『八葉鏡の徒桜』エピソード5−2:月下の円舞

2020.03.13 Friday

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     決闘の始まりを告げたのは、ただ一つの呼吸であった。
     だが、それを皮切りにトコヨがもたらした絶対的な場の変化が、見守るチカゲの肌をも粟立てた。

     

    「……っ!」

     

     得物である扇を閃かせたわけでも、一歩を踏み出したわけでもない。その小さな吐息に特別なところは何もない。それなのに、十分な間合いの先から放たれた気配の恐ろしさは、サイネが思わず息を呑んでしまうほどだった。

     

     己の意識を、彼女の一挙手一投足から逸らしてはならない。
     彼女の意識が、己の軽挙妄動を咎めようとしている。

     

     トコヨが求める正対は、相手に過度なまでの完全をも求める。一片の瑕疵すら許されぬ舞台に上げられた者は、自身の考えから動きに至るまでの逐一に自省を促されるよう。答えを持たぬ者は、今まで磨いてきた技の不出来を悟って膝をつくことだろう。
     しかし、そんな美の体現者に相対するサイネは、技巧の極致という答えを求め続けてきた求道者である。

     

    「はぁーっ……」

     

     細く、鋭く、胸の内に芽生えかけていた畏れを吐き出すように気を漲らせる。
     メガミの座に着いてから十八年。積み重ねてきた鍛錬は、彼女の一振りから余分とも言えない無駄を極限まで削り、その動きを芸術足らしめて久しい。無論、それがただ飾られるだけの骨董品のような美しさではないことを、誰もが知っている。

     

     そして何よりも、彼女が得た『何か』。
     恐れとしてチカゲの前に辛うじて表出したそれは、かのユリナを打倒するに至るまでの変化をもたらしている。未だ語られることのないその経験が、トコヨという品評家の思惑を外れる動きの礎ともなり得るだろう。

     

    「…………」

     

     青に柘榴色を透かしたような刃先を揺らめかせ、にじり寄るサイネ。
     対し、トコヨはくるりくるりと要を中心として扇を回すように舞う。周囲に滲み始めていた桜色の光が彼女に寄り添い、それはさながら、舞踏の始まりに観客が色めき立つようだ。

     

     砂利を噛む音が、この坑道にあって嫌に響く。静寂には、足音だけが残っていた。
     一歩、二歩と元あった距離が半分ほどに縮まる。互いの間合いに踏み込もうかというそのときですら、予兆を悟らせるような力みはどこにも見られない。
     そして、静寂のうちに邂逅は果たされる。

     

    「……!」

     

     次の一歩を刻もうとしていたトコヨの手から、春の野を揺らす風のように柔らかく扇が放たれる。仄かな光を纏ったそれは、静けさとは裏腹に寒空を疾く駆ける猛禽の如く相手に迫る。
     それに応えるサイネが描くのは、残身を保つトコヨを捉える弧だ。

     

    「はッ……!」

     

     その軌跡は、まるで透き通った冬の夜に浮かぶ三日月のよう。
     互いの刃が双方の身から、結晶を桜飛沫のごとく散らせる。二柱によって演じられる舞はいよいよ始まりを告げられ、胸打つような緩急が咲く優美さに、チカゲやオボロも呼吸を忘れたように見入っていた。

     

     一合目を皮切りに、先に動いたのはトコヨだ。
     するり、と伸びた薙刀とすれ違うように、円を描きながら彼女は舞う。懐へ入り込む様は精霊が悪戯に起こした風のようだ。
     それを咎めるべく、彼女の胸元めがけて下から伸びてきたのは鋭利な石突。接近を拒む応手に、しかしトコヨはむしろそれが分かっていたかのように、手元に再び現した扇ですくい上げるように打ち払う。かち上げられた石突が、天井で輝く水晶を指し示す。

     

    「っはッ!」

     

     トコヨは扇を振るって後ろへ傾いた重心に逆らわず、再び扇を投じながら、軽やかな足取りで肉薄した間合いから舞い戻らんとする。
     だが、サイネの神速の斬撃は、その一手を瞬く間に貫く。
     宙を泳いでいた石突を引き戻す代わりに、足元から舞台を縦に両断する刃は、扇を真っ二つに切り裂いた。

     

    「ふぅッ……!」

     

     さらにサイネの周囲へ、彼女の刃と同じ色合いの水晶が二つ現れる。分かたれた扇を見送るように半歩を踏み出せば、彼女の間合いの中で躍るトコヨの姿が。

     

    「せッ、はぁッ!」
    「っ……」

     

     八相の構えから繰り出される連撃が、トコヨの護りを削り取る。静謐にも思えた立ち上がりから一転、定められた円舞を舞い踊るが如き激しい舞台に、塵と化した結晶が風に乱れ散っていく。
     そして、ぴたり、と再び刹那にも永久にも感じられる静の後、動が舞台上の物語を進めていく。
     僅かにサイネの間合いから離れたトコヨが、大仰に大気を扇いだ。

     

    「……!」

     

     生まれたのは、一陣の風。それも、サイネがあてがった奇妙な色合いの水晶を穿ち砕くほどに先鋭なる刃としての風だ。トコヨがそう演じたから、相応しいだけの風刃が現れた――そんな具現化した攻撃にサイネは顔をしかめる。
     さらに、追走するようにサイネを襲うのは三度の投射。風への対応を求められた彼女をあざ笑うかのように、肩口から結晶を啄んでいく。

     

    「くっ……」

     

     その扇は主の下へ戻る鷹のように旋回し、トコヨの下へと帰っていく。加えて、最初にサイネを喰らって地面に横たわっていた扇が、彼女が望むがままの風に乗って舞い戻る。
     サイネ自身、扇の動きそのものは捉えているようだが、既のところで回避が間に合っていない。彼女は目が見えない分、己へと打ち付ける風がよく見えてしまう。だからこそ逆に、応手の尽くを風に費やされてしまい、紛れ来る追撃をその身に受けてしまっているようだった。

     

