『神座桜縁起 後篇』最終話:桜降る代の英雄たち
2023.12.06 Wednesday
多くの戦場があった。多くの人々が戦っていた。
桜降る代に要の如く点在する大桜、それらを巡る最も苛烈な攻防。
押し寄せる怪物に比して小さく、それでいて巨大なメガミたちの奮戦を人々は記憶する。
しかし同時に、彼らは目の当たりにすることとなる。
悍ましき二人の姉妹の姿を。
枯れゆく花々を。
戦場、その全てで。
各地へ繋がり合う縁の糸が、足りない。
怪物の巨体をいなし続けていたユキヒの顔に、焦燥が色濃く浮かんでいく。鮮やかだった縁から彩りが欠けるその意味を、彼女は誰よりも理解し、故に理解に苦しんでいた。
その動揺を、同じ戦場を駆けるライラが感じ取る。
何か手を打つ必要がある――そう交わし合う前のことだった。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
夕焼けの空が、歪な星空に染まる。
煙家に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちの決断は迅速で、残された力全てで以て迎え撃つ。
元来の権能の残滓を簪に込めて、蠢く歪な大地へ死を呼び込んだ。
荒ぶる稲妻が、広がりゆく星空を引き裂いた。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「……どちらの力も、悲しいだけです」
イヌルがユキヒに語り掛ける。
縁の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。
「そんなの信じても、いいことないわ」
アクルがライラに語り掛ける。
風雷の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った湯煙桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
ミズキが覚えた違和感は、すぐさま警戒に転化された。
背に守る神座桜と己の結びつきが、弱まった。消去法かつ合理性で配置されたという自覚があるからこそ、大量の敵味方入り乱れる混沌とした戦場にあって、即座に気づけたのだろう。
感づいた気配のないミソラは、悠々と鏡まで射抜いている。
しかし、斥候を送る判断は、不要だった。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
薄暮の空が、歪な星空に染まる。
瑞泉に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちの狙いは正確で、抱えていた余力を投じて迎え撃つ。
兵の陣容を直ちに整え、奇怪な大地を槍衾の餌食とした。
迷いなく放たれた矢が、空を覆い隠す星空を撃ち抜いた。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「……辛くないですか。そんなに抱えて」
イヌルがミズキに語り掛ける。
守護の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。
「自由で素敵ね。そのまま消えたら?」
アクルがミソラに語り掛ける。
空の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った翁玄桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
かつて最強と謳われた男を介した縁は、未だ力強かった。
ハガネとヒミカにとって、その雄々しき桜を守らぬ道理はない。ユキヒの権能は、あくまでその後押しに過ぎなかったのである。
しかし二柱の感覚は、その些細な力の消失を伝えていた。
大物が来るという直感が、ここが次の決戦場だと告げていた。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
宵の空が、歪な星空に染まる。
龍ノ宮に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちの威勢は強く、情念を激しく燃やして迎え撃つ。
鉄槌が山のように膨らみ、腫瘍の如き大地を打ち砕いた。
猛き紅蓮が数多の銃弾と化して、冷たい星空へ迸った。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「無理に、変わらなくても、いいんです」
