に受けることを意味し、上半身を支える脇腹が砂礫のように崩れ去った。

           

           そのままくるりくるりと、粗野な暴力になど侵されぬばかりに美しく舞う。その様は、まさしく完全性の体現である。
           そこに織り交ぜるのは、恐怖の情感。かつて徒神として身につけた破滅を想起させる舞が、怪物たちの衆目を集め、その矛先を一身に集める。

           

           そこに疾駆する、一つの影。
           目にも留まらぬ速さで怪物たちの合間を駆け抜けたかと思えば、軌跡にぬらりと煌めくのは鋼の糸。
           トコヨの傍に現れたオボロが手を引くと、雪崩のように転倒した怪物の軍勢が、互いの重みや勢いに引かれ、見えない糸に引き裂かれていく。

           

          「あんたと力を合わせてこんなのと戦ってると、どうしても思い出しちゃうわね」

           

           背中合わせに立ち位置を変えたトコヨが、言葉に仄かな毒を込めた。
           オボロはそれに苦笑して、

           

          「背中を合わせる相手が不満か?」
          「なっ――」

           

           顔を赤らめたトコヨは、敵を視界から外さないよう、限界まで目を寄せて背後のオボロを睨もうとした。
           ただ、結局相手の顔すら視界に入れられないことに歯噛みして、扇でオボロの脚を叩いた。

           

          「今回は何も企んでないわよね!?」
          「拙者の性分では否定しきれんが……少なくとも『この拙者』は何も企んではおらんよ」
          「はあ……自分も信じられないなんて難儀なことで」

           

           呆れるトコヨに、オボロは困った顔で肩を竦めた。直後、余談は終いと真剣な顔つきに戻った二人は、誘引と殲滅の罠を再び張り巡らせる。
           彼女たちの優美なる舞台を観劇するように、白金滝桜はしずしずと煌めいている。

           

           

           

           

           


           光輝耀き、影が渦巻く。
           相反する二色の力で抗戦するのは、勾玉を携えたヲウカだ。

           

          「寄るなっ……!」

           

           桜の光は星空を晴らすが如く怪物を打ち据え、桜の塵はさらなる闇で覆うが如く怪物を呑み込んでいく。
           しかし、死角から抜け出してきた怪物の大爪による斬撃が、ヲウカの衣の端を引き裂く。息の詰まった彼女は、反射的に腕を振るって桜の力ありのままを怪物へぶつけ、強引に距離を取る。

           

           脚は竦み、硬く結んだ口に恐怖が滲む。
           力ある者として戦場に立つ一方で、歯を食いしばりながら戦うその姿は、寄る辺を失ったようにどこか弱々しい。恐れが視野を狭め、判断を鈍らせ、手元を狂わせてはさらに際どい交錯に恐怖する悪循環は、主神の立ち居振る舞いとは程遠く、危うい。

           

           次々と迫る怪物の群れに、ヲウカがじりじりと押される。
           だが、

           

          「『あの糞婆が、こんなところでこの地を、人間たちを、諦めるものでしょうか』」

           

           ギリッ、とヲウカの奥歯が鳴った。
           同時に勾玉から放たれた光と影が、余波でヲウカの髪を激しく弄ぶ。先程とは比べ物にならない怒涛は、ヲウカを取り囲まんとしていた怪物たちを尽く打ち払った。

           

           戦果を前に、ヲウカはしばし呆気にとられる。
           そしてはっと気づいたように声がした方向に目を向けると、そこには書を開いたシンラが真意の伺えない微笑みを顔に貼り付けていた。
           眉を寄せて、ヲウカは問う。

           

          「どういうことでしょうか」
          「何、この地を守る意志は、私の胸にも確と満ちていますから。巡り合わせとはいえ、せっかく肩を並べるのです。互いに鼓舞は大いにすべきでしょう?」

           

           あからさまな建前にヲウカが目で続きを求めると、シンラは薄目でくすりと笑った。

           

          「一つ、恩を売っておこうかと。天秤の石は、もう少し強かなほうが望ましいですから」
          「……結構。命賭して尽くしていただきましょう」

           

           シンラの嫌味に、ヲウカはせいぜいそう告げるしかなかった。
           隠しきれない怒りを怪物たちに向け、勾玉のみならず桜で編んだ小刀を構える。己が源流より続く宿敵、そして仇へと背を預けた。
           御名を騙る者と暴く者を見守るように、桐子桜は凛と煌めいている。

           

           

           

           

           


          「ていやぁーっ!」

           

           巨大な鉄槌が、空を支配せんとしていた怪物たちを片っ端から打ち砕く。振り抜かれた豪快な一撃の威力を喧伝するように、ゴォン、と盛大な鐘の音が街に響き渡る。
           ハガネは縮小する大槌と共に、くるくると戦場を落下していく。見下ろす地面には、迎え撃つ多数の怪物たちの影が広がっている。
           柄を握る手に力を込めた直後、その腕が力強く握られ、身体が宙に留め置かれた。

           

          「ヒミカっち!」

           

           笑顔咲かせるハガネに、ヒミカがにやりと笑いかけた。足裏から噴き出す火の勢いで飛ぶヒミカが、ハガネをぶら下げる形だ。
           ヒミカはそのまま空いた肩を竦めると、

           

          「危なっかしくて、つい手ぇ貸しちまった」
          「むーっ、下のもまとめて吹っ飛ばすつもりだったもん! 一人で大丈夫っ!」

           

           頬を膨らませるハガネが鉄槌を少し大きくすると、増した重みをヒミカが慌てて支える。
           抗議じみたそれに、けれどヒミカが文句をつけることはなかった。
           戦場に似合わない温和な笑みを浮かべ、ヒミカは小さく呟く。

           

          「そうか……。ああ、そうだな」
          「え、何?」
          「――いや、なんでもねぇッ!」

           

           そう言うと、ヒミカの手から特大の火球が放たれた。待ち受けていた怪物ごと直下の地面を焼き払い、着地するヒミカとハガネを避けるように周辺だけを燃え上がらせる。
           二丁の銃を顕現させたヒミカは、火に悶える怪物の軍勢へ景気づけとばかりに連射する。
           歯を見せ笑うヒミカが、高らかに告げる。

           

          「さあ、ここからはいっちょヒミカ様の大活躍と行こうか! どっかのアタシのケツ拭く訳じゃねえけど、今回ばかりは守りに回らせてもらおうじゃねえか!」

           

           銃声と同時、炎の壁が外周側へと津波のように広がり、地を這う怪物が脚部を焼き焦がされて転倒していく。
           それを見たハガネは、今一度大槌を膨らませた。

           

          「うん! めぐめぐたちが頑張ってる間、この桜はあたしたちが守らないと。絶対にっ!」

           

           大地との斥力によって、ハガネが宙へ舞い戻る。注ぎ込まれる遠心力が、侵攻の歩みを打ち砕く力となる。
           その戦場に咲くは、かつて栄華の証として八大名桜の末席に加わるはずだった神座桜。
           数奇なる因果の果て、名を得たばかりのそれが、花弁を揺らす。
           彼女らと共に戦う意志を訴えるかのように、希龍桜は力強く煌めいている。