     決してトコヨの鳥たちは、反応が間に合わないほど速いわけではない。
     けれど、決闘の場においてはゆったりしているとも言えるその動きは、台本に記されているかのようにサイネを啄んでいく。優雅に描かれた円その全てが、侵し難い無上の美を顕現せしめていた。辺りに漂い始めた桜色の霞ですらも、この必然たる演出に組み込まれているよう。

     

     だが、それを終幕まで引き伸ばすことを、二人の演者は望んでいない。
     反抗の意思は、魂を燃え上がらせる。
     青く、静かな炎が、艶のない瞳の向こうに見え隠れしていた。

     

    「そうよ」

     

     端的に評するトコヨ。
     この場にいる誰もが、サイネから明白に伝わってくる気迫を肌身で感じていた。逸る気配を微塵も見せない様子はひどく落ち着きすぎているようでもあるが、それが彼女の特有の極致を体現せんとする姿勢であることをチカゲたちは知っている。

     

     意気の炎と共に、サイネがその足に力を籠める。無窮に扇を巡らせようとしているトコヨの動きは、台本通りに事を運ばなければならないからこそ隙も生まれる。調和を生むための大きな所作へ、サイネは切り込むつもりだった。
     しかし、その一歩を踏み出す瞬間だった。

     

    「でも――」

     

     動作に一切の切れ目なく、トコヨはそのまま風のように距離を詰める。サイネが薙刀を振り払う間もなく、歪な刃の間合いの内側へと潜り込んでくる。
     そしてトコヨは、決闘に生まれた間隙の中、寄り添うように囁いた。

     

    「お預けよ。この月の下で、もう少し」
    「……!」

     

     

     そこには、月明かりに微笑む少女がいた。
     無論、外の明かりさえ届かない坑道で、しかもまた日が昇っている今、月が彼女を照らすはずはない。それでもどうしてか、たおやかに踊りながら肉薄するトコヨを、淡い金色の光が照らしているように錯覚してしまう。

     

     静謐の中に生まれたさらなる静謐。演舞の見せ場だけを抜き出してきたような、侵してはならない振る舞い。
     突如でありながら必然性を孕む美の顕現に、畏れを抱かぬ者がいようか。

     

    「否ッ!」

     

     だが、共に舞うことを求められたサイネは、焦りを散らすように一喝する。さらに燃え上がっていく魂の炎を御するのは、彼女が定めた道である。
     守りを切り捨て、八相に構える、サイネの型。
     不敵ですらあるそれこそ、彼女が彼女らしく舞うための姿。
     それを目にしたトコヨの口元に、小さな微笑みが浮かんだ。

     

    「見せなさい!」

     

     転調の如く機敏に後ろへ跳ねるトコヨは、彼女もまた彼女らしくあるように扇を投じる。
     対し、サイネに応じる言葉はない。その動きは凪の水面のように静かだった。


     周囲に水晶が舞い、静の中に生じた確たる動の音が反響し、響き合う。繰り返し奏でられる音はもはや絶叫を超えて音には聞こえず、水晶は華の如く円舞する。
     翼を傾けて襲い来る扇を、サイネはありのままに受け入れる。それを境に、極限にまで張り詰めた絶唱が、まるで時を止めたかのように舞台を支配した。

     

     そして、全てが共鳴し、全てが音を失いながら砕けていく。
     円舞する水晶も。
     彼女たちを護る結晶たちも。
     華が、絶えていく――それは、紛うことなき絶景であった。

     

     

     これ以上のトコヨの動きを、サイネは拒絶する。
     凍りついた時の中、演舞の導き手は移り変わる。
     無音の舞台は無色にすら感じられ、その中を一人で彩るようにサイネが舞う。

     

    「はあぁッ……!」

     

     先んじて作られた動きは、足元からすくい上げるように振るわれる薙刀。
     長柄を存分に活かして伸ばされた間合いの先には、退避の間に合っていないトコヨの姿がある。
     その瞳に宿るのは、失策への後悔でも、痛打への恐れでもない。
     全てを見定めようとする、決意。内に秘めた怯えをここで全部見せなさいと言わんばかりの訴え。

     

     故に、返答は力の発露となって、サイネの手中に形を成す。
     開放された彼女の権能が、薙刀の歪な刃の尖端をさらに赤く染めていく。滾りを凝縮し、ただの一点を正確無比に貫くための意思が刃先に宿っていく。
     そして、

     

    「か、ぁっ……!」

     

     小さなトコヨの背中から、刃が飛び出した。血潮の代わりに、大量の結晶が洞窟を桜色で染め上げていく。
     だが、串刺しのように貫かれてもなお、その足は己の力で地に着いたまま。
     苦痛を露とも見せぬ顔に、未だ鋭い眼光が揃っている。

     

     まだだ、と。
     語り終えぬ間に幕を下ろすことは許されない。
     ……ずるり、と刃がトコヨの腹から抜き払われた。

     

    「おおぉぉぉぉぉッッ!」

     

     気の入った叫びと共に、サイネが追撃の刃を振るう。桜吹雪を吹き散らす激しさを有しながらも、繰り出される連撃には一切の無駄がない。痛打を皮切りに生まれた四連撃は、今までにトコヨがそうしてきたように、必然を以って相手を穿っていく。

     

    「ぐっ……」

     

     薙刀の刃先だけが届くという絶妙な間合いで、トコヨは斬撃の嵐に正面から抗うことはなかった。投げかけられた即興詩へと理解を深めるように、至って冷静に紡がれるのは護りだ。
     見切る間もない初撃を受け入れる代わりに、開いた扇を手に袖で桜霞を巻き取るように腕を舞わせる。直後、二撃目の刃先を形を得たばかりの結晶が逸らし、堂に入った力強い三撃目が描いた弧にトコヨの扇が寄り添う。そのまま薙刀を地面へと送り出した彼女は、反発する勢いで僅かに距離を離し、ついには倒れることなくサイネの連撃が捌き切られた。

     

     双方、結末まで幾許もなし。
     終演に至るまでの道筋はもはや台本の上にはなく、潰えることのない意思が火花を散らす。
     両者が発現させた権能が場を揺らし、散っていった結晶が拮抗を示すように渦巻いていた。並の人間では、近づくだけで力にあてられて気を保つことすらできないだろう。
     見守っていたチカゲですらも、その壮絶さに顔をひきつらせる。