イヌルがハガネに語り掛ける。
大地の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。
「あなたはもう、怖くなくなっちゃった」
アクルがヒミカに語り掛ける。
炎の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った希龍桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
最も噛み合わない二つの歯車は、だからこそ奮戦の礎となった。
互いに守るとは程遠い、合わせられたヲウカとシンラの背中。譲れぬ相手よりも先に膝をつくわけにはいかず、抱いた意志を貫くためにも怪物を尽く退け続ける。
故に、それを挫く存在の到来を見逃すことはなかった。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
夜の空が、歪な星空に染まる。
蟹河に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちは同時に矛先を変え、信念のままに迎え撃つ。
勾玉が生む光と影が、忌々しきに果てた大地を排斥する。
この場の真理をも規定する言の葉が、天を蝕む星空を否定する。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「未練いっぱいの、根無し草だなんて」
イヌルがヲウカに語り掛ける。
亡き桜の化身が、蔦に呑まれ地に消えた。
「儚い妄想だわ。本当にかわいそう」
アクルがシンラに語り掛ける。
弁論の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った桐子桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
トコヨとオボロの演舞は、月が顔を出しても終わることを知らなかった。
徒寄花の怪物との共演という、剣呑に過ぎる演舞。一糸乱れぬ彼女たちの動きは、たとえ観客が絶えようと幕を降ろさぬ覚悟を感じさせる。
けれど、即興劇に波乱が起こることもまた、二柱は確信していた。
新たな演者の登場を、演目に記されていたかのように受け入れる。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
夜半の空が、歪な星空に染まる。
古鷹に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちは動揺一つ見せず、怜悧で優雅に迎え撃つ。
吠えたける巨熊が、無数の鋼の糸に戒められた大地の成れ果てを打ち壊す。
優美にして鋭利な扇が、影を落とす星空を穿つ。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「……お前だけは、許さない」
イヌルがオボロに語り掛ける。
生物学の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。
「はじめから、終わっているのね」
アクルがトコヨに語り掛ける。
永遠の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った白金滝桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
海は、実に雄弁だった。
何処から伝播する悍ましい揺らぎを、サイネとハツミは嫌でも知る。怪物たちの動きも、潮風に乗った気配も、それらが生み出す旋律さえ、全てが先触れだった。
抗えぬ到来が、苦渋を二柱に強いる。
大地から、骸晶の蔦が隆起する。
未明の空が、歪な星空に染まる。
芦原に現れたる、二体の徒神。
対し、メガミたちは迎えた時に即応し、不協和音を断つべく迎え撃つ。
海中に続々と浮かぶ水球の破裂が、うねる水底を打ち据える。
水晶の空中階段を駆け上り、乱れ咲く斬撃が星空の忌み子を切り裂く。
しかし、顕現した絶望を滅ぼすには至らない。
「優しすぎます。らしくないですよ」
イヌルがハツミに語り掛ける。
水の象徴が、蔦に呑まれ地に消えた。
「果てしないだけで、終わってるじゃない。変わり者ね」
アクルがサイネに語り掛ける。
技巧の象徴が、瞬き一つで虚空に消えた。
守りを失った水鏡桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
