『八葉鏡の徒桜』エピソード6−7:そして彼女は家へと還る

2020.07.30 Thursday

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     吹き込める強い風の音が、背後で化け物の嘶きのように不気味に響く。外の明るさが満足に届かない洞窟の奥へと進んでいることもあって、袋小路へと追い立てられているような錯覚に陥ってしまう。ただ、その程度の不安でヤツハが足取りを重くすることはない。

     

    「…………」

     

     黙々と、まだ節々に違和感の残る身体を引きずって、凍える洞窟をヤツハは進む。
     コルヌとの桜花決闘に勝利したヤツハたちは、休息もそこそこに目的地への歩みを再開していた。どこを見ても白一色の風景では入り口を見つけるのに一苦労かと思われたが、クルルの記録は正しくかの場所へと導いてくれた。

     

     ヤツハとしては、もしかしたら決闘後にもコルヌとひと悶着あるのでは、と少なからず心配をしていたが、それは杞憂だった。自身がさらに費やす言葉を持たなかったように、コルヌもまた黙って一行に背を向け、吹雪の中へと消えていった。
     ただ、それが敗者としての潔さから来るものかと言われれば、それは違うのだとヤツハは考えていた。決着のあのとき、己の意思を認めてくれたであろうコルヌもまた、それ以上語る言葉を持たなかったに違いなかった。

     

    「コルヌさん……」

     

     結局、この帰り路では面と向かって呼ぶことのなかった名を、口の中で唱える。
     コルヌという存在は、ヤツハと桜降る代の間での不和の象徴であった。右も左も分からない状態で向けられた敵意は、どれほどこの地を知っても、どれほど他人に良くされても、解消されることのないしこりとして残り続けていた。

     

     けれど、道を譲ってくれたあの背中を思い出すと、この極寒の中でも少しだけ心が温かくなる。それが人肌でじわりと雪が溶けていくように、今はそのしこりが消えていくように感じていた。
     自分がメガミでないのだとしても、この地に居てもいいように思えてくる。
     瑞泉で事実を突きつけられてからこちら、どこか心の片隅に居座っていた、この地へのよそよそしさにどうにか別れを告げられそうだった。

     

    「…………」

     

     ところどころ氷が這っている以外、洞窟はなんの変哲もない景色を晒していた。目覚めたときは地面が道標になっているかのように線状に凍っていたが、今は守護者の足跡はどこにもない。流石に足元が不確かになってきたのか、クルルが絡繰の明かりを取り出した。
     この頃にはもう、遥か後ろで叫ぶ吹雪の声はか細い囁きほどになっていた。時折、凍った地面を踏みしめる音のほうがよく響くほどだった。

     

     明かりが仄かに照らす洞窟の中は、ヤツハの記憶のそれよりも随分と広く感じられる。頼りない明かりしかなかったこともそうだが、風景に目を向ける余裕があまりなかったのだろう。天井のつららが、人の介在のなさを物語るように肥え太っている。

     発ったときには見えなかったものが、帰り着いた今、はっきりと見えている。この先に待っているだろうアレもまた、今度は答えをもたらしてくれるかもしれない。そんな真実へ近づいている高揚感が、ヤツハの歩みを止めさせない。

     

     きっとそれは、ヤツハだけのものではなかった。
     隣を歩くハツミも、そして何よりもクルルですら、終着点を目前に控え、何も語ることはなかった。最後には静謐さすら感じられる沈黙が残り、急いでいるようにも聞こえる三組の足音だけが、洞窟に広がっていた。
     やがて、前からやんわりと吹き返してきた空気が、肌を撫でた。
     感じた空間の広がりに、クルルが明かりを前へと掲げる。

     

    「あっ……」

     

     そこでヤツハを待っていたものを見て、彼女は声を上げた。
     洞窟の最奥に設けられた、不自然に切り取られたような空間。今までのありのままだった道とは違い、一歩足を踏み入れるだけで、寝転んだとしても痛くないほど地面が平らに整えられているのだと分かる。

     

     そして、その石床から這い出すように隆起するもの。
     遠目からは、長い年月を経た樹の根に見える何かが、部屋の突き当りから外を望むかのように腕を伸ばしていた。照らし出された表皮に植物の生々しさは薄く、その硬質さは石のそれを思わせる。

     

     さらに、当時と変わらず、目を引くソレ。
     樹の根に絡みついているのは、まるで色とりどりの鉱石の板を貼り合わせて繋げたような、奇妙な結晶質の蔦。クルルの明かりが小さく揺れるたびに、その光を受けて赤から青、緑や黄色といった色に輝きが変化する。神秘的と表現するにも異様に過ぎる、自然物であることを認めがたい見目であった。

     

    「そっか……」

     

     小さな納得が、口からこぼれた。
     桜降る代を巡った今のヤツハには分かる。地面より突き出したその樹の根は、かつて神座桜であったものの一部なのだろう。もはや見た目にも温もりはなく、あのとき周囲に散らばっていた桜花結晶と思われる小さな欠片も残っていない。枯れた大樹は、凍てつく大地の礎としてここで静かに眠り続けていたのだ。

     

     そんな樹の根本で、ヤツハは目覚めた。
     そして今、真実を求めて帰ってきた。
     私は誰なのか――あのときは名前以外に何も答えられなかった疑問に、今度こそ、はっきりと解答を与えるために。

     

    「ここです。ここが、私の知る最初の場所です」

     

     目的地に辿り着いたと、同行者に告げる。声の反響も収まって再び訪れた沈黙の中、ハツミの驚きの声が口に出さずとも伝わってくるようだった。

     

    「おぉ……」

     

     クルルが感嘆を漏らしながら、部屋の入り口の脇に明かりを置く。彼女たちには十全に照らされた空間には、やはり樹の根と蔦以外には何もなく、訪れた者は否応なしにソレと向き合うことを求められてしまう。
     けれど、ヤツハにはそれが、かえって決意が鈍らなくて済んだと思える。

     

    「これがウワサの……ではではやつはん」
    「……はい」

     

     きらきらと輝くクルルの瞳に、はにかんで応える。
     けれど、一歩前へ出たところで、ハツミの切なげな声が袖を引く。

     

    「あ……」

     

     ヤツハへと伸ばそうとした手を、途中で留めていた。事ここに至って、自分でも抑えきれなかったとでも言うような沈痛な面持ちで、その手を反対の手が捕まえていた。
     その顔を突っつけば、不安が中から飛び出してきそうなほど、ハツミはヤツハへの心配を露わにしていた。その瞳には小さく期待も宿っていたものの、クルルと比べたら水面に映る月光のようにおぼろげであった。

     

     ハツミはこの場に相応しくない自らの不手際をごまかすように、苦笑いをして今度こそヤツハを送り出す。こくり、とヤツハはそれに、自信の宿った笑みを浮かべて応える。
     とつ、とつ、と湿った足音と共に、部屋の奥へ。
     ヤツハの身体が明かりを遮っても、奇妙な蔦は、影の中でその独特な輝きを放ち続けている。

     

    「……ただいま」

     

     膝を折り、根の這った地面を指先が撫でる。
     間違えることはない。まさにこの場所で、ヤツハは目覚めを迎えた。あらゆる感触が、帰り路の終わりを告げていた。
     何もかもを失くしていた自分が、今度はここで、それを取り戻す。

     

     そのためにどうすればいいかは、もう分かっている。
     瑞泉でできなかったことを、もう一度。皆の前で――

     

    「…………」

     

     そっと、歪に輝く蔦へと手を伸ばす。
     どういった感覚かは、前にハツミに教わったものを参考に。
     けれど、何故だろう。ヤツハはそれを、もっと前に知っていたような気もしていた。

     

     そして、指先が蔦へと触れようかというそのときだ。
     小さくて、青白い光が、洞窟の中に生まれた。

     

     

    「……!」

     

     その冷めた光は、指先を中心として徐々に広がり、ヤツハを包み込むまでとなる。
     極大に至った輝きに、背後から耐えかねたようなうめきが聞こえる。けれどそれも、曖昧になった感覚の波に押し流されてしまう。

     

     自分が、この光に還元されていく。
     けれどもそれが、当たり前のようでもある。
     初めてなのに、どこかその感覚がすとんと胸に降りてくる。
     きっとこれが、あるべき場所へと帰るということ――

     

     

     

     


     光が消えたとき、どさり、とハツミが膝から崩れ落ちた。
     あの夜空から産み落とされたような人の形は、跡形もなく消え去っていた。

     

     ここにはもう、ヤツハはいなかった。
     神座桜に還った――のではない。
     二柱の視線の先で、ヤツハが還っていった奇妙な蔦が、異質に輝き続けていた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     ……………………、
     …………………………………………、
     …………………………………………………………。

     

     ……そうだね。彼女はこうして、還りついたのだろう。
     これで彼女の旅は終わり。すべてが納まるべきところへ納まり、彼女は暖かく迎え入れられる。そうであれば……、そうなるのであればカナヱもそれが望ましいと思うよ。

     

     ……………………、カナヱは、わからない。
     彼女が……ヤツハがこれからどうなるのか。彼女が何者なのか。カナヱは、知らないんだ……。
     カナヱは…………、

     

     …………いや、すまない。

     

     こうして彼女の旅を見届けた今、カナヱたちにやり残したものはないはずさ。
     ふたつの舞台へ、目を遣ろう。
     先の幕引きで伝えた通りだ。一方は彼女らの円舞から僅かに数日後。手の中に輝く欠片の物語。もう一方は……、東の海の物語から数か月後にして、先の舞台よりは過去の話。海を越えた先での、一大事。

     

     行こう。カナヱたちは、ただ見届けるだけなのだから――

     

     

     

     

     

     

     

     


     古鷹という街は、その来歴からして、顕現したメガミをしばしば見かける都である。特に近年では、前当主が凶刃に斃れた折、メガミ自身が幼かった現当主に代わって政に関与していたほどだ。

     


     その現当主たる古鷹天詞は、二柱のメガミに直々に教育を施されていたほどであり、メガミと対面するのも慣れていたはずだった。

     

    「…………」

     

     だが、と表情には出さずに、久方ぶりの畏れを呑み下す。
     古鷹の屋敷、その奥まった場所に位置する広間では、空気が静かに張り詰めていた。火急の事態ではなく、喧騒も対立もない。それでも、平時とは明白に異なる気配が屋敷を包んでおり、その近寄りがたい緊迫感はあえて人払いをする必要すらなかったかと思わせるほどである。

     

     その空気を生み出している原因は、いっそ壮大とも言える光景が物語っている。
     この部屋には今、四柱ものメガミがおわしている。
     それも、観光やら言伝やら、ひいてはただ顔を出しに来たとか、そういった安穏とした理由ではなく、確かな目的の下に集っている。それがどれほど心臓に悪いことか理解しているつもりだったため、隠居間近の仲小路は同席させなかったが、天詞が何度認識を改めたか分からない。

     

     何より、己が世話になったメガミの変容を目の当たりにしてしまえば、彼女たちが具体的にどのような意思を抱いているかなんて二の次である。
     そこには、以前よりも桜色の淡く、ところどころ霜の降りたような装いに身を包むトコヨの姿があった。口元にあてた扇も青ざめたような色合いに染まっており、今から幽鬼でも演ずるのかといった風情であった。

     

     さらに目線だけ動かしてあたりを見渡すと、同じく新たな装いのサイネ、こちらは変わりないチカゲと見える。
     そして――

     

    「ここに皆を集めたということは、事情を説明していただけると期待しておりますの」

     

     四柱目のメガミとしてここに座す、ミズキが端を発した。
     先における稲鳴での一件からこちら、古鷹に留まっていた彼女は、トコヨとサイネの変化を改めて間近で眺め、衝撃を禁じ得ていないようだった。

     

    「だって、その姿は……」
    「ええ、話すわ」

     

     ゆっくりと、トコヨが扇を閉じる。
     彼女の声色に差した恐れの色が、天詞の心を捉える。まるで、来る舞台の山場を想起させるかのように。

     

    「あたしと細音に――そして、向こう側に何があったのかを」

     

     

     

     

     

     


     遠く東の海の果て。異邦の地、ファラ・ファルードの一角は、騒然とした空気に包まれていた。
     詰めかけた民衆を、鎧兜を纏った騎士たちが押し留めている。けれどここに集ったのは暴徒というわけではなく、怒号や暴力の類もほとんど存在しない。貪欲に情報を集めようとしている記者たちですら、騎士たちが示した警戒線に必要以上に近づくこともしない。

     

     野次馬たる彼らの中で飛び交うのは、根拠のない推測や絵空事。
     曰く、八ツ空の神が降臨する前兆である。
     曰く、これこそが彼の地より与えられた真なる恩寵である。
     曰く、人には過ぎた力がついにこの国を滅ぼす。
     興奮や不安を煽るような内容ではあったが、それでも破滅的な混乱が訪れる様子はない。それらが憶測であると理解しているというより、無駄に騒ぎ立てれば決定的な何かが起きてしまうと直感しているようだった。

     

     そんな人だかりの生まれた郊外に、あたかもここが桜降る代であるかのようにコールブロッサム――否、神座桜が堂々とそびえ立つ。
     以前は家屋と肩を並べるほど成長したことが問題になった、その桜。
     今やその姿は、見上げれば首を痛めるほどに、より巨大なものとなっていた。

     

    『皆をもっと下げたほうがいいかしら』

     

     桜を囲む群衆の一部に、そこだけ人が避けたようにぽっかりと空隙が生まれている。サリヤはそこで乗騎ヴィーナに腰掛けながら、この国の言葉でひとりごちた。傍ではジュリアと佐伯も同様に、この異常な光景への思案を続けている。

     

     問題が起きたのは今日の早朝のこと。彼女たちが今注視している桜が、薄く発光を始めたとの知らせが一同を騒然とさせた。

     最初に現場から報告を受けた下級貴族は、当初昨晩の酒が残った連中の見間違いだと思ったという。ただ、彼が仕えるのは、コールブロッサムの管理を担うクラーヴォ家である。使命に従って急行した彼は結局、幹まで光る桜を目の当たりにして大慌てで使いを出し、各所の知るところとなる。

     