     

    「ひ、ひひ……」

     

     トコヨもサイネも、次の一手のために相手を窺うことに終始している。どちらも後の先を志向するからこそ、そこに妥協した終わりは訪れない。だからこそ終わらない意思と純然たる力のぶつかり合いは、山が軋みを上げるほどに激化していく。
     目には見えない壮絶な力の奔流に、両者の中間の空間がたわんでいくような錯覚すら覚える始末。乱舞する桜の塵がその渦の中心に呑み込まれ、息もつかぬ間に吐き出されてくる。耳朶を叩く轟音がないことがかえって恐ろしく、ざわつくチカゲの感覚だけが騒がしい。

     

     それでもこの舞台は、いつか閉幕を迎えなくてはならない。
     けれど、次にこの舞台を動かしたのは、二柱の演者のどちらでもなかった。

     

     それどころか、彼女たちの意図を超えた台本が、ここに書き足されようとしていた。

     

    「……!?」

     

     一瞬、驚きで表情を変えるトコヨとサイネ。相手の動きを見て取ったわけではなく、真実どちらも微動だにしていなかった。
     それから彼女たちは合図でもしたかのように、力という矛を同時に収めていく。場に叩きつけられていた奔流は徐々に勢いを失い、忙しなく舞っていた結晶たちもゆっくりと地面に沈んでいった。

     

     ここから最後の打ち合いが始まるわけもなく、両者は得物を握る手から力を抜いてさえいる。
     その理由は明白だった。
     トコヨとサイネの間に浮かぶもの。

     

    「え……?」

     

     それは、大きな鏡だった。
     衝音晶の突き出した岩肌を映し出す鏡面を覆うのは、渦を成したような文様が刻まれた土台。そこまでであれば古の風を感じさせるだけで済んだが、何より奇怪だったのは、鉱物の板を継ぎ接ぎされたような結晶がその鏡に蔦のように絡みついていることだった。

     

     ぽかん、と突然のことにチカゲの口は小さく開いたまま。視線を動かしたところで、その大鏡を間に置く二柱もまた呆気に取られたように立ち尽くすばかり。
     桜花決闘の舞台が、その鏡を据える場へと様変わりしていく。
     突然の闖入者は、行方知れずになった決着など素知らぬ顔で、厳かに揺蕩っていた。

     

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    『八葉鏡の徒桜』エピソード5−1:雪降る闇にて

    2020.02.29 Saturday

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       鉛色の空から、はらはらと細雪が舞い落ちる。北の果てにしてはいくらも機嫌のよい空模様ではあるが、遠くに見下ろしていたはずの里の姿は、もう白き緞帳の向こうに隠れてしまっていた。

       そんな銀世界の中、樹々もまばらな丘の上に暗い色合いの影の主はチカゲとオボロ。常人がかんじきもなしに踏破するには厳しい道のりも、メガミであり忍である彼女たちにとっては散歩道とさして変わりない。

       

       

       彼女たちがいるのは、御冬の里の外れにある水晶鉱山。それも、衝撃や音をその身に吸ってしまうという特別な水晶・衝音晶が採れる山だ。雪に塗れて全容こそ窺えないものの、あちらこちらに坑道が口を開けていた。
       ただ、ここに鉱山特有の活気はなく、ツルハシが岩を打ち鳴らす音も聞こえてきやしない。あまりの静寂に、禁域に踏み込んでしまったのではないかという感覚すらチカゲは覚えてしまう。
       けれど、それがあながち間違いではないということを、目の前の光景が告げていた。

       

      「……なんとまあ」

       

       苦笑いをするオボロに続いて、チカゲの溜息が白く濁っていく。
       二柱が辿り着いた坑道の入り口の少し奥で、ぱきり、ぱきり、と音を立てながら水晶が急激に育ち始める。四方八方の岩壁から生じたそれは、やがて透き通るような青の壁となり、奥へと続く道を瞬く間に閉ざしてしまった。

       

      「こうも露骨だとはな」
      「音、完全に消してたわけではないですけど、流石ですね……」
      「既にあやつには『見えて』いるのだろう」

       

       だが、とそこでオボロは継いだ。

       

      「ならばと引き下がるわけにもいくまい。無礼なのは承知の上で、進ませてもらおう」

       

       やれやれ、といった様子で苦無を取り出す彼女に倣うよう、チカゲもまた得物を取り出した。メガミを完全に遮断するには、些か以上にその壁が心許ないことを見て取っている。
       しかし、それは逆に、この奥に待っている存在の意思を感じさせてやまなかった。

       

       寄らば斬る。
       そんな、彼女の拒絶の意思を。

       

       

       

       

       

       


       チカゲにとって、暗い洞窟は心を落ち着かせられる格好の場所だ。夜でなくとも暗闇に身を紛れさせられるし、不特定多数に身を曝さずに済む。見通した闇の中で警戒すべきは、限られた導線を進もうとする不届き者の足音だけだ。
       静寂の中で歩けば、その者自身が鳴子代わりになる。
       だから、こんな暗くて静かな洞窟に、本来居心地の良さを感じてもよいはずだった。

       

      「…………」

       

       だが、とうに外の明るさが届かなくなったというのに、微かな水晶の明かりで浮かび上がるその表情は僅かに歪められていた。
       坑道を奥へ奥へと進んでいく二柱のゆっくりとした足音は、耳をそばだててもなお小さく、ともすれば自身の鼓動に紛れるほど。もちろんそれは、忍として足音を殺しているためなのだが、所々顔を出した衝音晶によって、互いのそれを聴き取ることも難しくなっている。

       

       岩の隙間から染み出してきた水の流れも、か細く吹き込んでくる風の音も。
       そこにあるだけで生じるはずの微細な音すら水晶が吸ってしまうため、静謐を通り越して少しばかり不気味ですらあるのだ。
      人気がないどころではない。
       まるで凍りついた世界に取り残されたようで、本当にこの先に尋ね人がいるのか不安にすらなってしまう。いつもは音の反響である程度洞窟の深さを知れるものが、全く手がかりにならないのも拍車をかけていた。