そして、風雪鳴り止まぬ北の果て。
目も開けていられない猛吹雪の中、コルヌは冷徹な瞳を獰猛に睨ませていた。
払暁に照らされる、二体の徒神。
その身体には傷しかなく、凍てつき脆くなった身体が崩れ落ちる。
それでもなお立ちはだかる敵に、コルヌは決死にて役目を果たさんとしていた。
「そうか、貴様らが……貴様らは、即ち――」
しかし、彼女の抵抗はそこまでだった。
氷雪の象徴が、蔦に戒められる。
北限の守護者が、瞬き一つで虚空に消える。
守りを失った果桜が、骸晶の蔦に包まれる。
桜降る代から、光が一つ、消えた。
最後の大きな輝きが、夜明けと共に、消え去った。
「ちょっと……ううん、思ったよりずっと、疲れちゃったわ」
名の刻まれた石碑に、すとんと腰を落とすアクル。焼け爛れた首を動かしづらそうにしながら、頭上に広がる星空をぼんやりと見上げる。
切り傷だらけの全身から、零れる黄緑の輝きが吹雪に攫われる。
その隣で、枯れた果桜に背中を預けるイヌルもまた、健常な箇所を探すほうが困難な有様だった。うつらうつらと身体の調子を確かめる中、氷漬けになっていた左腕がぼとりと落ちて、光へ解けて消えていった。
寄り添う二人は、互いに少しずつ体重を預け合う。
遊び疲れた、年の離れた姉妹のように。
「戻って、マヒルちゃんと、添い寝しましょう」
ややあってから、重くなる一方の腰を上げる徒神たち。
一人が蔦に包まれ、地に沈んでいく。
一人が空へと落ち、天に溶けていく。
そして、そこには誰もいなくなった。
惨劇の夜は静かに終わり――花なき一日が、始まった。
そこには、メガミも、徒神も、姿はなかった。
戦いの残滓だけが、地に深い傷跡を残す。
桜降る代の温かな輝きは消え、鈍く煌めく蔦から、黄緑の花が咲き乱れる。
虚しさすら覚える時間を、青空だけが見守っていた。
しかし、そこには音があった。
足が土を噛む。
刃が打ち鳴る。
ここに静黙の時は未だ訪れず。
ひとひらの桜が、舞った。
降りしきる雪の中、熱気のままに吠えた。
「己が役目を思い出せぇッ!」
壮年の男の喝に、振るわれる刃が再び力を帯びる。
北の果てより迫りくる怪物に立ち向かうは、北限の守り人たち。御冬の里の桜に集う敵を、慣れた雪深き戦場の利を活かして打ち砕く。
信奉する冷厳なる守護者が予見した有事が、目の前に広がっている。顔を見せない彼女の安否は、もはや言うまでもない。
けれど、守り人たちの心は折れていなかった。
その身に刻まれた役割を全うするために、拠り所たる里の桜は守り通す。
あれほどいた怪物たちの勢いは、気づけば軍とも呼べないほど弱まっていた。
探索者たちが見据える先には、北限への道行きがあった。
かつて英雄たちが辿った、挑戦そのものである道程。見据える次の旅路は、より深い意義を持つ。
厳格なる守り人は、古き英雄の如く刃を携える。
探求者は謎を求め、掲げた旗印と共に歩みゆく。
手にした櫂から水流が噴き荒れる。
「筋肉のない石塊如きに、負けるわけがなぁい!」
漢たちの鍛え上げられた肉体と精神は、借り受けた権能を十全に機能させ、上陸して来た怪物たちを押し流していく。
彼らに悲嘆する暇などありはしない。
それはメガミの導きを信じ、己が意志として歩んできたから。
肉体は、証の一つに過ぎない。
けれど、連なる山脈の如きそれは、確固たる自負の現れでもあった。
求道者たちの見据える先には、光消えた水底があった。
だが、漢たちに止まる理由などあるだろうか。筋肉たちも、そうでない者たちも、信じるものが違ったとしても、今は心を一つに彼らは吠える。
「フンッ、ハアッ、ソイヤッ!」
仮面をつけた舞手が、都を縦横無尽に舞い踊る。
「積み重ねたこの歴史、我らで絶やしてなるものか!」
時間の染みた街並みを舞台に演じられるのは、怪物との苛烈なる戦い。二つ――否、異史を交えれば三つもの戦火に曝されてなお、古都は枯れゆく気配もなく優美に佇んでいる。
これこそが、歴史の重み。その意味へ真摯に向き合い、不断の努力によって受け継がれてきた時の蓄積。
後継者たちの見据える先には、暗転した舞台があった。
そこに立つべく研鑽を続ける者も、そこに映し出される情景を愛する者も、そこに新しきを求めて模索する者たちも。
誰もが焦がれるその舞台は、次の光を待ち侘びている。
もはや宮司の姿は、桜花決闘の場にはなかった。
「聖上のお膝元を汚させてなるものか!」
桜の光と影の塵が、怪物をなぎ倒していく。狩衣姿のその身が、決闘を仕切るだけの存在ではないと躍動する。