     サリヤたちが駆け付けた頃には、騒ぎを聞きつけた人々が既に集まり始めていた。幸運だったのは、ファラ・ファルードの民には理由なくコールブロッサムに触れないという意識が根付いていたことだ。コールブロッサムは貴族の管理下にあり、万一が起きては処罰の対象となる。それゆえ、退避させるのも容易であった。
     それから数時間に亘り、こうして観察を続けている。桜が放つ光は収まるどころか徐々に強まっており、昼下がりを迎えた今、陽光をおしてなお眩さを感じるほどである。

     

    『長丁場も覚悟しなければならないことを考えると、早々にお帰り願ったほうがいいかもしれないな』

     

     そう答えながら、佐伯は臨時に供させた工場の樽椅子に腰掛け直す。彼らのすぐ後ろでは、やって来たはいいもののできることがない貴族たちが、固唾を呑んで見守っている。工場を臨時の基地にする案もあったが、万が一を考えて既に閉鎖した後だった。

     

    『少なくとも、彼らを守るのに身動きが取れなくなるのは避けたいところだ』
    『そうね……みんなとなると私にも荷が重いわ。どれくらい想定するかにもよりそうだけど、付近一帯からの避難もそろそろ考え始めたほうが――』

     

     サリヤはそこで、背後でひときわ大きくなった喧騒に言葉を切った。
     振り返ると、一点を境に人の波が外側へと広がっているようだった。まるで言われるがまま考えなしに何かを避けているようで、生まれた歪みで群衆が押し倒されないか心配になる。
     しかし、窮屈さへの憤りだけではなく、歓声が混ざっていることにサリヤは気づいた。

     

    『道をお開けください! 我々に、神との対話をお許しください!』
    『彼の地の神がお通りになられます!』

     

     張り上げられた声が、ついには人の壁を割った。
     現れた僧衣の集団は、この国に八ツ空の神々の教えを広めるフェラムの司祭たち。その先頭に立つのは、帽子からはみ出した禿頭を輝かせる最高司祭テルメレオその人である。

     

     さらに、生まれた人の道の向こうで、馬車から降りた女の姿を見てサリヤは安堵した。裾を摘んで駆け寄ってくる彼女へ、人々が熱心に祈りを捧げている。簪で留められた後ろ髪からは、結いが甘いのかはらはらと肩にこぼれ落ちていた。
     現れたユキヒが、道を作ってくれていたテルメレオに追いつくと、

     

    『すみません猊下、わざわざ送っていただいて』
    『い、いえいえ。彼の地とこの国の友好のためには喜んで。それに、これはファラ・ファルードとしても一大事となるやもしれない事態なのですから』

     

     汗を拭いながら答える彼は、呼びかけてくる民衆に会釈をかわす。
     熱心な記者たちは重鎮の登場を受けてここぞとばかりに質問を浴びせてくるが、騎士たちにさらに後ろへと追いやられていった。そろそろ何かしらの発表をしないと無謀な行動に出られかねない、とサリヤはため息をつく。
     幸い、輪の中に入ってきたユキヒは、今この国に居る中で最も桜に詳しい存在のはずだった。判断のための役者がようやく揃った形となる。

     

    「ああ、サリヤ。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
    「とんでもない! こんなに早く捕まるとは思ってなかったわ。来てくれてありがとう!」

     

     得られた心強さに感謝するように、サリヤはユキヒを抱き留める。
     遅参したユキヒへ軽い情報共有を行ったが、その場でずばりと原因を言い当ててくれるということはなかった。
     その代わり、彼女の足はふらりと桜へと近づいていく。
     空白地帯へ現れた人影に、民衆が一瞬沈黙を生み、また喧々諤々と音を作っていく。

     

    「この光、まるで私たちが……」

     

     その呟きが、付き添ったサリヤの耳を掠める。
     そして輝ける大樹の傍まで辿り着いたユキヒが、一呼吸の後、目を見開いて桜を注視する。サリヤはそこに確かな力の脈動を感じ、縁を辿る権能によってユキヒは今、この神座桜の異常を彼女なりに紐解こうとしているのだと理解した。

     

     果たして、ユキヒが何かを視て取るまでに、そう時間はかからなかった。
    ただ、その結果がもたらしたのは、困惑と混乱であった。

     

    「なに……この、縁……?」

     

     ユキヒの口から、動揺が漏れる。桜が発光している以上に不可解なものが、彼女の目に映し出されているようで、焦りと共に黙考を始める。

     

    「ユキヒ……?」

     

     不穏な態度に思わずサリヤは名を呼ぶが、返答はない。
     やがてユキヒははっとしたように周囲を見渡し、次いでサリヤへ、さらに観察と待機をしているジュリアたち貴族へと目を向けた。
     そして、切迫した様子でユキヒは訴える。

     

    『周りの人たちを、もっと遠ざけて!』
    『……!?』
    『何かが……縁を辿って、ここに近づいてきてる!』

     

     彼女の警告が何を意味するのか、真に理解できた人間は稀であった。だが、人々の上に立つ存在として、意図を呑み込んだ貴族の動きは早かった。
     最初に反応したのは、以前サリヤ解放の一助となった、この国の法の一端を担うアルトリッド卿であった。控えさせていた騎士を急ぎ避難誘導へと向かわせたところで、テルメレオもまた連れの司祭と共に動き出す。さらに遅れて、手持ち無沙汰にしていた他の貴族たちも弾かれたように臨時の詰め所から飛び出していった。

     

     サリヤは先んじてジュリアの下へと戻り、ヴィーナを嘶かせて警戒態勢に入っている。その背後で佐伯も自前の鉄爪に手を伸ばしているが、彼もまたユキヒの言わんとすることを介した者の一人だ。歯噛みしながら、己をジュリアの盾としていた。
     不幸なことに、喧騒に紛れたために危険を察知した民衆は少数派であった。貴族たちの動きにざわめきの方向性は確かに変わっていったが、背中を押す危機感が全く足りていない。

     

    「どういうこと……」

     

     桜の前に残されたユキヒが、渋面のままに零した。
     彼女が今、目の当たりにしている縁は、何処からかこの神座桜へと結ばれたもの。だが、ユキヒでもってしても、その縁がどういったものであるか、良し悪しからして全く分かっていなかった。あまりの不可解さに、もう一人の自分と頭の中で議論を交わしていたほどだった。

     

     ただ、正体不明の縁であっても、その結びつきは視えてしまう。何にも染まっていない白い糸ですらなく、あることだけが分かる透明な縁の糸が、か細く伸びている。
     その糸は最初、神座桜から先には繋がっていないものだと彼女は思っていた。
     だが、

     

    「っ……!?」

     

     伸びた糸の先を視て、ユキヒは驚愕する。
     その先が結びついていたのは、紛れもなく自分――ユキヒ自身であった。
     縁を手繰られる手応えが増していく。
     何者かが、彼女を足がかりに急速にこちらへ――

     

    「急いでっ!」

     

     それに気づいて叫んだのと、臨界はほぼ同時だった。
     神座桜の放つ光が、陽光を塗りつぶすほど強烈に放たれる。
     眩さが、その場に居た者全ての目を焼いた。

     

     

     

     

     


     コールブロッサムの採集場には、目を刺す光にやられた人々のうめき声が広がっていた。慌てて逃げようとしたためか、民衆の一角がばたばたと倒れており、怪我人も出ていそうだった。
     けれど、貴族たちや騎士たち、果てはメガミでさえも。
     無事な者は誰もが皆、言葉を失ったように、その一点に目を奪われていた。

     

    「…………」

     

     光は絶頂を越え、残光を煌かせるのみとなった神座桜――その根本には、今までなかったはずの人影が三つ。そのどれもが、この国の民、否、桜降る代の民を含めた人間とは明らかに異なる装いに身を包んだ、女のものであった。

     

     

     三人の中心にいるのは、新緑を思わせる色合いの装いに身を包んだ少女。彼女は安堵したように息をついて、地面についた棒状のもの――唐棹と思しき道具に体重を預けていた。唐棹はそれ自体が生きていると示すかのように、ぴょこんと葉が生えている。柳のように垂れ下がった彼女の長いもみあげが、異邦の風になびいていた。

     

     右隣で伸びをしているのは、肌にぴったりと張り付くような黒の肌着も露わにした少女。快活さを醸し出す彼女だが、十代も半ば過ぎと見受けられる年頃としては、顔立ちに残る幼さは僅かなものだ。腰に提げた荷からは、金槌や火箸といった鍛冶に用いる道具が飛び出しており、左腕に袖を通しただけの着物がその荷に引っかかって揺れていた。

     

     そして最後の一人は、背後の宙に白と黒の勾玉を従えた黒髪の女。四肢にはまるで拘束具であるかのように立派な腕輪と足輪を嵌めており、表面には衣服と同様に曲線的な古めかしい文様が刻まれている。その中で唯一、人に理解できる五対の桜の花弁の意匠が、神座桜との関係性を示しているようである。

     

    「え……」

     

     彼女たちの出現を最も近くで目の当たりにしたユキヒは、混乱の最高潮にあった。
     けれど、一歩、二歩、と縋るように寄ろうとした彼女は、この場で最も、確かな驚愕に身を焼いていた。

     

     自分の良く知るメガミが、ここに現れた。
     ユキヒが間違えるはずはない。なのに、普段とは雰囲気から何まで異なっている。
     思わず、彼女はそのメガミに呼びかけていた。

     

    「ハガネ、ちゃん……?」

     

     そのメガミは、いきなり名を呼ばれたことに驚いたように肩を震わせた。
     そして彼女もまた、ユキヒに目をやり、同じように言葉を返す。それは、手繰った縁の糸の正体を推し量るかのようだった。

     

    「ユキ……ねぇ……?」

     

     鍛冶道具を携えた栗毛の少女と、互いに困惑をかわしあう。
     知っているはずの相手なのに、違う。違うはずの相手なのに、知っている。
     そんな己の記憶や感覚とのずれから生まれた違和感が、二柱に次の言葉を失わせていた。

     

    「あのー?」

     

     そんな中、中心に立っていた新緑の少女が小さく手を挙げる。
     様子を窺いに出てきたサリヤと、どちらに問えばいいのか迷うようにひょこひょこと首を動かすと、

     

    「ここ、ファラ・ファルードで合ってます……?」
    「え、ええ……そうだけど」

     

     少女に合わせて桜降る代の言葉で答えたサリヤも、密かに混乱を強める。
     ユキヒと顔を見合わせたサリヤは、答えた代わりというように、半信半疑ながらも問いを差し向けた。

     

    「この桜は、あなたがやったの?」

     

     以前シンラが言っていたように、メガミであっても桜を急成長させるなんてことはそうそう叶わない。いくら近年の桜の活性化に原因を求めるのも限界だとはいえ、実行可能な存在からして居るかどうかも分からないのだ。
     故に、この現象が危険を孕んでいたのか、心当たりを問うだけのつもりであった。
     もしも彼女たちがメガミであるならば、神座桜から現れることそれ自体については、この地で前例がないことを除けば当たり前のことなのだから。

     

    「う、うおわっ!?」

     

     指されて振り返った少女は、後ろで聳えていた桜の威容に跳び上がるほど驚いた。杖にしていた唐棹を盾にするように隠れて、先端の棒をのれんのように持ち上げて恐る恐るその光景を眺めている。
     その態度は、桜の巨大さそのものに驚愕しているというよりは、自分のしでかしたことが思ったより大ごとになっていたといったほうが、似つかわしかった。

     

     ややあって、周囲の困惑に気づいた少女は、気を取り直すように咳払いを一つ。
     姿勢を正した彼女は、成果を前にほんのり気取った様子を見せる。

     

    「うん。この桜はね――」

     

     少女は、サリヤの目をまっすぐ見て、投げられた疑問へと答える。
     だが、少女の言葉は、ただ肯定するだけでは終わらなかった。

     

     そこで告げられるのは、共犯の名。
     サリヤたちメガミにとって、その名は重い意味を持つ。
     そして同時に――その名の持ち主は、失われていたはずだった。

     

    「こちらのヲウカ様と……あたしの権能によるもの、だよ」

     

     少女に指された黒髪の女が、サリヤたちの驚愕など素知らぬように、ただ静かに佇んでいた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     ……彼女は…… 瀧河希 たきがわめぐみ は、受け継いだ。
     その想いを。決して失わぬように。
     困った子だけど、だから私も救われたのでしょう。

     

     

     

     

     

     

     

     


     願わくは、その掌の温もりが、どうか零れてしまわぬように。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     降りた夜の帳は、神座桜の異変の収束を物語る。あれほど眩かった光は、地平の彼方へ沈んでいってしまったかのように、今は寡黙な樹皮を晒すのみとなっている。
     現場となった採集場は引き続き閉鎖されており、騎士たちもとうに撤収していた。常駐している警備兵も、昼間の騒動で心身共に疲れ果てたのか、一息つくのに座った木箱の上で、こっくりこっくり船を漕いでいる。

     

     だから、こんな深夜に、優しく輝く神座桜を見る者は誰もいなかった。
     だから……それを目撃した者は、誰もいなかった。
     沈黙していた樹皮の一部が、淡く桜色の光に包まれる。
     そして、

     

     ずず……、と。

     この世界をまさぐるように、桜から現れたのは手だった。
     病的なまでに白い、ほっそりとした女の手。
     月と桜の光に照らされて、透き通るようなその肌は幽鬼のように幻想めいていた。

     

     その手が、がしり、と光に還っていない樹皮を掴む。
     それはまるで、忌むべき場所から這い出す亡者のようで、見咎めるべき生者は、ここには誰もいなかった。

     

     

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    『八葉鏡の徒桜』エピソード6−6:彼女にとっての挑戦と超克

    2020.07.28 Tuesday

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       白のみが支配する極寒の地に、宵色をした一輪の花が咲く。冷厳なる山々に見下される大雪原は、人々の目が到底及ばない不変の聖域である。耳をただ苛むような吹雪の音が鳴り響く中、ヤツハに付き添っていた二つの足音も遠ざかっていった。

       

       背中を押す声援もなければ、見守る視線すらも雪煙の向こうに呑まれてしまう。けれど、それに物寂しさを感じても、不安を覚えることはなかった。
       帰り路で見続けてきたのは、誰かの背中ではない。
       自らが求めた、ここよりも一歩先にあるかもしれない答え。
       それに手を伸ばし続けてきた彼女は、凍てつく大地に一人立つ。戦わなければいけないのは、相対する北限の主から刷り込まれた恐れだけだった。