           

           

           

           

           


           幽玄なる鎧武者たちが、幽世の門より続々と馳せ参じる。
           多様な武器を模した体躯を有する様々な怪物の進軍に対し、補充の兵員へと号令が次々と飛んでいく。

           

          「右翼、誘引後の前線の守りを補強! 追加の遊撃部隊は中央進出を支援、右方への展開にて寸断し、挟撃しますの! 騎兵部隊は残敵掃討、深追いは厳禁でしてよ!」

           

           軍配を片手に駒を動かし続けるのは、瑞泉城渡り廊下の屋根の上に陣取ったミズキだ。
           例に漏れずさほど防衛を重視していない城郭と立地だけあって、この北城壁には右から左からわらわらと怪物たちが迫っていた。だが、戦域がどれだけ広かろうと、ミズキが全霊を賭して招集し続ける兵の数が困難な防衛を叶えている。

           

           強引な突撃を試みる怪物は分厚い盾の壁に阻まれ、背後から繰り出される槍の餌食に。
           巨体を引きずる敵は孤立させられ、縦横無尽に馬を駆る騎兵によって切り刻まれる。
           ただ防御を固めるだけではなく、怪物同士の連携が戦術の領域までは達していないことを突いた、即興の機動防御。指揮するミズキもさることながら、阿吽の呼吸で叶える兵も一人ひとりが猛者揃いである。

           

           そして、城壁の上より戦場を睥睨する闘神が一人。
           腰だめに構えた桜色の人影が正拳を放つと、足止めされていた大きな怪物の腹に風穴が空いた。

           

          「コダマ! 左翼から飛行型複数!」

           

           端的な伝達だけで、幽体が向き直る。かの決戦にて出陣したときより僅かにはっきりとした長身の体躯は、兵だけでは為し得ない必殺の一撃を将にもたらす。
           しかし、引き絞ったコダマの拳が止まる。
           ミズキが視認した空からの侵略者たちが、空色の光にまとめて貫かれたのだ。
           計算外の撃墜に、けれどミズキは半ば予想していたようにため息をついた。

           

          「はぁ……困りものですの」

           

           こめかみに指先を当てていると、彼女の頭上に人の形をした猛禽が舞った。
           呆れ顔を空に向けると、現れたミソラはさも不思議そうに言う。

           

          「なんだい、僕が来たっていうのに」
          「いえいえ。些か消去法とはいえ、どうにも快諾し難い縁に導かれたものですわね」

           

           ようやく姿を見せた共闘相手に、わざとらしく肩を竦めて見せるミズキ。足並みを揃えるという概念をまるで知らないような自然の化身を見る眼差しは、これまでに溜まった疲労よりもなお疲れていた。
           ミソラはそれに首を傾げながら、

           

          「んー? 僕はよく覚えてないけど、そうかもね。なんだか腹が立つ相手がいたような気もするよ」
          「……えー、私は存じ上げませんが、この怪物共を退けていれば、その素敵なお相手のこともそのうち思い出せるかもしれませんのー」
          「そうかそうか、久々の狩りの楽しみが増えたね!」

           

           上機嫌で戦場へと飛んでいったミソラに、もう一度ミズキは溜息をついた。
           悠久を越えて受け継がれた意志は、どんな形であれ縁を紡ぐ。そんな摂理を語るように、翁玄桜は厳かに煌めいている。

           

           

           

           

           


           降り注いだ雷が、怪物を上半身を粉々に破壊する。鋭く駆け巡る暴風は四肢を引き千切り、大きな図体の歩みを戒める。
           動きを止めた怪物の足元に現れたライラの爪が、体躯の星空を深々と切り裂いた。

           

          「つぎ!」

           

           一呼吸だけして、彼女は再び獲物へと向かう。
           メガミでも随一の機動力と、迅速かつ広範囲に打ち付ける風雷。広大な戦場でこそ輝くのは間違いなく、現にライラはたった一柱で己が定めた防衛線を敵に一歩たりとも踏ませていなかった。大きな円形という、全周から攻勢を受ける防衛線であっても、だ。

           

           しかし、物量を前にしてじわりじわりと押されているのもまた事実。ライラが、壮大なる大自然の如く敵の前に立ちはだかろうとも、雲の合間に陽が射すようにいずれ綻びが生まれるのは間違いなかった。
           敵は鏡から際限なく湧き出してくる。自然の摂理を踏みにじるような侵攻には耐え続ける他なく、ライラは身体の動くままに相手を屠り続ける。

           

           しかし、怪物の喉元を貫いたところで、ライラの耳がぴくりと動いた。
           崩れる巨体を蹴って宙を駆ける彼女は、誰かに聞こえるように言った。

           

          「やっと、きた」

           

           ライラの向かう先よりも少し外れた位置。柱のような脚で足元の湯を盛大に蹴り上げながらのし歩く、ひときわ巨大な怪物のその足元。
           ゆらり、と影が滑るように肉薄する。
           そして怪物の脚に細い切っ先を軽く一突き打ち込むと、怪物は一瞬震え、前のめりに倒れながら光へと散っていく。

           

          「悪かったわね」

           

           暗く不気味な笑みを湛え、長い黒髪を翻す致死の為し手。その名はユキヒ。
           彼女は辺りの状況を把握すると、怪物を仕留めた簪で髪を手早く纏める。それから手にした番傘を思い切り振り回し、鎖で柄の伸びたそれが寄ってくる小型の怪物たちをまとめて打ち据える。
           ライラは現れた援軍に大声で訊ねる。

           

          「おおしごと、だった?」

           

           対してユキヒは苦笑いを浮かべ、ちらりと空を見上げる。
           そこに広がるのは、煌めく縁の糸。赤が、黄が、翠が、蒼が、藍が、紫が――質感も太さも様々な七色の糸が、桜降る代の全土にそれぞれ繋がっていくように、目の届かぬ彼方まで伸びている。
           健在なその繋がりを確かめて、ユキヒはにっこりと笑った。

           

          「大変だったわ。でも、怪物たちは桜を狙うんでしょう? だから、より深く結んでおいたのよ。みんなと桜の縁を」

           

           笑いかけた先のライラにも、獣の皮のような胡桃色の縁の糸が伸びている。
           ユキヒは怪物を仕掛け番傘の鎖で転ばせると、

           

          「あとは私自身が、ちょっと手薄な桜を守るだけね!」

           

           縁を引き寄せ怪物を誘導する彼女に、電光を纏ったライラが反対側へ嵐のように走り出す。
           在りし穏やかな日々と、その中で結ばれた数多の縁を振り返るように、湯気の中で湯煙桜が鷹揚に煌めいている。

           

           

           

           


           そして、桜降る代の中心、咲ヶ原。
           聖域たる陰陽本殿では、桜染めの旗が翻っては数多の精が舞い踊り、影編みの大鎌が引き裂いては数多の塵が万象を喰らう。
           最も巨大な神座桜――無明桜を守護するために配されたのは、遺構に強い縁を持つ陰陽の体現者たる二柱・ホノカとウツロ。

           