文人たちは知恵と言葉を紡ぎ、自ら行く先を照らしていく。
もはやそれは、盲信ではない。かつて主神は愛を知り、天秤は調停を成し、そして知恵者たちが生まれ、己が足で歩み、選び抜く術を手に入れた。
今という坩堝の中だからこそ、意志は強かに宿っていた。
知恵者立ちの見つめる先には、権威潰えた本拠があった。
けれどそこには、主義があって、愛があって、導きがあった。そして、これからの未来を定める新たな天秤と、そこに載せようとしているイシがある。
次の一歩を踏み出すための戦いを、始めよう。
その城下町での戦いは、激烈であり動的であった。
「こんなんで諦める奴、いねぇよなァ!?」
ミコトたちが宿すメガミも混沌として、怪物たちへと猛然と立ち向かう。
その顔は笑ってすらいて、果たし合いでありながら荒々しい祭の如し。
祭を捧げるのは、敬愛するメガミたちに、遺志を残した英雄に、そしてそれを継ぐ彼ら自身にだ。
開拓者たちの見つめる先は、朽ちた龍たちの墓場があった。
しかし、屍を越えていく彼らがいるならば、龍の意志は何度でも蘇る。どんな絶望の大地でも踏み越えて、命を芽生えさせてきた自負があるのだから。
降り注ぐ絶望は、彼らにとって、絶望ではない。
その城下町での戦いは、熾烈であり静的であった。
「倉庫街から逸らせ、まずは明日を生きるぞ!」
ミコトたちが宿すメガミも混沌として、怪物たちへと巧妙に立ち向かう。
その瞳はぎらついて、昏い破滅は慮外だと言わんばかりだ。
滾る意志を示すのは、敬愛するメガミたちに、野心を託した英雄に、そして野心を保ち続ける彼ら自身に。
先駆者たちの見つめる先は、野望重なる城塞があった。
野望とは悪であろうか。彼らはそうは思わない。
敗北があり、犠牲があるのなら、それを罪として贖わねばならないだろう。しかしその可能性は、歩みを止める理由にはなりはしない。
湧き上がる絶望は、彼らにとって、絶望ではない。
広大なる平原を、嵐の如く人々は駆ける。
「我ら信じるものは違えど、今ここに想いは一つ!」
戦場には、風雷吹き荒びし戦士たちがいた。優雅に空舞う射手たちがいて、堅牢なる鎧兜纏いし兵がおり、そして赤き刃携えた執行者たちが駆け巡る。
混沌とした意志は、互いに隣人を巻き込み、戦意の波濤が大地を揺らす。
指揮する者がおらずとも、怪物らの狙いは明白。南西地方の各所に生じた大きなうねりは、敵を容易く呑み込み、打ち砕いていった。
同盟者たちの見つめる先には、湯気漂う縁の収束点があった。
重なる意志にてひた進み、戦いを越えた先で、きっと皆は笑い合う。人にとっても、獣にとっても、温泉とはそういう場所だろう。
だから、一人たりとも足を止めることはない。
温かなその場所も、自分たちの生きる道も、全てを取り戻すために。
人々は進む。
この何処かにきっと、共に歩んでいく『あなた』がいるのだろうか。
それは祝福だ。
『あなた』がいなければ、この地は潰えるのだから。
進んでいこう。
最後の命運を果たすために。
あるいは――――
広漠なる光の大樹が、やはりそこには広がっていた。
周囲に満ち満ちる骸晶の蔦に衰えはなく、星の数ほどもあったはずの歴史が、尽く朽ち果てている。枝葉が腐り落ちた森が成れ果てた泥地のようで、途絶えた命を否応なく思わせる、胸が締め付けられるような光景だった。
そこに一本だけ屹立していた、桜降る代を示す太枝。
遍く歴史を呑み込もうとする蔦に、例外はない。今こうしている間にも蝕まれている実情を映すように、その枝にも容赦なく纏わりついていた。
この終焉を見せつけるために、後悔や不甲斐なさや自罰といった感情が、逃されたヤツハをこの場所まで引きずってきた。
しかし、どういう訳か、想定よりも蔦の侵食が遅い。
自分たちは、敗北したはずなのに。
倒木の如く、喰らい尽くされる運命にあるはずだったのに。
ヤツハの瞳に、一条の光が差し込める。
――あぁ、そっか……。
前に手をかざし、受け継いだ力――叶慧鏡が顕現する。込めた権能が、果てしなき可能性の大樹の地平線を押し広げていく。
ヤツハが見つめる先には、光があった。
桜降る代の枝から、細く伸びる光の道。遥かなるこの空間を進み、数多の歴史の残骸と蔦の合間をひっそりと縫うように、遥か遠くへと結ばれた光。
カナヱが再び己を犠牲にして結んだ、弱々しい道。
彼方の枝に続く道。
命運。それは即ち、今ここで自分だけができること。
それは誰にもあって、だから誰もが英雄で。
そして今なら、分かる気がした。
最後の命運を受け継ぐのは、この自分ではなくて――
――どうかっ……!