       

       それでも二柱は淡々と、けれど確実に歩みを続けていく。見渡す闇の向こうには、枝分かれを始めた道が待ち受けていた。
       と、岐路に足を踏み入れようかというときだった。

       

      「ッ……!」

       

       僅かな意気と同時、チカゲの顔面めがけ、鋭い柄の先端が死角から放たれた。
       突くというよりは刺すためにあるような、茨棘の如き石突。
       しかし、食らったらひとたまりもないその神速の刺突に、

       

      「…………」

       

       チカゲは足を止めるだけで、避けるどころか瞬き一つすることはなかった。
       右頬を掠めていった尖端が、風を切り裂く。
       その距離、およそ五分にも満たず。身じろぎどころか、息を吸っただけでも悲劇になりかねない。予定調和すら感じさせるような、美しいまでの紙一重がここにあった。

       

       そのままチカゲがじっと待っていると、石突が引っ込められた代わり、今度は柄の反対側にある刃が向けられた。
       その得物を手に姿を現したのは、今代の武神の一柱たるメガミ・サイネ。彼女が身を包む袴には質実たるを示すかつての質素さはなく、ささくれ立つ内心のように裾が乱雑に散らばっていた。

       

       光を映さない瞳は間違いなくチカゲを射抜き、刃に返しのついた刺々しい薙刀を突きつける。その様子は話すことなど何もないと言わんばかりで、今にも切っ先がチカゲの喉元に食い込んでもおかしくないほどだった。
       けれど、

       

       

      「不器用ですね……」
      「……なんと?」

       

       ぽつり、と零した言葉に、サイネが眉をひそめる。
       チカゲは知っているのだ。今自分が、目の前のメガミに殺されることはないのだと。
       生半可な脅しは彼女には通じない。

       

      「怖がらせようとしたんでしょうけど、殺気が全くありませんでしたよ。チカゲはそういうの敏感なので」
      「…………」

       

       じっ、とサイネのことを見つめる。構えられた薙刀越しに交錯する視線は、いかにサイネに視力がなかろうとも静かに火花を散らすようだ。反応を待つチカゲと、応じるつもりのないサイネの間で、両者の沈黙は鍔迫り合いの様相を呈していく。
       そんな拮抗状態に待ったをかけたのはオボロだ。

       

      「まあ落ち着いてくれ。警告を無視して立ち入ったのは詫びるが、拙者たちはお主と話し合いをしたいのだ」
      「こちらからは何も」
      「そう急いてくれるな」

       

       襟巻きを下ろし、口元をはっきりと露わにする。せめてもの誠意なのか、ひらひらと何も持たない手を宙に彷徨わせていたが、彼女ほど無手が信用ならない存在もいないだろう。
       そのままオボロは、淡々と提案を続けた。

       

      「一つは、お主の変わりようについて。そしてもう一つが、現在巷に流れている風説について、だ」
      「…………」
      「もしここに胡乱な誤解が生じているのならば、それはお主の平穏のためにも払拭すべきだ。故にまずは認識を共有したいのだが、どうだろうか?」

       

       問うオボロの視線は、穏やかながらもどこか揺るぎない。
       だが、その理性的な問いかけに対し、サイネが見せたのは硬質な感情。
       険のあるその目つきは突き放すようで、彼女にしか見えない――否、聞こえないものをオボロから感じ取ったのかもしれなかった。

       

      「余計なお世話です、お引取りください」

       

       その返答までもが、この大地のように凍てついていた。
       取り付く島もないサイネの態度に、刹那の間、再び沈黙が訪れる。薙刀を握る手に込められた力が、血をどうしようもなく志向するものではないことだけが、チカゲにとって救いだった。

       

       しかし、だからこそチカゲには、サイネの硬い表情の奥にあるものに心当たりがあった。
       ふと降りてきたその考えが、彼女の口から漏れる。

       

      「な、何か……恐れていませんか?」

       

       チカゲがサイネから嗅ぎ取ったのは、かつての己と同じ疑心暗鬼。

       

      「分かります……分かりますよ、誰も信じられないその感じ。み、皆が自分を嵌めてきて、皆が自分を殺しに来て、何もかも、奪って……。ひひ、自分だけ……なんですよね、信じられるの。自分で、自分を肯定しないといけないどん詰まり……抱えた爆弾を手放そうにも、取り出した瞬間に、ひ、火をつけられる、そういう恐怖……」

       

       自らの経験を言葉にするほど、苦々しい記憶はチカゲの口を鈍らせる。けれど、たどたどしくなっていく中でも、あるいは時折下を向いてしまいながらでも、彼女はどうにかその意思を届かせようとしていた。

       

      「でも……だ、だめなんです。自分で自分を信じられなくなったら、おしまいですから。チカゲたちでは不足かもしれませんけど……」

       

       同じ道を歩ませまいと告げるチカゲ。彼女の過去のいくらかはサイネの知るところでもあり、心に疵をつけた元凶が如何ほどの規模の存在かもサイネは理解しているはずだった。
       事実、オボロに向けられた表情と比べたら、チカゲに向けられたのは思案しているようなそれであった。
       だが、

       

      「……そうですか」

       

       返しのついた刃の切っ先が、丁寧にチカゲの顔を指していた。
       それでも殺気が放たれていないことに、チカゲは小さく口端を歪める。
       ならば、と取り出した苦無を彼女は前へと向けた。

       

      「愚弟の真似事というのが気に入りませんが……サイネ、あなたに桜花決闘を申し込むことにします。いいですよね?」
      「……!」

       

       突然の提案に、サイネの顔が少しばかり崩れる。その苦々しさは、自身に対する不理解への喘ぎのようでもあった。
       力んだ手が、薙刀を震わせる。歯噛みする音が、水晶に吸われていった。
       そしてサイネはわざとらしく息を整え、口を開かんとする。

       

       けれど、その三度の拒絶の流れを寸断するように、第四の声が。

       

      「ちょっと待ちなさい」

       