           山のように空へと吹き抜ける本殿は、本来この時間であれば、徐々に夕日の橙が混じり始めた陽光が混じり、得も言われぬ色彩に満たされているはずだった。
           だが今、聖域は忌々しき星空に蝕まれている。
           外から中から、押し寄せる怪物の数は膨大。至る所で鏡が星空を吐き出し、果てなき侵攻は他のどこよりも激しく、無慈悲だった。

           

          「徒寄花もっ、分かってっ、攻めてますよねっ?!」
          「関係、ないっ!」

           

           

           ホノカの愚痴に付き合わなかったウツロも、顔には既に疲れが滲む。
           だが、見た目に小さなこの二柱に対し、怪物の大軍は物量以外に勝る要素が一つとしてありはしなかった。本殿の中央に鎮座する無明桜の、大きく広がった枝花の影すら立ち入ることができていない。

           

           ホノカもウツロも、ユリナに救われた頃のままではない。
           各々が強かなる意志を持ち、しかし心は一つに重なった。解き放つ原始の権能は絶大で、大桜の下という最高の戦場も相まって、絶望的な数の差を覆し続けている。桜の精によって鏡の破壊が叶うことも戦況に大きく寄与していた。

           

           果てはない。しかし、二柱もまた心折れぬ限り、無尽の奮戦に挑み続ける。
          だが、

           

          「ウツロちゃんッ!」

           

           ホノカが名を叫び終えるよりも前に、ウツロは上に手を翳していた。
           無明桜を目指す、一筋の閃き。
           その異様さを感じ取った二柱によって、桜と影が寄り集まり、陰陽の盾となる。

           

           飛来するのは、一本の槍。骸晶の蔦で編まれた、歪で奇怪で、悍ましさを覚える、鋭い槍。
           槍は盾に激突すると、少しばかりの衝撃を周囲に撒き散らし、一瞬だけ静止した。
           しかし、次の瞬間には守り手たちが目を剥いた。
           槍が冷たい黄緑の光を放つと、桜も、影も、ふいに掻き消えた。まるで、どちらも本来在るべきではなかったと告げられたかのようだった。

           

           そのまま速度を思い出したかのように、槍が再び無明桜を貫かんと迫る。
           その刹那、

           

          「ハカミチ」

           

           

           大地より生じた数多の巨大な紅刃が、四方から槍を逆に貫いた。
           槍の推力を奪うには一枚でも足りず、二枚でも足りず、けれども山脈の如く連なった刃が身を挺して食い止め、ついには宙に縫い留められた。
           ひとりでに横薙ぎする大剣が、槍を弾き飛ばす。

           

           桜の頭上に揺蕩うは、桜への脅威を排する原始の力の顕現・カムヰ。
           最古の力を有する三輪の花が、天より舞い降りし不遜なる存在を睨みつける。
           降臨するは、たった一人の少女。移ろう太陽の如くして冷めた玉虫色の長髪を揺らし、大きくはためく衣が不穏なる影を花々に落とす。

           

           メガミたちは理解する。この少女こそが、眠る脅威の顕現であろうと。
           同じ人の形にして異質なる力を中に詰め込んだその気配は、今までこの地に現れた徒神の誰もと比較にならないほど、世界から浮いていた。
           別の歴史の影響で変化したわけでもない。
           力を引き出し、取り込んだわけでもない。
           支配され変容したわけでもなく、苦肉の策で産み落とされた落とし子ですらない。

           

           本物――
           あまりの違いに本当にそう呼ぶべきか分からずとも、それでもホノカは、こう呼ぶしかなかった。

          「徒神……!」
          「ふぅん……ここじゃそういう名前だったわね」

           

           

           大して興味もなさそうに少女は呟く。
           ヤツハの前から姿を消したあの少女は今、己の前に立ち塞がる三柱のメガミを睥睨する。その眼差しには一撃を防がれた憤りなどありはせず、敵を真っ直ぐ見ているようでいながら、まるで捉えていない、そんな胡乱な目線であった。
           少女はしばし迷うにしては忙しなく、メガミたちの間で視線を彷徨わせると、やがて努めてカムヰを見据えた。

           

           現れた脅威にとっての最も大きな脅威、それがカムヰなのは間違いないだろう。それはメグミの歴史を含め、これまでの徒神との戦いで証明されている。ホノカとウツロもそれが分かっていて、怪物たちの処理に少しずつ意識を戻していく。
           四振りの大剣を纏って漂うカムヰは、感情の見えない瞳を眠たげに瞼で半分隠し、気怠げに敵を視界に収めている。
           その様子に、少女は目を細め、

           

          「……似てるわね」
          「……?」

           

           ほんの僅かに首を傾げたカムヰに、少女はほくそ笑む。

           

          「あなたもずっと、眠っていたいんでしょ?」
          「…………」
          「なら――幸せにしてあげるわ」

           

           少女の手に、徒寄花の蔦が絡み合う。
           繁茂した破滅の鎖から新たな槍が生まれ、刃がカムヰを映し出した。

           

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          『神座桜縁起 後篇』第8話:彼方の枝の英雄たち

          2023.11.16 Thursday

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             絶望が、空を舞う。
             人と樹木と鉱物の間に産み落とされたかのような悍ましい造形を得た徒寄花は、古鷹領は古鷹邸の奥に構えられた精製所を飛び立ち、進路を南に、既に都上空を抜けていた。

             

             徒寄花が通り過ぎた地上には、何も知らない人々の悲鳴が響き渡る。だがそれは、未知なる怪物が突如現れたからだけではない。
            巨体の脚に相当する部位から、時折ぱらぱらと何かが落ちていく。引き抜いた植物の根から土がふるい落とされるかのようだったが、そんな生易しいものではなかった。

             

             それが大地へと振りまくのは、種。
             見た目には一塊の鉱石にしか見えないそれは、瞬く間に発芽し、骸晶質の蔦を周囲へと伸ばしていく。ただでさえ種の単純な質量が破壊をもたらしているのに、地を這う蔦はあらゆるものを呑み込み、不気味な輝きで大地を蝕んでいく。

             

             半刻もしないうちに、古鷹の都は既に半壊状態。
             果たして一夜のうちに、どれほどの破滅が広がるだろうか。
             果たしてひと月のさばった後、この地は生き永らえているだろうか。
             しかし、終焉を阻止せんと地上から徒寄花を追う鉄塊が一つ。

             

            「おいおいおいおい、勘弁してくれ! 俺はそんなに運転得意じゃあないんだぞ!?」

             

             ギャギャッ! と車体と車輪が軋みを上げて、進路を塞いでいた種と蔦を四輪車がすれすれで迂回する。
             冷や汗を流して操縦桿を回す銭金に、後部座席のメグミから抗議の声が飛ぶ。

             

            「ち、ちょっと! 振り落とされちゃうって!」
            「うるせえ、文句はあのデカブツに言え! こちとら軍用規格なんだ、乗り心地を求め――ってオイ! 刀をぶっ刺す馬鹿がいるかよ!」
            「ごめんなさい、つい!」

             