       

      「…………」

       

       互いに握りしめていた両手を胸に寄せる。己の内にある想いを手の中に移すように幾許か念じると、冷めきった世界へとヤツハはそれを解き放つ。
       生じたのは、三片の桜色の輝きだ。肌を切り裂く吹雪にも負けず、ひらりひらりと彼女の周囲を漂う盾となる。これと同じものを分け与えてくれた神座桜は、この場に存在しない。メガミではないらしい己に力が注がれる理由すらも分からないけれど、今はただ、勝利の果てにある自分自身を見つけるため、その温もりに身を焦がす。

       

       故に、再び踏みしめた氷の大地にて、ヤツハは揺るぎない眼差しを形作る。
       そして彼女の声は、見届ける者のいない舞台へと確かに響いていった。

       

      「ヤツハ。桜降る代に、決闘を」

       

       

       

       

       


       踏み出した足が、固い雪をゆっくりと噛みしめる。宣言と共に、最初に動いたのはヤツハであった。
       彼我の間合いを意識し、推し量る。それでいて、確かに前へと進む――青雲との闘いを経た今、彼女の立ち回りには明確な理があった。心構えもないままに距離を詰め切られ、慌てふためいていた往時の姿はどこにもない。

       

      「…………」

       

       黙して機を窺う彼女の手中には、既に鏡の怪物の手綱が握られていた。いつその力を振るうべきか、未だ泰然と構えるコルヌに対して見定めようとしている。
       コルヌが戦う様を見たのは、洞窟での目覚めの直後、その一度きり。覚えているのは、宙を舞う氷の刃と、滑走から繰り出される蹴撃、そして全てを凍てつかせる大吹雪である。最後の暴力的な権能はともかく、基本的な間合いはそう遠くないと踏んでいた。

       

       ここならば、まだ攻められないはず。相手の靴底に設けられた氷の刃を見やりながら、事前の予想と肌身で覚える実感の囁きに耳を傾ける。
       果たしてヤツハの読みは正しく、間合いは静かに詰まり続けるのみだった。コルヌの険しい顔つきが目前に迫れば迫るほど、威圧感に跳ね除けられそうになるけれど、それこそが見えない鍔迫り合いなのだと経験から知っていた。

       

      「はぁーっ……」

       

       深く、躊躇いを追い出すように息を吐く。
       気を整え、押し付けられる不可視の得物に怯むことなく、さらに前へ。
       確固たる意思はヤツハの瞳に宿り、その意気は彼女の勝利を確約するかのよう。吹雪に抗って周囲に漂う桜の霞も、桜花結晶が道行きを祝福しているようだった。

       

       彼我の間合いの境界が、ここにある。
       決意と共に踏み越えた一歩が、交戦の合図となった。

       

      「はあぁぁっ!」

       

       気炎を上げ、前のめりになって鏡を顕現させる。その全てが形作られるのを待てなかったとでも言うように、星空色をした怪物の咢が弾かれたように飛び出していった。

       

      「……ほう」

       

       開いた大口は、狙いを過たずにコルヌの肩口へと食らいつく。彼女はそれを避ける素振りすら見せず、微かに甘い微笑みを浮かべて結晶の盾をあてがった。
       しかし、守りを噛み砕いた咢はあくまで先陣。役割を終えて退いたそれの陰から、氷山をも切り裂きそうな巨大な爪が姿を見せる。間断なく振るわれていたその一撃は、容赦なく相手を貫くことだろう。

       

      「だが――」

       

       コルヌはそれを否定する。
       初撃に対し浮かべていた表情もまた、自ずとかき消して。

       

      「まだ甘いッ!」
      「……!」

       

       あの笑みが、北限の守護者に湧き上がる。
       喝破を皮切りに、ヤツハの知る冷厳で加虐的なあの笑みが、微笑みに取って代わった。
       瞬間、コルヌの纏っていた気配が一気に変わり、彼女の発した威風が凍土を遍く揺らした。場の空気もまた、その一粒一粒が刺々しい氷柱に変貌したかのように塗り替わる。

       

       ヤツハの送り出した大爪は、コルヌの冷気を間近で受けたせいか、ぴきりぴきりと端から音を立てて凍りついていく。爪の持ち主たる怪物が仮に声を上げられたとしても、その断末魔を響かせる前に全身を氷塊に変えられてしまうような、自然を超越した猛威をヤツハは目の当たりにさせられる。
       やがて元あった勢いも失われ、氷像と化した爪先がコルヌのこめかみ三寸ほどで止まる。彼女がそれを裏拳で軽く払うと、先端のほうからぼろぼろと砕け始めてしまった。

       

      「くっ……」

       

       これこそが、メガミへの挑戦。
       コルヌの試練とは、全身を切り裂くこの北限の寒風そのものに他ならない。
       壮絶な光景に苦境を改めて自覚するヤツハの前で、人の形をした氷雪が口を三日月に歪めていた。

       

       

       

       

       


       ばら、ばら、と。いっそう強く吹雪いてきた決闘の場に、ヤツハの攻撃の意思だったものが転がり落ちる。重くなった雪は舞い上がることなく、砕けた怪物の爪は氷ごと宙に溶けて消えていった。
       いっそ冗談じみた方法で攻撃を止められたヤツハであったが、強まる冷気は繰り出した怪物の身体のみならず、使い手たるヤツハ本人にも襲いかかる。息をするだけで胸が痛くなるほどの寒さが、彼女を芯から凍てつかせていく。

       

       伴っていた気迫すら萎れるような変化に、次の一手への動きを作れない。
       けれど、始まってしまった試練に待ったをかけることはまかりならない。

       

      「行くぞ?」

       

       吹雪に犯される耳が、若干の愉悦を孕んだ囁きを捉える。
       直後、コルヌとの間に横たわっていた間合いが、靴底の氷刃に切り裂かれた。

       

      「っ……!?」

       

       急激に腰を折った前傾姿勢からコルヌが踏み出し、次々と生まれる氷の道の上を一瞬で滑走してくる。普通の走りとは異なり、体勢の変化に乏しいその動きは、時間を切り取ったかのような至近を彼女に叶えさせる。
       そして十全に速度が乗ったところで、そのまま宙へと滑っていくように右脚を蹴り上げた。足先が素早く描いた軌跡は、無駄な予備動作に澱むことのない流麗なものであった一方、すらりと伸びた脚が生み出す斬撃は巌を断ち割るほどに力強い。

       

       ヤツハは胸元めがけて繰り出されたその剣閃を、守りの結晶を咄嗟に差し出すことで辛うじて逸らす。しかし、薄い刃一本だけで立っているはずなのに、コルヌは蹴り足を弾かれようとも姿勢を崩すことはなく、そのまま舞い踊るように背後へと回られる。
       慌てて振り返れば、剣舞の締めとばかりに、コルヌが足元に横たわる雪たちを猛然と蹴り上げる。大波となった雪が、礫のようにヤツハへ叩きつけた。

       

      「きゃぁっ!」

       

       鋭い蹴撃に比べれば、威力そのものは肌身でもまだ耐えられる領域にある。けれど、頭から被った雪は、コルヌの意思を孕んでいるかのように急速にヤツハから温度を奪っていく。

       

      「い、っ……!」

       

       右のふくらはぎに、結晶で殺しきれない痛みが走った。雪塊が鋭い刀子となって、ヤツハの柔肌を傷つけていたようだった。
      切り裂かれた脚が、直接見るまでもなく凍りついていくのが分かる。ますますぎこちなくなっていく身体の動きに、結晶の力を充てがってでも体温を取り戻す必要性を頭が訴えていた。
       しかし、それを容易く叶えさせてくれるほど、コルヌは甘くない。

       

      「かかかっ!」

       

       高笑いと共に、渦巻く冷気がヤツハを包み込む。凍える風が、肌に残っていた温もりを奪い去るように吹きつける。
       反射的に身を丸めてしまった己を胸中で叱咤し、翻弄してくるコルヌを正面に捉える。しかしその最中にも凍えた脚は満足に働かず、気を抜けばそのまま膝を折ってしまいそう。そのまま動けなくなった身体に雪が降り積もる様すら脳裏によぎる。

       

       コルヌの武器は、この極寒の大地そのもの。雪煙に紛れた氷刃という直接的な脅威だけでなく、場を支配する零下の息吹が戦意ごと挑戦者を凍りつかせてしまう。青雲も戦場に広げた影から捉えどころのない技を使ってきたが、大気に満ちる攻撃など到底捌ききれるものではない。
       さらに、寒さに麻痺した感覚ではうまく桜の力を巡らせることもできず、それが極寒への備えを失わせる悪循環が瞬く間にできあがっていた。

       

      「ぐぅっ、うぅ……」

       

       足はすくみ、手はかじかむ。心はもう枯れそうになっている。
       歯を食いしばり、必死に耐えようとしても、大いなる自然から温情を与えられることはない。冷酷な凍土は、己に相応しくない者に宿る体温全てを奪わんと、どこまでも残酷に永久の眠りへと引きずり込もうとしてくる。

       

       それこそがコルヌの務めであると、理解をしている。
       再び足を踏み入れた汝は如何ほどの存在なのかと、理不尽なまでに試された旅人が、何人もここで膝をついてきたのだろう。そして今、ヤツハもまたその旅人たちの中に並べてやろうと、守護者は使命に忠実に従っている。

       

       だが、それでもヤツハは負けられない。
       たとえ自分が何者であろうとも、己はここにいる。
       答えへ手を伸ばすこの意思だけは、本物なのだから。

       

      「く、ぅあぁぁぁっ……!」

       

       故に、吠える。か細くとも、自身の存在を訴えるように。
       霜を払い落とすが如く、心を奮わせたヤツハ。彼女の想いは未だ熱く、心は力を帯びていく。

       

       身を縮めたまま、その確かな決意を示すよう、鋭い視線がコルヌを射抜く。
       力の所在も、力の正体も何もかもが分からない中でも、彼女の魂だけはここにあった。


      「む……!」

       

       生じた現象と、向けられた意気に、コルヌが初めて怯む。
       彼女が纏っていた桜花結晶が二つ、主の動揺にあてられたかのようにふらついたかと思えば、吹雪に乗ってヤツハの下へと離反していった。確たる魂こそが我々の寄る辺だとでも言うようで、桜霞の形となって彼女の力の一端と化す。
       その様子はまるで、コルヌの身から分かたれた結晶に対し、ヤツハの意思が己の存在を認めさせたよう。

       

       だが、それでもコルヌは試しの手を緩めない。
       最後まで相手を見定めることこそ、彼女が持つ役割である。
       それに従うは、冷厳なる彼女の意思なのだから。

       

      「それで終わりか!?」

       

       再び作られた滑走の動きは、ヤツハを中心とした円を描く。立ち上る雪煙を吹雪が乱し、機を窺うコルヌの足元を隠していく。怪物の暴力を警戒しているのか、靴底の刃が氷を削る音が、間合いの外で威嚇するように嘶いている。
       そして彼女は、一段と鋭く吹いた寒風に乗って、ヤツハへと向かう速度を一気に纏った。
       氷刃の円舞を再演せんとするその身から、槍のように鋭い蹴撃が放たれる。

       

      「いいえッ!」

       

       対し、ヤツハは意思をぶつけ返すように叫ぶ。盾となった鏡が、猛進を成したコルヌを映したままに輝きを放つ。
       一つの瞬きの後、光に隠れた鏡面から、星空で形作られたモノが飛び出してくる。だがそれは、この世のものとは思えない怪物の一部などではなかった。

       

      「……!」

       

       驚きに眉目を吊り上げたコルヌの蹴りが、ソレの蹴りに受け止められる。
       現れたのは、人の形。それも、コルヌそのものの姿をした、星空の虚像。
       それは蹴撃の拮抗を先んじて崩し、反動を利用してコルヌの脇腹へと重い一撃を叩き込む。まるで攻撃という現象を照らし返したかのように反撃を成した虚像は、映し出すべき物を失って吹雪にかき消えていった。

       

      「か、ぁッ……!」

       

       虚を突かれた形となったコルヌだが、前のめりに体勢を崩しはしても、膝をつくことはなかった。試練を跳ね返したところで終わりではない。それは己の証明ではないと、暗に告げているようだ。
       だからヤツハは、さらなる先を求め、己が内に流れる力の奔流へと手を伸ばす。

       

       そこでふと、意識の指先に何かが触れた。
       そこには確かな違和感があり、この力こそ自身が望むものだという確信が生まれた。

       

      「ぁ……」

       

       

       それが、ヤツハの用いる鏡の一つであることは分かる。飼い慣らしたとまではいかないかもしれないけれど、瑞泉にて随分と親しんだ力を間違えるはずはない。
       それは、彼女に寄り添うように温かい。
       しかし心のどこかで、肌寒さも感じていた。

       

       鏡面の向こう側に、何かがいる。
       それは爪や咢を携えた、あの怪物なのだろうか。だが、この戦いの渦中ではそれを覗き見ることは叶わず、確信は得られない。
       強く意識を向ければ、そこには意識そのものを映し出すように、ヤツハ自身が映し出されているような感覚がある。

       

       ならばその怪物もまた、自分なのだろうか。
       鏡の向こう側にいる何かは、己の一部なのだろうか。

       

       分からない。
       分からないけれど、ここで前に進むために、今は――

       

      「貴様……!」

       

       コルヌの叱咤が、ヤツハの意識を己の外側へと呼び戻す。流れた刹那の時の中、コルヌは崩した体勢を無理に戻すことはせず、追撃の機会に彼女から意識を外していたヤツハへと至近を選んでいた。
       助走の短さから来る威力の不足を補うよう、コルヌは一拍遅らせてでも身体を一回転。旋回によって生み出された勢いが、鞭のように鋭い蹴撃を実現させる。

       

      「ぁぐっ……」

       

       靴底の鋭利な刃が、ヤツハの身体に真一文字を刻み込む。
       その痛みに反応するかのように、鏡の中で怪物が暴れ狂うのがありありと分かる。夕羅をしてでたらめな力と言わしめた、制御不能の暴虐が喉まで出かかっているよう。
       しかし今、ヤツハがその暴力に呑まれることはなかった。
       鏡の向こう側から、もうひとりの自分が手を合わせてくれるような感覚が、彼女を後押ししてくれる。