       それは可憐な少女の声色のようで、永き時を経て醸成された落ち着きを孕んだもの。
       驚きを隠せず振り返ったチカゲの視線の先で、坑道に桜の色が咲いていた。
       メガミ・トコヨ。
       久遠の象徴たる人の形が、浅く腰掛けた水晶の上からチカゲたちを睥睨していた。

       

       

       

       


       時に繊細な情報を扱う忍たちにとって、情報統制は基本中の基本である。必要な者以外は知るべきではない、という教えは幼少の頃より叩き込まれており、チカゲも例に漏れることはない。
       故に、任務中の――それも、メガミ直々に動く任務での不意な遭遇は、チカゲの中に生理的な警戒心を湧き上がらせる。相手が知っているメガミであっても、だ。

       

       ただ、これがサイネが呼び寄せたものなのかと言われれば、それは否だった。旧知の仲であるトコヨの登場に、むしろサイネが顔をこわばらせているのをチカゲは認めていた。
       そしてオボロもまた、驚きを疑問の声に乗せていたが、

       

      「お主が何故――……あぁ、そういうことか」

       

       言葉にし終わる前に一人で合点がいったようで、奥歯を噛みしめるように苦笑いの表情を作る。微かに漏らした「馬鹿弟子が……」という呟きが聞き間違いではないのだとしたら、チカゲには帰還後にやるべきことが一つ増えたことになる。
       トコヨはそんなオボロに一切の反応を見せず、サイネを見、それからチカゲに焦点を合わせた。
       そして、断ち切った流れを自ら手繰り寄せるべく、告げる。

       

      「その決闘、あたしにやらせなさい」
      「えっ……!?」

       

       思わず声を上げるチカゲ。
       トコヨが決闘にそこまで関心を抱いていないという話は、他ならぬサイネから聞いたことだ。それが翻って、サイネとの決闘を望むその提案は意外に過ぎたのである。

       

       こつ、こつ、とトコヨが下駄を鳴らして歩み寄ってくる。どれだけ衝音晶に囲まれていても、彼女の足音は何故か身体の芯に響いてくるほどによく洞窟の中へ通っていた。
       その最中、彼女は言う。

       

      「あんたの過去は聞いたことはあるし、気持ちは分かる。あんたとサイネが確かに友人だっていうのも知ってるわ」

       

       でも、と横に並んだトコヨの視線が、チカゲを射抜いた。

       

      「だからこそ、ここではあたしにやらせなさい」

       

       願うでもなく、喝すでもなく。ただそこに、意思がある。
       有無を言わせないことだってできただろうに、真摯に己を主張した彼女が、チカゲには誰かに重なって見えた。天と地ほどの出来の差があっても、今はそれが必要なのだとチカゲは知っている。
       だからチカゲは、こくりと頷き、道を譲った。

       

      「さて……ようやく顔を拝めたわ」
      「くっ……」

       

       一歩、足音を刻むだけで、サイネの緊張が高まっていく。もはや彼女に否応なく、さりとて逃げ出すことも、あまつさえ凶刃を振るうことなんて、今更できないようだった。
       懐から取り出した扇を開き、トコヨが足を止めたのは、もはや追うことすら不要だから。

       

      「あたしの認めた楽才も、剣舞の才も、こんな場所で氷漬けにしていいわけがない。世に出さなければ価値は生まれないのよ。それなのに、危うさすら一緒に抱え込んで、自分一人で悩んで……昔もそうだし、今もそう。そんなところまで変わるなとは言ってないわ」
      「…………」

       

       扇に隠れた口元も、その目も、一切笑っていない。
       淡々と語られる憤りは、あるいは心ある者へ向ける感情ですらなかった。どこまでも自分勝手に、風化した芸術品に失望するような趣があり、最初から反論を受け付けるつもりがないのだとありありと分かる。

       

      「ちょっと前は、天音が武道より決闘の普及に執心してたのをぐちぐち悩んで。今度はあたしが心配して会いに来たっていうのに……腹立つのよ」
      「身勝手な……!」
      「身勝手で結構。身勝手ついでに、あんたの抱えてるもの、この舞を通して全部見せてもらうわ」

       

       突きつけた扇が、大気を分かつ。
       トコヨとサイネの間に生まれていたのは、相対するには十分な間。

       

      「拒絶なんてさせない。構えなさい」

       

       命ずるトコヨは、最後の退路を立つかのようにその宣言を口にした。

       

      「芸術のメガミ・トコヨ。桜降る代に、決闘を」

       

       瞬間、世界が凍りついた。
       トコヨただ一人に許された動を、凍てつく空気に囚われたチカゲはただただ見ていることしかできなかった。氷雪に覆われた御冬の里であろうとも生ぬるい、生の鼓動すら辞してしまうような極寒が坑道に吹き荒れたようだ。

       

       その中心に、トコヨは凛として立つ。
       本気で決闘へと臨む彼女は、一点の曇りなき美術品。頭頂からつま先に至るまで、装いの揺れ一つまでもが、かくあるべきとそこに在る。
       恐ろしいほどに美しく、美しいほどに恐ろしい。
       少女の形をした美が、決闘の舞台に降り立った。

       

      「…………」

       

       対し、サイネがその空気に呑まれることはない。黙したまま冷徹な顔で受け流す彼女は、けれどトコヨの切り出した相対までもを切って捨てることはできないようだった。正対を強要する美の体現へ、やむを得ず意識を注いでいた。

       その柄を縦に、刃を天に。応じて為すは、八相の構え。
       凍える世界を断ち切らんと、彼女もまたそれを口にする。

       

      「武神サイネ。桜降る代に……決闘を」

       

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      『八葉鏡の徒桜』エピソード4−2:不俱戴天、呉越同舟

      2020.01.24 Friday

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        「わぁ……このお菓子すごい! きらきらしてて宝石みたいです!」

         

         供された皿の上を見て、ユリナの瞳もまた輝いていた。
         配膳する高野は最後に取り分け用のやや大きめの皿を四柱の間に置き、部屋の隅に置かれた長火鉢の様子を確かめてから、深々と頭を下げてこの客間を辞した。
         ユリナたちに対面するシンラは、菓子切で一口大に切ってから菓子を口に運ぶ。小さく顔を綻ばせる彼女の視線に促され、ユリナもまたそれに倣えば、しっとりとした生地の中に散りばめられた果物の食感と、ふわりと行き渡る甘みに隠れた芳しさが至福へと誘う。