             謝るユリナは、しかし車の床に刺した斬華一閃を引き抜くことはない。メグミと並んで座席に膝立ちになり、背後を向いている。その手から噴き出す威風が、その杖から放たれる烈風が、少しでも車体を前に押し進めていた。
             桜に煌めく煙を棚引かせながら走る車は、メガミの手助けもあって相当な速度で荒れた街道を駆け抜ける。馬車すら比肩しうるものではなく、かつてサリヤが人間だった頃のヴィーナにも決して引けを取るまい。

             

             しかし、三人の見上げる空に、葉を揺らす怪物の背中が常に浮かび続ける。
             怪物の侵攻は確かに速い。けれど、ただでさえ不利な陸路で種の妨害を受けている。
             追い縋れているが、追いつけない。
             速度が、足りない。

             

            「あのデカブツ、このままだと本当に鞍橋に突っ込んじまう! 頼む二人とも、もっと押してくれぇ!」

             

             些か情けない悲鳴を上げる銭金と共に、限界を超えた速度に機体が悲鳴を上げる。
             けれど、返ってくるのは同じく悲鳴だった。

             

            「これ以上は、ちょっとっ……!」
            「無理、かも……!」

             

             限界を訴えるメガミたちに、銭金が頭を掻きむしった。どちらも風や推力は権能の副産物に過ぎず、絞り出したとて根本的に状況を変えるには至らない。
             ゆっくりと、しかし確実に徒寄花の姿は遠ざかっていく。
             そもそも追いついたところで、空の巨影にどう立ち向かうというのか。
             絶望の芽が、確実に、彼らの心に頭を出し始めている。

             

             だが、そのときだ。
             失意に見上げた天に、風を切る別の影が閃いた。
             それは、翼を戴いた四肢ある人の形。怪物に勝るとも劣らない遥かなる威容。
             桜色の血潮流るる、天駆ける黒鉄の巨人――否、巨神。

             

            『I AM THE SERPENT. I CURSE YOU. AND I AM THE SONG. I IMPRESS YOU』

             

             妙な響きを伴ったサリヤの声が、巨神と化したヴィーナより大音量で発される。呼応して巨神の両脇で桜色の扉が生まれ、そこから新たな機影が二つ、現界する。
             一つは蛇の如き尾を揺らし、一つは美声を奏でる対なる大口を開く。どちらもサリヤの愛機ヴィーナの姿が一つ。
             そして、飛翔する二機は変形、分離し、合一を果たす。

             

            『TRANSFORM, FORM:NAGA AND KINNARI!!』

             

             鋼の蛇が、風を切って空を泳ぐ。ヒトの胸のように胸の左右に取り込まれた大口は、両脇に抱えた大鼓かのよう。
             蛇は凄まじい速さで徒寄花との距離を詰めると、その双眸が赤く光り、光条となって巨体の背中に突き刺さった。

             

             破壊はない。だが、翼の動きにぎこちなさが混じる。
             追撃とばかりに蛇が高く飛び上がり、両の大口を激しく打ち震わせた。周辺の木々が風を無視して揺れ動き、音波の直撃を浴びた怪物の翼が耐えかねたように破片を零した。
             追いつくことも叶わなかった徒寄花が、巨躯を揺らしている。

             

            『待ちなさいっ!』

             

             その隙に追いついた巨神が、右腕を突き出す。だが、まず放たれたのは鉄拳ではなく、装甲の合間から飛び出した無数の針だった。
             畳針程度の、人には大きすぎ、巨体には小さすぎる得物。
             けれど、硬質な肌に突き刺さった瞬間、激痛を覚えたかのように怪物の体表が蠢いた。

             

             打ち込まれたのは、猛毒。
             存在そのものの死を内包した滅灯毒が、徒寄花を蝕み始める。
             患部ごと取り除こうとしているのか、ボロボロと崩れ始めた着弾地点めがけ、巨神の左拳が突き刺さる。

             

            『させないッ!』

             

             徒寄花の身体が少しくぼみ、毒針が改めて深々と打ち込まれた。四方八方で生まれては消えていた木のうろのような空洞が、目まぐるしく移り変わる。頭頂に咲く黄緑の花の輝きが、悲鳴を上げるように明滅する。
             パキパキ、バキバキ、と怪物から骸晶の蔦が大量に生え、巨神の腕が引き戻すところを蔦に掴まれた。
             これまで大地に種を振りまいてきたように、蝕もうとしているわけではない。
             徒寄花が、巨神ヴィーナを討ち滅ぼすべき障壁と認識したのだ。

             

             巨神を宙に縫い留める蔦とは別に、数多の蔦が螺旋を描き、瞬く間に一本に織られていく。
             誕生せしは、巨大なる槍。傾いていく太陽の光を歪な七色に反射する、現実味のない螺鈿細工のような鋭い刃。
             巨神の図体こそ的だと言わんばかりに、徒寄花の肩越しに切っ先が狙いを定める。
             だが、

             

            『I AM THE SPIRIT. I THWART YOU. TRANSFORM, FORM: MAHORAGA!!』

             

             現界した機構が巨神の首に巻き付き、うなじから這い上がって蛇の上顎を模した冠と化す。さらに肢体を葉脈の如く細い部品が這い、新たに取り込んだその部品が、翡翠色の輝きを解き放った。
             腕を掴んでいた蔦が、小さな石粒に分解されていく。
             戒めを解かれた巨神は、しかし退くことはない。

             

            『I AM THE DEMON. I DESTROY YOU. AND I AM THE WAR. I DEFEAT YOU』

             

             両肩と胸より出でて敵を睨む、鬼の形相。
             右の拳が一度手首の中へ収まり、高速回転する白銀の刃となって現れる。さらに腕の側面からも長大な刃が現れ、猛烈な回転を得て敵を切り刻まんとする。

             

            『TRANSFORM, FORM:YAKSHA AND ASURA!!』

             

             度重なる変形合体の果て、巨神と巨魁の一撃が正面からぶつかり合う。
             ガガガガッ! と。
             ヴィーナの刃が槍の尖端を迎え撃ち、辺りに耳をつんざくような摩擦音が鳴り響く。両椀の回転刃が怪物の胴や迫る蔦を削り落とし、砕けた破片と共に街道へと降り注ぐ。大量の火花と閃光が衝撃の余波で吹き散らされ、その眩さはまともに目にすることも難しい。

             

             拮抗は、僅かに槍側が有利。少しだけ打ち下ろしたその角度が、膨大な質量と共にヴィーナを貫かんと徐々に押している。
             だが一方で、ヴィーナの両椀の刃が怪物の葉のような翼を少しずつ削り取る。
             悶える徒寄花の蔦がさらに槍へと収束し、切っ先がヴィーナの心臓を向く。
             ヴィーナが――否、サリヤが、吠えた。

             

            『おおぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!』

             

             彼女の気迫が響き渡ると同時、ヴィーナの戴いた翼が、さらに猛烈な勢いで桜の光を吐き散らす。ぎしぎしとその鋼の身体が軋み、加速と衝突の狭間で悲鳴を上げ続ける。 

             さらに、先行していた二機一身の機体が尻尾のように腰に装着され、全身に巡る桜の光をもう一段強く輝かせる。
             完全なる巨神ヴィーナの姿が、この瞬間、顕現する。