       

      「力を……!」

       

       呼びかけに応じ、鉤爪のついた無数の腕が鏡から解き放たれる。
       以前はヤツハ諸共その場の全てを破壊せんとしていた恐るべき怪物たちは、蹴撃の残身もそこそこに駆け抜けていこうとするコルヌに殺到する。

       

      「ちぃッ……」

       

       空間を蹂躙する複雑な軌道と密度に、彼女は早々に回避を諦めたようだった。苛立ちと苦悶を漏らしながら、大量の桜が噴き散らされていく様を、嵐が過ぎ去るまでじっと待つように身体を丸めて耐え忍んでいた。
       ヤツハの中に残っていた、自分の力への恐れ――その一端である、暴虐の象徴は今、彼女の意思と共にあった。正しく向けられた力以上に心強いものはなく、あの鏡の向こう側からひと奮いの気力を運んできてくれたようにすら感じられる。

       

      「舐め……るなァ!」
      「……!?」

       

       怨嗟の如き声が暴虐の嵐の中から聞こえたかと思うと、ヤツハの足元から急激に伸びてきた氷の茨が手足の自由を奪う。見た目の儚さとは裏腹に、かじかんだ手では引き剥がせないほど強固に絡みついている。
       そして視線を戻せば、鉤爪の輪から抜け出してきたコルヌが、身動きの取れないヤツハめがけてもう一度回し蹴りを放つ。

       

      「くぁ……っ!」

       

       受け流すことすら許されないヤツハを、鋭利な斬撃が切り刻んだ。吹き荒ぶ雪風に、身の内に宿していた結晶だったものが色濃く舞い散った。
       その時点で、暴れまわっていた怪物たちも星空へと還っていったように消え、いよいよコルヌが暴虐より解き放たれる。

       

       すれ違いざま、氷細工のような美しい指先がヤツハを指し示す。
       序盤とは打って変わって、熱を帯びた表情のコルヌが、最後の試練の名を叫んだ。

       

      「コンル……ルヤンペェッ!」

       

       轟、と大気が鳴動する。
       コルヌが背負っていた猛吹雪が、全てヤツハのいる一点へと向けられた。ただでさえ叩きつける雪が礫となっていたものを、極度の低温に晒された雪の粒はその多くが氷塊へと変貌し、間近から降り注ぐ横殴りの雹のようになっていた。

       

       これが、目覚めたヤツハを凍土へ封じようとした大吹雪。
       クルルの盾がない今、まともに喰らえば決闘の枠すら超えて、今度こそ北限の大地の一部と化してしまうかもしれない。

       

      「っ……、くぅ……っ」

       

       残された結晶の盾を酷使して、飛来する氷雨を弾いていく。一つ一つを目で追いきれるわけもなく、致命傷になりそうな鋭いものだけを取り除いてやることしかできない。必然、見逃した氷は傷を生まないまでもヤツハの体温をさらに奪っていく。
       永遠に感じられるような吹雪が弱まった頃には、彼女が自由に使える結晶は尽く塵へと還っていた。その代わり、ぽつ、ぽつ、と体内に存在する灯火は、儚くも消えずに残っている。

       

       だが、全ての守りを使い切ったその代償はあまりにも大きい。
       かちかち、と自身の口元から音が鳴る。余剰の力を失った今、凍えきった身体に焚べる薪はどこにもない。少し関節を曲げるだけで氷が割れる音すら聞こえてくるようで、茨が纏わりついたままだなんて関係なく、かじかんだ身体では一歩たりとも動ける気がしなかった。

       

      「ぁ……」

       

       まつ毛の凍った瞳が、間近で冷ややかな面差しを見せるコルヌを映す。
       怪物の暴威は、至近したままでは満足には振るえない。この間合いは、コルヌにとっての好位置でしかなかった。
       コルヌはもはや、直接手を下す必要すらなかった。臨界まで凍てついたヤツハの身体は、もはや崩れ落ちるのを待つのみ。このまま自然の脅威に屈するのを、いつものように見下ろすだけで良かった。

       

       それこそが、北限の守護者。
       そして、極寒という自然そのものの在り様。

       

       しかし――否、故にそれは、残された好機だった。
       コルヌが自然の体現者であり、そして意思を試す者だからこそ生まれる、最後の一手。
       これほどの窮地に追い込まれていても、ヤツハの瞳から意思が絶えることは、ない。

       

      「これ、で……」

       

       息も絶え絶えに、意思の断片が震える口からこぼれ落ちる。
       試練の終わりを迎えるべく、泰然と構えていたコルヌの前で、鏡が輝きを放った。
       瞬間、ヤツハの姿が蜃気楼のように歪む。

       

      「な……!」

       

       コルヌが見下ろしていたもの、それはヤツハの幻影。
       もはや怪物の力は及ばず、諸共に極寒に呑まれるのを待つのみという目論見は、虚像の奥に現れた本当のヤツハの姿によって砕かれる。
       決着の時を垣間見た怪物が、鏡の向こうから――

       

      「勝ち、ますっ……!」

       

       掠れていても、弱々しくても、それは勝利を呼ぶ魂の慟哭。
       打ち震えたコルヌの桜花結晶が、主をよそに霞へと散る。
       それごと間合いを喰らった怪物の咢が、踏み出し損ねた彼女を覆うように、大口を開けた。

       

      「ふ、はは――」

       

       最後に聞こえたのは、笑い声だった。それが、結末と、それに至ったこれまでを認めたかのようにヤツハには思えた。

       

       そして、ばくん、と。
       怪物がコルヌに頭から喰いつく。
       心なしか弱まった吹雪に、終局を告げる最後の結晶が、砕け散っていった。

       

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      『八葉鏡の徒桜』エピソード6−5:天音で夜風に身を焦がし

      2020.07.24 Friday

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         茜色の雲が、刻一刻と黄昏に染まっていく。向かいの山と山の間に夕日がちょうど沈み始めたいて、昼の時間が大地に呑み込まれていくようだ。平野ではもうしばらく明かりに頼らなくてもいい頃合いだが、この山間ではこれからあっという間に手元が不確かになってしまう。

         

        「真っ暗になる前に着いてよかったですね……」

         

         安堵の声を漏らすのはヤツハだ。瑞泉での長きに亘る滞在は、野原で過ごす旅の夜は苦労の証であると、彼女に認識させるには十分だった。この二日ほど、うまい具合に宿場に留まれなかったこともあってか、疲れが滲み出ているようだ。

         

         ヤツハたちが辿り着いた町の名は天音。桜降る代において地理的に中央付近に位置する町であるが、それは山々に囲まれているという事実を示している。咲ヶ原の山脈地帯ほどではないにせよ、ヤツハが当分地平の向こうを拝めていない程度には山間に構えられた集落だ。

         

         

         ここに至るまでには、龍ノ宮を出てから北上し、東の港町である蟹河を経由して、そこから西に行くことさらに四日。街道の途中では岩山を延々と迂回させられたために、地図で見るより随分と長く感じられる道程であった。

         

        「話を聞く限り、もうちょっと来やすい場所かと思っていましたけど、結構かかっちゃいましたね」
        「これでも道は整備したって話らしいんですけどねえ。西から来る分にはここまで大変じゃないはずなので、抜けるのは楽だと思いますよ」

         

         苦笑いしながら、ハツミが苦言を受け止める。
         今までヤツハが訪れたどの街と比べても、ここの交通の便の悪さは目に余る。単純に道が悪いことに加え、南部の岩山地帯の存在もあって途中にまともな宿もない。昔は流通の要ではあったものの、海路の発展によって衰退していったことも頷ける。明らかに、自然と人の集まる類の土地ではなかった。

         

         しかし、目の前に広がる光景は、天音がただの僻地ではないことを示していた。
         西に向かって伸びる道を中心に広がる街並みは、宿場の賑やかさを何倍にもしたようで、この時間から早くも焚かれた灯りが、景気の良い明るさとなって遠くからでも視認できる。その灯りの数だけ客がいると思えば、実に活気に満ちた宿場町と言えよう。

         

         足を運ぶ価値がなければ、このような賑やかさは生まれない。
         天音を、これほどの町足らしめているもの。

         

        「おぉぉぉっ、凌いだぁ!?」
        「……?」

         

         熱気を帯びたどよめきが、ヤツハの耳に入った。
         視線を彷徨わせれば、もう宿に戻るような頃合いだというのに、小高い丘の上に人々が集まっていた。人の輪の中心では、小ぶりな神座桜が夕焼けの中でも煌めいており、さらに剣戟を閃かせる男女が舞うような戦いを繰り広げていた。

         

         男のミコトが爆風のように散らした炎が、追撃を試みようとしていたらしい女の気勢を削ぐ。生み出された隙を貫くよう、彼は虚空から肉厚な刀身の刀を顕現させ、相手を一刀の下に打ち据えた。
         痛手を負った女のミコトは、失われた守りを補うためか、青く透き通るような色合いの水晶を生み出した。盾となったそれに男は構うことなく、居合の形で強引に彼我の距離を切り裂くが、打ち砕かれた水晶の奥では間合いを離した女がその手に薙刀を顕現させていた。

         

        「えやァーッ!」

         

         甲高い気迫の叫びが、山間に響き渡る。
         一撃、二撃、そして三撃、と。描かれた白銀の軌跡が男の身体を捉え、傷口から砕けた結晶が鮮血の如く溢れ出す。
         だが、散った桜霞を力に変え、男が高く飛び上がった。

         

        「おぉぉぉぁぁッ!」

         

         吠える彼に決着の到来を見たか、歓声がいっときばかり止んだ。
         天から月を落とすような強烈な斬撃が、薙刀を振り抜いた女へと襲いかかる。
         しかし彼女もまたそれを予測していたのか、技の勢いを殺すことなくくるりと一回転。刃の代わりに顕現させた扇を手に、自らを花弁の如く、円を描くように舞う。

         

         彼方からでは捉えきれない刹那の稠密な交錯の果て、立っていたのは女だ。

         

         

         振り下ろされた必殺の一撃を捌き、受け流し、最後の邂逅を後の先にて制した彼女の視線の先には、敗北の認めるように倒れ伏した男の姿があった。

         

        「うおぉぉぉ! 決まったァ!」
        「ありゃあ行くしかねえよ! うまく詰め切った!」
        「くぁーっ、あそこでもっと前に出てりゃあなぁ! 惜しかった!」

         

         静寂から一転、湧き上がる歓声が二人の激闘を讃える。勝利した女が貸した手を、男が悔しさを滲ませながら取る中、観客たちは戦いの流れを身振り手振りで再現しながら口々に感想を言い合っているようだ。そのうち、当のミコトたちもその感想戦へと混ざっていった。

         

         桜花決闘。それも、正しく今この時代における、桜降る代の桜花決闘だ。
         ヤツハは色んな町で噂を聞き、実際に決闘で盛り上がっている様子も見た。山城においては自ら体験もした。
         けれど、そのどれもが、これほどの熱量があったとは思えない。
         思わず見入っていたこの光景こそが、天音を決闘の聖地足らしめている。
         そう、この町は桜花決闘に対する想いを燃やす地であり、それ故に各地から人々が集い、宿場町としてここまで栄えたのである。

         

        「これが、ユリナさんの……」

         

         ぽつり、とこみ上げる情動が口をついて出る。
         それにハツミは柔和な笑みを浮かべながら、

         

        「ええ、そうです。こここそが、人間・天音揺波が生まれ、そして彼女が桜花決闘を愛したからこそ生まれた町・天音です。この辺りの桜の下では常に剣戟が鳴り響く、って言われるくらい、日常的に決闘が行われているんですよ」
        「すごいです……」

         

         ヤツハは伝わってくる熱気に圧倒されながら、言葉もろくに選べないほど呆然とその光景を眺めていた。
         と、そんな彼女へ、随分と先に進んでいたクルルが呼びかける。

         

        「やっつはーん! はっつみーん! 置いてっちゃいますよぅ!」
        「うおっと、そうでした。急いで宿も探さないと。ヤツハ、行きましょう」
        「あ……ごめんなさい」

         

         気づけば、足は完全に止まっていた。
         せっかちな星が瞬き始めた空の下、今見たこの町の姿を胸にしまってから、ヤツハは小走りに駆けていった。

         

         

         

         


         その日の夜。

         

        「…………」

         

         布団の中で、ぱちり、とヤツハは目を開けた。明日のために寝よう寝ようと思って瞼を落としていたものの、妙に冴えたままの意識に観念した形だった。
         首を倒して隣を見ると、わざわざ用意してもらったふかふかの掛け布団を放り出したクルルが、一番廊下側にある、さらに隣の布団の上に覆い被さってふにゃふにゃと寝言を呟いていた。か細い苦悶の声がその下から聞こえてくる。

         

         身体を起こしたヤツハは、音を立てないように布団から抜け出した。蚊帳からも出て、妙に火照った身体を冷ますように窓辺に腰掛けると、山から下りてきた涼風が髪を緩やかに揺らしていった。
         外では夜空に輝ける星々と、この宿から少し離れた地上で咲いている神座桜の輝きとが、火花を散らすように天音の夜を照らしている。流石にもう、刃が打ち合う音は聞こえてこない。

         

        「ふぅ……」

         

         吐息が、夜陰に紛れて消えていく。
         瑞泉で迎えたあの日から、夜はつい考え込んでしまいがちだった。
         『私は何なのか』――目的地に辿り着くまで答えが出ることはないだろうに、ヤツハの頭は思考を止めてくれやしない。眠れなかった夜も何度もある。

         

         しかし今、彼女の脳裏に浮かんでいるものは、昨日までとは違っていた。
         高鳴る剣戟に称え合うミコトたち、湧き上がる歓声――すなわち、今日行きずりに見た桜花決闘と、この町の盛り上がりだ。その熱が感情を炙っているかのように、何度もあの光景を思い出してしまう。
         どうしてこうまで意識してしまっているのか、ヤツハには不思議でならなかった。
         自分はそれほどに、桜花決闘が好きだったのだろうか、と自問する。

         

        「んー……」

         

         好きか嫌いかで言えば、好きなのかもしれない。ユリナに答えた言葉が蘇る。
         実験の中とはいえ、青雲と戦い続ける中で、だんだんと自身の技が通用していくのは楽しかった。最初は意表を突くことで優位を取っていたが、数戦のうちに手球に取られるようになり、それから数ヶ月を経て、今度は実力が通じるようになってきた。