         

        「砂糖漬けした果実を混ぜ込んで、酒と共に寝かせたケーキです。甘みと酒のおかげで保存が利くので、土産として何本かいただいたのですよ」
        「ああ、それかなあ。ほんのり樽っぽい匂いがします」
        「あちらで嗜まれている果実酒ですね。十年単位で熟成させるのだとか。とっても良い香りでしょう?」

         

         こくこく、と頷くユリナの隣で、ホノカも観念したように菓子に手を伸ばしていた。
        そこにウツロが、

         

        「何しに行ってたの」

         

         ぽつり、皿に視線を落としたまま、呟くように訊ねる。ちびちびと、菓子をさらに細切れにして口にする様は小動物のようだ。

         

        「サリヤの国」
        「美食を求めに行っていたわけではありませんよ?」

         

         シンラはそれに菓子切を置き、間をとるように茶を啜った。

         

        「ファラ・ファルードの文化を見聞する、という意味では間違ってはいないのかもしれませんが、それは今、ユキヒが堪能しているところでしょう。私の興味は、彼の地の政や神についてなのですから」
        「あれ、向こうにはメガミは居ないって」
        「伝承すら見当たらないのですから、確かに不在と言ってよさそうです」

         

         ただ、とシンラは継いだ。

         何かを見定めるように僅かに眇めた目が、等しくユリナたちを捉えていた。

         

        「神座桜の実在はこの目で確認しています。とても小ぶりで、結晶がほとんど咲いていませんでしたが」

         

         対し、ユリナの胸に去来するのは、やはり、という想いだった。サリヤから度々聞いていたことではあったが、シンラの追認があったところで、桜のない地のことなんてユリナには想像しきれないことには変わらなかった。
         両脇を見やれば、ウツロはいつも通りの無表情だし、ホノカは依然口をすぼめて不機嫌さを露わにしたままだった。桜降る代ですらまだ知らないことがあるのに、海の外を気にかけているだけの余裕はユリナたちにはないのだった。

         

        「そうですかー」
        「……だったのですが」

         

         シンラは短くため息をつくと、わざとらしく肩をすくめて前言を翻し始める。

         

        「なんとも奇妙なことに、今まで枯れ木のようであったあちらの桜が、この地のものかと見紛うほどに急成長したのですよ」
        「えっ!?」
        「あちらでは桜花結晶は貴重な資源ですから、これを巡って一波乱ありまして……。サリヤたちの立場も危うくなったところを、ユキヒと共に収めてきたわけです。それが落ち着いたので、こうして帰ってきたという次第なのですよ」

         

         目の届かないところで起きた知人の危機に、不安と安堵が交互にユリナに湧き上がる。
         一方で、ホノカは声に棘を含ませながら、

         

        「それを話しに、わざわざ来たんですか?」

         

         顔の高さまで持ち上げた皿の上で、菓子に含まれている果実を調べながら、じろり、とシンラを睨めつけた。
         普段ならばシンラが当てこすり、もう一言二言皮肉の応酬があるところだが、続いた言葉は意外にも不興を無視するものだった。

         

        「それもありますが、正確には情報交換をしに参りました」
        「……?」

         

         ホノカもそれには不機嫌さを少しばかり潜め、目で先を促した。

         

        「稲鳴のことですよ。不在の間に起きたあの事件について、耳にしたときは私も驚きを禁じえませんでした。無関心ではいられない一大事なのは間違いない、けれど情報が不足している……だからこそ、あなた方を頼ったわけです」

         

         その言い分に、ユリナは確認を挟む。

         

        「碩星楼でも、詳細は分かっていないんですか?」
        「明らかにしたいのは起きた事象ではなく、その理由です。あれを詳らかにするだけの知識の蓄えが、残念ながら我々にはありません。ですから、より大きく、そして旧き組織たる桜花拝宮司連合ならば、この場の誰もが知らない情報を有しているのではないかと」

         

         シンラはさらに続けて、

         

        「最も有力なのは彼らの蔵書です。永きヲウカの時代から続く宮司連合だからこそ、抱え込んでいる文献もあるでしょう。無論それは都合のいいように編纂されてこそいるでしょうが、知性を働かせて読めば、嘘の裏に真実が透けて見えることもあるものです」
        「なるほど……」

         

         告げられた理由に、ユリナは思わず眉尻を下げた。思うところはホノカも同じようで、おずおずと窺うようにユリナのことを見ていた。
         不穏な態度にシンラが問いを作る。

         

        「何か支障でも?」
        「いえ、それが……書庫は蟹河にあって、それはまだいいんですけど……」
        「管理してるのが、その、正村さんなので……」

         

         ホノカが気後れしながら口に出したその名前に、欠けた言葉を察したらしいシンラは、呆れと同情をないまぜにしたように苦笑いした。

         

        「あの糞婆は、いなくなっても厄介ですね」
        「正村、怖い。苦手……」

         

         縮こまるウツロに、ユリナもシンラに倣って苦笑いするしかなかった。
         シンラは両手に収めた湯呑に視線を落とし、ぽつぽつと意を口にしていく。

         

        「組織を持つ者として、桜花拝宮司連合がその巨体と歴史を持つに至った点は、称賛すべきところでは正しく評価しているつもりです。しかし、その陰に覆われてしまえば、やはり恐ろしい組織だと再認識せざるを得ません」
        「いい人も多いんですけどね……」

         

         ユリナは曖昧に返すだけに留めた。
         生まれた会話の間隙に、茶を啜る音が広い客間に染み渡る。持ち上げたケーキから支えを失った胡桃がこぼれ落ち、皿で鈍く跳ねた。爆ぜる炭に、温もりが届き始めていることに思い至る。
         その妙な間を破ったのはウツロだった。

         

        「書庫、行くの?」

         