             

             けれど、それでも押し込まれる刃に、巨神の胸に現れていた鬼の顎が光り始める。
             桜の輝きが収束し、臨界を迎えて憤怒を思わせる赤みすら帯びた。
             直後、

             

            『OMNIS-Blaster...SHOOOOOOOOOT!!!』

             

             

             切り刻まれた怪物の左翼を光の奔流が引きちぎったのと、巨大な槍がヴィーナの右肩を打ち砕いたのは同時だった。
             巨神は光条の反動と翼の出力を止めたことで後ろに傾いでおり、真っ向から貫かれて損害を増やすのを嫌ったようだった。押し返せないという判断から、痛み分けを狙ったのだろう。

             

             ヴィーナの破損した部位が大量の桜の光へと還り、合体を維持できなくなったのか、巨躯のあちこちで部品となっていた機体がそのまま散っていく。
             衝撃に体勢を崩した巨神が、地上へと引き落とされる。翼は努めて引き止めているのか、勢いを殺すように幾度も噴射し、軟着陸の姿勢へ移っていく。

             

             サリヤ渾身の兵器への傷は痛手だ。
             だが、片翼をもがれた怪物は、もはや自由に空を闊歩することは叶わない。
             空からふらふらと落下し始めた徒寄花に向かって、一台の車が猛然と走る。

             

            「わあぁぁぁぁ! ふざけるな、潰されちまうぅぅぅ!」
            「魔女の杖よッ!」

             

             銭金の情けない悲鳴を無視して、メグミの杖から凄まじい速度で風の刃が放たれた。ユリナに身体を掴んでもらってなお、車上の不安定さでは全力とは程遠いものの、反動で前輪が浮き上がったほどである。
             メグミの追撃が怪物の右翼に炸裂し、姿勢を容易には取り戻させない。骸晶の擦れ合う音が絶叫の如く響き渡る。

             

             サリヤたちの作り出した好機が、絶望の行進を止めようとしている。集った四柱のメガミが、徒寄花の放埒を許さない。
             否、集いしメガミは、彼女たちだけではない。

             

             彼方より空に走った蒼穹の軌跡。
             巨体を軽々とくり抜いた矢が宙に溶けた瞬間、一拍遅れて徒寄花の蔦が起きたことを理解できなかったかのように暴れ出した。
             射手は東より。空色の翼纏いし、自由と空の体現者。

             

            「まったく……良いように使ってくれるよね。ほら、この僕が来たよ!」

             

             猛禽が如く咲ヶ原を囲む山々を越えて現れたミソラが、得意げに両手を広げて見せる。
             しかし、空飛ぶ彼女の足元から抗議の声が。

             

            「当たり前や、勝手に暴れよったくせに! アホなんやからアホらしく炉に収まっとけこのアホ!」
            「は!? 自由の象徴たるこの僕が、心臓だなんて役目に縛られるわけないだろう! そう、何物にも囚われない僕こそが、炉から外れた監視者として相応しいのだから――って、痛いじゃないか!」

             

             ミソラの下半身にしがみついていたアキナが、容赦なくミソラの脚を叩いた。

             

            「何も分からんと、それっぽいこと言うてるだけやろアホ! もう騙されへんで! アンタを偉大なメガミとして深読みしとったあの日の自分を、どんだけはっ倒したい思うとるか!」
            「僕の知らない話をするのは止めてくれるかな!?」
            「うっさいボケ! いいからはよ降ろさんかい!」

             

             騒然とやってきた援軍に、車を止めたユリナたちが苦笑いを浮かべる。蟹河からの東西横断を実現した最高峰の進軍速度を誇る空の象徴も、これでは形無しである。
             喧嘩する二柱をよそに、遅れてもう一対の空の翼が地上へ降り立つ。

             

            「あの鉄の巨人は、サリヤさんのでいいんですよね……?」

             

             ミソラの羽を模倣していたレンリが、抱えていた藤峰古妙を解放する。泣きそうな顔の古妙は着地に失敗して顔から地面に激突していた。
             話題に挙げられたヴィーナはというと、ユリナたちを避けるように街道脇に着地した。
             見上げんばかりのその威容から、人間大の影が飛び出した。
             チカゲと、彼女に抱えられた闇昏千冬である。

             

            「さっきほどは動けないようですけど、もう、手は届きますから」

             

             メガミたちの眼差しが、徒寄花の巨体に注がれる。
             ずず、と街道の行く先にて大地を揺らし、四本の脚のようになった蔦の束が土煙を巻き上げる。腕の部分とで胴体を支えてはいるようだが、再びの空は当分望めまい。

             

             構えられた七つの象徴武器が、敵を捉える。
             メガミたちが堰を切って立ち向い、対する徒寄花は種を撒き散らして抵抗を始める。
             その背中を、三つの双眸が見送っている。
             命運に導かれた、三人の人間が。

             

             

             

             

             


            「あ……えっと、ども……」

             

             どう言葉を作っていいか分からないなりに、まず口を開いたのは古妙だった。一応、指示を無視して蟹河に向かったことも脳裏をよぎっているかもしれない。
             次の出立を待つ車の小さな唸りを背景に、顔を突き合わせることになった三者。本来この早さではありえない再会に驚きを隠せておらず、あまりに複雑であろう互いの事情を前にして、疑問すら喉に詰まっているようだった。

             

             彼らは、混沌たるこの事態に翻弄されたと言っていいだろう。三者三様の経緯で以て、ただ一つに定まった戦場にたまたま、あるいは必然、同時に辿り着いただけだ。
             その経緯を詳らかに語るには、時間が足りない。
             しかし、それぞれが胸の内に燻らせていたものに火をつけられているのも確かだ。それこそが、この場に導かれたきっかけであったはずなのだから。

             

             この破滅をある種の断罪だと受け入れ、それでも未来を拓く手を模索せんとする男も。
             抱いた不信に甘んじた停滞から這い上がり、受け継いだ責務を今一度全うせんとする女も。
             その火を原動力に、前を向いている。けれど、その火を打ち明ける相手として、この今、互いを選ぶ必要があるのかと言われれば否だった。
             だが、少なくとも、少女にはその必要があった。

             

            「千冬さん、銭金さん……」

             

             名を呼び、それから少しだけ迷いを残して、古妙は二人を見た。
             そこに、風に吹かれるような軽薄な態度はない。幼い頃よりずっと被り続けていたであろう仮面を、脱ぎ捨てようとしている。
             かつて見出した己の命運を果たすために。
             自分から築いていた壁を、取り払う。

             

            「あーしは、二人を尊敬してる。……でも、正直失望してるし、軽蔑もしてる」

             

             だけど、と古妙は継いだ。いくらも言葉足らずな彼女の言葉を、二人は黙って聞いていた。

             

            「それを全部しまっちゃったのは、あーしだから。だから……だから、今は……」

             

             古妙が、頭を下げた。
             腰を折って、手を揃えて、勢い余って大きなおさげから髪飾りが一つ外れても、一切取り繕うことなく。
             彼女は、真摯に、真っ直ぐに、告げた。

             