         

         初めのうちは自分が成長する様が楽しかっただけなのかとも思っていたが、途中から明確に勝ち負けを意識し始めていたのも確かだ。その状態でずっと負け続けていて、結局気持ちが折れることもなかったのだから、少なくとも桜花決闘が嫌いだとは言えないはずである。
         ならば、今もそこまで向き合っている桜花決闘に、身を捧げたいのか――浮かんだ問いに、ゆるゆると首を振りながら、窓枠に預けた腕へ顔を埋めた。

         

         今日戦っていた二人や、山城で決闘をした夕羅などは、応と答える様が思い浮かぶ。一方で、彼らから伝わってきた想いと自身の間には、薄くとも容易には破れない壁の存在を確かに感じていた。
         ましてや、その究極たるユリナのように在ることなど、想像することもできない。
         彼女たちの強い在り方に押されているかもしれないけれど、己の本質が桜花決闘に依拠しているとは思えなかった。理性は辛うじて、まだ判断するのは早計かもしれない、と訴えていたが、それも随分と弱々しい。

         

        「青雲さん、ユリナさん……夕羅さん……あとは、天詞さん」

         

         この地で出会ったミコトやメガミのことを考える。決して知り合った数は多くないけれど、その中であっても桜花決闘への向き合い方には違いを感じていた。
         例えば青雲はあれだけの強さを誇りながら、決闘を取り仕切る立場である宮司として積極的に刃を振るうことはなかったようだし、古鷹の当主を務める天詞も芸能へと取り入れることに興味を向けてはいるものの、その舞台そのものを本分とはしていないようだった。
         どちらもヤツハには相当の実力者であると感じられるものの、夕羅やユリナのような熱があるという印象はない。そういった距離感で接する側に自分もいるのかもしれない、という予感が彼女にはあった。

         

         では何故、と最初の疑問へと戻る。
         熱に感化されたわけではないのなら、どうして今日の決闘が気になっているのだろうか。
         あの賑わいに、温かい喧騒に、どこか焦がれてしまうのだろうか。

         

        「…………」

         

         声には出さず、分かりません、と口を形作った。
         それでもヤツハは焦がれてしまっている。心が焼け付きそうなほどに。

         

        「こころ……」

         

         山風でも冷やしきれない熱に思考が巡る中、ふとその単語から記憶が呼び起こされる。
         この帰路で出会ったメガミは、こう言っていた。

         

        「ココロに、従う」

         

         去来したそれを、小さく声に出してみる。不思議とそれは、ヤツハの心に馴染んでいった。
         この情動が何なのか、はっきりと言葉にすることはできない。自分の正体と同じように、説明することもできない。
         だったら、分からないのならば。

         

        「……うん」

         

         従ってみよう。
         今分かる心の声に、耳を傾けてみよう。
         自分がここにいる、その理由、その意思に。

         

        『私は、私を知りたい』

         

         目覚めから今に至るまで変わらない気持ちを、ヤツハの心はきちんと返してくれる。
         ただ、熟したように胸に溜まった熱は、その声をさらに後押ししてくれた。

         

        「絶対に」

         

         決意が、窓から桜降る代へ染み渡る。
         宿から眺める景色の中に、北へと続く山々が聳えていた。

         

         

         

         


         そして一行は、確かな目的を胸に大地を進んでいった。
         渓谷を抜け、玄関口たる御冬の里も抜け、その先へと。
         桜降る代を一周し、始まりの場所へ帰るように。

         

         

        「う、くっ……」

         

         吹雪が、全身に叩きつけられる。極寒の冷気が肌を深く刺す。
         自らが人でないからこそ耐えられるけれど、ヤツハにはこの冷気が自然からの拒絶であると感じられてやまなかった。それを無視してひた進むことに僅かな罪悪感を覚えていることは否定できなかったが、先を求める彼女の意思が両の脚に雪をかき分けさせる。

         

         道らしき道はとうになく、クルルの指示によって白に覆われた世界を行く。当時の記録から得た指針がなければ、延々と彷徨い歩いた果てに氷像と化してしまうだろう。
         立ち入ることさえも、ましてや何かを求めることなんて。
         ここはもう、人の領域には非ず。
         そう――

         

        『この先は、我が領域ぞ』

         

         何処からか響いてきた威圧的な声が、耳を打つ。
         まさに今踏みしめた地がどこであるのか――それを理解したからこそ、ヤツハはこの遭遇を当然のものと受け入れる。あの頃とは違う覚悟と共に、意思を込めて歩みを続ける。

         

         全てを呑み込んでいた吹雪の音が、不思議と遠くへと追いやられ、聞こえなくなる。
         何故ならヤツハに向けられたその声は、守護者のものだから。
         この地に受け入れられたものだから。
         拝聴を強いるかのように、舞台は『彼女』のために鳴りを潜める。

         

        「貴様らがこの地へと踏み込むこと、我が許すと思うか」

         

         

         白銀の帳の向こうから、肉声と共に人の形が現れた。
         北限の守護者・コルヌ。
         その瞳が、一行の先頭に立つヤツハをはっきりと見据えている。
         初めて出会ったあのときのように腕を組み、冷たい視線を投げつけてくる彼女には、やはり冷徹という言葉が似合っていた。

         

         だから今のヤツハは、瞳を逸らさない。
         今のヤツハは、一歩、前へと踏み込む。
         凍てつくような視線を向けられても、確と相対するだけの意思を胸に抱いて。

         

        「はい……。私は……私を、知りたいから」

         

         故に、ここへ戻ってきた。
         意思を貫くために、往時の言葉を自ら翻す。この地から出ていくという対価を取り下げるのであれば、必然待ち受ける試練を既に受け入れているように。
         ならばあとは、番人に告げるのみ。

         

        「だから、あなたに『挑戦』します」
        「…………」

         

         コルヌの表情が小さく揺ぐ。それでも、二柱の視線は互いを射抜いたままだった。
         やがて彼女は、ヤツハの態度に呆れすら通り越したのか、それとも何かを見定めたのか、その端正な顔立ちを少したりとも動かすことなく、静かにこう答える。

         

        「よかろう」

         

         その肯定に、ヤツハの表情が揺らぐことはなかった。

         

        「北限の守護者として、役割の遂行者として、そして人々の挑戦を受け入れる自然のメガミとして。我は、貴様を試そう」

         

         組んでいた腕を解き、右の手をヤツハへと突き出す。
         それ以上、彼女から問われることは何もなかった。
         余計な言葉は不要とばかりに、試練の担い手はただ宣言する。

         

        「北限の守護者、コルヌ。桜降る代に、決闘を」

         

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        『八葉鏡の徒桜』エピソード6−4:龍ノ宮でちょっと急ぎ足

        2020.07.24 Friday

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           これまで、旅を急ぐことはなかった。
           目指すべき終着点こそあったものの、行く先々で見聞を広めるためにしばしば立ち止まっていた。空っぽだった自分に、見渡す限りのはじめてを大事に詰め込んで、この地で歩み行くための礎をゆっくりと築いていた。

           

           けれど今、旅を再開したヤツハの足取りは、ほんのちょっぴりだけ速い。
           行き路ではずっと追い駆け続けてきたクルルの背嚢も、今度は隣で揺れている。

           

          「…………」

           

           見知らぬ街への好奇心に瞳を輝かせることもなく、明確な目的地を見据えるヤツハは、活気に満ち満ちた目抜き通りを淡々と歩んでいた。

           

           己の正体の手がかりを求め、瑞泉を出立したヤツハ。クルルとハツミという旅の仲間と共に北限を目指す彼女は、ハツミの勧めもあって桜降る代のへそを東から迂回するような旅路の途中にあった。そして現在足を踏み入れているのは、東部に名だたる都・龍ノ宮である。

           

           

           樹海と山々が広がる咲ヶ原のほど近くにあることから、南北を結ぶ商流の要としての地位を築いており、先日まで居た瑞泉で扱われていた品々は龍ノ宮を経てさらに北へ運ばれていく。ただ、西の鞍橋ほど商い一色に染まっているわけではなく、この街のより根底にあるのは、何者にも妨げられぬ開拓精神だ。

           

           元々荒れ地であったこの赤東地方を拓いた末に生まれた街であり、今は亡き豪放磊落な創始者の気っ風が人々に行き渡っている。市中の至るところで出会う、騒々しいとすら言える賑やかさは、民が日々を自分らしく愉快に過ごしている証に他ならない。


           ヤツハたちが歩いてきたこの目抜き通りでも、時間惜しさに屋台で蕎麦をかきこむ者や、店頭に黒山の人だかりから怒号に近い注文の声が飛び交う問屋があったかと思えば、ミコトらしき者たちが荷台に乗り合わせた馬車が、通行人を蹴散らすようにどこかへ駆けていた。
           そんな賑やかさも、街の中心から外れていくほどに薄れていく。寄り道せず真っ直ぐ街を抜けようとしているヤツハには、短すぎる観光であった。

           

          「落ち着いたら、ここもよく見てみたいですね……」

           

           ぽつりと零すヤツハ。後ろ髪引かれる想いを誤魔化すように、小さく苦笑いを浮かべる。
           この龍ノ宮という街は、今まで旅をしてきた中でも、いっとう明るく、人々の生命力を浴びているかと思うほど活気に溢れていた。そんな楽しそうな街並みに身を投じたり、心躍るような素敵な出会いをしたときのことを思えば、この急ぐ道中、複雑な声音になるのも道理である。

           

           それに、北へ向かう意思を固めはしたところで、ヤツハ自身の立場はふらついたままだ。
           心の底から新たな地を堪能できるほど、彼女の内側に生まれた空虚は小さくなかった。
           右に並ぶハツミは、ヤツハの顔色を窺いながら、

           

          「まあまあ、街は逃げませんから、また来ることにしましょう。この辺は一昔前だとだだっ広いただの荒野って感じだったんですが、今は決闘の街としても有名なんですよ」
          「決闘……」

           

           頷くハツミは、記憶を探りながら適当な方角を指差す。

           

          「あっちのほうに、おっきい決闘場があるんです。天龍決闘場、でしたかね。そこでやる桜花決闘をたくさんのお客さんが見に来て、興行として成り立たせてるんですよ。もちろん見ごたえのある決闘じゃないといけませんから、各地から腕利きが集まってくるんです」
          「へぇ……」
          「できたのは最近で、これもユリナの作った新しい桜花決闘の流れの一つですね。何回か見物に行ったんですけど、すごいですよ。奈落から迫り上がってきたミコトが、火柱の中からド派手に入場するんです。……あれ、そういえばあれって絡繰仕掛けっぽかったですけど、クルルが関わってたんです?」

           

           ヤツハ越しにクルルへ問う。
           手持ち無沙汰になっていたのか、手元で部品をいじっていたクルルは首をがくりと横に傾けた。

           

          「んー、そいえばそんな話もありましたねえ。でも、あれはくるるんじゃあなくて、じゅりあん設計ですよぉ。でもでも、火柱なんかありましたかねえ……?」
          「後で追加されたんですかね……誰の趣味なのか分かりませんが、よくよく考えると恐れ知らずな……。まあ、龍ノ宮らしいといえばらしいのかもしれませんけど。あくまで風流な古鷹とは反対もいいところですね」

           

           ただ、とハツミは継いだ。

           

          「そんな毎日がお祭り騒ぎみたいな活気に溢れてるのが、この街の良さというものです。いるだけでなんだか元気がもらえるような気がします。月イチのお祭りのときはもっと盛り上がったはずですが、あいにく数日先のようですね」

           

           そう言うと彼女は、背中で手を結びながら、ヤツハの視界に入るように僅かに屈む。
           そして、優しく微笑みながら、寄り添うように告げる。

           

          「だから、落ち着いたらまた来ましょうね、ヤツハ」
          「はい……」

           

           けれど、静かに答えたヤツハは、心ここにあらずといった様子であった。ハツミの説明を聞いてはいても、行き路のように好奇心で瞳を輝かせるようなことはなかった。

           

           それから三柱は黙々と足を動かし、気づけば目抜き通りも抜けてしまっていた。道行く人もまばらで、山程の荷を牽いた牛が三柱を追い抜いていく。向かいから、疲れを身に纏わせた旅人がちらほらと姿を見せる。
           旅の目的に忠実に、一行はこのまま龍ノ宮の都を出ようとしていた。この真っ昼間に、ここで宿を取ろうと言い出す者はいなかった。

           

           遠くに関所が見えてきた頃合い、出立前の旅人向けに飯を出す茶屋の前も淡々と通り過ぎていく。
           だが、

           

          「おいおい、アタシには興味がないのか?」

           

           三柱の背中に、残念そうに呼び止める声がかけられた。
           ヤツハは一瞬、それが自分たちに向けられていると気づかなかった。しかし、足を止めたクルルとハツミにつられるよう、声の主を探した。
           振り返り、視線を彷徨わせる。すると、日差しの中でも燦然と燃え輝く女が、ヤツハの目を焼いた。

           

          「アタシはあんたに興味があるんだけどな」

           

           

           茶屋の屋根の上に腰掛けた一人の女。
           比喩でなく燃え上がる髪を蓄えたその姿は、メガミ以外の何者でもなかった。

           

           

           

           

           


          「ったく、ホントにこのまま行っちまうつもりだったのかよ――っと」

           

           その女は、瓦屋根の上で軽く踏み切ると、綺麗に宙で一回転してからヤツハたちの前に立ちはだかるように降り立った。火の粉が生み出す軌跡が陽の明かりの中でも煌めいていて、燃え盛る天の炎からその化身が産み落とされたかのようだった。

           

          「色んなメガミについて聞いて回ってるってのに、このヒミカ様について聞かないなんてモグリもいいとこだぜ」

           

           ヒミカと名乗ったメガミは、右の親指で自分自身を、左の人差し指でヤツハを指しながら、至って残念そうに非難した。とはいえ、その態度は重苦しいくも刺々しくもなく、いっそ大げさに肩をすくめながら口にするのが似合う、そんな甘噛のような文句である。
           しかしヤツハは、そのような軽い気持ちで受け止めることはできなかった。間の悪い来訪に、ちくりと胸が痛む。