鏡を彼方に向け、ヤツハの持つ全ての力を解放する。
鏡面から放たれた光が、か細い道に重なった。糸と糸を紡ぎ合わせるが如く、螺旋を描いて新たな道を為す。
強かに結び直された余波か、道の周囲の蔦が軽くなびいた。
直後、沿路の蔦が綺麗な断面を晒し、折れた。
まるで、花道を汚す不届きな雑草を刈り取ったかのように。
螺旋の光の中を、微かな白い影がよぎった気がした。
そして、その煌めきを寿ぐかのように彼方の枝が瞬いた。輝きが、繋がりをさらに補強するように光の道へと染み渡る。
何者にも曲げられない意志こそが、希望を紡ぐ。
天地に絶望蔓延る中、それは、あまりに眩しかった。
そして、桜降る代のとある場所。特筆すべき点のない、凡庸な光景。
そこには、メガミも、徒神も、姿はない。
戦いの傷跡残す大地に骸晶の蔦が這い、黄緑の花を咲かせている。
しかし、ひとひらの花弁を追って、見やるとそこには桜があった。
なんてことのない、神座桜。
大きくも小さくもない。
凛々しくも儚くもない。
けれど、満開だ。
周囲を蔦が這っているのに、満開だった。
その満開の桜の傍に腰掛ける人影が、一つあった。
『あなた』だ。
『あなた』は何処からの声を聞き、不思議と立ち上がった。
…………。
聞こえてる? あー! 聞こえてるの!?
あなたは誰!? あーしは藤峰古妙! もしもーし!
…………。
おい、ほんとに通じてんのか? お前の勘違いじゃねえの?
…………。
うっさい、幣爾さんは黙ってて。
これたぶん行けてるっしょ、もしもーし!
…………。
さっきの急激な反応を見るに、可能性は高い……。
でも、こちら――一方通行なのかも――。
数値――乱高下し――る。古――早く。
…………。
そっか。なら、聞――て!
…………。
あーしたち――じゃ――分からなかった……。
だから、力を貸して。
朧文書を、解明して……!
自然の天窓から、穏やかな陽光が差し込んでいた。陰陽本殿では今、本来その陽射に煌めくはずの無明桜が、あの日からずっと光を失ったままだった。
堕ちた聖域を彩るのは、温度のない不気味な七色。
蔦に纏われ変わり果てた桜の根本は、けれど穏やかだった。
そこで眠るのは、災禍を運んだかの姉妹。
傷だらけの身体を慰め合うように、大中小と並んで身を寄せ合い、午睡に身を委ねたかのように小さな寝息を立てている。中央の寝顔は、左右から半ば枕代わりにされていても、むしろ幸せそうであり、なのに涙を細く流し続けていた。
吐息に合わせ、深い傷跡から黄緑の光が零れ出す。
その光は雫となり、地に落ちて、やがて一輪の花となって彩りに加わる。
冷たい黄緑色をした、小さな花畑。
そこは、誰もいないかのように、ただ静かだった。