            「力を貸してください。オボロ様に託された命運を一つ、果たすために」

             

             それは、何かを願うには毒を含んでいた。交渉も何もない、自分の想いを一方的に伝えるだけの、歯に衣着せぬ願いだった。
             しかし、銭金と千冬が怒りを見せることはなかった。
             ここにいる誰もが、至らなかった。ここにいる誰もが、悔やんでいた。
             今日という日に、三人は、その毒を呑み下していた。いや、あるいは、既に身体の奥で息づいていたことに気づいただけだったかもしれない。

             

             だから、願いに滲んだ毒に、誰も唾を吐くことはない。
             それを受け入れて、皆、ここにいる。

             

            「ふん……下っ端がしゃしゃり出て、何だよお前って、思ってはいるけどさ」

             

             銭金が口を開き、古妙が顔を上げた。
             彼は腕を組み、古妙を睨んでいた。微かに、古妙の瞳が陰る。
             けれど、

             

            「全部説明させんのは後回しにしてやるよ。で、お前は何がしたいわけ?」
            「銭金さん……」

             

             ぶっきらぼうながらすぐに願いを呑んだことに、古妙は一瞬呆気にとられた。
             そして、彼だけではない。
             千冬もまた、その想いに応える。

             

            「あの怪物への解答を持っている……そう捉えていいのですね?」
            「そ、そう、そうなの! メガミの皆さんだけじゃ、きっと倒しきれない……式を込めて、こいつを叩き込みたいんだ」

             

             言い終わるかどうか、古妙の手が虚空から無を抜き払った。
             その瞬間、彼女の周囲の空気が一気にひりついた。三人共息を呑み、あまりに雄弁な説得材料を目の当たりにする。
             刃の本質。断ち切るという概念を結実させた、不可視の刃。
             もはや顕現武器すらろくに拝めなくなった彼らだろうと、古妙の出した得物がどれほど凄まじい存在なのかは分かったようだった。本能が恐れる切れ味に、銭金も千冬も一歩後ずさっていた。
             自身も僅かに苦笑いしながら、古妙が続ける。

             

            「怪物までの足と櫻力……いや、できれば櫻力機関が欲しいかな。打ち込む直前まで計算が要るから」
            「足と櫻力機関って……」

             

             ちら、と千冬と古妙の視線が一点に注がれる。
             銭金はげんなりとしながら、

             

            「うちの車かよ。そりゃ制御用に算術回路は積んでるが、あのデカいやつ借りたほうがいいんじゃないのか?」
            「いえ、見たところ技術体系が違いすぎます。出力は期待できますが、この限られた時間で転用するのは厳しいかと」
            「……まあいいか、もう床に穴も開いてるしな。使い潰すつもりで行こう」

             

             近寄った銭金が、車体を叩く。既に苛烈な追走劇を繰り広げた後とあって土埃に塗れ、傷だらけだった。
             決意を浮かべる古妙が彼を追おうとしたところで、千冬が小走りに並ぶ。
             その手には、手のひら大の小箱めいた部品が二つ。

             

            「計算というと、これも役に立ちますか? 櫻電式ですが、修理用に持ってきた算術核です」
            「いやいや、さっすが総監督サマ! それがあるのとないのとじゃダンチっしょ!」

             

             目を輝かせた古妙の顔に、力強い笑みが現れる。つられてか、千冬にも微笑みが浮かぶ。
             それから三人は、ほど近くで激戦の続きが行われている中、土壇場の開発を進めた。車を部分的に分解し、装置を取り付け、計算機同士の難解な回路を巧妙に繋ぎ合わせていく。もちろん、正念場を走れるように車両としての整備も忘れない。

             

             作業中、何か語らうかと言えば言葉少なく、共同で実務などしたことはないだろうに、それでも連携に瑕疵はなかった。
             粛々と、為すべきことを為しただけ。
             未来のために。
             責務のために。
             使命のために。

             

            「まったく、都合が良すぎるってもんだ。こいつを突貫でどうにかできる技師がちょうどいるんだもんな」

             

             作業を終え、全員が乗り込んだところで運転席の銭金がぼやいた。
             それに、後部座席の二人が応える。

             

            「これが、命運というものなのかもしれません」
            「だから、成し遂げるんだ。あーしたちが」

             

             警笛を一つ鳴らし、車は再び走り出した。
             徒寄花の顕現に向かって。

             

             

             

             

             


             メガミたちは、戦い続けていた。
             この歴史に、きっとヤツハはいない。脅威の具現たる巨大な怪物を前に、言葉を尽くす余裕などありはしない。既に都市が一つ壊滅した今、ただ全力で退ける以外、彼女たちに選択肢はなかった。

             

             怪物の巨躯は、地に落ちてなお前進を止めない。残った僅かな浮力と脚代わりの蔦の束を使って、少しずつ這うように街道を南下し続けている。
             決して、メガミたちを無視しているわけではない。四方八方から生み出された蔦や撒き散らす種は、明らかに彼女らを退けようとはしている。だが、それはあくまで侵攻を続けるためのものであって、正面から向き合う気配はあまり感じられない。

             

             どれほど断ち切っても、どれほど叩いても、どれほど射抜いても。
             進路上に咲き誇った花々の弾幕で押し返し、黒鉄の巨神が数多の蔦を翻弄しようとも、徒寄花が撃退に全力を傾けることはなかった。せいぜいが、チカゲの滅灯毒にやや反応を強めている程度である。

             

             これくらいでは滅びないと確信しているとしか思えない。
             メガミたちはそれでも手を止めることはなかった。たとえ倒しきれずとも、あるいは倒したところでいつか蘇ろうとも、この侵攻を食い止めることから降りるわけにはいかなかった。
             何故ならば、

             

            「来ました!」

             

             ヒミカに変化したレンリが叫び上げる。
             彼女たちは傍目に見ていた。そして、ある者は知っていた。
             古妙たち三人が、手を尽くそうとしているところを。
             あらゆる人間が抗えなかった凶華を、打倒せんとしているところを。
             苦難を切り開かんとする彼女らにかつての自分を重ねるように、英雄の行く末たるメガミたちは、戦いの渦中でその時を待ち侘びていたのである。

             

             無論、失敗はいくらでも脳裏をよぎるだろう。数多の歴史が、絶対はないと証明している。
             けれど、車は希望を乗せて、荒れ果てた街道をひた走る。
             運命を切り拓くために。

             

            「道を作りますッ!」

             

             応えたのは、ユリナだった。
             地上から追走していた彼女は、叩きつけられた蔦に飛び乗った。そこから蠢く蔦に次々と飛び移って、最後に強烈な跳躍で空を背に抱く。
             眼下に広がるは、今まさに編まれようとしている幾本もの巨大な槍。
             それらめがけ、神速にて天より落ちるユリナが刃と化す。

             

            「つき、かげ……おとぉぉぉぉぉし!!」

             

             

             着地から一拍遅れ、彼女の頭上で数多の蔦が断面を曝す。その豪快な斬撃は、刃渡りよりも太い蔦であろうと音もなく断ち切り、崩れ行くところでようやく崖崩れのような轟音を立て始める。
             突如重みを失った徒寄花が前に傾ぎ、進行がほんの僅かに緩まる。
             それが、合図となった。