           

           メガミが向こうからやってきたというだけで、ヤツハにはあまりいい思い出がない。コルヌとの邂逅しかり、平和に過ぎたものの先日はユリナに目をつけられた。
           そして今、己はメガミ――即ち彼女らと同じ存在ではないと断じられたばかりだ。半ば冗談のような文句であっても、この来訪が自分のことを本当に非難しているような、責め立てられているような感覚を禁じ得なかったのだった。

           

          「えっ、と……」

           

           どう反応していいものか迷いながら、一歩後ずさった足は感情に素直だ。
           そこでふと、ヒミカという相手の名前を思い浮かべたときに、以前の旅の記憶が呼び起こされた。

           

          「あっ、確か煙家の……」
          「そういえば教えましたね」

           

           呟きにハツミが反応する。彼女は気遣わしげにヤツハのことを窺い、再び並び立つように詰めてくる。

           

          「鍛冶や彫金が盛んな煙家でもヒミカへの信仰は篤いですが、一番大きいのはここ龍ノ宮でしょう。何故なら、こいつはこの街の名前になった英雄・龍ノ宮一志が宿していたメガミで、彼の情熱と彼への憧憬とが、今でも街に息づいているからなんです」

           

           その補足に、ヒミカは鼻を鳴らして得意げだ。
           沈んだ気持ちのまま浮かばないヤツハも、無理やりにでも表層に引き上げられたせいか、ハツミの言葉に対して小さな興味が湧いてくるのを感じていた。

           

          「龍ノ宮さんって、確か二十年前に亡くなったすごい方ですよね」
          「なんだ、知ってんのか?」
          「はい……簡単にですが、青雲さんから聞いて」

           

           ヒミカにそう答えると、何故か彼女は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。答え方を間違えたかとヤツハがひやりとするが、一拍置いた後にはヒミカは既に自慢げな顔に戻っていた。
           ヒミカはこの広い大地を示すように両手を広げ、

           

          「一志はなあ、昔は荒れ地だったこの赤東を仲間と一緒に開拓して、一代でここまで繁栄させたんだ。からっからだった土地に、あんな立派な水路も渡して、今じゃそこら中田んぼと畑ばっかりだ! 人間はここまでできるんだ、ってアタシは感心したよ」
          「…………」
          「そんなすげぇ奴が死んじまったのは、本当に残念だった。アイツといると、全然退屈しなかったんだけどなあ……」

           

           昔日を思い出したのか、ヒミカの瞳に寂しさが宿る。感情が直に表に出る人だとヤツハは思う。対面している自分にすら、彼女の抱く感情が滲み出てしまうようですらある。
           ヒミカの心情にあてられ、空気が少ししんみりとする。かちゃかちゃと、クルルが相変わらず絡繰を弄る音が、嫌に大きく聞こえてくる。ヒミカの姿に色めき立つ街の住人の視線にもようやく気づいた。

           

           再び、言葉を見つけられないでいたヤツハであったが、そのうちヒミカ自身があっと声を上げた。

           

          「違う違う、こんな話をしたかったんじゃない。アタシはヒミカ。アンタに興味があって来たんだ」
          「あ……ヤツハ、です」

           

           目線での求めに応じ、物怖じしながらも名乗り返す。
           ヒミカは続けて、

           

          「アンタが色んなところでメガミのことを聞きながら旅してるって、そんな噂を聞いたんだ。アタシたちのことに殊更興味があるなんて、一体どんな奴だとここに来るのを楽しみにしてたんだよ。クルルの連れだって言うから、コイツだろうな、って追ってきたんだ」
          「はあ……」

           

           曖昧に相槌を打つヤツハの隣で、ハツミが白い目でクルルのことを見ていた。
           そこでヒミカは腰に手を当てて、ずい、と顔を突き出してくる。
           彼女は問う。

           

          「なあ、アンタ何者なんだ? メガミについて聞いて、どうしたいんだ?」
          「……っ」

           

           真っ直ぐな、純然たる興味がヤツハに向けられる。びくり、と肩を小さく震わせて、また一歩下がった。
           この絶望的なまでの間の悪さは、もはや天を呪うしかなかった。ヤツハ自身がその答えを探しに行く道中にあるといっても、当のメガミ相手に正直に告げるには、出立のために奮い起こした希望はあまりにもか細い。

           

           メガミらしくあるためにメガミを知る、という前提は崩れた。
           ヒミカの問いは、それが純真過ぎるが故に、メガミでない者がどうしてそんなことをしているのだ、という非難の声に聞こえてならなかった。
           もちろんヒミカがそんな事情を知るはずもなかったが、頭では分かっていたところで恐れは紙に水を垂らしたように広がっていく。視線を避けるように俯いたところで、震えを収めるために握りあった両の手が、まだ揺れていることにますます動揺する。

           

           と、そんなヤツハの背中に、重みがのしかかった。
           後ろから抱きついてきたクルルの顔が、肩の上から飛び出してきた。

           

          「ちっちっち、ひみかんは分かってませんねえ。やつはんはすぺしゃるなとれじゃーなのですから、それは未だ謎に包まれているのですぅ。くるるんが解き明かしてる最中なんで、答えが分かっても言っちゃだめですよぉ」
          「なんだそれ」

           

           疑問を顔に書いたようなヒミカが首を傾げる。
           さらにハツミが半身をヤツハの盾にするように位置取りを変えた。ヒミカとは違い、ハツミの眼差しには明らかに非難の色が混じっていた。

           

          「ヤツハのことを気にするより、もっとメガミとして気にしたほうがいいことがあるんじゃないですか?」

           

           実感を伴った、苦労の滲むような問いかけだった。
           ヒミカには言外に指しているものが伝わったらしいが、対して返答する彼女はハツミの非難などどこ吹く風といった様子だった。

           

          「アタシはそんなことどうでもいい。それよりもこいつ――ヤツハの方が気になっただけだ」
          「そんな……!」

           

           あっけらかんと跳ね除けられたことに、珍しくハツミが憤りを露わにしかけた。
           ただ、彼女が言葉を費やして反駁するよりも前に、ヒミカは己の胸に拳を当てながら、続けて言い放った。

           

          「アタシは、アタシのココロに従っただけさ」

           

           堂々としすぎていて、開き直るなと謗ることさえ憚られるような態度に、ハツミも二の句が継げないようだった。
           クルルとハツミに庇われたヤツハも、あるはずもない答えを探しながら、言い訳じみたヒミカのその言葉を耳にしていた。
           だからなのか、それとも別の理由があるからなのか。

           

          「あ……」

           

           ヤツハの口から、音が漏れる。
           ヒミカの言葉が、ヤツハの意識に触れていた。当然、今までの積もり積もった不安をかき消すほどではなかったけれど、ヒミカの頭上で燃え盛る炎の温度が、凍てついた思考の海の中でふと届いたように、意識を割かれていた。

           

           何故反応したのか、何に反応したのか、理屈を放り捨てたようなその発言と同じように、ヤツハにはうまく説明できない。
           ただ、おずおずとではあるが、声の主を目にするために、顔を上げることくらいはできた。
           その様子にヒミカは、ヤツハの情動を見定めるように瞳を覗き込んでくる。
           やがて何かに満足したのか、にやり、と彼女は笑った。

           

          「なーんだ、アタシら思ったより気が合いそうだな!」
          「えっ……、えぇ……?」

           

           あらゆる過程を飛ばした身勝手な結論に、ヤツハはただただ困惑する。声色も明らかに友好的になっており、ハツミも肩透かしを食らったようによろけている。
           そのままずかずかと距離を詰めてきたヒミカに、思わずハツミは道を譲ってしまう。いっそこのまま肩を組んで語らい合おうとしてもおかしくないほどの機嫌で、ヤツハはまた別の意味で身を縮めてしまう。
           ヒミカが実際にそうすることはなく、ヤツハの隣をただ通り抜けていったが、

           

          「なんだかしらねーけど、頑張りな!」
          「ひゃぅ……!」

           

           すれ違いざま、強く叩かれた背中に驚いて妙な声を漏らしてしまう。
           何から何までヒミカの調子に振り回され、震えていたことすら遠い過去のことのようだ。問いに答えなくてよくなったことだけが、ヤツハに安堵をもたらしていた。

           

          「ちょっとヒミカ! 怯えさせといてそんな勝手な……!」
          「そーですよぅ! はつみんみたいにはーとに毛が生えてるわけじゃないんですよぉ!」
          「はーと、って……あの、クルル待ってください? あたしが何言われてもへっちゃらみたいに言わないでもらえます!?」

           

           保護者の二柱がやいのやいのと文句を垂れる中、ヒミカ本人はにししと笑いながら後ろ歩きで遠ざかっていく。

           

          「急いでるんだろ? ビビらせちまって悪かったな。じゃあな!」
          「あっ……」

           

           手短に詫びた彼女は、軽く跳躍すると、地面との間で生じた爆発を糧にさらに上空へ飛び上がっていった。そして足の裏から猛烈な炎が噴き出し始め、それが彼女が空を駆ける推進力となって、一行が止める間もなく屋根の向こう側へ消えてしまった。
           決闘以外で超常的な現象を見る機会が少ないヤツハは、その光景にまた驚いてしまう。けれど、密かにヒミカに声をかけようと窺っていたらしい周囲の人々は、それが日常であるかのように残念そうに三々五々散っていく。

           

           関所前の通りにぽつんと残された三柱。
           嵐のような出会いを経て、気疲れを代弁するかのようにハツミが嘆息する。

           

          「ああいうやつなんですから、あまり気にしないでください。さ、お馬鹿のことなんか忘れて進みましょう」
          「は、はい……」

           

           止めてしまった足を、また北へと向けて。
           うまく消化しきれない感覚を呑み込んだまま、ヤツハは問いの答えを求める旅路を急いだ。

           

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          『八葉鏡の徒桜』エピソード6−3:瑞泉で自分を探して(後篇)

          2020.07.23 Thursday

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            「はぁー……」

             

             まだ熱を帯びた吐息が、ヤツハの口から漏れていく。縁側から外に投げ出した素足は、見てくれの悪い靴脱ぎ石にその火照りを鎮められて久しいけれど、彼女の心に焼べられた熱は未だ冷めることはなかった。
             感嘆の溜息ももう数え切れず、過ぎた時間に囚われているよう。半ば上の空のままの彼女の視界には、低くなってきた陽を浴びる神座桜の姿があった。

             

            「とてつもない強さでしたね……私が至らないところもありましたけど、じゃあどうすればよかったのかとなると、何度考えても全然思いつきません……」

             

             そうして何度も至った結論を、改めて声に出した。隣では、夕餉用に笊いっぱいの芋を剥いていたハツミが、手元に視線を落としたまま同情するように微笑んでいた。

             

             

             突然彼女に申し入れられた決闘は、前の一戦で上がった息が整い次第早々に行われ、そして相手がろくに息を荒らげぬうちに終幕を迎えた。
             先日まで青雲に翻弄されていた通り、ヤツハが持つ桜花決闘の経験値はたかが知れている。権能の希少性も、うまく活用できなければ何度も刃を交えた相手には無為となる。ただ逆に、夕羅に勝利したときのように、その特異性故に強い相手でも最初のうちは不意を突くことだってできる。

             

             だが、肉厚の刀を振るい、桜下を駆けた彼女は違った。
             一度喰らいついたら離さない攻めも、本命の一撃へ常に余裕を持って対応する守りも、こちらの焦りを看破するように的確に打ち込まれる大技も……その動きの全てが、あらゆる不意を想定するという矛盾を叶えるように、一切の淀みなく成されていたのである。
             間違いなく、夕羅よりも青雲よりも強い。ヤツハに分かったのは、そんな冗談じみた敗北を味わうといっそ感動するという不思議な情動だった。戦術面はさておき、力の使い方は最近でも特に上出来だったのが、その清々しさの一因かもしれない。
             そして、もう一つ、決闘を通じて理解したことがある。

             

            「ユリナさん……メガミ、だったんですね」
            「流石に分かりますか」

             

             ええ、と相槌を打つヤツハ。半ば確信していたことではあったが、自らの感覚を認められてほっとする。
             彼女が相対した力とは、夕羅のようでも青雲のようでもなく、まるでその胸の内から滔々と湧き出ているようであった。メガミに力を向けられるのは北の果て以来これで二度目だが、決闘という枠組みの中であっても、その威圧感に終始気圧されていたことは否めない。

             

            「ユリナは武神と呼ばれているメガミの一人です。ただそれ以上に、現代の桜花決闘の顔役として名前が広まっているメガミでもあります」

             

             ちら、とヤツハの顔色を横目に窺ったハツミが、結局自己紹介もろくにしなかったユリナの代わりに素性を告げる。

             

            「顔役……?」
            「一昔前まで、決闘の文化って下火になっていたんですよ。それを盛り上げて、今の形に持っていった立役者がユリナです。今の決闘の宣誓もユリナたちが考えたものですし、ある意味では新しい桜花決闘の創始者と言っても過言じゃないかもしれませんね」
            「そ、そんなすごい方だったんですね……」

             

             そう聞くと、いまさらながら尻込みしてしまう。たとえばハツミなら海の民に、クルルなら技師たちに影響を及ぼしているが、桜花決闘の担い手だというユリナはつまりこの地に浸透した文化を介して、ほぼ全ての人々に関わっていることになる。あまりの規模に考えも追いつかない。

             

            「元々人間なんですが、そのときからの決闘馬鹿が高じて、決闘を運営する今の立場に収まってるわけです」
            「え……ミズキさんと一緒で、メガミ成りされたんですか?」
            「ですです。当時から百戦無敗なんて渾名されるほど、腕の立つミコトだったみたいです。その頃に起きた大騒動が、メガミ成りのきっかけにはなったんですが……まだ子供だったのに、生死をかけて敵に立ち向かった動機は『桜花決闘を守るため』ですからね。ユリナ以上に桜花決闘のことを考えてる人はいないでしょう」
            「…………」

             

             苦笑いしながら、ハツミは淡々と包丁を動かす。芋が煮崩れないよう面取りまでしているが、丁寧に過ぎているように見えるのは気のせいではないと、視線を部屋の中へ――正確には、壁のその奥へと向けた。
             話題に上っているメガミは、まだそこにいるはずだった。我々だけで話がしたいと、青雲からしばらく席を外すように頼まれていたヤツハたちに、その様子は窺い知れない。