         その問いは、シンラにもユリナにも向けられていた。ユリナはそれに、自らもシンラに伺いを立てるよう、目を向ける。
         居住まいを正した彼女は、菓子の追加を一切れ、自分の皿によそうことで答えを示した。

         

        「ご紹介いただけるとありがたいですが、まずはお互い話を続けましょう。歴史の断片を探すのは、それからでも遅くはありませんから」

         

         障子越しに差し込めた日差しが、メガミの茶会に昼を告げていた。

         

         

         


         それから半刻ほどもすれば、交わすべき情報も異国の菓子も底を尽き始めていた。ファラ・ファルードの事件に関してはともかく、稲鳴の事件に関しては互いに一歩踏み込んだ情報が足りていない状態だと再認識するしかなかった。
         シンラは、もう色の薄くなった茶で喉を労ると、

         

        「こんなところでしょうか。そちら側で何か他に気になることは?」

         

         形式的な質問で、会の終了を提言する。
         それにホノカは、急須の中身を確かめながら応じる。もちろん上機嫌とまではいかないが、シンラが現れたときよりも随分と険は取れていた。

         

        「いえ……サリヤさんたちが本当に無事なのか、心配なくらい……」
        「正直に褒め称えてくれてもよいのですよ?」
        「ううっ、協力してくれたことには感謝してますよっ!」

         

         ぷっくり膨らませた頬で睨む瞳はやや力ない。
         微笑み一つで受け流したシンラは、忘れないように、と自らの主題への結論を再確認する。

         

        「では、蟹河の書庫へはご紹介いただけるということでよろしいでしょうか。都合がよければこのまま向かおうと思っていましたが」
        「…………」

         

         けれど、訊ねた先のユリナはぼうっと何やら考えていたらしく、ウツロとホノカの視線を集めたところで、はっと我に返った。話の途中からユリナは言葉少なであったが、異邦の複雑な政争に頭の容量が限界を迎えているわけではないようだった。

         

        「あっ、ご、ごめんなさい、大丈夫ですよ。すぐ準備しますね」
        「では、案内よろしくお願いします」

         

         立ち上がるシンラに併せて、何重にも広がった衣が衣擦れを奏でる。ユリナたちも腰を上げれば、後には空になった皿と湯呑が取り残される。
         装いを整える中、シンラはユリナから疑問を投げかけられた。

         

         

        「これから、どうするつもりなんですか?」

         

         迷いを孕んだそれに、シンラは逆に問いかける。

         

        「むしろあなたこそ、どうするつもりなのですか?」
        「わたし、は……」

         

         普段の明快さが雲に隠れたように答えに詰まる。
         逡巡の後に返答したユリナは、まるで彼女自身が発した問いの意味を白状するようだった。

         

        「その……よく分からなくて。色々なことが起こりすぎて、メガミの皆さんもあんまり動いてないみたいだし、どうしようかな、って……」

         

         畳に視線を落とす。苦悩しているというより、掴みどころがない岐路に立たされて、単に困惑しているといった様子だった。
        シンラから、短い嘆息が漏れる。

         

        「あなたも、メガミが板についてきたようですね。悪い意味で」
        「え……っと、それは……」

         

         思っても見なかった反応に動揺するユリナ。ホノカとウツロの眉が、僅かに顰められた。
         ただ、シンラはやんわりと手で制止を示すと、真意を明らかにする。

         

        「そこまで重く捉えるほど非難するつもりはありません。ですが、そこで私や他のメガミが第一に出てくるのがその証拠ではないでしょうか」
        「…………」
        「それを踏まえた上で質問に答えるのであれば、私は私らしくするだけです。あなたもあなたらしくしては?」

         

         どうぞ、とばかりに手を差し向ける。それ以上、シンラは言葉を尽くすことはなかった。
         移ってきた回答の順番に、ユリナは袖を弄びながら考えているようだった。ゆらゆらと微かに揺れる長い袂が、その心情を映している。
         ややあって、ユリナから迷いが消えることはなかった。しかし、シンラに返された問いの答えを、恐る恐る言葉にしていく。

         

        「わたしは……色んなところに行って、色んな人の話を聞きたい。大丈夫そうなら、千洲波の人たちからも。みんなを、知りたい。それから、自分にできることを……見つけて、やりたい……です」
        「そうですか」

         

         具体的な未来の見えていない、ふわふわとした回答。けれど同時に、霧の立ち込めた岸壁の頂上を見据えながら、その手は確かに岩肌を掴んだようでもあった。
         だからこそ、シンラは己の胸に手を当てて、さらなる回答を告げた。

         

        「なら、少し気が変わりました。私もそれに協力すべく、同行するとしましょう」
        「……!?」

         

         ユリナたち三柱の顔に、驚愕が浮かぶ。ウツロでさえ、見て分かるほどに目を見開いていた。
         さらにウツロは、己をユリナの盾にするように一歩前に出た。警戒心を滲ませてシンラを見上げているが、一方で動いてしまった身体にここからどうするべきか決めあぐねているようでもある。

         

        「……誘導、してない?」

         

         やがてウツロが静かに提示したのは疑念だった。ユリナはそれに困惑した様子で待ったをかけようとしたようだが、ホノカに袖を小さく掴まれて、その手を宙で止めていた。
         あまり表立って動かないシンラが自ら出向くと聞けば、彼女を知る者なら警戒するのは無理もない話である。特にユリナたちは過去、シンラ自身の行動によって大局をひっくり返されそうにすらなったのだから。

         

         疑いの目を向けられたシンラだが、それに呆れたようにため息をついた。

         

        「信頼関係が崩れても困るのできちんとお答えしておきますが、してますよ、誘導。私にとっても都合がいいので」
        「なら――」
        「ですが」

         

         ホノカが食って掛かる前に言葉を継ぐ。けれど、彼女が浮かべていた表情は、企みを指摘された不機嫌さでも、利用しようとしていた相手に対する不敵さでもない。
         そのどこか悪戯めいた微笑みのまま、シンラは告げた。

         

        「このほうが、ユリナらしいと思いますけどね」

         