             

            「よっしゃ、待っとったで!」

             

             徒寄花の進行方向より右方、街道を見渡す小高い丘の上に、狙撃手たちは構える。
             アキナが算盤を弾く傍ら、ミソラの長弓が限界まで引き絞られる。全霊を込めた一矢が、太陽の如く輝きを放つ。

             

            「パチパチパチーって、計算完了! こいつでいてこましたってや!」
            「まったく、君はいつも――ん? これが初めてか……?」
            「ええからはよ!」
            「言われなくとも! 僕の矢が、千里の果てまで貫こう!」

             

             蒼天の矢が、瞬く間に平原を駆け抜けた。
             それは、樹も、草も、風も、彼方に聳える岩肌をも無視して、怪物の前方下半身だけを捉える。軌道上の標的だけを削り取り、膨大な体重を支えていた脚の二本が、付け根から千切れ落ちた。

             

             後方に構えていた槍のみならず脚まで失い、均衡を保とうとしていた怪物が今度こそ耐えきれずに前に倒れ始める。
             動きが、止まった。すぐさま脚を修復しようとしているが、大きな間隙であった。
             土煙舞う中、伏した怪物めがけ車輪が唸る。

             

            「ひえぇぇぇぇぇ! ど、どこまで行けばいいんだあぁぁぁ!?」
            「胴体まで! 蔦は切り離されたらヤバいっしょ!」

             

             散乱する蔦の残骸や今なおばら撒かれる種の真っ只中を、銭金の半ば自棄な操縦で突っ切っていく。
             後部座席では、刃の本質を構える古妙。その隣では千冬が、古妙に持ってもらった数字塗れの紙片を片目に、猛烈な勢いで計算機の小さな操作盤を叩き続けている。本来想定されていない使われ方のためなのか、計算機が繋がる機関が甲高い悲鳴と桜の光を零している。

             

             決意と希望を抱く者たちが、命を賭して走り続ける。
             その覚悟に応えるべく、メガミたちはさらに道を繋いでいく。

             

            「侏儒の杖よ!」

             

             メグミが杖を振るうと、怪物の周囲の地面から大量の蔦が顔を出す。意趣返しとばかりに巨体に巻き付き、深緑の戒めが体勢を立て直す余裕を与えない。
             抗うように生み出される骸晶の蔦は、巨神の一瞥が咎めていく。

             

            『Gamma-Ray!!!』

             

             残った兵装からヴィーナが光線を吐き出し、体表で蠢いていた蔦の萌芽が照射された端から再び眠りにつく。
             そして、既に伸びて凶悪な得物と化している蔦の動きも、緩慢になっていく。
             赤い霧が、怪物を包む。

             

            「吸わないでくださいねぇ!」

             

             巨体に駆け上ったチカゲが、ありったけの毒を振りまく。口も鼻も見当たらないながら、毒が作用していることが、この鉱物の山じみた徒寄花もまた生き物なのだと告げている。
             七柱のメガミが舗装した道を、三人の英雄がまさに踏破し、首魁に迫らんとする。
             だが、

             

            「お、おい、蔦が……!」

             

             車の行く手を阻むように、一本の太い蔦が怪物の手前で道に横たわった。動きが鈍くなったなりに、今最も効果的な倒れ方を徒寄花が選んだのだ。
             迂回するにもかなりの遠回りな上、いつ暴れだすか分からない。察知したユリナが走り出しているものの、今の車速では蔦にぶつかる方が早い。さりとて道が開けるのを止まって待つには、降り注ぐ全てが危険すぎる。

             

             絶妙な判断を強いられた銭金が、加速用の操作桿から足を浮かそうとした。
             けれど、響いた少女の声が前を求める。
             レンリ扮するハガネだ。

             

            「そのまま走って!」
            「っ……! 知らねえぞもう!」

             

             壁のような蔦に向かってさらに踏み込んだ直後、彼らの進路上で地面が隆起する。蔦を飛び越えてそのまま怪物に激突してしまいそうな、即席の崖である。
             腹をくくった銭金が真っ直ぐ崖に車体を乗せ、そして一切の減速なく宙へ飛び出した。

             

             その瞬間、空からレンリが助手席めがけて飛び降りてくる。説明する暇もなく、レンリの身体が輝く衣が纏っていく。
             彼女が成す姿は、かつての主神。
             戦国の時代、彼女が幾度の交流を経て、心の片鱗を通わせたメガミ――ヲウカ。

             

            「身に余る大役ですが、これもまた!」

             

             

             巨大な桜色の翅が、変化した彼女の背に広がった。
             食いしばりながら車体を掴み、空を舞う車の向きをさらに上へ。正面から追突する軌道から、倒れた徒寄花の背中に向かう軌道に乗せて、車体の姿勢を安定させる。

             

             放物線の頂点を迎えた一行の眼下に、骸晶の海原が広がる。
             刃突き立てるべきその背を見据え、古妙が立ち上がった。

             

            「電子神渉、起動全開っ!」

             

             彼女の周囲に、蟹河で見せた青い光が無数に展開される。おびただしい量の文字や数字が乱舞しており、あまりの密度に陽光の中ではもはや砕けた波模様にしか見えない。
             そして、古妙の眼前に現れた一本の巻物の幻影。
             手のひらには到底収まらない、一抱え以上もある、巨大な巻物。解かれた巻紐が千冬の手元の計算機にくくりつけられ、何かを吸い上げるように青い光が紙面へ伝っていく。

             

             レンリが目を見張る中、古妙の背後に結実した像は、過日よりも鮮明だった。
             巻物の元の主であると主張するかのように、現れた青き人の形。
             メガミ・オボロ。
             風に靡かぬ一つ括りの髪が、これが実像ではないと告げている。

             

             だが、たとえ幽居していようとも、たとえ帰らぬ存在となっていようとも。
             その意思を、力を、藤峰古妙という一人の少女が確実に受け継いだのだと、彼女の眼差しが雄弁に物語っていた。

             

            「てやぁぁぁぁぁぁぁ!」

             

             古妙が、未だ宙に舞う車から飛び降りた。
             一端を車内に残した巻物が、古妙の落下に連動して中身を広げていく。まるで空から伸びた架け橋のようで、オボロの幻影と共に最後の道を刻んでいく。

             

             古妙を阻止しようとした蔦が、空色の矢に貫かれる。
             体重と勢いを全て乗せて、不可視の刃を下へと押し付ける。オボロの手振りで全ての紙面を曝け出した巻物の端が、その切っ先の下へと潜り込む。
             刃が巻物を貫き、青い光が至極簡素な飾り気のない刀身を露わにする。

             

             そして、本質の刃が巻物ごと怪物を突き刺した。
             巨体が、跳ねる。

             

            「くぅっ……!」

             

             突き刺さった刃を支えに、古妙が傾いた怪物の背にしがみつく。一応忍の身なれど、岩肌と呼んで差し支えない体表に着地したせいで、彼女の四肢からは血が流れていた。
             だが、楔は確かに打ち込まれた。