             

             ただ、ヤツハは今のハツミの言葉に、少しどきりとしていた。
             声は聞こえなくとも、何も告げられていなくとも、自分という素性の知れない存在が俎上に載せられている可能性は大いにある。その理由が明確に与えられたような気がして、冷めやらぬ決闘の興奮の陰から不安が這い出てきたようだった。
             守る者には、敵が存在する。
             脳裏に過ぎったのは、苛烈に吹雪く銀世界だ。

             

            「あー……確かに、ヤツハのこと警戒してたんだと思いますよ」

             

             顔を戻せば、ハツミがばつが悪そうにヤツハのことを見ていた。コルヌのことにまで至ったかはともかく、反応の鈍かったヤツハが考えてしまったことに気づいたようだった。
             でも、とハツミはすぐさま続けた。

             

            「決闘の様子だとか、顔色を見ていた感じ、ヤツハのことは分かってくれたと思います。拳で語り合ってた、なんて言うと暑苦しいですけど」
            「はあ……」

             

             冗談めかして補足されたが、ヤツハの憂いがまるごと払拭されることはなかった。
             それでも、手元に目線を戻したハツミは至って軽い調子だった。杞憂だと笑い飛ばすほどではないけれど、その胸にはきちんと安心を抱いているようである。

             

            「大丈夫ですよ。青雲さんも、うまく説明してくれてるでしょうし」
            「そう、ですね」

             

             静かに諭されたヤツハは、冷え始めてきた脚を下穿きに通していく。目的や結果がどうであれ、ユリナとの決闘で得たこの熱は、逃げていくのが惜しいと思うくらいには偽りではないはずだった。

             

             それから、どちらが何を言うでもなく、社務所の縁側には穏やかな時間が過ぎていった。しょりしょりと芋を剥くこそばゆい音が、神座桜につけた計測装置の小さな唸り声と共に耳をくすぐっていた。途中、痒みに辟易したらしいハツミが、自前で水を出してぬめりと格闘していた。
             太陽は着実に西に向かっており、もうしばらくもすれば空に茜色が滲む頃合いだった。日中に決闘をした日は、だいたいこのあたりから風呂の支度を始めるのが習慣になっている。元々あった青雲作の鉄砲風呂はクルルに改造されてしまい、湯屋もかくやという立派な釜が据えられて久しい。

             

             お湯の張り替えが必要かどうか思い出しつつ、ヤツハは薪の用意をしようと靴に足を差し入れた。
             と、そのときだった。

             

            「ぬわんですかさっきの決闘はぁ!?」
            「……!?」

             

             突然、壁を叩いたような衝突音と共に、ヤツハたちめがけて家の中から大声が轟いた。手元が狂ったのか、隣のハツミが押し殺した悲鳴を上げていた。こんな騒ぎをもたらす存在は限られている。
             案の定、振り向いたヤツハが捉えたのは、勢い余って部屋の入り口の柱に激突していたクルルの姿であった。彼女は頬に痕を残しながら、縁側で身を縮めていたヤツハに向かってずんずんと歩み寄ってくる。
             興奮しているクルルは滑るように腰を落とすと、ヤツハの肩を後ろから揺さぶってまくしたてる。

             

            「さいっこうの解析結果が出てるじゃあありませんか! りあるで見落とすとはくるるん一生の不覚……くるるんはあのくっきり遷移が見たかったんですよ! 何がありました? 怪物さんと仲良しになりましたかぁ!?」
            「えっと、ユリナさんという、メガミの方と、決闘しただけで――」

             

             されるがままにヤツハは答えるも、クルルは特に興味を惹かれなかったようで、

             

            「度重なる実験でやつはんの制御はすむーじーになってきましたけど、今のはぱーふぇくつでしたよぉ! 正確なでーたこそがかけがえなきふらぐめん……みすてりぃを切り拓くのですぅ!」

             

             そこから導かれるものがなんなのか、クルルの手をやんわりと止めてから、ヤツハは目で問いかけた。
             クルルは、にっこりと口元だけ笑わせながら、こう告げる。

             

            「ついに、仮説が立証できたかもしれません!」

             

             言っていることは簡単なのに、言葉を噛み砕くのにヤツハは幾許か時間を要した。
             ここに来た目的が、果たされようとしている。
             求めた真実に、指先で触れようとしている。
             今日の決闘がきっかけになるなんて予想だにしていなかったせいで、実感が遅れてじわじわと湧き上がってくる。その気持ちが本物かどうか誰かに確かめて欲しくて、ハツミと顔を見合わせた。彼女もまた、徐々に顔が緩み始めていた。

             

             堰を切って溢れ出した感情は歓喜だった。
             二柱に、笑顔が咲く。

             

            「やった! やったじゃないですか、ヤツハ!」
            「はいっ! 本当に、結果が出てよかったです! 突然でびっくりしちゃいました」
            「あはは。ヒヤッとする来客が、まさか成果に繋がるなんて思っても見ませんでしたね! あとでお礼言っといてもいいかもしれません」
            「はい……お世話になった方がまた増えちゃいましたね」

             

             芋を放り出したハツミと手を合わせ、喜びを分かち合う。劇的な終わりではなかっただけに想いが爆発することはなかったけれど、長かった道のりを振り返ってしまうくらいには達成感が生まれ始めていた。
             そして、一番長く、その道行きに付き合ってくれた者への感謝も。

             

            「くるるんさん、本当にありがとうございます! 着いてからずっと実験で、とっても大変でしたよね……」
            「わっはっは、未知への探究のためならこの程度、よゆーもよゆーなのですよ。むしろ、被験者に協力してもらえるとこーんなに楽ちんなのかって、くるるん感動してるくらいです」
            「私からもお願いしたことですから、当然です……!」

             

             互いのため。その繋がりが変わることはなく、当初の望みを叶えようとしている。
             しかし、ヤツハの目には、興奮するクルルが何かに意識を囚われているように見えていた。彼女が満足する結果を得てもさらに考えに没頭してしまうことはよくあることだが、それにしても思考に意識が向きすぎているような気がしていたのだった。

             

             小さな違和感で片付けようと思えばできてしまう、その程度の感覚。
             ただ、それを支持するような提案が、クルルからもたらされる。

             

            「念の為、もっかい見直しますが、この後……陽が落ちないうちに、最終確認のための実験をお願いしたいのです。決闘じゃないので、せーうん居なくてもだいじょぶです」
            「……? はい、分かりました」

             

             クルルは返事も待たず、軽快な足取りで廊下へと消えていった。どう見てもその様子はご機嫌そのもので、懸念の入る余地などないように思える。
             気の所為かと一度横に置いたヤツハは、『最終』という響きに心の準備を始めた。

             

             

             

             

             


             そして世界が夕日に焼かれた頃、三柱のメガミは神座桜の下に介していた。根元では依然として計測装置が稼働する、もう随分見慣れた小さな桜である。
             ヤツハはクルルが装置の再確認を終えるのを、手持ち無沙汰に待っていた。すぐ終わると言われていたが、どうにも普段とは違って慎重なようで、時間をかけている。最後の実験になるのならそれも仕方ない、と今まで世話になった桜を漫然と眺める。

             

             そうしていると、がらり、と社務所の戸が開く音がした。
             表に姿を現したのは、やや気疲れした家主の姿であった。

             

            「あっ、青雲さん。ユリナさんは……?」
            「君たちが騒いでいた少し後に帰ったよ。あれも忙しいからな」

             

             互いの袂に手を差し入れた彼は、ヤツハの顔色に一抹の不安が射したのを見て取ったか、努めて軽い声色で会談の結果を述べる。

             

            「事情は一通り説明させてもらった。ユリナの存念は理解できるが、こちらとしても痛くもない腹をこれ以上探られても困るからな。最終的に、後ろ暗い企みはないと納得してもらえたよ。どうも別件で頭を痛めていたらしい」
            「なら……」
            「ああ、実験も止めるつもりはないとのことだ。全く、よかったよ。ここでクルルとユリナの戦いでも始まってみろ、神社が吹き飛びかねん」

             

             空笑いする青雲が傍まで来たところで、作業を終えたらしいクルルが立ち上がった。
             彼女は意外そうな表情を浮かべて、

             

            「およー、ゆりなん来てたんですかぁ。うつろんと話し損ねちゃいました……」
            「一緒に駆け回っているそうだから、落ち着いた頃に会いに行ってやるといい」

             

             少し残念そうにしていたクルルは、それに何を言うでもなく、口をすぼめたままだった。
             それから青雲は、ここに来た本題を告げた。

             

            「さて……飯の相談をしようと思っていたのに、これは何事かな? これからまた決闘、というわけではなさそうだが」

             

             それは暗に、昼にあれだけやったのに、と抗弁しているようでもあった。悪意が込められているわけではなく、青雲もミコトとしてはほとんど隠居状態の身であり、ヤツハが腕を上げていくにつれてその疲労も無視できないものとなっていた。
             そういえば、と終わりを目前とした興奮で風呂の用意も忘れていたことを思い出し、ヤツハは少々恐縮しながらも経緯を述べる。

             

            「昼間のユリナさんとの決闘から、くるるんさんが決定的な何かを見出したみたいで……今から、それを確かめるための実験をしようとしていたんです」
            「これで結論が出るわけですから、晩御飯はそれからでも遅くないでしょう?」

             

             悪戯っぽく笑いかけたハツミ。
             それに青雲が示したのは、とても素直な喜びであった。

             

            「おぉ、ついにか! それは素晴らしい……私も是非見届けさせてもらおう」

             

             クルルを宿しているだけあって、根源にはそんな好奇心があるからこそ、青雲はここまで協力してくれたのかもしれない。時折夜中にクルルの議論の相手を楽しそうにしていたことを、ヤツハは知っている。

             

            「それで、実験とは?」
            「ああ、そうでした。くるるんさん? 私は何をすれば……」

             

             問われてヤツハは、肝心の内容をまだ聞いていないことに気がついた。
             名を呼ばれたクルルが、一通り工具をしまってからヤツハに向き直る。
             束の間の静寂に、緊張で手汗が滲む。
             そして、クルルに似合わぬ静けさで、淡々と最後の実験内容を告げた。

             

            「これからやつはんには、神座桜の中に、入ってもらいます」
            「え……それって――」
            「はい。今まで避けてた、くるるんたちの世界に向かうこと――それが、最後の実験なのです」

             

             北から南まで歩き旅になった、その理由。
             時間をかけてでも、ヤツハの状態を保全したいというクルルの願いが最初だった。もちろん、旅の終着点であるこの瑞泉でも、引き続き禁じられていた。
             それを今、彼女自ら破ると言ったことの意味の重さを、ヤツハは実感する。
             探究者の中にある確信は、本物なのだろう、と。

             

            「今までは、何が起こるか分からなかったのと、ありのままのやつはんを調べたかったのでやめてもらってましたが、仮説を実証する最後のひと押しにこれ以上の実験はありません。今こそ、やるべきなのです」
            「…………」

             

             はい、とすぐに言えなかった。無論拒絶する気はなかったけれど、意図的に遠ざけていた未知の場所へいきなり踏み出すには、勇気が足りていなかった。
             思わずハツミを見れば、微笑んで頷いてくれた。そのまま桜へと近寄っていく彼女の背中をどうにか追うことができた。来たばかりのときと比べると随分と固くなった地面を、一歩一歩噛み締めていく。

             

             目覚めから積み重ねてきた全ては、むしろここを越えた先のためにある。
             この地のメガミとして在るために。
             ならば当然、足踏みなどしていられなかった。自分の背中を押してくれた人たちに報いるような、そんなメガミであるための一歩を、躊躇なんてしていられなかった。

             

            「ヤツハ、見ていてください」

             

             そう言うとハツミは、ゆっくりと右手を神座桜の幹へと伸ばした。
             すると、指先が樹に触れるか否かという瞬間、指を迎え入れるかのように樹皮の一部が桜色の光を発した。

             

            「……!」
            「ゆっくりやるとこんな感じです。言葉にするのなら、そうですねえ……桜に顕現体を還すような感覚、とか。あとは、自分をあるべき場所に戻すだとか……うーん、ごめんなさい。当たり前すぎてちょっと伝えにくくて」

             

             ハツミは抽象的な助言をしながら、手首の先まで桜の中に出したり入れたりしていた。見る角度を変えても、幹の中に入っているであろう手がどうなっているかは、光に呑まれて見えないままだ。
             やがてハツミが完全に手を引き抜くと、神座桜は元の渋い樹皮を晒すのみとなる。彼女は調子を確かめるように手を動かしながら、ヤツハを前へと促した。

             

            「やって、みますね」

             

             宣言したのは自分なのに、息を呑む。
             そして恐る恐る手を伸ばし、自分の感覚の引き出しを片っ端から開けていく。一番近しいのは権能を収める瞬間だろうか、とあたりをつけて、ハツミの言葉から連想される感覚を指先に作り出していく。

             

             

             だが、こつり、と爪が硬いものに触れた感触は、再現の難しさを物語っていた。桜に受け入れてもらえるような感触は当然なく、あれでもないこれでもない、と探り、手指に宿った力を霧散させるように想像もした。
             けれどヤツハの努力は早々実らず、権能の行使と同じく練習が必要なのかと己の不甲斐なさに恥じ入り始める。

             

            「あの、すみません……うまくできないみたいで」

             

             もう少し追加で手がかりが欲しい。そう、再び助けを求めるようにハツミに視線を向けた。
             しかし、

             

            「ハツミ、さん……?」

             

             その呼びかけに、答えはない。
             何故なら彼女の顔には、ありありと動揺が浮かんでいた。
             目の前で起きたことが、信じられないとでも言うように。
             胸が、大きく高鳴る。

             

            「あの――」
            「こ、こんなこと……ありえるんですか……?」

             

             ハツミが問うた先は、ヤツハの向こう側だった。
             ただ、その問いだけでもう、結果が出てしまったのだと分かってしまった。
             だからハツミのさらなる問いかけは、実験がもう終わったのだと明らかにするものでしかなかった。

             

            「ねえ、クルル! 桜がどうして、こんなにも応えないんですか!? いくらやり方分かんないって言ったって、おかしいじゃないですか!」

             