         反論が、三柱から出ることはなかった。
         ひりつきそうになっていた空気が、徐々に和らいでいく。正論を盾にうやむやにされたのだと、ホノカはあからさまに物言いたげな目をしていたが、ウツロはもう半ば諦めたように肩の力を抜いていた。
         そして困ったようにはにかんでいた当のユリナを、シンラは急かすように部屋の外へと促し始める。

         

        「さあさあ、早く書庫へ参りますよ。動くと決めたのなら、迅速に事を済ませましょう」
        「わ、分かりましたって。玄関で待っててください」
        「もーっ、調子がいいんですからっ!」

         

         このまま受け入れてよいものか、ユリナたちに残った警戒心が足を僅かに鈍らせているようだったが、意思を翻すこともなく廊下へと消えていく。入り込んできた空気が、衣から飛び出たつま先を冷やしていった。

         

         やがて姦しい気配も感じなくなり、シンラは客間にぽつんと取り残される。
         彼女は一息ついてから、漫然と上を見上げた。そこには天音神社の天井板が、社にしてはまだまだ若い肌を晒しているだけだった。

         

         だから、ぽつぽつと零した言葉がどれだけ長く、はっきりしようとも、それは独り言に違いなかった。

         

         

        「この多発的な出来事が、偶然とはどうにも思えません。何か……そう、大きな一本の線に連なっているような予感がします」

         

         曖昧な焦点は、何も見てはいない。
         見ているのだという態度だけを示せばいいとでも言うように。

         

        「それを見定められるのは、もしかしたら私たちではないのかもしれません」

         

         故にそれは、独り言でありながら、確かに誰かへと向けられていた。
         彼女には誰かも分からない、誰か。
         これを伝える者が相応しいと思うだけの誰か。

         

        「もし、この独白が語り伝えられているのならば、心しなさい。これは私たちの物語ではありません」

         

         そんな奇妙でしかない前提を疑うことなく、シンラは言葉を紡ぐ。
         ユリナにそうしたように、誰かに手を差し出して。

         

        「私たちと、あなたの物語です」

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         


         ……………………。

         

         ……ああ、すまない。
         少し、呆然としていたよ。少しばかり彼女を見くびって……いや違うか。彼女は昔から、君たちのことをよく見ていたのかもしれないね。

         

         ……カナヱから語ることは、あまりないかな。
         うん、ユリナは己の道を改めて踏み固めた。そして信頼する友と、道を認め合う宿敵と共に動乱へと足を踏み入れた。彼女の居場所はまだ、事態の外側。この一歩は事態を動かす、欠かせない一歩なのかもしれないね。

         

         舞台を、移そうか。
         彼女たちの道中にも興味は尽きないが、凪の時間は終わったみたいだ。事態は、動き続けている。
         ……カナヱはここではただの舞台回し。ならばせめて、その役割を全うさせてもらうよ。

         

         

         

         

         

         

         


         肌を凍りつかせるような寒さが、吹き上げてくる風に乗って運ばれてくる。荒涼とした山道は鈍色の雲に覆われており、空が今にも泣き出しそうだった。
         けれど、ろくに人の手の入っていない道を往く二つの影は、荒天の予兆になど目もくれていなかった。それは決して無謀などではなく、障害とすら認識していないように、淡々と一定の速さで歩み続けていた。

         

        「や、やっぱり信じられません……大丈夫、なんですか?」

         

         うつむきがちに心配を吐露する、襤褸の外套を纏った少女。その瞳はきょろきょろと忙しなく動かされ、生命の息吹をとんと感じないここでさえ、何かを警戒しているようだ。ただ逆に、濃い目元のくまや澱んだ気配は、どこか近寄りがたい不吉さを醸し出している。
         メガミ・チカゲ。毒を始めとした薬学を象徴する彼女の言葉に、並んで歩くもう一つの小さな影が答えた。

         

        「そう案ずるな。むしろ、杞憂だったと確かめるつもりでいればいい」

         

         首元に巻いた襟巻きと、二箇所で留められた髪をなびかせる白衣姿の少女。腰には一抱えも二抱えもある巨大な巻物を括り付けているが、不安定な道であろうと歩みが揺らぐことはない。眼鏡の向こうの瞳は、横目ながらチカゲの弱った顔を捉えていた。
         メガミ・オボロ。生物学を象徴する存在にして、忍の起源。人間時代より忍であったチカゲの師でもある。
         彼女はチカゲの不安を払うべく、努めて気軽に訊ねた。

         

        「それに、あやつはお主の盟友だろう?」
        「そ、そんな高尚なものじゃあ……友人、くらいで」
        「十分だろう。友に関する胡乱な噂を払拭しにいく、そんな心づもりでいればよかろう」
        「それは、そうですけど……」

         

         それができたら苦労はしない、とチカゲの顔に書いてあるようだった。
         やがて二柱は、いっそう強まる風に顔を顰めた。山頂に程近く、山の反対側へと降りていく道が、麓に漂う霧に呑まれていた。
         開けた視界に映る山々は、その大半が幽邃渓谷に名を連ねるもの。桜降る代北部を東西に分かつ山系が、振り返った先にひしめき合っていた。そこに人の営みは数少なく、だからこそ彼女たちは人気のないこの山道を往く。

         

         そして、二柱が向かう先。
         北限へと迫るにつれてより濃く雪化粧をする山並みが、視界の奥で待っていた。

         

        「吹雪かなければ有り難いが」

         

         オボロの懸念に応えるように、冷たい山風が二柱の間を吹き抜け、白衣をはためかせる。
         山の狭間から抜けた夕陽が、ふと、その懐を鈍く輝かせた。
         今にも鼓動しそうな、紅の結晶を。

         

         

         

         

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        『八葉鏡の徒桜』エピソード3

        2019.12.20 Friday

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          エピソード3−1:署

          エピソード3−2:颱

          エピソード3−3:暁

          エピソード3−4:紅

          エピソード3−5:鐵

           

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          『八葉鏡の徒桜』エピソード2

          2019.12.20 Friday

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            エピソード2−1:Sudden Growth

            エピソード2−2:Social Circle

            エピソード2−3:Secret Talks

            エピソード2−4:Sacred Rage

            エピソード2−5:Silent Remains

             

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