             

            「今っ! 朧文書――逆方程式ッ!」

             

             全身から、紺碧の輝きが迸る。巻物を伝う光も強さを増し、徒寄花の背で蒼天が生まれた。
             古妙は、自由した左手を文字の流れる光板に素早く這わせていく。一つ操作するたびに光が鼓動し、本質の刃へと注がれていく。

             

             身を捩る徒寄花に何重にも深緑の蔦が巻き直され、巨神が花咲く頭部を押さえつける。
             レンリが限界を迎え、辛うじて水平を取り戻した怪物の背に車が落ちる。何度も跳ね、車輪が吹き飛ぼうとも、千冬は計算機から離れなかった。
             銭金が、悲壮な顔つきで叫ぶ。

             

            「まずい、櫻力が持たねえぞ!」

             

             だが、彼の心配を跳ね除けるが如く、輝きが最高潮に達する。
             古妙が、興奮を笑みに乗せた。
             気迫を込めて、最後の一指が振り下ろされる。
             オボロと共に。

             

            「大丈夫……これで、解ありだよ!」

             

             

             青き光が、桜の輝きへと一気に転ずる。
             本質の刃に注がれていた力と式が、溢れんばかりの桜色の光となって、堰を切ったように徒寄花の体内へと流れ込んでいく。
             骸晶の不気味な七色が、桜に塗り潰されていく。
             怪物の身体に、手足に、蔦の先まで、血潮の如く駆け巡る。

             

             そして巨大な黄緑色の花に、罅が入るように桜の輝きが走った瞬間だ。
             ぴしり、と。
             巨体の全身から、石が割れる音が立て続けに響く。
             支えられなくなった蔦が根本から切り離され、地面に落ちた衝撃でさらに割れる。
             もはや、徒寄花に動きはなかった。

             

            「成功、した……? ってうわぁっ!?」

             

             崩壊が連鎖する。背に乗り移っていた者たちが、慌てて避難していく。
             見上げんばかりだった巨体が、桜の光で蒸発していくように分解されていく。
             周囲に撒き散らされた種も、そこから芽生えた蔦さえも、皆等しく終わりの時を迎え、桜の交じる黄緑の輝きとなって消えていく。

             

             この地に顕現した脅威が、滅んでいく。
             人の手によって、退けられていく。
             絶望の芽が積まれたその光景に、偉業を為した人間たちに次第に歓喜が浮かび上がる。
             それを見て、ユリナは小さく呟いた。

             

            「これって……」

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             …………

             

             ………………

             

             

             

             

             …………これはきっと、望ましい結末だ。

             

             昔日の懐疑も、過ごした日々も
             真理の片鱗と、皮肉な帰結も、

             

             そして、それでも絶えなかった囁きと
             お主らへの想いも――

             

             

             残滓には、望外であろうよ。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             しかし、未だ半分だ。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             


             胸元で握りしめていた手が、ようやく少し緩んだ。
             鏡の向こうで徒寄花の巨躯が崩れ落ちるその光景を前に、ヤツハは息を吐いた。
             メガミたちの笑顔、古妙たち三人の達成感に満ちた顔。そして何より、彼方の枝の向かう先で、暗雲が微かに晴れていくように見える。

             

             これは、ある意味初めての勝利だった。
             もちろん空を覆い尽くす暗雲その全てが消え失せるには到底至らないし、周囲に蔓延る骸晶の蔦は未だ健在だ。
             けれど、歴史が一つの救いに至ったことだけは間違いないだろう。
             もしもユリナたちが赴いていなければ、きっと枝は枯れていたはずなのだから。

             

             ――カナヱさん……!
             ――あぁ。一つの決着だね。

             

             湧き上がる笑みに、カナヱもまた微笑んでくれる。これほど遠い歴史を渡らせた大業の結実よりも、ヤツハには、皆が徒寄花という滅びに負けなかったことがただただ嬉しかった。

             

             ――本当にどうなることかと思いました……。古妙さんの技? もぶっつけ本番だったはずですし……。
             ――だけど、初めて道を歩むからこそ英雄でもあるわけさ。
             ――なるほど……。直接お祝いを言えないのが残念で――

             

             だが、カナヱに向けた言葉は、異音に遮られた。

             

             ――邪魔、退いて。

             

             

             カナヱの脇腹が、砕けた。
             背中から前に何かが貫通し、小さな賽の目状にバラバラになった顕現体が、木の葉のように吹き流される。

             

             ――え……。

             

             その声は、果たしてヤツハのものか、カナヱのものか。
             予期せぬ現象にカナヱが体勢を崩したと思ったのも束の間、抉るだけでは満足しなかった衝撃が、カナヱの全身を弾き飛ばす。受け身すらろくに取れずに太い枝に激突し、小揺るぎもしない枝に背中から打ち付けられ、ずるずると力なくずり落ちていく。

             

             この可能性の大樹という空間は、通常とは別の感覚で成り立っている。だから、カナヱの傷は脚についているかもしれないし、叩きつけられたのは違う方向かもしれない。慣れてきたとはいえ、まだヤツハは自分の認識に十分な自信が持ててはいなかった。
             けれど、カナヱが負傷したという事実そのものは変わらない。
             儚く、それでいて敵意に満ちた声が聞こえたことも。

             

             引き締まった表情で、ヤツハは辺りを探る。
             向き合う覚悟そのままに、彼女は、見た。
             そこには、少女がいた。

             

             ――あなたが……。

             

             長く真っ直ぐな髪を垂らす、見た目にはヤツハより少し下――ユリナあたりの年嵩。装いの各所に散らされた気味の悪い虹色が、彼方で打倒されたばかりの怪物を思わせる。
             その眼差しは冷たい。しかしそれは冷淡などではなく硬いと表現すべきもので、永い時の中で固まってしまった敵意の現れだった。それでいて標的が目の前にいるのに、目を忙しなく動かす、文字通りの生きた化石じみた瞳である。

             

             彼女の周囲には、光を透かす大ぶりの結晶が三つ。
             そしてその手には、骸晶の蔦で織られた、黄緑の輝きを刃に宿す槍が握られていた。
             少女は、倒れたカナヱを眺めながら問うた。

             

             ――あなた……ヤツハ?

             

             今まで、ヤツハに語りかけてきた声だった。
             なのに少女は、ヤツハを今初めてきちんと認識したかのようで、その態度はいっそ、ヤツハという個をろくに見ていないかのようですらあった。

             

             ――はい。

             

             それでも、ヤツハは応える。
             はっきりと、少女を見て。しっかりと、少女の姿形を心に焼き付けて。
             今度は、自分たちの番なのだと。

             

             対して少女は、儚げに己の胸に手を当てた。
             脆く手折られゆく運命にある花のように。
             忌むべき毒を抱えた花の如く、滲む悪意を隠さずに。

             

             ――あなたたちが気に入らない。それだけは、はっきり分かったわ。

             

             ぎょろりとその瞳だけが動き、見下ろすようにヤツハを捉えた。
             だから、と少女は宣言する。
             憎悪を噛み締めながら。

             

             ――あたしは戦う。■■のために……!

             

             

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