             その歪さすら、ヤツハには分かっていなかった。
             分かっていないことが、そもそも答えだった。
             ありえないことを成してしまった果てに生まれるのは、一つの結論。

             

            「そですね。ここまでくっきりとは驚きですが、こんなのくるるんも見たことありません。実験は……成功ですぅ」
            「じゃあ……」

             

             自分を置いて話が進む中、ヤツハには俯くことしかできない。
             言葉の一つ一つが、ヤツハの中に積み上げてきた常識を削り取る。
             ずっと歩いてきた想いが、その土台から揺らされている。
             空っぽだった自分に詰め込んだ何もかもを、この一瞬の間に自分自身で裏切ってしまったよう。

             

             ああ――、とそこでヤツハは得心した。
             実験は確かに、『成功』したのだ。
             クルルは単に、『仮説を実証できる』としか言っていなかった。
             その仮説を詳らかに教えてもらったことは、ない。

             

            「やつはんは、メガミではありません」

             

             仮説だったものが、クルルの口から告げられた。

             

             

             

             


             重苦しい沈黙に、身動きが取れなくなるかのようだった。驚愕の気配が静寂の中で幾重にもこだまして、頭を揺らしてくる。

             思えば確かに、誰もそれを保証してくれてはいなかった。
             みんなに助けられながら歩んできた道程が、ふっ、と消える感覚。足は地面についているのに、心だけが延々と底の見えない闇の中に落ちていく。すぐ傍にクルルたちがいるのに、地平を挟んでいるかと思うほどに遠く感じられてしまっていた。

             

             そんな永遠に続くような孤独な無音が、ヤツハを苛み続ける。
             それを破ったのは、見守っていた青雲であった。

             

            「メガミではない。ならば彼女は何者だ?」

             

             それはここにいる皆の胸中を代弁していた。
             もちろんそれに、ヤツハが答えられるわけもない。コルヌに誰何されたときからずっと抱いてきた前提を、まさに今崩されたばかりなのだから。
             心の衝撃に倒れないよう、桜へついていた手をそっと戻す。胸元でその手を抱いた様子を、ハツミが心配そうな表情で見つめていた。

             

            「まだ……分かりません」

             

             場に答えたのはクルルだ。結果に納得しているが、理由を理解できていない困惑が声色に滲み出ていた。
             そのまま彼女は、論理の筋道を整理するように続けた。

             

            「これまでずっと、やつはんが権能を引き出す流れを、神渉装置を通じて見てきました。その積み重ねから、くるるんは『やつはんがメガミではない』と疑い始めてたわけですが……」
            「…………」
            「やつはんの流れは、ミコトがメガミを宿すのでも、メガミが力を使うでもない、未知のぱたーんを描いてたのです。くるるんはここから、権能の源がメガミとは違うという仮説を立てました」

             

             それを受けて、青雲が訝しるように訊ねる。

             

            「信じられん……あの超常の力が、メガミの力とは異なると?」
            「そう結論付けざるを得ませんねえ」

             

             さらに、とクルルは、

             

            「今の実験からも、やつはんが神座桜と結びついてないことは明らかです。そこに流れがあるからこそ、くるるんたちは流れに乗るのですぅ。流れがないのなら、無反応なのはとーぜんですぅ」
            「…………」
            「ゆえに、やつはんはメガミではない……というわけなのでした」

             

             ちらりと横目で見やれば、ふー、とわざとらしく額を拭う彼女は、いつもの何を考えているのか分からない表情を浮かべていた。

             

            「何かの、間違いじゃ……」
            「ヤツハ」

             

             震える抗弁を、ハツミが止めた。
             首を横に振った彼女は、小さく呟くように補足した。

             

            「あたしたちは必ず神座桜と結びついています。メガミとして生まれた者も、人間だった者も。だからあたしたちは、メガミなんです」
            「っ……」

             

             反論は、出てこなかった。自分がその根本原理を覆す存在だなんて、主張できるわけがなかった。
             突きつけられた現実は変わらない。クルルにとってしてみれば、ヤツハの正体を探る一環にしか過ぎないのだろう。お互い、メガミであることの証明を目指したことは一切ない。単に、思い込みと刷り込みによって、現実との落差が生まれてしまっただけなのだ。

             

            「…………」

             

             また、じりじりとした沈黙が場を満たす。
             誰も彼もが何かを言いたくて、言葉が見つからない、そんな気まずい空気が、いよいよ藍色に染まり始めていた空の下にわだかまっていた。
             と、次に声を上げたのはハツミだった。

             

            「あっ」

             

             何か大切なことを思い出したような彼女は、生まれた疑問をとつとつと口に出していく。

             

            「じゃあ、ヤツハには何で権能があるんですか……?」
            「……!」

             

             直接訊ねられたわけではなかったけれど、ヤツハの背筋を寒気がなぞっていった。
             無から何かがぽんと生まれるわけはない。人間に親がいて、メガミに桜があるように、誰も必ず源泉を有しており、ヤツハもまた例外ではないはずだ。そしてそれこそが、ハツミの疑問に答える上での最大の手がかりとなるに違いなかった。
             己の源泉はどこか。答えられないからこそ調べてもらっていたが、未知の何かが想像もできないようなおぞましい何かである可能性が脳裏を過ぎってしまい、転げ落ちる思考を無理やり元に戻すためにも、ヤツハは必死に考えた。

             

             彼女が持っているのは、旅を始めてからの記憶だけ。頑張れば余すことなく思い出せてしまうほどの少ない来歴を、逆に辿っていく。

             

             探究の終着点になるはずだった、瑞泉。
             創造と温泉の熱量に心奪われた、煙家。
             桜花決闘の初陣を勝利で飾った、山城。
             数え切れない品々に目を回した、鞍橋。
             培われてきた伝統が胸に沁みた、古鷹。
             人間とメガミの在り方に触れた、芦原。
             逃げるようにして後にした、御冬の里。
             そして――

             

            「ぁ……!」

             

             ヤツハの脳裏に、忘れようにも忘れられない光景が蘇る。
             この旅と探究が始まるよりさらに前。
             記憶を失った彼女の原点。持ちうる限りの最古の記憶。

             

             北の果ての銀世界にある洞窟で、ヤツハは目を覚ました。
             吹雪も届かない、不自然に切り取られた空間。不思議な淡い光を放つ、透き通った小石のようなもの。年月の重みによって石のようになった、樹のような肌をした何か。
             そして、そこにあって明らかに普通ではなかったアレ。
             樹肌を伝っていたアレがなんなのか、彼女は未だ、説明できない。

             

            「何かくるるーんしましたかっ!?」
            「あっ、いえ……その……」

             

             クルルの催促によって、ヤツハに視線が集まる。
             恐る恐る、行き当たった根源のことを告げた。

             

            「私が目を覚ました北限の洞窟に、変な蔦があったのを思い出して……。蔦って言っても、古そうな樹に絡みついてたからそう思っただけで、鮮やかな薄い石を貼り合わせて細く伸ばしたような、そんな妙なものが――」
            「……それですぅーっ!」
            「……!?」

             

             耳をつんざくようなクルルの大声が、ヤツハの声をかき消した。神社を囲む森から鳥が泡を食ったように飛び立っていく。
            驚きのあまりに胸の奥が激しく暴れているヤツハは、いきなり叫びだしたクルルを前に唖然とするしかない。突飛な言動にはもう慣れていたが、その認識を改めるくらい、出会ってから最も強烈な一撃だった。

             

             そうして気持ちを宥めるヤツハの肩を、猛然と駆け寄ってきたクルルががっしりと掴む。
             きらきらと輝かせた瞳まで、あのときと全く一緒だった。

             

            「くるるんせんすが、見逃すべからずと告げていますぅ! くるるんもそんな代物を見た覚えはありません。未知のものならば、同じく未知のやつはんと関係がないとは言い切れないですぅ!」
            「で、でも……」

             

             反論は、続かなかった。否、続けられなかった。
             もはやクルルは、謎の手がかりを得た高揚のあまり、既に北限行きは決定していると言わんばかりだった。その眩しすぎるほどの真っ直ぐさこそが、ヤツハをここまで連れてきた原動力の一つである。


             肩に置かれたクルルの手からは、今もそれが温もりとなって感じられる。
             しかしそれでも、今はどこかその温もりに虚しさを感じていた。
             罅割れた自分を力強く握られ、崩れてしまいそう。
             自身がメガミでないという事実を自分はどう受け止めているのか、それすらも判然とせず、心は闇の中に浮いたままだった。

             

            「待て、クルル。性急すぎるぞ」

             

             一点に定まらない視界の中で、青雲がクルルの左腕を掴んでいた。無理にヤツハから引き剥がすことまではしなかったが、あからさまに頬を膨らませたクルルに対して引き下がる様子はない。じろり、とあまり笑っていないクルルの目が彼に向けられる。
             青雲はその視線に応えることなく、ヤツハへと焦点を合わせた。

             

            「無理はしないほうがいい。君には、知ろうとしないという選択肢があることを忘れるな」

             

             諭す言葉には、少々力が籠もっていた。強引にでも空虚な闇の中からヤツハを引き上げようとしているようだった。
             ただ、芳しくないと見て取ったのか、彼はさらに続けて、

             

            「君には、メガミとして在り続ける道が依然存在している。実際にメガミであるか否かにかかわらず、だ」
            「…………」
            「理由は定かでなくとも、君には権能があり、それを宿すミコトも確認されている。ならば君は、この人の世においては、メガミとして在っても差し支えはないはずだ。違うか?」

             

             少なくとも今までは、誰も疑わなかったその証拠がある。何も言わなければ、人々はこの先も疑いを抱くことはないだろう。ここまでずっと、自分の在り様を胸に抱いてきたヤツハのように。
             確かに、理屈はあった。何よりそれを口にした青雲は、人とメガミの最たる営みである桜花決闘を一番近い場所で見守る宮司である。

             

             ヤツハも、揺らぐ思考の中で、心に入った罅を埋めてくれるその理屈を受け止めていた。
             だから、青雲の問いに、こう答える。

             

            「――……い、です」

             

             俯いたまま、とつとつと。
             満足に声にならなかった答えをもう一度、青雲を仰ぎ見る。

             

            「違わないんです……! でも、私、なんでっ……!」

             

             頬を伝って流れた涙が、地面を叩く。
             ぎゅっと袖ごと握りしめた手が、小さく震える。
             泣き声に込められていた感情を解き放ってしまわないよう、唇を引き結ぶ。けれど、かえってそれが、うまく言葉にできない反駁の意思をありありと示してならなかった。

             

             取り乱すというほどではないにせよ、ヤツハが見せる感情の発露としてはとみに大きいものだった。青雲もどう言っていいか分からなくなったようで、クルルからも手を離している。
             そこへ、ヤツハの左のこぶしを優しく手で包んだのは、ハツミだった。

             

            「ねえ、ヤツハ……ゆっくり考えませんか? 急いで結論を出してもいいことないですよ」
            「…………」
            「色々気持ちの整理をしてから、ね? この中で一番びっくりしてるのはあなたなんですから、どうするか考えるのは落ち着いてからにしましょうよ。――クルルもですよ!」

             

             えー、と不満を漏らすクルルに、ハツミはきつめの視線を送った。クルルは渋々といった様子で、ヤツハへと伸ばしていた手をだらんと落として引っ込めようとする。
             けれど、クルルのその左手が、宙で止まった。
             人差し指の先っぽだけを辛うじて掴んでいる、震える細い手。

             

            「およ?」
            「……ヤツハ?」

             

             皆の疑念の中、やんわりとハツミの手を解いたヤツハは涙を拭う。
             俯いたままでいながらも、彼女の瞳は、何かに焦点を合わせようとしているようだった。

             

            「いいえ……」

             

             その前置きが、これから告げようとしている言葉を喉へと押し出す。
             迷いの中、ヤツハの表情に宿ったのは一筋の意思。
             それを皆に示すよう、顔を上げて、彼女は言った。

             

            「私、行きます……あの蔦を、調べに行きます……!」
            「……!」

             

             ……もちろんこれは、ヤツハに結論をもたらすであろう選択だ。
             メガミであることを否定された今、彼女の正体を予測できる者すら誰もいない。
             迷いと苦労の果てに待っているのが、手放しに喜べる真実ではない可能性も覚悟しなければならない。果たして今のヤツハに、全てを受け入れるだけの覚悟が本当にあるかは怪しいだろう。

             

            「ヤツハ、無理は――」
            「ハツミさんや青雲さんの気持ちは……分かります。とても嬉しいです……。だけど、それでも……」

             

             その先は、続かなかった。否、続けなかった。
             皆に見せた顔を、伏せてしまわないように堪えている。ハツミの言う通り、無理をしているのかもしれない。
             それでもヤツハが顔を上げ続けるのは、自分は前を向こうとしているのだと訴えるため。
             そうすべき理屈も分からず、感情すらも言葉にできないのなら、ただそうするための意思を示すことだけが、今の彼女をたどたどしくも語る術となる。

             

             それはある意味、言葉での反論を許さないずるさがあったかもしれない。
             あるいはそれは、自分を顧みないわがままに聞こえたかもしれない。
             ただ、ハツミはこれに口の中で何を言うべきか選んだ果てに、結局困ったように溜息をつくだけに留めた。その眼差しにはまだ心配が宿っていたけれど、ヤツハと目を合わせた後に、小さくはにかんだ。

             

            「……分かった」

             

             次いで、青雲も少しだけ遠くを見つめながら呟いた。
             間を置かず、彼はヤツハへ言葉を贈る。

             

            「もし仮に取り返しがつかなくなったとしても、その先の未来は自分で決められる。これだけは……、覚えておいて欲しい」

             

             こくり、と小さく頷くヤツハ。

             

             ここまでは、クルルが頑張ってくれた。ならば次は、自分の番。
             たった一つに限られた手がかりを、自ら吹雪の向こうに見出すのだ。

             

             恐れはある。なのに自信はない。強がりきれるかどうかすらも分からない。
             それでも彼女の意思は、正体の知れぬ身であり続ける恐怖より、真実を知った痛みを受け入れることを選んだ。
             注目を集めたまま、彼女は噛みしめるように宣言する。

             

            「戻りましょう。北の、果てへ」

             

             こうして三柱の旅が――彼女の帰り道が、始まる。

             

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